第8章
173 プロローグ
目を開くと、その部屋は蒼かった。
左手の大きな窓から見える星のない空に、チェシャ猫の目のような細い月が懸かり、何もかもを蒼く染めあげていた。
顔が溶けるように熱い。それはまるで皮膚の下から無数の小さな炎であぶられているかのようだった。
男は、窓に映る自分の疲れた横顔を横目に見ながら、その身に起こったことを、いまさらのように思い返していた。
、、、、、、、、、
男たちは、月のない朔の日を選んで、人狼族の住む夜の森を攻め立てたのだ。
手引きをしたのは、夜の森に詳しく、人狼族に恨みがあるという、フセスラフという足を引きずった老人だった。
望の日ならば、一人で、只人の千人をも相手にできる人狼族も、朔の日ならば見違えるほどに脆弱だ。
数に劣る彼らは、森の助けを借りてなお、一人、また一人と首を落とされ数を減らし、終には、女王だと思われる女の前に、攻め手の男が立っていた。
「いったい何をしにここまで来た?」
その女は、みじんも恐れた様子を見せず、威厳のある声で男に向かってそう問うた。
男は黙って巨大な剣を構えなおすと、じりじりと彼女に向かって間を詰めた。
女の発する圧力で、時間は、熱した水飴の如くに伸び、空間は、その密度を急激に増して、粘つくように体にまとわりついた。
「聞いたところで詮無いことか。もはや我らはここで果てるのみ」
永遠かと思われる一瞬が過ぎ去った後、周囲からは音が消え、激しかった争いの音は、今では遠く潮騒のようにさざめいているだけだった。
「言い残すことはそれだけか?」
そう訊いた男に向かって、女や妖艶な笑みを浮かべると、力そのものであるような声で、淫猥なる唇から呪いの言葉を紡いだ。
『そをなしたものは、報いを受けねばならぬ』
発せられた言葉は、強大な力を持って、男の体を貫き、数多の加護を与えられた装備を破壊しつくした。
男は、壊れ行く装備と自分を意に介しもせず、振り上げた大刀を力の限り振り下ろして、女が二つになるのを見届けると――そのまま気を失った。
、、、、、、、、、
月の様子からすると、あれからそう時間が経っているわけではなさそうだった。
酷く喉の渇きを覚えた男は、誰かを呼ぼうとしたが、まともに声が出せなかった。
仕方なく、ふらつく足をベッドの縁で支えながら立ち上がり、まるで鉛でも呑み込んでいるかのように重い肉の塊を引きずるようにして、ドアを開けた。
ドアの左は行き止まりだ。どうやらここは、この棟のどん詰まりにある部屋のようだった。右には、はるか先まで続いている廊下が広がっていて、少し先にある大きな窓の外には、ただ蒼いだけの砂漠のような世界が広がっていた。
男は、人影を探して、廊下を這いずるような速度で歩き始めた。
――いったい今はいつで、ここはどこだ?
最後の呪いの影響か、歯茎の下を、女王の淫猥な唇が這いずっていて、歯肉を食い散らかしながら大きく育っているような気がした。
唇の裏には、ナメクジがぶら下がり、次第に白くなりながら血と膿をまき散らしているのだ。
――報いか。
唇は大きくはれ上がり、徐々に下唇と合わなくなり、目は次第に肉に埋まって、視野が狭窄していくような気がした。
頬骨が小さな炎の群れにあぶられながら、少しずつ焼かれ、溶けていく。
いつの間にか繊月が窓の外に懸かり、まるで自分が一つの腐肉になったような気分になったころ、どれほど歩いたのかわからなくなった果てに、一つの扉が右側に見えた。
そこには何かの営みが感じられるような気がして、おれは足を速めた。あとわずかでそのドアのノブに手を掛けられる、そう考えたとき、ドアのノブが音を立てて回転した。
俺はまだ、触れてもいないのに!
そうして、ドアの中から出て来たのは、女だった。
その女が、俺の方を目を向けた瞬間、その目は大きく見開かれ、恐怖で表情を凍り付かせた後、ガラスをひっかくような悲鳴を上げた。
俺の後ろ? そこに何かが? くそ、武器を持ってきていない!
俺は、覚悟を決めて、素早く振り返り、そうして窓に、向かって右半分の顔が、人でない何かになっている化け物を見た!
それに跳びかかろうと、腰を下げた瞬間、まったく同じように動いた相手を見て――
――俺は悲鳴を上げた。
「うわっ!」
驚いた声を上げて跳ね起きた俺は、思わず自分の顔を両手で確かめた。そこにはいつもの、なんてことはない自分の顔が感じられた。
世界はいつも通り、そこに存在していて、違いはと言えば、Tシャツの背中が、汗でびっしょりと濡れていたことくらいだった。
「……なんつー夢だ」
俺は、意識の上から急速に薄れていく夢の印象を反芻するように、もう一度ベッドに倒れ込むと、深く息を吐《つ》いた。
、、、、、、、、、
――なんて夢。
ベッドの上で汗にまみれて目を覚ましたイザベラの目の隅に、椅子に座ってこちらを見ているデヴィッドが見えた。
『どうした?』
『あの男、そうとう歪んでるわね』
夢は、基本的に当人の置かれている状況や願望や、深層意識の発現だ。
蒼の世界も、人狼退治も、受けた呪いで半分だけ変異した自らの姿も。いったい何をすればああなるのだろう。向かいの建物の地下室に、行方不明の女性たちの死体が冷凍されていたとしても彼女は納得しただろう。
”ナイトメア”イザベラ。
彼女はその名の通り、一般には知られていない〈ナイトメア〉というスキルの所有者だ。
それは、最後にキスした相手の夢の中に入り込み、複雑なルールのもとにその夢を操作できるという、一種の共感魔術のようなものだった。
何しろ夢の中のことだ、適切なシチュエーションさえ用意してやれば、どんな秘密も容易に暴露されていく。
彼女はこの力を使いこなせるようになってから、数多の男たちを手玉に取って破滅させてきたのだ。
彼女はこのスキルを、以前付き合った探索者の男に使わされて手に入れた。
何しろスキルの中には致命的なものも多い。〈ナイトメア〉なんて名称のスキルが、そうでないことなんてあるだろうか。男にとって、それは復讐だったのだ。
そうしてそれは、結果として、少し妖艶なだけのプレイガールを、本物のファム・ファタールに仕立て上げることになった。
それは、まぎれもなく最強のヒューミントと言えたが、彼女はその能力を自分のためにしか使わなかった。というよりもそれ以外の使い方がわからなかったのだ。
そのためこのことは誰にも知られることはなかった――はずだったのだ。そこに座っている男に出会うまでは。
『反社会的な欲求や、変態行為は誰もが心の中に沈めているものだろう?』
デヴィッドはそんなものが一切ないなどと言うやつがいるとしたら、そいつは稀代のうそつきだと断じる程度には、人間を知っていた。
『あのクソ精神科医の受け売り?』
ふふんと鼻を鳴らして彼女が、憎々し気に吐き出した。
この男に情報を漏らした精神科医のことを考えると、いまでもむかつきを抑えられない、とは言え、この面倒な男の言うことを聞いてさえいれば贅沢ができる今の環境に大きな不満があるわけではなかった。
美貌は衰える。彼女はそのことをよく理解して恐れていた。
その前にどうにかしなければならないと焦ってはいたが、どうしていいのかわからない不安が、彼女の言うクソ精神科医にかかる一つのきっかけになっていた。
『散々セレブと呼ばれる方々で経験した……まあ、何と言うか、そういうのとはかなり違ってたわよ』
デヴィッドは、ほうと眉を上げたが、それがどんなものだったのかは尋ねなかった。そんなところに興味はないのだ。
『それで手掛かりは?』
『なにも。話しかけてすらいないし、回想以外で登場したのは彼と女が一人だけ。彼は誰もいない死んだような街で夢を見て、後はただ歩いていただけ』
デヴィッドには、状況が今一つ理解できなかったが、そこは今のところどうでもよかった。
『ファントムの影は?』
『まったく』
あの夢でファントムが登場する余地があるとするなら、蒼の砂漠の中で文字通り幽霊のように佇んでいるくらいだろう。
『ともかく、あの男の波長みたいなものは大体わかったから、本番はファントムが必要になるような状況作り上げて、彼に呼び出してもらえばいいわ』
『どのくらいかかる?』
『まずはファントムが必要になるシチュエーションの設定と、その世界のディテールの調査……場所をダンジョンに設定するとしたら、ダンジョンの詳細な情報が必要ね』
相手のよく知る世界の再構築は、世界の説明が必要ない分楽だが、そのディテールは相当に作りこまなければ疑念を抱かせることになるから、手が抜けない。
逆に、よく知らない世界なら、嘘にまみれていたところで大して気にもされないが、今度はその世界の説明が必要になる。
『本来なら一ヶ月はかかる仕事だと思うけど?』
『それは無理だな』
主に物理的な距離の制限で、丁度ターゲットの住居の裏手にあるマンションの二階を、DGSE(フランスの対外治安総局)のお友達から一時的に借してもらったのだが、このマンションは、なにやら怪しげな外国人が多数出入りしている奇妙な場所だった。
どうしてDGSEが、タイムリーにこんなマンションを所有していたのか謎だったが、どうやらターゲットの連中は、世界中の諜報機関の監視対象になっているようで、実際仕事がやりにくくて仕方がなかった。
いずれにしても、DGSEのチームと一緒に活動するわけには行かないし、近日中には彼らに返還する必要があるのだ。
『大きな違和感なしで利用できる、ディテールの不要な世界があるなら、すぐにでも取り掛かれるわよ』
そんなものはないでしょうとばかりに、イザベラが言い放ったのを聞いて、デヴィッドは腕を組んだ。
ファントムが必要になるシチュエーションで、環境のディテールが不要な世界。
そんな都合のいい世界が――
『あるな』
『なにが?』
『ファントムが必要になりそうで、かつ環境のディテールがない世界だ』
『へぇ』
『不要な』ではなく、『ない』世界? イザベラは警戒しながら相槌を打った。
この男が、こんな顔をするときは、ろくでもないことを思いついたときだ。まだ一年ほどしか付き合っていないが、彼女はそのことをよく知っていた。
この男は金銭欲も権力欲も人並み以上に旺盛だが、支配欲はそれをはるかに凌駕していた。自分の掌の上で踊る人間を見るのが、なによりも好きなのだ。
女を道具のように扱い、自分勝手なセックスをしそうにも見えるが、実際は、念入りに奉仕して女を快楽で屈服させたいタイプだ。その際、手段を選んだりはしない。薬でも道具でもなんでもござれだ。奉仕系サドと言えばいいのだろうか。
結局、デヴィッドとイザベラは、内心お互いを恐れあっていた。おかげで、絶妙なバランスが保たれていたのだ。なによりも金をかすがいにして。
そうして、デヴィッドは自分が思いついた内容を、彼女に説明し始めた。
174 病気? 2月26日 (火曜日)
ノックの音が聞こえると、すぐに、ドアが開いて誰かがお盆を持って入ってきた。
「ししょー。生きてるー?」
「ノックしたら返事があるまで待てって、小学校の先生に教えてもらわなかった?」
「芳村さんが、ひとりでイケないことをしているところに出くわしたら、次からは気を付けるよ」
「あのね……」
奇妙な夢――その内容は、もはや曖昧な印象しか記憶に残っていなかったが――を見た後、俺は体調を崩してベッドで横になっていた。どうにも眠くて、体がだるい。
「で、斎藤さんは何をしに?」
「ほら、こないだの弓のお礼に、お見舞いに」
お見舞いって、俺が寝込んだのは今朝だぞ、今朝。午前中に来た彼女が知ってるわけがないだろう。
「で、ほんとのところは?」
「ピアノの練習」
うんまあ、そんなところだろうと思ってたよ。
「そういや、あれ、いいかげん、持って帰りなよ」
「狭くなるからヤダ。1Kなめんなって感じ」
彼女は持ってきたお盆を、ベッドサイドのテーブルに置きながら続けた。
「こんな場所の、こんなデッカイおうちに住んでる人にはわかんないでしょうけどねー」
いや俺だって、こないだまで古ーいアパートに住んでたんだけど。1DKとは言え、確かに、あそこにピアノを置けと言われたら躊躇するな。
「まあいいか。それで、弓の調子はどう?」
「もうばっちりよ。さすがは私スペシャルね!」
購入したときに、涼子スペシャルだと言ったら、涼子っていうなって殴られた。
それで、結局私スペシャルかい。こいつのネーミングセンスもダメダメだな。芸能人だってのに、残念なやつ。
「先輩? 生きてますかー?」
ブルータスお前もか。
三好に至っては、ノックもせずにいきなりドアを開けやがった。我が家周辺のマナー教育はどうなってんだ。
「ご飯の前に、まずは、これをお願いします」
そう言って三好は電子体温計を差し出してきた。なるほど、これを自分の部屋に取りに行っていたから時間差があったのか。
「サンキュー」
俺の部屋に体温計なんていいものはない。それどころか、風邪薬の買い置きすらなかった。
薬と名の付くものは、会社から福利厚生の一環でもらったセットがあるが、前の部屋に置きっぱなしだったし、すでに使用期限は何年も前に切れているはずだ。
まあ、この数年、病院なんかとは無縁な生活をしているからなぁ……
「だけど、ししょーが病気で寝込むなんて、想像もしてなかったよ」
「馬鹿は風邪ひかないってやつか?」
「そうそう。じゃなくてー。なに自虐してんの」
斎藤さんは、けらけらと笑って、馬鹿なのは知ってるってーと、二の腕に軽くパンチを入れてきた。おいおい俺は、一応病人なんだけど。
そのとき、わきの下に入れていた、体温計が小さな電子音を奏でた。
「んー。ほれ」
それを取り出し確認してから、三好に渡すと、彼女は、表示されている体温を見て言った。
「微熱があるみたいですけど、風邪ですかね?」
「大丈夫?」
それを聞いた斎藤さんが、凄く心配そうな顔をすると、お盆を抱えてベッドのわきに座って、俺に体を近づけてきた。
どうやら、お盆の上にあるのは卵粥らしい。レンゲでそれを救うと、フーフーして、そっと俺に差し出してきた。
「くっ、さすが高器用女優。分かっていても騙されそうだ」
「でしょー」
俺は、彼女の手からレンゲとお盆を奪うと、それを口に入れた。
結構塩が聞いていて旨い。
「いや、お前もう帰れよ。風邪がうつったら撮影スケジュールとかやばいんじゃないの? ちゃんと手を洗えよ」
「ふっ、とうとう私が馬鹿じゃないって認めたね?」
「突っ込むところがおかしいぞ」
俺はため息をつきながらそう言った。本当に風邪で、本当にうつったらどうするんだよ。
「大丈夫、大丈夫。その時は、きっとししょーがキュアポーションをくれるはず」
「あのな……」
それを聞いて三好が面白そうに突っ込んだ。
「斎藤さん、今うちにあるキュアポーションって、ランク7が一本だけですよ」
「ランク7?」
「そう」
「そんなの聞いたことないけど……もしかして、それってもんのすごく高い?」
「参考価格で50憶円くらいですね」
斎藤さんは突然、すっと立ち上がり、明後日の方を見ながら、手を未来に差し出すように掲げると、まるで舞台女優のように感情をこめて言った。
「……私、風邪をうつされたら、それを貰って引退します。ついでに売り飛ばしたお金で余生を安楽に過ごすんだ」
「なんのフラグだよ……そもそも、使わないのかよ」
そのままのポーズで固まっていた彼女は、突然俺の方を振り返ると、こぶしを握って力説した。
「使えるわけないでしょ!」
「まあ、普通は使えませんね」
大げさに嘆きのポーズを取りながら、「ああ……私の生涯年収の何回分かしら」と、はらはらを涙をこぼさんばかりの演技で言った。
いや、芝居がかりすぎだろ。
「斎藤さんはすぐにそのくらい稼ぐと思うよ」
「ほんとに?」
「え? まあ……たぶん?」
「なによそれー」
ハリウッド俳優のギャラを考えたら、それくらいはすぐに稼ぎそうな気がするんだけどな。
ロバート・ダウニー・Jrなんか、スパイダーマンで一千万ドル、インフィニティー・ウォーは一本で7500万ドルだっけ?
女優は一千万ドルくらいに壁がある感じだったけど、今は結構そうでもなくて、サンドラ・ブロックあたりは、ゼログラビティで5000万ドルって話も聞く。
「ハリウッドってそんな感じだろ?」
「東洋人は、どうかなー」
今はポリコレも激しいし、英語がネイティブと大差なければ意外といけるんじゃないかと思うんだけどな。
「さてと。じゃ、練習も終わったことだし、私も帰りますかね」
「お疲れ様」
「そうそう、さっき、はるちゃんにも連絡しといたから。確か昨日からパリにいるはず」
「とうとう、最後まで連れて行ってもらったんだな。だけど、向こうはまだ早朝だろ」
パリと東京の時差は8時間だ。向こうはまだ朝の四時前だろう。
「起きたらメールがくるよ。お楽しみに!」
嬉しそうにそういう彼女の顔を見て、俺は嫌な予感に襲われた。
「ちょっと待て。お前いったい、何を書いたんだ?」
「大丈夫、大丈夫。はるちゃんが仕事を放り出して帰国するようなことは書いてないから」
こいつの大丈夫は、まったく信用ならない。特にこういう時は。
後で、こっちからもメールしておかないと、まずいな。
「そんな心配しなくても、大丈夫だって。じゃ、私、午後から仕事だから、またねー!」
「あ、おい!」
そういうと彼女は、嵐のように去って行った。
「はぁ……」
しばらくして、彼女を玄関まで送って行った三好が戻って来た。食器の回収があるからだろう。
「しかし、超回復って、病気相手には仕事をしなかったんですね」
「基本は怪我用っぽいもんな。体力は回復するみたいだが」
「考えてみれば、ポーションにも、ヒールポーションとキュアポーションがありますもんね。どうします、飲みますか?」
「ランク7のキュアポーションを?」
「世界一高価な風邪薬ですね」
三好がクスクスと笑いながらそう言った。
「死にそうになるまで、とっとくよ」
すると、それまで笑っていた三好が、ふと真面目な顔をして言った。
「先輩、もしもですよ? 体の一部がひどい痛みを伴って傷つくような病気になったら――」
「あーあーあー、やめろ! 聞きたくない!」
体の傷が超回復で回復するってことは、いつまでも激痛だけが与えられるって事だ。
それって、フィクションでよくある、拷問しつつヒールで治すってやつ、そのままだ。
「超回復の思わぬ欠陥ですよね、これ」
「セルフ拷問とか嫌すぎる。だけど、そんな病気はめったにないよな?」
「実はあります」
「ええ?!」
三好は声を潜めて、おどろおどろしい雰囲気を作ってから言った。
「歯痛」
「ああ」
超回復はエナメル質を修復するのかってのは、面白い命題だ。
爪や髪の毛を修復しないということは、常識的に考えればエナメル質も修復しないだろう。
ただしこれはダンジョンの効果だ。いままでの常識が通用するとは限らない。むしろ、所有者が歯も修復したいと考えるなら、それは修復されると考えるべきなのかもしれなかった。
残念ながら、俺にも三好にも虫歯がなかったので確認はできないのだが……アーシャにもなさそうだよな、虫歯。
もしもエナメル質部分が修復されないなら、神経に到達するたびに修復と破壊が繰り返されて、いつまでも神経がなくならず痛いままなのかもしれない。
歯医者に行けと言う気もするが、もしもそのとき、医療行為として神経が抜かれたらどうなるのだろう? やはり神経が復活して、痛みは続くのだろうか。
抜いても抜いても復活する神経……嫌すぎるな。
「まあ、しまっちゃうおじさんが来るかもしれないって恐れていても仕方がありません」
俺が粥を食べ終わるのを見て、三好は何かを取り出した。
「そんでもって、デザートはこれですよ!」
じゃーんと言う効果音と共に、三好が果物の缶詰をどや顔で取り出して、俺の目の前にかざした。
「いや、俺、桃缶嫌い」
「そりゃまた、西浦高校の野球部員を敵に回しそうな発言ですね」
「お前、まだ前のアパートに行ってるのかよ」
「あの押し入れ、ほとんど漫画しか入ってませんでしたよ。先輩ってどういう生活をしてたんですか」
「いや、だって、専門書は会社に持って行ってたし」
「そういう意味じゃありませんよ。そうだ。あと、新しい巻がないやつがあるんですけど」
俺は仕方ない奴だなと、笑いながら、枕元に置いてある Kindle Oasis を三好に渡した。
「おおー。電子書籍にしてたんですか!」
「読むだけだと便利だよな。所有欲は紙の方が満たされるけど」
「あれ? かぶってるのがありますよ?」
「あー、だって、途中まで紙で、途中から電子書籍だと面倒だろ?」
「つまり、ブルジョアになったってことですね」
「まだ、前のアパートを解約していない時点で、否定は無理だな」
特に金持ちになったという実感はないし、自分のもので、何か欲しいものがあるかといわれれば特にないが、こういう部分で節約を悩まなくてよくなったのは、地味にありがたかった。
「しかし、いつになったら二つ折りのデバイスが出るんですかねぇ」
三好が、試しに漫画を読みながら、そう言った。
「重さとかバッテリー容量の関係で難しいかもしれないが、ブックリーダーとしては文庫本スタイルのデバイスが欲しいよな」
「出たかと思ったら、期待していたのと反対に折り曲げたりするんですよ? 開いたら板になるとか馬鹿ですか? 二つ折りの意味ありません!」
曲がる液晶よりもずっと敷居が低いのに、と三好がぶつぶつ言っている。
スマホの延長で考えるならタブレット型にしたいだろうが、欲しいのはブックリーダーなのだ。その辺、キャリアからは登場しないだろうから、kindle様にはぜひ頑張ってほしい。
「kindle twofold なんて名前で2画面版を出すか、いっそのこと2台使って連動する機能とか作ってくれれば、ケースで対応できるんだけどな」
「クラウドファンディングで出てきませんかね?」
「そっちは、先進のVRか網膜投影型のデバイスで、パソコンのビュワーみたいなものが実用化されるほうが早いかもなぁ」
そう言うと、三好がぷぷっと吹き出した。
「なんだよ?」
「いえ、今電車に乗ると、みんながスマホを見てるじゃないですか」
「そうだな」
「網膜投影型の眼鏡みたいなのが同じように普及したら、みんながページをめくるために、目の前で空間をスワイプしたりしてるんですよ。それって、ちょっと間抜けじゃないですか?」
通勤電車の席に座って、ふと上を見上げると、つり革をつかんでいる人たちが、全員手を目の前でフリフリしている……
「いや、間抜けと言うより怖いな、それ。なんの儀式だよ」
三好は「ですよねー」と言いながら、俺が食べ終えた食器をお盆の上に載せた。
「先輩」
「なに?」
「ほんとに大丈夫なんですよね?」
三好が真剣な顔をしてそう言った。
いや、まじめな顔でそう言われると、なんだか不治の病にかかったような気分になるんだけど。
「ああ、まあ、ちょっとだるくて眠いだけだ。頭痛もしないし、寒気もないし。ちょっと疲れたのかな?」
「超回復があるのに?」
「たまにはそういうこともあるんだろ。続くようなら病院に行くよ」
みどりさんのところの検査でも、おかしな数値は出てなかったし、日本ダンジョン協会がやっている探索者の健康診断でも、一般人と有意な違いはないようだし、普通に病院に行っても大丈夫だろう。
「そうしてください。じゃ、グラスを置いていきますから、グレイサットと入れ替わったら、ブートキャンプの設定はよろしくお願いします」
「寝てたら起こしてくれるように言っといてくれ」
「了解です。今日は少し開始が遅いようでしたから、たぶん16時過ぎだと思いますよ」
「わかった」
三好の影から出て来たグラスが、我が物顔でベッドの上に飛び乗ると、俺の顔をふんふんと嗅いだ。そして、嫌そうな顔で俺の影へともぐりこんだ。
「え? 俺、臭い?」
「特に何も? 熱が下がるまで、シャワーなんか浴びちゃダメですからね」
そういえば、モンスターって嗅覚がそれほど発達していないんじゃないかって仮説を立ててたっけ……じゃあ、グラスは、一体何を嗅いだんだ?
思考の隅に引っかかるものがあったが、俺はあまりの眠さに、すぐにもう一度夢の中へと旅立っていった。
175 明晰夢 2月26日 (火曜日)
目を開くと、そこは黒かった。
……って、俺、今、寝たんじゃなかったっけ? ってことはこれは夢か? ……蒼の次は黒かよ。豹柄の服を着た派手なロシアの女の子に、セ・グローク《くらーい》と言われそうだ。
しかしこうやって思考できているという事は、これって、明晰夢ってやつか。体験するのは初めてだな。
明晰夢は、それを夢と自覚してみる夢のことだ。そしてそれをある程度コントロールできるらしい……しかし、ここは一体?
そう考えた瞬間、目の前に白い文字で書かれたサインが浮かんでいた。
+-------------------+
| STAIRS UP |
| TAKE THEM (Y/N) ? |
+-------------------+
「なんだ、これ?」
白文字が浮かんでいるのは、まあ夢だからいいとして、Y/Nってなんだよ。どこにキーボードがあるっていうんだ。
サインを無視して移動しようとしても、移動することはできなかった。どうやらモーダルなダイアログのようだ。
仕方がないので、そのサインに触れようとすると、指し示したNが強調表示された。
「VRの選択っぽいな」
なのに、表記はCUI風だとか、なんというかちぐはぐだな。
俺はそのままNをタップすると、サインが消えて、目の前にレトロなゲームの画面のような空間が広がった。
「ワイヤーフレームかよ!?」
一歩進んでから振り返ると、そこには天井? らしき場所に白い四角が描かれていた。
それは、どう見ても、大昔にPASCALで書かれた、某迷宮探索ゲームの世界のように思えた。とは言え、仮にそうだとしても、概要しか知らないので、どうにもしようがない。
俺は、移動前の場所に引き返すと、今度はおとなしく階段を上った。
準備もせずにうろうろするのは馬鹿のやることだ。もっとも一階上が、安全な場所とは限らないが。
そうして階段を上がった場所は、地上?だった。
目の前には大きな西洋風の城が建っている。どうやらここは、城壁に囲まれた城下町のような場所らしい。
依然として、レトロ感に溢れた、黒い背景と白い線の世界だったが、ともかく、酒場と宿、それに寺院と商店があることだけは分かった。
「しかし、これ、どうすればいいんだ?」
普通に考えれば冒険をするのかもしれないが、どうにも気が進まない。マニュアルも読まずに始めたりしたら、大抵ろくなことにはならないのだ。黎明期のゲームは特に。
まあ、夢なんだから、好きにすればいいのだろうが……
そういや三好のやつは、死にそうになったらディスクを取り出すなんて力説していたが、どう考えてもこの世界の中からディスクが取り出せるはずがない。なんというメタな話だろう。
「三好がいれば詳しそうなんだがなぁ……」
日本人の身だしなみとして、ゲームも人並みにはやったが、何しろ中学へ上がる頃にPS2が発売された世代だ。
新作って意味では、FFは8からだし、バイオは3から。ドラクエは7からだし、ゼルダはムジュラからなのだ。
仕方がないので、俺は頭を掻きながら、Gと書かれた酒場の扉を開けた。
とりあえずそこにいる人の話を聞くのが、この手の世界のセオリーだろう。そのくらいは夢に付き合ってもいいか。
「あれ? 先輩?」
しかしそこにいたのは、意外な人物だった。
「は? 三好? お前何でここに?」
そこには当の三好が、ワイヤーフレームで描かれた椅子に座っていた。
服はと言えば、普通に代々木ダンジョン攻略コスチュームだ。何と言うご都合主義。さすがは俺の夢。
もしも、昔雑誌で見た、アローン・イン・ザ・ダークのエミリー・ハートウッドみたいな三好が座っていたら、さすがにビビるだろう。なにしろポリゴン数は、たったの140前後だ。
「なんでって、先輩が呼んだんじゃないんですか?」
そうなのか? これが夢をコントロールするってことだろうか?
「じゃ、アルスルズもいるわけ?」
「そりゃいますよ」
三好の足元から、カヴァスがひょいと頭を出した。
「ほんとだ……」
三十一層の花園にアルスルズは存在できなかったから、これがダンジョンの作り出した花園に準じたものって可能性はほぼなくなった。
やはり俺の夢なのだろう。もっとも自宅のベッドの上で知らないうちにダンジョンに連れていかれるなんてことが起こったら、世界は大混乱に陥るだろうが。
まあ、何があってもしょせんは夢だしな、と、何もかも夢のせいにすることにした俺は、彼女に尋ねた。
「で、俺たちはこれからどうすればいいわけ?」
「先輩……それは私が聞きたいんですけど」
俺の脳が作り出した三好は、言ってみれば俺に呼ばれてここに居るわけだ。どうして呼ばれたのか聞きたいのは、確かに彼女の方だろう。
それに、俺の夢であるからには、目の前の三好は、俺の脳が彼女ならこういうだろうと思っているセリフをしゃべっているに過ぎないはずだ。言ってみれば究極の自問自答と言える。
「このゲームみたいなのを攻略すればいいのか?」
「ルールがわかりませんけどね」
「この手のゲームって、大抵ダンジョンの一番深いところにいるボスキャラを退治するのが目的じゃないの?」
「最近のゲームはひねくれてますから」
俺はあたりを見渡すと、手を広げてそれらを指し示した。
「どう見ても最近じゃないだろ」
三好は、人さし指を顔の前で、ちっちっち、と振りながら言った。
「先輩、もしもこれがゲームなら、どうみてもフルダイブ型のVRですよ。未来の技術です!」
ああ、まあ見方によってはそうかもな……ただし使われている技術は紀元前どころか、人類発生時点からすでにあるんだけどな。たぶん。
ともあれ、フルダイブ型のVRでワイヤーフレームの世界を構築するのは、そうとうなもの好きだけだぞ、きっと。
「まあでも、これが本当に先輩の夢なんだとしたら、何もしなくても先輩の目が覚めればすべて解決ですよ」
「そりゃそうだ」
「時間をつぶすには、ちょっと娯楽が少なそうですけど」
三好が、周りを見回してそう言った。
酒場だと言うのに、他に客はいないようだ。俺はワイヤーフレームの椅子にこわごわと腰かけると(だって壊れそうじゃないか)、注文って、どうやってするんだろうと思いながら言った。
「なに。座って寝てりゃ、すぐに目が覚めるだろ」
シチュエーションを知らない人が聞いたら、混乱しそうなセリフだなと思いながら、俺はワイヤーフレームのテーブルの上に頬杖をついた。
、、、、、、、、、
「いや、冒険しなさいよ!」
酒場の厨房へとつながる扉の裏側で、彼らの様子を窺っていたイザベラは、あまりにやる気のない二人の様子に、思わず突っ込みを入れていた。
ナイトメアは、夢の環境や設定を作り出すことが主体になるスキルだ。
それを作成した後、その夢を操作するためには、イザベラ自身がその夢の中に登場して、能動的に影響を及ぼさなければならなかった。
もっとも、登場するイザベラは人でなくても構わない。なんにでもなれるのが夢のいいところだ。そうして、人の心の襞の奥に隠された、知られたくないことを見つけ出すのだ。
それにしてもあの男はどうなっているのだろう。
人は、夢の中で、いかにもな世界を作り上げてやれば、大抵、いかにもな行動をとるものだ。少なくとも今まではそうだった。
なのに、用意されている環境を完全に無視して、リアルで目が覚めるまで、夢の中で寝てる? まるで胡蝶の夢に繋がりそうな展開だが、もはや意味が分からない。すでに枯れているのだろうか。まだ若そうなのに。
それにしても、なんとか冒険に誘《いざな》って、ダンジョン内でピンチを迎えさせなければ。
睡眠中の人の脳の活動は、比較的シンプルだ。
この男が、もしもファントムを知っているなら、ダンジョン内でピンチになれば、必ずファントムを作り出すはずだ。そこの三好と言う女が作り出されたように。
自分がファントムになって、彼らに接触するという事も考えたが、なにしろファントムの情報はほぼゼロだ。特に見た目のディテールなど知るべくもなかった。
夢の時間は有限で短い。早くなんとかしなければ。
いつまでも日本の狭いマンションの一室でベッドに横たわっているなんて冗談じゃない。
彼女は意を決して、立ち上がった。
、、、、、、、、、
頬杖をついて目を閉じていた俺は、木の扉がきしむ音に目を開いて顔を上げた。
すると、だらだらしていた、俺たちだけの世界に、なんとも場違いな声が響いた。
「いらっしゃいませー」
そこには12歳くらいに見える、エプロン姿の美幼女が立っていた。場違いにもほどがある。
「……君は?」
、、、、、、、、、
くっ、本当にこの姿で良かったんでしょうね?
デヴィッドのやつが、相手が日本人ならいつもの私のようなタイプは引かれる。小さい女の子なら、すぐに溶け込めるだろうって言うから……詐欺師のくせに、調査が甘いんじゃないの?
、、、、、、、、、
心なしかひきつった笑顔を張り付けて、首をコテンとかしげる女の子を見て、三好が俺をジト目で睨んできた。
「な、なんだよ、その目は」
「ファンタジー世界に登場する美幼女は、大抵魔王か、そうでなくても最強キャラって相場が決まっています。それが始まりの街で女給をしている? おかしくないですか?」
「そんなことないだろ! たまたま助けた女の子と仲良くなって、以降、妹ポジでレギュラー化するとか、あるだろ?!」
「先輩……そういう趣味が」
ちょっと待て。話を振ったのは三好だろ! 誤解も甚だしいぞ、それ。
「ここは冒険者が集う酒場ですよ? なのに従業員が幼女ってどうなんです。第一児童福祉法違反ですよ。チェンジしてくださいよ。チェンジ」
「いや、そんなこと俺に言われてもなぁ……」
「なに言ってるんですか、先輩。ここって、先輩の夢の中なんですよね? つまり、このキャラを作り出したのも……」
「まてまてまてまて、俺にそんな趣味はないって!」
お母さんを助けて、酒場のウェイトレスとして頑張っている美幼女……いや、さすがにないだろう。
大抵は、ちょっとした雑用を頑張ってるとか、ちゃんと雇ってもらえずに、自分で花を摘んできて売ってるとか、そういう虐げられ健気系が多いよな。
「おにいちゃんと呼ばせて、悦に入っていたりするんじゃないでしょうね」
「んなわけないだろ?!」
それを聞いた幼女が、首を傾げたまま口を開いた。
「おにい……ちゃん?」
「ほら!」
「ち、違う!」
そこの幼女、余計なことをするんじゃない!
「振り返ってみれば、モニカの時も、なんだか怪しかったですよね」
「飛び火した?! え、えん罪だ!」
いかん、冷静に考えれば、このやり取り自体一人遊びのようなものだというのに……なんだかエンカイの時以上にピンチな気がする。
だが、夢の中で、自分に嘘をつくことができるのだろうか? ……って、自分でも意識していないのに、俺にそんな嗜好があったりするわけか?!
、、、、、、、、、
なにやってんのよ、こいつら。
だけどここで、この町は冒険者の街だから、さっさと冒険に行け、なんて突然に出だしたら怪しいし……
この女の言うことを鑑みるに、子供の姿だと、この場所にいること自体がそぐわないってことみたいね。
しかし、2体目のキャラを作り出すには、エネルギーが足りないかもしれないし……しかたない、この子はフリーズさせて大人を登場させることにしましょう。同時に動かさなければなんとか……
、、、、、、、、、
「やかましいわね。店先でなにやってんのよ」
そう言いながら、美幼女が出て来た扉から、ボンキュッボンで体の線が露骨に出ている姉さんが、髪をかき上げつつ現れた。
「これですよ、これ! うんうん。やっぱりこういうところに現れる女キャラは、妖艶な美女でなければ!」
三好が満足そうにそう言って頷いた。
「そして、『信頼はできるけれど、信用はできない』って、そういう関係に落ち着くんです」
「だから、お前のそのイメージはどこから来てるんだ?」
「そして、彼女は、黒幕の身近な人間だったりするんですよ!」
三好が、ビシーっと言う書き文字が見るような見事なポーズで、彼女を指さした。
彼女はまるで図星を指されたかのように、顔をひきつらせた。
、、、、、、、、、
な、なんでバレてんの?!
まさかこの男が作り出した、夢の中のワイズマンにも鑑定のスキルがあるんじゃないでしょうね?!
いやさすがにそんなバカなことは……
彼女が鑑定を使うとしたら、その男が、彼女が鑑定を使うと思う場面で、かつ、鑑定を使った結果が彼の想定できる範囲の時だけでしょう。
そして、いったん鑑定結果が提示されてしまえば、例えそれが間違っていたとしても、真になるように、世界そのものが変化するに違いないわね。
、、、、、、、、、
「うーん、もうちょっと図太さが欲しいですね」
あごに手を当てながら彼女を観察していた三好が、残念そうにそう言った。
「さいですか」
そんなやり取りをしていると、美女が腰に手を当てて悩まし気なラインを作りながら、怒ったように言った。
「あんたら、いいかげんにしてよ。他の客に迷惑でしょ」
俺は、思わず辺りを見回した。
「ほかに客なんか、いない……よな?」
俺は不安になって、最後は三好に問いかけた。
もしかして、俺たちから見えないだけで、実はこの場所にはたくさんの冒険者たちがいたりするんじゃないかと思ったのだ。
「少なくとも、私には見えませんね」
「だよなぁ」
「NPCっぽい会話としては、ありですけどね」
「なるほど」
「ここは酒場なんだから、さっさとパーティを組んでダンジョン攻略に出かけてほしいんだけど」
流石NPC。言葉だけを聞いていると、何を言っているのかわからない。
酒場は酒を飲んだり食事をする場所だろ?
「酒場って、酒を飲む場所じゃないのか?」
「ウィズだと、パーティを組む場所でしたね。あとステータスを見る場所」
「そういうものなのか。飲食は?」
「できません」
「酒場の意味ないな」
「まあまあ、先輩。人が集まる場所くらいの意味ですよ」
、、、、、、、、、
なんて、人の話を聞かない連中なの!
もうっ! ステージ1の時間が迫ってるっていうのに!
、、、、、、、、、
「あなたたち、ずいぶんと楽観してるけど、ここは時間の流れが違うって考えたことはないわけ?」
女性は、いら立ちを露わにしながらそんなことを言い出した。
「時間の流れが違う?」
「夢の中の世界は、現実世界よりもずっと時間が流れるのが早いって設定、多いですよ」
「設定ってなんだよ」
どうせ午後にはグラスに起こされるはずだが、それまでにこの中で一年が経過するなんてことになったら、話が違う。
何もしないでここに居続けるってのは、数日だって苦痛だろう。なにしろここには線しかないのだ。ひとりで、『かけぬけろどうげんざか』ごっこをやるにも限度と言うものがある。
だが――
「なんで、夢の中の登場人物が、ここが夢の中だってことを知ってるんだ?」
「私だって認識できるんですから、彼女が認識していてもおかしくはないとおもいますけど。何しろ脳はひとつですからね」
「うーん。そうかな……そうかもな。なにかそういうのとちょっと違う気がするんだが……」
俺はちらりと、彼女を見た。
どうにも見覚えのない女だ。本当に俺の脳が作り出した形《なり》なのだろうか。
「とにかく、あなたたちも冒険者なら、国王に言われた義務をはたしなさい!」
「国王? マッドオーバーロードなトレボーみたいなのが、ここにもいるのか」
「そりゃまあ、城が見えますからね。いてもおかしくないとは思いますが」
「うーん。ここで、冒険者じゃないよと言ったらどうなると思う?」
「世界の掟で、登場人物は全員冒険者なんですよ、きっと」
「掟かぁ……」
いかにもありそうな話だ。
それにしても、彼女はどうも、やたらと俺たちを冒険に行かせたがっているように思える。
「彼女の態度、どう思う?」
「これが先輩の夢で、先輩の無意識が彼女を作り出しているとしたら、先輩の無意識は、先輩が冒険に行ってもらわなければ困るってことですかね」
「なんで?」
「無意識のやることを、意識が認識できるわけないでしょ」
それもそうか。自覚できない意識を無意識っていうんだから、認識出来たらそれはすでに無意識とは言わないわけだ。
「鶏が先か卵が先か、みたいな話ですね」
「それは、卵だ。間違いない」
「なんでです?」
「鶏は卵を『産む』が、卵は鶏に『なる』からだよ」
何かから生まれた卵が鶏になったのだ。何かがいきなり鶏に変異したりはしないだろう。
「進化の過程をさかのぼれば、おのずと明らかってことですか」
「まあな」
妖艶な女は、すでにコメディーの如く、フルフルと怒りに震えていた。
脱線してからかうのが少し面白くなってきたところだが、そろそろ可哀想になってきたな。
「仕方がない、夢そのものに乗せられるなんて馬鹿みたいだが、ダンジョンを攻略してみるか。これも経験だ」
「アイテムが現実に持ち帰れるといいんですけどね」
「いや、そりゃ無理だろ」
どうせ他にやることはないんだ、攻略するのもありだろう。同じダンジョンだと思えば、リアルの練習にも……いや、ならないか。
連携の練習、なんてことも考えたが、これって、経験が蓄積したとしても、対象は俺だけだ。
「で、死んだらどうなるんだ? もしかして、さくっとここから脱出できる?」
「誰かが生き残っていれば、寺院で復活させられるんじゃないですか? ウィズだと灰になったりロストしたりしますけど」
「全員死んだり、ロストしたらどうなるんだ?」
「どうにもなりません。データはパー。なかったことになります」
俺の夢がそれを再現するとは思えないが、ロストしたらどうなるのかを確かめるのも危なすぎる。何しろディスクを抜くのは無理だからな。
「そういや、ゲームの中の死が、現実の死につながるなんて話は定番ですよね」
三好がまじめな顔つきで、不穏なことを言いだした。
そうそう、こいつはこういう時につい言っちゃう奴なんだよ。
「……一応死なないように注意はしておくか」
「了解です」
妖艶な美女は、ほっとしたような顔をして、同じ場所に立っていた。
あれを俺が作り出したのだとしたら、あれが俺の好みなのだろうか。うーん、わからん。
「なあ、三好。俺にはちょっと気になることがあるんだが」
「なんです? なんだか嫌な予感がしますけど」
「NPCにいたずらしたらどうなるんだ?」
「先輩……」
三好は、何を言ってるんだこいつと言うまなざしで俺を貫いた後、はぁ、とため息をついて、仕方がなさそうに、「どうぞ」とだけ言った。やってみろってことか。
殺人や強姦なら、カルマが下がるとか、ガードがやって来て逮捕されるとかありそうだが……
俺はつかつかと彼女に近づくと、おもむろに、その立派な胸のふくらみをつかもうと手を伸ばした。
その瞬間、驚きに目を見開いた彼女の右手が、音速で俺のほほに襲い掛かった。
小気味の良い破裂音が炸裂すると同時に、ああ、こうなるのね。さすがは俺の夢だ、などと間抜けなことを考えていた。
、、、、、、、、、
『はっ……』
悩まし気な息を吐いて、ベッドの上でビクンとからだを引きつらせると、イザベラは突然目を開いた。
「otsukare-sama」
いつの間にかベッドの足元に置かれていた、イームズラウンジにゆったりと座っていたデヴィッドが、聞きなれない言葉を紡いだ。
『なにそれ?』
イザベラは半分体を起こして、腕時計で現在の時間を確認した。80分後に再ダイブするためだ。
『日本語の、相手をねぎらう言葉らしい。あらゆる状況でいつでも使える魔法のような言葉だな』
『へんなの』
そう言って彼女は、どさりとシーリーのガーナイトVに体を預けた。包み込まれるような柔らかさが好きな彼女が持ち込んだマットレスだ。
金属製スプリングはリサイクルが困難? そんなのは単なる言いがかりだ。適切に処理することは可能なのだ。面倒なだけで。そうしてその面倒は彼女の知ったことではなかった。
『どうしてフランスには素敵なベッドメーカーがないのかしら』
『アメリカには大変体の大きい方が多いから、需要があったんだろう。そうえいば日本には、フランスベッドというメーカーがあるらしいぞ』
『へんなの』
疲れているように見えるイザベラを見ながら、デヴィッドは枕元に置かれている魔結晶を確認していた。
結構消費量が多い、いままでに聞いた説明が正しいとしたら、夢に大きく関与した証拠だ。
『なにか、トラブルでも?』
『別に。どんなに無害そうに見えても男は男ってことを確認したくらいよ』
押し倒されでもしたのだろうか? 意味は分からなかったが、デヴィッドにとって、トラブルでなければそれで構わなかった。
『ステージ1に入ったのか?』
『まあね』
睡眠の深さは、脳波の計測によって4つのステージに分類されている。そのうち覚醒からステージ1までの間がレム睡眠だ。
イザベラが波長と言っているものは、レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返す長さのことだ。通常、レム睡眠とノンレム睡眠は約80分から1十分くらいの周期で繰り返されている。
〈ナイトメア〉は、対象がレム睡眠の状態の間だけ夢を構成できる。そして対象が先に夢を見ている場合は、それには干渉できなかった。夢の世界は早い者勝ちなのだ。
だから、レム睡眠が始まるタイミングを知ることはとても重要だった。夢を構成するためには、対象が夢を見ていない間に干渉しなければならなかったからだ。
そうして、対象がステージ1に到達すると、彼女は夢の世界からはじき出されるのだった。
『それで?』
『一応、条件付けは出来たと思うけど……あの男、ものすごく慎重――いいえ、怠けものなんじゃないの?』
『どうして?』
『ちゃんと夢の中だということを認識していて、何もせずに寝ていれば、そのうち目覚めるだろ、なんて言ってたわよ』
『明晰夢というやつか。しかし、日本人はああいうシチュエーションを与えれば、すぐにでも冒険にでる人種だと思っていたよ』
『あなたちょっと調査が甘いんじゃないの? そんなの子供だけでしょう。大人になったら、ゲームなんて面倒でやってられないわよ』
『それはゲームに時間がかけられなくなるというだけで、ゲーム自体は人類の深いところをくすぐる要素だと思うがね』
『詐欺師らしい意見ね』
なにしろ詐欺は、コンゲームなのだ。
『男女の駆け引きも似たようなものだろう?』
そう言われて、少し考えた後、それもそうかと納得した彼女は、鼻を鳴らして起き上がり、簡単な食事をしにダイニングへと向かった。
80分後にはあの続きがあるのだ。どのように追い込み、どのようにかかわるべきか。いつもとは違う勝手に、彼女はいつになく真剣に考え始めていた。
176 ダンジョンの攻略 2月26日 (火曜日)
「まずは装備ですね」
「ん? 初心者セットでいいだろ?」
「先輩。世界にはTPOってものがあるんですよ」
「TOPってな……そういうお前は、探索者の初心者セットじゃないか」
「いえ、これはいわゆる私服みたいなものですから」
「ほう」
考えてみれば、世界の一部である三好の言葉は、世界の意思なのかもしれない。もしもそうだったら、結構怖いな。
そんなことを考えながら、Gの酒場を出た俺たちは、Bの商店の扉をくぐった。
「いらっしゃいませー」
そこには、どこかで見たような美幼女が、にこにこ顔でカウンターの向こうに木の箱を置いて、その上に立っていた。
「また、お前か……」
「先輩も、懲りませんね」
俺? 俺なのかなぁ……未だに疑問が……
「ま、まあ、商店の店番くらいなら、ありじゃないか?」
「はいはい。じゃあ、武器を選びますよ。先輩職業は?」
「職業?」
「ステータスシートを見てください」
なんだそれ、と思った瞬間、謎の紙が自分の手の中にあることに気が付いた。流石は夢。
そのシートには、自分の名前と職業、それにレベルと夢の中でのステータスが適当に書かれていた。
「職業って……なんだこれ? 『無職』って書いてあるぞ」
普通、戦士とか魔法使いとかじゃないの?
「あ、そういえば先輩は、Dパワーズの社員じゃないんでしたっけ。アルバイトみたいな扱いだから――無職であってますよ」
「ええ〜、夢の中なのに夢がなくないか、それ?」
私なんか、会社経営者ですよーんと、ステータスシートを見せびらかしてくる三好があんまりうざかったので、右手で顔をつかんで軽く力を入れてやった。
「先輩! ギブギブ! 頭潰れますー!!」
俺の手パンパンとタップしながら、ギブアップを主張している。ふふふ、自分の行いを後悔しろ! といっても、こいつはこんなことで反省したりしないんだけどな。
家事手伝いみたいなもので、別に困っちゃいないんだけれど、無職と言われるとなんとなく負けた気分になる。これが社畜文化の名残だろうか。
それに、家事手伝いは立派に専門的な知識や技術を要する仕事なのだが、それが無職に分類されているのもどうなのかなと思う。
「まあ、職業にしちゃうと、家政婦とかになっちゃいますからね」
「ポリコレの時代でも家政婦って言うのか。看護師みたいに、家政師……いや、家政をつかさどるんだから、家政司か? とかになんないのかね?」
士と師と司の使い分けは難しい。というより適当だ。
一般に、医療関係や教育関係は「師」で、それ以外は「士」っぽいが、医療関係でも、歯科衛生士や理学療法士があるしなぁ。
ちなみに司は、福祉でよく見かける。「児童福祉司」なんて、初めて見たときは「士」の誤植だと思ったものだ。
閑話休題。
「日本看護家政紹介事業協会という公益社団法人が検定試験をやってるんですけど、それは『家政士検定』ですよ」
「は? なんだその検定。そんなのがあるのか?」
「漢字検定だって、初めて聞いたときは、なんだそれ、でしたからねぇ」
世界は検定に溢れてるんだな。
「家政婦って書くときは、必ず『家政婦(夫)』って書いてあるくらいにこだわってますね」
「全部『家政士』って書いておけばいいんじゃないの?」
「そこは、不思議ですよね。まあ、それだけ一般的な用語じゃないってことでしょう」
そこまでこだわるなら、五〇%は、『家政夫(婦)』と書いてほしいものだ。ほんとにそうなってたら、笑ってしまうだろうけれど。
「いや、ちょっと待て」
「なんです?」
ここは俺の夢の中で、目の前にいる三好は、俺の脳が作り出した三好のはずだ。
なのに、なんで俺が全然知らないことを、ぺらぺらと喋ってるんだ?
「お前、一体誰だ?」
三好は、あんたはいったい何を言っているんだという、いぶかしげな顔で、眉根を寄せた。
「いや、だって、俺の知るはずがないことを、なんでお前が知っているんだ?」
俺の夢である以上、俺の知識のあずかり知らない事象は登場しないはずだ。
それを聞いた三好は、突然悪い笑顔を浮かべて、暗い森に棲んでいる魔女の如くに腕を上げ指を曲げた。
「くっくっくっく、バレちゃ仕方がありません。私は――」
そう言われて、思わず身構えた俺に呆れるように、態度を変えた。
「――って、アホですか、先輩」
「ぐっ……し、質問に答えてないだろ!」
「そりゃ、先輩の無意識がどこかで見たことがあって、それを知らず知らずのうちに記憶していたか、そうでなければ――」
「なければ?」
「――ダンツクちゃんに繋がってるかでしょうね」
「それか……」
集合的無意識。アカシックレコードとまではいかないだろうが、人類の知識を吸い上げて膨れ上がるデータベース。
そこから情報を取り出すUIとして、召喚されたモンスターを考えていたが、もしも夢がそのUIを作り出せるなら――この場合、それは三好なのだが――以前ダンジョンの五層で話した、リアル生物都市(精神的な)が現実的な意味合いを帯びる。
前意識《フォアベブステ》から引っ張り出した情報であってほしいと心の底から思うのだが、どうにもまったく記憶にあるようには思えなかった。
とりあえず、三好に何か聞いてみて、テストを――
「あのー」
そう考えたとき、俺たちの話を聞いていた美幼女が声を上げた。
「ダンツクちゃんってなんです?」
「「は?」」
、、、、、、、、、
店員を無視して、どうでもいい話を展開されるのには、少し慣れたけれど、今は話されている内容が普通じゃなかった。
DANTUKUCHANって何? 繋がっている? 夢の中から? 私と同じようなスキルの持ち主が身近にいるってこと?
今回の仕事は、混乱させられることばかりだ。
舞台に凝りすぎたんじゃないの? デヴィッド。
いつもと同様に、エロいお姉さん――お兄さんや、少年のこともあるけど――を用意して、あてがっておくだけで、勝手に暴走して勝手に話してくれるのを待った方がよかったんじゃない?
理性の影響が薄い夢の中では、ピロートークが最強で、フロイト先生が正義ってものなのよ。
だけど今更、基本設定を変えることは難しい。このまま最後まで行くしかないわけだけれど……おっと、それより今は、DANTUKUCHANね。
仕方ない、危険だけれど、尋ねてみるか。ピロートークならこれでうまくいくんだけどねぇ……
そうして彼らにそれを尋ねた私は、大ピンチに陥ったのだ。
、、、、、、、、、
「むしろなんでこいつはそれを知らないんだと思う?」
「無意識の記憶が、意識に捉えられないことはあっても、意識できる記憶が、意識に捉えられないことは考えられません」
「そりゃまあそうだよな」
それは、AがAだと言っているようなものだ。当たり前以前に、論理かどうかすらも怪しい。
可能性があるとしたら、こいつが、俺の意識から作り出されたわけではない何かだってことだが……
「わ、私は、NPCですよ? NPCは決められたこと以外喋れないんですー」
「なんか言ってるぞ」
「ずいぶん勝手にしゃべっていますけど……」
俺は、彼女に一歩近づくと、そのまま質問してみた。
「ダンツクちゃんについて、教えてくれ」
「なんですって?」
「ダンツクちゃんについて、教えてくれ」
「なんですって?」
「見事なNPC反応ですね」
「俺は、あの額の汗が怪しいと思う」
「うーん。リアルなら、先輩、神経症ですか? と突っ込みたいところなんですが、なにしろ夢の中ですからね。先輩の意識の影響が登場人物の行動にどれだけあるのか、だれにも分かりません」
NPCとしての行動ルールが、意識の中にある情報の取得を制約しているということは考えられなくもなさそうだが、根拠はない。
めんどくさいな! 夢の中!
「まあ、普通はこんな活動を夢の中でしたりしませんからね」
「何かを確かめようにも、道具も薬も、それをなすための理論すらも無いんだもんなぁ」
「心理学の黎明期にいた心理学者って、こんな気分だったんじゃないでしょうか」
「いえてる」
俺は、額に汗を浮かべながらひきつった笑顔を浮かべている、自称NPCに迫るのをやめて、後ろへと下がった。
「ともかくこれでは、らちが明きません。さっさと武器を仕入れて先に進みましょう」
「そうだな。で、どの武器を使えばいいんだ?」
「無職に持てない武器なんか知りませんよ。とりあえず、その辺の武器を持って振ってみて、違和感がなければいいんじゃないですか?」
「お前な……ステータスシートの意味って」
「可哀想なアイテムでしたね」
達観したような彼女のせりふを聞き流しながら、俺はその辺に置かれている剣――ロングソードと言う奴だろう――を取り上げて振ってみた。
なんだかよくわからんが、面倒だからもうこれでいいか。
三好は、小さな盾と、俺のよりも小さな剣を物色していた。ショートソードと言うやつか。
だけど、こんな武器を使う機会なんかあるのかね?
なにしろアルスルズが存在しているのだ。もうそれだけでいいような気もするが、いざとなったら俺たちの鉄球や魔法も使えるに違いない。
もしもそうだとしたら、少なくとも三好の武器の出番はないだろう。
そうして俺たちは、ダンジョンの中へと下りて行った。
、、、、、、、、、
始めてみれば、ゲームと言うのは面白くなるように作られている。
とりあえず、モンスターはアルスルズに任せて、おれたちは探索に勤しんでいた。
「なんだか、ダンジョン内にあるものは、とにかくアイテムとして使うことができるみたいですね」
三好が木の棒を拾って、それを振り回しながらそう言った。
ダンジョン内にあるものを手に持つと、それに使用できるコマンドが表示されるのだ。
自由度的にはコマンド選択はどうなのと思わないでもなかったが、古いゲームのUIを無理やりくっつけてる感じで、それはそれで新鮮だった。
「〈鑑定〉は?」
「出来るみたいですけど、すごくシンプルですよ。例えばこの棒なら――『木の棒』って表示されます」
「見たまんまかよ!」
「〈鑑定〉がなくても分かりますよね」
しかしまあ、再現できない力を夢の世界が再現するにはちょうど良い方法にも思える。
見てわかることは、鑑定結果に不満を抱きようがないからだ。
俺が落ちていた板切れを拾い上げると、すぐにその板の横にU)SE(使用)コマンドが表示された。
そのままコマンドを実行すると、今度は、使用方法が表示されるのだ。
+------------------
| 1)投げる
| 2)捨てる
| 3)組み立てる
+------------------
「組み立てる?」
俺は3を選択した。すると――
+------------------
| 板の数が足りません
+------------------
――と表示されたのだ。沢山板を集めて組み立てたらいったい何になるんだろう?
適当に始めて見た冒険だったが、なんだかちょっと面白くなってきていた。もっとも興味の方向が明後日の方向のような気がしないでもないが。
そして、それは、ダンジョンの石というアイテムを使った時に起こった。
+------------------
| 1)魔力を込める
| 2)投げる
| 3)捨てる
+------------------
「魔力を込める?」
「どうしました?」
「ダンジョンの石を使うと、魔力を込めるって選択肢が表示されたんだ」
「込めたら爆発したりしませんかね。『おおっと、EXPLODING BOX!』なんて表示されるんですよ」
「嫌な予想をするなよ。よし、三好、その盾で顔だけでもガードしてくれよ」
「それでも込めてみるのはやめないんですね……」
「それが男の子ってものだろ」
「私は、女の子なんですけど」
「似たようなものだろ」
「全然違うと思います」
そう言いながら、三好が俺の顔と手に持った石の間に盾を突き出した。自分は俺の後ろに隠れているところが三好っぽい。さすがは俺の無意識だ、よくわかっている。
「行くぞ?」
俺はそういうと、1を選択した。
すると――
+------------------
| 1) 1込める
| 2) 10込める
| 3)100込める
| 4)やっぱ、やめ
+------------------
「どうしました?」
「いや、込める魔力量を選択する選択肢が――1と10と100と、あとは中止だな」
「中止がメニューの中にある時は、ろくなことにならない選択肢がありそうな気がしませんか」
「緊張感が高まるなあ、おい!」
「先輩、なんで嬉しそうなんですか。なにかのジャンキーですか?」
「そんなことはないぞ、俺は慎重派なので、1を選択するのだ」
「中止って選択肢はないんですね……」
「うむ」
そう言って俺が1を選択すると、石は別のアイテムに変化したようだった。
「魔石だってよ。それって、普通魔物の体の中にあったりするんじゃないの?」
「そういう設定は多いですけど、魔力がこもった石なら、魔石でいいような気もしますね」
「まあいいか。ついでに使ってみよう」
「普通、そういう名前のアイテムは、他のアイテムと組み合わせたりするんじゃないですか?」
「まあまあ、ものは試しだろ」
そうしてさらに使用してみると――
+------------------
| 1)食べる
| 2)投げる
| 3)捨てる
+------------------
「食べる?!」
「はい?」
「いや、食べるって選択肢が……」
「先輩、石を食べる人間は、昔のサーカスにしかいませんよ」
「まあ、そうだが……しかしここは、人類の礎になってみるしかないだろう!」
「バカだ、バカがいる……」
「失礼な奴だな。なーに、一個くらいなら平気……だといいな」
そう言って俺は1を押した。
+------------------
| よしむらはおなかを壊した。
| 最大HPを3失った。
+------------------
「なんだそりゃあ!」
「腹痛っていう状態異常っぽいですよ」
「そんな状態異常、初めて聞いたぞ」
「私もです。だけど、やっぱり石を食べたらおなかを壊しますよ。ワニやダチョウじゃないんですから」
それらの生物では、食べたものをすりつぶしたり、水中でのバランスをとる重りとしたりするために、石を食べることがある。
もちろん人間にそんな機能は付いていなかった。
「くっ、これがダンジョンの悪辣な罠か」
「絶対違うと思います」
その後しばらくして、状態異常から復帰した俺は、懲りずに実験を繰り返し、今度は「10込める」を選択してみた。
出来上がったものは――
「転移石?」
「なんだかいろんなゲームが混じってますね」
「過去の俺の研鑽のたまものかな」
「適当に、広〜く遊んでただけじゃないですか」
「学校って場所は、そういうスキルが必要なんだよ」
「先輩のことだから、もっと孤高な感じに振る舞っていたのかと思いました」
「そういう人間は社畜にはならないと思うぞ」
「確かに。で、それも使ってみるんですか?」
「当然だ」
「いきなりどっかに転送されちゃうかもしれませんよ?」
「その時はその時だ」
「いしのなかにいる」
「そ、その時は……どうしよう?」
「リアルなら、墓石が立つ前にディスクを抜けばOKでしたけど……」
「ディスクは抜けないよなぁ」
俺はしばらく躊躇していたが、今まで使ってみたアイテムはすべてサブメニューが表示された。
これだって、「投げる」とか、「捨てる」とかが表示されるに違いない。
「よし、大丈夫そうだ」
「何がです?」
訝し気な三好をスルーして、俺は躊躇せずに、U)SE(使用)した。
これが前頭葉の活動が抑制されているという事だろうか。いつもなら、こんな無謀なことは――
+------------------
| 1)転移石にフロアを設定する
| 2)転移石を使う(1層)
| 3)捨てる
+------------------
「おお。なんかフロアの設定と、使用ができるぞ」
「先輩……死なないように注意するってのはどうなったんです?」
「い、一応って付いてただろ、確か」
三好は呆れたようにため息をつくと、前向きに話題を変えた。
「やっちゃったことは仕方がありませんね。で、フロアの設定が出来るってことは、任意のフロアに転移出来るってことですか?」
「だろうな」
「それは凄いですね。持ち替えれたらものすごく有用ですよ」
「夢の中からアイテムを持ち帰るなんて、昔話にだってなくないか?」
「浦島太郎とか?」
「あれは夢と言うより、転移系SFだからな」
「どこにサイエンスな要素があるんですか」
「異世界まで凄い速度で移動したから、戻って来た時長い年月が経過してたところ」
「ああ」
「ここまでやったんだ。何はともあれ使ってみようぜ」
「まあ、いいですけど……パーティで戻れるんでしょうね。使った人が一人だけ転移するなんてことになったら、残されるのは嫌ですよ」
「じゃあ、2個用意しておいて、もしもそうなったら別々に戻るってことで」
「了解です」
そうして俺たちは、二つの転移石を作り出し、心の準備をととのえると、おもむろにそれを使用した。
「いくぞ!」
「了解です!」
「2番! ぽちっとな」
「ふるっ!」
その瞬間、俺の手の上にあった石が――
「消えてなくなった?!」
「先輩、これってもしかして……」
「転移する石ってことかっ!!」
ピンチになった時に使うと、石だけが転移して、時間だけが浪費されるという、まさに致死性の罠!
「ダンジョン、おそるべし……」
「今度は私も、ちょっとだけそう思いました」
、、、、、、、、、
『はっ……』
いつものように、悩まし気な息を吐いたイザベラは、ベッドの上でビクンとからだを引きつらせた後、突然目を開いた。
しかしいつものようには起き上がらず、そのままベッドに体を預けてため息をついた。
『どうした?』
イザベラは、ヒクヒクとほほを引きつらせると、『もう、あいつら、一体何なの?!』と激高した。
『だから、どうしたんだ? 冒険には行ったのか?』
『行ったわ』
『それで、ファントムは?』
『みじんも出てこなかったわね。それ以前に、あいつらどうやったらピンチになるわけ?』
最初はRPGのセオリー通り、地下1層では初心者向けのモンスターを登場させていた。
しかしまったく相手にされなかったため、徐々に深い階層のモンスターへとシフトしていたのだ。
しかし彼らは、そんなものは歯牙にもかけなかった。それ以前に、お供の大きな犬たちが、あたりのモンスターを総ざらいしてしまい、彼らはただ歩いていただけだった。
そうして、おもむろにダンジョン中に落ちているいろんなものを拾い上げては、いつまでもそこでなにやらごそごそ楽しそうにしているのだ。
『そりゃ、もっと強力なモンスターをだしてやれよ』
『出したわよ! だけど、ヴァンパイアロードもグレーターデーモンも、あいつらにたどり着く前にかみ殺されるんだから』
そう言って彼女は、デヴィッドが用意した、「Sorcellerie: Le donjon du suzerain heretique」の攻略本を放り投げた。
今更だが、あの短時間に設計できた理由は、ベースにこれを使ったからだった。
『かみ殺される?』
『あいつらの周りには、黒い犬の形をした悪魔どもがいるのよ』
『ファウストとはまた、君らしくないね』
『なんの話?』
『いや……なんでもない』
ファウストで、メフィストフェレスが最初に登場したとき、彼は黒いむく犬の姿をとって、ファウストに近づくのだ。
彼女が珍しく文学的なレトリックを使ったのだと、デヴィッドは思ったのだが、どうやら勘違いのようだった。
『そうだ、デヴィッド。あなた、DANTUKUCHANって知ってる?』
『DANTUKUCHAN? 知らんな。それがどうかしたのか?』
『どうも、あいつらの周りには、そういう名前の何かがあって、それが夢に繋がって、影響しているみたいなの』
『繋がって? それはあんたのような存在なのか?』
イザベラはがばっと上半身を起こすと、叫ぶように言った。
『それが分からないから、ヤバいんじゃない! もしも、もしもよ? そんな存在がいたとしたら、私って安全なわけ?!』
今まで彼女は、夢の世界の支配者だった。
しかし同じルールに基づいた誰かがいるというのなら、支配権をめぐって争いが起きるかもしれない。
一方的な蹂躙は楽しいかもしれないが、争って傷つけられるのは嫌だった。
デヴィッドは、落ち着けとばかりに両手で彼女を制して言った。
『わ、わかった、わかった。こっちでも調べてみるから』
177 兆し 2月26日 (火曜日)
遠い場所で、雨が降っている。
それが、軒先から規則正しく落ちて、地面をたたく音がする。
それが、だんだん大きくなって――
「ガブッ」
「いってぇ!」
ベッドの上で飛び起きた俺は、頭にかみついていた小さな物体を両手で外すと、目の前に持ってきた。
「ケン!」
軒先から落ちる水の音の正体はこいつか。
「お前が俺の額を叩いてたのか。そろそろ時間か?」
「ケン!」
グレイサットは、特に俺に対して反抗的というわけではない。グラスの奴は、どこでああなったのだろう。思えば最初からそうだった気もするが。
俺はグレイサットの頭をなでながら、素早くメイキングを立ち上げると、本日の参加者の希望に沿ったステータスにステータスポイントを配分した。
「はー、これもだんだん面倒になって来たな」
とは言え、すぐにやめるわけには行かないだろう。
なにしろ、一応、利益還元事業なのだ。赤字になりましたという言い訳で閉めることも難しい。
「まあ、そうなったら、料金を上げて続けろと言うやつらが出てきそうなんだけどな」
代替の利かない人間が含まれたシステムは、最初からシステムとして成立していない。
このシステムもどきは、俺がいなくなれば当然、キャシーがいなくなっても成立しなくなるかもしれなかった。
「期間限定にするべきかなぁ……」
ぼんやりとそんなことを考えながら、ふと夢のことを思い出した。
そういえば、夢の中で何かをやってたような気が……
夢は意識が覚醒した後、急速にその痕跡が失われていく。起きてすぐ、夢をメモする人たちがいるのはそのためだ。
外部からの経験として、短期記憶領域に書き込まれたりせず、直接脳の中で再生されているからだろうか。
いかに明晰夢とは言え、その呪縛からは逃れられない。多少は有利かもしれないが。
「なんだっけ。三好とダンジョンに潜って、あいつが木の棒を振り回していたような……」
それって、リアルと一緒だな。
俺は、苦笑を浮かべながらそう思ったが、そういえばこれは夢だった。リアルの経験が反映されていて当たり前か、と思い直した。
それから、腹痛を起こして――なんか変なものでも食べたかな。
そして、手の中の石が――
「消えてなくなった」
何か驚いていたような気がするが、どうしてだっけ……
そういえば、その時何かを思いついたような……
夢の記憶は、すでに脳のあちこちで発火する茫漠たる電気信号の向こう側に失われようとしていたが、その部分だけは、妙に頭の隅にこびりついていた。
俺は立ち上がって、シャワーを浴びにバスルームに向かった。
体のだるさはまだあるが、あのやたらと眠い感じは薄れていた。
バスルームに入って、お湯のハンドルをひねり、少し高めの温度に設定されたシャワーを頭から浴びながら、思いついた何かについて考えていた。
「消えてなくなった石……なんで、消えてなくなったんだっけ?」
俺は、ハンドルを元に戻してシャワーを止めると、立派なバスルームに似つかわしくない、昔ながらの安いポリエステルのボディタオルで体を洗い始めた。
柔らかなスポンジよりも、昔ながらのボディタオルの方が、こすった感じがして好きなのだ。
「何かこう、いろんなものを使ってたような……使って……あー、もうちょっとで思い出しそうなんだけどな!」
思わず地団太を踏んだ瞬間、泡を踏んで足を滑らせた。
「うわっ!」
俺はそのまま浴室内の壁に後頭部をぶつけ、腰をしたたかに打ち付けた痛みにうめく。
「痛って……バスルームで転ぶとか、子供か――」
そうして見上げたシャワーヘッドから、夢の名残のように、ぽとんとおちた水滴を見たとき、俺はすべてを思い出した。
「そうだ! 転移石だ!」
俺は転移石の作られ方を見たとき、それをリアルなダンジョンでもやってみようと考えていたのだ。
俺は素早く泡を洗い落としてバスルームを出ると、ひげもそらずにチノパンとTシャツだけのラフな格好で、事務所へと下りる階段に向かった。
夢のダンジョン内のアイテムは魔力を込めることで、別の何かに変化した。
リアルのダンジョン内のアイテムにDファクターを込めることで、別の何かに――込めるって、どうやって?
俺たちの麦は、ダンジョンシステムを利用した自然科学の一端だと言ってもいいだろう。だれでも再現可能な手続きを確立しているし、検証も可能だ。
しかし、筑波にできた黄金の木はどうだ? あれは地球の自然科学のルールに、ダンジョンアイテムを適用した例だと考えていた。だがおそらくは違う。
あの後、カゲロウが、木と一緒に、枝も持ち出していたらしい。それはとっくにどこかに渡されたはずだが、いまだに黄金の木が生えたという話は聞こえてこない。
あれは、ダンジョンアイテムに偶然魔結晶が反応した例だが、それが反応した原因は、おそらくそれをなした人間にあったんだ。
そう、佐山さんは、あの実が地上でも採れるように、そして大きく育つように「祈った」んだ。
ダンジョン内のアイテム使った魔結晶の利用法――
「祈り、か」
俺は、急いで階段を下りながらそう呟くと、目の前にあった、事務所の扉を勢いよく開けた。
「先輩?! いきなりどうしたんです? もう大丈夫なんですか?」
「三好! 袂を分かった科学と宗教は、もう一度ダンジョンの中でひとつになるかもしれないぞ!」
「はぁ? アインシュタインですか?」
アインシュタインが言ったとされる、"Science without religion is lame, religion without science is blind."は、今では直訳できなさそうなその内容から、いろいろと要約されて伝わっている。
そのうちの一つが、『いずれ科学と宗教は一つになる』だ。アインシュタインがそんなことを考えていたとは思えないが。
「違うよ。……いや、違わないのかな?」
俺は三好に、今しがた考えていた仮説を話した。
「先輩。言いたいことはわかるんですけど、例えば黄金の木の問題は、ネミの森の伝説を解釈したダンツクちゃんの仕業かもしれませんよ?」
「佐山さんが森の王で、彼が死ななきゃ次の黄金の木は現れないって?」
「そうです」
確かに、そういう可能性もあるだろう。
「だけど、俺にあんな変な夢を見せたのは、魔結晶利用に行き詰っているのをみた誰かのアドバイスだと思うんだよな」
あまりにも内容がおかしかったのだ。どう考えても外部からなんらかの影響を受けたとしか思えなかった。
「先輩。話が非科学的どころか、神がかってますよ。論理がシャーマンです」
三好が、耳かきでろー、はどうかと思いますけどねと茶化したが、そう言われれば、これって、夢のお告げだと言っているのと同じか。
「でも、そればかり考えているときの研究者の直感は侮れませんからね」
三好はそう言って立ち上がった。
「なんだ?」
「すぐに確かめられることを、確かめずに、仮説ばかり議論していても始まらないでしょう?」
「さすみよ。分かってるな」
「さすみよって、何ですか……」
、、、、、、、、、
そうして俺たちは、もう夕方だというのに、とるものもとりあえず、代々木の一層へとやってきた。
「病み上がりだっていうのに、こんなことをしていていいんですかね?」
「気になって、おちおち寝てもいられないだろ」
「これだから、ブラック体質の人は……」
三好には呆れられたが、それでも俺たちは、その辺りの適当な石を拾いつつ、一層の人のいないエリアへと向かって歩いて行った。
5分ほど進んだ後、適当の広さのある部屋で、三好がラウンドテーブルと、椅子をふたつ取り出して、テーブルの上にろうそくを3本まとめて立てた。
「なんでろうそくなんだよ?」
確かに薄暗いが、灯りを出すのならLEDライトだろ。
「雰囲気ですよ、雰囲気。だって先輩、考えてみてください。私たちこれから、祈りを捧げるんですよ?」
「しかし、誰かが来たら、これってまるっきり怪しい集団じゃないか?」
「大丈夫。LEDライトでも十分怪しいですから」
そう言われれば確かにそうだ。
薄暗いダンジョンの奥で、テーブルを囲んで座っている男女。しかも、人知れず怪しい実験をしていて、テーマは「祈り」なのだ。
どこからどう見ても、怪しい秘密結社そのものだ。
「それで、どうするんです?」
テーブルに拾ってきた石と、魔結晶をおいた三好がそう訊いた。
「この石って鑑定できるか?」
「えーっと……『ダンジョンの石』ですね」
「ビンゴ! なんだか信憑性が増してきたぞ!」
夢の中の石も、確かそんな名前だった。
「私には、なにがなんだかさっぱりですけど」
「ほら、以前佐山さんに相談されたとき、『奇跡を起こすために、魔結晶とダンジョン産の触媒が必要だとしたら』と話したことがあっただろ?」
「ああ、枝の拡散の時ですね」
「そうだ」
あの時は、枝を触媒だと考えていた。成長はしたが、木は木だからだ。奇跡の元は魔結晶、何にでも姿を変えられそうなDファクターだと考えていたのだ。
しかし、奇跡の元はダンジョン産のアイテムと魔結晶の両方で、触媒は祈りだった可能性が高い。
「祈り、ですか?」
「そう、俺たちは意識の反映なんて言ってたけどな」
「祈りが、ダンツクちゃんに意思を伝える手段?」
「の、ひとつって感じかな」
三好は腕を組んで、祈り、祈りか……なんて、ぶつぶつ呟いていた。
「先輩。あの寓話みたいな碑文の話、覚えてます?」
「雨が降りすぎてなんとかってやつか? それが?」
「あの中には意味不明なフレーズがいくつも出てくるんですが、『プネス*$プリュ#%プリナにお願いする』ってフレーズがあるんですよ」
「プネスプリュプリナ?」
「そこは、なんというか意味の分からない文字の並びなんですが、読める音だけ取り出すとそんな感じなんです」
「つまり地球に無い概念だから、音素がそのまま並べられたってことか」
「たぶん。それで、慣用句のように使われるそのフレーズのモニカ訳が――pray、なんです」
寓話の登場人物が何かに――地球なら神だろうが――祈るなんてことは、別に珍しくはないだろう。文明が発達する前なら、祈りは普通の行為だったはずだ。
しかしたとえそうだとしても――
「そりゃまた、さらに信憑性アップって感じだな」
「自分に都合のいい情報をピックアップして、恣意的につないだだけですから、信憑性もくそもありませんよ」
「どうせ体系的な研究なんてないんだ。アマチュア研究者然とした、ただの思い付きもたまにはいいさ。んじゃ、後は、祈りを捧げるだけだな」
そう言って俺は、目の前に並んでいる魔結晶と石に触れて、祈りを――
――俺はそこで、はたと固まった。
「……三好」
「なんです?」
「俺……無神論者だよ! 祈る神がないじゃん!」
三好がいまさら何を言ってるんですかと言った顔で、言った。
「別に神様に祈らなくてもいいんじゃないですか? じゃあ、私が銀行口座に祈りを捧げましょう」
「銀行口座ぁ?」
「中身があれば何でもできる、現代の神の器じゃないですか。ダンジョンの石よ〜、他のフロアに転移するアイテムになれっ!」
「それで成功したら、口座からお金が消えるんじゃないか?」
「ええ?!」
慌てた三好をよそに、当たり前だが石は石のままだった。
こんなふざけた祈りでDファクターが操作できるのなら、もうとっくに誰かがことをなしているはずだ。絶対に。
「それに、今のって命令じゃないの? 祈りじゃないじゃん」
何かを命令することと、何かを祈ることは違う。
「むー。じゃあ、先輩。祈りってなんですか?」
「いきなり哲学的な問題だな」
俺は腕を組んで、背もたれに体を預け、ろうそくの炎で揺らめく影を映した暗い天井を見上げた。
「祈りの本質は、自らの中の神と繋がるための行為であり――言ってみれば、儀式だろうな」
「先輩。それって祈りは、超個人的なものだって言ってるようなものですよ」
「まあそうだ」
「それって、科学に落とし込めるんですか? 個人の祈りを他者が再現できないなら、それは科学じゃなくて能力ですよ」
「しかも、自分ですら再現ができない可能性があるんだな、これが」
人間のような複雑な装置が、移り変わる条件下で、常に同じ何かをできるなんてことはまずないだろう。はっきりと認識できない、精神的な領域なら、なおさらだ。
どんなに練習を積んだところで、音楽家がいつも同じ演奏を繰り返せるはずがないのだ。精神性がゼロっぽい斎藤さんなら可能かもしれないが。
「そうなったら、それはもうただの偶然じゃないですか」
「そうでなければ、まさに神の御業だな」
祈りを定量的に定義することは難しい。というよりは不可能だろう。
科学の果てにあったのが、祈りだなんて、どっかの寓話系SFかよと思えるような結末だ。
「いやー、盲点だったな。祈りがこんなに難しいだなんて」
「意識しちゃうからダメなんですかね」
「ありそうだ」
「願いと、祈りは違うんでしょうか?」
「祈りには願い以外もあるだろう。だから違う気がするな。よくわからないけれど」
「もういっそのこと友達に頼むみたいに頼んでみるとか」
「誰に?」
「Dファクターくん」
Dファクターくん? 見えるくんです以来のゆるキャラだな。
「はぁ? じゃあなにか? 『そこのDファクターくん。ちょっとその石を転移石にしてくれないかな』って、言えばいいとでも――」
そのとき、目の前の魔結晶が光と共に音もなく空気に溶けると、机の上の石ころがかすかに光を帯びた。
「せ、先輩――?」
それは一瞬の出来事だった。三好が声を上げた瞬間には、もうその光は失われていた。
「――うそだろ」
そこにあった魔結晶がなくなったっているってことは、何かが起こったってことだ。それは間違いない。
「み、三好。鑑定」
「……了解」
三好は机の上の石ころを、恐る恐る人さし指でつつきながら、鑑定結果を報告してくれた。
「転移石、だそうです」
「詳細はあるか?」
「代々木一層に転移する、そうです」
「一層で作ったからかな?」
「たぶん」
「ちょっと待ってろ」
俺はその石をすべて保管庫に格納すると、その辺りからいくつかの石を拾ってきて、もう一度机の上に並べて置いた。
そうして、魔結晶をひとつ取り出して机の上に置くと、三好に向かって言った。
「今度は、三好がやってみてくれ」
比較実験は重要だ、もっとも条件がガバガバすぎて、厳密な意味があるかどうかは怪しいが、少なくとも誰にでもできることかどうかは調べられるだろう。
「分かりました――『そこのDファクターくん。ちょっとその石を転移石にしてくれないかな』――」
三好は、まじめな顔でそういったが、机の上の石や魔結晶はなんの反応も示さなかった。
「何も起こらないな」
「そりゃ、本来、起こる方がおかしいんですから。先輩、もう一度できます?」
そう言われて、俺は、友達に話しかけるような雰囲気で、机の上に向かって話しかけた。
「そこのDファクターくん。ちょっとその石を転移石にしてくれないかな」
すると、目の前の魔結晶は、さっきと同様、光と共に空気に溶けた。つまり現象は再現したのだ。
「先輩……どう見ても個人のプロパティですよ、これ」
三好の鑑定でも、さっきと同じものができていたようだった。
「――メイキングの仕業?」
「他に可能性があるのなら、言ってみてください」
三好はダンジョンの不思議に関しては、俺とほぼ同じ経験をしているし、ほぼ同じスキルオーブを使っている。
大きな違いがあるとしたら――
「それしかないか……しかし、耳かきはでなかったぞ?」
「魔結晶もありませんでしたし、お願いでもなかったですし。しかし本当に仕事をさせる能力があったとは」
「これ、どうすりゃいいんだ?」
「どうするといわれても、なにしろ個人の能力ですからね。当面は、何ができるのかを調べるしかないんじゃないですか?」
「お前な、他人事みたいに」
「一〇〇%他人事ですもん。それに、すんごい面白そうです。だって人類が未だ経験したことのない自然科学の領域ですよ!」
三好が興奮して身を乗り出してきた。
俺だって当事者じゃなかったら、興奮しただろうよ。
「ま、まあ、その話は置いておいてだな。ほら、佐山さんが黄金の木を作り出した以上、メイキングを持っていない人間でも同じことができる可能性はあるだろ?」
「あるでしょうね。だけど先輩。仮にそれが出来たとしても、所詮は個人的な技術ですよ」
「産業革命は起こしようがないな」
近代の工業は、産業革命を経て、手工業から大工業へとその手法を変化させた。
そうして大量の商品が生産されるようになったのだ。
だから、もしもこれで魔結晶の利用方法が確立したとしても、その手法を大工業《だいこうぎょう》的に展開することは不可能だろう。何しろ祈りには人が必要なのだ。
「それに、先輩。これ、売れますかね?」
三好が再び作られた転移石をつつきながらそう言った。
「需要はあるだろ?」
「そりゃ需要はありますよ。だけどもしも祈りでメイキングの力が模倣できるんだとしたら、これって、ダンジョンで石を拾って祈るだけで出来るんですよ? それって、自分の分は自分で作りませんか?」
ああ――なるほど。
そりゃそうだ。河原の石ころを商品にすることは確かに難しいだろう。
「祈りって特許の対象か?」
「絶対違うと思います」
「まあ、そこは売れなくてもいいよ。こんな技術を独り占めとかありえないし。ただなぁ……これ、公開できるか?」
「なんですか、突然。この実験は先輩が勢い込んで始めたんですよ? そりゃ、超能力みたいなもので、出来ない人は出来ないかもしれませんし、出来る人は何かのトリックだと言われる可能性はありますけど……」
「そこじゃないんだ」
「そこじゃない?」
「俺もまさか、本当にできるとは思わなかったから――」
「先輩!」
あんたは今更何を言っているんだという、三好の視線が痛い。
「――いや、だってそうだろ? だから、まともに考察していなかったんだが」
「誰かが、蝙蝠のモンスターの羽から空を飛ぶアイテムを作り出して、デビルウィング!とか言いながら空を飛び回る様子をYouTubeにアップして、『はは、さすがニッポン。やることが漫画だ』なんて、世界中の人から生暖かい目で見られるとか?」
「実にありそうな話だが、そんな平和的な話なら悩まないよ」
俺は真面目な顔で、三好の目を見ながら言った。
「いいか。世界にはいろんな人間がいるだろう?」
「はい」
「行き過ぎた過激思想は、社会的にマイナーなこともあって、それを実現する手段や力がないという理由で、現実の社会に大きく影響していないわけだが、それが簡単に手に入るとしたら――どうなると思う?」
「散歩のついでにテロを起こそうなんて奴が出てくる時代が来るかもしれないってことですか」
ステータスにもその危険性はあった。
だが、これはつまり、祈りと言う超個人的な技術で、ダンジョンアイテムに関連させることができるなら、どんなものでも生産できる工場を得るのと同じってことだ。
原子爆弾の例を挙げるまでもなく、科学の発展は、ポジティブ・ネガティブ両方の面があるわけだが、こいつはそれを究極のレベルで問われる技術になりかねない。
「それに、この技術が使えるものと、使えないものの間にできる溝は、ステータスの比じゃないぞ」
「超人とそれ以外に分かれるわけですね」
「ニーチェが考えていたそれとは違うだろうが、畜群側はより酷いことになるだろうな」
俺たちはしばらく無言でそのことを考えていた。
「でも包丁や金属バットの使い方を、それを考案した人間が心配するというのも違うと思うんですけど」
「よく言われるレトリックだが、アインシュタインは、あらかじめ広島や長崎のことを知っていたら、発見した公式は破り捨てただろうって言ってたぞ」
「もしも本当にそうしたら、別の誰かが発見していただけだと思いますけどね」
「まあそうだな」
俺たちは調子に乗って、いろんなことを試しているが、毎回発見した内容にまつわる問題の大きさに悩むことになってる気がする。
しかも、今回の奴は特大だ。
「この国で育った俺たちって、極端に影響の大きい何かを決めなきゃいけない時に、何も決められない性質が植え付けられてるんじゃないかって思うよ」
「国家陰謀論ってレベルじゃなくて、結果としてそうなってるってことでしょうけど、それが、テロや過激な社会的扇動が起こりにくくて、平和だってことに繋がってるわけですから」
「羊飼いに御された羊たちの、まさに神の国だな」
ろうそくがかすかに揺らめいて、三好の顔の影がより深くなったように見えた。
きっと俺の顔の影もそうなのだろう。
「でも祈りのテストは続けるんでしょう?」
気を取り直したように、三好がそう言った。
公開するかどうかと、実験で詳細を確認するかどうかの間に直接的な関連はない。それでも大発見をしてしまえば、公開したくなるのは確かなのだが……
「祈りで同じことができることを確認したら、公開したくならないか?」
「それはまたその時考えるってことで」
実に科学者らしい先送りだ。
「わかった。でも、俺じゃ試せないから、三好さんに一任しますよ」
「ずるい!」
だって、俺だと成功した結果が、メイキングのせいなのか祈りのせいなのか分からないという問題があるのだ。これは正当な理由なのだよ三好君。
「それよりさ。これ、どうする?」
俺は、机の上の転移石をつつきながらそう言った。
「本当に使えるなら、帰還石なんて名前で売り出せば、探索者の事故を相当減らせると思いますけど」
「だよなぁ。ともかく一度使ってみるか。鑑定結果的には大丈夫なんだろう?」
「ネガティブに見える記述はありませんね」
「だけどこれ、どうやって使うんだ?」
夢の中のように、メニューが出るわけではないのだ。
「きっと、こうして持って」
三好がそれを持ち上げて行った。
「でもって、『使おう』って意識すれば――」
そう言った瞬間、三好の手の上にある石が淡く輝いた。
「三好!!」
俺は思わす彼女の名を呼んで立ち上がり、慌ててその腕をとったが――
「はい?」
――そこには、驚いた顔をしている三好が座っているだけだった。
「何も起こらなかったのか?」
「いえ。石が――」
三好の手の上にあった石は、最初からそこに無かったかのように消え失せていた。
「そんなところまで再現しなくてもいいだろ!」
俺は思わずそう叫んだが、三好は訳も分からずにポカンとしているだけだった。
178 ずれてる人々 2月27日 (水曜日)
『それで?』
『日本語にダンツクという言葉は、親分や旦那を卑しめて呼ぶ言葉しかなかったよ』
『中国人の黒幕がいて、フロントに侮られているって事?』
『チャンが陳か張なら、その可能性が高いが、少なくとも我々の網にそう言った人間は引っかからなかった』
デヴィッドは、Dパワーズの裏にいるような人間なら、相当権力を持っているに違いないと考えていた。
だから、そう言った人間が彼らの網にかからないのだとしたら、闇の世界を牛耳る支配者級か、そうでなければ、そんな人間はいないのだ。
彼は後者だと考えていた。調べた限りでは、ターゲットの連中は善良過ぎた。
『他にもうちの調査部の分析だと――』
『なんで宗教団体に調査部があるのよ』
『――情報は力だぞ? 相手の情報を完全に調査しておくのは、占いの世界でも常識だ』
『嫌な常識』
『dantukuchan は何かのコードネームで、nahcu kutnad のことではないかって分析もあったな』
『なにそれ?』
『Kutnadは、1800年くらい前に南インドのケーララにあった場所で、おそらく現在のカタナードらしい。そこの nah cu つまり、スパイというか、当局の犬のようなものだそうだ』
『南インドにあった昔の組織の犬ってこと? それと日本に何の関係が?』
『ここへ来たそもそもの発端は、アーメッドの娘の話だろ』
『彼はムンバイでしょう? マハーラシュトラとケーララがどんだけ離れてると思ってるのよ』
『ほとんど隣だ。間にカルナータカがあるだけだ。海岸沿いを進むなら、ゴアも挟んではいるが、ほとんど誤差の範囲だろう』
確かに彼の言うとおりだが、それはインド的スケールにおける隣だ。
マハーラシュトラのムンバイからケーララのコチは、直線距離で1000キロ以上離れている。東京からなら、札幌や鹿児島よりも遠く、ウラジオストクまでとほぼ同じくらいだ。
『そもそも、アーメッドは、ゴアにもケーララにも拠点を持っている。どちらにも彼の関係したリゾートがあるからな』
『じゃあ、つながっているというのは、単に関係があるって意味?』
『コードネームで呼ぶからには、只の関係じゃないんだろうが……』
『その辺はどうでもいいわ。夢の中で私を傷つけられるかどうかだけが問題だから』
デヴィッドは、勝手な女だと眉を顰めそうになったが、もともとこいつはそういう役割の女だと割り切って、ポーカーフェイスを貫いた。
それでも非常に役には立つのだ。
『だけどあの男、今のシチュエーションじゃ、相当に手強いわよ』
なにしろピンチに陥らないのだ。腹立たしいことこの上なかった。
『それに、魔結晶がちょっと心もとないんだけど、大丈夫なの?』
それはデヴィッドにとっても頭の痛い問題だった。
現在の東京市場には、魔結晶の出物がほとんどなかった。それは、つくば事件が市場に与えた影響だった。
指名依頼を出してはみたが、二つあると聞いていたトップチームの片方は、スポーツをして遊んでいるらしく、しばらく代々木に現れていないようだし、もう片方のチームは、大きな仕事を引き受けた後らしく、装備の注文をして休暇に入ったらしかった。
2番手以降のチームでも、上位のチームは十八層でゲノーモス狩りに勤しんでいるらしい。つまり引き受け手が少ないのだ。
『いざとなったら、フランスから空輸するさ』
そのセリフを聞いて、うまく手に入らないんだなと彼女は察した。
『あなたは、何とかいうスキルオーブが欲しいだけでしょう? 連中と取引すればいいじゃない』
『簡単にいうが、オークションの結果を見たか? 今後、それを手に入れるたびに、4400万ユーロを払い続けるのは無理だな』
『探索者なんだから、指名依頼をするか、直接取引すればいいでしょう』
それを聞いたデヴィッドは首を振った。
『あのワイズマンって女は、お高くとまっていてな。そういった直接取引はすべて拒否。一度も引き受けてないのさ」
『え、相手が権力者でも?』
『相手が日本の天皇でも、アメリカの大統領でもダメだという事だ』
仕入れてしまえば、それ以上の価値で売りさばく男だったが、さすがに毎回5000万ユーロ以上を請求できる相手は少なかった。
それに、そういう相手は、デヴィッドを通さなくても、直接代理人をオークションに参加させればいいだけだ。
だがそれは好ましくない。奇跡の分散は、デヴィッドの教団が為す、御業の価値に影響するのだ。
『だから、あいつらの実働部隊に、ファントムとかいうやつがいるのなら、そいつと直接取引がしたいんだ』
デヴィッドは、楽しそうな笑顔を浮かべて、アームレストの上に肘をついた手を顎の下で組んだ。
『何しろこいつは、自分とは無関係の自衛隊の一隊員に、惜しげもなくそれを使ったあげく、なんの見返りも要求しなかったらしいからな。きっと簡単に手に入れているに違いないんだ』
『おおかた、相手が女で美人だったんでしょ』
使われた相手は伊織だ。あながち間違ってもいない突っ込みに、デヴィッドは、両手を解いて、小さく手を投げながら肩をすくめ、唇を曲げて肯定した。
、、、、、、、、、
北谷マテリアルの難波班では、難波を中心に、モノアイの水晶を対象に、phと塩分濃度、それに温度と溶媒の条件を細かく変えながら、液化テストが繰り返されていた。
何しろ組み合わせの数が多い上に、対象になるアイテムがひとつしかないのだ。それは、なかなか根気のいる作業だった。
「おい! 難波!」
突然呼ばれた声に、難波はゆっくりと顔を上げて、ゴキゴキと首を鳴らした。
「なんだよ保坂、血相を変えて」
「特許が出願されているんだ!」
「なんの?」
「高屈折率の液体だよ」
「なんだと?」
難波は保坂からタブレットを受け取って、その内容を確認した。
そこには、発明者が三好と芳村さんで、出願人が株式会社ディーパワーズと書かれた特許が出願されていた。
「本当だ……どうすんだよ、これ。異議申し立てか? いや、しかし理由が……」
まさか、うちの会社の上司が相談した内容をパクられたなんていう異議が通るとは思えなかった。
なにしろこっちは、まだどうやって液化させるのかも分かっていないのだ。
「落ち着けよ難波。ここを見ろよ」
保坂が指さした先には、特許の明細が書かれていた。
そこには――
「アイボール?」
対象モンスターの名前が書かれていたのだ。
特許明細書の範囲は、なるべく緩く大きな範囲になるように書くのが常道だ。今回の場合なら、ドロップアイテムとしてモンスターの水晶体を対象にしてもおかしくはなかった。
「こいつは芳村さんたちの仁義だな」
「仁義?」
「俺たちが同じ研究をしていることを知ってたから、特定のモンスターに限定したんだぜ、これ」
「もしも、上が三好に連絡をしなけりゃ、芳村さんたちは気にせずに、モンスターの水晶体あたりで登録したってことか」
「だな」
この話を無断で三好に持って行ったのは榎木だ。
単に、真超との関係解消を恐れただけの行動だったのだが。
「馬鹿もたまには結果を出すか」
「でなきゃ出世はしないだろ」
「持ってるねぇ」
実は、芳村達が、その連絡がきっかけで、この実験を行おうなどと考えたのだとはつゆしらず、彼らは勝手に誤解して、榎木の評価を少しだけ上げたのだった。
その後彼らは、自分たちの素材で追試を行い、似たような濃度で液化することを確認すると、モンスター名を限定して特許を申請することにした。
、、、、、、、、、
公正取引委員会が、サマゾンジャパンなどのネット通販会社に対する調査を始めたことが大きく取り上げられたこの日、俺と三好は、昨日に引き続いてダンジョン内で悪戦苦闘をしていた。
そして、結論から言うと、転移石(真)は完成?したのだ。
しかしそこに至るまでには、驚くべき苦難の道のりが待っていた。それは、頭の中でずっと「地上の星」がリピートされているくらい困難だったのだ。
『その時芳村は思った』、なんてナレーションが聞こえてくるような気がしたくらいだ。
祈りの方は漠然とした願いみたいなものを、きちんと読み取って実現する癖に、メイキングを通した、いわゆるお願いと言うか命令と言うかは、まるで融通が利かなかった。
一種のプログラミング言語みたいなところがあって、やたらと細かい設定が必要だったのだ。
「先輩。こうしてみると、メイキングと他のスキルって、開発ツールとアプリみたいなものっぽいですよね」
「そうだな。存外ダンジョンの向こうの世界じゃ、スキルってのはDファクターを特定用途に利用するための、インプラントみたいなものかもな」
祈りのような技法は、個人によってうまく使えない人もいるだろう。実際、俺たちは、未だそれに成功していない。
社会が高度化しているとするなら、そういう人たちのための救済策があるはずだ。それがスキルの本質なのかもしれない。
俺たちが何でこんな話を、遠い目をしながら語り合っていると思う? ――そう、俺たちは少しだけ逃避していたのだ。
まず、「そこのDファクターくん。ちょっとその石を転移石にしてくれないかな」だと、夢の中の転移石が出来た。
ここまではいいだろう。俺のイメージの中の転移石が、思い出した夢の中の転移石に引っ張られたからだと推測できる。
だから、転移石(真)のために、まずやらなければならなかったことは、Dファクターくんに転移の何たるかを教えることだった。
「転移とは、使用者が指定した場所へと、時間の経過なしで移動することだ」
決して石自体が移動することじゃないんだ。
そして、今いる位置から数メートル先の位置へ移動する設定にした。
いくら代々木の一層とはいえ、いきなり入り口付近に移動したりしたら、探索者に目撃されることは間違いない。それは避けたかったのだ。
そう定義してできた転移石は、見事に俺を指定した場所へと移動させた。ただし、俺だけを。
三好でテストしていたらと思うと、ぞっとしたような惜しかったような……つまり、俺はすっぽんぽんだったのだ。
この時ほど、早着替えの練習をしておいてよかったと思ったことはなかった。
「――見たか?」
「ええっと……まあ、ほら先輩。毛がなくならなかっただけよかったじゃないですか」
「なんだよ、そのネタ! 最初から階段の真下に設定してたらと思うと、ぞっとしたぞ! バナン師だって、服は着てただろ!」
そこで、使用者とは何かという、ある程度厳密な定義が必要になった。
「身に着けている物全部、じゃ、荷物が置いてけぼりになりませんか?」
「しかし、どこまでが荷物なのかという汎用の定義は難しいぞ」
「使用者が触れているものとか?」
「足の裏が地面に触れていると認識されたら、ダンジョン毎転移することになるかもな」
「それはそれで見てみたいですけど……じゃあ、直接触れている物?」
「服の上からつけた皮の鎧が置いて行かれるのが目に見えるようだな」
「壁に手をついていたりしたら、足の裏とおんなじ目にあいそうですしねぇ……じゃあ、使用者以外に接していないもの、とかどうです? ただし履物は除く」
履物は地面に接触しているもんな。
「持ち上げることが可能な荷物ってことか。……だけどそんな定義にしたら、泥棒の天国になっちゃうぞ」
「泥棒?」
「転移する奴の荷物に手を触れとけば、そいつは荷物を残して転移しちゃうだろ?」
「なるほど。それだと所有権なんて概念も教える必要があるってことですか?」
「所有権の定義は難しいぞ。なにしろ法廷で争われることが未だに絶えていない」
「なんだか、考えるたびに教えることが級数的に増えていきませんか、これ?」
三好は呆れるようにそう言った。すでに放り出しそうな勢いだ。
「ここは、もっとシンプルに考えようぜ。致命的でない問題の回避は、あとで修飾すればいいだろ」
「じゃあ、移動したとき同時に移動するもの全体、とか?」
「いや、さっき三好が言ったバダン氏にならおうぜ」
「それってつまり、転移時に自分が転移させたいと考えているものを対象にするってことですか?」
「移動先の空間に収まらない物は除外する、で、いいんじゃないかと思うんだよな」
「それって、DPハウスみたいなものも一緒に転送できちゃうかもしれませんよ」
「便利だろ?」
「そうですけど……こんなちっこい転移石一個で、そんなことが可能なんですかね? Dファクターをエネルギーだと考えれば、そんなに多くの量が含まれているとは思えないんですけど」
「さっき、ダンジョンの向こうの世界じゃ、スキルってのはDファクターを特定用途に利用するための、インプラントみたいなものかもって言っただろ」
「はい」
「だから、こいつは、電化製品のスイッチみたいなもんなんじゃないかと思うんだ」
「スイッチを入れたら何ができるかは決まっているけれど、エネルギー自体は、コンセント――つまり外部から持ってくるってことですか?」
「そうだ」
「でも先輩、それって、ダンジョンの外でスキルが使えるってことは――」
「もうじき4年も経つんだぞ? 濃度にもよるが、地球がそれなりに覆われていてもおかしくないだろ」
とは言え、これをダンジョンの外で使うためには、それなりの数の魔結晶が必要になるはずだ。今のところは。
いずれそれなしで可能になったとしたら、旅客を対象とした航空会社は立ち行かなくなるかもしれないが。
「まあ、やってみればわかりますか……」
三好は、何かを考えるようにそう呟いた。
「ただ、自己責任とは言え、自分の頭を転移前の空間に置いてきちゃう可能性を考えるとぞっとしませんね」
「車の運転と大差ないさ」
自分で車を運転して事故を起こすかどうかは、所詮は自己責任だ。車メーカーはそれを補償したりしない。
「違いますよ」
「どこが?」
「他人の頭を除外して転移させることができそうなところ、ですかね」
そうか。今の定義だと、三好が俺の頭を残して他の部分を転移したいと考えればそうなるのか。
「怖いこと言うなよ、ビビるだろ」
俺は顔を引きつらせながらそう言った。
「まあ、そういう部分は後々修飾して禁止するとして、まずは使用者の一部は残せないって設定で事故だけは防ごう」
「了解です」
そうして数々の試行錯誤を経て作られた、転移石(真)ver.4.02 は、ほぼ期待通り動作したのだ。
「これ、転移先もその時に決められたら便利ですよね」
自分でも使ってみた三好が、そんなことを言い始めた。
「すでに帰還石じゃなくて、交通手段と化してるな」
俺は苦笑しながら、その内容を否定した。
「試しに作ってみることくらいはしてもいいが、ちょっと事故が怖いな。第一転移先をどうやって決めるんだ?」
「フィクションだと、風景とかのイメージですかね?」
「実際に行ったことがある場所で、その地球上の位置を本人がある程度認識していれば、あとはDファクターくんが勝手に忖度してくれるかもしれないが……」
「なんです?」
「ストリートビューで見た場所へ行こうとして、パソコン内に転移したりしたら嫌だろ?」
「物理的に?」
「物理的に」
確かにそれがある場所は、パソコンのメモリの上なのだ。
パソコンと融合した人間――グロすぎる。
「二つ以上のことを同時に細かく考えられる人間は、意外と少ないぞ」
聖徳太子はともかく、人間は基本的にシングルタスクだ。
二つ以上のことを同時にやろうとすると、効率が著しく落ちたり、脳に負担がかかることが知られている。
転送させる自分の領域を明確に意識しながら、跳び先のことまで同時に考えるのは危なすぎるだろう。
「ところで、テストはいいですけど、これ、どうするんです?」
三好は、机の上に積まれた ver.4.02 を指さして言った。
「いままでのバージョンは怖いから始末したいんだけど、始末する方法がなぁ……保管庫の肥やし?」
砕いたら、そのかけらの一つ一つに同じ力が宿っていたりしたら頭が痛い。単純なスイッチだとしたら、ありえるかもしれないのだ。
「そんなの、Dファクターくんに、『ありがとうもういいよ。元の石に戻って』っていえばいいんじゃないですか」
「おお?!」
俺は、目からうろこがぽろぽろ落ちた気がした。
もしもそれが本当に可能なら、Dファクターは、再利用が可能な何かって可能性がある。
「それで、今までのバージョンは石に戻すとして、4.02はどうするんです?」
「石に戻すよ。でもって一層の入り口にほど近い、人のいない広場を設定して、4.03を作る」
「それってまさか……実用化しちゃうんですか? これを?」
三好が信じられないと言った様子でそう言った。
気持ちはわかる。なにしろ安全対策は最低限のものしかついていないし、研究者とかならともかく、一般人相手に使わせられるような代物ではないのだ。
「実際に使ってみないと問題点も明確にならないし、三代さんと小麦さんに、テストを兼ねた緊急避難用に渡すくらいなら平気だろ?」
彼女たちは、今でもそこそこダンジョンに潜っていて、二十一層のDPハウスの補給に行くと、そこには宝石の原石がなんというか、積み上げられているのだ。
小麦さんは、自分がものすごく気に入ったものだけは、例外的に持ち帰っているらしいが、それ以外はここに整理して置いているようだった。何しろ数が多くて、自分たちで持って帰るのは無理そうだったかららしかった。
どうやら、小麦さんはDPハウスにこもったまま、アヌビスたちを放し飼いにして、目の前に現れる宝石の原石を喜んで整理しているというのが実情らしい。
もしもこれを使うようになれば、戻ってくる時間分で、さらに狩りを続けることができてよろこぶだろう。三代さんはどうだかわからないが。
「確かに、DPハウス前に転移石のポイントを作ったら、補給が楽ちんになりますね」
「それもある」
「だけど、一度立ち会いの元で、使ってもらった方がいいですよ。だって、言っても信じられませんもん、これ」
俺たちは、三十一層から一層への転送で、それが現実に存在している現象だと知っていたからマヒしていたが、冷静に考えれば、ここで行っている実験そのものが、フィクションに登場するマッドサイエンティストのやってることに匹敵するような、控えめに言っても頭がおかしいと言われそうな内容だ。
「うーん。確かにそうだな」
使用者の範囲の決定は、疑心暗鬼の状態で、適当に設定されたりしたら危険がありそうだ。
「後は、鳴瀬さんにも渡してみようと思うんだ」
「え?」
「驚くなよ。ホウレンソウは大切だろ?」
三好が、俺の嘘くさいセリフに目をすがめた。
「……そのこころは?」
「彼女に知っておいてもらうと、いざと言うとき話がスムースに進むんだよ」
「いざってなんです?」
「なんだろうな?」
でも、またまた、面白いリアクションを見られそうですよね、と三好が、シシシシとケンケン笑いをしていた。
それ、悪役に見えるからやめた方がいいぞ。
「祈りで作れるようになったら、もっとこう、融通が利きそうなものが出来そうなんだけどな」
結局、三好は、今回、祈りをどこへも届けられなかった。
「結構真摯に祈ったつもりだったんですけどねぇ……」
俺たちは、その場を簡単に片づけて、帰り支度を始めた。
「そうだなぁ。ビル・エヴァンスが祈ってるみたいに見えないか?」
「下向いてるだけに見えます」
「じゃあ、キース・ジャレットが――」
「首振りまくって、インイン唸ってるだけに見えます」
「な、なら、グレン・グールドが――」
「気持ちよさそうにふんふん歌ってるだけに見えます」
「さいで」
斎藤さんつながりでピアニストに例えるの失敗。
「いっそのこと佐山さんにコツを聞いてみるとか」
「コツですか?」
「だって、世界中で、これを体現したのは今のところ佐山さんだけだぜ。たぶん無意識でやってて、何にも覚えてないだろうけど」
「それで、どうやってコツを教わるんですか」
「だよなぁ……」
そこで三好は手を上に上げて、ぐっと背を伸ばした。
「まあ、そのうち出来るようになりますよ、きっと。ところで先輩」
「なんだ?」
「ファントム様の格好のままですけど、いいんですか?」
「おお!」
早着替えをした時に、対象がファントム衣装しかなかったので、そのままだった。さすがにマントと仮面は外したが。
俺は、保管庫にしまった初心者セットを対象に、もう一度早着替えを行った。
「さすがにうまくなりましたよね、それ」
「練習したからな」
「私も、祈りがうまくできるようになったら、『祈り読本』とか書いちゃいますよ!」
「そりゃ、ベストセラーは確実だな」
なにしろ出来ないと、一歩劣った立場にされかねないのだ。本当に普及したら、基礎教育並みに真剣になるだろう。
「でも、あれですよね……」
「なんだ?」
「これがもしも大流行りしたりしたら、探索者全員が怪しげな宗教にかぶれたみたいに見えて、既存の宗教が反発しませんか?」
探索者がダンジョンの中で、みな一心に何かを祈っている……確かに外側から見ればそんな感じに見えるな。
だが――
「ま、問題ないだろ」
「なんでです?」
「いや、宗教ってやつは、歴史的に見ても相当に厚顔だろ」
土着の宗教を取り込みながら、自分たちの教義に置き換えて行く布教手法は普通に行われていた。おかげで神話がややこしいことになっているのだ。
だから、今回の祈りも、『自分たちの神』に祈っていることにされるだろう。
自らの中の神のような存在と、自分たちの神の間には、深くて長い川が横たわっているのだが、きっとそこには、さりげなく橋がかけられるに違いない。
「きっと、自分たちの神に祈ってることになるはずさ」
「でも、もしも既存の宗教の神様に祈りを捧げたとしたら、効果が出ないんじゃないかと思うんですよね」
「なんで?」
「そういう祈りって、システム化されてません?」
「ああ、念仏みたいな感じで」
「そうです」
そういう神様を本気で信じている人なら別だろうが、そんな人間が現在の地球にどのくらいいるのだろうか。
「じゃ、三好がうまくいかないのも、その影響?」
「実に忸怩たる思いってやつですけど、その可能性は結構あると思います」
意識して行う祈りは、祈る対象がはっきりしないと難しい。しかしその対象を心の底から信じているかと言われると……
「祈りって、捧げる対象がいるからなぁ」
「自らの内なる神って言われても困るんですよ」
「信仰が、かけらもなさそうな俺達じゃダメかもな」
祈りってなんだ、だとか、信仰ってなんだ、だとか、神学の世界の話のようにも思えるが、これはもっとプリミティブな領域の話なのだ。
単に言葉が同じだと言うだけで。それが、この問題を面倒にしているのだが……
「祈りを捧げる対象って、ダンツクちゃんなんですかね?」
突然三好がそう言った。
自らの内なる神に祈った内容は、自らの心の底からの願いだろう。それをダンツクちゃんが拾い上げてDファクターを操作するというのは一つの考え方だが――
「Dファクターはもっと自律的に活動している感じに見えるけどな」
三好が静かに何かを考えながら、ふと言った。
「先輩、あの花園のこと、覚えてます?」
「三十一層のか? もちろんだ」
「あそこにあった、彼女が手入れしていた花って、アイリスとスノードロップでした」
「それが? 小説の中にも出てきてたような気がしたけど、だからじゃないの」
「どっちも花言葉は『希望』なんですよ。偶然かもしれませんけど」
「へぇ」
「そして、枯れてた木は、トゲの感じからサンザシでした」
「……まさか、それの花言葉も?」
「『希望』なんですよ」
希望を表す植物たちが枯れ果てた庭で、それを手入れしている少女、ね。
「ダンツクちゃんは孤独なんですかね」
俺は、通常、物事を擬人化しすぎるのは危険だと思っていたが、彼女の言うことは、なんとなく腑に落ちた。
「人類とお友達になる『希望』がダンジョンだっての?」
「わかりませんけど」
孤独なら、俺たちのところへ遊びに――
くればいいのにと言おうとして、俺はふと思い当たった。もしかして、夢の美幼女は彼女だったのでは? あれは、ただ遊びに来ただけなのでは?
迂遠なやり取りを繰り返してすれ違うって、どんなラブコメだよ。
179 帰還石 3月2日 (Sat)
それから二日間、三好は一層で祈りの練習を、俺は、探索者に出会わないように注意しながら、二十一層のDPハウスの補給と拠点の裏を転移ポイントとしてマークするために、ダンジョンの中を疾走していた。
鳴瀬さんたち、日本ダンジョン協会のダンジョン管理課は、セーフ層の入札処理で無茶苦茶な忙しさのようで、月末はうちの事務所に姿を現さなかった。
そうして、大方の準備が終わった土曜日。
ぐずっていた天気がきれいに晴れ渡ったその日、数日ぶりに鳴瀬さんに会った。
しかも場所はうちじゃなく、代々木ダンジョンで借りているブートキャンプのバックヤードだ。土曜日だというのに、三好が連絡して呼び出したのだ。
「今日はどうしたんです、こんなところで?」
「お忙しいところすみません」
「いえ、むしろ呼び出していただいて助かったと言いますか……」
鳴瀬さんは、苦笑しながら言った。
「もう、嫌がらせかと思えるような数の申請が届いていて、朝から朝まで書類とにらめっこですからね。普通の業務なんか全然できないんです」
セーフエリアの入札は、日本の組織に限定できなかった結果、世界中の国家や企業や個人から入札があったらしい。
オンラインの申請には、嫌がらせのような数の申し込みがあったそうだ。
「すべての区画に入札する組織が、ものすごい数あるんですよ? もしも全部落札出来ちゃったらどうするつもりなんでしょう」
「転売するんじゃないですか?」
「そこは、ちゃんと転売禁止の項目が設定されています。貸与もできません」
「それでも、他の組織の研究者を迎え入れることはできるでしょう?」
「それはまあ……」
その組織の交流もあるだろうから、一律に禁止することは難しいだろう。
「入札なんですから、単純に、示された金額が高い順に決まるんじゃないんですか?」
「そんなことをしたら、ほとんどの区画が、中国とアメリカで埋まりますよ。のこりは企業連合と、マスコミでしょうか」
「マスコミ?」
「オリンピックの放映権と勘違いしている人たちが多くて。後は、資金が潤沢なネット系ですね」
「ネトフリとか?」
あれをマスコミと呼ぶかどうかは難しい問題だが、情報の配信会社という意味では、そう言ってもいいかもしれない。
連載のドキュメンタリーを配信するのだろう。
「そんな感じです。だから国別の制限や、業種別の制限なんかも設定されているんですが――」
「――皆、その網の目をくぐろうと努力している?」
鳴瀬さんは、なすすべ無しと言った感じで目をくるくるとまわして天を見上げた。
後はもしも抽選になった時のために、ダメもとで凄い数の申し込みをしているのだろう。裁判所の傍聴席みたいなものだ。
「今回はそれを防ぐために、入札保証金といいますか、一種の供託金まで設定したんですけど……」
区画数も大したことはないし、仮に1か所100万円の保証金をとったとしても、100か所で、たったの一億なのだ。
世界でここにしかないチャンスを手にしようという行動を、その程度で抑制できるはずがない。
「そんなわけですから、例えば10か所の領域で、とある業種の企業が合格ラインを越えたのに、業種の制限で5つが落選する場合、落選企業の決定に、その企業の情報が必要になるわけです」
適当に抽選でいいような気もするけれど、やはりテロ組織と関係の深い企業が混じったりすると、三十二層そのものの安全が脅かされるわけで、ある程度神経質になるようだった。
ともあれ、数が多いこともあって、そんなことが頻繁に起こっているようで、区画の決定には、課員総出で何日かかるか分からないありさまだそうだ。
「法務に資料を請求するだけでは?」
「うちも手いっぱいだし、調査部じゃないって断られました」
なんだそれ。地味に意趣返しを行ってるってか?
「え、じゃあどうやって?」
「外部の企業情報信用調査会社にお願いしています。法務がやっても結局同じでしょうし」
「ああ、帝国データバンクとか東京商工リサーチみたいな」
「そうです。クレディセイフやエクスペリアン、あとはD&Bとかですね」
国外の情報には、外国語の資料も多く、それも難航している原因のひとつのようだった。
「芳村さんも三好さんも、外国語に堪能ですよね? バイト――」
「しませんよ! 話せることと法的な書類を読むことの間には、ものすごーーーーく大きな違いがあるでしょう!?」
第一、そんな重大な守秘が必要な選考過程に、部外者が入り込むとかありえない。
鳴瀬さんも疲れてんなと、ちょっとだけ同情した。
「はぁ……そりゃそうですよね。それで、今日はいったい?」
「ええっと、実は――」
俺たちは、この数日の間にあったことを、かいつまんで鳴瀬さんに説明した。
初めは笑顔で聞いていた鳴瀬さんだったが、話が進むにつれて徐々に表情が抜けていき、最後は能面のようになっていった。
「――と、いう訳で、これが『帰還石』です」
俺は、ただの石ころにしか見えないそれを、いくつかテーブルの上に並べて置いた。
その話を最後まで聞いた鳴瀬さんは、案の定、石になっていた。
「鳴瀬さん?」
「――すみません、意味がちょっと」
彼女は頭痛をこらえるように、こめかみに両手の人さし指をあてて強く揉んだ。
「転移する?」
「そうです」
「がんの話ですか?」
「違います」
「引っ越しの話?」
「それは移転」
「典薬寮のお医者さんとか?」
「違います」
「あ、そういえばお借りした、応天の門、面白かったです」
「でしょう。って、それは関係ありません」
「……それじゃあ、転移って、こっちで消えてあっちに現れる、あの転移のことですか?」
「そうです」
「人間が?」
「そうです」
「蠅男になったりは?」
「しませんね。いまのところは」
「芳村さん……なにか変な薬でも――」
「やってませんから」
そのやり取りを、くすくす笑いながら見ていた三好が、俺たちの会話に割り込んだ。
「まあ信じられませんよね」
「はぁ」
「だから、今日はここまで来ていただいたんです」
そのセリフを聞いた鳴瀬さんから、微かに血の気が引いた。
「まさか……」
「では、まいりましょうか――」
そう言って、俺と三好はおもむろに席を立った。
「ちょ、ちょっと待って――」
俺と三好は、ミュージカルを演じる役者のように声をそろえて言った。
「「――ダンジョンへ!」」
、、、、、、、、、
鳴瀬さんは、代々木の一層へ引っ張られて行きながら、未だに腰が引けていた。
「あ、あのー、芳村さん? 私は別に体験しなくても……ほら、バンジージャンプも、絶叫系マシンも、できるところはスルーしてきましたし」
「できないところがあったんですか?」
「そりゃありますよ。企画屋みたいな先輩が、絶叫系マシンに乗せてみました、みたいな、頭の悪そうな企画を持ってくるんです」
「はぁ」
「そういうのって、大抵スタッフの同調圧力が強くって……断ると空気読めない女扱いされますから」
「ミスも大変ですね」
「ええ、まあ……って、なんで知ってるんです?!」
「日本ダンジョン協会のプロフィールに書いてありましたよ」
「ええ……あれ、まだ残ってるんだ」
まあ、もういいかげん何年も経っているから、その経歴を生かす職業についているならともかく、本人にとってはすでに黒歴史なのかもしれなかった。
「この辺でいいんじゃないですか?」
そう言って三好が立ち止まったのは、すぐに行き止まりになる通路だった。
転移先は、少し先にある広めの部屋だ。ここからなら、10メートルちょっとといったところだろう。
「本当にやるんですか?」
「まあまあ、開発者以外では、世界で初の転移体験ですよ? 民間の宇宙旅行よりもずっと希少ですから」
「ええぇっ……」
成層圏の少し先くらいまで行くことを宇宙旅行と呼ぶのなら、誰でもそれを体験できる時代はすぐそこまで来ているだろうが、例え数メートルと言えども転移が体験できる時代は、少々時間が経ったところで普通は来ない。
そういう意味では確かに希少な体験だ。見た目や体験としては圧倒的に負けている気もするが。
「じゃあ、三好は転移先のポイントで待機してくれ。そうだな。時計を合わせて――3分後に転移する」
「了解です」
「芳村さぁん……」
「大丈夫ですよ。俺も、三好も、何度も実験しましたから」
「ほんとに?」
「本当です」
俺は彼女に、帰還石を渡した。
「合図をしたら、それを『使おう』って、意識してください」
「ええー」
「そして、これが重要なんですが、自分が転移させる範囲を自分でしっかりと意識してください。髪の毛も忘れずに」
「忘れたらどうなるんです?」
「えーっと……なくなる?」
「あるじゃないですか! 危険!!」
「ま、まあ多少は。でもちゃんと意識すれば大丈夫ですから」
「ええー?」
「はい、あと10秒です」
「え、ちょ、ちょっと」
「転移する領域を意識してください。いいですかー」
彼女は覚悟を決めたような顔をして、自分の体のあちこちを見回したり手で触ったりしていた。
「3・2・1、どうぞ!」
そう言った瞬間、彼女の手の中の石が淡く輝き――彼女はその場からいなくなった。
すると、すぐに、10メートルちょっと先から、驚く声が聞こえてきた。
「うそっ!」
三好が向こうで、俺がこっちにいる理由は、最初に俺がやらかした、俺だけの転送が再現された時の保険だ。
その時俺が向こうにいたりしたら、ラッキースケベでは到底すまない、ちょっとした大惨事になるだろう。
俺は、その声を聞いて、ゆっくりと転送地点へと歩いて行った。
、、、、、、、、、
「どもー。いかがでした?」
「感覚としては、目の前にいた芳村さんが、一瞬で三好さんに入れ替わったって感じですけど……」
代々木一層の背景には、それほど明確な違いがない。
もちろん向こうは通路の一部だし、こちらは部屋なので、形は大きく違うのだが、背景のテクスチャーに大きな違いはないってことだ。
「体験しておいてなんですが、いまだに信じられません。実は手品だと言われたら、その方を信じそうです」
「まあ、数メートルですからね、変化も少ないし。では、一度体験して慣れたところで、次はこれを」
俺はそう言って、白い丸が付いている石を鳴瀬さんに渡した。
「え、まだやるんですか?」
「これが本番ですよ。じゃあ、三好、よろしくな」
「了解です」
そう言うと、三好は、自分の影にいるアルスルズを全員呼び出した。
事務所にいるグレイシック、俺の影にいるドゥルトウィン、そしてキャシーのところにいるグレイサットを除いた、カヴァスとアイスレム、それにグラスだ。
結構広い空間なので、三匹ともこの部屋に収まっていた。
俺たちが転移石を使った場合、一般の人間には関係のない、小さな問題があることが明らかになっていた。
それは、影の中にいるアルスルズたちを置き去りにしてしまうという問題だ。
空間をまたがない場合、つまり、一層から一層への転移の場合は、彼らは影を渡って追いついてくるが、空間をまたぐ場合、つまり違う層へ転移した場合は、転送前の層に置き去りにされるのだ。
連れていくには、一緒に転移するしか方法がなかった。
それが出来るなら、パーティ全員で同時に転移することも可能だろうと思うかもしれないが、それは許可していない。
どの人間を使用者だとみなすのかの問題もさることながら、三好が言った、俺の体だけの転移を避けるためだった。これは残念だが仕方がない。防げない殺人は、最初から避けなければならないのだ。
「じゃ、行ってきます」
そう言った瞬間、三好とアルスルズたちは消えていなくなった。
それを見ていた鳴瀬さんは、感嘆の声を上げた。
「目の前で見ていると、まるでSF映画ですね」
スタートレックなんかの転移は、それっぽいエフェクトが付いているが、転移石のエフェクトは石が淡く光るくらいで、転移自体にエフェクトはない。
まるで、媒体がまだフィルムだった時代の、SF研あたりが制作した、自主製作特撮みたいな感じだ。あ、それでもフィルムを削るくらいのことはやってるか。
「じゃ、次は、鳴瀬さんです。転移先には三好がいますから、安心して転移して下さい」
「はぁ」
彼女は一度体験したことで、少しは慣れたのか、自分のタイミングで転移していった。
彼女が消えた空間で、何か忘れ物はないかとしばらくの間確認しつつ時間をつぶしてから、俺はドゥルトウィンを呼び出して、一緒に二十一層へ転移した。
、、、、、、、、、
転移先では、鳴瀬さんが、茫然と丘の下の湖を見ているのを、三好が面白そうに眺めているところだった。
「よし、みんな無事に転移出来たな」
三好は、俺が来たのを契機に、DPハウスへ入って行った。先に補給を済ませるのだろう。
「ここって、もしかして――」
鳴瀬さんが反対方向に広がるオレンジの森を振り返りながら言った。
「――二十一層なんですか?」
「そうです。最初にお見せしたとき、行きたいっておっしゃってましたよね」
「それはまあ、そうなんですが……」
彼女はそこに建っているDPハウスを見上げて、もう一度反対側の湖を見下ろし、さらにもう一度オレンジの森を見た。
「もうなんていうか……目茶苦茶ですね。まるで、アニメや映画の世界のようです」
「ダンジョンそのものがそんな感じですから」
「はぁ」
三好が、ひょいと顔を出すと、声をかけてきた。
「先輩。一応ここは二十一層ですから、ぼーっとしてると危ないですよ。中へ入りませんか?」
どうやら補給は終わったようだ。
「そうだな。トンボが飛んで来たら厄介だからな」
周囲の掃除はアルスルズたちがやっているが、二十一層には空を飛ぶモンスターがいる。
奴が遠くから飛んでくるのは、そう簡単に防げないのだ。
俺は、鳴瀬さんと一緒にDPハウスの中に入った。
中央のソファーに腰かけて、当初はぼうっとしていた鳴瀬さんも、三好がコーヒーを淹れ終わるころには復活して、興味深げに部屋を見回していた。
「どうでした?」
「とても現実のこととは思えませんでしたが……ダンジョンの探索にはものすごく有用ですよね。特にセーフエリアの活動が始まる今は」
長く危険な道のりを行かなくても、瞬時にセーフエリアまで移動できるのだ。
隣の研究所に行くような気軽さで、セーフエリアの施設を利用できるようになるだろう。金銭的にも人的にも、コストは劇的に下がるはずだ。
「だけど、これ、説明をお聞きした限りでは、ダンジョンの中なら、他人の所有物を盗み放題ってことになりませんか?」
実際、鳴瀬さんの言う通りで、ものに手が触れられさえすれば、それを伴ってテレポートできるのだ。同じ石を持っていない限り、追いかけることすらできないだろう。
「しかも、ですよ? もしかしたら、帰還石と魔結晶があれば、ダンジョンの外でだって、置き引きや万引きはもとより、泥棒行為をし放題ってことになりませんか?」
「人間にも適用出来たら、誘拐もし放題ですね」
三好が余計な一言を付け加えると、鳴瀬さんは、大きなため息をついた。
「体験させられても、まだ、信じられませんが――」
彼女は、自分の目の前に置かれた、少し平べったい石ころを見つめて、言葉を継いだ。
「――もしもそうだとしたら、人の社会は、これを受け入れる体制になっていないと思います」
その驚異的な実用性を試してみた後でも、彼女ははっきりとそう言った。
そういうバランス感覚が、鳴瀬さんの優れているところだ。ぜひそのままでいて、俺たちが暴走しそうになったら止めていただきたいものだ。
「それはまあ、今までは不可能だったことを可能にするアイテムですから」
現在の社会は、それを利用することを前提に設計されていない。だから、問題が出たとしても当然だ。
それが、〈保管庫〉や〈収納庫〉を公開できない最大の理由だし。法にも倫理にも違反どころか抵触さえしていなくても、誰かが扇動する大衆の妄想やイメージだけで抹殺される――そういう時代なのだ。
ただ、あちらは個に属しているプロパティだけれど、こちらはアイテムだ。
偽装ホイポイと同様、個から切り離せるという点で、公開が可能だった。
「その反面、これが普及したら、セーフエリアの活用は飛躍的に進むでしょうし、それに、ダンジョンで死ぬ人の数はものすごく減るんじゃないかとも思います」
そう。そこが悩みどころだ。
魔法のように便利なものは、魔法のように悪をなせる。だが、魔法のように世界に福音をもたらすこともできるのだ。
「世には出さずに、死蔵するべきだと思いますか?」
そう訊くと、鳴瀬さんはしばらく考えた後、首を振った。
「仮に今そうしたとしても、知ってしまった以上、それを使うことを我慢できるとは思えません」
彼女はため息を一つついて行った。
「これがあれば助かっただろう人の、死亡報告が積みあがるのを見れば、なおさらです」
ダンジョン管理課は、その現実を直接見る部署だ。
公開していれば助けられたはずの人の死亡報告。まともな神経なら堪えるだろう。
「最初は損耗率がそれなりに高く、規律があって管理がしっかりしている組織――例えば、軍などへ提供していくのはどうでしょう?」
「軍ですか……」
俺は少し躊躇した。
「例えばダンジョン攻略局のような専門の組織ならともかく、大きな枠組みで『軍』なんてところに提供したら、別の用途に使われませんか?」
「先輩。4.03は転移先が石によって固定ですから、そういう恐れは少なくないですよ」
「ああ、当初の予定通り、転移石じゃなくて帰還石としての利用に限定するわけか」
「え? もしかして、任意の場所に転移できるんですか?」
鳴瀬さんが驚いたように言った。
最初の説明が帰還石だから、拠点となる場所に帰還するだけだと考えていたようだ。
しかし、転移できる場所が任意だとすると、さらに想定される面倒の数が跳ね上がる。
「え? ええ、まあ……転移先の登録には結構な問題や制限があるのですが」
三好、お前わきが甘いぞ。いや、俺もなんだが。
「じゃあ、当面は代々木専用のアイテムにして、特別な位置への転移装置として利用するのはどうですかね?」
三好が、自分のカップを持ち上げながらそう言った。
「一層と十八層と三十一層か?」
三十二層へ直接ジャンプするより、三十一層の広間から階段を使わせた方が、巨大な何かをいきなり持ち込んだりできない分、安全性が高まるだろう。利便性は少し犠牲になるが。
「緊急避難用なら一層だけで十分でしょうし、十八層と三十一層へ行く石は、日本ダンジョン協会が特別に管理して、使用確認付きで販売するって感じで」
「帰還石は普通に販売して、下りる方は日本ダンジョン協会の監視付きで使用させるってことか」
「そうです。ついでに販売バージョンは、代々木から離れるとゴミになるって機能が組み込めれば、一般社会での悪用もできなくなりますよ」
「帰還石は銃器と同様日本ダンジョン協会に預けるってことか」
「です」
「悪くないな。日本ダンジョン協会の負担が少し増えるかもしれないが」
銃器を預けるやつはそれほど多くないだろうが、帰還石は、価格にもよるが、おそらく全員が利用するようになるだろう。
それを聞いた鳴瀬さんは、慌ててそれを否定した。
「え、すぐは無理ですよ。それって絶対ロッカーが足りなくなります」
「いや、そこは大丈夫でしょう」
「え?」
「帰還石はどれも同じですから、預かる場所は1か所にまとめて、後は探索者IDと預かっている個数だけ記録すればいいんですよ」
それを受けて、三好が、「言ってみれば銀行方式ですね」と言った。
預金者の預けた1万円札と引き出す1万円札は、同じ1万円でありさえすればそれで構わない。同じ札である必要はないのだ。
帰還石も使用期限がなければ同じだろう。
「なるほど」
「だけどこれ、セーフエリアへの超特急チケットなんて名前で売りだしたら、今ならがっぽり儲かりそうですよ、先輩」
「お前な……」
先に出た日本ダンジョン協会が管理するシステムで、先日まで危惧していた問題は大分解決するだろう。そのためか、三好は早速そろばんをはじいている様子だ。
確かにあの方法なら、ダンジョン内の盗難以外は解決できるように思えた。
それに、セーフエリアに領域を確保するような団体は、金を持っているだろうからなぁ。少々高価でもバカ売れしそうではあるが……
「まずはインフラを整えないとダメだろ」
それを聞いて、鳴瀬さんが不思議そうな顔をした。
「インフラ? ただ転移するだけじゃないんですか?」
俺たちはそこで、転移のためのインフラについて、鳴瀬さんに説明した。
彼女は、それを丁寧にメモしながら聞いていた。
「つまり、登録したポイントに転移するため、そのポイントに出現した人間は、すぐにそこから離れて指定されたエリアの外へ出る必要があるってことですか?」
「そうです。同じ場所にいると、次に転移してきた人と接触する事故が起こるかもしれません」
実際は転移先に障害物があった場合、転移に失敗するようになっているが、あまり厳密にやると、緊急時には致命的な失敗となりかねない。
だから転移先にはある程度のマージンがとってあって、その中で重ならない領域へ転移するようにはなっていた。
とは言え、多くの人間が同時に転移してきたりした場合、どうしても失敗する例は出てくるだろう。つまり、利用者は、転移後なるべく素早く転移ポイントから外に出る必要があるのだ。
「転移ポイントを明示した何かが必要だと」
「そうしないと、間違ってそこを塞いじゃうかもしれませんからね」
「故意に転移ポイントを塞いで、転移を妨害するとかは……」
「現時点では可能です。そういう細かな運用上の問題を、ひとつひとつ潰しながら、インフラとしての精度を上げていく必要があるわけですよ」
駆け足で適当に作ったものが、そんなに完璧になるはずがない。
もっともこの場合、転移ができるというだけで、少々の面倒や不具合には目をつぶってしまうほどの性能があるわけだが。
「もっとも最大の問題は個数でしょうね。そんなに多くは用意できませんよ」
「そうでしょうね。すると価格も高額になりますね」
「原価で言うなら、ほぼゼロなんですけどね、これ。帰還石なんか、ほとんど先輩の時給だけですから、1000円ってところですか?」
「俺の時給ってそんな安いワケ?!」
いや、アルバイトだとすれば、なかなかの高時給と言えるかもしれないが、大手企業の正規雇用者だとすれば、年齢的にも時給3000円くらいは普通だろう。
もっとも正規雇用でも、ブラックな部署で働く時間が長くなり、挙句の果てに残業手当がつかなかったりすると、時給に換算したら三百円だったなんて笑えない状況も時折は生まれたりするのだが。ちくせう。
「い、いやだなぁ、先輩。一時間でもっとたくさんできるじゃないですか。だから一個あたりに換算した値段ですよ。先輩の時給はすんごい高いですよ!」
「三好。フォローがずさんすぎる」
「時給って……これ、芳村さんが作られるんですか?! どこかで採取するとかじゃなくて?」
「Oh……三好、わきが甘い」
三好が、てへっというポーズを取りながら、小さく舌を出した。こいつ、もしかして、わざとやってるんじゃないだろうな。
いくら鳴瀬さんが、俺の正体を知っていると言ってもな……
「よ、芳村さんが転移魔法を込める……とか?」
「そんなことができるなら、こんな石はつくりませんよ」
転移魔法ってなんだよ。そんなものが使えるなら、転移石なんかつくらないよ。
「そういうわけなので、問題は価格より数ですね。こればっか作る人生は嫌だし」
「先輩、最近そういう心配が多いですよね」
「ほっとけ」
「価格については、犠牲者を減らしたいという鳴瀬さんの考えを尊重するなら、帰還石を安く、転移石18と転移石31を高額に設定すればいいだろ」
「いいんですか?」
「俺たちだって、代々木の犠牲者は少ないほうがいいですからね。その辺は三好と詰めてください。ただ、ほんと、全探索者に出回るほど作るのは無理ですよ、材料のこともありますし」
「材料?」
「内緒ですけど、現在絶賛品薄中の魔結晶が必要なんです」
「ああ……それは」
つくばの事件で、関東圏の市場からは魔結晶が消えている。
今手に入れるのは、なかなか大変だろう。
「近々、もう一度館に行く予定なので、その時にある程度狩れるとは思うんですが」
今度の対象はスケルトンだ。あいつは結構魔結晶を落とす上に数がいる。大量にゲットするチャンスなのだ。
「館? さまよえる館ですか?!」
「はい。ちょっと書斎で待っているという博士に聞きたいことがありまして……なんか聞きたいことがあれば、ついでに聞いてきましょうか?」
「きましょうかって……」
「たぶん、簡単に行けるのは、当面は今回が最後だと思います。だから、本当に聞きたいことがあれば」
「分かりました。上とも相談してみます」
「俺たちが館に行くってことは、今更ですが、内密に」
「分かってます」
「先輩、これが普及したら、八層の豚串屋がヒマになりませんかね?」
「八層くらいをうろうろしている探索者は、一気に十八層に飛んだりはしないと思うが……もしそうなっても、連中なら十八層へ店を出すだろ」
「あー、スポンサーが大きそうですもんね、あそこ」
民間じゃない組織が関わっていそうだからな、あれは。
「じゃ、今日はここへ泊って行きますか? 明日はお休みでしょう?」
俺がそういうと、鳴瀬さんは露骨に肩を落とした。
「泊まっていくのは願ったりなんですが、明日も仕事なんです」
「ご愁傷さまです」
俺は心の底から、哀悼の意を表した。
「あ、先輩! 大変です!!」
「な、なんだよ」
「もしもこれが公開されたら、セーフエリアの荷物運びに時間がかかるからって言い訳が使えなくなりますよ!」
確かにそうだ。ただ、『ヤダ』じゃ納得しない連中は多いだろう。
「そりゃ盲点だったな……『ヤダ』じゃだめだろうな」
「人類に貢献しろとか迫られそうです」
「うーん」
「もう、いっそのことお前が嫌いだから引き受けないって言っちゃいましょうか?」
そりゃ、相手も否定しようがないな。ただの好き嫌いなんだから。だが――
「子供かお前は。いくら面倒でも、そういう角が立ちまくる行動はやめような」
「先輩だけには言われたくないんですけどー」
「俺はTPOをわきまえてるよ。少なくとも、時々は」
「それって、自慢するようなことですか……」
俺たちは、その問題を先送りして、今日のところは鳴瀬さんの二十一層観光に付き合ったのだった。
そうして、その日、俺は夢を見なかった。
180 報告 3月3日 (日曜日)
「おはよう、彩月さん」
日本ダンジョン協会のダンジョン管理部のある廊下で、美晴は、同期の彩月《あやつき》 美玖《みく》に会って挨拶をした。
彼女は商務課の、いわゆる受付嬢だ。
「あら、美晴じゃない。日曜日にどうしたの?」
「彩月さんも出てきてるじゃないですか」
「外国語が出来る人間は総動員されてる感じだもんね。美晴も手伝いに?」
「その前に、ちょっと課長に。出勤されてますよね?」
「あそこで、ぐだぐだになってるわよ」
そう言って、彼女が指さした先には、申請書類の山が作られた島の机で、坂井と並んで、何やら仕事をしている斎賀がいた。
「あーあ、ひな祭りだってのになぁ……」
「課長、独身じゃないですか。なんでひな祭りが関係あるんです? 銀座の娘じゃないでしょうね」
「馬鹿言え、俺の給料でそんなところへ行けるわけないだろ。銀座のクラブで本格的に遊ぶなら、大体年収3000万くらいは必要だって言われてるぞ」
「うへぇ……みんなどうやって遊んでるんでしょうね?」
「ほとんどの連中は、会社の金だろ。働いている連中だって、会社の名刺を欲しがるからな」
「まあ、そういう場所なんでしょうね」
「まあ、そういう場所なんだよ」
くだらないことを話しているようだが、手は凄いスピードで動いていた。
「しかし、なんで、管理職の俺が、申請書類に埋もれてなきゃならないんだ? しかも日曜日だぞ、今日は」
「人手が足らないからに決まってますよ」
「そういう組織って、末期じゃないか?」
「確かに太陽は、マッキッキですよ!」
昨日からずっと処理を続けている坂井が、やけくそのようにそう言うと、斎賀はすまなそうにそれをねぎらった。
「……お疲れ」
それを廊下から見ていた彩月が、美晴に向かって言った。
「ダンジョン管理課って、仲がいいよね」
「まあ、課長があれですからね。商務課も悪くないでしょう?」
「受付嬢の縄張り争いはあるかな」
「そりゃまたなんとも……」
笑いながらそう言って彩月と別れた美晴は、部屋に入ると斎賀の方へと向かって行った。
「何だ、鳴瀬、昨日ちゃっかりエスケープしたんじゃなかったのか?」
「課長、その件でちょっとお話が……」
にっこりと笑う美晴の笑顔を見た斎賀は、厄介ごとの香りをかぎ取って肩を落とした。
「なんだか、申請書類に埋もれてた方が、ましな気がしてきたぞ」
それを見た坂井が、面白そうに逆襲した。
「ご愁傷様です」
斎賀は、まーた、厄介ごとかよと言った雰囲気で、ため息を吐いて立ち上がると、課長室へと美晴を連れて移動した。
「はい、課長。差し入れです」
そう言って、美晴は駅前のスタバで買ってきた、キャラメルスチーマーを取り出した。
「ホワイトモカを追加してありますよ」
「おまっ……なんで知っている」
「以前注文してらっしゃったを見ました」
「これだから観察力のあるやつは……」
斎賀は、見た目はゴツくて左党っぽいが、知る人ぞ知る隠れ甘党だ。
ドトールはココア。スタバはホワイトモカキャラメルスチーマーなのだ。課員がいるときはコーヒーなのが美晴には少し可笑しかった。
美晴は笑いながらそれを斎賀に渡すと、自分はラテを取り出した。
「それで?」
斎賀はそれを一口飲んでから聞いた。
「ほんとうは外に出たかったんですが……この部屋、今、綺麗でしょうか?」
「綺麗って、あれか?」
そう言って斎賀は自分の耳を指さした。
美晴はこくりと頷いた。
「一応、週末にチェックはしたが……」
それを聞いた美晴は、少し斎賀に近づくと、声のトーンを落として言った。
「セーフエリアの開発とも密接にかかわる大問題なんです」
「勘弁してくれ……」
「まずはこれを」
そう言って美晴が取り出したのは、帰還石だった。
見た目はただの平たい石ころだ。
「その石ころが何だっていうんだ?」
「ただの石ころに見えますけど、実はこれ、ダンジョンアイテムなんです」
「それが? どんな?」
「ダンジョン内でその石を使うと、どこにいても一層に戻れるんです」
「は?」
斎賀は自分の耳を疑った。
「鳴瀬。エイプリルフールは、もう少し先だぞ」
「実は、昨日、体験してきました」
「体験って……」
「昨夜泊まったのは、二十一層にあるDPハウスなんです」
そう言って、彼女は見事なダンジョンせとか取り出して石の横に並べ、彼女がスマホで撮影した、二十一層の様子を表示して見せた。
その写真には、三好と美晴が、オレンジの森を背景に写っていた。
「二十一層って、鳴瀬が呼び出されたのは昨日の昼過ぎだろ?」
「そうです。初めは一層で転移を経験した後、二十一層へ転移してそこで一晩を過ごし、朝方一層へ転移して、着替えてからここへ来たんです」
そのあまりの内容に、斎賀は懐疑的な反応を示した。
「すまん。何かの冗談か?」
「だったら平和だったんですが」
「つまり、嘘でも冗談でも、何かの陰謀でもなく、単なる事実ってことか?」
美晴はだまってこくりと首を縦に振った。
「うそだろう……」
ダンジョンは確かにファンタジー世界からやってきたような存在だし、信じがたいが魔法だって存在している。
しかし、よりにもよって『転移』だと? それだけで、地球の常識が三回くらいはひっくり返る。
美晴の言っていることが信じるとしたら――斎賀は、彼女に、体は大丈夫なのかと尋ねようとして思いとどまった。ここで聞いても意味はないからだ。
「課長?」
「うちの指定病院に連絡しておくから、この後すぐに、人間ドックに入ってこい」
「え?」
「もしもお前が言っていることが本当なら、そいつは『転移』の――言ってみれば、人体実験だぞ? 体に影響があるかどうか調べるのは当たり前だろう」
美晴は、さすがは課長、気配り上手、なんて、他人事のように考えながら、三好たちが、それをないがしろにしているとは思えなかった。
実際、芳村たちは、初めての人体実験を自分自身でやったあと、社員旅行から戻って来た常磐ラボに押し掛けて、件のポットで検査をしていたのだ。
それで異常がないことを確認してから美晴に連絡していた。
「ありがとうございます。後で行ってきます」
「で、まさかとは思うが、連中、これを公開する気なのか?」
「課長の危惧はよくわかります。それで、一応、三好さんたちと一緒に、プランを検討してみました」
美晴は、数枚の書類を取り出した。
「鳴瀬・紙シリーズってやつだな」
「せめて、Dパワーズ・紙シリーズと呼んでくださいよ」
斎賀は苦笑しながらそれを受け取って、目を通し始めた。
、、、、、、、、、
「確かに、こいつが普及すれば、ダンジョン内での死亡事故は減るだろう」
斎賀は、読み終えた書類から顔を上げて言った。
「もしかしたら、限りなくゼロに近づくかもな」
ダンジョン内の事故は、代々木だけでも年間1000件に上っている。その中には、当然、死亡事故も含まれていた。
初年度の馬鹿みたいな死亡者数と比べれば、相当減っているとは言え、それでも例年、数十人は犠牲になっていた。
事故死と言う意味では、日本の交通事故の死亡者数は、年間3000から5000人程度だ。東京都だけでも100から150人程度が死んでいる。
それに比べればずっと少ないのだが、なにしろダンジョンの中と言う特殊な領域での死亡は、交通事故に比べればセンセーショナルだ。
そのため、初めは殊更大きく報道されていた。
「だが、今の段階でいきなりこいつを受け入れるのは、無理だな」
斎賀は透明な壁越しに、申請書類を処理し続けている課員たちを指し示した。
「あれ、あとどのくらい続きそうなんです?」
「各区画とも、当選可能な競合組織をリストアップするところまでは自動でやってくれてるからな。後はその企業の調査と当選組織の決定だけだ」
それでも相当な数になっていることは、外の様子を見れば明らかだった。
継続的な需要が見込めない以上、この部分を自動化することは難しい。もしかしたら信用調査会社には、それを行うAIがあるのかもしれないが、ここでは、人の手でチェックするのが一番早い解決方法だった。
「今週中くらいには何とかなる……と思うんだけどなぁ」
「なんです?」
「横やりってのはどこにでもあるもんだろ?」
「大口の開発協賛企業案件ってやつですか?」
斎賀は否定も肯定もせずに、肩をすくめただけだった。
美晴は、斎賀ならそういう雑音は無視して、ルール通りに淡々と進めるだろうと予想していたため、少し意外だったが、他人の職務に口を出すのは悪手でしかない。それぞれ、何かしらの理由があるはずだからだ。
「それに、突然提供を開始するのも難しいな」
安易に発表したりすれば、昔の大人気ゲームの発売日どころではない混乱が発生するに違いない。
下手をすれば、奪い合いだ。カツアゲ事件が起こったところでおかしくはなかった。
もっとも、このレポートにある銀行システムが立ち上がるなら、オンラインで売買して、代々木の受付で入ダン時に受け渡しをするだけなのだが、なにしろ、安全な使用のためには、レクチャーや訓練が必要になりそうなアイテムだ。教育の手間もかかるだろう。
最低でも、詳しい利用マニュアルは必要だ。
「最初は、転移石18と転移石31の販売システムを利用して、『行き・帰り』のセットを販売するのが無難だろうな」
それならいきなり大衆の需要とぶつかることは回避できる。そうして、徐々にその存在を浸透させるわけだ。
「死亡者をできるだけ早く減らしたいのはわかるが、急ぎ過ぎれば逆に事故を増やしかねん。販売側にも習熟が必要だしな」
斎賀は、鳴瀬・紙シリーズの書類を鍵のかかる引き出しに突っ込んだ。
「後は、数量と価格だな。レポートにはなかったが、連中は、これをいくらで売るつもりなんだ?」
「決めていないようでしたが、帰還石はなるべく安く、その分、転移石を高額にしてもらうようにお願いしました」
「――死亡事故防止政策か」
「まあ」
斎賀は、美晴の顔を見て、こいつもいっぱしの職員になって来たなと思った。
「しかし、安く、高くと言ったところで、相場はどうやって決めるんだ?」
「行きは、そこまで行くのに必要なコストの半分程度を考えていらっしゃるようでしたが――」
「そいつはダメだ」
「え?」
「電車だって、特急には特急料金がかかるだろうが。必要なコストの倍くらいでちょうどいい」
「倍、ですか?」
「そうしなけりゃ、護衛を依頼されるはずの探索者の活動にも影響が出るだろ」
新しい何かを導入するときは、既存の経済や社会に、できるだけ急激な変化や影響を与えないように導入するのは当たり前だ。
それを破壊する意図でもない限り。
「それに、時間的な経過も、身体的な負担も、ほぼゼロなんだろ?」
「そんな感じでした」
「なら、倍どころか、5倍や十倍でもおかしくないな」
「ええ?」
「航空機のファーストクラスは、そんな感じの価格設定だろ。あっちはかかる時間は一緒なのに、だぞ」
確かに斎賀が言っていることは間違っていない。
迅速に普及させることが目的なら、安くすることもあるだろうが、現代社会になじませながら導入するためには、価格を上げるほかはないだろう。
例え、守銭奴とののしられようと。
「しかし、これを発表するのが単なる一企業だったりしたら、何の詐欺なのかと訝しまれるだけだろうな」
斎賀は、苦笑いしながらそう言った。
「そういえば、つい最近そんなことをやったパーティがありましたね」
「そういやそうだったな」
どこかのパーティが、スキルオーブのオークションを、三日もかけて行ったっけ。
あれからずいぶん時間が経った気がしたが、実際に経過した時間は、わずか数か月にすぎない。
その間に、ダンジョンを巡る世の中は、激変していた。
「それで、この、代々木を離れるとゴミになるっていうのは、可能なのか?」
もしもこれが不可能なら、ダンジョンの外の社会に与える影響力が大きすぎて、一般への公開は無理だろう。
「今日にでも確認してみるそうです」
「確認、ね」
それはつまり、Dパワーズの連中がこれの調整を行ったり生産を行ったりしているという事だ。
あの連中、神にでもなるつもりなのか。
「それで、このことを知っているのは?」
「今のところは、あのお二人と私たちだけです」
このアイテムには、インパクトがありすぎる。
準備ができるまでは、極秘プロジェクトにする必要があるだろう。日本ダンジョン協会内と言えども、他部署に知られれば厄介なことになることは間違いがなかった。
たかがセーフエリアの区割りと入札ですらこのありさまなのだ。
まだ入荷数すら確定していない奇跡を盾に、変な約束でもされたりしたら、区割り以上に大事になりかねなかった。
さっきまではただの石ころだったものが、不気味な輝きを放っているような気がした。
黙りこんで、帰還石を見つめる斎賀を見ながら、美晴はもう一つの案件を伝える方法を考えていた。
さまよえる館に、タイラー博士に会いに行く件だ。
美晴は、三十一層事件の時、斎賀に提出したレポートにタイラー博士のことを含めていなかった。当時は混乱するだけだったからだ。
そして、碑文の最終ページは翻訳していないことになっているから、彼が書斎で待っていることも斎賀には伝わっていないのだ。
さすがにこの状況で、質問の準備の件を彼に伝えるのは難しかった。
美晴は非常に困っていた。
この話は斎賀までで止めておいてくれと言われたからには、彼には話していいという事だろうが……
「どうした?」
難しい顔をして、考え込んでいた美晴に気がつた、斎賀が不思議に思って声をかけた。
自分が悩むのならわかるが、レポートを持ってきた彼女がそれほど悩むのはおかしな話だったからだ。
「あ、えーっと……」
「おいおい、まだ何かあるのか?」
そう問われた美晴は、面倒は上司に押し付けるという最高のテクを思い出した。この場合の上司は、斎賀ではなくて芳村なのだが。
そうして、心の中で、『芳村さん、後はよろしく!』と、ポーズ付きで叫んでいた。
「課長――」
「な、なんだよ……」
美晴は、ものすごく小さな声で、斎賀の耳元まで寄ってから囁いた。
「――国家の機密を聞く気、あります?」
「はぁ?」
国家の機密だ?
「まずだな。なんで鳴瀬がそんな話を知ってるんだ?」
「なんというか、あそこにいると、いろいろなものを目にすることになるんですよ」
確かにアメリカやロシアのトップエクスプローラーが足しげく通い、裏のマンションは世界中の諜報機関の巣になっていて、にもかかわらず誰も侵入に成功したことがない場所だ。
寺沢から聞いた話じゃ、内調あたりに、世界中の諜報員が次々と届けられ、本国に送り返されているらしい。
一説によると、世界ダンジョン協会による独立国家の設立のための事務局なんて、冗談とも本気ともつかない内容が、まことしやかに囁かれ始めているとも聞いた。
「はぁ……なんということだ。いつの間にか、部下もVIPの一人になっていたのか」
「いえ、そんな大層なものじゃありませんけどね」
「そいつを知らないと、その先の話ができないって訳か?」
「ご慧眼、痛み入ります」
「で、なんだ? それを知ると、命の危険でもあるのか?」
斎賀は冗談めかして言ったが、美晴は至極真面目な顔で、微かに頷いた。
「……冗談だろ?」
斎賀は椅子に掛かっていたジャケットをつかむと、それを羽織って、「行くぞ」と言った。
「どこへです?」
「どこでもいいよ。この話は歩きながらの方がいいだろ」
「ああ」
ここが盗聴されている可能性はゼロではない。
これまでの話は、センセーショナルだとは言え、いずれは公開される話だが、これからする話は、墓の下にまで持って行かなければならないかもしれない話なのだ。
確かにその方が都合が良かった。
「どうせすぐにお昼だろ。昼飯でも食いに行くってことで」
「上司におごってもらうなんて久しぶりです!」
「お前、今年は俺の何十倍稼いでると思ってるんだよ……税理士も紹介してやっただろ?」
「それはそれ、これはこれですよ、課長」
部屋を出ていく斎賀と美晴を、課の連中が生暖かい視線で見送ったことも、「話がすんだら医者に行けよという」言葉を、耳ざとく聞いていた連中がいたことも、彼らはまったく気づいていなかった。
そうして美晴妊娠説が……
181 巻き込まれる人々 3月3日 (日曜日)
外濠公園脇の歩道を歩きながら、斎賀は美晴の話を聞いてめまいがしそうだった。
「ダンジョン発生の原因が……アメリカだ?」
「あくまでも事故だという事ですが」
どんな事故を起こしたら、地球にダンジョンができるというのか。斎賀にはまるで分らなったが、それが公知になった場合の影響だけは想像できた。
「しかも、その実験をやっていたタイラー博士が、先日報告のあったデミウルゴスの影だなんて、一体どんな物語なんだよ……」
この情報を渡したら、寺沢がどんな顔をするだろうかと一瞬考えたが、それは無理だなと思い直した。
あの時、冗談で言った転移魔法が、転移石と言う形で実現されている現状もどうかと思うが、ここまで来たら、もはや小説の世界だ。
「課長、これを」
美晴は、そういえば芳村さんと、この翻訳文の話をしたのもこの辺だったなと思い返しながら、斎賀にタブレットを渡した。
「これは?」
「さまよえるものたちの書の最終ページの翻訳です。内容に鑑みて、三好さんたちが公開しなかった、唯一の碑文です」
美晴からタブレットを受け取った斎賀は、外濠公園のベンチに腰かけると、オリジナルと訳文で二分された画面に目を通し始めた。
美晴は、隣に腰かけて斎賀が読み終わるまで、辺りの景色を眺めていた。そろそろ冬も終わりだろう。
「『地球の同胞諸君に告ぐ』とはまた煽ってくるな。後半は文字が違うようだが……」
「それはクリンゴン語だそうです」
「クリ……スタートレックのか?」
地球のSF映画に登場する、架空の言語で、ダンジョンの碑文が書かれていた?
「そうです」
「しかし、そんな碑文が発見されたなんて、聞いたことがないぞ?」
クリンゴン語で書かれているような碑文が話題にならないはずがない。本物か偽物かの争いだけでも、そうとうにセンセーショナルな碑文になることは間違いないだろう。
「それは、三好さんたちが、さまよえる館から持ち出した碑文なんです」
なるほど。それならあいつらの胸先三寸で公開を避けることも可能だろう。
斎賀はそこに書かれている、三年前、ネバダで行われた実験とダンジョン出現の事実と、マナーハウスの書斎の話を読んだ。
「そのマナーハウスは、モントレー湾を臨む丘に立っていた博士の母方のマナーハウスで、89年の地震で被害を受けた後、売却されています」
「調べたのか――それで?」
「外見が、さまよえる館とそっくりなんだそうです」
一通りの事実を聞き終わった斎賀は、深く深くため息を吐いた。
「なあ、鳴瀬」
「なんです?」
「これって、たかが日本ダンジョン協会の一課長ごときが知っていいような内容か?」
「たかが課長補佐待遇ごときが知っていることですから」
「それで、あの連中は、いまさら課長ごときを巻き込んで、一体何をさせようってんだ?」
「おそらく――ですけど」
「それで、構わん」
「転移石が登場してしまった以上、あの人たちだけでなんとかなるような状況ではなくなったと判断したんじゃないでしょうか」
美晴は、彼らがやったことを指折り数えて説明した。
「ステータス計測デバイスは民間企業と一緒に自分たちだけでやりましたが、食料の話はDFAに振ってます。まあ、ネイサン博士が暴走したってのもあるんですが……」
「ふむ」
「そういう考えで、転移石を管理するとなると――」
「まあ、適当な組織はうちしかないだろうな。それでお前を強引に巻き込んだのか」
「え?」
「いいか、鳴瀬。転移石をDAなしで普及させるなんて、危なっかしいどころか、既存社会の破壊につながりかねないだろ?」
「まあそれは」
泥棒問題を始めとして、問題を数え上げれば枚挙に暇がないというやつだ。
「そして、もしも正面からこれを日本ダンジョン協会に持ち込んだら、確実に新規部署が立ち上がる。この話には、それくらいのインパクトがあるんだ」
何しろ転移だ。もはや現代科学を軽く飛び越えて、魔法の技術だといえるだろう。
もしもダンジョンの外で実用化したりしたら、世界の物流が根底からひっくり返ることは間違いない。
「オーブのオークションだって、専用のチャンネルが開きましたからね」
あれで自分が専任にされたばっかりに、こんな異常な事態に巻き込まれているのだ。
「そうだ。そこで新しい担当に、風来や雨宮みたいなのが据えられたら、連中も困るんだろうよ」
確かに雨宮さんの攻勢には、三好さんも苦笑していたっけ。
もしも、今の私の立場に風来さんがいたとしたら――想像するのも恐ろしいことが起きていたに違いないと、美晴は身を震わせた。
「あいつらはそれを嫌がって、無理やりお前を巻き込んだろう。相変わらず黒いよな」
「黒い?」
「どうせDAが必要になるんなら、自分たちで担当を選べるうちに選んじまおうってことさ。オーブの時もそうだったろう?」
「まあ、そうかもしれません」
「先に噛ませておけば、情報漏洩の観点からもそいつをはずすのは合理的じゃない。随分と気に入られたもんだな」
「お蔭でこんな、分不相応な目にあってますけどね」
斎賀は、美晴にタブレットを返した。
「それで、俺にまで、こんな情報を流して来たってことは、転移石を日本ダンジョン協会に取り扱わせるための、単なる根回しだけってわけじゃないんだろう?」
美晴は、受け取ったタブレットをバッグへと仕舞うと、正面を見据えながら、斎賀の方を見ずに言った。
「お二人は近日中にタイラー博士に会うそうです」
「は?」
「それで、聞きたいことがあるなら、今のうちにまとめておいてほしいと」
「ちょっと待て。それはつまり、ダンジョンの向こうにいる連中に聞きたいことがあったら質問をまとめておけって……そう言ってるのか?」
「おそらく」
以前斎賀は、それを故意に匂わせつつ、寺沢にダンジョンの意図について報告をした。
あの時は、ちょっとした意趣返しのつもりだったのだが――それが現実に?
「こりゃ拙いな」
「拙い? 何がです?」
「いや、なんでもない。で、話は分かったが、どう聞いても日本ダンジョン協会の一課長がやることじゃないな、それは」
「一課長補佐がやるのはもっと分不相応ですよ。私の真似をされては?」
「真似?」
それはつまり、上司に丸投げしろってことだろう。しかし――
「上にぶん投げるったって、橘女史や真壁常務じゃあな……」
「優秀な方たちだと思いますが」
「切れるのは確かだが、切れすぎて、情報を素材としか思っていない節がある。そんな連中に任せるには、あまりに爆弾の威力が大きすぎるだろ。下手すりゃ地球が壊されかねん」
この情報が、ただのベネフィットを得るための素材として扱われると、持って行く先によっては非常に危険なのだ。
「課長もなかなか不遜ですね」
「大きなお世話だ」
「でも、それって日本ダンジョン協会の一課長が心配するようなことですか?」
斎賀は、面白そうにそういう美晴を睨んで言った。
「お前のせいだろ、お前の! 上司に丸投げったって、投げていいものとダメなものがあるんだよ!」
「信頼できる上司がいて嬉しいです」
「くそっ」
やはり寺沢だろうか。しかしこの話がもしも国の上の方まで通ったりしたら、必ず相手に会わせろって話になるだろう。
だが、あの連中が素直に矢面にたつか?
あり得そうにない現実に、斎賀は顔を歪めて笑った。
「どうしました?」
「いや、共産圏や、独裁政治が羨ましく思える日がくるとはな」
「まあ、少なくとも誰かに何かを強制することは簡単にできますよね」
しかし、従来の外交の枠組みで、この問題に対処できるのか? 相手は人ですらないのに? 第一どうやって会わせる? 拒否したりしたらDA自身が間に立って何かを企んでいるように見えるぞ……
「だめだ。持っていく先がない」
斎賀は思わず空を仰いだ。常識的な範囲では、どう扱っても持て余しそうだ。
「課長。この日本で――世界と言ってもいいですけど――向こう側の人が、一番話したい人は誰なんでしょうね?」
「向こう側の誰かが、一番話したい人物?」
向こう側の誰かに、一番話したい人物なら、大勢いるだろうが、向こう側の誰かが、一番話したいこちら側の人物?
「人類の代表か?」
「なんらかのピラミッド状の社会を持っている知的生命体とのコンタクトならそうでしょうけど、彼の人の目的は、『人類に奉仕すること』ですよ?」
「まさか……」
「政治家だの学者だの、マスコミだの言ってないで、いっそのこと、大衆に直接つないでみませんか?」
実際、ダンジョンの向こう側とは、国家なんて枠組みで政治的なやりとりなどが行われているわけではない。
接触は探索者たちが行っていて、ダンジョンの向こう側の技術やアイテムは、すでに地球上で流通しているのだ。
向こうの代表が、こちら側に訪問してくるというのでもない限り、すでに国家などと言う枠組みは、このコンタクトには不要なのかもしれなかった。
そう考えた斎賀は、思わず頭を振って呟いた。
「こいつはちょっとばかり危険な思想だな」
「ネット全盛の時代ですから、迷ったりわからなかったりすることは、集合知に訊いてみるのが一番ですよ」
そう言って笑った美晴の顔が、斎賀には、Dパワーズの連中と被って見えた。
182 反響 3月4日 (月曜日)
日本ダンジョン協会のサイトに、「ダンジョンの向こう側に誰かがいるとしたら、どんなことが聞きたい?」という『だんつくちゃん質問箱』が開かれたのは、美晴と斎賀が昼食を取りに行ったその翌日の午後だった。
別にこった演出が必要なわけではない、ただの質問掲示板だったので、設置するのは簡単だったのだが、問題はその反響だった。
当初、代々ダン掲示板を始めとする、各種SNSでは、それが何かのジョークサイトだと認識された。
「エイプリルフールに向かった仕込みじゃないの?」
「来月の一日に、質問への返事が付くんですね、分かります」
「日本ダンジョン協会は開設以来、エイプリルフールサイトを作ったことはないぞ」
「何事にも始まりはあるじゃん」
などという、やり取りが、あちこちで見られたのだ。
「ところで、だんつくちゃんって何?」
「ネットの辞典じゃ、旦那を揶揄する言葉だとよ」
「あ、うちの実家の方じゃ、一人でやる獅子舞のことを『だんつく』って言ってたよ」
「愛知県民発見!」
「そうそう。あのへん、『だんつく(旦那が突く)』に『おまん×』なんてちょっと間違えたらエライことになりそうな祭りだらけだから」
「伏せるなよ(w 『と』だからな! 『と』 駆け馬のことだから!」
「聞き間違いそうな音だな、それ」
「いまゴグッてみたら、ゴーグルブックスの低年齢向けに書かれたルパンの話がヒットしたんだよ」
「三世?」
「いや、ルブランの方。だけど、小説のどこにもそんな言葉は書かれてないわけ」
「単なるバグじゃないの?」
「それが、実は、『秘密の階段を作っておいた』ってフレーズにヒットしてたみたいだ」
「バグじゃん」
「いやいや、低年齢向けだから、全部の漢字にルビが付いているわけ」
「ひみつかいだんつくかw」
「正解。ゴーグルブックスの検索って、ルビはルビでまとまって文字列化されてるんだな。しかも検索にヒットするという」
「欧文にルビはないからなぁ……」
「いやいや、脱線も甚だしいでしょ。で、だんつくって結局何なの」
「俺らを躍らせようとしてるっぽいし、獅子舞ちゃんでいいんじゃないの」
「ダンジョンの向こう側にいる連中が、獅子舞ちゃん!」
「描いてみた。『獅子《リオンヌ》 舞ちゃん、12歳』)つhttps://URL...」
そこには、被り物をして、がおーというポーズをとっているかわいらしい子供の絵がリンクされていた。
「天才現る」
「速えよ」
「なんでフランス語」
「じゃあ、俺は、レオネッサを描こう」
「んじゃ、俺は、リュータスかな」
「それどこよ? イタリアは分かるけど」
「リトアニアだよ」
「わかるか! そんなの」
「おいおいみんな。ここは北欧一択だろう? 『ルーヴ 舞』」
「なんでさ? 音はちょっとぱっとしない気がするけど」
「綴りが、Loveだから」
「「「おお!」」」
そうして、しばらく、あちこちで『獅子 舞』の絵がアップされたのだった。獅子の部分の読みは、非常にいろいろだったが。
そうして、ひとしきり脱線しまくった後、話は元に戻された。
「しかし、募集しているのは『質問』だろ? 日本ダンジョン協会はこの後これをどうするつもりなんだ?」
「うーん。相手になり切った誰かがそれに答えるとか?」
これが、パイオニア探査機の金属板や、ボイジャーのゴールデンレコードと同じ、未知の何かに対するメッセージの募集だというのならまだわかる。
だが、ここで募集されているのは質問なのだ。つまりは、応える何かがいるということだった。
「日本ダンジョン協会で、VTuberでも始めるのかよwww」
「私は、ダンジョンの向こうからやってきた、だんつくちゃんなのだ!」
「ヤメロwww」
「でもさ、日本ダンジョン協会って、今まであんまりジョークっぽいことはやらなかったじゃない」
「まあな。そもそもダンジョンが相手じゃ、突拍子もないことが書かれていたところで、それがジョークなのかマジなのかさっぱりだもんな。意味は薄い罠」
「じゃあ、お前らは、これがマジかもしれないって思ってるっての?」
「おいおい、もしもそうだとしたら、日本ダンジョン協会がダンジョンの向こうの誰かと接触した、もしくは接触する可能性ができたってことだろ」
ここのところ代々木ダンジョン界隈は著しく活性化している。
最近の到達深度の著しい進捗や、ヒブンリークスによる新たな知見が、その後押しをしているわけだが、その過程で何かがあったのかもしれないという話には夢があった。
「セーフエリアまでリアルに発見されたんだぜ? ダンジョンの向こう側に関する何かが見つかっていたとしてもおかしいとは言えないだろう?」
その一言で、がぜん真面目に質問が考えられ始めたのだ。
そうして誰かが翻訳した内容が、redditに投稿されるやいなや、どう見ても適当に作ったとしか思えないローカルな日本ダンジョン協会の掲示板に世界中からのアクセスが殺到し始めたのだった。
、、、、、、、、、
『ねえ、デヴィッド?』
『なんだ?』
『日本ダンジョン協会が、DANTSUKUちゃんへの質問サイトを立ち上げたってニュースが、スカイロックに上がってるんだけど」
スカイロックは、フランスの10代に人気のSNSだ。
『なんだと?』
急いでデヴィッドは、そこにリンクされていた日本ダンジョン協会のサイトへアクセスしたが、そこには、日本語のサイトしかなかった。
『今どき日本語だけだと?』
『外国人にはアクセスさせたくないサイトって事かしら』
しかたなくフランス語に自動翻訳させると、タイトルには、「Boite a questions Dunktsu-chan」とあった。
英語に切り替えると「Dantsuku chan Forum」となったので、自動翻訳は、まだまだ英語の方が精度が高いのだろう。
『なんだこれは?』
『ダンジョンの向こうにいる誰かに対する質問を考えるフォーラムみたいね』
『それはつまり、だんつくちゃんというのは、ダンジョンの向こう側にいる連中のことだという事か?』
『そんなことを私に聞いたって分からないわよ。質問を届ける日本ダンジョン協会のエージェントかもしれないでしょう?』
それは彼女の言うとおりだ。しかし、世界ダンジョン協会がダンジョンの向こう側にいる連中とコンタクトをとっているなんて話は聞いたことがなかった。
デヴィッドはすぐに、EUやアメリカのその筋に問い合わせてみることにした。しかし――
『何かの日本的なジョークだという線は?』
画像検索で大量に表示される、「獅子 舞」のキャラ画像を見て、デヴィッドは頭を振った。処置なしと言うやつだ。
日本人ってやつは……
『さあね。質問は結構真面目に検討されているようだけど……』
流石に自動翻訳ではよく分からない部分も数多くあったが、相手が宇宙のどこかにいると仮定して、銀河の中心といくつかのパルサーを基準点とした配置図の提案して相手の場所を尋ねてみたり、今後の関係を模索するような、まじめな質問がいくつかリストアップされていた。
『しかし、もしも、ダンツクちゃんというものが、ダンジョンの向こう側にいる連中だとすると――』
イザベラは彼らが言っていた言葉を思い出していた。
”――ダンツクちゃんに繋がってるかでしょうね”
『連中、ダンジョンの向こう側にいる何かと接触してるわけ?!』
事は、一スキルの話なんてスケールではない領域へと拡大していた。もしも誰よりも先に向こう側の連中と接触できるというのなら、その利益はさらに計り知れないものになるかもしれないのだ。
『それをすぐにでも探りだしたいところだが……』
すでに彼らは魔結晶を使い果たして、芳村へのアプローチが難しくなっていた。
なんとか国内市場で、手に入れようとしてみたのだが、それはどこにも存在していなかったのだ。
、、、、、、、、、
「こいつはまた……鳴瀬さんも思い切ったな」
俺は、事務所のソファーで『だんつくちゃん質問箱』を見ながら、グラスの横に寝そべっていた。
グラスは時折、迷惑そうに、俺の顔を尻尾ではたいていた。
「でも、結構いいアイデアですよね、これ?」
たしかに、一言で質問と言っても、どこに話を持って行けばいいのか非常に難しい案件だった。
なにしろ、それなりのところに持って行くためには、前提として知っておかなければ理解できない秘密が多すぎるのだ。
その点、この方法なら、なにも説明しなくても異論は出ないだろう。
それに、ダンツクちゃんが一番接触したいと思っているのは、いわゆる大衆に違いないのだ。
彼女?は、奉仕したいというだけで、人類はたまたまそこにいたにすぎない。行ってみればラッキー?だっただけだ。
つまりは、奉仕する相手を広範に求めていただけなのだから、接触するなら、その相手は大衆が望ましいだろう。
とは言え――
「大衆には、いろんな人間がいるからなぁ……」
他人を憎みぬいている人間が、ダンツクちゃんに人類を滅ぼすように求めたとき、彼女がそれに応えてしまうのは困る。
「さすがにいきなりモデレートなしで、ダイレクトに接触させるのは拙いですよね」
「彼女が人類のことを、よく理解するまではな」
よく理解したら理解したで、やっぱり危険な種だから滅ぼしちゃえ、なんてことになるかもしれないのだが……
「意識が生まれたばかりのコンピューターに対する接し方は、数多あるSFで散々経験していますからね、人類は」
ダンツクちゃん自身を、意識が生まれたばかりの化け物みたいなコンピューターとして取り扱うってのは、意外と的を得てるかもな。
それにしても――
「モデレートね……」
その時俺は、突然とある計画を閃いた。
「……なあ、三好」
「なんです先輩。なんだか久しぶりにその顔を見ましたよ」
「その顔って、どの顔?」
「一言で言うなら、悪人面ですかね」
「お前な……」
俺は苦笑して後頭部をかきながら、上半身を起こして、ソファーに座りなおした。
「以前、ダンジョン内の通信インフラの話をしたろう?」
「あの後、実際にプロジェクトが立ち上がりそうだって話を、鳴瀬さんから聞きましたよ」
「え? ほんとに?」
「先輩も聞いてたじゃないですか、ほら、あの振興課の意趣返しみたいなプロジェクト」
「ああ……だが内容は知らないな」
「なんでも、ダイバージェントがどうとかいうプロジェクトで、当初はダンジョン内の通信インフラを整備するとか何とか。やたらと面倒な案件で、負担しかないみたいなことをおっしゃってましたよ」
ダイバージェントってなんだよ。世界が崩壊した後のシカゴのはみ出し者かよ。
「なら、そいつも一度にどうにかできそうな気がするぞ」
「……先輩、通信関係は規制が面倒だからパスだとか言ってませんでしたっけ?」
「もとはと言えば、俺たちが建てたDPハウスが契機になったって話だろう?」
「それは、そうですけど」
「じゃあ、俺たちが責任を取るのも、間違っちゃいない」
「先輩が、『責任』なんて、大仰なことを言いだすときは、大抵ろくなことになりそうにないんですが――それで、どんな悪辣なことを思いついたんです?」
「酷いな」
俺は、笑いながら今しがた思いついたプランについて、三好に話をした。
「なんですか、そのデタラメ……うまくいきますか?」
「カエサルのものはカエサルに。ダンジョンのことは、ダンツクちゃんにってことさ」
「元の意味と違う気がしますけど?」
「気にするな」
それを聞いてしばらく何かを考えていた三好は、おもむろに立ち上がると、自分の席へと向かって行った。
「でもそれだけじゃダメですね」
「ほう」
何かをネットで検索しているようだった三好は、はたと動きを止めると、机の向こうから、俺に手を振った。
「先輩。ちょっと無駄遣いしますよ!」
「お前、御殿通工でちょっとくらいの無駄遣いじゃ、全然使い切れない資産家になってるだろ。あれ、どうなったんだよ?」
「氷室さんに渡した発表動画も公開されましたし、未だに3000円くらいで頑張ってますよ。だけどもうすぐ中島さんがEMSに渡りをつけるって言ってましたから、そこからが先が見ものですよね」
「EMSに渡した情報が洩れるってか?」
「そりゃもう、絶対ですよ。どこからかは分かりませんが」
漏れた情報で、同じものを作れば犯罪だが、情報だけならそもそも漏れたことすら分からない。
そこをベースにより優れたものを安価に作ろうなんて発想は、向こうじゃあたりまえのようにまかり通っている。今後はわからないが、すくなくとも今までは。
「で、今度は何を買うって?」
「口輪です」
「口輪ぁ?」
口輪というのは、犬の口などに着ける、噛みつき防止用の器具のことだ。
一体どうするつもりだろう?
「先輩は、今のうちに鳴瀬さんに、ダイバージェントなんとかの行く末について、話をしておいた方がいいと思いますよ」
それはそうだ。下手をしたらそのプロジェクト丸ごと潰しかねない話なのだ。
「俺たち、そのうち日本ダンジョン協会から抹殺されちゃうんじゃないの?」
俺はそんな軽口をたたきながら、自分のスマホで、鳴瀬さんの番号をタップした。
、、、、、、、、、
そのころアメリカでは、先月起こった、NYイベントの銃乱射事件を契機に、探索者の排斥運動が一部で静かに広がろうとしていた。
しかし、この排斥運動はいつもと勝手が違っていた。それは一言で言うと、弱者による強者の排斥だったからだ。
平均的な事を言えば、探索者は、明らかに非探索者に勝っていた。
それに、アメリカはフロンティアスピリッツを良しとする国だ。自らの国にできた新しい世界にチャレンジしている人々を排斥するというのは、その文化的な価値観に反していた。
移民とそれを結びつける人もいたが、なにしろ優れた人たちなのだ。
従来非難の対象にされた、アメリカの社会にぶら下がるだけの弱者ではないため、どうしてもその舌鋒は鈍り気味だった。
しかもこの二つのグループを隔てるものは、民族でも文化でも宗教でもなく、ただダンジョンで活動したかどうかなのだ。
優れた側になるために必要なことは、ダンジョンに入って活動するだけ――建前上彼らを非難した人たちも、自らの子供には、Dカードを取得させるありさまだった。
今更ながら、スポーツ界では、探索者をドーピング扱いするかどうかという問題が持ち上がったが、日本と同様、そうすることは不可能であるという結論に落ち着いた。
正義と法を重視する国として、ルールを遡及して適用するなどという事はできはしなかったのだ。つまり、いまからその行為を禁止するという事は、すでにダンジョンで活動している人たちを優遇することにほかならなかった。
こうした国民の葛藤が生まれた結果、優れていない方にしがみついた人たちは、徐々に先鋭化していき始めた。
183 準備 3月11日 (月曜日)
全然時間がなかったので、後で多少書き直すかもしれません。
開けて5日、大阪大学が提案した、iPS細胞から作られた角膜を、患者に移植する臨床計画が、厚生労働省の専門部会で大筋了承されて、榊が大喜びして連絡をしてきた。
彼の研究は、あれから一ヶ月しか経過していないのに、ずいぶんと派手な進捗を遂げているようだった。
「再生医療の臨床研究計画を、厚労省の専門部会でどんどん通してもらえると、僕たちの研究ももっと踏み込んだ実験が出来るようになるんですよ」
そう言って、ひとしきり自分の研究のことを勝手にしゃべった後は、すぐに研究へと戻って行った。実に相変わらずな男だった。
みどりさんに見いだされてなければ、一生出資者を見つけることができなかったに違いない。
、、、、、、、、、
だんつくちゃん質問箱が開設されてから、俺たちは、タイラー博士に会うための準備に明け暮れていた。とは言え、主に三好が、だが。
俺はと言えば、せっせと代々木に通い、オーブの取得と帰還石の製造に明け暮れていた。
また、転移石21は結構作ってあったので、三代さんと小麦さんに、訓練がてら使わせてみたりもした。
それを体験した、三代さんは白目をむいて気絶する勢いで驚いていた。
「もうすぐ発表されるとはいえ、しばらくは秘密だから、気を付けてね」
「……言ったところで、誰が信用するって言うんですか」
「ははは。でも、これで――」
「一日余計に原石がゲットできます!」
小麦さんは、対照的に満面の笑みをたたえて喜んでいた。物おじしない人だ。
キャシーにはとりあえず教えていない。今のところ必要がないし、ダンジョン攻略局に筒抜けになるには少し早すぎるからだ。
日本ダンジョン協会側の準備が整ってから教えよう。
、、、、、、、、、
「これが、『だんつくちゃん質問箱』への管理用のアクセスキーですけど、一体何に使われるんです?」
鳴瀬さんが、三好に頼まれて、忙しいさなかにキーの入ったUSBメモリをもってきてくれた。
連日、セーフエリアの事務処理の手伝いに駆り出されているようだ。
暗号化してメールに添付して送ってくれてもよさそうなものだが、ものがものだけに用途を確認したかったらしい。
「なんといいますか、ちょーっと改造を」
「改造?」
「心配しなくても、マルウェアなんて仕込みませんから」
「当たり前です! そんなことをして発覚したら、アクセスキーを渡した私は、クビですよ、クビ」
三好の手に、USBを叩きつけるようなふりで渡しながら、鳴瀬さんが力説した。
三好は、大丈夫大丈夫ーと言っているが、それだけ見ていると全然大丈夫な気がしない。
「そういえば、このサイトって、ずっとあのままなんですか?」
「あれは、タイラー博士に訊きたいことをひねりだすための苦肉の策でしたし、日本ダンジョン協会としてもイレギュラーなサイトですから、永続的に置いておくかどうかは……」
「なんだ、ダンツクちゃんとみんなに話をさせるために作ったサイトかと思いましたよ」
「もちろんそれは意識していましたけど、実際問題、それは難しいですよね」
鳴瀬さんが諦めたように言うと、三好が難しそうな顔を作って腕を組んだ。
「無垢なAIを大衆に投げ与えたらどうなるかは、twitterでマイクルソフトが実験しましたしね」
「そのうち、アレクサあたりが、とんでもないことを言い出す日も近いな」
ああいったAIは利用者にさらされ学習し続ける。その結果、言ってみれば、洗脳されたり、精神病にかかるものも登場しはじめるだろう。困ったことだ。
「そういう難しさですか? 私はもっと物理的な――」
そう言いかけた鳴瀬さんは、先日の俺の電話を思い出したのだろう、
「そういえば、代々木ダイバージェントシティプロジェクトが潰れるかもというのは? やりかたはともかくあれが実現すれば経路は確保されると思いますが」
「結局、あれ、どうされたんですか?」
そう聞くと、彼女は、憤慨したように息を吐いて、テーブルの上で手を絡め、神経質に親指同士を何度か打ち合わせた。
「あのプロジェクトは、連日振興課が会議をねじ込んでくるので、『このくそ忙しいのに』と、うちの課長は怒り心頭ですよ」
「だから、渡りに船って感じで、セーフエリアの割り振りを盾に、決済へ進むのを止めていますけど、あと数日が限界でしょうね」
「大丈夫。きっと先輩がどうにかしてくれますよ」
USBを自分のパソコンに突き刺して、なにか作業をしながら、奥の席から三好が無責任なことを言った。
鳴瀬さんは、そのセリフに嫌そうな顔をすると、「……また何か、変なことをするんじゃないでしょうね」と警戒するように言った。
「ええ? そんなことはしませんよ! うまくいけばすごく代々木のためになる……かもしれませんし」
「本当ですか?」
「もちろんですよ。信用ないなぁ」
「どこをどうやったら、あると思えるんです?」
ジト目でこちらを睨みながらそういう彼女に、俺は思わず吹き出した。
、、、、、、、、、
昨日降った雨が嘘のように晴れ上がった8日には、帰国した御劔さんが、お土産を持って訪ねて来てくれた。
「すごく濃密な一ヶ月でしたけど……」
「けど?」
「NYとロンドンで英語が話せるようになったのは、まあいいです。少なくとも6年間は英語に触れてますし」
「でも、ミラノの最初の二日間でイタリア語が、パリの最初の二日間でフランス語が聞き取れるようになったのはおかしいですよ」
彼女は、クリスマスプレゼントのせいですよねと、小さな声で俺に言った。
「いや、まあ、ほら、語学の素質があったのかもしれないし、それに、別に困ることはないよね? どっちかというと便利な気が……」
「そうなんですけど。悪口を理解できてしまうのはちょっと」
あの人たち、こっちが英語しか分からないと思って、結構現地語で悪口を言うんですよと、苦笑しながら言った。
まあ、ぽっと出が、デザイナーに気に入られて連れまわされれば嫉妬も沸くか。
「今度ちゃんと教えてくださいね。それで、これ、お土産です」
彼女が差し出してきた小さな箱を開けると、そこには――
「エッフェル塔?」
それは透明なガラスでできた、十センチくらいの大きさのエッフェル塔だった。
「芳村さんは、こういうベタなのが好きかなって」
まあ、嫌いじゃない。嫌いじゃないが――
「三好さんはこちらを」
そういって差し出されたのは、シンプルなセザンヌのバッグだった。
俺のエッフェル塔となにか差がないか? ところで、俺のエッフェル塔って、なんだか下品だな。
「芳村さん?」
「あ、いや。ありがとう。部屋に飾っておくよ」
そういうと彼女は嬉しそうに笑った。
「そうだ。例の液を少しいただいて帰りたいんですけど」
「え、まだ潜るつもりなのか?」
少し驚いたように言うと、御劔さんは、「あれが基本トレーニングですから」と笑った。
それなら、と、俺はアルスルズを使った新方式を彼女に伝授した。
「え? そうしたら入り口まで戻らなくてもいいんですか?」
「うん。ただ――」
「あれは慣れるまで、なんだか変な感じですよ」
三好が、そんな風に言った。
お前は十層で、点滅しながら敵キャラを根こそぎ倒してたけどな。
「試してみる?」
「え? ここでですか?」
彼女がそういうと、三好の影からアイスレムがのっそりと現れた。
「きゃっ」
彼女が驚くと同時に、その場から消えて、すぐに元に戻された。
「どう?」
「なんですか、今の? 突然目の前が真っ暗になった感じですけど」
「一種の落とし穴におちた状態なのかな」
「落とし穴?」
「そう。でね、スライムを叩くたびに、今の状態を繰り返すんだ」
「はあ」
「じゃあ、繰り返してみましょう。アイスレムよろしくね」
「がう」
「きゃっ!」
その後しばらく、御劔さんが点滅していたが、そのうち慣れてきたようで、最後は、「遊園地のアトラクションか何かだと思えば、面白いですね」と、言っていた。
次に代々木に出かけるときは、うちに連絡して、アルスルズを一匹借りていくことを約束して、彼女は事務所を後にした。
俺は、しばらくエッフェル塔をつまんで眺めていたが、何かを察した三好が、「先輩、それスワロフスキーですよ」と言った。
「スワロフスキー?」
そう言われれば、光の具合によっては虹色に見えなくもないな。
俺はしばらく、そうやって、きらきら光るエッフェル塔を眺めていた。
、、、、、、、、、
三好は、事務所の16畳の部屋の奥、ほぼ八畳分に消音ルームをわずか三日で設置していた。そこに連日、電気工事だのエアコンの設置だのが突貫で突貫で行われていた。金の力おそるべしである。
五日もたつ頃には、立派な部屋ができあがっていた。
「一体、どうするんだ、これ?」
まさか、斎藤さんの練習室?
いや、あれは基本電子ピアノだから、ヘッドフォンをすればいいだけだ。
「くっくっくっ、これぞ先輩のデタラメプランを支える、電子の要塞ですよ!」
そう言って、三好が収納から取り出したのは、大体2メートル四方の黒い箱だった。
それが、ズズーンという書き文字の効果音と共に、その部屋に出現したのだ。
「はぁ?!」
「一昨年の九月に出た、IBMのまあまあ最新鋭のLinux専用機ですよ。スーパーコンピューターは自宅にはなかなかおけませんが、今どきのメインフレームなら、まあなんとか」
いや、それはいいが、一体どこで収納して来たんだよ、これ?? 俺はその方が知りたいよ! 大体、その書き文字、何の意味があるんだよ!
「精密機械ですからね、そっとおかなきゃいけないんですけど、やはりここは重量感の演出が欲しいでしょう?」
なにしろ3トンもあるんですよ、これ、と、三好は誇らしげにその黒いボディを指さした。
「3トンもある巨大なパソコンだと思えばいいってことか。だけど、ほんとにこんなのがいるのか? 自宅に置いたりしたら、スケーリングもくそもないだろ?」
今どきのワークステーションは高速だ。シングルスレッド性能で言えば、メインフレームと変わらないレベルだと言っていいだろう。
この手のメインフレームは、冗長設計による信頼性と保守性、仮想化技術によるスケーリングが利点になるわけだが、信頼性はともかく、個人で全部使うならスケーリングもくそもない。
最初からフルスケールってことだもんな。
「ななな、なにを言ってるんですか先輩。大は小を兼ねるんですよ? ほら大量のI/O処理にもアドバンテージがありますからSMDのセンターとしても使えますし! 決して使ってみたかったとか、そんなことは……ちょっとしかありませんよ?」
「ちょっとはあるのかよ」
まあ、三好がいるというのなら、たぶんいるんだろうけどさ……
「最初は横浜に設置しようかと思ったんですが……」
やはり手元にないと心配ってことか。まあ、ここはアルスルズたちに守られているから、よけいだよな、と思っていたら、単に二メートル四方だと聞いて、事務所におけるじゃんと思ったらしい。
確かに空き空間のことを考えなければ四畳半にだっておけるけどさ。
流石に、強制排気の量を見たとき、これを普通の室内に置くのは無理だと思って、消音室を導入したという事だが、そこはまさに小温室だった。
俺はマニュアルをぱらぱらとめくりながら、簡単に諸元を眺めていた。
それによると、なんと電源は普通の200ボルトだった。確かに家庭で使える――
「いや、無理だろ! 入力電力が、最小構成でも最大10.4キロボルトアンペアkVAで、最大構成なら、最大29.9キロボルトアンペアもいるじゃん」
東京電力の家庭用アンペア契約のうち最大のものは60アンペアだ。つまり、最大で、6kVAまでしか使えないのだ。
最小構成でもブレーカー落ちるよ?
「そこはぬかりありません」
そう言って、三好は東京電力の契約書を取り出した。どうやら事務所の電力契約に業務用電力を導入したようだ。
「え? 屋内配線の限界ってやつがあるだろ。ここは元々家庭用なんだし」
「ちっちっち。直接引っ張って、この部屋専用の電源になってるんですよ」
「他の部分はいままでと同じで、新規契約したのか」
「です。50キロワット契約で、月額基本料が8万6千円ってところですね」
「なんつー基本料だ」
高いんだか安いんだかわからないが、電気代の基本料がその値段と言われると、なかなか高額な気がする。
基本料って、何の値段なのだろう?
「電気代はともかく、基本料は結構しますよね。kWあたり1700円ちょっとですから」
「ってことは、家庭用で言うと60アンペアがそのくらいだから……なんと6倍ってことか! 流石は事業用……何かメリットがあるのかもしれないが」
「電力量料金がちょっと安いです。先輩がさっきおっしゃった最小構成の最大入力で二十四時間三十一日間使うと、ちょっとだけお得になりますね」
「そんなにぶん回す気なのかよ……」
段階のある料金だと、使えば使うほど高くなるという、普通逆だろと思えるような変な構造だけれど、事業用なら一定で安いと言う事らしい。
もっとも家庭用は、インフラだけに、あまり使えない人はお金がない人だから安くしましょうということなのかもしれないけれど。それにしちゃ、業務用の方が安いというのは解せないけどな。
「しかし、日本は電気代が高いな」
「その分、無停電電源がほとんど無駄になるくらい、供給が安定していますから」
確かに日本は停電が少ない。
都内に限れば、何かの破壊工作でも行われない限り、数年に一回経験すれば多いほうだ。
「とはいえ、一応、無停電電源装置は用意してあります。もちろんそんなに長くはもちませんから、書き込みの保護が行われたら、後はシャットダウンするしかないですね」
SMDシリーズには、一応サーバーとの接続が出来なくなった場合、その旨を表示する機能があるらしい。
「だけどなんで20キロワットも余裕がとってあるんだ?」
「そのほかの機器用ですけど、主にエアコンです」
「ああ、なるほど」
強制空冷とは言え、この部屋の気温は、それはそれは高くなることだろう。大きなエアコンは必須だろうな。
「よし、先輩! 準備は大体終わりました! タイラー博士に会いに行きましょう!」
、、、、、、、、、
『いいか、神だぞ? 神』
『何だって?』
興奮したようにしゃべるデヴィッドのセリフに、何かを聞き間違えたのかと、電話の向こうの男が聞き返した。
『我が教団に神がいるとしたら、それはダンジョンそのものであり、それを作り出したダンジョンの向こう側にいるものだろう?』
『いや、デヴィッド。君の言いたいことは分かるが、君の教団の神学の話をしに連絡してきたわけじゃないんだろう?』
確かに、デヴィッドの教団の奇跡とやらにあずかりはしたし、こうして融通を聞かせるくらいには感謝もしているが、しょせん神などと言うものは、我々の手の届かないところにおわすものだと、男は考えていた。
神など奇跡を与える主体として、あることになっていればいいのだ。
『それが手の届くところにいるのさ』
デヴィッドは、彼の発言を無視してそう言った。
『何かの比喩かね?』
電話の向こうの男は、あまりの言い草に、あきれたように訊いた。
『いいか、日本ダンジョン協会がだんつくちゃんと呼んでいるものは、ダンジョンの向こう側にいる何かだ。現に、今、日本ダンジョン協会が、それへの質問を募集しているだろ』
『ちょっと待て、今確認……なんだ、これは? リオンヌ舞? ははは、確かに日本のナード――なんて言ったっけ? ああ、オタクか――の神扱いはされているようだな』
あのくそ日本人ども、話をややこしくしやがって、とデヴィッドは歯噛みした。
『いいか。日本ダンジョン協会、ひいては日本がダンジョンの向こう側にいる何かにアプローチしているのは事実なんだ』
『それは、君のところの占い師の預言かね?』
彼はイザベラのことを占い師と呼んでいた。
不思議な力で、何でも探り出す、派手な女――だが、その言葉の的中率は、一〇〇%なのだ。
始めは何かの調査を疑ったが、本人が覚えていないことすら言い当てて見せる様は、もはや気味が悪かった。
『いいや、単なる事実だ。もしかしたら、すでにコンタクトを終わらせているかもしれん』
『確かにそんな話がちらと聞こえては来ていたが、日本政府はそれを否定したぞ』
『神にも等しい力を持つ何かとコンタクトして、それを吹聴する国家があるもんか。利益は独占したいだろう?』
男の反応には、少しだけ間があった。これは、そうかもしれないと考えているサインだ。
それを肯定するように、男から、短い質問が返ってきた。
『証拠は?』
『もちろんある。でなきゃ、こんな連絡なんかするものか』
『ふーむ。それで、どうしたいんだね?』
『ヴィクトールのチームが来日しているんだろう? それを貸してくれ』
『それで?』
『そりゃ、神のもとまで案内してもらうのさ。近々、連中は、だんつくちゃんとかいうやつに会いに行くはずなんだ』
『なに? そんな話になっているのか?』
『ああ、確実だ』
あの質問が、ポアソンダブリルのサイトのための準備じゃなけりゃな。とデヴィッドは心の中で呟いた。
もちろん彼は、そんなことは全く考えていなかった、なにしろだんつくちゃんなどという、意味不明な名詞の一致が偶然であるはずがない。
『分かった、COS(特殊作戦司令部)のCD(ダンジョン部隊)にはこちらから連絡を入れておくから、四時間後に大使館に連絡を入れてくれ』
フランスの国家に属するダンジョン攻略部隊は、軍の特殊作戦司令部の直下に作られていた。
『ありがとう。ああそうだ、ついでと言ってはなんだが、もう一つお願いが』
『……なんだ?』
『そちらのツテで、魔結晶を購入して送ってくれないか』
『魔結晶? どのくらい?』
『200万ユーロで買えるだけ頼む』
『……君、いったい、日本で何をやってるんだね?』
『それはもちろん、布教だよ』
デヴィッドはそう言って笑うと、電話を切った。
184 会談(1)
そうして、今、俺たちは、代々木の八層で、いつもの焼過ぎた豚串をかじっている。
豚串には、梅風味という新製品が追加されていて、梅干しの酸が豚串に爽やかさを加えていた。どんなものでも、人の営みは進化するものだ。
「それで、何時ごろ実体化させる?」
スケルトンを373体倒すのは、簡単とは言わないが集中してやれば可能だろう。特に夜なら下手すれば四時間かからない。
「早いうちから、300くらいは片付けておいて、夜に調整するくらいがいいですよね」
「魔結晶のこともあるからな、三好も300くらいは倒せよ」
「そんなに数がいて、時間が余ってればやりますけど……私が倒してもちょっとしか出ませんからねー」
去年試したLUCのテストによると、魔結晶ドロップ率は、BDR×(運/100)くらいだと判明している。
スケルトンのBDR(基本ドロップ率)は、経験的に0.25くらいだと分かっているから、運100の探索者なら、4体に一個程度手に入るわけだ。
運が10だと、その十分の一、つまり40体に一個くらいのドロップ率になる。
「それは仕方がないな。ついでだから、アルスルズ方式で経験値もがっぽり稼いどけ」
「十層であれをやるには、ドリーが要りますね」
どうも、あの新方式を使うと、認識が途切れ途切れになるせいか、周囲への注意がおろそかになるのだ。
一層ならなんの問題もないが、十層だと少し拙い場合があるかもしれなかった。
「昼間はドリーに入ってると、あまりモンスターが寄ってこない感じだしなぁ」
「先輩が屋根の上で踊ってれば、わらわらですよ!」
「あれはあれで、アーチャーの的にされるからな……」
「先輩、俊敏が200もあるんだから躱せるんじゃないですか?」
「気が付けばな」
問題は飛んでくる矢に気が付かないってことだ。不意を突かれると、いくらステータスがあっても――もしかしたら生命力の100で跳ね返せるのかもしれないが――危ないことに変わりはない。
「生命探知x2じゃ矢には反応できませんか」
「飛んでくる矢が生きてりゃ別だがな」
「それ、よけても追いかけてきそうですよ」
生きている矢。リビングアローか。もはや矢じゃなくてモンスターだな、そんなのがあったら。
「私の、〈危険察知〉なら行けるんじゃないですかね」
「かもな。とっとけばよかったかなぁ」
〈危険察知〉は、ウルフで取得するオーブだ。
やる気にさえなれば、大体二十日に一個取得できるのだが、ウルフに会うには二層や三層に下りる必要があるので、ちょっと面倒なのだ。人も多いし。
それに、三好の〈危険察知〉は、俺やアルスルズが近くにいると、ほとんど反応しないことが分かっている。
危険を感じていないという事なのだろうが、非常に主観的な話なので、護衛の時に危険なものや事象から護衛対象を引き離すためには、全然役に立たなかった。
「なにかこう、武道の達人みたいに気配を察知するスキルはないものかね」
「感に優れた感じのモンスターですか……」
「海外製のデザインなんだから、カラテカとかニンジャとか居てもいいのにな」
だが、そういうモンスターは見つかっていなかった。
「向こうのRPGでは、ニンジャは強敵ですからね。もっと深いところにいるんじゃないですか?」
「なるほど。そういうこともあるか」
「ドラゴンもヴァンパイアも見つかってませんしね」
「確かに」
ゲームだとしたら、どちらもボスキャラ級の強敵だろう。
「まあ、ないものねだりをしても始まりません」
「そりゃそうだ。ともかく、書斎へ行くまでにどのくらいかかるかってことだ」
「外見通りのマナーハウスなら、全部の部屋を見まわったとしても、三十分もあれば十分だと思いますが……」
「こないだ走り回った感じじゃ、なんとも不条理な迷路みたいだったからなぁ」
廊下は直線だし、部屋も普通に並んでいるだけなのだが、二階建てのはずなのに、二階分階段を下りたら一階だったりするのだ。意味が分からない。
もっとも、館がぐにょぐにょになった影響と言う可能性もあるが、あの時はまだちゃんとしていたように思えた。
「それに、どこから入るのかも問題ですよ。玄関の碑文をどうにかするまで攻撃されることはないと思いますけど」
正面玄関から入った場合、碑文に触れずにあの部屋を出ることができるのかどうかわからない。
かといって、勝手口から入った時は、正面玄関から逃げられなかった。
「先輩がロザリオをナンパした窓、まだ開いているといいですけどね」
「ナンパなんかしてないだろ! なあロザリオ?」
ひょいと俺の小さなバックパックから顔を出した小鳥が、ピルルとかわいらしい声で鳴いた。
里帰りって訳じゃないけど、隠されたものを見つける力が役に立つかもと、今回は連れて来たのだ。
「しかし、あまりに早い時間から放置しておくと、どこかの誰かがやってくるかもしれないしな……」
夜の十層だからと言って、安心することは出来ないだろう。
酷い目にあったとは言え、イギリスの斥候も入って来たし、異界言語理解の時は、中国のチームも追いかけてきていたらしい。
館に入るのは構わないが、最初の時の俺たちと同様、いきなり正面玄関で碑文にアタックされたりすると、こちらの計画が台無しになる。
「書斎の位置は、きっとロザリオが案内してくれますよ」
そう言って三好が両掌を広げると、右掌の上にはYESが、左掌の上にはNOが、まるで子供のいたずら書きのように描かれていた。
ロザリオはそれをみると、右掌の上にパタパタと舞い降りた。
「ほらね?」
ダンジョンの中では、悠長にキーボードを打たせるわけにもいかず、簡易の意思疎通手段として三好が考案したのは、実にローテクな方法だったのだ。
「はいはい。んじゃ、三時間くらいでいいか」
「十分じゃないでしょうか。後は先輩……」
「なんだよ?」
「頑張ってくださいね。代々木――いえ、世界の命運は、先輩に掛かってるんですから」
「ええ!? これってそんな話だっけ?!」
第一もしもそうなら、お前にだって半分くらいは責任が――
「なんです?」
「いや、なんでも。なら9時ごろだな。バーゲストはどうする?」
「数合わせで、バーゲスト待ちが出来たとして、先輩使うんですか?」
「俺に生き物係は無理」
アルスルズたちは、放置しておけば便利に使えると思ったら大間違いで、それなりにケアが必要らしかった。
なにしろ、留守番役を続けさせると拗ねるのだ。それで入れ替わりなどと言う非常識な技術を身に着けるのだから拗ねさせた方がお得だったのかもしれないが……
小麦さんは喜々として世話をしているようだし、三好の奴も、これでマメなところがある。もっともそれは自分の興味の範囲にあるものに対してだけなのだが。
ペットのケアって、水と餌をやってりゃいいんじゃないの? くらいの認識しかないわけだが、あいつらには水も餌も必要ない訳で、じゃあ何をすればいいのかさっぱりわからない。
放置した挙句、ペットにかみ殺されてニュースになりそうな気さえするのだ。サボテンのトラウマは伊達じゃないのだ。
「〈闇魔法(Y)〉だけじゃなくて、(U)と、あと〈病気耐性(4)〉がありますよ」
つい先日寝込んでしまい、〈超回復〉が病気には無力なんじゃないかと思った身には、なかなかよさそうなお誘いだ。
「それは2個欲しいな」
「クールタイムが7日ですから、一度には無理ですね」
「片方が、〈状態異常耐性(2)〉 なら行けるだろ」
確か病気も状態異常の一つだといってたような気がするし。
「うまく数値が合わせられるなら、検討しましょう」
「ゾンビとスケルトンにはろくなオーブがないんだよな。昼の十層は、ほぼその2種類しか出ないし」
理想は、百匹目と200匹目と300匹目で、バーゲスト×2とモノアイを拾い、残りを調整しながら館を出したら、400匹目で、館の中の何かを倒すってところだろう。
そんなにうまくいくかどうかは分からないが。特にモノアイ。未だに本体を見たことすらないぞ。
「アイボールの〈鑑定〉も取っておきたいですよね。あ、でもあれは水晶のために、ごっそりと倒す予定でしたっけ」
「それなんだけどさ。以前十一層でインフェルノを使った時、凄く広い範囲で何もなくなってただろ?」
「ドラゴンが暴れた後みたいでしたね」
「だけど、アイテムはほとんど手に入らなかったし、オーブもしかりだ。もしかしたら――」
「まさか、アイテムもオーブも、ある程度一緒に蒸発する?」
「――それか、普通と計算式が違うってことも考えられるんじゃないかと思うんだ」
ゲームのような世界だからこそ、強力な範囲魔法に違う式が適用されるなんてこともあるかもしれなかった。実際、あの時ほとんど何も手に入らなかったことは事実なのだ。
もちろんモンスターがいなかったという可能性も十分あり得るのだが。
「十層で、先に試してみればいいんじゃないですか?」
「倒した数が分からなくなるだろ」
「……意外と面倒ですね。いっそのこと転移石で二十一層へ行って、ダッシュで十八層へ戻るとか」
「転移石10を作ってか? だがゲノーモスもオーブ以外何も落とさなかった気がするぞ」
むーっと腕を組んで考えてはみたが、テストに適当なフロアは思いつかなかった。
「意外と準備が足りてませんね、私たち」
「怠りがないのは、食べ物と飲み物くらいなものだな」
「そこは、重要ですから。ちょー重要ですから」
「仕方がない、一通り手数でしのいで、最後っ屁でインフェルノってテストって路線でいくか」
「了解です」
今日の日没は17時45分だ。
その日、俺たちは、17時頃十層へと下りた。
、、、、、、、、、
『おい、ヴィクトール。連中、十層へと降りて行ったぜ』
『くそ。だからこんなイレギュリエな仕事は引き受けたくないんだよ』
小さく舌打ちしたヴィクトールは、十層へ下りる階段を睨みつけた。
突然うけた大使館からの呼び出しには、嫌な予感しかしなかった。
わざわざ十八層に連絡をよこしてまでの呼び出しだ。何か面倒が起きたに違いなかったが、まさかこんなスパイじみたことをやらされるとは思わなかった。
世界ランク10位のヴィクトールを筆頭に、13位のティエリと15位のクァンタンを擁するこのチームは、世界でも有数の探索者チームだ。
これがサイモンなら、相手が大統領でなければ、逃げ回るところだろうが、フランスのダンジョン攻略部隊は、フランス軍のCOS(特殊作戦司令部)の直轄で、隊員はフランス中の組織から集められたが、その身分は軍属扱いだ。
軍人でなくとも軍に属している以上、上から命令が来れば逆らえない。
『で、日没は?』
『あと45分ってところだな。追うのか?』
ティエリが、リーダーのヴィクトールに向かって、嫌そうな顔で尋ねた。
『去年、中国の連中が全滅しかかったって、自衛隊に救助されたって聞いたぜ』
ティエリは、中国の連中と、同じ轍を踏まされるのは勘弁してほしかった。
『代々木の十層は、モンスターの数が多いそうだ。特に夜は。銃だとおそらく弾が足りなくなる。CQC(非常に近い距離で行われる戦闘。近接格闘)になるが――』
『ゾンビとスケルトンが主体だそうだから、ま、なんとかなるだろ。こいつもあるしな』
チームのエンジニアで、情報担当でもあるクァンタンが、そばに置かれた1台のポーターを叩いた。
『都合よくそんなものが出てくる時点で、ついでにテストをやれって意図が見え見えだろ』
そこにあったのは、フランス産のポーター、というよりも簡易トーチカと呼んだほうがよさそうなポーターだった。
内部には、予備の弾丸も保持されているようだったが、無尽蔵と言う訳には行かないだろう。
『ダッソー、タレス、スネクマとルノーの共同開発だとさ』
『なんだそりゃ。空でも飛ぶのか?』
フランスの軍事産業は、航空機と船舶に偏っている。初めの3社は主に戦闘機やそのエンジンを作っているのだ。
『アルデバランがソフトバークに買収されちまってから、うちの国の新興ロボット産業はちょっとあれだろ』
『説明によると、多くの、あまり強力ではないモンスターに囲まれたときに威力を発揮するそうだ』
そのテストに、代々木の十層――それなりの数のゾンビとスケルトンが登場する層――が丁度よさそうに見えることは確かだ。しかし、彼らはその数を見誤っていた。
『あまり強力ではないってところに、そこはかとない不安を感じるんだが……そういうテストは、専任のプレイヤーにまかせろよ」
ヴィクトールはそう言って立ち上がると、大きなナイフを取り出して、腰に差した。
『しかたない、俺のクラヴ・マガを見せる時が来たか』
『あんた、GIGN(国家憲兵隊治安介入部隊)の出身だったのか』
ティエリも続いて立ち上がりながらそう言った。
一年以上チームを組んではいたが、お互い出会う前のことは、ほとんど知らないも同然だったのだ。外人部隊以来のフランスの伝統だろうか。
『クラヴ・マガは人間相手の格闘術だろう? ゾンビ相手に抱きつくのはごめんだし、弱点を叩いたくらいじゃ連中怯みもしないぜ。あいつらの、首を刈り取るならこれさ』
そう言って、ティエリが取り出したのは、ハンドアックスだった。
『あんたが、木こり出身だったとは、さすがに想像していなかったよ』
ヴィクトールがお返しとばかりに、そう言って笑いながら、彼に同化薬を投げて渡した。
『ま、日が沈むんじゃ、気休めだがな』
クァンタンもそれを受け取りながら立ち上がると、『仕方がない、行けるところまで行ってみますか』と言って、ポーターを起動した。
ポーターは、思ったよりもずっと静かな音を響かせながら、立ち上がった。
『思ったより動作音は小さいんだな』
『防音には気を使ったらしい』
『ラファールみたいなエンジン音だったらどうしようかと思ったぜ』
三人は口々に勝手なことをいいながら、十層へ向かう階段を下りて行った。
185 会談(2)
「なにかくっついてきてるな」
結構距離があるにもかかわらず、その三人は、生命探知にガンガン反応していた。
「またですか」
「中国が痛い目にあって、イギリスがそれに続いたってのに、やっぱり探索者ってのはバカなのかな?」
「先輩、それってブーメランというやつでは……」
そう言われれば俺たちは、一度館で命の危険を感じたにもかかわらず、目標がなくてやることがないなんて理由で、わざわざ二度目の館に突入したのだ。
そのおかげで、花園への入り口を見つけられたとはいえ、バカだと言われれば否定できないかもしれない。
「それに、命令に対して平気でヤダって言っちゃうのは、サイモンさんのところくらいですよ」
「いや、あいつら、イエスサー! と言っておいて無視するみたいだぞ」
「もっとたちが悪いじゃないですか……」
確か、それで日本に来たとか聞いたような気がする。
「それで、どうします? もう日が落ちますけど」
「どうするったって、俺たちも忙しいしなぁ……」
昼間にスケルトンを373体狩るのはなかなかの難行だが、夜は密度が違うのだ。
おまけに100体おきの調整まであるのだから、各種のカウントがとても忙しかった。
「それにこいつらは、反応の大きさから考えると並みじゃないぞ。サイモンたち級だ」
「え、じゃあ」
ロシアはミーチャのぶっちぎりワントップだし、アメリカは四人組。イギリスは20位までに二人しかいないし、イタリアと日本は一人しかいない。
同じチームの三人がランクインしているのは、10位・13位・15位のフランスか、11位・16位・19位のドイツかというところらしい。
「今までの連中とは格が違いそうだ。放っておいても大丈夫じゃないか?」
「そうかもしれませんけど、それだと私たちの方が困りませんか?」
「……そいつは盲点だ。んじゃ、ちょっとペースを上げて、奥の方まで突き進もうぜ。経験豊富なプロなら無理はしないだろ」
「間違えて館を召喚しないで下さいよ」
「数をずっと数えていると、なんだかゲシュタルトが崩壊して、よくわからなくなるんだよなぁ」
「先輩……」
、、、、、、、、、
『連中、スピードを上げたみたいだぞ。このままじゃ、感応レンジから出ちまうぜ』
『いや、そうは言ってもな……』
フランス製のポーターは重厚だったが、その分速度がいまいちだ。
普通に歩く程度なら問題ないのだが、走るほどの速度となると難しかった。
『ドンガメじゃ使えないぞ。要修正依頼だな』
『コンセプトがトーチカだから、高速で連れ歩くことは考慮されていないんだろう』
『ドイツがそんな戦車を作って失敗してなかったか?』
『いつの話だよ』
『賢者は歴史に学ぶものだろ』
フランスチームは軽口を叩きながら、周囲への警戒は怠らなかった。何しろ、夜が近づいた十層のモンスターの数は尋常ではなかった。
同化薬のお蔭か襲われるようなことはなかったが、目的もなく辺りを徘徊している大量のゾンビやスケルトンは非常に不気味だった。
『このままモンスターの中に包まれながら進んで、日が落ちたらまずいんじゃないか?』
ティエリが時間を気にしながら、辺りを見回して、そう言った。
倒しながら来たのなら、後ろのモンスターは手薄になっているだろうが、攻撃されないのをいいことにどんどん進んできているのだ。今や敵陣のど真ん中で孤立しているのと大差なかった。
一斉に襲われたら、三人では手が足りなくなる可能性は高い。
『どこかで背後を守れるような場所を探すか?』
『それじゃ、どっちにしろじり貧だ。先行してる連中はいったいどうするつもりなんだ?』
『追いついて視認できればわかるかもな』
『だが、ここでポーターを置いていくのは、自殺行為だぞ』
日没までは、あと数分だ。悠長に議論している暇はなかった。
『トーチカモードでも移動はできるのか?』
トーチカモードとは、ポーターの前後左右から、特殊なエンプラを張り出すことにより、その内側への直接的な攻撃をある程度防げるというものだ。
一種の移動する盾のようなものだと言ってよいだろう。
『もちろんだ。だが、それだと攻撃は銃器に頼らざるを得なくなる』
クァンタンは、マニュアルを思い出しながら、ヴィクトールの問いに答えた。
トーチカの内側から、相手に向かって斧をふるうのはさすがに無理だ。
『やむを得ん。それで押し分けながら連中を追う。用意されているのはすべてホローポイントだから、ワンショットワンキルで移動方向の邪魔な奴だけを優先的に始末する』
『それで、弾薬が尽きたら?』
心配顔のティエリが、横目でヴィクトールを見ながら訊いた。
『戻りのゾンビとスケルトンくらい、近接でなんとかしろ』
ヴィクトールは、ティエリが腰に下げたハンドアックスを指差した。
『ひでぇプランだな、おい』
『素人のふたりパーティにできることが、プロの三人パーティにできなきゃダメだろう』
『そりゃそうだ。だがな――』
『なんだよ』
『――連中、本当に素人なのか?』
ティエリにそう突っ込まれたヴィクトールは、作戦前に渡された資料を思い返していた。
連中はGランクとSランクのペアだ。とは言え、Sなのは商業ライセンスで異界言語理解を取り扱ったからで、長くダンジョンで活動していたわけではない。
だが、女の方は三十一層の救助に単独で参加していたらしかった。つまり、三十一層まで単独でたどり着くことができるということだ。
そして、ポータなしの軽装でこのフロアを進んでいる以上、飛び道具でどうにかしているはずがない。ここじゃ、弾丸の絶対数が足りなくなるからだ。
そうだとすると――
『攻撃魔法持ちかもな』
『おいおい。表向き、フランスのダンジョン攻略部隊の攻撃魔法持ちはゼロだぜ?』
つまり、そのくらい希少なのだ。
『ぜひ連中のオークションで、水魔法とやらを落札してもらいたいね』
もしかしたら、あのアズサ・ミヨシが世界ランク1位の探索者なのかもという想像が一瞬頭をよぎったが、目撃情報によると身長も違うし、声も男だったらしい。
『ともかく日没まで時間がない。クァンタン、頼む』
『ホージー』
クァンタンが返事をして、ポーターのコントローラーを操作すると、サイドからパネルがせり出した。
三人がその内側に入り込むと前面からも2枚のパネルが、後面から1枚のパネルがせり出して、全体として船のような形状になった。
『上は?』
そう言ったティエリに、クァンタンが肩をすくめて答えた時、かすかに残照を残して日没時間が訪れた。
、、、、、、、、、
「先輩、十層って、広さ的には一層と大差ありませんから、このままだとすぐに端に到達しますよ」
十層のマップは、同化薬が発見されたとき、昼間のうちに走り回ることで一応の完成をみていた。
「十層の端ってどうなってるんだ?」
「壁があったという話は聞かないので、二層同様、無限ループだと思いますけど……」
半径5キロの円だとすると、直径上を歩いて進んでも大体二時間で元の位置だ。
襲ってくるモンスターのことを全く考慮しなければ、だが。
「四時間って微妙だな」
「ついでに詳細なマップも作ってますから、外周付近の行ったことのない場所を目指しましょう」
「夜だけに登場するエリアボスとかいないだろうな?」
「先輩。それ、フラグっぽい」
「やめろよ」
「大体、夜の十層なんて、だれも探索してませんからね。未知の何かがあっても全然おかしく――」
「どうした? ミクマク族の秘密の墓地でも見つけたか?」
「先輩、あれ」
三好が指差したその場所は、遠目に見るだけでは、いくつかの小さな丘が連なっているだけに見える場所だった。
しかし、よく見てみると――
「これ、全部お墓じゃないでしょうか」
「丘陵と言うには小さいか。円墳ってやつか?」
「ぽっこり山と呼びましょう」
「いや、たくさんあるぞ?」
ざっと見ただけでも4から5個はある。もしかしたら、奥にはさらにいくつかあるかもしれなかった。
「じゃあ、アウェンティヌスとかカピトリヌスとか呼びます?」
「なんだそれ?」
「古代ローマの丘の名前です」
「……ポッコリ山に1票」
そんなややこしい名前が覚えられるはずがない。
「先輩。『ぽっこり』は、カタカナじゃなくてひらがなですから!」
「はいはい」
丘同士が向かい合わせになっている谷間の、とても行きづらそうな場所に、入り口のようなものがありそうだ。
なぜ行きづらいかと言うと、谷間になったところに、ゾンビがいっぱい詰まっていたからだ。誰かが通りかかったことがあったとしても、あれには近づきたくないだろう。
「すごく面白そうなのは確かだが、残念ながら調べてる時間はなさそうだな」
「今度こそ、本物のバロウワイトが出てきそうなんですけど……」
「本物ってなんだよ」
確かに屋敷で会ったスケルトンは、スケルタルエクスキューショナー然としていて、バロウワイトっぽくなかった。
本来なら霧と恐怖で相手を支配して、そのまま塚山に引きずり込まなければ。
「むー、仕方がありません。マークだけ……そうだ! 先輩、ここへの転移石を作っておいてくださいよ」
「まあ、魔結晶も結構ゲットできてるし、いいけどさ」
魔結晶のドロップ率は、以前立てた仮説通り、基本ドロップ率×(運÷100)くらいだった。スケルトンのBDR(基本ドロップ率)は、大体0.25だ。
俺の運は100なので、ほぼ4体に一個、魔結晶が手に入った。
周囲では相変わらずカヴァスたちが大暴れしている中、俺は、この一週間ですっかり手慣れた様子で転移石を何個か作ると、三好がそれにマジックでどくろマークの書き込みを行った。
塚人のつもりなのだろうが、使ったら死にそうだぞ、それ。
「よし、ちょっと遅れたから、ペースを上げるぞ」
「了解です」
ぽっこり山なんてひどい名前を付けられた墓の呪いか、その後すぐの百匹目に、バーゲストは現れなかった。
、、、、、、、、、
『くっそ、どうなってんだ、このフロアは!』
倒しても倒してもやってくるアンデッドの群れは、さながらB級ホラーの様相を呈していた。
しかもゾンビの臭いには閉口させられる。倒したものは消えてなくなるが、すべてを倒している余裕などないのでなおさらだ。
『こいつら、いったいどこからわいてくるんだ?』
『そりゃ、墓の中からってのが定番だろ』
日没から二時間が過ぎたが、未だにレンジ内に先行する二人を捉えることはできていなかった。
『残弾数はどうなってる』
『あと6割ってところだな』
『このまま進めば、帰りは肉弾戦になるかもなぁ……』
ティエリが情けない声でそう言った。
弾薬が半分になったところで引き返すべきかどうか、ヴィクトールは悩んでいた。
そもそもこの任務は、最初から怪しかったのだ。
作戦行動中に突然の命令変更、しかもその内容が、Dパワーズの後を追いかけて接触する何かを確認し、可能ならその何かに接触する、だ。
何かとはなんだ? あまりに漠然とし過ぎていて、適切な装備を選択するのも難しかった。
『しかし、こんな場所で、一体何に接触するって言うんだろうな』
『去年亡くなったおばあちゃんに違いない』
思わずこぼれたヴィクトールの言葉を、ティエリがまぜっかえす。
もちろんそれを調べるのも任務のうちなのだが――
『しかし、連中は完全にレンジ外だ。どこかで道を外れられたらどうしようもないぞ』
クァンタンが、新しい弾薬をポーターから取り出して、ヴィクトールに渡しながら懸念を表明した。
それを受け取ったヴィクトールは、今まさに、彼の肉をかじろうと、正面のエンプラに張り付いたゾンビの頭を、銃眼からのショットで吹き飛ばしながら彼に答えた。
『モンスターの少ない方向はわかるだろ?』
『あ? ああ、まあそのくらいなら』
追いかける俺たちですらこのありさまだ。先行している連中には、もっと多くのモンスターたちが群がっていることだろう。
ポーターでガードしていても進むのが大変なのだ、それがなくても進めるってことは、出てくる敵をすべてなぎ倒しているに違いない。どうやってだかは知らないが。
『それがやつらの足跡だ』
、、、、、、、、、
10時になるころ、俺は、400匹目の調整を行っていた
「今のところ魔結晶は、都合、90個くらいですね。あと、ポーション(1)が7本です」
「まあまあか?」
「LUCが400くらいあると、スケルトンを倒すたびに魔結晶をゲットできて、ウハウハなんですけどね」
「それはそれで楽しそうだが、この先絶対困ることになりそうだからNGだな」
オーブ取得のスケジュールは、思ったよりもうまくいっていない。今のところバーゲストは三頭登場したが、丁度いいカウント数で発見されたのはたった1頭だ。
霧で視界が悪くなるし、さすがに、70体以上を倒すまで、現れたバーゲストを引っ張るのは面倒だったのだ。
「仕方ない。そろそろ館を出す準備をするか」
「準備って、なんです?」
「ちょっとだけドリーを出して、中で休憩とか?」
「そういえば、おなか減りましたね。豚串食べたっきりです」
「そうだな」
追いかけてきていた連中は、まだ探索範囲よりも外にいるらしい。
道からも外れているし、おそらく撒いたんじゃないかと思いたい。
適当に開けた場所を見つけた俺たちは、館突入前の休憩をとることにした。
、、、、、、、、、
『残り3割と少しだ!』
クァンタンが、ふたりに弾薬を私ながらそう報告した。
そろそろ追いかけ始めて5時間だ。結局、ヴィクトールたちは、引き返すことをやめて、三好たちを深追いしていた。
周りにゾンビとスケルトンしかいなかったことと、思ったよりもトーチカの盾が丈夫だったことで、いざとなったらこの中で亀のように縮こまりながら朝を待って、同化薬で戻ることも可能そうだったからだ。
『エンプラが思ったよりも頑丈で助かった』
『足が遅いだけのことはあるな』
『それ、褒めてるのか? しかし、視界を確保するためとは言え、縮こまるのに透明なのは落ちつかないけどな』
その時墓の間に、白いものが漂い始め、這いずるタイプのゾンビの姿を隠し始めた。
『おい! なんだ、この霧は』
『拙いな。こりゃ、バーゲストのお出ましっぽいぞ』
だんだん濃くなっていく霧の向こうから、鎖を引きずるような音が聞こえてくる。
『くそっ、いつもの装備なら離れてたっぷりと鉛弾を食わせてやるんだが……』
『それより、バーゲストってのは、あまり強力でないモンスターの範疇なのか?』
バーゲストは、その大きさや召喚するヘルハウンドの群れのことを考えれば、十分に強力なモンスターと言えた。
複数で登場することはほぼないため、大抵は近づかれる前に弾幕で制圧してその脅威から逃れていた。
『そいつは微妙なところだ』
そう言った瞬間、斜め後方から、黒い塊が突進してきて、ガツンという音と共にポーターが斜めにずれた。
『うぉっ!』
『なんだ?!』
それは1頭のヘルハウンドだった。
それを見たヴィクトールが叫んだ。
『足下に魔法陣が広がらないか注意しろ!』
ヘルハウンドの召喚位置は不定だ。もしもシールドの内側に召喚されたりしたら、目も当てられない事態になる。
幸いヘルハウンドの召喚には魔法陣がくっついている。それを見てから移動するくらいの時間はあるのだ。
霧の中から定期的にヘルハウンドの突進が行われる。
そのたびに、ポーターが揺れ動き、移動のタイミングによってはひっくり返されそうになる。
『こいつは、ホント拙いな』
突進してくるヘルハウンドを銃撃しようにも、斜線に自由度がなさ過ぎて、当たりそうになかった。
クァンタンは、すでにポーターの移動を止めて、シールドを利用して踏ん張る体制にセットしていた。
後は銃眼から狙いをつけながら、ヘルハウンドが目の前に現れるのを待つしかなかった。
しかしあまりそちらに気を取られて、シールドの隙間に近づきすぎると、そこからゾンビの手が伸びてくる。
捕まってしまえば、その手も脅威だった。
『ヘルハウンドでこれじゃ、バーゲストの突進は防げないかもしれないぞ』
『おいおい、ここでトーチカごとひっくり返るのは勘弁してくれよ……ゾンビに生きながら食われるのは嫌だ』
そこで、ひときわ大きな咆え声が聞こえて来たかと思うと、霧の中から巨大な体が突っ込んできた。
それは四トントラックが全力でぶつかってくるようなものだった。
ものすごい音と共に、サイドのシールドを支えるアームが曲がり、ポーターが浮き上がりかけた。
『ヴィクトール! こいつは無理だ! 次はもう持たん!!』
アームが曲がってシールドが浮き上がった、その下からゾンビが這いずって入ってこようとするのを、銃弾で吹き飛ばしながらクァンタンが叫んだ。
『くそっ、こうなったら倒された瞬間にうって出るぞ!』
ヴィクトールたちは覚悟を決めて、持てるだけの銃弾をアーマーのポーチに詰めまくった。
霧の中でうごめいている、赤い光がいくつも交錯し、もう一度大きな咆え声が上がった時――
『え?』
突如として足下にいたゾンビたちが、後ろへと下がって行った。
赤い光が消えて、霧が徐々に薄れていく。その霧の向こうに、数多いたアンデッドの群れは、静かに地面の下へと消えて行った。
ヴィクトールたちには、何が起こったのか分からなかったが、何かが起こったことだけは理解できた。
『なんだ? いったいどうなってんだ?』
うーうー呻る、ゾンビどもの耳障りな声が、きれいさっぱりと消えてなくなり、あたりは静寂に支配されていた。
『何が起こったのかはわからんが、どうやら助かったことだけは確かだな。今のうちに逃げ出すか? それとも――』
ティエリが、俺たちが進んでいた方向に目を向けた。
『行けるところまで行くのはいいが、もう足跡がなくなっちまったぜ?』
モンスターが影をひそめてしまった以上、それらが少ない方向も分からない。
彼らは、一瞬躊躇したが、せめて向かっていた先にある丘の上から、その向こうを見下ろしてみることにした。
丘の上に登ると、その先は、なだらかに下っている広大な墓地だった。
『あまり変わり映えはしないようだが』
『おい、ありゃなんだ?』
クァンタンが指さした方向の、はるか先にある丘の影に、尖塔のようなものが見えていた。
ヴィクトールはすぐに双眼鏡を取り出すと、その尖塔に焦点を合わせた。
『洋館だと? こんな場所に?』
彼らは引き返すべきか進むべきか、難しい選択を迫られていた。
186 会談(3)了
「さて、三回目ともなれば慣れたものだな」
俺たちは目の前に現れた、いつもの鉄の門を押して、キィーといういつもの効果音を聞いていた。
「今度油さしといてやるか」
「余裕ですねー」
「ま、最初くらいはな」
「終わりの方は、過去二回とも、ほうほうの体で逃げ出してますからね」
「まったくだ」
外から見上げたその館は、言ってみればスタンダードなマナーハウスの構造をしている。
当時のマナーハウスは上に行くほど、下っ端の従業員の部屋になっているはずだから、書斎はせいぜい二階だろう。
もっとも二階建てに見える家なので、一階かもしれないが、前回覗いた限りでは、一階にそんな部屋はなさそうだった。
「実はあの本棚がびっしりあった正面玄関のロビーが書斎を兼ねてたりしません?」
「そんなマナーハウスがあるかよ。それじゃマニアハウスだろ」
碑文の代わりに、ウィーンとせりあがってくるタイラー博士。うーん、それはそれでアリかもしれない。
初回はムニンとガーゴイルとモノアイがお出迎えしてくれたが、二回目は、ふわふわと歩き回る使用人たちだった。モノアイは、なんと使用人の体の中にいた。
今回は――
「二回目と一回目の合わせ技か?」
修理が終わったと言わんばかりに、屋根の上のガーゴイルがこっちを見ているし、軒下のモノアイも健在のようだ。ムニンかどうかは分からないが、カラス然とした鳥も、かなり離れた位置にある葉のない木の上で群れていて、時折数羽が飛び立ったり戻ってきたりしていた。
そして館のあちこちでは、使用人と思しきゴーストたちが、ふらふらと歩いていた。
「満漢全席ですね」
「なんだ、その例え」
「で、正面玄関から?」
「いや、二回目と同じルートで勝手口からいこう。館の中に入ったら――ロザリオ、頼んだぞ」
そう言うと、バックパックの中から、ピルルルと小さな声が聞こえた。
、、、、、、、、、
『なんだ、ここは?』
墓場の中にポツンとたたずむ洋館を前に、ヴィクトールたち三人は、唖然としていた。
『以前、まるで映画のトレーラーのような動画で見たことがある』
情報担当のクァンタンが、呟くように言った。
『なんだと?』
『日本ダンジョン協会が公開した情報に、「さまよえる館」ってのがあるんだ』
『さまよえる館?』
クァンタンは、日本ダンジョン協会が公開した情報で覚えていることを二人に話した。
『じゃあなにか? 連中はゾンビを373体倒して――』
ヴィクトールが館に目をやった。
『――あれを出現させたってことか?』
実際はすでに館を出現させたモンスターを、373体倒しても再出現しないのだが、彼らはそのことを知らなかった。
『それが目的で、夜の十層にやってきたのか』
ティエリが納得したようにそう言った。
Dパワーズの連中が、この館を出現させたのかどうかはわからなかったが、少なくとも夜の十層にいる探索者は、自分たちと彼らしかいないだろうと、ティエリは考えていた。
『じゃあ、接触する相手ってのは……』
『あの中にいる誰かってことだろうな』
『この館は明日の零時に消滅するそうだ。……で、どうするんだ?』
日本ダンジョン協会の動画を見ていたクァンタンがそう訊いた。
動画の中で襲い掛かってきていたモンスターたちを、今の装備で乗り切れるかどうか不安だったのだ。
ちらりと時計を見ると、リミットまであと三十分と言ったところだ。
数秒の間、館を見ながら考えこんでいたヴィクトールが、二人の方を振り返って言った。
『行くぞ』
、、、、、、、、、
屋敷の勝手口を開けて館内に侵入した俺たちは、ロザリオの案内で館内を歩いていた。
どう見ても直線の廊下なのだから、二階へ上がって、まっすぐ進めばいいようなものだが、ロザリオがとったルートは、あちこちの階段を上がったり下りたりする奇妙なものだった。
しかも――
「先輩。さっき、上がって上がって上がって、さらにもう一度上がりませんでした?」
「気にするな。気にしたら負けだ」
何と勝負をしているんだと言われそうだが、精神の安定のためにも、それは必要な事なのだ。
「ルートそのものが、何らかの呪術的な文様になってるってやつだろ」
「そのほかのルートじゃたどり着けないってことですか?」
「たぶんな」
二階は二階でも、同じ二階とは限らないってことだろう。量子ビットさながらに、いくつかの二階が重なって存在していて、どの二階が有効になるのかはルートに依存している。
マクロの世界でそんなことが起こったら、世界の秩序が崩壊しそうだが、ここは異界だ。うん、だから何でもありなのだ。
「だけど、それと、4回階段を上がるのは別の話のような……」
「気にするな。気にしたら負けだ」
俺たちは額に嫌な汗を浮かべながら、ロザリオの後ろを早足についていった。
そうしてついに、彼女は一枚のドアの前に舞い降りて、こつこつとくちばしで床を二回叩いた。
「あれも、なにかのお呪いですか?」
「いや、さすがにそれは……」
ともあれここが終点らしい。
ノックをするべきかどうか迷ったが、正面に立っただけで、扉は俺たちを迎え入れるように内側に向かって開いた。
「正面玄関と言い、ここと言い、サービス精神にあふれた館だよな」
俺は内心ビビりながら、肩をすくめて見せた。
室内に入ると、そこは確かに書斎のようだった。
左の壁には書棚が、そして右の壁には大きな絵が1枚かかっていて、その絵の左上には文字が描かれていた。フランス語だ。
D'ou Venons Nous
Que Soミリes Nous
Ou Allons Nous
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか、か」
「我々って、探索者ですかね? それともダンツクちゃんたち?」
「それはなんとも難しい問題だな」
ゴーギャンが書いたのは、自分を含めた人類のことだろうが、この絵がここに掛けられた瞬間、その意味は曖昧になっていく。
「しかし、ダンジョンってのは、とことんフレーバーで攻めて――」
「ようこそ」
正面から懸けられた声に振り向くと、いつのまにか、使い込まれて飴色になった机の向こう側の重厚な椅子に腰かけて何かを読んでいたタイラー博士が、顔を上げてこちらを見ていた。
え、入って来た時、そこに居たか?
「と思ったら、またまた君たちとはね」
パタンと本を閉じて立ち上がった博士は、部屋のまんなかに据えられているソファセットに座るように、右の掌でそれを指し示した。
言われた通りに腰かけると、彼は、ワゴンに用意されていたティーセットから紅茶を注いで、それを俺たちの前に置いてから、自分も向かいの席に腰かけた。
カップから、フルーティで甘めの香りが立ち上る。
俺は、揺れ動きながら光を反射させている紅茶の表面をしばらく見つめた後、それを指さし、冗談めかして三好に言った。
「これを飲んだら、もとの世界に帰れなくなるなんてオチはないよな?」
それを聞いた博士は笑いながら、自分のカップに口をつけた。
いや、あんたはここの住人だろ。何の証明にもならないから。
「ここはカムイコタンじゃないし、ペルセポネもイザナミも残念ながら来たことはないよ。来ればきっと、ゴパルダラの茶葉が気に入ると思うんだがね」
「ゴパルダラ?」
「ダージリン地方でも高地にある農園です。色合いと時期からして、たぶんオータムナルですね」
ついでに三好が小声で教えてくれたところによると、その意味は「ゴパルの泉の水」で、ついでにゴパルってのは神様の子供らしい。
「詳しいね。入れたてはフルーティで甘い香りが立ち上がるが、しばらくすると、花の香りが現れるよ」
「タイラー博士って、紅茶通なんですか?」
三好の問いに、彼は笑って、「私は研究以外どうでもいいという、いかにもなタイプだと思うね」と答えた。
どうやら紅茶は、この館の持ち主だった彼の祖母の趣味らしかった。記憶と体験からの再現ってことか。
しかし、神様の子供の泉の水ね。
黄泉戸喫《よもつへぐい》の危険性は穏便に避けておきたいし、それにいかにもなタイプならこれだろう。
俺は自分の保管庫から、3本の赤い缶を取り出してテーブルの上に置いた。
こいつとピザの誘惑に勝てるアメリカの研究者はいない(偏見)
「ほう」
博士はその缶を見て、一言だけそう言った。
俺はそれを彼の前へと差し出した。
「瓶であれば最高なのだが」
そう言いながらプルタブを引っ張った博士は、冷たく冷えたそれを喉に流し込んだ。
コカ・コーラ。それは彼らのソウルフードなのだ(偏見)
「それで、わざわざここまで来たからには、なにか聞きたいことがあるんだろう?」
ひとしきりそれを楽しんで、小さなげっぷを出した博士は、そう切り出してきた。
「いえ、聞きたいのはそちらじゃないかと思いまして」
「私が?」
「というよりも、ダンツクちゃんが」
「君たちに? 一体何を?」
俺は、質問に答えず、三好が用意していたクラムシェルスタイルのノートパソコンを保管庫からとりだした。
「これをどうぞ」
「これは?」
「たぶんダンツクちゃんが、一番欲しいもの、だと思いますよ」
「なかなか言うじゃないか」
そうして博士は、ノートの蓋を開いた。
そこには、『だんつくちゃん質問箱』のモデレート版が、オフラインで表示されていた。
「普通の人たちと、話をしてみたくありませんか?」
もちろんそこには探索者も数多く含まれていたが、いわゆるプロフェッショナルな探索者はほとんどいないだろう。
ほとんど一般人と言っていい人たちの言葉がそこにはあった。
博士は奇妙な表情を浮かべながら、キーボードを操作すると、俺たちの方を見て頭《かぶり》を振った。
え? 嘘? 興味ないの? もしもそうなら、俺たちの計画は――
「あー、残念だが、日本語は読めないんだ」
俺は思わず、ソファからずり落ちそうになった。
どうしてそんなところだけリアルなんだよ!
「だが――」
博士は俺の大袈裟なリアクションに苦笑しながら続けた。
「――どうやら、君たちは、彼女の興味を引くことには成功したようだよ」
博士の視線を追いかけると、飴色の机の上にぺたんと女の子座りで腰かけてノートパソコンを覗き込んでいる彼女がいた。
ノートパソコンだって?
あわてて博士の方を振り返ると、同じものに見えるノートが、確かにそこにあった。
「どうやら、無機物のコピーも簡単なようですね」
「そりゃまあ、人間を再構成するよりは簡単だろうけど……」
素粒子レベルで合成しているというのなら、体積が小さいほうが簡単だろう。
人間の記憶まで再現しているのだ、メモリーの上の情報の再現程度はどうということはないのかもしれなかった。
彼女は楽しそうにそれを読んでいた。
操作に迷いがないのは、やはり博士たちが混じっているからだろうか。
「普通に読んでますね」
「どこかのコンピューターよろしく、情報を一瞬で読み取るかと思ってたな」
そうして、何かを入力した後、首をかしげた。
ここだ。ここが勝負のしどころだ。
「それは、そのままじゃ返事が出来ないんだ」
俺はあらかじめ用意してあった、周波数の表をポケットから取り出して、彼女に見せた。
「ダンジョンの外と各階層間で、電波の中継をしてくれれば、繋がる――話せるようになるよ」
俺がそう言った瞬間、彼女のパソコンがうちのメインフレームに接続した効果音が鳴った。
「先輩!」
その声に振り替えると、三好が差し出してきたスマホのアンテナが、きれいにフルマークで立っていた。
そうしてあっけなく、ダンジョン内通信時代が幕を開けた。
なにしろ各層が別の空間なんて非常識な構造なのだ。それぞれの層に地上の電波を中継することくらい、ダンジョン製作者にとっては造作もないことだろう。ただ、その必要がなかったというだけで。
彼女は、黙々とパソコンに何かを打ち込んでいた。打合せ通りなら、鳴瀬さんが地上で内容をモデレートして掲示板と繋いでいるはずだ。
将来的にはAIに任せたいが、おそらく無理だろう。しばらくは人力でダンツクちゃんに付き合うしかない。
俺たちは少なくとも彼女が慣れるまではと考えているが、ダンジョン協会や国家がこれを知ったら、おそらく永遠にモデレートしたいはずだ。
それをどうするかを考えるのは、この先の問題だ。
「楽しそうですね」
「まったくだ。それに、どうやら君たちも目的を達成したようだしね」
博士は、からかうようにそう言うと、片目をつぶった。ばれてーら。
「そういえば、一つだけ聞きたいことがあるのですが」
「なんだね?」
俺は、鳴瀬さんに頼まれていた、3三層へ下りる階段についての質問をした。
それを聞いた博士は、一言だけ、「ロザリオを連れて行くといいよ」とアドバイスをくれた。
やはりどこかに隠されているのだろうか。
と言うより、取得した経緯を考えると、ロザリオは秘密の花園や3三層への道筋を示すためのギミックの一部なのかもしれない。
「おや?」
突然首をかしげた博士は、席を立って窓のそばまで歩いて行った。
「どうやら、新しいお客様がいらっしゃったようだね」
「え?」
慌てて俺も窓際へと移動する。
そこから前庭を見下ろすと、丁度正門から三人の探索者が、奇妙な機械を連れて侵入してくるところだった。ポーターって奴だろうが、以前十八層で見たものとは形が違う。
彼らは、俺たちが最初に来た時のように、おそらくは正面玄関を目指しているに違いない。そしてそこには碑文があるのだ。
「もしかして、さっきの連中か? 三好、残り時間は?」
「まだ三十分以上あります」
結構あるな。これ、逃げないと巻き込まれるパターンじゃ。
「館の連中って、碑文を手にした者たちだけを襲ってくると思うか?」
「私たちと彼らが仲間じゃないって、どうやって判断するんです?」
「あるだろ、パーティ単位とか」
「そこに親分がいるんですから、聞いてみたらどうです?」
「――で、どうなんです?」
博士は困ったような顔をすると、肩をすくめながら言った。
「十分に発達し、勝手に学習した後のAIの挙動が、開発者に分かると思うかね?」
うん、まあ、そうかもな。
日本語がまるで読めない開発者が、日本語の認識AIを作るなんてのはざらにある話だ。
真の意味での汎用AIの行動が、開発者に予想できるはずはない。
「仕方がない、今のうちに撤収するか。じゃあ、博士、俺たちはこれで」
「言っても詮無いことだが、気をつけてな」
「もう、しばらくは来られないと思いますが――」
俺は机の上のパソコンを指さして言った。
「あれで、連絡は出来ますから。バッテリーは――」
「それはこちらでなんとかしよう」
俺たちは二人に別れを告げると、その場を後にした。
ドアを出る前にちらりと机の上のダンツクちゃんを見ると、彼女は笑って手を振っているように見えた。
「さて、先輩。どこから?」
「そりゃ、キッチン側の階段を下りて勝手口から逃げるしかないだろう。頼んだぞ、ロザリオ」
俺の方の上で、ロザリオが小さく鳴いた。
帰りのルートも呪術的な文様になっていたりしたら、俺達じゃ正しい扉に辿りつくのに時間がかかりすぎる。
「正面玄関は?」
「ここまで来られた精鋭にお任せするしかないな」
助けに行けるものなら助けたいが、割り込むタイミングによっては、言うことを聞きそうにない三人を連れて、婢妖の群れと化したアイボールを突破するのはおそらく無理だ。
下手をすれば三人との戦闘になってもおかしくない。
彼らもプロなら、日本ダンジョン協会がアップした映像は見ているはずだし、引き際を間違わないことを祈ろう。
途中ですれ違った使用人たちは、来る時と同様、俺たちを無視して活動していた。
おそらく、まだ碑文に手を出していないのだろう。初見で必要以上に慎重になるのは、プロでなくとも当然のことだ。
駆け足で、キッチンの前の階段を下りたところで、館の奥から銃声が響いてきた。
「どうやら、バロウワイト戦が始まったみたいだぞ」
「あの人たち、大丈夫でしょうか?」
「さあな、俺たちは、館を出られる位置で出来るだけアイボールを狩るぞ!」
それが少しでも彼らの一助になればいいのだが。
「了解です」
館が消えてなくなるまで、まだ一時間は残されている。
フランスだかドイツだかの連中が自力で脱出して来られるなら、門の前で、それを援護する程度のことならできるはずだ。
、、、、、、、、、
それからしばらく、俺たちは門柱付近に陣取って、軒下のアイボールや屋根の上のガーゴイルを攻撃していた。
攻撃された周りのモンスターが、それに反応してこちらを襲ってきたが、大した手数ではなかった。
「三好?」
「あと5分です」
正面玄関の銃声が途切れてから、一分ほどが経過しているが、彼らはまだ出てこない。
「どう思う?」
「バロウワイトにやられたか、そうでなければやっつけて室内を物色して――」
三好がそう言いかけたとき、軒下のアイボールが、ごっそりと地上へと垂れ下がり、再び銃声が聞こえてきた。
「――碑文を手に取ったみたいですね!」
「ゴーストにでも襲われたか! とにかく少しでもこっちへ引き付けるぞ!」
「了解です!」
俺は、大量のウォーターランスを作成して、撃って撃って撃ちまくった。
攻撃をうけた付近のアイボールは、矛先を変えてこちらに向かってきた。
「連中、何やってんだ?!」
さっさと正面玄関から撤退すればいいのに、いつまでたっても出てこない。
そうこうするうちに玄関より向こう側にいたアイボールたちが、正面玄関からなだれ込んだ。
「先輩!」
「いくらなんでも、あそこに突入するのは無理だ!」
半分とは言え、こちらに向かって来ているアイボールの数も相当だ。
こいつらを蹴散らして、正面玄関から助けに行くなんて――
無理だと考えたその瞬間、館の鐘楼が、高らかに鐘を鳴らし始め、その輪郭がゆがみ始めた。二十三時59分だ。
インフェルノが使えれば、一気に殲滅と言うことも可能だろうが、なにしろあの群れの向こうには、探索者がいるかもしれないのだ。ノヴァ系だって使えない。
全力でウォーターランスを撃ち込みながら、鉄球をばらまいたところで、こちらに向かって流れてくる群れを殲滅するだけで精一杯だ。
アイボールの群れの圧力が二分しているからこそ、以前と違って、ここに踏みとどまっていられるのだ。
足下の地面がふわふわしてきたことを契機に、俺たちは門の外まで後退した。
そこを一分弱の間死守したが、館の輪郭が溶け落ちて鐘楼の鐘の音が打ち切られても、彼らは戻ってこなかった。
もしかして、トップエクスプローラーの損失か? これ……
しばらくすれば、辺りの墓の中から、またアンデッドたちが這い出して来るだろう。
とにかく今は、辺りに散らばるアイテムを集めながら、彼らの痕跡を探してみるしかなかった。
、、、、、、、、、
アンデッドを蹴散らしながら、館があった場所の探索をざっと終えた俺たちは、丘の上にドリーを出してそこに避難した。
DPハウスでもよかったのだが、十層はドリーの方が実績がある。
精神的に疲れ果てた俺は、ダイネットのソファにどさりと体を預けると、少しの間目を閉じて、犠牲になったかもしれない彼らの冥福を祈った。
最近の代々木ではあまり聞かないが、今この瞬間にも、探索者の命は世界中ダンジョンで失われている。
知識としては知っていても、やはり目の前でそれが起こると動揺するのが日本人だ。たとえそれが知らない人たちで、遺体を目にしてすらいなくても。
「鳴瀬さんが、転移石にこだわったわけが実感できたよ」
三好が注いでくれた冷たい水を飲み干しながら、誰にともなくそう言った。
「ダンジョン管理課には、こういった情報が積み上がるでしょうからね」
三好が何かを検索しながら、こちらを振り返りもしないでそれに答えた。
日頃能天気な彼女も、さすがに何かを感じているようだった。
「館跡で見つかった、スクラップですけど。たぶんフランス産のポーターですね。フランスの軍産とルノーが共同開発したときのプレスリリースに同じような機体がありました。なんと愛称は、『方舟』ですよ」
「方舟? そりゃまた……って、どうやって――」
調べたんだと言おうとして、すでにネットが使える環境になっていたことを思い出した。
「館が消えても、電波はそのまま利用できるみたいです」
「そうか……不幸中の幸い、と、言っていいのかな」
俺は、その言葉の意味をぼんやりと考えながら、しばらく無言でドリーの屋根を見ていたが、ふと不安に襲われた。
「通信環境と引き換えに、ダンツクちゃんの手に新たなるコミュニケーションツールが渡ったわけだが、あのパソコン、本当に大丈夫なんだろうな?」
これを契機に、ダンツクちゃんが世界中のネットワークを掌握するなんて事態はなるべくなら避けたいが……
「有線じゃありませんから、絶対はありませんけど、なにをやってもうちのメインフレームを経由するはずです」
「設定を書き換えられたら? 相手は、集合的無意識たる存在だから、パスワードなんかなんの意味もないかもしれないぞ?」
三好の意識だってそこには含まれているはずだ。
だから、ルートのパスワードだって、探せばそこに存在しているはずなのだ。
「ルートのパスワードは、すべての設定が終わった後に、でたらめな入力で置き換えました」
「え? じゃあ、三好でも再設定は――」
「できませんね」
彼女は首を横に振りながらそう言った。
「シングルユーザーモードは?」
「ランレベル1の設定は壊しておきました」
ランレベルはUNIX系OSの動作モードを意味していて、1には大抵シングルユーザーモードが設定されている。
シングルユーザーモードは、パスワード無しでrootになれるモードだが、それに対応するランレベルの設定ファイルを壊しておけば使用できない。
それなら、まあ――いや。
「丸ごとOSを再インストールをされたら、どうしようもないだろ」
「OSのダウンロード自体、うちのメインフレームを経由しますから、差し替えられますよ」
それでも心配そうに頭をひねる俺を見て、三好が言った。
「先輩、あのノートのコピーを見たでしょう? ネットに接続して何かするつもりなら、とっくの昔にやってますよ。だって、コピー元なら、その辺にうじゃうじゃありますし」
「うじゃうじゃ?」
そういうと三好が、自分のスマホを振って見せた。
なるほど。確かに、ダンジョンにスマホを持ち込んでいるやつは大勢いるだろう。通信はできなくてもそれ以外の機能は使えるからだ。
ダンツクちゃんはその気になれば、そのハードだってソフトだってコピーし放題ってわけか。
「もしも――もしもですよ? 一般人が、SNS上で、ダンツクちゃんの書き込みを見たらどうすると思います? しかも内容がトンデモだったりしたら?」
「大抵は『乙』で終了だな。普通なら相手にしてもらえないかもな」
「でしょ?」
「まさか――」
彼女が求めているのはコミュニケーションで、人類のインフラを破壊することじゃない。
だからネットのどこへでも自由に潜り込める能力が、仮にあったとしても、そんなことに興味はなかったはずだ。少なくとも今までは。
「とっくの昔に試したことがありそうな気がしませんか?」
「そうだな――」
ハードやソフト以外にも通信経路と言う問題がある。
代々木や横浜じゃ電波は届いていなかったけれど、例えば、ザ・リングのような施設なら、通信設備はそのまま生きていたかもしれない。
タイラー博士たちを吸収した何かがそれを試した可能性は十分にあるか。
「――可能性はあるかもな」
実際にそういった書き込みがあったのかを、世界中のSNS、三年分のログから調べることができるかもしれないが、俺達には難しいだろう。
だから検証は不可能だ。
しかし、そういう経験があったからこそ、あのサイトを見て喜んだのかもしれない。
もちろんこれも検証は不可能だ。
「ま、こんな疑問を覚えたり、心配したりした時点で、彼女には筒抜けなのかもしれないけどな」
「サトリとの駆け引きは難しいですねー」
俺は自分のスマホを取り出してみた。
そこでは電波状態を示すアイコンが、すべてきれいに点灯していた。
人類はダンツクちゃんとコミュニケーションをとる危険を冒して、ダンジョン内で通信できる環境を手に入れた。
どちらが得をしたのかは――まだ、誰にも分らなかった。
187 報告 3月11日 (月曜日)
その日の夜遅く、美晴は、Dパワーズの事務所で、信じられないものを見るような目で、メインフレームのコンソールを見ていた。
そこでは「だんつくちゃん質問箱」のクローンがリアルタイムで更新されていた。
本来、このクローンに書かれている発言をチェックすることで、メインフレーム内の「だんつくちゃん質問箱」にその発言が公開される仕組みになっていた、つまりはダンジョンに与える質問をモデレートしていたのだ。
ところが、つい今しがた、突然メインフレーム内の質問箱にレスがついたのだ。
そしてそのレスを、本物の「だんつくちゃん質問箱」に転送するかどうかのチェックボックスが有効になっていた。
そして次々にそのレスの数が増えて言った。
「これ、まさか……」
思わずそう口にした時、彼女のスマホが鳴った。
相手は芳村のようだった。
「はい、鳴瀬です」
「あ、鳴瀬さんですか。芳村です」
「どうしたんですか、こんな時間に。今どちらに?」
「今、代々木の十層です」
「は?」
「代々木の十層です。予定通り、代々木ダンジョンは通信環境を手に入れたんですよ」
「予定通りって……もしかしてダイバージェントシティプロジェクトを止めたのって――」
「確か最初は通信環境の整備でしたよね?」
「で、でも、どうやって?」
「そっちにダンツクちゃんのレスが行ってませんか?」
「……来てます。って、これ、本当に?」
「本物ですよ。通信環境があれば繋がるのになーと言ったら、一瞬で接続されました」
それを聞いた美晴は、目が点になった。
「されましたって……」
「ともかくすぐにそちらへ戻ります。たぶん15分後くらいに」
「ええ?!」
「ダンツクちゃんのレスは、公開していいと考えたものだけ日本ダンジョン協会の質問箱に反映させてください。じゃ!」
「え、じゃって……芳村さん?!」
美晴は、接続が切れたスマホを眺めながら、呆然と呟いた。
「ダンジョン内で携帯が使えるようになって――」
そうしてゆっくりとコンソールを振り返った。
「――ダンツクちゃんと、コミュニケーションが取れるようになった?」
確かにそういうアイデアを持ち込んだのは美晴だ。でも、でも――
彼女は思わずこぶしを握り締めて、天井を仰ぎ、大声を上げた。
「何をやってんのよ! あの人たちは!!」
、、、、、、、、、
「ただいまー」
俺たちは、鳴瀬さんに電話を入れてから、十分ちょっとで自宅まで戻ってきた。
今の常識では信じられない出来事だが、帰還石が普及すれば、きっとこれが普通になるのだろう。
「ただいまーじゃ、ありませんよ!」
玄関を入ったところで、仁王立ちしていた鳴瀬さんに怒られた。
「ええー?」
「あ、あれは、あれは……いったいなんなんですか!」
「あれって……ダンツクちゃん?」
いまさらだが、すっかりダンツクちゃんになってるな。デミウルゴスの方がらしいと思うんだが。
「そうですよ! なんであっさり話が通ってるんですか!」
「いや、あっさりって。……結構大変だったんですけど」
「え? そうなんですか?」
鳴瀬さんが心配そうに眉尻を下げた。
「まあ、なんというか……犠牲もでましたし」
「犠牲?」
「明日になればわかると思いますけど、フランスかドイツのトップチームが、おそらく戻ってこないと思います」
「ええ?! 代々木の十層で?」
「はい。おそらくはフランスのチームだと思いますが……」
「詳しく伺っても?」
「三好、動画って――」
「一応あります。先輩のアクションカムの映像が」
三好は、それ用の外付けSSDを取り出して、今のモニターに出力する準備をしながら言った。
「館での動画は全部あると思いますけど、書斎の内部は公開しない方が……」
「え?」
「タイラー博士が映ってるはずですから」
「ああ」
「ええ。それとたぶんダンツクちゃんも」
「え?! 会われたんですか?」
「まあ、会ったというか、現れたというか」
「この辺ですね」
三好が止めた映像は、俺が窓際に走り寄ったところだった。
「ほら、あの窓の下、正門から入ってきたチームです」
「あれは確か――先日発表されたばかりの『アッシュ』ですね」
三人に付き従っている、少しよれた感じで移動するポーターを指さして鳴瀬さんが言った。
アッシュは、Arche。英語ならArk。つまり方舟だ。
「デモを見た限り、前後左右にシールドを張って、まるで船のような形のトーチカになっていました」
「ああ、それで方舟」
画面の中で彼らは、辺りに注意を払いながら、少しずつ正面玄関に向かって進んでいた。
「皮肉ですよね」
「なにが?」
「神の怒り吹きすさぶ、地上の大洪水を乗り越えるための舟に乗っていながら戻ってこられないなんて」
三好が妙に感傷的なセリフを吐く。
客観的に言って、知らない人の死亡事故に出くわしたのと同じことだし、遺体や現場も直接見たわけじゃない。
それでも、脱出時に、キッチンの前の階段を下りたところで右に曲がっていれば、もしかしたら助けることができたかもしれないという気持ちはゼロじゃない。
ただ、もしもそうしたとしたら、おそらく説明を聞きたがる軍人につかまって、巻き込まれただけになっていた可能性が高い。
それに、まさかキャリアのある彼らが、ゴーストに襲われたときに正面玄関から逃げ出さず、その場で攻撃して奥へ向かうなんて、だれが想像できただろう。
「俺たちは別にスーパーヒーローってわけじゃない」
俺は三好の頭を、ぽんぽんと叩いた。
「手の届くところを守るのが精いっぱいで、すべての人を救うなんてことは絶対に無理だぞ」
「まあ、そうなんですけどね」
映像は、博士たちと別れて部屋を出たところだ。
「あの机の上に座っているのが――」
「そうです」
どうやら三十一層と違って、今度はちゃんとカメラに映っていたようだった。ここで映っていなかったりしたら、本格的にホラーになるところだ。
鳴瀬さんは動画を見ながら、自分のスマホを取り出して、どこかにアクセスしていたが、返ってきた結果を見てため息を吐いた。
「犠牲になったのは、フランスのトップチームですね」
「え? どうしてわかるんです?」
鳴瀬さんによると、持ち主が亡くなると、Dカードは消えるそうだ。そうしてその影響で、世界ダンジョン協会のランキングリストからも消えてなくなるらしい。
「死ぬと、自動的にランキングから消えるんですか?!」
「そうです」
そう言って、彼女が見せてくれたランキングリストには――
ランク エリア CC ネーム
1 12 *
2 22 RU Dmitrij
3 1 US Simon
4 14 CN Huang
5 1 US Mason
6 26 GB William
7 1 US Joshua
8 1 US Natalie
9 2 *
10 24 DE Edgar
11 26 GB Tobias
12 24 IT Ettore
13 24 DE Heinz
14 11 *
15 13 JP Iori
16 24 DE Gordon
...
10位だったヴィクトールも、13位だったティエリも15位だったクァンタンもランキングされていなかった。
「一目瞭然ですから、騒ぎになると思います」
彼女はそのページを閉じながらそう言った。
「それに、言ってみれば国家的な損失ですから、フランス政府は、何があったのか調査すると思います」
「現場には、アッシュの残骸が残っていました。数日は消えないでしょうから、すぐに行けば調査は出来ると思います。場所は――」
おれは十層の地図を呼び出して、鳴瀬さんに見せた。
「――大体このあたりです」
彼女はそれをマークして、「ありがとうございます」と言った。
「一応少し離れた場所への転移石もあることはあるんですが……」
「それはやめておきましょう。明日か明後日には、発表されることになっているのですが、予定通り、帰還石と18と31のみなので、十層へのものがあると少し問題が」
「え、もう? まだ10日くらいしか経ってませんよ?」
「斎賀が走り回ってましたから。それこそセーフエリアの割り振りをそっちのけで」
鳴瀬さんがくすくす笑いながらそう言った。
日本ダンジョン協会にとっては、入札を処理するだけのセーフエリア問題よりも、根本的なパラダイムシフトを伴う転移石問題の方が大きかったのだろう。
なお、あの後のテストで、転移石を利用した地上での移動も確認した。
結論から言えば、それは可能(!)だった。転移石(事務所)はできたし、三好の鑑定でも確認された。ただし、移動はできなかったのだ。
一応、魔晶石を50個用意して移動しようと試みたが、転移石は起動しなかった。
転移にそれ以上のDファクターが必要なのかもしれなかったが、もう一つ可能性と言うか懸念があった。
それは、飛び先を記録する座標系だ。
別の空間であるダンジョンの中ならともかく、地上だと我々は高速で移動している。地球の自転による移動は、赤道直下なら、だいたい秒速460メートルちょっとだ。
記録される座標系が、例えば恒星を中心とした絶対座標系だったりしたら、テスト時に俺は、ずっと離れた場所に飛ばされていたはずだ。
そうして、そこに何かがあったから転移に失敗したという可能性もある。もしもそうだとしたら、場合によっては宇宙空間に投げ出されていたかもしれない。主に公転のせいで。
リアル「いしのなかにいる」だ。
魔法のような技術だから、そのへんは忖度してくれると思いたいが、実際のところは分からない。
販売されるものは、ダンジョンの中だけだから問題にはならないだろうが、いずれ祈りでそれを作る方法が確立する前には、様々なテストをしてみる必要があるだろう。
「そうだ! 3三層へ下りる方法についても聞いてきましたよ」
「え?! 本当ですか?!」
3三層への階段は、連日チームIを中心とした自衛隊のチームが半月以上に渡って探索しているが、まだ見つかっていないらしい。
「地図作成システムでマップは完成しているのですが、なにしろ隠されていたりしたら、行ってみなければわかりませんから」
半径5キロの円だとしても、7850万平方メートルだ。一日に100メートル×100メートルのエリアを10個探索したとしても、二年以上かかる計算だ。
「それで、教えてもらえたんですか?」
「というか、ヒントでしたけど」
「どのような?」
「ロザリオを連れていけ、だそうです」
「ロザリオって……」
鳴瀬さんは、梁の上の自分のポジションに戻っている小鳥を見上げた。
「そう。あれです」
「それって、芳村さんたちが行かないとダメってことなんじゃ……」
「どうせ、転移石31を作りに行きますから、そのついでに行ってみますよ。それで、見つけたら――」
「どうするんです?」
「――報告しますから、こっそり誰かに教えてください」
「ええ? 鑑定の力ってことにしておけば良くないですか?」
「その手があったか!」
俺がポンと手を叩いて、三好を見ると、彼女は肩をすくめて立ち上がった。
「先輩。もう二時前ですよ」
「え? ああ、そうだな、じゃあ、そろそろ――」
「待ってください! まだ本命が残ってますよ! あれ! あれ、どうするんですか!」
鳴瀬さんは、隣の部屋のメインフレームを指さしながら、慌ててそう言った。
「まだ寝られそうにないので、少し何かを用意しますね」
そういってダイニングに向かった三好を追いかけるように、俺たちも立ち上がった。
モニターの画面の中では、溶けていく館が消える寸前で静止していた。
、、、、、、、、、
三好が淹れたコーヒーと、俺が簡単に作ったキュウリのサンドイッチを前に、俺たちはダンツクちゃん質問箱のモデレートについて話をしていた。
「このメインフレームは、ダンツクちゃんの口輪なんですよ」
「口輪?」
「はい。向こうの能力と好奇心なら、どうせすぐに私たちの情報ネットワークに侵入してくるでしょうし、そうなる前に小さな道を作って誘導するんです」
「誘導」
「そうです。その道の経由地――つまりここで、与えてもいい情報と与えてはいけない情報を選別するんです。そうしてその道を使っている間に、少しずつ人類の考え方を学んでもらうんです」
鳴瀬さんは、その意味をかみしめるかのように、キュウリの薄いサンドイッチを口にした。
「だが、ダンツクちゃんは、探索者は博士たちの知識を吸い上げているだろう? それで十分なんじゃないか?」
「先輩。先輩はともかく、普通の人は、自分の内なる考え方と、社会と接するときの行動は違うものなんです」
ともかくってなんだよ、ともかくって。
まあ、言いたいことは分かるが……
「おんなじだったら、セクシーな美人は街を歩けなくなるもんな」
「先輩……」
三好が残念な子を見るような目つきで、俺を睨んだ。
「でもまあ、そういうことだろ?」
「まあ、そうですね」
「個人の知識を直接取り入れるダンツクちゃんには、外向きと内向きの区別があいまいだと思うんですよ。だから、このまま大衆の願いを叶えさせたりすると――いろいろと危険なんです」
「要するに、ダンジョンの向こう側の連中に、地球の常識を教えようってことか?」
「そうです」
人の願いや望みは、社会のことを一切考慮していない場合が非常に多い。むしろ社会との整合性を考えた願いや望みを抱く人間の方がまれだ。
確かにあらかじめ常識を教えておくことは重要かもしれないが、俺たちの世界にヤヌスは存在しない。
もしもそれが何かの災厄を招き寄せたとしても、それは隔離された実験室の中の出来事などではなく、リアルな現実社会での出来事となるのだ。
実際、黄金の木は、人類にとっては極めて有益な植物だと言えるが、現代社会においては、極めて危険な植物だとも言える。
向こうの誰かは、その「差」を本当に理解するだろうか。
「だがまあ、何もしないよりはマシか」
「多少は、かもしれませんけどね」
「やらない善より、やる偽善って言うしな。ともかくやってみて――もしもダメだったら、ほっかむりして逃げだせばいいさ」
実際、なにかしなければ確実にダメな未来が訪れる可能性は高い。
なにしろ自分の欲望がすべてかなえられる世界だ。最高に上手くいったとしても、できあがるのは個人主義的無政府主義者たちの楽園だろう。
例え教育に失敗したところで、結果がそれほど変わることはないはずだ。
「さすが先輩、発想がダメな人です」
「人間的と言ってくれよ」
俺は、三好の突っ込みに苦笑しながらそう答えた。
「ともかく、しばらくは鳴瀬さんにお任せしますから」
「ええ?!」
「ほら、こういうのって、発案者責任法と言うのがあってですね」
「聞いたことありませんよ!」
「えーっと、なんていうか……ぶっちゃけると、他に適任者がいないんですよ。俺たちが常識を教えてもいいですか?」
「やめてください」
いや、まじめな顔をして即答されると、結構傷つくんですけど……
そこで笑いをこらえている三好! お前も「俺たち」に含まれてるんだからな!
「ほら、頼れる上司の方に相談してもいいですから」
「ええー?」
鳴瀬さんが、眉尻を下げて情けない声を上げると、ダイニングテーブルに突っ伏した。
それにしても――
「俺達って、Dファクターとダンツクちゃんと、ダンジョンの向こう側の誰かを結構混同して話してるよな」
普通に考えれば、Dファクターは道具で、ダンツクちゃんはその統括者(たぶん)。ダンジョンの向こうの誰かは、未だに謎だ。
ダンツクちゃんがAIのような存在なのか、それとも向こうにいる誰かの影のような存在なのかは未だにはっきりしない。
もしかしたら、自律的に活動するDファクターが作り上げた、自分たちのコアみたいなものだってことすらありうるかもしれない。
もしもそうなら、この教育はDファクターそのものに対して行っていることになるわけで――
「こいつは、言ってみれば使用する道具に、良識を植え付けようってことなのかもな」
「人を殴ろうとしたら、勝手によけてくれる金属バットができあがるわけですね」
「料理をしようとしたとき、対象が保護対象の生物だったりすると、さばけない包丁とかな」
さらに行き過ぎるとどうなるだろうか。
「山奥で大けがをした時、応急処置をしようとしたら、医者じゃないから手当てする道具が反旗を翻すとか、シャレにならんな」
「常識って難しいですねぇ……」
そう。だから常識が書かれている本はない。
その類の本に書かれているのは、特定の場所のちょっと変わった風習程度のものだ。
『人が人を殺してはいけません』なんて真面目に書かれているのは、宗教か法律の本くらいなものだろう。
それを教える? こいつは遠い道のりになりそうだ。
、、、、、、、、、
『デヴィッド、確かに君は世話になったよ。だが残念ながらこれっきりだ』
『なんだい、藪から棒に?』
フランスからかかってきた電話は、普通の国際電話ではなくて、skypeだった。便利な世の中になったものだ。
もっともこれは、マイクルソフトに盗聴されているのと同じことだという考え方もあるかもしれないが。
『君に貸し出したヴィクトールのチームだがね』
『何か見つけて来たのか?』
デヴィッドは勢い込んでそう聞いた。
Dパワーズの連中の後をつけさせて、彼らが接触する何かを探らせたチームだ。あわよくばその何かに接触したのだろう。
神が地球に顕現する。なんともカネになりそうじゃないか。
『いや、逆だよ』
『逆?』
『残念ながら、彼らはなくしてしまったのさ』
『何を?』
『最新鋭のポーター1台と――ついでに自分たちの命かな』
『なんだって?』
『コマンデ・ドンジョンのトップチームが丸ごと消失? 指示を出した私も危ないな』
男は、電話の向こうで乾いた笑い声を立てた。
『まあそういうわけだ、魔結晶は送っておいたが、それで最後だ。もう連絡はしないでくれ』
『おい――』
デヴィッドが何か言おうとしたが、通話は強制的に切断された。
『嘘だろ?』
フランスのチームは、ほとんどシングルの三人で構成された、世界でもトップレベルのチームのはずだ。
それが――
『死んだ?』
『誰が?』
イザベラがリビングからこちらをのぞき込んで尋ねた。
しかし高揚していたデヴィッドはそれを無視した。
『さすがは神! 人類の頂点などと言ったところで、大したことはないというわけだ!』
『デヴィッド? あなた、大丈夫?』
『もちろん! もちろん大丈夫だとも! それで何か用か?』
『連中、戻ってきたみたいよ』
『戻ってきた?! ――素晴らしい!!』
フランスのチームは死んだというのに、何事もなかったかのように戻ってきた二人。
連中には絶対に何かがある。
デヴィッドは、天を仰ぎ、不気味な笑顔を浮かべたまま、両腕を広げて歓喜を表現していた。
『ええ……?』
イザベラは彼の変貌に、かなり引いていた。
マリアンヌは本当にこんな男と一緒にいて平気なのかしらと、聖女の心配をするありさまだ。
彼女とはそれほど仲が良いわけではないが、長く一緒にいればそれなりに情も湧くというものだ。
彼女は今でも、マネージャーの女性とホテルで日本のVIPとの面会を続けているのだろう。
『さあ! 連中からすべてを絞り出すぞ!』
『ええ? まだやるの?』
『当たり前だ! 神が手に入ると言うのなら、どんなに大きな犠牲を払おうとも、さしたる問題ではない。つり合いは取れるというものだ』
まるで自分が犠牲にされるかのような言い草に、イザベラはカチンときた。
『ちょっとデヴィッド。小娘をたぶらかして少しくらい芸を仕込んだからって、調子に乗らないで。なんだかわからないものに挑むのは御免よ』
デヴィッドは、同じポーズのまま笑顔を引っ込め、ぎろりと目だけでイザベラを追いかけた。
彼女は、思わず身をすくめて、ベッドルームへと逃げ出したが、日本の部屋は鍵がかからなかった。
188 予約の始まり 3月12(火曜日)
天皇陛下の一連の退位儀式の走りとなる「退位及びその期日奉告の儀」が、皇居内の宮中三殿で行われたその日の午前中、俺たちの事務所の呼び鈴が鳴った。
ちらりと事務所の時計を見上げると、十時三十分を少し過ぎたところだった。
「誰だ? まだ午前中だぞ?」
「先輩。どこかの漫画編集部みたいな発言はやめてくださいよ」
「だって、昨夜遅かったじゃん」
昨夜、午前様になった俺たちは、そのままダンジョン内の出来事について鳴瀬さんに報告し、ついでにモデレートの指針についての打ち合わせをした。
それが終わったころには、「ニッポンの朝をスマイルに!」が標語になっているテレビ番組が始まろうとする時刻だった。
そのまま仮眠して、さっき鳴瀬さんを送り出したところだった。
どうやらついに三好の部屋に着替えをワンセットキープするようになったらしい。きちんと別の服に着替えていた。
三好がいつもよりは重い腰を上げて、事務所のドアを開けると、血相を変えたみどりさんが腰に手を当てて憮然と立っていた。
「梓」
「あ、みどり先輩。どうしました?」
「どうしましたじゃないよ! ずっと連絡していたのに!」
「まあ、昨日はちょっといろいろとありまして……」
「色々ってなぁ……まあいい、例のSMDとDカードチェッカーなんだが――」
「あ、予約、どうでした?」
SMDとDカードチェッカーは、どちらも三月十一日の月曜日から予約がスタートした。
本来は、三月頭からの予定だったのだが、帰還石だの会談の準備だのでべらぼうに多忙だったので、翌週明けに延期したのだ。
システムを立ち上げてしまえば、後はどうせ常磐に丸投げだったし、丁度、代々木の十層へ潜るタイミングだったので、あまり意識していなかったというのが本当のところだ。
「どうもこうもあるか! すでにバックオーダーが一年分たまってるぞ!」
「はえ?」
SMDの生産は、言ってみれば工場制手工業、マニュファクチュアというやつだ。
月産台数など知れたものだが、なにしろ探索者の、それも一部か研究者くらいにしか需要がない商品だ。一瞬はもてはやされるだろうが、総数は出ないと考えていた。
なにしろ個人で買うには単価がそれなりに高い。結局、簡易版でも35万円、フルスペック版はオプションにもよるが、280万からなのだ。
当初予定よりも少し高額になったのは、投資額を需要予測で割った結果だ。
「最初の8秒でオーダーが殺到してるな」
みどりさんが、オーダーのログを図示したものを提示しながらそう言った。
「……初めの十分間だけ、予測スケーリングにしておいて正解でした」
SWS(サマゾン・ウェッブ・サービス)のオートスケーリングは一分間隔だ。
秒単位でアクセスが跳ね上がる事態には対応できない。
「しかし、8秒で予定台数に達するってのは……」
「その後もぱらぱらとキャンセルされたものの購入があるみたいですけどね」
大抵の予約システムは、必要項目をすべて入力した後で注文が実行される。
長々と個人情報を入力させられた挙句、売り切れましたなんて言われるとものすごく腹が立つし、まるで個人情報を引き抜くために、おいしい餌をぶら下げているようにすら見える。
本当にそれが目的のサイトもないとは言えないが……
ともかくそんなシステムはクソだ。
先に欲しいものを選択した段階で、仮注文扱いにすればいいだけなのだ。そこで個数を入力させてもいいし、仮注文はひとつのみの扱いにしてもいい。
そこで売り切れが表示されるなら、個人情報はまだ入力していないわけだし、諦めもつくというものだ。
途中で入力をやめた場合は、キャンセル扱いにすればいいだけだ。
注文にキャンセルは必ず付いて回るわけで、結局はそれと同じことだ。キャンセルまでの時間が短い分、こちらの方がずっとましだとも言える。
特に、今回は入力内容が多かったため、長々と入力した後に物がなくなっているなどと言うことのないように、注文ページにアクセスして希望の機種を選んだ瞬間、SMDの場合は、仮注文扱いで注文数を+1する管理を行った。各種オプションも同様だ。
こうすることで、入力に時間がかかったとしても、1台だけは確保できるということになる。大きな不満は出ないと信じたい。
「各種研究所や、上位探索者は当然として、他にはスポーツ関連や芸能関連の組織からの引き合いが多いな」
「意外と広がってるんですね」
「以前、寿司屋で会った、彼女周辺が震源だろ?」
御劔さんのことか。
確かに、斎藤さんや不破君の影響は大きいだろうな。
「じゃあ、今は予約停止の状態ですか?」
「キャンセルが出るか、販売数の枠を増やさない限り、そうだな」
三好はログの分析を、あれこれと確認しながら、その傾向を調べていた。
「凄いですねぇ。安くないのに」
「何を他人事みたいに。SMDはそれでいいが、問題はDカードチェッカーなんだよ」
「え?」
タブレットから顔を上げた三好は、みどりさんの言葉の意味が良くわからないといった体で、首を傾げた。
なにしろ、Dカードチェッカーの高機能版は現時点でも月産1万台の枠を確保してあると聞いていた。
ところが、話は全然別のところから始まった。
「お前、あれ、仮の値段のまま修正してないだろう」
みどりは呆れたようにそういうと、予約サイトの金額項目部分を指し示した。
「あ! ……そういえば、ルエミスターの価格を張り付けたままだ!」
それを設定した当時は、きちんとしたEMSの見積もりも出ていなかったし、需要もはっきりしなかったため価格を決められず、今回入試用に用意した単純所持チェッカーは部品代から見て三万くらいでいいけれど、パーティを組んでいるかどうかなどの付加情報を調べる機能を付けたものはどうしようかなと悩んだ挙句、もとのSMD−EASYの予価をダミーで張り付けたままにして、そのまま忘れていたらしかった。
「それって――」
「29,800円と、198,000円です! うわー、ぼりすぎですよ!!」
日本ダンジョン協会から依頼された機器の10万円でもボッタクリも甚だしかったのだ。その二倍ともなると、もはや言わずもがなというやつだろう。
こりゃ、価格を改定しないと売れませんね……と落ち込んだ三好を見て、みどりさんがかぶりを振った。
「二分で完売した」
「はえ?」
「か・ん・ば・い・した」
「二分で?」
「そうだ」
「一年分が?」
「そうだ」
中島がEMSに渡りをつけたのはいいが、ロットの問題もあって、高機能版は月1万台生産のラインのはずだ。
それが二分で完売? 12万台が?
「あとな。高機能版のキャンセル待ちのバックオーダーが、昨日一日で、620万台たまってるぞ」
「はえ?」
三好が3度目の変な声を出して呆けた後、我に返ると言った。
「ちょ、待ってください? 間違えたイチキュッパ設定のまま販売したチェッカーのバックオーダーが620万台?!」
「そうだ」
「それって、――1兆2276億円ってことじゃ」
20×620から1%を引いて、桁をあわせた三好が目を回しながら言った。
「なに、今年のTOYOTAの三月期決算は売上高が30兆円に届きそうらしいから、それに比べればどってことはないだろ」
みどりがことさらこともなげに言ったが、TOYOTAとDパワーズでは利益率が違う。会社運営のコストがまるで違うからだ。それに商品単価も大きく異なる。
もっとも、それ以前に、出来立ての小規模事業者を、世界ランキングでもトップグループの大会社と比べるのはいかがなものだろうか。
「せんぱぁい。どうしましょう?」
オーブの時は受け取るだけだったから、現実感のない大金でも、ただの数字だと思えばよかったが、今回は商取引なのだ。
「どうもこうもあるか。まずは生産ラインをどうにかしないと、年12万台じゃ、その注文をさばくだけで半世紀かかるぞ」
EMSの生産ラインを、月100万台に拡張することは可能かもしれないが、必要な部品の数を確保するのは並大抵ではないだろう。
単なる趣味人の中島さんでは、絶対に無理だ。ヘタすりゃ、グルーポンがやった、どっかのおせち料理の二の舞だ。
「EMSの担当者に連絡をつけて、部品の確保に協力してもらえるかどうかを聞け。あとは中島さんのツテも一応聞いてみろ」
「それって、商品を届ける方向に努力するってことですか?」
現時点ではあくまでもキャンセル待ちが主体だ。だから全部をカットしても、法的な問題に発展したりはしないだろう。
だが――
「あのな、三好。それが商売をする会社の、社会的な責任ってものだろう」
「先輩がまっとうなことを言った!」
「お前な……」
驚くところがそこかよ!
本当のところ、そんな責任は、実際にはないだろうが、これらはほとんどすべてが試験対策用であることは明らかだ。
この世から試験をなくすことはできない以上、その試験から不正をなくすことは、試験というものの性質から言っても急務であることは間違いない。
この機器なしでは、ほぼ防ぐことが出来ない不正――それをなんとかするのは、パーティシステムを掘り起こしてしまった俺たちの義務であるのかもしれない。
「周知期間を置くべきだったかなぁ……」
「先輩がなにを考えているかはわかりますけど、周知期間を置いたところで、対策がありませんからどうにもなりませんよ」
それは全くその通りだ。
冷静に考えれば、たった一ヶ月ちょっとで、ここまで形にした俺たちをほめてほしいくらいだ。いや、俺たちっていうか三好と中島さんなんだけどな。
、、、、、、、、、
フランスのCOS(特殊作戦司令部)に作られたダンジョン攻略組織CD(コマンデ・ドンジョン)のリュトゥノーコロネル(中佐)アルテュール=ブーランジェは、明治通りを恵比寿から三田方向へと進む車に乗っていた。
外苑西通りを越えてすぐの、ニュー山王ホテルの向こう側の狭い路地を左折すると、すぐ右手にモダンで格好いい建物が現れる。思わず写真を撮りたくなるステキ建築物だが、ここは撮影禁止。
それがフランス大使館だ。入り口の建物は小さいが、正面からは見えない裏手には広大な庭と大使の公邸が建っている。
すぐそばには、ドイツ大使館や、欧州連合の代表部も存在していた。
車の後部座席から降りたブーランジェ中佐は、これから追及されるであろう内容について、思わずため息を吐いた。
あの三人が失われて、泣きたいのは現場《われわれ》なのだ。
彼らが消息を絶った場所は、どういうわけか日本ダンジョン協会が知らせてきた。
探索者が、フランス製のポーターの残骸を見つけたそうだが、世界でもトップに近いパーティが、言ってしまえばたかだかゾンビとスケルトンに殺されるとはとても思えない。
そこで何かがあったことは確実だ。
夜の十層は特別で、イギリスも中国も大変な目にあったという噂だけが聞こえてきていたが、何が特別なのかは行ってみなければわからない。
ポーター内のブラックボックスを回収できれば、それらも明らかになるだろう。
「それにしても面倒な」
ブーランジェ中佐は、人知れずそう吐き出した。
ダンジョンは、人の痕跡をすぐに失わせる。ともかくすぐにでも実地で調査を行う必要があるにもかかわらず、日本でのプロジェクトの責任者だった彼は、お偉いさんたちのために大使館まで呼び出しを食らっているのだ。
一応、別のチームを先遣隊として送り出してはいたが、自分の目で調査したかった彼は、少し憤慨していた。
廊下を歩いているとバタバタとあわただしく活動している人間が多い。
まさか自分たちの関係者なのか? と、そのうちの一人を捉まえて尋ねてみると、彼はオーディオビジュアルの担当官だった。
どうやら、夕方からアンスティチュ・フランセ東京で、「映画/批評月間〜フランス映画の現在をめぐって〜」と銘打たれたイベントの試写会があるらしく、その監督のクレール・ドゥニのアテンドで、関係者が忙しくしているらしかった。
「ハイ・ライフ、ね」
そこに貼られていたポスターを見た彼は、上流階級で、ジュリエット・ビノシュが相手をしてくれるような世界にゃ、どうせ縁がないと鼻を鳴らした。
彼は、タイトルを見て映画の中身を誤解したのだ。
とにもかくにも報告会と言う名のつるし上げをどうにか切り抜けなければ。
彼は、最終的には、意味のよくわからない、この命令を持ってきた上官にすべてを押し付けるつもりになっていた。
、、、、、、、、、
掲示板:【だんつくちゃん!?】代々ダン 1558【って、本物なの?!】
......
103:名もない探索者
しかし、まさかダンツクちゃんからレスが付くなんてなぁ……あれって本物?
104:名もない探索者
なわけあるか。
105:名もない探索者
ここはぜひ、「私は、ダンジョンの向こうからやってきた、だんつくちゃんなのだ!」って言ってほしかった!
106:名もない探索者
いやでもさ、なりきりにしたってなぁ。みんなに奉仕するために来たってなんだよ、奉仕って。
107:名もない探索者
ぐへへへへっ。ぺろぺろ。
108:名もない探索者
ヤメロwww
109:名もない探索者
ところでだんつくちゃんなのか、ダンツクちゃんなのかはっきりしろ。
1十:名もない探索者
一応質問箱の記述は、だんつくちゃん。ちゃんが敬称だと考えた連中が、ダンツクちゃんを混在して使ってる。
111:名もない探索者
ダンツク=チャンという謎の中国人だという線は?
112:名もない探索者
ダン=ツ=クチャンかもよ。
113:名もない探索者
ああ、俺もだんつくちゃんにご奉仕してもらいたい……
114:名もない探索者
クチャンってなんだよ。
115:名もない探索者
旧ユーゴスラビアあたりにあるだろ、クチャン。
スロベニアを独立に導いた大統領は、ミラン=クチャンだしな。
116:名もない探索者
スロベニアってどこだよ。
117:名もない探索者
旧ユーゴスラビアの北の端っこ。
イタリアとオーストリアとハンガリーの間だ。
118:名もない探索者
変態紳士の社交場はこちらですか?
119:名もない探索者
だけどさ、妙にリアルなところもあるんだよな、あれ。
120:名もない探索者
そりゃ、中の人は日本ダンジョン協会だろ? 情報としては正確なところなんじゃないの?
121:名もない探索者
単なる空想って感じじゃないよな。あれだけ色々聞かれて矛盾がないし。
122:名もない探索者
なりきりスタイルのダンジョン情報局みたいなものか?
123:名もない探索者
しかし、あのパルサーからの距離に全部答えてたのは笑ったよな。あれってなに? 本当にその位置に惑星があるのかね?
124:名もない探索者
観測できる距離なら確認もできるけど、あれはちょっと無理だろうな。まあ、だから書いたんだともいえるが。
125名もない天文ファン
いや、ちょっとだけ計算してみたんだけどさ。あれ、矛盾がないんだけど。
126:名もない探索者
矛盾がない?
127名もない天文ファン
ほら、空間上の点からの距離で位置を表現するってことはさ、2点までなら球の交わる円周上のどこかってことじゃない?
128:名もない探索者
そうだな。球が届かなかったらその時点でアウトだな。
129名もない天文ファン
で、さらに1点を加えると、ほぼ2か所に限定されるわけ。
130:名もない探索者
そらまー、その円が、たまたま新しい球の球面上にない限り、そうなるわな。
131名もない天文ファン
その他の距離も、1一個すべてで破綻しないんだよ。
132:名もない探索者
先に自分の恒星を適当に決めてから、各パルサーとの距離を作り出せばそうなるだろ。俺でもできるぞ。
133名もない天文ファン
そうなんだけどさ、SGR1806−20が抜けてるんだよ。
提示されていたパルサーは12個なのに。作り事なら一つだけ抜くなんて変だろ?
134:名もない探索者
資料が見つからなかったとか?
135名もない天文ファン
地球で知られている最強のマグネターだよ? それが抜けているって変だろ?
136:名もない探索者
いや、回りくどいよ、天文ファン。それがどうしたんだよ。
137名もない天文ファン
いや、それを説明できる仮説が一つだけあるんだ。
138:名もない探索者
仮説?
139名もない天文ファン
そう。他の1一個からの距離から、ある座標が導かれたとき、その座標とSGR1806−20までの距離は、地球とSGR1806−20の距離よりもずっと近いわけ。
地球からはざっと5万光年なんだ。
140:名もない探索者
それが?
141名もない天文ファン
マグネターが軟ガンマ線リピーターとして存在できる期間は短くて、せいぜいが1万年程度と推測されているんだよ。
142:名もない探索者
つまり、ダンツクちゃんのいる場所は、地球よりも何万光年も近いから、地球で見ているそのマグネターは、ダンツクちゃんたちが見ている同じ星よりも何万年も前の姿だってこと?
143名もない天文ファン
その通り。
2・3万年も違えば、軟ガンマ線リピーターどころか、AXPの状態も通り越して、活動を停止している可能性があるんだ。
144:名もない探索者
AXP?
145名もない天文ファン
Anomalous X-ray pulsarな。高エネルギーのX線パルサーで、これも短寿命だと考えられている。その長さはざっと1万年。
今のところ、軟ガンマ線リピーターの寿命が尽きるとAXPになって、さらにその寿命が尽きると活動を停止すると考えられているんだ。
146:名もない探索者
――うん、よくできた設定だね!
147:名もない探索者
ハハハハハ、だなっ!
ダンジョンくぐったら、何万光年も先の星でしたとか、乾いた笑いしか出ないぞ。ラブクラフトか?
148:名もない探索者
まだ、同時に重なっている全然別の次元の宇宙でしたとかいうほうが納得できるかも。
もう、名もない天文ファンまでが仕込みってことで!
149名もない天文ファン
ええー? どっちも同じくらいトンデモだと思うんだけど……
まあ、仕込みでいいやw
150:名もない探索者
開き直った!
......
538:名もない探索者
これって書けてるか?
539:名もない探索者
何言ってんだお前。新しいスマホのテストか何かか?
540:名もない探索者
書けてるのかよ!?
541:名もない探索者
おちけつ。いったい何を興奮してるんだ。
542名もない540
いいか、よく聞け。……俺は今、代々木の三層にいる。
543:名もない探索者
……
544:名もない探索者
……
545:名もない探索者
……
546:名もない探索者
……乙
547名もない540
いや、たまたま、ポーターを見かけたから、写真にとっとこうと思ったんだよ。
548:名もない探索者
ああ、最近増えたな。ポーターの活動。
549名もない540
だろ? いや、まあそれはどうでもいいんだ。そしたら、同期しましたって、Dropboxから通知が来て……
550:名もない探索者
お前、Wi-Fi接続時じゃなくても同期させてんの? 転送量制限にすぐに引っかからないか?
551:名もない探索者
単なる設定し忘れだよ。いつもはダンジョンに潜るときは、Wi-Fiもモバイルネットワークもオフにするんだ。
552:名もない探索者
それを忘れていたと?
553:名もない探索者
お前ら、問題はそこじゃないだろ。なんでダンジョン内からDropboxが同期できるんだよ?
554名もない540
そう! それ!! 俺も驚いて、アンテナ確認したわけ。そしたらさ、3本立ってるんだよ!
555:名もない探索者
それで、これを三層から書いてみたって?
556名もない540
そう。
557:名もない探索者
ダンジョン内って、別の空間なんだろ? 電波が届くわけないし。ほらもいい加減にしろよ。
558名もない540
嘘じゃないって。嘘だと思うなら、お前らも三層に来てみろよ!
559:名もない探索者
キャリアはどこよ?
560:名もない540
ソフトバーク
561:名もない探索者
ああ、なるほど。宣伝乙。
562名もない540
ちーがーうーっての!
563:名もない探索者
よし、確認にいってやるよ。俺は今代々木ダンジョンカフェだから。
564:名もない探索者
お。勇者登場。一層から確認してくれよ。
565名もない勇者
ちょっと待ってろ。
566:名もない探索者
自分で勇者ってwww
567:名もない探索者
他には、近場にいないのかな、ここ見てるやつ。
568:名もない探索者
そんなにはいないだろう。ダンジョン内じゃどうせ通信できないって思ってるだろうし。
569:名もない探索者
しかし、もしも本当なら、凄くないか? 通信量さえ気にしなければ、ダンジョン内からライブで動画が――
570:名もない探索者
ガタッ
571:名もない探索者
ガタッ。俺いますぐ、「潜ってみました」って番組作って来るわ。
572:名もない探索者
新しいYouTube番組の波が!
573:名もない探索者
時々犠牲者が……
574:名もない探索者
不謹慎だな。でもまあ今でも配信中に、後ろが火事になってたやつとかいたしなぁ……似たようなものか。
575名もない勇者
おい……これマジか?
576:名もない探索者
お、勇者の帰還だw って、なに、もしかしてそれ一層から書いてるって設定?
577名もない勇者
本当にアンテナ立ってるぞ。嘘だろう。ちな、俺はDOCOMO。
578:名もない探索者
おいおい、これはマジなのか? 本当にダンジョン内から接続できるようになったってことか?
579:名もない探索者
何か日本ダンジョン協会からアナウンスがあったか? ダンジョン内に基地局建てましたとか。
580:名もない探索者
計画だけは、昔からあるけどな……現時点では、自衛隊が物量で、各階に簡易の通信基地を作って下とは有線接続してリレーしてるってのがせいぜいだろ。
581:名もない探索者
ちょっと誰か日本ダンジョン協会に問い合わせてみろよ。
582:名もない探索者
二人が共謀してやった狂言って可能性は?
583:名もない探索者
そりゃあるかもしれないが……意味はあまりないからなぁ。四月一日とかならともかく。
584:名もない探索者
ともかく、確認できる奴は確認してみるってことで。
585:名もない探索者
そうだな。俺もちょっと行ってみるわ。
586:名もない探索者
報告を待ってるぞー。俺んちは遠いから。
......
そうして、ダンジョン内の知人に電話してみるものや、SMSや各種SNSのツール使って連絡を取ってみるものなどが少しずつ増えていき、四時間後には、世界初のダンジョン生中継チャンネルがYouTubeに開設されていた。
189 日本ダンジョン協会 3月12日 (火曜日)
セーフエリアの割り振りが、ほぼ一段落しそうなその日、転移石の公開に向けての根回しに忙しく駆け回っていた斎賀は、朝一で美晴につかまっていた。
「ダイバージェントシティ計画を進めるなってのは、こういうことだったのか……」
斎賀は、説明されながら渡された資料を見て、思わずめまいがしそうだった。
「そのようです」
ダンジョン内で通信ができる環境を、ダンツクちゃんと取引した?
とても信じられない報告だったが、それを証明するように、つい今しがた、三十二層のスタッフに掛けた電話は何事もなくつながった。
起きたばかりだったのか、これから寝るところだったのかはわからないが、寝ぼけたような声で電話に出たダンジョン管理課の職員は、すぐにダンジョン内で電話が鳴ったことの意味に気が付いて驚愕していた。
これは便利だ。確かにとても便利なのだが――
「そりゃあ、どんな世界にもディールはあるだろうが……渡すものによっては、国家的な意味合いさえ帯びそうな取引だぞ?」
「そうは言いますけど、課長。これ、事前に許可を求める先がありますか?」
許可を求める先か……確かに、どこへ持って行ったにしても、大抵は鼻で笑われそうなプランではある。
ダンジョンの向こうにいる誰かに、人間と話をさせてやるから通信環境を整えてくれと要求する?
もしもそれがうちに回ってきたとして、言い出したのがDパワーズの連中でなければ、はいはい勝手に頑張ってくださいねとスルーすることは請け合いだ。検討すらされないだろう。
なにしろ誰が、ダンジョンの向こうにいる誰かと話をしているなどという、電波を受信したような話を信じると言うのか。
「ポリティカルコレクトレスの異常な広がりや、逆差別への言論の封殺具合を見てくださいよ。民主主義国家の政治家は責任を取りたがらず、官僚は前例のないことを嫌がり、そうして我々はしがらみが多すぎて身動きがとれません」
美晴はここぞとばかりに、普段無意識に抱えている不満を口にした。
「結局近代の国家って言うのは、突出した個人の業績の上に置かれた不安定な台を、大勢がバランスを取りながら成立させているようなものでしょう?」
「それは言い過ぎだ」
斎賀は美晴をたしなめたが、それでも諦めたように両手を上げて降参のポーズをとった。
「だが、確かに俺たちにこんな取引はできん。それ以前に、これを発想して実行すること自体が不可能だろう」
ともあれダンジョン開発が、これで大きく前進することだけは間違いない。現代社会において通信は必須のインフラだからだ。
「それで支払った代償がこれか?」
斎賀は次の報告を指さすと、美晴はこくりと頷いた。
「いや、そりゃ、大衆と直接つないでみるかって話はしたさ。したけどな――」
通信環境を得るための代償が、ダンツクちゃんと直接会話をできるチャンネルを開くことだなんて、だれが予想するだろう。
しかもそれが、まがりなりにも日本ダンジョン協会の「だんつくちゃん質問箱」に、繋がっているのだ。
「それで、一般の反応は?」
「利用者は、現在、これが日本ダンジョン協会の仕込みで、なりきり系の質疑応答だと考えているようです」
「それはまあ、そう考えるしかないよな……」
まさかそれが本物だなんて、一体だれが思うだろう。
日本ダンジョン協会の中ですら、そのことを知っているのはここにいる二人だけだ。webの管理を行っている広報セクションの連中は、自分たちの頭越しにできた掲示板に首をかしげていることだろう。
なにしろ、今のところ、説明のしようがないのだ。
しかしもうすぐ転移石の発表がある。これを行った時、世界はその現代科学では絶対に再現できないアイテムを見てどう思うだろうか?
もっともありそうなのは、ダンジョンの制作者と接触して、その技術を移転してもらったというストーリーだろう。この話には説得力がある。もしも転移石が本物だったとしたら、だが。
しかし、そいつは本物なのだ。
世界の反応を想像した斎賀は、思わずため息を吐いていた。
「課長、ため息をついている場合じゃない報告がもう一つ」
「なんだよ、藪から棒に」
美晴は、神妙な顔をして、フランスのトップチームが失われた話と、その位置について報告した。
「フランスのトップチームと言うとヴィクトールのところか」
「そうです」
「……夜の十層は魔窟だな。中国もイギリスも酷い目にあったことが公然の秘密になっているというのに、今度はフランスが取り返しのつかない事になるとは」
「どうします?」
「どうもこうもないだろう。フランスチームの責任者は、確か――アルテュール=ブーランジェ中佐か」
斎賀は、自分の端末に、パーティの申請書類を表示して連絡先を確認した。
「これは、こちらから報告を入れておく。そうだな、探索者が最新のポーターの残骸を発見して、それがフランスのものらしかった、でいいだろう」
「分かりました」
Dパワーズの連中だって探索者だからな――斎賀はそう考えた。
しかし、そんな時間にあそこにいること自体、Dパワーズとかかわりがある可能性は高い、確か異界言語理解の時の中国も同じシチュエーションだったはずだ。
だからきっと、ブーランジェ中佐は何かを察するだろうし、ポーターに何かの記録が残されている可能性もある。
「フランスはDパワーズにちょっかいを出すかな?」
「ヴィクトールさんたちの任務によっては、話くらいは聞きに来るでしょうが――三好さんたちは、最初彼らがどこのチームかも知りませんでしたから」
仮に彼らがDパワーズを追いかけていたとしても、直接的な接触があったわけではない。
誤解を恐れずに言えば、彼らは危険な場所で無理をして、しかるべき結果になっただけなのだ。
「そうだな、言ってみれば知らないチームが、近くで無理をして犠牲になったというだけだからな」
いずれにしても――
「誰が亡くなったにしても、嫌なもんだ」
「転移石で、多少は状況が変わりますよ」
斎賀は、そう願うねとばかりに頷いたが、ついでに口をへの字に曲げた。
「そうだな。ただ、世界の状況まで変わりそうなのがちょっとな」
転移石を取り扱う部署のために、課内を再編していた斎賀だったが、転移石自体の話は、まだ部長にしか報告していなかった。
橘はその報告を聞いて、実際にダンジョン管理課で確認するまでは緘口令を敷いた。
これほどセンセーショナルな話を、声高に主張した挙句、間違いでしたではすまないし、そもそも信じられないという気持ちの方が大きかったからだ。
斎賀も、すでにそれを鳴瀬が経験したことは伏せていた。
ここで大きく商売っ気を出されても困るからだ。まずは確実にそれを取り扱う体制が重要だ。
続く報告には、ダンツクちゃんからの通信は、必ずDパワーズのメインフレームを経由していて、「今のところ」自由にインターネットへ接続できないようにしてあるとあった。
「これ、大丈夫なんだろうな? あと、『今のところ』ってのはなんだ?」
「三好さんたちは、いずれダンツクちゃんが、何らかの手段で勝手にネットにアクセスするようになると言っています」
「おいおいおい、銀行口座や各種社会インフラ系のデバイス類は大丈夫なんだろうな?」
斎賀の心配はもっともだったが、ダンツクちゃんの興味はそんなところにはないはずなのだ。
覗きは確実にやるだろうが。
「私もそう思いましたが、あの人たちは、ダンツクちゃんは、とっくにネットにアクセスしたことがあるはずだとも仰ってました」
「アクセスしたことが、ある?」
そこで美晴は、ダンツクちゃんが簡単にパソコンをコピーしたことや、今でも大勢の探索者はスマホを持って入ダンしていること、そうして、三年前のザ・リングの件をほのめかした。
「つまり、いまさらそんな心配をしなくても、三年前にアクセスしたことがあるはずだというわけか」
「推測ですが。証拠が欲しければ、三年前のネット掲示板やSNSのログを検索すればおそらくヒットするだろうと……」
「そいつは、自衛隊やら内調やらへ振っておこう」
転移石が公になれば、どうせダンツクちゃんのことは隠しきれない。
そのタイミングで、そういう専門の組織へ放り投げて、後は野となれ山となれだ。誰しも一人では生きていけないし、問題だって解決できっこないのだ。
先日の鳴瀬の報告から、悩みに悩んでいた彼は、今では開き直っていた。
もっとも、タイラー博士関連のことだけは伏せておかないと、頭のいい人が爆弾にしかねないからな、と、斎賀は与えるべき情報と伏せるべき情報を慎重により分け始めたのだ。
「とにかく現時点では、上手くモデレートして、ことが大騒ぎになる前に、なるべくダンツクちゃんに常識を教えるって方向なんだな?」
「そうです」
「それで、ここに書かれている、日本ダンジョン協会から借り出したい『備品』ってのは?」
それを聞いた瞬間、美晴はがっくりと肩を落とした。
斎賀は、その瞬間それが何かを察していた。
「あー、わかった。まあ、お前は専任だ。少々うちに寄りつかなくても誰も不思議には思わないだろう。丁度良かったな」
「はあ」
「だがこれって、ダンジョン省あたりに丸投げして、向こうでやってもらった方がいいんじゃないのか?」
地球外だか次元外だかは分からないが、相手はれっきとした知的生命体だ。
もはや日本ダンジョン協会単体でどうこうするといったレベルをはるかに超えているような気もした。
「今、特定の国家に丸投げしてしまうと、都合の良い常識を植え付けられて危険だそうです」
「危険? 政府にだって専門家はいるだろう?」
「日本の国益にかなう常識を植え付けた結果、日本以外の国が亡んだら困るでしょう?」
「そんな話になるのかよ?!」
「最悪はそうなるかもしれないそうです」
「あいつら発想が極端すぎるんじゃないか?」
ダンツクちゃんと話ができることを知られれば、確かに日本がその権益を得ようと行動するだろう。それは言ってみれば当たり前の行動だ。
だが、ダンジョン内は世界ダンジョン協会の管轄だ。だから、ダンツクちゃんが接触してきたのは世界ダンジョン協会だと強弁して、それを拒否することは可能だろう。
かなりの軋轢が生じそうだし、ますます世界ダンジョン協会が国っぽくふるまうことになってしまうが、日本に権益を独占されたくない他の国は、おそらく世界ダンジョン協会を支持するだろう。
「こいつは、権力のバランスを取りそこなったら、すぐにでも生き埋めになりそうなダンジョンだな」
「その前に、探索者をやめて、そのダンジョンから逃げ出すって選択肢もありますよ?」
斎賀は、少しだけ魅力的に思える、その選択肢のことを考えたが、すぐにかぶりを振った。
「ここまで沼に沈められちゃ、それも難しいだろう」
立場をなくしたら、暗殺されるかもしれない。なんて馬鹿げた妄想が頭をかすめた。
しかし、美晴が異界とのモデレーターを押し付けられ、斎賀が地球側のモデレーターを結果として押し付けられる。
間にいるのは、Dパワーズの連中だ。あいつら本当に地球人なんだろうな、と斎賀はふと思った。
「しかし、世界の秩序を根底から覆しそうなパーティの尻拭いをやっていたと思ったら、今度は世界の命運を握れそうな役割まで兼任とは……鳴瀬君も出世したな!」
「かちょお。世界の命運を握る役割は、いつでも交替して差し上げますよ? あと悲しくなりますから尻拭いって言わないでください」
「いや、俺は、他にやることがいっぱいあるから。まあ、よろしく頼むよ。HAHAHAHA」
本当にやることが山ほどあることは、美晴にもよくわかっていたので、その乾いた笑いにもジト目で対抗しただけだった。
来期のダンジョン管理課は、新人を多めに採ることになるだろう。
その時、課長の部屋の入り口の壁がノックされ、振興課の吉田課長が立っていた。
「ダンジョン管理課は、楽しそうでいいですね」
斎賀の乾いた笑い声を聞いたのだろう。嫌味成分がたっぷりねっとりびっちり詰まった視線をこちらに向けてそう言った。
「吉田課長? どうされました? 会議の時間はまだ先だと思いましたが」
「先? ははっ、そんなものがありますかね?」
「どういう意味です?」
吉田は、ゆっくりと斎賀の前まで歩いてきた。
「つい今しがた、三十一層に派遣している、森光君から電話があったんですがね、一体いつから代々木ダンジョンは携帯が使えるようになったんです?」
「ああ、その件ですか。いや、私も先ほど知ったところでして。実際のところを調査してから発表する予定なのです」
そのセリフに、吉田は、白々しいとばかりに口をゆがめた。
「斎賀課長。これは我々のプロジェクトへの当てつけですか? これを知っていらっしゃったなら、そりゃあ、こちらのプロジェクトに付き合うのは馬鹿らしかったことでしょう」
人生は、何が災いするのか油断がならない。不毛な会議でのやる気のなさそうな態度が、ここに来てこんな効果を上げるなんて、斎賀は予想もしていなかった。
もちろんそういうつもりはみじんもなかったし、ただ、セーフエリアの問題の方がずっと喫緊だっただけなのだが。
「いや、それは誤解ですよ」
「誤解? 現に三十二層から電話がかかってきましたが? いったいどういう手品なのか、ちゃんと説明していただけるんでしょうね?」
「我々にもタネはわかりません。ただ、突然使えるようになったとしか。それだけです」
「はっ。誰かが神様にお願いでもしたとでも?」
その放言は、非常に近いところをついていたのだが、吉田がそれに気が付くことはなかった。
「まあ、そうかもしれません」
その返事を聞いた吉田は憮然とすると、「会議は中止です。というよりも今回のプロジェクトそのものがすでに無意味なものになる可能性がある。詳細は追ってご連絡します」とぶっきらぼうに言って、くるりと背を向けると足早に去って行った。
「お冠でしたね」
「そりゃそうだろう。自分たちがこれから設置していこうと計画していた基地局が、突然全部不要になったんだ。多少は腹も立つだろうよ」
「だけどそれって、目的を取り違えてませんか?」
「目的?」
「だって、ダンジョン内で通信ができるようにしようというのが目的でしょう? なにもしなくても達成できたんだから喜べばいいじゃないですか。ここで腹を立てたら、まるで機器を設置するのが目的だったみたいに見えますよ?」
美晴の言っていることはこれ以上ないほど正論だ。
だが――
「鳴瀬。世界は正論だけでできてるわけじゃないからな」
「分かってます。課長にしか言いません」
斎賀は美晴の言い草に、呆れたように反応した。
「俺にも言うなよ」
その日の午後遅く、代々木ダンジョン内で携帯電話が使用可能になったことが、正式に告知された。
、、、、、、、、、
掲示板 【SMDって】Dパワーズ 242【どうなってんの?!】
1:名もない探索者 ID:P12xx-xxxx-xxxx-1623
突然現れ、オーブのオークションを始めたダンジョンパワーズとかいうふざけた名前のパーティが、ついにステータス計測デバイスを売り出した。
その名もSMD−EASYとSMD−PRO。
希代の詐欺師か、世界の救世主か? Dパワーズの行きつく先は?
次スレは 930 あたりで。
…………
206:名もない探索者
SMDって買えた奴いる?
207:名もない探索者
あれは幻。
208:名もない探索者
それは あなたの思い出の中にだけある機械…………
それは‥‥あなたの少年の日の心の中にいた青春の幻影…
209:名もない探索者
クサってやがる。遅すぎたんだ。
2十:名もない探索者
2点リーダー2個がリアルww
211:名もない探索者
遅すぎたってなぁ、0時一分にアクセスしたら、すでにすべては売り切れだったぞ。いったい何台作ったんだ、あれ。
212:名もない探索者
慢性的な供給不足にして、飢餓感をあおる戦略なんだよ。
213:名もない探索者
生産量が少なそうなのは確かだ。
214:名もない探索者
株式会社常磐医療機器研究所なんて聞いたことがないからなぁ。研究所に製造ラインなんかあるの?
215:名もない探索者
いや、冷静に考えたら、あれを買いそうなのはニッチな層だろ? 探索者である程度マジにやっている人か、研究者か、そうでなければ物好きだ。少なくても当然じゃないか?
216:名もない探索者
大工場を建てたり、どっかに生産委託したりはしないわな。
217:名もない探索者
家内制手工業で、ちまちま作るってこと?
218:名もない探索者
まあ、最初はそうだろう。
需要は、機能を考えれば、ものすごくありそうな気もするし、使用を考えれば、ほとんどないとも言える。全然分からん。
219:名もない探索者
あと、高いよ……
220:名もない探索者
高いか? 他の誰にも作れない機械だぞ? 車ならポルシェとかフェラーリとか、時計ならパテック・フィリップとか、そういうレベルの機械だろ?
221:名もない探索者
電化製品だと思えば、高――いや、ソナス・ファベールとかマッキントッシュとか、オーディオ機器だと思えばそうでもないか。
222:名もない探索者
そう考えれば35万も分からないでもないか。
後、二年目から有料だぞ。
223:名もない探索者
何が?
224:名もない探索者
サーバーへの接続使用料>有料
225:名もない探索者
サーバー?
226:名もない探索者
サイトの説明を読んでないだろ。
こいつは、単なる計測用のデバイスで、その情報をサーバーに送って解析することでステータスの結果を得られるようになってるらしい。
227:名もない探索者
ああ、スマホの音声認識部分みたいなものか。
228:名もない探索者
そうそう。結構な計算量が必要なんだろ。
229:名もない探索者
そのサーバーの使用料か。
230:名もない探索者
だから転売もできない。利用できるのは登録者のみときたもんだ。
231:名もない探索者
ええ?!
232:名もない探索者
PROの方は複数人が登録できるみたいだから、問題にならないんじゃないの?
233:名もない探索者
最低で280万もするじゃん……個人じゃ買えないよ。
234:名もない探索者
車や時計より安いぞ。あっちは個人で買ってるし。価値観の問題だろう。
235:名もない探索者
資産になるような車や時計と一緒にできないだろ。
で、二年目以降の使用料っていくらなのさ。
236:名もない探索者
五百円〜。計測する回数によって段階があるけど、出会うやつで会うやつ片っ端から計測したりしなければ、普通は五百円で十分間に合うレベルみたいだな。
237:名もない探索者
へー。
238:名もない探索者
ま、どっちにしろ買えなきゃ同じなんですけどね。
239:名もない探索者
なー。
240:名もない探索者
初期ロットが品薄なのは仕方がないだろう。
関連企業や、トップレベルの探索者、それに各国の軍が手ぐすね引いていただろうからな。
241:名もない探索者
そういうところって直接交渉するんじゃないの?
242:名もない探索者
Dパワーズは、そういうことをやってない……というか、あそこには電話が繋がらない。
243:名もない探索者
なんでそんなことを知っている。
244:名もない探索者
いや、業務でちょっと。はっきり言って全くつながらなかった。
245:名もない探索者
留守番電話とか?
246:名もない探索者
いや、そもそも繋がらないんだ。ずっとリングバックトーンが聞こえるだけで誰も出ない。
247:名もない探索者
線が抜けてるんじゃないの?
248:名もない探索者
そんな感じ。だからどんなに権力があっても、誰も連絡の取りようがないと思うぞ。
249:名もない探索者
メールアドレスとかあるんじゃないの?
250:名もない探索者
返事が来たという話を聞いたことがないwww>249
251:名もない探索者
なんだそりゃ。会社とは思えんな。
252:名もない探索者
従業員数1の会社だからなぁ……
253:名もない探索者
マジかよ!?
254:名もない探索者
サイトの会社概要の、従業員数のところに書いてあるぞ。
255:名もない探索者
つまり、中小企業基本法だと小規模事業者扱い?!
256:名もない探索者
こんだけやらかしといて、小規模事業者w
257:名もない探索者
へっへっへ。俺、予約できたぞ。
258:名もない探索者
うぉ! 幻じゃなかったのか!
259:名もない探索者
おちけつ。そいつが幻かもしれん。
260:名もない探索者
どっちよ? E? P?
261名もない購入者
45回転かよw
EASYだよ。PROを買うのは嫁に止められた。
262:名もない探索者
脳内嫁、乙。
263名もない購入者
使用に世界ダンジョン協会IDが必要だけど、別にDカードはあってもなくても関係ないっぽい。
機器に世界ダンジョン協会IDを登録して、SIMカードを指すか、Wi−Fiに接続したら、すぐにアカウント認証が行われて使えるようになるらしい。
264:名もない探索者
世界ダンジョン協会IDの再登録は?
265名もない購入者
できない。特別な手続きが必要になるってよ。
266:名もない探索者
ええー?!
267:名もない探索者
知らなかったのかよ。説明のところに書いてあるぞ?
268:名もない探索者
そんなものを読んでいたら、予約に間に合わないって。
269:名もない探索者
確かに。真面目な奴は損をするってことだ。
270:名もない購入者
今回の予約は、機種を選択した時点で仮予約されるみたいだったぞ。とにかく先にポチって、それからゆっくり入力したが大丈夫だった。
なにしろ入力する項目が多い。
271:名もない探索者
個人3情報と世界ダンジョン協会IDくらいじゃないの?
272名もない購入者
SIMカードの申し込みに必要な項目とかあるんだよ。オプションだけど。
支払い用のカード登録とか、口座登録とか。あと、法人だと他にもいろいろとあるみたいだ。俺はパーソナル区分だからそうでもなかったけどな。
273:名もない探索者
で、いつ来るのよ?
274名もない購入者
今月中とか書いてあったぞ。正式な発送日は、整理番号別に発表があるらしい。
275:名もない探索者
よし、274のところにSMDが届いたら、オフしようぜ、オフ。
計ってもらおうオフ。
276名もない購入者
いいぞ。一回五百円な。
277:名もない探索者
金取るのかよ!
って、五百円なら払っちゃいそうだな。そういう商売が成立する気がしてきたぞ。
35万なら700回計測すれば元が!
278:名もない探索者
残念。日本ダンジョン協会が無料の計測サービスを始めるってっさ。
279名もない購入者
マジかよ?! 俺のはかない野望が……
280:名もない探索者
野望がはかなくてどうするんだよwww
281:名もない探索者
日本ダンジョン協会のサービスっていつから?
282:名もない探索者
近日中。さすがに日本ダンジョン協会は裏ルートでPROを抑えてるだろう。
283:名もない探索者
裏ルートwww 密輸かwww
284:名もない探索者
よし、発表されたすぐに計測に行こうっと。
285:名もない探索者
戦闘力…たったの5か…ゴミめ…、って言われないようにしないと。
って、最初は混みそうだね。
286:名もない探索者
公開処刑されるのは嫌だな。きれいなお姉さんに、そっと耳打ちしてほしい。
287:名もない探索者
夜のお店か!
代々ダン情報局のコメントに書いとけ。
288:名もない探索者
さーて、盛り上がってまいりました!
…………
190 防衛省 3月12日 (火曜日)
「フランスのチームが、十層で行方不明?」
防衛省市ヶ谷地区の庁舎C2棟。
習志野駐屯地にあった独立部隊だった日本ダンジョン協会G(ダンジョン攻略群)が、2017年五月、改正自衛隊法の成立と共に陸上総隊の隷下部隊に再編され、2018年三月、総隊の設置と共に名目上の本部が習志野から市ヶ谷へと移転した。
本来なら、そのまま習志野に本部を置くか、移転するにしても朝霞が妥当なところだと誰しもが考えるはずだが、名目上は日本ダンジョン協会(日本ダンジョン協会)との連携を取るためとなっていた。
その際、本来は、情報本部などの情報関係機関・部隊などが配置されているC棟の、A棟にほど近い奥まった場所にある場所が日本ダンジョン協会Gに割り振られていた。
その部屋で、寺沢二佐が緊急の報告を受けていた。
「はっ。世界ダンジョン協会のランキングリストから消えておりますので、その生還は……」
「絶望的か。それで?」
「フランスのチームは十層への調査に入りました」
ダンジョン内に残された人類の痕跡は、かなりの速度で失われる。だから、急ぐのは当然だ。
目に見える範囲では、スライムによる溶解が報告されていたが、それはまるで、細菌によってリサイクルされているのではないかと思えるくらい、きれいに消えてなくなるのだ。
面白いことに、その原因を探ろうとした実験が行われたとき、観察対象だった何かの残骸は、観察されている期間消えることはなかった。
それはまるで、観察と言う行為そのものが、そのプロセスに影響を与えているようだった。
「昼間の間なら同化薬の効果で、大した問題も起きないだろうからな。しかし、十層と言っても広いだろう。我々への協力要請は?」
「必要ないそうです。場所は日本ダンジョン協会から連絡があったそうです」
「日本ダンジョン協会から?」
その時、外線の着信を示す呼び出し音が鳴った。
寺沢は、報告者に右掌を上げて、しばし待てのサインを送ると、受話器を上げた。
「ああ、寺沢さん? 斎賀です」
その向こうから聞こえてきた声は、今しがた話題になっていた日本ダンジョン協会のキーマンとも呼べる男だった。
「ちょっとご相談があるのですが――」
「相談? どうしたんです、改まって」
「ええ、まあ。日本の行く末と言っちゃあ大袈裟ですが。ほら、以前ご報告したじゃありませんか、ダンジョンの意図ってやつをね」
「ああ、あのヨタ……いや、失礼」
「ははは。そのヨタ話についての、もう少し詳しい話をしたいと思いまして」
「なんだって?」
寺沢の変化に、正面に立っていた男がピクリと動いた。
それを見た寺沢は、目とジェスチャーで、報告書を置いて退室するように彼に伝えた。
彼は、机の上に小脇に抱えていた書類を置くと、一礼して部屋を出て行った。
それを目で追いながら、寺沢は依然斎賀から貰った報告書について思い出していた。
あの話は、一応報告には挟んでいておいたが、その後の動きがないところを見ると、おそらくデマの類として処理されたはずだ。
「詳しくは――そうだな、代々木公園なんていかがです?」
代々木公園? 日本ダンジョン協会でも防衛省でもなくて? ……盗聴を気にしているのか?
「代々木公園?」
「御苑でもいいんですが、あそこは人が多いでしょう? 近場なら外濠公園もおすすめですが、ベンチが少なくてね」
本気なのか冗談なのかわからないところのある男だ。
「そうだ。内調の方も呼んでおいていただけると助かります」
「なんだって?」
寺沢は、もう一度驚きの言葉を繰り返した。
内調に知らせるということは、政府にも知らせるということだ。
いったい、この男がなにを語るつもりなのか、彼は少し不安になってきた。
「カバーは――そうですね、失業して家族にも内緒で人知れず求職活動をしている、くたびれたサラリーマンでお願いしますよ」
「なんだって?」
三度繰り返された驚きの言葉を聞いて、楽しげに笑いながら斎賀は時間を告げると、電話を切った。
「こっちの予定は無視かよ」
受話器に向かってそう呟いた寺沢は、それを静かにハンドセットホルダーへと戻した。
もちろん彼がぎりぎりの時間を指定して、こちらの予定を聞かなかったのは周囲への準備時間を与えないためだろう。つくづく食えない男だ。
寺沢は、もう一度受話器を上げると、田中を呼び出す番号を押した。
、、、、、、、、、
平日の代々木公園、しかも桜の季節でもない寒空に、噴水地脇のベンチ付近は閑散としていた。
寺沢は指定された南側にある舞台然とした場所に足を踏み入れると、左側の角のベンチに、くたびれたコートをはおった男が左手を上げているのに気が付いた。
足早にそこへと歩み寄ると、彼と並んで腰を下ろした。
一緒に来ていた田中は、辺りを軽く見回すと、背もたれのないベンチに、寺沢とは逆の方向を向いて腰かけた。
「それで? こんなフィクションめいたことをして、一体どんな話があるって言うんです?」
「まあまあ、寺沢さん。ここは代々木公園でも比較的視界が開けた場所でね。近くには人が隠れられるような木もない。ぶらっと立ち話をするには、なかなかいいところでしょう?」
田中は何も言わずに二人の話を聞いているだけだったが、視線は足元に向かっていた。
たしかに池の中から足の下に忍び込まれる可能はないとは言えないが、突然決まった場所だ。いくら数が少ないとは言え、都民の視線だらけの中で、池の中に入るのは容易ではないだろう。
ちらりとその視線を追いかけた斎賀は、一つ息を吐くと、率直に話し始めた。
「実は、代々木ダンジョンで通信が可能になりましてね」
寺沢は、以前から聞いていたプロジェクトが始動したのだろうかと考えた。
思っていたよりも早いが、ずっと話題にはされていたのだ。
「……ダイバージェントシティプロジェクトは、まだ計画段階だと聞いていましたが?」
「あのプロジェクトをご存じで?」
「お宅の常務理事――お年を召された方ですが――が、あちこちで、まあなんというか……話題にしてらっしゃいましたから」
「それはそれは」
それで、吉田があれほど切れていたのかと、斎賀は改めて納得した。
「しかし、前倒しで実行したとしてもまずは、一層からでしょう? そんな話をしに、我々をここへ?」
斎賀はそれに直接答えず、腕時計を見ると、「そろそろかな」と呟いた。
寺沢が、「なにがです?」と聞こうとした瞬間、彼のスマホが振動した。
それを見た斎賀は嬉しそうに目を細めながら、「どうぞ。出てください」と促した。
そう言われて、内ポケットからスマホを取り出すと、そこに表示されている、ありえない名前に目を見開いた。
「寺沢二佐? 君津です!」
通話を開始すると、電話の向こうから、聞きなれた若い女の声が聞こえてきた。彼女は、今、三十二層にいるはずだ。
後ろからは、「本当につながったぞ」と言った驚きの声が漏れてきた。
「そんなばかな……」
思わず口を突いて出た言葉は、幸い向こうへは届かなかった。
「日本ダンジョン協会の方から、連絡してみてくれと連絡を受けたのですが……本当に繋がるようになったんですね。それで、ご用件は?」
「いや、接続の確認だ。ご苦労だった、任務に戻ってくれ」
「了解しました。任務に戻ります」
そう言って彼女が電話を切った後も、寺沢はしばらくスマホを見つめていた。
「いかがです?」
「いかがもなにも……いったいどんな魔法を使ったのか、お聞かせ願えるんでしょう?」
斎賀は、まるで冗談を言うように、おかしそうに笑った。
「実は、ダンジョンの向こう側の誰か、というよりその代理人みたいな存在に、お願いしたんだそうです」
その話を聞いた寺沢は、目を点にした。
沈着冷静を絵にかいたような男のこういう表情は珍しい。その向こうにいる田中の表情は、ほとんど変わらなかったが、一瞬だけ目の下がピクリと動いたのを斎賀は見逃さなかった。
「頼んだ?」
「そうです」
「ダンジョンの向こう側にいる誰かに?」
「おそらく」
「そんな話は聞いていない」
「そりゃあ、今初めて話してますから」
「……君は日本ダンジョン協会の職員じゃないのか?」
「真面目な職員ですよ。ただ、上司に報告する前に、お二人にお伝えしておいたほうが方が丸く収まるかなと思ったのですが。まあ不要と言う事でしたら」
仕方なさそうに肩をすくめると、ベンチから立ち上がった。
「茶番はそれくらいでいいでしょう」
それまでだまって話を聞いていた田中が、きれいだとはお世辞にも言えない噴水池の水のむこうに立っている5本ケヤキを遠くに見ながら、奇妙に通る静かな声で言った。
斎賀は柔道の試合で、殺気立った達人を前にした時のような圧力を感じて、そのまま微かに顔をひきつらせた。
「怖いねぇ。それが本性ってやつ?」
「平和な日本に、闇がないと思っているなら、それは幸せな人生を歩んできた証拠ですよ」
「そういうことは、一生知りたくないな」
「すぐにでも日本ダンジョン協会から引き抜いて差し上げましょうか?」
「そいつは遠慮しておきますよ。俺は今の自分を結構気に入ってる」
「それで、震源は三好梓?」
お互いに一度も目を合わせずにやり取りしていたが、そこで、田中が突然話題を変えて訊いてきた。
斎賀は、ただ肩をすくめて、「それは、そちらの方が良くご存じなのでは?」と答えた。
彼らは、オーブの最初の受け渡しからずっと彼女たちを監視しているはずだ。
だが、田中は首を振って続けた。
「ダンジョン内では、彼らの護衛は行っていません。というよりも不可能でした」
「護衛ね。それが不可能?」
「いつの間にか振り切られるそうです。それに――」
異界言語理解の騒動の時、ロシアのイリーガルを丸ごと引き取らされたことには、頭を抱えたものだ。
御苑のチームは、どうやらアメリカのガードが抑えたようだが、狙撃を行ったはずの狙撃者や、ダンジョン内に展開した精鋭はどうやって捕らえたのかすらはっきりしなかった。
「――ダンジョン内で、あの連中を傷つけられる組織は、今のところ存在しないようですよ」
そうして、田中は、珍しく感情のこもった言葉を継いだ。
「いったいどんな凄腕に守られているんだか」
世界一位の男の影がちらつくことは、全員が理解していたが、誰もそのことには言及しなかった。
少し離れた噴水の先で、なにかの運動をしている団体が準備体操を始めた声が聞こえてきた。
それまで、二人の話を呆然と聞いていた寺沢が、それがスイッチになったように話に割り込んだ。
「待ってくれ。つまり今回の通話が可能になったのは、三好梓が、ダンジョンの向こうにいる誰かに、そうしてほしいと要求したから繋がるようになったってことか?」
「誰が頼んだかはこの際どうでもいいでしょう。わざわざご足労いただいて、お話しておきたかったのは――」
田中は、斎賀のセリフを遮るように後を継いだ。
「我々が、ダンジョンの向こう側にいる何者かとコンタクトしたという事実をどうするか、だな?」
ポケットに手を突っ込んだまま、寒空に身を震わせるように肩をすくめると、斎賀はもう一度座りなおした。
「いやしかし、証拠がなければ、そんな話、上の連中はとても信じないだろう」
寺沢が難しい顔をして腕を組んだ。
「通信ができるようになったというのは?」
「現場を知らない連中は、それくらい人類の力でも、やろうと思えば可能だと考えているよ」
「それが、ダイバージェントシティなんてバカな名前のプロジェクト?」
「バカは酷いな」
寺沢は、苦笑したが、大まかな点では同感だった。
あれは、維持のことを何も考えていないプロジェクトだ。もしも実行に移されたとしたら、どこが管理をするのかでおそらく相当もめただろう。
今となっては、大いに出鼻をくじかれたと言えるが。
「大丈夫。もう数日したら、どんなに懐疑的でも信じなければならないことになりますよ」
「なにを?」
「我々が、ダンジョンの向こうにいる誰かとコンタクトしたってことを、ですかね」
「相手がやって来て、政府に挨拶でもするのか?」
「その程度なら、まだ救いもあります」
それならまだ、交渉が始まる前だと言える。
諸外国や国連も、せいぜいが自分たちをかませろと騒ぐ程度だろう。
「その程度?」
「今回提供されるのは、言ってみれば『奇跡』です。今のうちに諸外国にどう言い訳をするのか考えておいた方がいい」
なにしろ、その異常な技術は、諸外国から見れば日本が独占しているように見えるのだ。
裏に表に、その技術の公開を要求してくることは確実だ。しかし、それを渡すことは不可能だ。なにしろ作り方が分からない。
しかし、それで各国が納得するだろうか?
「奇跡? どこかの宗教団体に入信でもしたのか?」
「本当に救ってもらえると言うのなら、今すぐにでも」
寺沢の冗談に軽口で答えながら、斎賀は、数日後に発表される予定の、帰還石と転移石について彼らに語った。
あまりの内容に、彼らは驚きを通り越して、表情が抜け落ちていた。
「転移……ですか?」
田中が思わずそう呟くと、寺沢が確認するように言った。
「転移って、あのこっちで消えて、あっちに現れる、あの転移?」
「あっちで消えて、こっちに現れても構いませんが、それです」
「そんなことが――」
可能なのかと言おうとして、寺沢は口をつぐんだ。
それが現実でなければ、ここでこんな話をしているはずがないのだ。
「念のために確認しておきますが、それはダンジョンの外でも利用できますか?」
田中が初めてこちらを向いて、剣呑な目つきでそう尋ねた。
斎賀は将来的にそれが可能になる可能性を美晴から聞いていたが、現時点では転移場所の制限と、代々木から離れるとただの石になる機能の追加に成功したとの報告も受けていた。
「あくまでも特定の場所に対して、ダンジョン内でのみ利用できるということになっています」
「なっています、ね」
それを聞いた田中が、俯いて口をゆがめた。
「どこにでも転移できる石が実用化したりしたら、テロなどやりたい放題だ。防ぎようがない」
「なんにしても我々は作り方を知りません。ですから技術を渡せと言われても、渡しようがない」
「石そのものが要求されるでしょう」
そうして科学の粋を集めて研究されるはずだ。
だが、斎賀は首を振った。
「この石は、代々木から持ち出すと、なんの変哲もないただの石になるんです。だから詳しく研究するのは難しいでしょう」
ダンジョンブートキャンプが行われている建物に研究室を作るなら、ぎりぎり範囲内かもしれないが。
「ほかに、向こうへ要求したものは?」
「なにも。なにしろ今回の件だって、実は要求と言うわけじゃない。正確には、自発的にそうなるように誘導した、と、言ったところだそうです」
「それはつまり、双方向のコミュニケーションがそこにあったということですね」
斎賀はそれに答えなかったが、田中はそれっきり黙り込み、追及をしなかった。
「しかし、ことがことだ。どんな結果になろうと、関係者の審問は避けられないぞ」
斎賀は首を振りながら、忠告した。
「田中さんはよくご存じだと思いますが――」
それを聞いて田中が顔を上げた。
「――あなたの想像している連中は、基本的に善人で従順ですが、高飛車な何かの権威だの政治家だのに、不当な態度を取られたらへそを曲げますよ」
田中は困ったような顔をして、それに続けた。
「そうして、へそを曲げたら最後、何をしでかすか分からない」
「さすがによくご存じで。私はつい最近、独裁者をうらやましく思ったばかりですからね。念のためにご忠告を」
田中の口の端がかすかにゆがんだのは、きっと笑ったに違いない。
「能力のある自由人は、組織じゃ使いにくい代表格だからな」
「自衛隊にもそういう人間が?」
「残念ながら、とびぬけて能力の高いやつは、ほぼ全員にそういう傾向がある」
寺沢は、仕方がないとばかりに肩をすくめるが、それでも上意下達の意識が徹底している軍ならば、まだ多少はましだろう。
あいつらは良くも悪くもフリーダムだ。
日本が嫌になったら、いつでも他の国に平気で亡命できるメンタリティを持っていそうだ。
しかも、どの国だろうと引く手あまたであることも間違いない。障害なんてないも同然だ。
「ともかく話は分かりました。ダンジョンの向こう側の――長いな」
「我々は、デミウルゴスだとか、ダンツクちゃんだとか呼んでますよ」
「デミウルゴスとは上手く言ったものだ。だが、ダンツクちゃんの方が人気が出そうだ」
「かもしれません」
「ともかく、そのダンツクちゃんと、今でもコミュニケーションが取れるということでよろしいか?」
「直接は無理ですが、伝えることは可能です」
「それはまた、ルートが問題視されそうな内容ですね」
「無理なら、コミュニケーションはなしということですね」
寺沢が、眉をひそめて苦言を呈した。
「そいつは……日本ダンジョン協会が間に入って暗躍していると取られるかもしれないぞ?」
「事実じゃないので、別に構いませんよ」
「火のないところに煙を立てる専門家も大勢いる」
「ご忠告痛み入ります」
「なら、間接的にはコミュニケーションが取れると」
「いまのところは」
「分かりました、内閣方面は私が引き受けましょう」
「ありがたい。念のために行っておきますが、外務省を通して、ダンジョンの向こうとこちらで国交を結ぶなんてところへは持って行かないでください」
「なぜです?」
「相手がそれを求めていません」
「では、何を?」
「彼らが求めているのは、奉仕する対象、ですね」
「以前のレポートに書いてあったのは、本当のことだったのか?!」
「もちろんです。日本ダンジョン協会は嘘を報告したりはしませんよ」
言わないことは多そうだがなと、寺沢は内心毒づいた。
「奉仕する対象……というのは、今一つ意味がわかりませんね。ダンツクちゃんへの見返りは何なんです?」
「さあ」
その点は、まるで分らない。
人類が、他の惑星へ入植するとするならば、見返りに期待するものは、その星の資源だろう。
しかし今のところ相手は、あらゆるものを無から作り出しているように見える。鳴瀬たちの言っていることが本当なら、人間すら再現しているのだ。
そんな連中に必要なものなどあるのだろうか。
「ひょっとしたら、人類そのものかもしれません」
斎賀は何となくそう言ったが、二人は黙ってそれを聞いていた。
そうして、彼らはその場で解散した。情報は、二人がそれぞれの機関で、適切な場所へと伝えるだろう。
その後どうなるかは……もはや斎賀の手の届かない領域だった。
彼は、新部署の全貌を、どう橘に報告するべきか頭を悩ませつつ帰路についた。
191 行政府 3月12日 (火曜日)
その報告がもたらされた後の、日本の行動は早かった。
連絡を受けた村北内閣情報官が内谷国家安全保障局長と共に官邸の門をくぐったのは、田中たちが話を聞いてからわずか三十分後の11時1二分だった。
急遽内谷が呼び出されたのは、ダンジョンの向こう側と外務省が直接接触するのは拙いという田中の報告を受けてのものだった。
内谷は外務事務次官出身者だ。そのため、現在の国家安全保障局は、外務省ルートでは接触しづらい相手に接触して関係構築を行う役割も担っていたのだ。
村北が、田中からもたらされた情報を、一通り説明した後、総理は開口一番こう言った。
「まいったな。先月の頭に接触はしていないと公式に返答したばかりだぞ?」
「それは問題ありません。接触したのは国ではありませんし、そうでなくても、この一ヶ月の間に接触したとすればいいだけですから」
「そりゃ胡散臭い」
「胡散臭すぎて、事実だと認識されますよ」
総理は処置なしとばかりにため息を吐くと、気持ちを切り替えて、内谷に向かって言った。
「それで、どうでしょう。やっていただけますか?」
「相手は人類ではありませんし、それどころか地球上に生息してすらいない。そことなんらかの関係を築くわけですか?」
内谷は、聞いた説明を反芻しながら、鑑定の天井を眺めて、しばし考えこんでいた。
果たしてそんなことが可能なのかどうかは分からなかったが、外務畑を歩んできた男にとっては、実に面白そうな案件であることは確かだった。
「それでも言葉が通じるなら、何らかの関係を築くことは可能でしょう。この件に関しては、うちマターでよろしいんですね?」
内谷が内容以上に気にしていたのは、内閣危機管理監とダンジョン庁だった。
この事態を国防とみなさないなら、担当は内閣危機管理監だろう。元警視総監の橋高氏に振られるべき案件だ。
また、ダンジョン庁は、省庁間の総合調整という意味では、同じような機能を持った庁だが、向こうは日本ダンジョン協会との連絡機関としての性格が強い。
当初は、国家安全保障局の中にダンジョン系の部署を作る意見も有力だったが、各省庁間の綱引きの結果、新たな庁となることが決まった経緯があった
この話がダンジョン庁マターになるか、国家安全保障局マターになるかは微妙なところで、妙な面子のこじれで足を引っ張られることになるのは御免こうむりたかったのだ。
「ことは国民の生命にかかわる問題というよりも、外交に近い領域にありますから、ぜひ、内谷さんにお願いしたい」
「分かりました。ではすぐに、相手の分析と交渉プランの立案に入ります。しかし相手の情報が少ない。コンタクトしたものの審問は行われるのですよね?」
「あなたのところの防衛省出身の局次長が、細かい話を持ってくるはずですから、そちらとすり合わせてください」
「承知しました。では、私はこれで」
そうして11時19分、内谷は急ぎ足で官邸を後にした。
その後ろ姿を見送った後、井部は改めて村北に向かって尋ねた。
「しかし、転移だと? これは本当に事実なのか?」
「日本ダンジョン協会内ではすでに試験が行われたようです。田中の報告ですと、現在はともかく、将来は地上でも利用できる可能性があるかもしれないとか」
井部は思わず腰を浮かせて身を乗り出した。
「それは拙い! 実に拙いよ!」
「拙いでしょうね」
経済面では旅客運送業に、防衛面では、テロ対策や軍に根本的なパラダイムシフトが発生するだろう。
しかし相手は未知の技術だ。少なくとも序盤には対抗策がない。意識的なパラダイムがシフトしても、技術的にはシフトのしようがないのだ。
「敵が爆弾を持ってテレポートしてくるなんて話は、SF漫画の中だけで十分だろう」
そのSFにおいても、その攻撃の対処はまともに描かれていないのだ。
せいぜいが、爆発は防げないから、その爆弾から身を守るバリアのようなものを使ったり、ジャマーのようなものでテレポートそのものを阻害したりする程度だ。
現実なら、首相官邸だろうがホワイトハウスだろうが、場所が分かっている限り暗殺など、し放題だろう。
「それに、個人の移動を国家が管理できなくなる日が来ると言うのは、先進国にとっては悪夢だな」
ただでさえ、難民や不法移民の問題は、ヨーロッパやアメリカにとって頭の痛いところだ。
国民の安全と人権という大義の狭間で、あらゆる民主国家が揺れているし、全体としてはそれを規制したりコントロールしたりしようとしている国がほとんどだ。
にもかかわらず、人間が自由にどこへでも移動できる?
密輸も密入国もやりたい放題で、刑務所などなんの役にも立たない施設に成り下がるわけだ。
どんな厳重な施設からも、あらゆるものが盗み出され、対策と言えば、貴金属や現金を集積しないことや場所を秘匿すること、ただその一点しかないわけだ。
すぐに転移石そのものが価値を持ち、軍備に至っては、現在の核兵器にとって代わることは想像に難くない。
なんなら相手国のミサイルサイトに転移して、自爆させることだってできるだろう。戦争の抑止力たる核兵器は、所有しているだけで危険な爆弾に様変わりするわけだ。
「核軍縮は進みそうだな」
「まだ先の話です。それに結局地上では使えないかもしれませんし。実際現状では使えないようです」
「それを信じてくれる国があるといいな」
自分の国にない超技術を実用化した国が現れるが、その国は他国に超技術を移転しない。ただし、その結果だけは公開する、か。
どこかの異界言語を理解するためのオーブと、とても似通った現状がそこにはあった。
「いっそのこと日本ダンジョン協会に、発表をやめさせるというのは?」
「総理。すでに代々木ダンジョンでは、通信が可能になっています。諸外国がそれに注意を向けるのは時間の問題でしょう。オーブの競売の件と言い、今回の件と言い、もはや言い逃れするのが難しい現状では、情報を隠した方が、暗躍を認める結果になりませんか?」
「言い逃れじゃないんだがなぁ……」
井部はぼやくようにそう言った。
「『放置して日本ダンジョン協会に便宜を図っておくのが、国益を最大にする最高の手段』か。国益は確かに最高なのかもしれないが、外交は最高に難しくなったぞ」
「では、いっそのこと、なにか濡れ衣でもかぶせて、拘束しますか?」
村北の発言に、井部は思わず言葉を飲み込んで、難しい顔をして腕を組んだ。
「最終的には、それもやむを得ないかもしれないが――」
相手は、ダンジョンの向こう側へコンタクトを取ったかもしれない唯一の存在だ。
ついでに、その利益を大衆に還元していて、ついには奇跡のような転移などと言うものまで実現したわけだ。
もしも政界にうって出られたりしたら、今は誰にも対抗できるはずがない。相手はアピールするところが無数にあるのだ。
それに、政治家は誰しも後ろ暗いところが多少はあるものだ。最初から最後まで清廉潔白などと言う人間は、政治家でなくてもほとんどいないだろう。
もしもそれを〈鑑定〉でほいほいと見破られたりしたら? そうでなくても、〈鑑定〉で確認しましたとばかりに、あることないこと公表されたりしたら?
政治家にとって、民衆に対するイメージは非常に重要だ。初期のころは、それ以外は不要だと言っても過言ではない。
選挙は政治に対する能力で当選するわけではなく、民衆に対するイメージで当選するのだ。だから、能力的に優秀な者ばかりがそろうわけではないのは、ある程度はやむを得ないことだ。
だがそれをステータスとやらで数値化されたらどうだろう? 数値の低い人間に、大衆が投票するだろうか?
今年の夏の参院選は、もしかしたら、その影響を被ったりしないだろうか。
彼女たちの行動は、我々政治家にもパラダイムシフトを要求してくる可能性が高い。
結局、政治家だのなんだと言ったところで、人は、自分たちのことが一番大切なのだ。
井部はなにかを諦めたように肩を落として村北に言った。
「――先に取り込むことを検討するべきだな」
そういえば今晩は、パレスホテルで行われる、京都大特別教授のノーベル医学生理学賞受賞祝賀会の後、『かわむら』で党の会食があったはずだ。そこで、相談してみるべきだろうか。
彼は、次の予定が来るまで、そのことを考え続けていた。
、、、、、、、、、
「なんだこの問題は?」
思わずそう呟いた彼の気持ちは、その選抜試験に臨んだすべての人間の総意に違いなかった。
外務省を中心に行われた、新設の内閣直属の部署へのスタッフ選定に応募した者たちが受けた選抜試験。そこにはとても正気とは思えない問題が並んでいたのだ。
日本が未知の宇宙人と接触して、魔法のような技術によって作られたアイテムを得た。諸外国はそのことを、おぼろげにしか知らないが、いずれは既知となるだろう。
その状況で、次の2点について政策を立案して、概要を述べろ?
1.宇宙人との外交政策
2.地球上の他国との外交政策
提出期限は三月18日。
「ラノベかよ!?」
ライトノベルと言われるジャンルの書籍には、宇宙人がやって来て、日本とだけ交流を持つなんて話がそれなりにある。
しかし、なんで新部署の試験がこんなバカげた――
「まさか、こういったシチュエーションが現実に?」
この問題に真剣に取り組んだのは、そう考えた柔軟な思考の持ち主と――そういう話が大好きな、やや偏った志向を持った人々だった。
192 今後の展望 3月12日 (火曜日)
みどりさんが昼食を食べてから帰宅した後、俺は事務所のソファでグラスと一緒にダラダラしていた。
今日もブートキャンプは行われているが、最近では第2が時間差で稼働している。教官が一人しかいないため、同時間の開催は出来ないからだ。
教官を増やすという話もあったのだが、終了時間を通知するグレイサットは一匹しかいない。だから一人の教官に張り付けておくだけで済む現体制が望ましいのだ。
もっともキャシーが前面に出るのは、最初の説明と最後のメチャ苦茶《くちゃ》を飲ませるところ、そうしてトラブルが起こったところくらいで、個々の訓練についてはアルバイトのアシスタントを雇ったらしい。
一般から公募したのかと思ったら、ダンジョン攻略局の後輩なんだとか。それでいいのかダンジョン攻略局。
「とうとう、ダンジョン内で通信ができるようになりましたけど、この後はどうします?」
三好がダイニングから、コーヒーを二つ持ってやってきた。
「そうだな。ダンジョンの中だけに限っても、転移石31の作成に、アメリカの荷物運びもそろそろだろ?」
「インフィニティファームシステムも、試作機ができてるそうですよ。どこに設置して試験します?」
「横浜は大きさ的に難しいか?」
「ロビーや踊り場に置くのは、ちょっと無理ですね。あとDファクター濃度的にもあんまり適してない感じです」
「リポップが遅いのはなー。じゃあ、代々木しかないだろ」
「そうなんですけど、放置しておくといつの間にかなくなったりしませんか?」
「機器が大きくなると、スライム対策も面倒になるか」
「大きくてもDPハウスみたいな、最初からそれ対策をした形状なら問題も少ないんですが……」
それを聞いた俺は、兼ねてから考えていたことを実行に移すことにして、きちんとソファに座りなおした。
「なあ、三好」
「なんですか、改まって」
「丁度、通信ができるようになったら、次は建物だと思ってたんだよ」
「なんですか、その飛躍は」
「いや、だって、ダンジョン内の残骸の消滅トリガが観測なのは良く知られているだろう?」
「初期のころの研究ですね。見張っている間はスライムが現れなかったってやつ」
「そうだ、それをもとに、エクスペディションスタイルの通信拠点防衛なんかが比較的安心して行われてるわけだ」
「あれも不思議ですよね。スライムが溶かしているだけとは思えない速度でなくなっちゃいますから」
それでもスライムがトリガになっていることだけは間違いない。
もしもそうでなければ、スライム防衛だけしている、二十一層のDPハウスはとっくになくなっているだろうからだ。
「そうだな。だがまあ原理はいいよ。ここで問題なのは、『観測』とはなにかってことだ」
「なんですなんです? いきなり哲学とか量子力学の話?」
「普通、見ているっていうと、誰かが対象を目で捉えて脳で認識している状態だろ?」
「まあ」
「なら、カメラはどうだ?」
カメラが対象を捉えているとき、それは見ていることになるのだろうか。
例えば、そのカメラからの映像を録画しているときと録画していない時では、同じカメラを利用していても、見ていることになったり見ていないことになったりするのだろうか。
「後で人間が確認するために録画をしているのなら、見ていると言ってもいいんじゃないですかね?」
「それならばっちりなんだがな」
通信ができるようになったということは、そこに設置したカメラの映像を飛ばせるということだ。
もしもカメラを利用して遠隔で映像を見ていても、ダンジョンがそれを観測だととらえれば――
「永続的な建物がダンジョン内で建てられる?」
「かもしれない。だから実験だよ」
最初の実験プランは、次の五つのバリエーションを比較的近くに配置して、カメラと人工物Aがどうなるかを確認するのだ。
一人工物Aのみを配置した状態
2.1台のカメラで、人工物Aを監視している状態。
3.2台のカメラで、お互いを監視して、中央に人工物Aが置かれた状態。
4.3と同様だが、録画しない。送られてきた映像も見ない。
5.3と同様だが、スタンドアローンで録画する。
5は、まあ、オマケだ。もし5でも許されるんだとしたら、代々木以外のダンジョンでも使える手法になるってことだ。
しかし5は、すでに誰かがやっているような気もするな。
「代々木ですよね?」
「横浜じゃ、電波飛ばないからな」
これが思った通りの結果になったとしたら、ダンジョンの利用はさらに広がることだろう。
「だけど普通の解像度じゃあっという間にパケットを使い果たしちゃいますよ。128kbpsで転送できる解像度で、観測って言えますかね?」
確かに、通信量が爆発してるってことは分かるけれど、あれだけ動画コンテンツだのゲームだのをプッシュしておいて、制限速度が128kbpsというのは時代遅れなんてレベルではないよな。
最低でも古いADSL並みの、1.二mbps程度は確保してほしい。
5Gだのなんだの景気のいいことを言ってはいるが、今のサービスでどうしろというのだろう?
10Gbpsを超える通信速度? それって、大容量サービスの10Gバイトを食いつぶすのに、たった8秒ってことだよ? 開始数秒で転送量をすべて食い尽くして、あとは一ヶ月間128kbps? はっきり言ってバカだろう。
回線とコンテンツと、サービスが乖離しすぎる時代はすぐそこだ。
「ワンセグの映像って、H.264で、128kbpsじゃなかったか? 320x240だけど」
「あれ、15fpsですよ」
もしも、画像の転送に数秒かかったりしたら、その数秒で何かが起こるかもしれないが、さすがに十五分の一秒なら大丈夫……なんじゃないだろうか。
「いくらなんでも十五分の一秒で、消えてなくなるってことはないと思うが……無制限SIMの低速プランで500kbpsってのがあったはずだぞ。500kbpsなら、30fpsでいけるだろ。H.265ならなおさらだ」
「じゃあそれで、えーっと、5回線ですね。機材を探してみますが、H.265が使えるようなカメラって、低解像度がないものが多いんですよね……」
ぶつぶつ言いながら、三好が間尺に合いそうなカメラを検索していた。
「いざとなったらパソコンを括り付けて対応しますけど、問題はバッテリーですよね……」
動画のエンコードを延々やって、電気を食わないわけがない。せめて48時間くらいは持たせたいのだ。
「バッテリーと言えば、タイラー博士が何とかするって言ってたのって、どうするつもりなんだろうな?」
「そりゃ、館にコンセントを作り出すんじゃないですか?」
「いや、コンセントってなぁ……まさか、Dファクターの直接電気化か?」
「どっかの誰かが、やろうとしてたやつですね」
「やけくそで、魔結晶に電線張りつけて豆球をつないでみるかって言ったのはお前だろ」
「先輩。もしも本当に博士が直接電気化をやっていたとしたら――」
「誰でもそれを再現することができるようになっているかもな。塩化ベンゼトニウムのことを考えても、十分ありえる」
「でも、どうやって?」
「そこだよなぁ……」
「祈りと言い、バッテリーと言い、分かんないことがいっぱいですよー。マニュアルが欲しいですね」
「そうだなぁ……ただまあ、もしもそれらが全部上手くいったとしたら――」
「したら?」
「ダンジョンの中に、地球とはあきらかに違う世界が現出することは間違いないな」
無償で無限のエネルギー、移動は瞬間移動、ついでに祈りで何でも作り出せる世界が。
「こいつはまるで、夢の研究室だな」
「核爆弾が爆発するような事故が起こっても、被害はそのフロアだけですし?」
「よせよ」
三好は笑いながら、カップを下げようと立ち上がった。
「じゃあ、実験の場所については、鳴瀬さんが来たら相談してみます」
「そういや、あの『備品』申請は通ったかな?」
「今のところ、他に代案がありませんからね。通ると思いますけど……」
「鳴瀬さんが、ダンツクちゃんのマムになる日は近いな」
俺がそう言って頭の後ろで両手を組んだ瞬間、呼び鈴が鳴った。
その人物を確認した三好が、「噂をすれば影ってやつですね」と言って、ドアに向かった。
『よう、久しぶりだな』
『お久しぶりです、サイモンさん』
『そうそう、もうこき使われまくって、しばらくアズサのコーヒーすら飲みにこれなかったサイモンだ』
サイモンは、クンクンとその残り香をかぎながら、さりげなく三好にコーヒーを要求した。
『なんですその説明的なセリフは。十八層と二十二層で大暴れしているって聞きましたけど』
『あとは物資の輸送のために、地上との間をキャラバンしてたりな』
そういえば、時折キャラバン中に撮られた、彼らのサービス精神旺盛な写真がSNSを賑わしているようだった。
『それで今日は?』
『おお、セーフエリアの分割も決まって、開発も始まったみたいだし、そろそろ輸送してくれってよ』
『それを言うために、わざわざ? 忙しかったんじゃ?』
『いやいや、俺にもたまには息抜きが必要だろ?』
そう言いながら、三好の入れたコーヒーを受け取って、匂いをかぎ、それを満足そうに口に含んだ。
『それに、お前らのところキャンプが、やっと本格稼働しただろう?』
テストオープンは二月の終わりだったが、本格的に受講者を受け入れ始めたのは三月四日からだった。
変な夢を見たり、転移石のことで忙しかったから、少しずれたのだ。
『おかげさまで、第2はダンジョン攻略局専門みたいになってますよ』
『まあまあ。キャシーだって、うちの連中をアシスタントに使ってるみたいじゃないか』
それを言われると言葉もないのだけれど、あれ、ちゃんとバイト代を払ってるんだろうな……ちょっと不安になって来たぞ。
『うちの秘密が盗めていいじゃないですか』
『そう思うだろ? ところが全然再現できないんだとよ。お前らどんな魔法を使ってんの?』
『いや、それ言っちゃダメなやつでしょう?』
あまりにあけすけな様子に、俺は思わず苦笑した。
『なに言ってんだ。最初にキャシーに、『業務中に知りえたことは元の上司に話していい』とか言ったのはお前らだろ』
『まあ、そうなんですけど』
『おまえらの準備ができるのが遅いから、民間人を装って、新しくできた代々木ブートキャンプにも試しに人を送り込んでみたんだが――』
『どうでした?』
サイモンは言いにくそうに肩をすくめ、口をへの字に曲げた後、ポツリと言った。
『――ありゃ詐欺だな』
自分たちで再現してみたブートキャンプと同じで、効果はまるで感じられなかったそうだ。
『ともかく、そういうわけでな。第2の訓練が終わった奴が本格的に活動を始めたから、俺たちは雑用から解放されたってわけ』
『はぁ、それはおめでとうございます』
『評判は上々だぞ。もう一度受けたいというやつも大勢いるそうだ。商売が繁盛して結構なことだな』
『いいですけど。あの訓練を受けたら代々木で一年間攻略に力を貸す必要があるんですよ?』
『まあ、一年くらいなら、いい経験になるだろ。一応ここは、世界でもっとも深いところまで到達しているダンジョンだし、金も儲かる』
『アメリカって、そんなに緩いんですか?』
『米軍は、日本やNATOにも駐留してるだろ? 大差ないって。きっと手当も出るぞ』
そう言われれば、日本にも5万人以上の米兵が駐留している。任期の平均がどのくらいかは知らないが、一年くらいなら普通なのかもしれないな。
ダンジョン攻略局は軍とは少し系統が違うようだが、基本的なところは似たようなものなのだろう。
『それで、なんだ? 俺たちが真面目に働かされていた間に、代々木はずいぶんと面白いことになってるじゃねーか』
『面白くないですよ。フランスチームは犠牲になりましたし』
『ああ、ヴィクトールのところだろう? 話を聞いても信じられなかったぜ』
『アッシュを過信したんでしょうか』
『フランスのポーターか。……かもな。ファルコンのポーターも、やはり連れてるともっと先まで行けそうな気分になるぜ。弾薬の数の余裕が原因かもな』
部屋には少ししんみりとした空気が流れた。俺たちはフランスの探索者とまるで接点がなかったが、サイモンはおそらく知り合い程度には接点があっただろう。
ある日突然知り合いがいなくなる。普段はまるで意識していなくても、意識した瞬間になんとなく寂しい気持ちになるものだ。
『ま、あいつら足が遅すぎて、はっきり言って邪魔だから、よっぽどでないと連れて行かないんだけどな』
『よっぽどって?』
『遠距離で12.7ミリが効果的な相手、とかだな』
12.7ミリが効果的な相手? 7.62ミリが豆鉄砲みたいに感じられるやつか。
キメイエスみたいなやつが定期的に出るなら効果があるかもしれないが、あれの場合はデスマンティスの餌食になるだけのような気もするな。
エンカイにはそもそも当たらないだろうし……
『いますか? そんな奴』
『三十一層の各ボス部屋辺りでは役に立ちそうな気がするんだが』
『もう試されたんですか?』
『いんや、これからさ。やっとプラチナ小僧のお守りから解放されたところだからな』
そういえば、二十二層でポーターのテストをしていたっけ。
『そういや、代々木はどうなってんだ? 突然ダンジョン内で携帯が使えるようになった時には何事かと思ったぞ? どうせあれもお前らのせいなんだろ?』
『ええ? えーっと、違うというか、そうだと言うか』
『意味わかんねーよ。あれって、他のダンジョンでも使えるようになるのか?』
『それはなんとも。あれって、代々木特典みたいなものですし』
『特典ってな……』
サイモンは呆れたように、ソファに深く体を預けて足を組みなおしたが、なにかを思い出したようにカップを置くと、人懐っこい笑顔で、体をおこした。
『そうそう、SMDの初期ロットも回してくれよー』
思わず肩に手をまわしてきそうな距離感に、俺は、スススと距離を取りながら、横目できっぱりと断った。
『うちにそういうコネルートはありません』
『そう言わずにさぁ』
さらに詰めよってくるサイモンから逃げていると、三好が笑って、あたらしいカップを置きながら言った。
『そういえば先輩。キャシーが、従業員枠で何台か確保してましたけど、あれがダンジョン攻略局の分ってことじゃないんですか?』
サイモンはナイスとばかりに小さくガッツポーズを作った。
『よっし、どこの所属かちゃんと忘れてなかったようだな』
『そりゃそうでしょう』
『いや、お前らのところの方が給料がいいし。あと、教官として俺たちを罵倒できるし?』
『そこ?』
『日頃の恨みってやつは怖いんだぜぇ』
そういや、キャシーっていつまで代々木にいるんだろうか。とりあえず初回の契約は一年って話らしかったが……
新しい教官を雇うのも面倒だし、数年やってくれないかな。
『じゃあ、もう横田に取りに行っていいんですね?』
三好が立ったまま、腰に手を当ててそう訊いた。
『おうよ。頼んだぜ。いつごろ下に届く?』
『うーん、じゃあ、きょうこれから受け取りに行きますよ。下へは――なるべく早く?』
『なるべく? まあいいか。じゃあ、横田に行くんなら一緒に行くか?』
『いえ、俺たちは鳴瀬さんを待たないと――』
サイモンが三好を誘って、俺が割り込んだところで、また呼び出しのベルが鳴った。
「噂をすれば影、パート2ですね」
三好がそう言って、鳴瀬さんを迎えると、これからの予定について説明しているようだった。
『ところで、ありゃなんだよ?』
その隙にサイモンが、前は存在していなかった、隣の16畳間の半分を占拠している怪しい消音室を親指で指さして言った。
『あー、コンピュータールーム、ですかね?』
『こんな一般家屋に、一体何を持ち込んでるんだよ?!』
『ダンジョン攻略局にもあるでしょう?』
『そりゃ、研究部署にはあるだろうさ。だが、俺達にはあんまり関係ないからな』
『いろいろとあるんですよ』
『人に言えない計算が、か? 悪の秘密組織みたいでいいな、おい!』
彼は、バンバンと俺の背中を叩いて喜んでいた。
193 3月13日 (水曜日)
フランスが派遣した捜索隊は、十三日の午前中に十層へと到達していた。
すでに対象人員が失われていることが、ランキングリストから分かっていたため、各国への支援は要請しなかった。
十層は、荒涼とした墓場が広がる中、アンデッドの群れがあちこちで、いつものようにあてもなく彷徨っていた。
「聞いてはいましたが、これは気持ち悪いですね」
捜索隊の一人が、辺りを見回しながら、額ににじむ汗をぬぐった。
「おちつけ。連中は襲ってこない。少なくとも数時間はな」
「は、はあ……」
まるで落ち着けないセリフを聞かされながら、男はあいまいな返事をした。
「日本ダンジョン協会から指示された地点はこのあたりのはずだが――」
「隊長! 大きな金属反応! あ、あれです!」
叫んだ男が指さした先には、何かの塊のようなものが落ちていた。
それが、何かに潰されたように破壊されたアッシュの残骸だと判明するのは、ほんの数メートルの位置まで近づいてからだった。
「こいつは酷いな」
「一体何に襲われたんでしょう? こんなこと、ピレネーのヒグマにだってできませんよ」
潰されたアッシュの脚部は完全にもげ、ボディも弾薬庫辺りはぺしゃんこになっていた。
「ブラックボックス部はどうだ?」
「あそこは、飛行機の墜落事故でも破壊されないように設計されていますから――」
大丈夫でしょうと言おうとした瞬間、アッシュの前にひざまずいてそれを調べていた技官が火花を散らして、何かを切り取り始めた。
「――無事だといいですね」
「そうだな。映像も記録されているんだろう?」
「おそらくは」
ブラックボックスが手に入れば、一体最後に何が起こったのかが分かるだろう。
ただ、ろくでもない出来事だったことだけは、それを見なくても想像できた。
「隊長!」
別の隊員の呼びかけにそちらを振り返ると、彼が何かを両手に持って駆け足で近づいてきた。
「これが、すぐそこに」
男が差し出してきたのは、きれいな本のページのように見える石碑――いわゆる碑文と呼ばれるものだった。
もちろんそれを読むことはできなかったが、彼にはそれが、まるでヴィクトールたちの遺書のように思えた。
、、、、、、、、、
「あれから、一ヶ月か……」
陸連では、JADA委員でもあった吉田が、深刻そうな顔で手を合わせていた。
ここ一か月での大きなニュースと言えば、東洋大学の三輪が、非公認ながら九秒86(−0.2)を叩きだしたことだ。
日本記録の九秒98をコンマ1秒以上更新する、90年代初頭であれば世界記録に匹敵するタイムだ。しかもわずかとはいえ向かい風の状態でだ。
それまでの三輪は、自己記録が10秒65の、言ってみれば普通の選手だった。
昭和の時代なら日本陸上競技選手権大会で優勝できるかもしれないタイムだが、最近の100メートルは少なくとも10秒3程度の記録がなければ優勝は難しい。そして100メートル競技は、コンマ1秒違えば一メートル程度の差ができるのだ、
そんな男が突然の九秒台。関係者は一様に驚いた。その前の週、彼はダンジョンブートキャンプを受講していたのだ。
それに比べて、鳴り物入りで選手を送り込んだ代々木ブートキャンプの成果は、実に芳しくなかった。
「それで、効果は?」
「訓練を受けさせた連中を中心に、記録会を随時行っていますが――」
「が?」
報告している女性は、諦めたかのように目をつぶると、首を左右に振って、彼に記録の並んだ用紙を手渡した。
それを受け取った吉田は、その用紙をめくると、思わず目を閉じた。そこに書かれた記録群は、惨憺たるありさまだったからだ。
先の三輪を除けば、現在の陸上界で気を吐いているのは、菅谷のところだけだった。
しかもそこの選手は、探索者の現状を知るために依頼して記録会を行った探索者チームのメンバーだ。
先の記録会では、借りたシューズで技術のかけらもないスタートを見せ、それでも記録は九秒46(−1.2)だった連中だ。もう笑うしかない記録で、東京オリンピックの金メダル筆頭候補なのは間違いない。このままだと確定だと言ってもいい記録だった。
現役時代からアウトロー扱いされていた菅谷は、縦社会のスポーツ界ではまともに指導者としてみなされていなかった。
そのため、子飼いの教え子もおらず、なんの柵《しがらみ》にも縛られることなく、彼らをスカウトしていたのだ。
そのせいもあって、探索者からの転向組は、みな最初に菅谷のところの門を叩くようになった。正確には渋チーの門を叩いていたのだが。
「浦辺さん。これはどういうことです? 記録が急激に伸びるどころか、かなり落ち込んでいるようですが」
「そう言われても、私は知らんよ。こっちだって困ってるんだ」
「それは無責任と言うものでしょう! 代々木ブートキャンプを推薦したのは浦辺さんじゃありませんか!」
「葉山先生から直接誘われたんだぞ? 断れるわけがないだろう。仕方がなかったんだ」
「仕方ないと言われましても……安くない金額を支払って、何の効果も得られていない以上、責任問題は避けられませんよ」
なにしろ受講料は一回100万円だ。
ダンジョンブートキャンプの三分の一と銘打たれていたが、個人で受講した場合の33倍だとも言える。
それでも、個人受講分を超える部分は協会から補助金が出るということで、彼らはこぞって自分の教え子をそこへ送り込んだが、選に漏れた選手の中には自腹を切ったものもいるらしい。協会の補助を受けられた選手と、一気に差がつくのを嫌ったのだ。
そうまでして、このありさまでは、不満が出るのも時間の問題だろう。
代々木ブートキャンプは、一日二回転で1四人。現在までの受講者数は、複数回受講者を含め、のべで370人を超えている。
全てが陸連ではないにしろ、全体で支払われた金は、3億7千万円にも上るのだ。
陸連の第8期(2018年四月一日から2019年三月三十一日)の経常収益は23億弱だ。突然現れた支出に、どこから予算をひねり出すのか、頭が痛いことこの上なかった。
「練習と言うものはそうすぐに効果が出るものではない。まだ先かもしれんだろう?」
「不破も高田も、ほぼ即日で世界記録を叩きだしていますし、三輪もすぐに結果がでているようですが」
そう責められて青筋を立てた浦辺は、いきなりテーブルに掌を叩きつけると、激高して言った。
「そんなことは分かっているよ! じゃあ、君はどうしろというのかね?!」
まずは激高して見せて、意味もなく早口でマウントを取るのは、浦辺の現役時代からのテクニックだ。
知らない人は思考が停止してしまうだろうが、吉田は何度もその姿を見ていたために、平気でスルーした。
「それを考えるのが、あなたの仕事では?」
「くっ……そ、それは君の仕事でもあるだろう?」
それは確かにそうだった。
しかも彼らは、今更引くに引けない状況に陥ってた。ここで効果なしなどと認めてしまえば、他の競技団体などにも紹介した手前、どんな問題が持ち上がるか分からない。
すくなくとも詐欺の片棒を担いだとして訴えられかねないのだ。
「それに、あの運営会社は大丈夫なんですか? 役員には、外国人の名前が並んでいるようですが……」
「それがなんだ? 差別かね? 今どき」
「そういうわけではありませんが、まさか詐欺なんてことは――」
吉田は不安そうにそう言いかけたが、浦辺が無理やりな笑顔を浮かべて遮った。どこに耳があるのかわからないのだ。
「おいおい、持ち込んできたのは葉山先生だぞ? そんなわけがあるか」
吉田は、だから怪しいんだよ、と思ったが、さすがに口にすることは憚られた。
確かに外国のスポーツ施設へ武者修行に行くことはある。だが、並んでいた名前は、スポーツ界では聞いたことのない名前ばかりだったのだ。
それまで黙って聞いていた三塚《みつづか》が、足を組み替えながら口を挟んだ。
「そういえば、Dパワーズが、地上施設の拡張を行ったそうです」
「それが?」
浦辺の中では、すでに『あの忌々しい連中』としての地位を確立しているDパワーズの話に、彼はぶっきらぼうに答えた。
「すでに新しい施設も稼働しているらしいのですが、募集されている人員の数が増えていないんです」
「なに?」
浦辺は、スポーツ界を差し置いて、一体誰が受講しているんだと憤慨した。
本来、ダンジョンブートキャンプは、ダンジョン探索のために開設されたのだということを、彼らはすでに頭の片隅にすらおいていなかった。
もしも選手全員が受講できたとして、その後の一年間をどうするつもりなのかも、まったく考えていなかったのだ。
あの高田や不破ですら、休みの日には危険だと言うコーチの警告に従わず、代々木ダンジョンに潜っているというのにだ。
三塚《みつづか》と浦辺のやり取りを横目に見ながら、吉田は腕を組んで考えていた。
不破も高田も三輪も若い。今年の箱根駅伝の2区で伝説的な怪走を見せた青学の成宮も同じくらいの年だ。
スポーツ界からダンジョンブートキャンプに選考される選手は、大体20から22だ。たった四人とは言え一〇〇%の確率だ。
宣伝だったとしても、もっと脂の乗った世代が選考されないのは不思議だったし、ランダムだったとしたら、なおさらそこに偏るのはおかしかった。
そもそもランダムだとしたら、これほど申請しているにもかかわらず、いまだに四人と言うこと自体がおかしいのだが。
(あいつらの共通点はなんだろう?)
吉田は、気炎を揚げている浦辺の言葉を雑音のように聞き流しながら、真剣にそのことを考え始めていた。
その日の会合で、陸連としては、月末に駒沢で開かれる関東学連の春季オープン競技会までは様子を見るということに落ち着いた。
、、、、、、、、、
建築制限のために広いローマの空の一角を遮るように、その建物は立っていた。
ムッソリーニの時代にはアフリカ大陸を支配するという夢のための機関があった8階建ての建物は、現在では、世界から飢餓を撲滅するなどという、さらに途方もない夢のための機関が使用していた。
FAO(国際連合食糧農業機関)本部では、眼下にローマ帝国第22代皇帝カラカラが建設した浴場跡を見下ろしながら、AG(農業消費者保護局)高官のアンブローズ=メイガスは、一向に進んでいるように思えないとあるプロジェクトについての報告を、秘書のマリ=ナカヤマから聞いていた。
「件の『ダンジョン内作物のリポップと、現行作物のダンジョン内作物への変換』が世界ダンジョン協会に提出されてから、すでに一ヶ月以上が立ってるんだぞ? 知的財産権は確立したんだろ?」
「そりゃもう超特急だったそうです。それでも追試に一ヶ月かかりましたから」
マリは手元の資料にちらりと目を落とした。
「今は世界中の研究所が、あらゆるものでD進化と呼ばれる現象の再現実験に挑んでいるそうです」
下の遺跡で、三大テノールのコンサートが行われているかのような真剣さで窓の外をねめつけた後、振り返って言った。
「『Veni, Redemptor gentium』だ!」
カルーソーを熱唱するパバロッティもかくやと言わんばかりに、右手を掲げて彼はそう言った。
それを聞いてマリは内心苦笑した。いくら自分の名前に引っ掛けたとしても、それは言い過ぎだと感じたのだ。
アンブローズは、キリスト教の聖人の一人で、4世紀半ばのミラノの司教アンブロジウスに由来した名前だ。
Veni, Redemptor gentium(いざ来ませ、異邦人の救い主よ)は、彼に帰する聖歌のタイトルなのだ。
日本のワイズマンと呼ばれる女性が、世界ダンジョン協会に提出したレポートは、ダンジョンのそばにある貧困地域の人たちから見れば、まさにその聖歌のタイトル通りの出来事だろう。
しかし、FAOの立場からすればどうだろう。
FAOの目的は、「世界の食糧生産と分配の改善と生活向上を通して飢餓撲滅を達成する」ことだ。
世界では、現在でも、カロリーベースで世界の人口を養うだけの量が生産されている。問題は分配なのだ。そこに腐心している時、消費地で無限に作物が生産されたとしたら、全体のバランスはどうなるのだろう?
それに依存した食料の分配構造が定着したとき、世界に分配構造の多重化を進めるだけの推進力が残されているだろうか。
例えば、このシステムが「全ての人々が十分な食料にアクセスできる権利の漸進的な実現」とみなされれば、2013年にCFS(世界食料安全保障委員会)のハイレベル専門家パネルが行った提言に基づいて、偏在している食料が、バイオ燃料の開発に回されるかもしれない。
一旦そうなった場合、このシステムが突然なくなったとしても、簡単に元の状態に戻すことはできないだろう。ダンジョンなどと言う不思議な存在に、人類の最も基礎的な基盤である食料を依存していいものだろうか。
水道の蛇口をひねれば水が出るし、コンセントにプラグを差し込めば電気が利用できる。普通の利用者にとって、それがなぜかを知る必要はないが、世界のどこかにはそれを理解して実現している人たちがいるのだ。
しかしダンジョンはどうだろう?
マリはよくわからないものに基盤を依存することが、どうしても良いことだとは思えなかった。
しかしながら、それが特効薬に近い効果を及ぼすことも理解していた。
生産においても分配においても、「現時点で」あらゆる無力を痛感してきたメイガスのような男にとって、今生きている人間の痛みをなくすための特効薬のようなこの研究は、飛びつくに値するものだったのだ。
「とにかく日本へ――」
「行ってどうするんです?」
最近はこの件に関する報告があるたびに、同じようなやりとりをしている。
さすがに、マリも慣れたものだった。
「最新の知見があるのは、代々木だろう?」
「いえ、彼女たちは発見はしても、その応用や深い研究に対する興味は希薄だそうです」
「なんだと? これだけで、世界中の生物学と物理学の賞を総なめにできそうなのにか?」
「そういう権威にはまるで興味がなさそうだそうです」
「なんだそれは。いったい誰の――」
「DFAのネイサン=アーガイル博士の報告です」
それを聞いたアンブローズは、悔しそうに眉根を寄せた。
ネイサンとアンブローズは、一応友人のようなものだった。ニューヨークとローマでは、それほど頻繁に顔を合わせるということはなかったが。
「ネイサンか……くそっ、面白そうなところだけ持って行きやがって」
「一応、インフィニティファームシステムというのを、日本の農機メーカーと共同で開発しているらしいですよ」
「インフィニティファームとはまた……」
俗な名前とは言え、分かりやすいことは確かだった。
「代々木で育てたダンジョン小麦が、そのまま他のダンジョンのものとして認識されるかどうかを確かめた後、各地へ納品される予定だそうです」
認識されればそのまま利用できるが、認識されなければそのダンジョンで何らかの穀物をD進化させる必要がある。
いずれにしても、成功すれば――
「世界の貧困が、少しは改善するはずだ」
fiat panis。この機関のモットーは、「人々に食べ物あれ」という意味を持っていた。
194 ヴィクトールたちの遺産 3月14日 (木曜日)
その日の朝早く、俺はかかってきた電話で起こされた。
「……ふわぃ」
「芳村さんですか! 鳴瀬です!」
「ふわぃ」
「寝ぼけてる場合じゃないんです! すぐお邪魔しますから、事務所に下りといてください!!」
「ふ……はい?」
気が付いたときにはすでに電話は切れていた。
時計を見れば、まだ6時だ。一体何が起ったのだろう。
「地球が×2、大ピンチ、なのかね」
布団から出た俺は、思わず身をすくめた。その日は、とても冷え込みの厳しい朝だった。
、、、、、、、、、
「ほふぁようございます」
「おはよう。なんだなんだ三好、身だしなみのダメな子になってるぞ」
ツンツンした寝癖をつけた三好が、眠そうな顔で階段を下りてきた。
「ええー。でも、もういいんです。どうせ先輩しかいませんし」
そういうと、おもむろにダイニングテーブルにほほをぺたんとつけて目を閉じた。
「なんだよ。お前いつ寝たんだ?」
「四時過ぎれす。世界の時差死んじゃえって気分ですね」
「チェッカー製造の件か。朝の四時ってことは、ロンドンは19時、アムステルダムは8時、サンフランシスコは11時、ニューヨークは1四時か」
俺は各国の時差を考えながらそう言った。
「まあそうれす。でも先輩――」
そこでがばっと身を起こすと、ぱっちりと目を開けてにやりと笑った。〈超回復〉が仕事を始めたってか?
もっとも、寝癖はついたままだが。
「サンフランシスコは1二時で、ニューヨークは15時ですよ」
「あれ?」
日本との時差は東側が1四時間で、西側が17時間じゃないの?
「ふっふっふ。アメリカの夏時間は、三月の第二日曜日の午前二時からです」
「んじゃ今年は……10日からなのか」
「そうです」
そう言って立ち上がると、ヤカンに水を入れて沸かし始めた。
「アメリカってやつは、ヤードだのポンドだのに飽き足らず、夏時間の境界までひねくれてんな。四月一日からにすればいいのに」
「不思議な国ですよね」
三好は、コーヒー豆を取り出して、今日の分を手で挽きながらぼんやりと視線を空中に漂わせていた。
「一見合理的な思考をする国のように見えて、科学や医学、それに国際関係を除いて、未だにメートル法を採用していないんですよ。そんな国は、リベリアとミャンマーだけですからね」
「リベリアだって、いまはほとんどメートル法表記だって言うぞ。それに、アメリカは特別合理的な国じゃないだろ。ただ、自分の利益になることが好きなだけで」
一部の科学的な思考を除けば、合理性とはかけ離れているように見える行動も多い。
個人の利益を追求したら合理化に行きついちゃいましたって感じだ。それに組織が巨大化すれば、それを支えるシステムは嫌でも効率を要求するから合理的にならざるを得ない。
「イギリスの道路標識のマイルとヤード、ついでにパイントやポンドもどうかと思いますけど」
「あー、ステーキの量をポンドで言われてもピンと来ないよな」
重さと体積の単位と言う違いこそあれ、元はと言えば、一人が一日に消費する食料から考えられた単位だから、日本の石《こく》と同じ発想だ。
コミュニティ全体で、何人の人間が養えるのかを考えるときには、こういう単位が便利だったのだろう。
「だけど、パイントは好きだな。なんかビールって感じがするだろ?」
「パイントこそアメリカとイギリスで体積が違うとか、ふざけてると思いますけど」
「パイントつったら、英パイントが正義だろ。米液量パイントなんか100ミリ近く少ないじゃん。大体だな、店によってはパイントとか言いながら米液量パイントのグラスを使ってる店が――」
「はぁ。まあいいですけど」
寝ぼけた頭で、バカみたいな話をしていると、呼び鈴も鳴らさずに大きな音を立ててドアを開けた鳴瀬さんが、事務所へと飛び込んできた。
「た、たいへ……ん、なんです!」
息を切らしながらそう言う彼女に、三好が水を差しだした。英パイントグラスで。
「あ、どうも……」
その水を、一息で飲み干すと、彼女はカバンの中からタブレットを取り出して、テーブルの上に置いた。
「こ、これを見てください!」
「碑文……ですか?」
そこに表示されていたのは、完全な形を保った、碑文だった。
「実はこれ、昨日フランスの捜索隊が十層から持ち帰ったもので、まだ公開されてません」
「え? じゃあ、もしかして――」
「例の館に安置されていたはずのページじゃないですかね?」
鳴瀬さんは大きく頷いた。
「問題はその内容なんです」
「内容?」
彼女は震える指先で、タブレットの碑文を指さしながら、早口で言った。
「これ、Dファクターからエネルギーを取り出す方法が書かれているんですよ!」
「なんですって?」
「とはいえ、比較的小さな電力なんですけど」
そう聞いた瞬間、三好は、がたりと音を立てて椅子から立ち上がると、小躍りする勢いで、くるりと一回転した。
「マニュアル、キターーーーーーー!!」
「マニュアル?」
おいおい、こりゃ、徹夜明けハイ状態の三好じゃないか。まあ、二時間も寝てないんじゃしょうがないか。
ともあれ、丁度一昨日、あればなぁと話をしていたマニュアルが目の前にあるのだ。
あまりのタイミングの良さに、なんだか不思議な気さえした。そう言えばバッテリーの話をしたのは、フランスのチームが碑文を取得する少し前だ。もしかしたら、何かのサービスなんだろうか。
「それよりそのページ、ノンブルのところって、なんて書いてあります?」
「ノンブル?」
ノンブルと言うのは、本のページ数が書かれている部分のことだ。
鳴瀬さんは、どうしてそんなところを気にするんだろうといった様子で首をかしげながらも、タブレットを取り上げてその部分を拡大した。
「……アペンディックス 1?」
「やっぱり」
appendixは、本の付録、追加情報だ。
つまり、もともと本編に用意されたいなかった情報と言うやつだ。
「やっぱりって何ですか?」
「あー、なんというか、つまりそれは、俺たちが持って行ったノートパソコンを動かすために急遽作られた機能じゃないかと思います」
「はい?」
そこで、最後に博士とやったやり取りを彼女に話した。
彼女に渡した動画は、例によって音声が含まれていないものだったのだ。
「ではこれは、タイラー博士が?」
「というより、ダンツクちゃんでしょうけど、おそらく」
「それでこれ、公表しても?」
「碑文はフランスが持ち帰ったものですから隠せませんし、我々が公開しなくてもロシアとアメリカはそれを知ることが出来ます。そしてそれを隠ぺいすることは無理でしょう」
隠したところで、ヒブンリークスがある限り、いずれはそこで公開されかねない。
つまり、二つの国にとって、隠したところで無駄なのだ。隠したところで非難されるのが関の山では、各国に公開せざるを得ないだろう。
「だけど、碑文が一般に公開されてからにしてくださいよ」
「それはもちろん」
鳴瀬さんは苦笑した。
何しろ新規の碑文なのだ。もしも先に公開したりしたら、翻訳しているのがDAの関係者であることがバレバレだし、公開された後も、ある程度アクセスが増えてからでないと、アクセス記録から調べようと思えば調べられることになる。
翻訳の公開は、なるべく世界中のDAにデーターが広がってからにした方がいいだろう。
、、、、、、、、、
フランスが派遣した捜索隊は、開発企業に頼まれたポーターの残骸を運び出す部隊を残して、先にブラックボックスと碑文を持ち帰っていた。
碑文は、条約に基づいて日本ダンジョン協会に提出されているが、後日フランスへ返却される。
そして今、フランス大使館のとある部屋では、アルテュール=ブーランジェ中佐が、ダッソーから派遣されてきた技術者が取り出したブラックボックスの中身を見て絶句していた。
『なんだ、これは?』
一緒にそれを見ていた、駐日フランス大使のローラン・ピカールが、あまりの映像に思わずそう口走っていた。
前半は、絶え間なく襲い来るアンデッドの群れとの戦闘が記録されていた。方舟はそれなりに役に立っていたが、それが彼らを先に進ませてしまった原動力になっていたのかもしれない。
バーゲストが登場して、ヘルハウンドに襲われたところで、アームが曲がりそうな強烈なアタックが繰り返され、ポーターが潰されたのはこの攻撃でか? と思った次の瞬間、モンスターたちは潮が引くようにいなくなっていた。
そうして、前を行く何かを追いかけるように丘の上に登った時、その尖塔が遠くに見えたのだ。
彼らは、それでも引き返さずに、少し動きがなめらかではなくなった(移動すると画面が揺れていた)ポーターを連れて、その館へと近づいた。
あれほど溢れていたアンデッドたちは、嘘のように鳴りを潜め、それはまるで訪れた恐怖におののいて、どこかへ隠れたようにすら見えた。
そうして館に潜入してから、画面がブラックアウトするまでは、まさしく地獄絵図と呼ぶのがふさわしかった。
『なんなんだ、これは?』
思わず目を背けた大使が、神に祈るようにそう呟くと、ブーランジェ中佐は映像を停めさせて言った。
『館の門をくぐったところをもう一度見せてください』
技術者が頷いてそのシーンを再生すると、ブーランジェ中佐はモニタの前に立って二階の窓を指さした。
『ここです』
そこには、窓に人のようなものが映りこんでいた。
大使がそれを見て呟いた。
『人影?』
『この館に先に入った探索者がいると聞きましたが?』
『それは想像にすぎない。実際に追跡対象だったパーティがこの屋敷に入ったという証拠はない』
『夜の十層に、さまよえる館とやらが登場しているんですよ? それを出現させたのがヴィクトールたちのチームでなければ、追跡対象以外の誰だっていうんです?』
『それはただの推測だ』
大使の慎重なセリフに肩をすくめたブーランジェは、技術者に向かって『洗えるか?』とだけ聞いた。
ダッソーから派遣されている技術者は、そのセリフに頷くと、それが映っている10秒ほどのコマを利用して、静止画の解像度を上げていった。
『ここでは、これ以上無理ですね』
そう言って表示した、お世辞にも鮮明とは言えない拡大画像には、二人の人物が映っていた。
一人は東洋人に、もう一人は――
『西洋の人間に見えるな。追いかけていたパーティは日本人の二人組と聞いていたが』
ではこの西洋人っぽい男はいったい誰なんだ? ブーランジェがそう考えた瞬間、部屋の電話が音を立て、部下の一人がそれを取った。
しばらく向こう側と話をしていた部下が、ブーランジェを振り返ると、受話器を差し出して『お電話です』とだけ言った。
相手を告げない部下を訝しげに思いながら、受話器を取ってそれを耳に当てた。
『ブーランジェです』
『ブラックボックスの中身は見せてもらったよ』
電話の向こうにいたのは、彼も良く知っている高官だった男だった。
『中佐、君は、アルトゥム・フォラミニスのデヴィッドを知っているか?』
『話だけは。あの噂の聖女様がいる教団の代表ですよね?』
『そうだ。私は彼の要請で、とあるパーティを追いかけさせたのだ』
『マイニングの任務を中断してまで、一体なにを?』
『神の元まで案内させると言っていたな』
『神? ですか?』
電話の向こうから、含み笑いが漏れた。
『君が懐疑的になるのはよくわかる。私だってそんなものを信じてなどいない』
80年代の終わり頃、フランスは歴史的なこともあって、人口の8割はカトリックの信者だった。
しかし今では、キリスト教全体でも人口の半分にしか過ぎない。4割は無宗教。つまり宗教など信じてはいないのだ。
『なんのレトリックにせよ、彼はそう言った。それはダンジョンの向こうにいる何かを指しているような示唆もあったな』
『ダンジョン教団らしいと言えば、らしいです』
『はっ、あの男はそんな玉ではないよ』
デヴィッドが信奉しているのは、もっと現実的ななにかだ。例えば金といった。
『たとえ、さまよえる館とやらに住んでいる誰かがいたとしても、それがダンジョンの向こうにいる誰かだという保証はありません』
むしろ、なんらかのモンスターだと考える方が自然だと、ブーランジェ中佐は思った。
例えば、ヴァンパイアのような。
『あの男が言うには、日本はすでにその何かと接触しているそうだ』
『なんですって?』
ブーランジェは、未だ画面に表示されたままの、二人の人影を見た。
では、この東洋人風の男は、やはり日本の探索者なのだろうか?
もしもそうだとしたら、西洋人のような影は――
『代々木ダンジョン内で通信ができるようになった話は聞いたかね?』
『はい。信じがたいことですが事実でした』
『ヴィクトールたちが追いかけた誰かが、何かに接触した後、通信が可能になったとは?』
『時間的にはその可能性がありますが……まさか』
『真実は私にも分からんよ』
もしもそれが本当だとしたら、ダンジョンを作り出すなどと言う超常的な技術を持った何かと接触をもって、しかもなんらかのリターンを得ているということだ。
それを秘密にしているとしたら、世界の安全保障上も看過できないところだろう。
『そうだ。奴はその証拠があると言っていたな』
電話の向こうの男は、何かを思い出したかのようにそう言った。
『証拠?』
『それが何かは知らないがね』
もしもそれが本当なら、デヴィッドに問いただす必要があるだろう。
ことはフランスどころか、地球全体に関わる話かもしれないのだ。
『現在奴は、DGSE(対外治安総局)が代々木に構えたマンションにいるはずだ』
『イワツバメの営巣地ですか』
各国の諜報部が一つのマンションに集って拠点を築いているところが、まるでイワツバメたちの巣のように見えるのだろう。
電話の向こうからは、また含み笑いをするような雰囲気が漂ってきた。
『そうだ。後のことはよろしく頼む』
『分かりました』
『これが、私が君に残せる最後の情報になるだろう』
『被害が大きすぎましたね』
『残念なことだ』
そう言って、彼は受話器を置いた。
、、、、、、、、、
「なあ、三好」
「なんです?」
「この、マニュアルだけどさ、なんだか胡散臭くないか?」
「あ、先輩もそう思われました?」
俺は、テーブルの上に散らばっている、鳴瀬さんが書きだした、Dファクターを電気に変えるための設備についての説明を見て言った。
「水晶でできた球形のフラスコ? 変わった形の炉?」
「説明を読む限りでは、やっぱりアタノールっぽいですよね、これ」
三好が炉の説明が書かれた部分を指で指し示しながら、苦笑した。
もしも鳴瀬さんに錬金術の知識があったとしたら、「哲学者の卵」とか「アタノール」とかと書かれていた可能性は高い。
俺は鳴瀬さんが書きだした訳文をコピーした紙を平手で叩いた。
「賢者の石かっての!」
「さまよえる者たちの書の最後のページに、クリンゴン語を書いちゃう人ですからねぇ」
三好は頬杖をつくと、そのページをひらひらと振って見せた。
ここに書かれている情報は、ほとんどが意味のないゴミで、大部分はタイラー博士の悪ふざけの可能性が高い気がする。
触媒にプラチナや金が多用されていて、「安定が必要だ」とか、もっともらしいことが書かれているところが、実にそれっぽい。
「現代の化学者連中を、中世の錬金術師にしてしまうつもりだぜ、あの先生」
「でも先輩。これを見て思ったんですけど、Dファクターって確かにちょっと賢者の石っぽいですよね」
「まあ、そう言われればそうかもなぁ」
賢者の石は、単に卑金属を金にしたり、卑金属を銀にしたり、ついでに人間を不老不死にしたりするだけのものではない。
16世紀ごろパラケルススが書いた、「ヘルメスの啓示(The Book of the Revelation of Hermes)」には、賢者の石で作られる永遠に燃え続けるランプが登場する。これなんか、考えてみれば永遠に電気が取り出せるのと同じことだな。
体が治るなんてのも、アルカナの秘儀みたいなものだろうし。
「霊魂を錬金して神と一体化すると、Dファクターがひざまずいて、なんでも言うことを聞いてくれるんですよ」
「はぁ」
「それで、冥王なんですかねー」
「いや、お前。それはいくらなんでもこじつけが過ぎるだろう」
とにもかくにも俺たちは、そこに書かれている方法をヒントに、別のアプローチを検討してみることにしたのだ。
195 二十一層 3月15日 (金曜日)
横田で荷物を受け取った後、俺たちはすぐに下層に向かわず、しばらく地上でいろいろなことをして過ごしていた。
鳴瀬さんは、ダンツクちゃんのマムになるべく? 質問箱をモデレートしつつ、彼女と話をしているようだ。
少しモニカとも連絡を取ったらしいけれど、そこで何が話し合われたのかは知らない。
通信はアメリカの当局に筒抜けだということは二人とも理解しているはずだから、下手なことはしないだろう。
三好はと言えば、相変わらず祈りの研究に余念がない。
もっとも、まるで成功してはいないのだが。
俺は、博士が書いてよこした碑文の内容を整理して、嘘くさい部分を取り除き、DFバッテリーを開発中だ。Dファクターバッテリーだ。
そうこうしているうちに、そろそろ三十二層へ向かわなければならない時間がやってきた。
「んじゃ、先輩。そろそろ行きますかね」
よいしょっと、小さなリュックを背負った三好が、代々木の入り口をまたいで言った。
転移石で飛んだときはついてこれないアルスルズたちが、歩いて層を下りたときは影の中のままついてこられる理由はよくわからない。
転移石の移動には、何かの断絶があるのだろう。
そうして俺たちは、ぽよぽよしているスライムを横目に見ながら、転移石で飛ぶために使用している、誰もいないいつもの部屋へと向かって行った。
「なー、俺は思ったんだけどさ」
「なんです?」
「いや、転移石を使って二十一層へ移動してから三十二層へ向かうと、早すぎてばれるからって、スタートをわざわざ数日送らせただろ?」
「はい」
「だけど、俺達って監視されてなかったっけ?」
「ああ! 入ダン日時がばれてたら、一緒だ!」
「な」
「先輩、もしかして私達ってバカですかね?」
「俺は気が付いたから違うな」
「今まで気が付かなかった時点でおんなじですよ!」
三好はアルスルズを呼び出して、べーっと舌を出すと、そのまま二十一層へと転移していった。
それを見届けた後、しばらくして、俺もドルトウィンと一緒に二十一層へと転移した。
「はぁ、さっさと二十一層へ飛んで、そこでしばらくぶらぶらするべきでしたねぇ……」
「ま、三好くんは、ご飯を予約していたようだから、無理だったろうけどね」
「ぎくっ。なぜそれを……」
「いや、お前が晩飯を食べないときは、どっかで食べてる時だけだろ」
「ぎくぎくっ。せ、先輩のマントの新作を貰いに行ってたんですよ?」
ああ、あの強烈なお友達か……
俺は去年の冬コミを思い出して身震いした
「だって、だって、出始めのホワイトアスパラを食べなきゃですよ! それに、仔羊! 旬ですよ!」
北海道だと、二月頃に生まれた仔羊を、産後30から40日ほどで出荷する。つまりこの時期が旬にあたるのだ。
「淡い淡いピンクの宝石が、毎晩夢に出てきて私を呼ぶんですもん」
「どんなホラーだよ、それ」
この時期のまだ乳しか飲んでいない仔羊を、フランスではアニョー・ド・レと呼ぶ。乳しか飲んでいないので、肉が白っぽく、やわらかくて癖がない。
そんなお肉が手招きしている姿を想像して、ついデヴィッド・リンチのイレイザーヘッドを思い出した。あれは鶏肉ダンスだが。
「確かにアニョー・ド・レは美味いよ。でも癖がなさ過ぎて一口で十分だな。同じ癖が少ない仔羊なら、秋のアイスランド産の方が好みかな」
草を食べ始めて少しして、実が赤く色づいてきたころがいい。国産なら初夏だろうか。
「先輩、臭いの好きそうですもんね」
「確かにいい香りのする仔羊やウリボウの脂は好きだが、そう言われるとなんだかディスられたみたいな気がするぞ」
「濃いシラーとか、グルナッシュとかよく合いそうです」
「スルーかよ」
俺たちは一応DPハウスの周りをぐるりと回って、状態を確認していた。
ときどき、スライムの核のようなものが転がっているのを見ると、やはりここにも出現するのだろう。
俺はそれを拾い上げると、下の湖に向かって放り投げた。
「最近ではムールヴェードルも面白いんですよ。いい年に限りますけど」
それが水面に輪を作るのを見ながら、三好が言った。
「単一セパージュ(一種類のブドウだけで作られているという意味)のやつなんかあるんだ」
ムールヴェードルは、収穫量も少なめになりがちなブドウで、普通はシラーとかグルナッシュとかに、ちょっとだけ混ぜて調整に使う。
三種のブレンドを表す、SGM(シラー・グルナッシュ・ムールヴェードル)なんて言葉があるくらいだ。
「一応。オーストラリアあたりが先駆けですかね。ちょっと、ケダモノっぽいです」
「なんだそれ?」
「飲めばわかりますよ。そんな感じなんです」
「イタリアの赤の厩舎の臭いみたいなもんか」
「馬糞って言わなかったから、許しましょう」
「お前が言ってるじゃん!」
イタリアのフルボディの赤、特に南の製品には、時折そういうものを感じさせるワインがあることは確かだが、イタリアの生産者が聞いたら怒るぞ、まったく。
この口がー、この口がーと、頬を引っ張りあいながら、DPハウスのメンテナンスと、放置されている原石の回収と、ついでに二十一層への転移石を作りつつ、しばらくそこでぐだぐだしていた。
「そういや、ぽっこり山に寄ればよかったですかね?」
「あの辺は、まだフランスの捜索隊がウロウロしてそうだから、もう少し先がいいだろ」
「フランスに先を越されますよ?」
「いやー、仮に見つけたとしても、あそこにわざわざ近づいたりしないだろ」
なにしろ見た目には、丘の間にぎっしりとアンデッドが詰まっているのだ。
一撃で全滅させられるような爆弾でも使うならともかく、普通の装備であそこに突っ込んでいくのは自殺行為だろう。
第一、そこに何かがあると決まったわけでもないのだ。
「アイテムあさりなら、三十一層の方がマシそうじゃないか?」
「そういえば三十一層どうなってるんでしょう? アイテムガッポガポなんて話、聞きました?」
「そういうことを吹聴しそうな一般の探索者は、まだ三十一層に到達できないと思うけど……各国の精鋭連中は十八層だしな」
マイニングは、それなりに産出しているらしいが、まだまだ希少だ。
そういえば、日本ダンジョン協会から預かっていたそれは、結局政府が買い取ったらしい。自衛隊じゃないのかと不思議に思ったが、資源調査関連の部署が利用するようだ。
新規層のドロップ開発に、小麦さんと政府の資源調査隊のどちらを優先するのかはわからないが、マイトレーヤの二人には、結論がでるまで下層には下りないように伝えてある。
おかげで、二人の二十一層詣でが増えて、原石が死ぬほどたまっているわけだ。
鳴瀬さんによると、代々木トップの渋チーは、しばらくスポーツマンになるようだし、この間、ここからダンジョンせとかを持ちだしたカゲロウは、現在休暇中らしい。
さすがに各国の民間エクスプローラーは、キングサーモンやキャンベルの魔女のように国家に雇用でもされない限り、そうそう代々木には来られないだろう。
「渋チーたちが戻って来るまで、民間のエクスプローラーで三十一層に挑むチームはなさそうだろ」
「すっかり陸上選手らしいですね」
「日本記録のご褒美が一億円らしいからなぁ」
俺の話を聞いて、三好が鼻白んだ。
「それ詐欺っぽいですよ」
「詐欺? それで渋チーって、陸上に専念してるんじゃないの?」
「それってマラソンだけの話で、100メートルで九秒98を出した桐生選手に送られたのは、日本記録章と副賞の50万円だけだそうです」
「おいおい、それって……」
「それに、マラソンも2020年三月までの期間限定ですし、あと、原資がなくなったら終了だそうですよ」
「それって、予算がなくなってたら貰えないってこと?」
「世知辛いですね」
「50万って……それを知ったら林田さんなんか、陸上をやめちゃうんじゃないの?」
はっきり言って、渋チーくらいのレベルになれば、圧倒的にダンジョンの方が稼ぎがいいだろう。
「スポーツ用品メーカーのスポンサーがつけば別ですけどねぇ……」
「林田さんはともかく、喜屋武《キャン》さんは派手でいいんじゃないの?」
「芸人としてはそれでいいでしょうが、広告塔としては結構危険な気がしません? 特に女性関係が……」
「ああ」
あの人は来る者は拒まずって感じだもんな。
わざわざうちの女性陣を口説きに来たくらいだし。
「そういえば、そろそろ斎藤さんも内々の選考会だろ?」
「二十一日に、世界選手権大会リカーブ部門三次選考会があるそうですから、そこに合流ですかね? クリアしたら四月にはメデジンですよ」
「メデジンって言うと、どうしてもエスコバルって感じだけど、大丈夫なのかな?」
「さすがにあれは、三十年も前のことですからね。二〇〇〇年代には、メデジンカルテルはほぼ壊滅していると聞きますし、さすがに80年代みたいな状態で世界選手権は開催しないでしょう」
うちのお隣さんの、代々木ブートキャンプも盛況のようだし、スポーツ界も熱い日々が続きそうだ。
ただ、あれが続くと、日本のスポーツ界がガタガタになりそうで、ちょっと心配なのだが、SMDが出荷され始めれば効果がないことが目に見えるだろう。
「そういや、SMDの初出荷っていつなんだ?」
「もう始まってますよ」
「え? マジ?」
「作り置き分もありますし。初回は大部分が関係各所へ流れると思いますけど、一般の予約分も少しは含まれてるはずです」
「へー。なら、すぐにSNS界を賑わせるかな?」
「そこは間違いないと思います。日本ダンジョン協会が無償の計測も予定しているみたいですし」
「そりゃ混みあいそうだ」
「ですね……おお! 繋がりましたよ!?」
ごそごそと作業していた三好が驚いたように言った。
今回俺たちは、代々木のブートキャンプ施設にWi-Fiを設置して下りて来たのだ。ダンジョンの入り口なら、間に障害物もないし十分に電波が届く距離なのだ。
各層の電波の入り口って、一体どこなんだろうと考えたとき、それはやはりダンジョンの入り口なのではないだろうかと推測した。
なにしろ一層だろうと十層だろうと二十一層だろうと、携帯のアンテナはフルマークだ。なら、各層とも同じ場所に繋がってるんじゃないかと思ったわけだ。
それなら、入り口で接続できるWi-Fiなら、各層でも接続できるんじゃないのと今回のテストに至った。
もちろん、各層の接続箇所が階段の入り口だったりしたら、絶対に電波は届かないはずだが――
「いったいどうなってるんでしょうね、これ?」
きちんと接続されている回線上のパケットを監視しながら三好が首を傾げた。
「歩き回ってみた感じじゃ、どこでも一様に電波強度が同じだったから、電波の送受信がすべて代々木の入り口起点になってるんじゃないか?」
「なんて非常識な」
「そうでなきゃ、あまねくブーストしてくれているかの、どっちかだな」
「階層内で無線が利用され始めたら、その辺の整合性がどうなるのかさっぱりですけど」
「大丈夫じゃないか? ダンツクちゃんに渡したメモの周波数以外はきっと接続されていないはずだし」
「先輩、IEEE802.11系を全部フォローしたんですか?」
IEEE802.11は、広く使われている無線LANの規格でいわゆるWi-Fiもこの規格を利用している。
バリエーションが非常に多く、例えば、IEEE802.11a のように、それぞれ、後ろにアルファベットをくっつけて区別している。
「adまでに含まれている帯域は一応な。だから、もしもテレビやラジオが受信できなければ、俺たちの想像した通り全部の電波を通過させてるわけじゃないだろ」
アンテナを立てるのが面倒だったから、まだテストはしていないが、メモにテレビ電波の領域を含めなかったのは、ダンツクちゃんにテレビを見せたくなかったからだ。
もっとも、こんなことが簡単に出来る存在には無駄だったかもしれないが。
「これで、パケットを気にする必要もなくなっただろ?」
「そうですけど、もうSIM手配しちゃいましたよ……」
「いや、だって、まさかWi-Fiの電波が届くと思わないだろ?」
「そりゃそうですけどー」
今日中に三十二層へ下りると、さすがに問題がありそうだったので、とりあえずここで一泊するつもりだった俺たちは、めいめいが適当に過ごしていた。
トンボにさえ気を付ければ、ここはなかなか素敵な場所だ。アルスルズたちは始終忙しそうで、三好の周りにはぽろぽろとドロップアイテムがこぼれていたようだったが。
、、、、、、、、、
CD(フランス軍特殊作戦司令部隷下のダンジョン部隊)が用意した代々木攻略の拠点は、代々木にほど近いマンションの一室に置かれていた。
トップの志向を反映した、その殺風景な部屋には、不要なものは何一つ置かれていなかった。
ブーランジェ中佐は、窓際に現れた二人の人物を出来るだけ鮮明な写真にして、フランスの諜報機関に問い合わせを行った。
その結果は惨憺たるもので、マッチ率を90%以上に設定しても、西洋風の人物には2207人が、東洋風の人物には104人がヒットしていた。
しかも、これは登録されている人間からの調査であって、そのリストの中に存在していない可能性も高いのだ。
念のために彼は、Dパワーズの男の写真を送って比較してもらったところ、マッチ率は92%だった。
つまり8%は彼ではないと言う事なのだ。
「あのビデオのごく一部の領域から切り出したにしては大したものだが……」
彼はその写真を指でつまんでしばらく眺めた後、それを放り出して、AIによる大きな補正が行われていない写真を取り出した。
「所詮は機械の想像による補間にすぎんか」
状況的に、東洋人風の男は、この芳村と言う男で間違いないだろう。
問題は、西洋人風の男が誰かってことだが――
彼は、2207人が列挙されているリストをちらりと見たあと、それぞれの人物の当日のアリバイだけは調査させておこうと考えた。
しかし、もっとも簡単なのは92%の可能性にかけて、この芳村と言う男に話を聞くことだ。
中佐に昇進した今でも、自分で動き回りたがる彼を、部下は困ったような目で見ていたが、誰もそれを止めたりはしなかった。
止めても無駄であることを良く知っていたからだ。
彼は、自分のオフィスに使っている部屋の椅子から立ち上がって身支度を始めた。
セオドア=ナナセ=タイラーは、それなりに有名だった。
彼は、正式には行方不明であって死亡扱いにはなっていなかったため、各所のデータベースからは削除されていなかった。
部屋に残された、西洋人風の男のマッチリストには、対象者がアルファベット順に並べられるという慣例に従った偶然によって、Tylor, Theodore Nanase の文字が193番目に記載されていた。
そうしてそれは、奇しくも13番目の幸運素数だったのである。
196 三十二層 3月16日 (土曜日)
『イワツバメの営巣地とはよく言ったものだな』
ブーランジェ中佐は、正面玄関へと上がるスロープの前から、5階建てのマンションを見上げた。
坂の途中に建てられたその建物は、日本ならどこにでもありそうなマンションだったが、普通のそれよりも外国人の出入りが多かった。
『日本には、同じ穴のムジナという言葉があるそうですよ』
『ムジナ?』
『狸のようなものだそうです』
『狸の集まりか。同じ穴のムジナね』
その言葉の本当の意味を知らなかったブーランジェ中佐は、諜報員にはふさわしいと心の中で苦笑した。
そうして、もう一度その建物を見上げて、『まるで、現実に現れたドラゴンの動向を、各国が遠巻きに監視している塔のようだな』と呟くと、乗っていた車のドアを開けて冷たいアスファルトに降り立った。
DGSE(対外治安総局)の連中によると、マンションの向こう側の連中に近づいたものは、どういう訳か日本の政府筋経由で本国へと送り返されてくるらしい。
それがあまりに続いた結果、もはや秘密の諜報拠点というよりも、各国の非公式の出先機関のようになっていて、お互いに監視はしても妨害などは行わないといった暗黙の了解ができあがっているそうだ。
『二人は左右から裏に回れ』
逃げ出したりはしないと思うが、場所は二階だ。ベランダから飛び降りることだってできるだろう。
そう指示を出したブーランジェ中佐は、正面玄関奥の階段から二階へと上がり、201号室の扉を開けて部屋に突入する部下の後ろで、辺りに気を配っていた。
『クリア! 誰もいません』
しばらくして報告を受けた中佐は、訝しげに思いながらも、室内に入り部屋の詳細な捜索を命令した。
玄関には一足の靴も残されておらず、各部屋には生活の痕跡がわずかながらに残されてはいたが、めぼしいものは見つからなかった。
『中佐!』
ベッドルームを調べていた部下の呼びかけに、その部屋へ向かうと、乱れた掛布団の下から黒いしみがついたシーツがあった。
『これは? 誰かの血液か?』
『おそらく』
血液? デヴィッドのか? いったいここで何があった?
『マリアンヌ=マルタンが泊まっているホテルへも人を向かわせろ。アルトゥム・フォラミニスの連中は全員拘束する』
『中佐、それは……』
もちろん彼らに逮捕権などない。彼の部下はそれを心配していた。
『問題ない。我々は穏便に協力をお願いするだけだ。違うかね?』
刺すような眼差しを向けられた部下は、中佐の前職が、GIGN(国家憲兵隊治安介入部隊)だと真しやかに囁かれていることを思い出し、慌てて敬礼して復唱した。
『アルトゥム・フォラミニスが宿泊しているホテルに向かい、協力を要請して全員に留まってもらいます!』
『結構だ』
そこでやるべきことをすべて終わらせた彼は、その足で、向かいにある問題の家屋へと向かった。
芳村と言う男にどのような言葉をかければ、話をさせられるだろうかと考えながら。
、、、、、、、、、
二十一層に泊まった翌日の午後、久しぶりに訪れた三十一層は、以前の暗黒神殿の面影を全く残していなかった。
カタカケフウチョウの羽は、いずこへともなく消え去って、普通の空が広がっていた。
にも拘わらず、階段直下の広場には、相も変わらずモンスターは出現しないようだった。
「もうここがセーフエリアでもいいんじゃないか?」
「油断は禁物ですよ。めったに出現しないからレアって呼ばれるんですから」
「十四層に時折現れるユニークみたいなやつか」
十四層の渓谷層には、時折、蝙蝠の翼と太い尾を持った巨大な王冠をかぶったハーピーのようなモンスターが現れることが知られている。
渓谷にかかる雲海の中から突然現れるらしい。
「そうです」
そう返事をしながら、三好は、階段の出口がある塔の周りを、反対側に向かって歩き始めた。
「しかし、この床は……まいったな」
三十一層の床は、黒く滑らかな石畳のようなもので覆われていた。
つまり、石ころがまったく落ちていなかったのだ。
「転移石の材料が、全然見当たりません」
「キメイエスの出たところには、結構ゴロゴロしてたように思ったんだが」
「三十層や三十二層で拾ってきた石でも大丈夫なんでしょうか?」
「ダンジョン内の石ならいけそうな気もするけれど、ダメならダメで、転移石30や転移石32を作ればいいか」
「適当ですねぇ」
塔の外壁には、相変わらず枯れた蔦が絡みついていたが、いくつかは新しい芽を吹いているかのように見えた。
「なんだか蔦が再生してないか?」
「そりゃあ、蔦だって生きてる――って、ダンジョンの中で?」
三好は、はたと足を止めて塔を見上げると、首を振った。
ダンジョンの中で成長する植物は、今のところ俺たちが植えたダンジョンに管理されていないもの以外は存在しないのだ。
「そう言われると、そんな気もしますが、枯れた蔦の下にあった蔦が見えるようになっただけと言う気もします」
「枯れている蔦って、触るだけで崩れてしまうけど、これってリポップしたりしないのかな?」
「いっそのこと、燃やしてみます?」
三十一層は、この広場を除いて、すべてがボス部屋で別空間だと考えられている。
だから、一気に燃やしてしまえば、広いとはいえ広場のどこかにリポップするなら、それを確認できるかもしれなかった。
が――
「それだけのために、放火魔になるはちょっとなぁ」
そもそもそれを確認したからと言って、別になにかの知見が得られるわけでもないし、ただ好奇心が満たされるだけにすぎない。
むしろ、なんらかの悪影響が起こる可能性の方が大きそうだ。
「やっぱり花園への入り口は見当たりませんね」
ぐるりと塔を一蹴して戻ってきたが、先日あったはずのドアはどこにも見当たらなかった。
またどこかで花園へ続く扉を見かけることもあるだろう。
「じゃあ、ついでに、ボス部屋も攻略していくか?」
「どうしたんです? いつもなら危険は避けるでしょ?」
「いや、三十一層への転移石があれば、やばけりゃ逃げられるかなーと」
「そうして、転移禁止のボス部屋トラップに引っかかるんですね、分かります」
「分かるなよ」
「第一、そんなことをしたらアルスルズが取り残されちゃいますよ」
そう言われれば、キメイエスのいた部屋は別空間扱いだった。
他の部屋も同じ扱いなら、転移石で影の中のアルスルズを連れて移動することはできないはずだ。
「ああ、そうか」
緊急脱出は便利そうだが、俺たちにとっては意外と使いにくいかもしれない。
「それに、一度入るとロックされるじゃないですか」
「うん」
「アルスルズが残ったままだと、一生開かないドアになるのでは……」
「うーん」
そう言われてみれば、確かにその可能性はある。
取り残されたあいつらが、最終的にどうなるのかなんて実験のしようがないのだ。
「やってみる訳にもいかないか」
「死んじゃったらどうなるのかを調べるのと同じですね」
試しておきたいのはやまやまだが、取り返しがつかないからなぁ……
「そう言えば、先輩。三十一層にDPハウスって建てておくんですか?」
以前確かに日本ダンジョン協会にそんな許可を貰ったような気がするけれど、転移石が出回れば宿舎としてのDPハウスは不要だろう。
二十一層を拠点にしてもいいし、一層へ戻ってもいい。
「転移石が出回っちゃうと、意味が薄いもんな。ともかく今回は無理だろ」
何しろダンジョン攻略局の荷物を運んできたのだ。同時にDPハウスまで建てたりしたら、どうやって持ってきたのかが問題になる。
さすがにホイポイが2個あるってのは無理がある。
「じゃあ三十二層ですね」
三好が、塔の上りの階段と下りの階段がならんで口を開けている部分をのぞき込んだ。
下りの階段は、ぐるりと螺旋を描きながら、闇の中へと消えている。
「初三十二層だな」
「前回はいきなり一層へジャンプしちゃいましたからね」
そうして俺たちは、三十二層への階段を下りた。
そこは、空気からして何かが違っていた。大きな木の元には木漏れ日にあふれた空間が広がり、まるで平穏をたたえた湖のようだった。
「こりゃあ……」
広がる枝のところどころに、ヤドリギらしきボンボンが、まるで緑の惑星のように浮かんでいた。
「世界樹ってやつですかね?」
「おいおい、まだ三十二層だぞ? こんなところで世界樹が登場したら、この先どうするんだよ」
「心配するところが変ですよ、それ」
俺たちは、しばしその場にとどまりながら、広がる枝の行く末を目で追いかけていた。
「創世記《ジェネシス》を信じるなら、ここはエデンの園ってところかな?」
「やめてくださいよ。先輩がそんなことを言って、もしもこの木に実がなったりしたらどうするつもりなんですか」
「そりゃ、みんなまとめて神にでもなるしかないだろう」
旧約聖書の創世記に登場する生命の樹は、エデンの園の中央にあって、その実を食べると永遠の命を得るとされている。
エデンの園の中央には、もう一本、善悪の知識の木が生えていて、その実を食べたアダムとイヴがエデンを追い出される物語が失楽園だ。
つまりその子孫である我々が生命の実を食べてしまえば、神と同じ存在になるという訳だ。
「原罪を得た我々が、それに懲りずに、これからセーフエリアで知恵をむさぼろうかってところなんですよ?」
「ケルビムと炎の剣を設置されないように気をつけなきゃな」
「セーフエリアにモンスターは出ないってことですから、そこは平気に違いありません」
「実際のところ、フレイザーっぽいし、ここで登場するのはぜひディアナさんでお願いしたいね。現代ファンタジーに毒されていただいて、エルフさんでもOKだけどな」
「確かに森の人が出てきそうな雰囲気はあります」
「それって、オラウータンが出てくるんじゃないの? で、ダンジョン攻略局の区画はどこだ?」
「ええっと……あっちですね」
三好が地図を見ながら移動した先にあったダンジョン攻略局の区画は、三十二層の入り口からほど近い、北東側にあった。
「あちゃー、鬼門ですよ、鬼門」
「アメリカさんはそんなことを気にしないだろ。陰陽道でも日本だけの考え方だし。あるとしたら――俺たちが鬼だぞっていう当てこすりかな」
「最初に下りてきて場所を確保したのはサイモンさんたちですよ。そんなことを考えているとは思えません」
「言えてる。ただ人のいない方向へ進んだだけだろうな。おっと、ここだ」
その場所には、白線が引かれ、区画を表すコーンにUS−DADと書かれているだけで、他にはまだ何もなかった。
周囲も区画ごとに白線が引かれているだけで、日本ダンジョン協会が常駐しているのは世界樹の反対側なので、今のところ、ここには誰もいなかった。
「んじゃ、誰もいないうちに配置するか。方向の指定ってあったっけ?」
「位置まで指定されました」
三好はタブレットでそれを確認しながら、ホイポイを取り出した。
誰も見ていないんだから、無視していいような気もするが、「壁に耳あり障子にメアリー。様式美ってやつですよ、先輩」とそれを投げて、施設を取り出した。
音もなく取り出されたその施設は、ユニットハウスとは言えなかなかの大きさだ。内部に据え付けられている発電ユニットだけでも結構な重さだが、問題なく〈収納庫〉に収まっていた。
「さすが大型バス20台は伊達じゃないな」
とは言え、発電ユニットだけでもそれに近い重さがあるはずだ。
「いい加減限界を調べておかないとまずい気もするんですけどね」
「そうは言ってもな……」
それを確かめるのに適当な場所と物は、ちょっと思いつかなかった。
「ほら、騒ぎになる前に撤収するぞ」
突然コンテナハウスが出現したんだ、話題にならないはずがない。
三十二層のインフラとの接続は俺たちの考えることじゃないし、それがなくても先行して持ち込むくらいだ。スタンドアローンで動作するようになっているだろう。
「え。受取り貰わなくていいんでしょうか」
「誰に貰うんだよ。ほっときゃいいだろ」
「ええー? 預かったカギって誰に渡せばいいんです?」
「日本ダンジョン協会の現地駐在員にでも言付けておけばいいさ」
「泥棒とかいませんかね?」
「ここにか? それ以前に、この建物を盗んでいけるのは俺達だけだろ……」
俺はそう言いながら、携帯を取り出してサイモンに電話をかけた。
コール4回でそれに出た彼に、配送が終了したことを伝えると、驚いたような反応の後、事後の手続きについて教えてくれた。
「三十二層の日本ダンジョン協会の待機所にいる駐在員に向かわせるから、カギを渡しておいてくれだとよ」
「了解です」
ダンジョン攻略局の駐在員を待つ間に、俺はバックパックからロザリオのケージを取り出した。
「さあロザリオ。33層への入り口を見つけてくれよ」
そう言って彼女を自由にすると、ロザリオは数回その辺りを小刻みに飛び回った後、突然、速く高く飛び立った。
「あ、おい!」
「どうしました?」
遠く、世界樹の枝の先に一瞬だけ掴まってこちらに二回首を縦に振ったロザリオは、そのまま北に向かって飛び去った。
「ロザリオが逃げちゃったぞ?!」
「なんだかあれは、まーかせてと言っていたような気がしませんか? 先輩、なにか言ったんですか?」
「いや、33層への入り口を見つけてくれと……」
「それですよ、きっと」
俺たちはしばらく彼女が飛び去った方向を見ていたが、どこへ行ったのか分からないため追いかけることもできず、彼女が戻ってくるのを待つしかなかった。
「まあ、用事がすんだら戻ってくるか」
「その間に、ちょっと探検してみませんか?」
「そうだな」
ほどなくやってきたダンジョン攻略局の駐在員は、そこにいつの間にか建っていたコンテナハウスを見て、ことのほか驚いた後、俺達からカギを受け取って、施設の初期設定を始めたようだった。
俺たちはそのまま、セーフエリアの外周に向かって探索を開始した。
すでにマップは作られているし、存在するモンスターの詳細なども分かっているため、比較的気楽なものだった。
「セーフエリアの境界ってどうなってるんだ?」
「なんだか雰囲気で分かるそうですが、一応目印も作られて……あ、あれですね」
三好が指さした先には、緑の葉をつけた60センチくらいの高さの木が植えられたいた。
「なんだあれ?」
「榊の木だそうですよ。それが大体百メートル間隔で21本植えられているそうです」
「はぁ?」
確かに榊は、神と人の領域の境界を表す木だ。しかし、これって、わざわざ上から運んできて植えたのかな? 他にやることがあるだろうに、実に日本っぽい。
一応どこまで掘れるのかを実験した後はあるようだし、ついでにD進化の論文を読んだ誰かが植樹の実験をした可能性はある。だがそこで榊を選ぶのはかなり意味不明だ。
「お社でもあるのか?」
「あるそうですよ。小さいのが建てられているそうです」
「実に日本的だな」
「徒然草にだってあるでしょう? 寺・社などに忍びて籠りたるもをかし、ですよ」
徒然草の15段には、旅先でやることが列挙されているのだが、その中の一節に「お寺や、神社にお忍びで引きこもっているのも面白い」とあるのだ。
わざわざ三十二層まで下りてきた挙句に、社に籠ってみる人がどのくらいいるのかは謎だ。
「え、そんなに大きな社が?」
「残念ながら籠るのは無理ですね」
まあそうだよな。あれだけ物議をかもした区分け作業だ。言ってみればさほど意味のない寺社が区画に割り込むのは難しいだろう。
小さなお社が作られただけでも驚きだ。
「しかし21本か。セーフエリアは円形なんだろ? ってことは半径が……」
「なんと333メートルだそうですよ」
「さすがだ」
俺は思わず感心した。つまり直径は666メートルだってことだ。徹底してる。
「外周部は、HDDのトラック上に配置されたセクタのように、内周部は矩形領域に分割したそうですよ」
「ダンジョン管理課も区分けには苦心したんだろうな」
「そのころ、鳴瀬さんにクマができてましたからね」
「クマったねー」
「言うと思いました」
外周を歩いていると、ちらちらと黒い犬のようなヒョウのような何かが、障害物の陰からちらりちらりと見えていた。
セーフエリアを信じるなら、ここから遠距離攻撃で倒すだけで経験値を得られるが、さすがにあまり近づいてきたりはしないようだ。一撃で倒すのはかなり難しいだろう。
「こんな下層にヘルハウンドがいるのか?」
「あれは双頭らしいですよ」
「総統?」
「フューラーじゃありません。頭が二つあるそうですよ」
「なんだそれ?」
「オルトロス(仮)ってやつですね」
「ひゅー。三十一層でキマイラもどき、三十二層でオルトロスって、エキドナの子供たちシリーズか? ケルベロスやヒュドラも出てきそうだな」
「三十一層のキメイエスは、デーモン系だからエキドナとは関係ないと思いますけど、ヒュドラの代わりにジャイアントリーチと名付けられたモンスターは三十二層に居るみたいです」
「頭がひとつのヒュドラみたいなものか」
「それってただの蛇じゃないですか。蛇的な要素はありませんけど、丸呑みされるそうですよ」
「丸呑み?! って、そういう情報が出回ってるってことは、丸呑みされた奴がいるわけ?」
「丸呑みされたのは、ポーターだったらしいですけど」
「そんなサイズなのかよ!」
「会いたくないですよねー」
「会いたくないな」
どうやらそいつは、南側の湿地にいるらしい。
三十二層は、南に湿地が、北に乾燥地帯があるのだ。
外周をぐるりと一周してみたが、ロザリオは帰ってこなかった。
「こりゃ、泊まりかね?」
「他の層に移動するわけにもいきませんから。ドリーは――」
「出せるわけないだろ」
「ああー、シャワーがー」
ダンジョンの最深部で文明の利器に毒されているような軟弱なセリフを吐く三好に、つい吹き出してしまったが、俺も人のことは言えない自信がある。
「それだけならこっそり二十一層へ転移して使って来ればいいさ」
「そっか。じゃ、テント張って視界を遮りましょう!」
「はいはい」
仕方なく、世界樹の下、三十一層への入り口とは反対側の平地にテントを設営して、タープの下に椅子を出して腰かけた。
どこかの区画が、探索者のテントエリアとして確保されているはずだが、どこだか分からないし、現時点では文句を言うものもいないだろう。
午後も半ばの日差しが、世界樹を通してタープの上に木漏れ日の模様を描いている。
「妙に気持ちいいな」
「清廉なセーフエリアの効果ってやつでしょうか」
「さあな。なんにしろ、しばらくは腰を落ち着けるしかないだろ」
「しばらく待ってれば、きっと戻ってきますよ」
何もやることがなくなった三好は、タブレットを取り出して鳴瀬さんに現状を連絡してから、ネットニュースを巡回していた。
俺はと言えば、三十一層への転移石を作る材料になる手ごろな石を探して歩くことにした。
その時、ダンジョン攻略局の施設の方から、発電機のタービンが回る高周波がかすかに聞こえ始めた。
、、、、、、、、、
三十二層で石ころを拾い、三十一層で人目を避けつつ転移石31を作り続けていたが、その間に三十一層を訪れた探索者はゼロだった。
通信環境が整った結果、上と下を繋ぐ人員がすべて不要になったため、リソースが三十二層の出口探しに集中しているからだろう。
手持ちの石がなくなり、三十二層へと戻った俺に、三好が慌てたような様子で声をかけてきた。
「せ、先輩! これ! これ!」
「なんだ? ロザリオが戻って来たんじゃないのか?」
「違いますよ! これ見てください!」
三好が差し出してきたタブレットには、『議員の皆さんは本当に優秀?』と書かれたサイトが表示されていた。
197 SMD 3月16日 (土曜日)
そのサイトは、あまりのクレージーさと面白さと、ついでに下種な興味本位で、公開されるや否や、あっという間に話題になった。
twitterのトレンドには、「#国会議員ランキング」が上位に居座り続け、数値がとびぬけて高かったり低かったりする人物の値は引用され続けた。
それは、井部総理の不安が現実になった瞬間だった。
「なんだ、これ?」
「端的に言うと、国会議員のステータスを片っ端から計測して、それを一覧にしたサイトですね」
「はー、いろんなことを試す奴がいるなぁ。国会議員って思ったよりDカード所有率が高いんだな」
そのリストをスクロールしながら、「N/A」の文字が意外と少ないことに驚いていた。
N/Aは、not availableの略で、使用不能という意味に使われる。SMDのN/A表記は、ステータスが取得できなかった、つまりDカードを所有していないという意味だ。
未計測を除けば、その数は全体の数パーセント程度だろうか。さすがに現役でダンジョンに潜っている議員はいないだろうが。
「スキルオーブのために準備しておくってやつですよ。ダンジョンができてしばらくしてから流行ったでしょう? ポーションも効きが違うという話がありますし」
「そういや、三好もそのころのツアーで取得したんだっけ?」
「そうです。まあ、言ってみれば保険みたいなものでしょうね」
「保険ね」
俺は、そのリストを最後まで見て、彼女にタブレットを返した。
「しかし、SMDの出荷が開始されたのは1二日だろ? 仮に翌日受け取ったんだとしても、どうやってたった二日か三日でこれを作成したんだろう? やる気に満ち溢れてて凄いな」
「そんなの、マスコミ関係者ならインタビューを装って近づいて計測するくらいのことはできますよ。もっともこれが、やる気と悪意に満ち溢れてるってのは確かですね」
「悪意?」
「先輩……以前から話題にしてましたけど、ステータスって人間の能力の数値化なんですよ?」
三好が事の重大性を分かっていないとばかりに、腰に手を当てた。
「しかも、スカウターみたいに、『戦闘力』なんてどうでもいい数字じゃなくて、それなりに意味のありそうな複数の数値がゲームのように並んでいるわけです」
「いや、戦闘力は結構重要だろ」
「このサイトは、議員の先生方の能力を数値化して一覧にしちゃったんですよ? ヘタをしなくても、絶対に選挙に影響しますって、これ」
今年の夏には、参議院議員通常選挙がある。それがステータス選挙なんてことになったら……いや、それはそれで、ちょっと面白いかな。
「政治への適正とか思想、それに人間性はステータスじゃ測れないだろ?」
「先輩。この際正論はどうでもいいんですよ。例えば、非常に優れた考え方を持った知力が5の人間と、思想が全然ダメダメな知力が12の人間がいたとして、客観的に数値を見せられた後じゃ、後者が圧倒的に有利ですよ」
そりゃまあ、人間性なんて深く付き合ってみなければ分からない。というより、深く付き合っても分からない。
だから今までの選挙は、せめて知らない人よりも知っている人が有利と言う程度の根拠で、どぶ板と言われる手段が、まがりなりにも有効だったわけだ。
「どぶ板で握手しまくったところで、一度付いたおバカってイメージは、簡単にはぬぐえませんよ」
「いや、おバカって……お前な」
「もちろん現実は違うでしょうけど、一般の人は、低知力=バカだと認識しますよ、絶対」
確かに、悪しざまに低知力を指摘されても笑い飛ばせるような政治家は、そう多くはないだろう。
故田中角栄なら、『わしゃ中卒だからな!』で笑い飛ばしてしまうだろうが、現在そんな政治家は皆無に等しい。
「にこにこと握手をしながら、でもこいつバカだからなと、有権者に見下される未来が見えるようです」
「ステータスとは関係なく、自分の政策をアピールすればいいじゃん。本来選挙ってそういうもんだろ?」
「そんな人ほとんどいませんって。政策っぽい妄想を垂れ流している人は一杯いますけど。どうやって実現するのかって問いに、『これからみんなで話し合って』とか言いだすんですよ? じゃ、議員はあなたじゃなくてもいいですよねって言いたくなりませんか?」
「そりゃまあ、自分なりの解決方法を考えてから、それを実現するために立候補してほしいとは思うけどな」
それが支持されるなら当選するだろうし、支持されないなら当選しないだろう。本来はただそれだけのことなのだ。
「それに、高知力といっても、普通の人間レベルじゃ、パターンを認識する能力に優れていたり、判断する速度に優れていたり、記憶力に優れていたりするだけだし、IQと同じで、知的活動に少し有利になる程度のものだろ?」
もっとも、あっという間に外国語を話せるようになった御劔さんを見ても分かるとおり、とびぬけてしまえば馬鹿にできないほど違うし、他のステータス、例えば器用と同時にとびぬければ、斎藤さんの弓やピアノのように信じられないことを引き起こすこともできる。
だが、それでも所詮はハードウェアの話だから、学ぶ努力をしなければなんの意味もないはずだ。一応、魔法とMPのこともあるが、そこは普通の人間にはあまり関係のない領域だ。
「多少は有利でしょうけど、知識とは関係ありませんし、経験の方がはるかに重要なのは確かですけど」
しかし、どう見てもバカじゃないの、この人。っていう議員の知力が低かったりしたら、ああやっぱりねと納得感があるだろう。
しかも、あんなバカを支持しているなんて、あなたもバカなの? みたいな中傷まがいの話だって飛び出しかねない。
口には出さなくとも、ナチュラルに見下してしまう可能性は高いし、逆に高知力だと、ああ、やっぱりこの人は賢いんだと、支持が得られる可能性もあるだろう。
「みんな偏差値とか大好きだからな。自分の以外は」
「ゆとり教育で批判されましたけど」
「あれもなぁ……」
日教組が提案していた本来の姿は「ゆとりある学校」なのだ。つまり休みをもっとよこせということだ。
それがいつの間にか、画一化から個別化への転換を図るなんてことになって、今では、全人的な生きる力の育成だ。もはや何を言っているのかすらよくわからない、まるで言葉遊びのようだ。
実際国民の教育水準をある一定ライン以上に引き上げるという目的は達成しているのだから、次は、とびぬけた才能を潰さないようにすくい上げるということが重要なのであって、それは全員の個性を伸ばす教育を行うと言うこととは違う。
個性豊かになどと言ったところで、全員に対してそれができる先生などいない。なぜなら義務教育における先生の能力自体が、すべての生徒の個性に合わせて傑出したりはしていないからだ。そもそもそんな超人めいた人間は普通いない。
またそんなカリキュラムを作ることもできはしない。なぜなら個性というものは千差万別だからだ。だから全人的な生きる力の育成なんて、よくわからない言葉に行きつくのだ。
一人一人の子供に合わせた教育などというものは、耳触りが良くて素晴らしいが、はたしてそれが学校教育と言えるのかどうかは難しい問題だ。個性に合わせた家庭教師でも雇わない限り、それは永遠に達成できないだろう。
考えても見てほしい。どんなに個性を豊かに育てる教育などと言ったところで、義務教育だけを受けていてプロの演奏家はまず育たない。かといって、生徒全員にプロの演奏家を育てるための教育を施してみることなどできはしないし、それを教えることのできる教師はまずいないだろう。
個性を伸ばすという名のもとに、学校教育を混乱させ、子供を迷走させているだけなのかもしれないと感じた人間がいたとしても、詰め込み教育と言う名のレッテルがそれを言葉にすることを許さない。
誰も他人の子供の教育のために、社会的な生命をかけたりはしないのだ。長いものには巻かれろ。それは十分理にかなった戦術だ。
「今年の夏は、選挙ポスターにステータスを書くのがはやるかもなぁ」
「先輩、なんでそんなに暢気なんですか」
「だって政治家の話だし」
「だからですよ。ステータスが個人情報として規制されちゃいませんか、これ」
自分たちの話だから動きが速いってか?
「個人情報保護法の見直しに含まれないかと言う意味なら、含まれるかもな。だけど俺達って、個人情報取扱事業者にあたるのか?」
三年毎に見直されることが明示されている個人情報保護法の、次の見直しは2021年だ。含まれるとしたら普通はそこだろう。
「収集された計測データを事業に用いていませんから、今のところはあたらないと思いますけど」
「なら、面倒はないさ。それに議員って公人だろ?」
「ええ、まあ」
「だから、このリストは、適法ってことになる可能性が高いよ」
今までの解釈がそのまま適用されるとするなら、国会議員は公人だから、そのステータスは有権者が投票するかどうかの判断として有用だという理由で、プライバシーよりも公表が優先されるってところに落ち着くはずだ。
「そのへんって、裁判官の胸先三寸的なところがありませんか?」
「明文化されているわけじゃないからなぁ。これが猥雑問題なら、四畳半襖の下張事件よろしく『社会通念に照らして』で済んでしまうかもしれないが、そういう訳でもない。ただ、そうなる可能性が高い程度の話だな。それより喫緊の問題は学校じゃないのか?」
「学校?」
「ほら、これを見た生徒がSMDを手に入れたら、絶対先生たちを計測をしまくるぞ」
後は分かるだろと肩をすくめた俺を見て、三好は頭痛をこらえるように額を抑えた。
「それって、試験のテレパシーに引き続いて、教育現場が崩壊する危機じゃないですか……」
「このリストを見るまで、はっきりとは意識しなかったけどな」
もっともこれが問題になるのは、数値が著しく低い教師だけだ。
今までの経験からすると、高等教育を受けた人間は、それなりに知力が高い傾向があった。
ステータスをハードウェアの数値に例えたけれど、それは人間の経験そのものも取り込んでいるように思える。だから、普通に大学を卒業して数年程度の教員の知力は期待通りにある程度高い可能性はあるだろう。
「自分たちの先生を計測して、あげくに、『先生、僕よりも低い知力で、何を教えていただけるって言うんです?』みたいな生徒が出てきませんか?」
成人の標準的な値が10だとしても、それが人生のどの時点で10に到達するのかはよくわからない。
高校生くらいで成人の値に到達するとしたら、ステータスが教師を越えている可能性もないとは言えないだろう。
「若者は勘違いするからなぁ」
「先輩、おっさんくさいですよ」
「やかましい」
実際、これは、人間の評価に新しい軸が加わったというよりは、与えられる情報が、より詳細になったというべきだ。
とは言え、曖昧なところのない数値には反発も出るだろう。冷静に考えれば、それらはすべて曖昧なだけで今までにも存在していたことばかりなのだが。
「例えば、力が必要な仕事に、小柄でひ弱そうな男と、大柄でみるからに力が強そうな男が応募してきたら、後者を採用するだろ?」
「それはまあ」
「それを力という数値で目に見えるようにしただけじゃないか。もしかしたら、小柄な男の方が力が強いかもしれないぞ? 雇用者はより適性のある人間を採用できる」
面接官が便利だという理由でステータスしか見なくなったりする弊害はあるかもしれないが、それは面接官側に問題があるのであって、ステータスが見えることに問題があるわけではない。
「そのうち、新入社員を受け入れるのに、知力が12以上なんて条件が付き始めませんか?」
「数字があるから生々しいけどさ、それって、『大卒』なんて条件と何が違うんだ?」
「そう言われればそうですけど」
いずれにしても、問題は俺たちの手の届かない所へ行ってしまったのだ。
後は社会が、それにどう反応するのかを眺めているしかないだろう。
「こりゃ、ステータスの偽装サービスを始めたら、超儲かりそうですね」
三好が冗談めかしてそう言ったが、そんな商売をやる気はないだろう。
個人情報取扱事業者になると面倒だし、そもそもそんなことができると分かったら、SMDに対して偽装している俺たちのステータスも疑われかねないのだ。
「やばい場所には足を踏み入れないのが一番だぞ」
「分かってますよ」
「やるとしたら、計測を拒否するなにかとかかな。軍に需要がありそうだ」
それにステータスの何かが法で規制されるようなことになれば、そう言ったものが開発元に要求されることは想像に難くない。
リスクを減らしておくと言う観点からはアリだろう。
「それならありますよ」
「へ?」
「ジャマー信号みたいなものですよね?」
「ああ、まあそうだけど」
「実際のところは単に外部からの信号を拾うようにしてあるってだけで、言ってみれば拡張機能用に用意したものなんですけどね」
「その拾った信号をもとに、サーバー側でいろんな処理をしようってことか」
「そうです、そうです――はっ」
三好は何かを思い出したかのように言葉を打ち切ると、突然どや顔になって言った。
「ごほんっ。こーんなこともあろうかと!」
その大根役者ぶりに、思わず吹き出しかけたが、ここは武士の情けだ乗ってやろう。
「そ、それは、科学者たるもの、一度は言ってみたいセリフシリーズナンバー1のフレーズ!!」
「あざーす」
「実際、俺も一度くらいは言ってみたい」
「ミーハーですね」
「わざわざ咳払いして言い直したお前に言われるとは……」
「まあまあ、で、これです」
三好が取り出したのは、2から3センチくらいの薄い正方形をした物体だった。
「なにそれ?」
「これは、サーバーにアクセスして、特定の周波数を確認後、その電波を発生する装置ですよ」
「電波? 免許とか大丈夫なのか?」
「無線設備から3メートル距離での電界強度が一定以下の場合は、どんな周波数帯でも不要です。SMDの計測範囲なら微弱電波で楽勝ですし」
「ははぁ、つまりその電波をSMDで拾うわけか」
「です。つまりこれを利用すれば、SMD−DENY(エスエムディ・ディナイ)が作れちゃうわけですよ!」
SMDを拒否するってことか。三好にしては、割とまともなネーミングだな。
「『SMDで覗くなYO』の略です!」
「……感心して損したぜ」
SMD DE Nozokuna Yo ってことかYO!
「なんです?」
「いや、なんでも。で、その周波数を感知した場合、たとえステータスが算出されていたとしても、その値をSMDに返さないってことだな?」
「単純に言うとそういうことです」
実際にはサーバーで指定された搬送波に変調して情報を乗せたりするのだろうが、原理は同じだ。
サーバーにアクセスして送る信号を取得するってことは、その情報が逐次変化すると言うことだろう。
「海賊版は許さないぞってこと?」
「そうですね、できれば年間契約とかで、継続しないと一年で効果が切れるってシステムにするつもりだったんです」
「SMDだって、何年目かからは有料だろ? サーバー側で維持費がかかる以上、仕方がないだろ、それは」
「問題はですね、この仕組み上、他社が独自のSMDクローンを作ったら意味がなくなっちゃうんですよ、これ……」
信号を感知してサーバー側で、いろいろな処理をするのだから当たり前だが、サーバーを自前で作成したメーカーの製品では機能が有効になるはずはないのだ。
「作れるかな?」
「そりゃもう。ものすごく効率は落ちますけど、うちのSMDがあれば計測は出来るわけですから」
「私たちは、みどり先輩のところの計測装置と、先輩と言う可変の計測元があったから比較的簡単でしたけれど、都合のいい測定元がない他のメーカーは、帰納的に情報を集めなければなりません。これは目茶苦茶大変ですよ」
都合よく、すべてのステータスを持った人たちが集まればなんとかなるかもしれないが、適当なチョイスだと、圧倒的に中央値付近に偏るだろうからなぁ……
ステータスが低い子供を利用しようにも、そういう子供たちにDカードを取得させるのはかなり大変だろう。
「だから、SMDーPROと長い時間と信じがたいほどの根気があれば、作れないことはないと思いますよ。先にうちのサーバーへのAPIを公開して妨害するという手もありますが――」
「商業的なものならともかく、軍事的なものの根本を他社に任せるはずがない、か」
「そういうことです。もちろん特許には引っかかるでしょうけど」
「勝手に使われたとしたら、うちのDENYでは測定を邪魔できないってことだな」
三好はそれを肯定するように頷いた。
そうしてそれが一番まずいのは、俺たちのステータスが計測されたときだろう。
だが――
「まあ最終的にばれたらばれたで仕方がない、で済んじゃうだろ」
「え?」
「〈収納庫〉や〈保管庫〉と違って、ばれてもスゲーでおしまいだろ? 密輸や窃盗を疑われたりはしないから、生活するのに大きく困ることはないさ」
「……考えてみればそうかもしれません」
俺たちがステータスを偽装していたのがばれた場合、少々物議をかもす可能性があるが、他の人間で偽装を行っていないから大した問題には発展しないだろう。
技術的に可能だと言うだけで、実際に他社のSMDで比べたところで値が大きく違う人間は、俺たち以外にはいないのだ。
「前も話したが、結局俺たちの秘密でばれたらまずいのは、アイテムボックス系のスキルだけなんだよ」
「後は、先輩の?」
「まあ、メイキングは特殊だからな。外部からはバレようがない」
実際何ができるのかは、俺たち自身にもよくわからないところがあるくらいだし。
「それはそうですけど」
「いずれにしてもDENYは早めに用意しておいた方がいいな」
「え? 早速ですか?」
「考えても見ろよ。さすがに小学校の教員がそんな目にあうとは思えないが、文科省の情報だと、中高の教員だけで大体50万人いるんだぞ」
小学校まで入れると90万人以上になる。
「そいつらが全員欲しがったとしたら――」
「Dカードチェッカーの悪夢再びですね」
三好は早速、どこかへ電話していた。おそらく中島さんのところだろう。
電話の向こうから、悲鳴めいた音が聞こえたが、きっと気のせいに違いない。
、、、、、、、、、
そのころ、各新聞社やテレビ局の報道部では、どこでも同じような会話が行われていた。
「これ、ネタとしては面白いんですけどね」
「やめとけ。野党の顔みたいな議員のパラメータとか、シャレにならんよ。これが与党の重鎮なら、どんどん突っ込めって指示が来るかもしれないが……」
ステータスは、あくまでも経験をもとにしたハードウェアとしての基本能力を示すものであって、思想や考え方などの言ってみればソフトウェアの能力を示すものではないことは発表されていた。
100メートルを走るにしても、そこには培った技術があるわけで、必ずしも数値の高い人間が優れた記録を叩きだしているというわけではないのだ。
そのリストには、平均的な成人の数値と思われる値が正規分布に近い形で並んでいた。それはつまり14の人間がいれば6の人間もいるということだ。
今のところ1ポイントがどの程度の違いを表すのか、数値の増加はリニアとみなしていいのか、それらについてはまったく分からないが、数値の多いほうが優れていて、少ないほうが劣っていると考えるのは世の常だ。
「持ちあげたい高ポイントの人間を取り上げるのも、貶めたい低ポイントの人間を取り上げるのも等しくNGだ」
各社には一様にそう通達されていた。
これを話題に取り上げるということは、そのリストに興味を持つ人間を増やすということで、つまりは、低ポイントの議員たちを困らせるということだ。そうしてそこには、困らせてはいけない人たちが大勢含まれていたのだ。
しかし、昔と違って情報の本流はネットにあった。
結局、誰が作成したのかわからないこのリストは、圧倒的な力を持って、各議員の進退にまで大きな影響力を行使し始めた。
そうしてそれは、あらゆる権威のステータスを測定するという『遊び』へとつながり、大きなうねりとなって行った。
198 掲示板 【見えすぎちゃって】SMD 7【困るのォ】
1:名もない探索者 ID:P13xx-xxxx-xxxx-1183
ついにSMDが発売開始!
もうめちゃめちゃ品薄で……って、直販以外はないんだけどな!
スカウターごっこが流行するのは、もう少し先か? あと、もうちょっと安く……(Ry
次スレ 930 あたりで。
2:名もない探索者
にげと。
3:名もない探索者
乙 > 1
4:名もない探索者
マスプロの回し者、乙。
5:名もない探索者
マスプロって、規格表に「絶対うそはありません」って書いてあるんだよな。
大手じゃなけりゃ、逆に怪しいってのwww
6:名もない探索者
マスプロって、ボディスキャナーも作ってるから、現代でも通用するな、このセリフ。
7:名もない探索者
マスプロ板行けw あるのかどうかは知らないが。
8:名もない探索者
しかし政治家の一覧は、センセーショナルだったよなぁ。
あれ、誰か抗議した政治家っているの?
9:名もない探索者
見えないところではわからないけれど、見えるところで抗議したやつはいない。
高知力なら抗議する意味がないし、低知力なら抗議自体が恥ずかしいからなぁ。そっ閉じ?
十:名もない探索者
いまさら消させたところで、とっくにネット中にばらまかれてるしな。
逆効果だろ。
11:名もない探索者
同じ発言をしても、ポジショントークやポーズで発言している奴と、本気で発言している奴が分類できて面白す。
12:名もない探索者
高知力→ポーズ発言
低知力→本気
ってこと?
13:名もない探索者
いやいや、ステータスってそういうものじゃないでしょ。
14:名もない探索者
こまけーこたぁ(Ry
どういうものだろうと、有権者にそういったイメージが植えつけられるのも事実だろ。
15:名もない探索者
大学教授とか、どのくらいのステータスなんだろうな?
16:名もない探索者
興味あるだろ? だが、政治家と違って、教授クラスにDカード所有者はほとんどいないのよ、これが。
17:名もない探索者
学究の徒は、ダンジョンなんか見向きもしない?
18:名もない探索者
というか、現在教授職に就いているような人たちは、ダンジョンが現れたときすでに自分の研究で、最低でもほとんど教授に近い准教授だから。
ダンジョンに向かう理由がない。
19:名もない探索者
ダンジョン研究者は、いたとしてもまだ4年も経ってないんだもんな。
20:名もない探索者
そゆこと。
21:名もない探索者
テレビのコメンテーターは?
22:名もない探索者
そっちは持ってる可能性が高いな。
23:名もない探索者
ひな壇芸人のステータス一覧とか面白そうだろ。
24:名もない探索者
ワイドショー関係者もいいぞ。
25:名もない探索者
NHK職員とか?
26:名もない探索者
いや、さすがにそれは拙いだろwww
27:名もない探索者
いまのところ法的なきまりはないが、個人情報にあたりそうだから、一般人は拙いよ。
28:名もない探索者
逆に言えば、さらしあげるなら今のうちってことだな。
29:名もない探索者
鬼か!
30:名もない探索者
おい! 新しいのが来たぞ!
)つ https://URL...
31:名もない探索者
なんだ、なんだ?
32:名もない探索者
各局ご用達コメンテーターのステータス一覧?!
33:名もない探索者
キターーーーーーー!
34:名もない探索者
うわっ、なんだこのバカ
35:名もない探索者
バカ違う。低知力な。
36:名もない探索者
さすがに、番組名+イニシャル+肩書なのか。実名は書かれてないな。
37:名もない探索者
政治家に引き続いてってことは、やっぱり、個人情報の取り扱いに関して一応注意しているってことかな。
38:名もない探索者
どゆこと?
39:名もない探索者
政治家は投票行動の指針になるってことで、プライバシーよりも優先されるだろうし、コメンテーターは、言っていることの信ぴょう性って意味で、プライバシーよりも公表が優先される可能性がある。
公益ってやつ。
40:名もない探索者
肩書で信ぴょう性を裏書きしているのと変わらないってことか。
41:名もない探索者
そうそう。
42:名もない探索者
だけどさ、ステータスって金で買える大学の肩書なんかより、ずっとリアルじゃないか?
43:名もない探索者
数値ってのがいいよな。いやもしかしたらそれが良くないのかもしれないが。
44:名もない探索者
さすがに霞が関関係者っぽい連中は高知力が並んでるな。
45:名もない探索者
なあ。この知力17って誰だよ。
46:名もない探索者
ほとんど最大値だな。
47:名もない探索者
それなんて3d6
48:名もない探索者
政治家と言い、コメンテーターと言い、これってやっぱりマスコミ関係者が震源じゃないの?
だって、この短期間にこんな計測、普通の人間には無理だろ。
49:名もない探索者
内部犯行説が濃厚。
50:名もない探索者
犯行www
51:名もない探索者
これってさ、番組にコメンテーターとして出演したら、計測されるってこと?
52:名もない探索者
うわー、出たくねぇ……
53:名もない探索者
心配するな、お前のところには依頼が来ない。
54:名もない探索者
自分で自分を計測して、恥ずかしくないステータスだったら出演するんじゃないの?
55:名もない探索者
その計測器が手に入らない。
56:名もない探索者
そろそろ日本ダンジョン協会が計測サービスを始めるらしいぞ。
57:名もない探索者
じゃあさ、そのサービスの受付や部屋の前にいれば、自意識がいっぱいの人間がやってくるってことだな。
58:名もない探索者
そこで待ち構えていて、片っ端から計測するのか!(w
59:名もない探索者
ヒド! 盗撮とどう違うんだよ、それ。
60:名もない探索者
まだ規制がないところ。
61:名もない探索者
悪魔だ、悪魔がいるぞ。
62:名もない探索者
コメンテーターなんかよりもさ、記者やプロデューサーあたりのリストが見たいんだけどな。
63:名もない探索者
そっちは公表による公益が主張できないからなぁ。
64:名もない探索者
いまなら規制がないんだろ?
65:名もない探索者
そりゃそうだが……
66:名もない探索者
でもまあ、記者なんかは普通高知力じゃないの?
思想とステータスは別物だし。
67:名もない探索者
それを確かめたいっていう欲求があるんだろ。
68:名もない探索者
しかし、日ごろ偉そうな人たちって、ステータスを計測される可能性が大いにあるよな。
69:名もない探索者
権威のステータス計測かぁ……こりゃ、はやりそうだな。
70:名もない探索者
そんなにSMDの数がない件。
...
、、、、、、、、、
防衛大学の卒業式が行われた日曜日。
首相は、陸自のヘリで官邸のヘリポートから横須賀へ飛び、卒業式と任命・宣誓式を終わらせた後、13時一分、帰りのヘリに乗り込んだ。
そこには、党の選挙対策委員長である、甘《かん》利明《としあき》が秘密裏に同乗していた。
「しかし、これにはまいりましたね」
そう言って、彼が取り出した書類には、件のステータスリストを印刷したものだった。
ふたりとも親の地盤を引き継いだ、言ってみれば世襲議員だっただけに、自分のステータスが心配だったが、幸い彼らは、一般から見れば少しだけ高めの、ほぼ平均的なステータスと言えた。
「甘さん、どうです? 夏の選挙に大きく影響しそうですか?」
「それはもう……」
そのリストには、赤の蛍光ペンでチェックされている名前がかなりの数並んでいた。
大体四人に一人程度だろうか。
「このリストのお蔭で、危ない方が何人もいます。対抗馬に高知力ですか? の人間を立てられると太刀打ちができない可能性があります」
「公認は?」
「まだ変更が可能ですが……とはいえ、そうとうもめますよ」
当たり前のように内定が出ている議員も多いが、近年では無党派層の台頭により地盤だけでは激戦になる選挙区も多い。
そういった選挙区に、野党が有力者を連れてくれば、簡単に逆転されるかもしれないのだ。
いままでなら有力者の力は知名度だった。
そう言った人間にはメンツもある。だから連れてくるのが難しかったが、ステータスなら知名度など全く必要がないのだ。
単に高ステータスの人間を連れてきさえすれば、数値でその優れた様子がアピールできるわけで、その点過去のしがらみに引きずられる与党は苦戦が予想された。
ステータスが低いからと言って、それだけで公認からはずすわけにはいかない候補が多いためだ。
地方の組織を固めるためには、血が必要なのだ。しかしそれでは勝てないというのだから、頭が痛い。
かといって、比例名簿の上位に低ステータスを並べるのは、有権者の視点から考えても体裁が悪すぎた。
今は、比較的野党の低ステータス議員に話題が行っているが、実際の選挙でこれが重くのしかかるのは与党の方だった。
「これを公開したものは何を狙ってるんだと思います?」
「我々の強みは、戦後連綿と続いてきた強固な組織と言っていいでしょうが、逆に言えばそれは弱みでもあるということを思い知らされました」
甘は井部の質問に直接答えなかった。
「新しい秩序の構築ですか?」
「老害の排除かもしれません」
総理よりも、いつつ年上の甘は、自嘲気味に笑った。
「とは言え、一番考えられるのは――」
甘は、これも世の流れだと諦めたように目を閉じて言った。
「単なる愉快犯でしょうか」
犯人とは言えませが、と付け加えたときに、ヘリは官邸へと到着した。
結局、赤ペンでチェックされていた低ステータスの議員たちをどうするのかの結論は20分で出せるようなものではなかった。
二十日でも怪しいところだと、井部は自嘲しながらヘリを下りた。
199 ダンツクちゃん交渉チーム 3月18日 (月曜日) -
外務省総合外交政策局安全保障政策課長の田室《たむろ》靖《やすし》は、このお遊びにしか見えないレポートの選考に、総合外交政策局長の木鈴《きすず》はおろか、内谷国家安全保障局長が顔を出していることに驚いていた。
選考が終わった後のレポートを見ると言うのならともかく、選考はこれから行われるのだ。
今回のレポートは、課題が明確に与えられ、その対応を記述させているため、一種のアカデミックエッセーに近い。
そのため、序論の代わりにアブストラクトを記述させ、その後本論を展開するような形式になっていた。
「宇宙人との外交政策――全方向土下座外交……なんじゃこりゃ?」
「地球上の他国との外交政策――チートで圧倒して支配?」
部下たちが頭を抱えながら読んでいるレポートのアブストラクトは、冗談としか思えないようなとんでもない意見が並んでいた。
しかし本論は――
「なかなか読ませるじゃないか」
内谷が面白そうにそう呟いていたが、田室には百歩譲っても良くできた物語のあらすじにしか思えなかった。
さすがに外務官僚らしく、中国とEU、それにアメリカのバランスを取りながら国益へと誘導していくさまは、なかなか現実味を帯びていて見事なものだった。
しかし宇宙人との外交政策に関しては、国家安全保障局の企画官を歴任してきた田室にとっても、いや、むしろそういう畑を歩んできたからこそ、ありえない内容だったのだ。
「わざわざ地球まで来るような高い技術を持った生命体は、それに見合った倫理観も持ち合わせているはず?」
なんだ、この希望的観測は。
外交政策立案にそんなものをもちこんでどうするんだ? と彼は首をひねったが、その後の本論において、怒涛の論理が展開されていたのだ。
要約すれば、人類のように戦闘行為に明け暮れる場合、技術の進歩する速度はある一定までは非常に速く進むが、その先はもっとも基本的な倫理観の過剰な適用による足の引っ張り合いが起きる。
つまり表立っての戦争は、高まった倫理観によって行えなくなるが、それを利用した集団に対する分断工作の横行によって、社会そのものがその結合力を弱めさせられ、進歩の速度は減速していき、最終的には滅亡に至るだろうと言うことだった。
「バベルの塔を彷彿とさせる話だな」
「言葉をばらばらにしたってやつですか?」
「まあな」
したがって、星の海を渡ってこれるような技術を持つまでに至った社会性のある生命体は、倫理的にも高い見識を維持しているという推測だ。もしも、自分たちが脅かされるようなことになった場合、戦争よりも逃走を選ぶだろう。ただ接触しなければ良いだけなのだから。
独裁制による一極支配が偶然続いた場合や、軍を主体とした奪うことで版図を広げる政治形態での進歩もありうるが、それは戦国時代の武田家と同じような状況に陥る可能性が高いし、もしもそれを乗り越えたとしても、そういう社会なら有無を言わさず攻撃してくるだろうから、この政策立案の前提そのものが成り立たない。
そう言った、イナゴの集団は、技術の進歩こそ早いが、到達点は低いということが論理的に述べられていた。
我々が歩んできた歴史をベースにしている以上、意味のない推測ではあるのだが、考えてみれば相手は未知の宇宙人だ。
社会構造も思考形態も、我々とはまるで違うかもしれない。ましてや倫理のありようなど、何をかいわんやなのである。
したがって、現時点で我々にできることは、ただそれを想像して政策を立案、その後の接触により相手のことを理解しながら修正していく以外に方法はない。
「奉仕したい、か」
それを読んだ内谷の呟きが田室に届いたとき、彼は何かの聞き間違いかと思った。
「え?」
「いや、ダンジョンの向こう側にいる相手の目的が、『奉仕する』ことだと言うんだが、どう思うかね?」
「我々に、ですか?」
「そうらしい」
「奉仕することそのものが目的なんですか?」
「信じられるかね?」
「信じる信じない以前に意味が分かりませんよ」
「意味が分からない、か」
内谷は、至極もっともだと頷きながら、レポートの書き手について聞いた。
署名欄には、成宮《なるみや》 春樹《はるき》と書かれていた。
「この男は?」
「9年目の職員ですね。同期のエースで、将来の事務次官候補筆頭です。北米局北米第一課首席事務官から、経済局国際経済第一課首席事務官を蹴り飛ばして、こっちを希望するとは……」
「ずいぶん物好きな男だな。仕事よりも趣味か?」
「そんな男は、同期でエース呼ばわりされたりしません」
「つまり、こちらの方が出世に近いと考えているってことか? 北米局や経済局よりも?」
「おそらく」
もしも本当にこのコンタクトが行われて、もしも本当に国交が樹立したりすれば、相手の重要度はアメリカ以上と言っても過言ではない。
なにしろ地球の科学では為しようのないことを為している相手なのだ。
だが、それだけに舵取りを誤れば、国家はおろか地球そのものを危険にさらしてしまう可能性すらあった。
「慧眼……というべきか?」
「それで省内の序列に変化があるかどうかは別の問題ですけどね」
田室は、若いよ、とでも言いたげに、そのレポートを「適」の箱に投げ入れた。
、、、、、、、、、
こうして作られた新しい組織が、外務省のどこに置かれるかには議論があった。
真っ先に手を挙げたのは、総合外交政策局と、大臣官房下の国際文化交流審議官、それに国際情報統括官だった。
最も優勢だったのは総合外交政策局で、安全保障政策課で管轄する話や新規の課を作成する話が議論されたが、当局は国連に近すぎると言う奇妙な理由で退けられた。
ダンジョン攻略局のごとく内閣総理大臣直轄の組織も検討されたが、法整備の問題もあって、結局、内閣官房の国家安産保障局内に交流準備室的な組織が作られた。
国交のない国家的組織との交流は外務省管轄ではないのだ。
この選考で最終的に選抜された四名は、内谷をして「非常にユニークな人材」だと言わしめた人間たちだったが、田室からは「逸脱しすぎて何を考えているのかすら分からない」と言う評価を受けていた。
「大学のSF研の、メンバーを選んでるんじゃないんですよ?」
「ははは。似たようなものだろ」
「内谷さん!」
いくら大先輩とは言え、内谷のこのいい加減さはなんだろう? この連中に国家の未来を託すのかと思うと、田室は目の前が真っ暗になりそうだった。
成宮はともかく、外務省の人員には、もっとまともな連中が大勢いる。なのに、どうしてこんな人選になるんだと、選考会の終わりの方では臍を噛むような気分だった。
局長の木鈴は、特に何も言わず、すべてを内谷に任せているようだったのは、最終的にこの組織が外務省外に作られることになることを予想していたのだろう。
火中の栗を拾うのは、自分以外の誰かでなければならない、そういう基本戦術で出世して来た男だからだ。
田室は最後まで真摯に頭を悩ませ続けたが、結局自分の手の届かない場所に組織が作られることになったため、このことを忘れることにした。
というより、そうすることしかできなかった。
「成宮、馬鹿な奴」
そのまま外務省にいれば、二十年もすれば事務次官になったであろう男が、こんなところで躓くのを見たくはなかったが、本人の希望ならしかたがない。
この業務に関わるのは今日までだ。すべてを忘れて、明日からは日常に復帰しよう。
そう心に誓った田室だったが、近い将来、総合外交政策局安全保障政策課が、はるかに面倒な混とんの中に叩き込まれることになるとは、この時点ではまるで想像していなかった。
、、、、、、、、、
その日、省庁のビルから新しい事務所へと引っ越しした四人は、その家を見て呆然としていた。
「成宮さん。本当にここで合ってるんですか?」
高そうなダークスーツに身を固め、細いフレームのメガネをかけた、まじめを絵にかいたような男が、その古い民家の門を右手の甲でノックするようにして言った。
成宮と同じ、外務省から選抜された、三井《みつい》聡哲《そうてつ》だ。
その名前から、ダブルサトシ君とあだ名された外務の知識の豊富な男だったが、やや頭が固いところがあった。そのため今回は外務省との連絡官を兼任する格好で選抜されていた。
門柱に門に新しく取り付けられたように見える、落ち着いた色合いの引き違い戸の横には、小さなケースが取り付けられていた。
細かい組子で作られた引き戸から透けてみえる民家は、どう見ても築50年は経過していそうな平屋建てで、周囲は竹林に覆われている。
「こりゃあ、渋い。渋いのは認めます。渋谷も近いし」
意味不明なことを言っているのは、財務省から出向してきた杉田《すぎた》稔《みのる》だ。
自他ともに認める重度のオタクだったが、そのあまりに高い事務能力が災いして、財務省に入省してしまった変わり種だ。
地方自治体への出向と同様、出向時に退職扱いになりかねないこのプロジェクトに、超難関と言える財務省からほいほいとやって来た男は、職務中のはずなのに、砂模様のプルオーバーパーカーで現れた。
さすがにボトムはチノパンで、ジーンズではなかったが、履いていたのはスニーカーだ。
「門の引き戸一つとってもやたらと繊細なんですけど……」
六角形を巧みに組み合わせているその模様を見ながら感心している紅一点は、経産省から出向してきた村越《むらこし》芽衣《めい》だ。
エネルギーバカの名をほしいままにしている職員で、四月から大臣官房秘書課に入るはずだったのを、つまんないの一言で蹴っ飛ばしてこちらへ応募してきたらしい。
見た目だけならひざ丈のタイトスーツに身を包んだ、いかにもデキる女なのだが、エネルギー行政を語らせると朝まで持論を展開し続け、入省当初は見た目に騙され彼女を誘って撃沈した男が相当数いたらしい。
「なんとも細かい毘沙門亀甲ですね」
「毘沙門亀甲?」
「はい。毘沙門天の鎧の模様から作られた組子で、永遠の繁栄が願われているそうですよ」
杉田がその門の組子に顔を近づけながら解説した。本物のオタクは妙なことに詳しいものだ。
「なんだか、何年か前に話題になったパソナの施設を彷彿とさせる門構えね、元麻布の」
「仁風林のことですか? あの門はただの板ですから。こちらのほうが風格が――」
「引き戸の話はそのへんでいいだろう」
成宮は笑ってそう言いながら、ドアの横にあるケースのふたを開けた。そこには場違いなカードリーダーが設置されていたのだ。
「カギが合えば、ここで間違いないってことさ」
そうしてカードを滑らせると、赤いランプが緑に変わってロックが解除されたことを皆に告げた。
ほらねと、それを見せた成宮は、引き戸を滑らせ、皆と一緒に奥へと歩いていった。
「もしかしてこれって、貧乏くじを引かされたんじゃないでしょうね?」
三井の言葉通り、ずいぶん古く見えた平家は、近づいてみると、古いと言うよりボロいと言った方がよさそうなありさまだった。
「警備の関係上、どうしても庭が必要だったらしくってな。この辺りじゃ選択肢がなかったそうだ」
「どうして、この辺りなんです? 警備が必要なら、それの行き届いた官邸周辺の庁舎のどこかでいいんじゃないですか? 僕は、首相官邸の裏のビルだと思ってましたよ」
足元の砂利を踏みしめながら、杉田が首を傾げた。
「地震で怖い思いをしなくてすんでよかったと思いましょう」
村越がそれを受けて、笑いながらそう言った。
国家安全保障局のある内閣府庁舎別館は、ガラス張りっぽくてきれいなビルだが、実は古い民間のビルで、耐震評価があまりよろしくない。
すぐ近くの中央合同庁舎第8号館の東側に新しいビルを建設することが、何年も前に決まっているが、いまだに影も形もないありさまだ。
「大使館っぽくていいじゃないですか」
この近隣には、モンゴル・イラク・ニュージーランド・ヨルダン・ラトビア、少し離れてベトナム・ブルガリア・コードジボワールなどの大使館が点在している。
「ラトビアの大使館は凄い豪邸ですし、ヨルダンの大使館も渋いお家ですよ」
そんな話をしながら、玄関に辿り着いた四人は、思ったよりもきれいな内装に驚いていた。
居間に繋がるおそらくは和室だった部分は壁が取り払われていて、ワンフロアとして利用できるようになっていた。
「突貫で窓と床、それに内壁だけ差し替えたそうだ」
その声に驚いた四人が後ろを振り返ると、そこには内谷国家安全保障局長がいつの間にか立っていた。
「で、僕たちはここで何をさせられるんです?」
居間だと思われる場所のソファに、どさりと座りながら杉田が言った。
局長を前にずいぶんな態度だったが、ここにはそれを気にするようなスタッフはいなかった。内谷は内心苦笑したが、彼もやはり問題さえ解決してくれるなら後はどうでもいいと考えるタイプだった。
「君たちが提出したレポートは読ませてもらったよ。ここでやるのはあのレポートにあった内容を相手に合わせて修正し、実際に実行できる計画にすることだな」
「じゃあ、相手は本当に居るんですね?!」
杉田は何を思ったのか、思わず立ち上がって、目をキラキラさせた。
「あ、ああ」
「もちろん女の子ですよね?」
「確かにそういう話はあるが……どこからそれを?」
「キターーーーーー!!」
杉田は前かがみになりながら、両腕を腹の横で力強く握りしめた。いわゆるガッツポーズと言うやつだ。
成宮は呆れたようにそれを見ながら内谷に向かって尋ねた。
「国家安全保障局傘下ってことは、安全保障主体でやるんですか?」
「いや、相手は国交がないどころか国として批准してすらいない何かだ。外務省が直接と言うわけにはいかないので、こちらにお鉢が回ってきたってところだな」
「それなら、まずは国交の樹立を?」
「本来の手順ならその通りだ」
それを聞いて、堅物の三井が首をかしげながら言った。
「国交の樹立を目指すなら、相手を国家として認めなければなりません。ですが、相手は国家としての資格要件を満たしているのですか?」
国家の資格要件は、一般的に、住民、領域、政府と、関係を結ぶための能力だ。
「あー、相手は国家の樹立を宣言したわけじゃない」
「まあそうでしょうね」
「だから、その辺は――はっきり言って、まったく分からん!」
「は?」
ダンジョンの向こう側に、明確な領域があって、そこに住む住民がいて、かつそれを統治している政府があるかどうかなんて、そんなことは分かるはずがない。
もしかしたら、孤高のマッドサイエンティストが、星の海を渡ってやって来ただけかもしれないのだ。
しかし、こんなプロジェクトが作られるからには、その辺のことははっきりしているのだと、三井は常識的に考えていた。
「ええっと……じゃあ、まずは相手が国家かどうか確認を?」
「違うよ、三井さん」
未だにソファの上で「異世界人の女の子〜♪」とブツブツ呟きながら、足をバタバタさせていた杉田が、がばっと体を起こして言った。
「この際、相手が国家要件を満たしているかどうかなんて、どうでもいいんですよ」
「ど、どうでもいい?」
三井は思わず口籠った。国交の樹立を目指すのに、相手が国家どうかどうでもいいってことはないだろう。
「良く分からないんだが、それは国家承認の創設的効果説を拡大して考えるってことか?」
現代の国家承認は、先の4条件を満たしているものは、それだけで国家であるという考え方が支配的だ。これを宣言的効果説と呼ぶ。
その4条件に加えて、他国による承認を必要とするという考え方が、創設的効果説だ。
三井は、その説を拡大して、言ってみれば「俺があんたを国家と認めるから、あんたは国家なの」という、まさにジャイアン理論を振りかざすのかと聞いたのだ。
「三井さん。相手は地球の上に居住していないし、そもそも惑星に住んでいるのかどうかも分からない、もしかしたら有機生命体ですらないかもしれない何かなんですよ?」
「あ、ああ」
「そんな相手に、地球の国家観を当てはめても仕方がないでしょう?」
「あ、ああ」
「だからこの国交は、ほぼ個人的なディールって観点でいいんですよ」
「つまり、独裁者を相手にした駆け引きってことか?」
「ぜーんぜん、違いますよ!」
独裁なんて概念があるのかどうかもわからない相手との交渉なのだ。最初は、目の前にいる交渉者そのものを相手にするしかないだろう。
国家との外交と言う観念から抜け出せない三井に、杉田は頭を振った。
内谷はそれをみて内心ほくそ笑んだ。
三井は外務の枠の中で考えることに慣れているし、実際、そういう常識論を提示してもらうという役割を期待して、このチームの一員に選ばれたのだ。
しかし、このままじゃカルチャーショックで潰れかねんな。
「待て待て。まずは相手が個人だろうと国家だろうと、話してみなけりゃ始まらんだろう?」
「そりゃそうですね。もちろん方法があるんですよね? そこから考えるなんてのは、オーバーハングしたオイルが流れるつるつるの壁に波紋でくっつけと言われているようなものですよ」
「その例えはさっぱり分からんが、方法はある」
そう言って内谷は、四人に1枚の書類を配った。
「読み終わったら回収するぞ」
その書類は、今までに分かっていることを列挙しただけのものだった。A4の用紙1枚に収まるほど、分かっていることは少なかった。
「それで、質問は?」
成宮は、その文書に目を通すと、額に汗を浮かべながら尋ねた。
「こ、交渉するには、まず『さまよえる館』を呼び出してそこに潜入しろってことですか?」
同様にそれを読んだ杉田は、思わず腰を浮かせて、力いっぱい主張した。
「無理無理無理無理、絶対無理。それは、自衛隊あたりの仕事でしょう。僕等じゃファン層だって無理ですよ。少なくとも僕には無理」
「あら、杉田さんなら彼女に会うためならたとえ火の中水の中って言い出すのかと思った」
「彼女が恋人だって言うならそうするけれど、今のところは他人だから」
「え。そういうポジションを狙うわけ?」
「そりゃ、狙うでしょう。こんなチャンス、二度とないよ?」
何を言っているんだと言わんばかりに主張する杉田を見ながら、内谷は、彼が書いたレポートを思い出した。
「そういえば、杉田君のレポートは非常に独善……あ、いや、独創的だったな」
「独創的?」
「一言で言えば、向こうの人間と恋仲になって情の部分で絡めとる作戦だが、そのフラグとやらを立てるための戦術が延々と書かれていたんだ。半分も理解できなかった」
「異邦の社会に溶け込むには現地で彼女を作れって、どこのスパイのテクニックですか」
呆れたような村越に、杉田は落ち着いて答えた。
「外交官だって似たようなものでしょう? 現地のパートナーを作るかどうかはともかく」
「1940年代じゃないんだから……」
「人間の本質なんか、ここ何千年、何にも変わっていませんよ。変わったのは文化と、そして時代に応じた倫理観くらいなものでしょう?」
そのやり取りを黙って聞いていた成宮が、杉田の後を引き取った。
「だから、効果的な手段も、本質的には何一つ変わっていない」
「その通り。はっきりと効果があると分かっている手段があっても、高邁な倫理観がそれを許しません。場合によっては、自分で手足を縛って相手の前に立っているようなものですよ」
「結果的に高い倫理観や民度をもった国民を抱えた民主主義国が、倫理のかけらもない国にいいようにされているわけだ」
「おい成宮!」
発言が過激になって来た彼を、三井が止めようとしたが、村越がさらに続けた。
「何しろわが国には、スパイ防止法すらありませんからね。外交的には、はっきり言って頭のいい七面鳥の群れみたいなものですよ。しかも大衆は世界が味方だと勘違いしている」
きゅっと首をひねられるのをただ待っているだけの存在ってことだ。
「ま、僕に日本の五分の一の人口と経済力、それに独裁者の絶対的な権力を貰えるなら、軍隊なんかいりません。武力も振るえないのに倫理馬鹿や足を引っ張り合うカスを排除できない国なんか、数年で属国にしてみせますよ」
「お前らな……」
杉田のあまりに過激な発言に、三井は思わず呆れていた。
こいつらは異質だ。なんでこいつらが集められたのか、三井は少しだけ理解できたような気がした。
「成宮さんや杉田さんが、鬱憤のたまった過激思想の持主だってことはよくわかりましたけど、実際、相手とはどうやってコンタクトを? 本当に『さまよえる館』を呼び出すんですか?」
もしもそうなら、ちょっとジムに通わなきゃと、村越が言って、皆を笑わせた。
「いや、実は対象とは間接的に連絡が取れるということだ」
「間接的?」
「日本ダンジョン協会周辺の誰かが仲介しているらしい」
「はぁ?」
成宮が、意味の分からない情報に、思わず声を上げた。
「待ってください。じゃ、日本ダンジョン協会が政府の代わりをしているってことですか? あの噂って本当だったのか?」
「あの噂?」
「少し前に北米局あたりで、世界ダンジョン協会が国家として独立を考えているんじゃないかなんて話が飛び交ってたんですよ」
「アメリカ側の考察か?」
「そんなところだと思います。もっとも当時は冗談めいた話で、誰も本気じゃなかったんですが……」
「じつは内調でもそんな話は出たことがある。ただし、日本ダンジョン協会はそれを明確に否定した」
「そりゃ当事者ですから。もし本当だとしても否定するでしょう」
成宮と内谷の話に、三井が割り込んだ。
「だが、今のところ日本ダンジョン協会には独立してもメリットがないだろう?」
「メリット?」
「国家の独立だろ? 本来なら民族でまとまろうとか、宗教でまとまろうとか、行ってみれば面倒で異質な何かの排除が目的になるわけだ。だがDAにはそれがないだろ?」
「独立なんかしなくても、現在の特殊な会社形態で十分独立しているようなものだってことか」
「ダンジョン内は世界ダンジョン協会管轄だ。今だって、税金を払って、国土を守ってもらっているようなものだしな」
「ひとつだけ動機が発生するタイミングがあるとしたら、各国が緊急避難的に作られた世界ダンジョン協会の解体をもくろんで、同様の機関を国家別に再構成することを考えたときでしょうね」
そう杉田がポツリと言った。
「組織は生き延びるための行動をするってやつ?」
「そうです」
「まあ待て。このさいDAの独立なんて、半分ヨタみたいな話はどうでもいいんだ。いや、本当になったらどうでもよくはないんだが――まあ、いまのところは、だな」
内谷がそう言って、彼らの話を元に戻した。
「日本ダンジョン協会が、デミウルゴスとやらとコンタクトをとれるってことは分かりました。じゃあ、このデミウルゴスの目的と言うのも?」
「日本ダンジョン協会からの情報だ」
「相手の目的が奉仕することで、見返りに求めているものは奉仕する対象? これって悪質な冗談じゃ……」
「ないらしいぞ」
「彼らの虚報って線は?」
「虚報にしたってこんな内容に、どんな意図があるっていうんだ? メリットがあるとは思えないな」
外務省組が、日本ダンジョン協会の意図を巡って、頭をひねっていた。
「我々が居丈高に出て交渉の失敗を望んでいるとか」
相手の希望が奉仕することだと言うのなら、どんどん奉仕させろってことになるだろう。それは客観的に見れば、要求しかしない愚か者の交渉にしか見えないはずだ。
「我々を失敗させて、日本ダンジョン協会にどんな利があるんだ?」
「交渉の窓口を独り占めにできる、とか?」
「ごく短期的にはそうだろうが、日本の失敗を踏まえて他国が介入してくるかもしれないし、それ以前に相手がへそを曲げてコンタクト自体を打ち切ったりしたら、その時日本ダンジョン協会は、もっと面倒な立場に立たされることになるぞ? 普通の発想ならありえないな」
「その短期間で、ダンジョンの技術を独り占めして、他国を制圧してしまおうと考えているのかもしれませんよ」
「希望的観測で、それを実行に移す奴はバカだな」
それまで黙って聞いていた杉田が、パンパンと手を打って注意を向けさせた。
「何を難しく考えているんですか、皆さん」
「考えても見てくださいよ、我々がやることは所詮外交なんですから、結局日本の国益が最大になるように立ち回れって事でしょう?」
「まあそうだ」
「つまり、相手からガンガンチートを引っ張り出して、日本がそれを利用できるようにするってことですよ。しかも、できるだけ相手には見返りを与えないようにしつつ」
「平たく言うとその通りだが、それだけ聞いていると、まるで詐欺師のようだぞ」
「詐欺師で結構。外交ってそういうものでしょ?」
「いや、相手との信頼関係とかあるだろう」
「それは仲良くなってからの話ですよ」
「それで? 杉田君はどうしようと?」
「相手の目的が奉仕だっていうのなら要求はし放題じゃないですか。しかも彼らが求めているのは奉仕する対象ですよ? つまり我々が渡すものは事実上何もないってことです。完璧な利害の一致ですよね?」
「奉仕する対象は、行ってみれば人類だろ? 見返りは人類全体だと言い換えたらどう思う?」
「そりゃ、ホラーですね。改造でもされてみます?」
「第一、全部相手からの一方的な情報だぞ。嘘がないとどうして言える?」
「嘘かどうかは、どうせ何をしたって分かりません。なら突っ走ってみるのが僕たちの役割でしょう? 何のためにわざわざ既存の省庁から切り離した組織が作られたと思ってるんです?」
杉田は周りの人間を見回して宣言した。
「要するに、ここは実験場なんですよ。失敗したときに切り離せるようにした」
「いや、分かっていてもはっきり言うなよ」
成宮は苦笑しながら頭をかいた。
「だけど本当のことでしょう? それで、この相手ですが、手段は選ばなくてもいいんですよね?」
「ふむ」
「内谷局長!」
「まあまあ、三井君。杉田君。最初の政策立案に手段など何も選ぶ必要はない。自由にやってくれたまえ」
杉田には指をパチンとならすと、「さすが長官、話が分かる」と喜んだ。
「もちろんその政策をそのまま実行するって事じゃないぞ?」
「そりゃわかってますよ。相手国に病気の人間を送り込んで、あらゆる場所で人に接触させ、ウィルス感染で敵国の経済を壊滅させるのが、コスト的に最善だなんて政策を提言しても、普通はそれが実行されるはずがない」
「分かっていればいいんだ」
「しかしまあ、ダンジョンの技術を見る限り、手段は選べないって気がしますけどね」
そんな杉田を見ながら、村越は、こんな黒い男に惚れる異世界の女性なんかいるのかしらと、不思議に思っていた。
普通女性をものにしたいなら、そういう態度には――
「なんです?」
村越の視線に気が付いた杉田は、その意図を探った。村越は適当にごまかした。
「あ、いえ。仮にコンタクトが成立したとして、その後はどんな方向で進めていくのかなと思いまして」
「方向?」
「経済外交の側面ですと、我々はダンジョンからいろいろなものを得ていますが、ダンジョンに対して何かを渡している訳ではありません。事実上、何らかの貿易協定を結ぶなんてことは、現時点では不可能ですよね」
相手側と交渉し貿易協定などを結ぶことで自国の利益を確保することや、自国に有利なルールの策定が、経済外交の主な役割だ。
「ああ、村越さんは経産省だっけ」
「はい」
「渡しているのは、探索者の命くらいですよ。地下の何かに誰かの魂をささげて利益を得るなんて、まるで悪魔か何かですよね」
杉田が面白そうに言った。不謹慎な男だと、三井は感じた。
「経済活動も文化活動もなんにもない。交流として存在しているのは、ダンジョンを探索する探索者だけ」
「首脳外交は論外だし、人材交流も無理。ああ、やんぬるかな」
「ま、そこを考えるのが君達ってことだ」
そう言って内谷は、カバンのなかから一台のノートパソコンを取り出した。
「実は、外務省を通して真正面から国交を結ぼうとしたりするなと、我々に忠告したのは日本ダンジョン協会の一課長なんだ」
内谷がそう言うと、杉田がすぐに相槌を打った。
「そりゃ、分かってる」
「それって、異界言語理解のときの?」
「成宮君は知っているのか?」
「あの時の日本の手並みは鮮やかでしたからね。あの絵図面を最初に引いたのが日本ダンジョン協会の課長だったって話は聞いています」
「つまらん競争心は持ち込まない方がいいぞ」
「それほどですか?」
歴史はときに、突如一人の人物の中に自らを凝縮し、世界はその後、この人の指し示した方向に向かうという、ブルクハルトの言葉が、成宮の頭をよぎった。
「いや……なんというか、私の雑感だが」
「なんです?」
「そもそも最初から立場が違うから、競いようがないというか……」
「意味がよく分かりませんが」
「内調の話では、なるべく穏便に楽したい性格だと言うことだ」
「んー、実に気が合いそうだ。ぜひ友達になりたいな」と杉田が言うと、村越が、「あなたのどこが穏便なのよ」と突っ込んだ。
「いや、楽したいってところが、ビンビン響きません?」
「まあ、響くかどうかはともかくとして、友達になれるなら、ぜひなっておいてくれたまえ」
「そういう態度だと、スパイだと思われませんか?」
「そういうのを表面上は気にしないタイプらしい」
「表面上は?」
「日本ダンジョン協会内の情報が、異界言語理解の少し前から、まったく得られなくなったそうだ」
「それは情報調査室あたりの話ですか?」
内谷は直接答えず、小さく肩をすくめた。
「そいつはすごい。外務省に引き抜けませんかね?」と三井。
「おいおい。引き抜くなら、ここへ、だろ。だが、たぶん無理だな」
「どうしてです?」
「内調と自衛隊の上の方とその男の三人で、秘密の会合が行われたときに、内調が引き抜きを掛けたらあっさり断られたそうだ。今の自分を気に入ってるからヤダとさ」
それを聞いた杉田は、ますます嬉しそうに言った。
「くー、フリーダムで、ますます気に入りました!」
「あなた、まさかBLってやつじゃないでしょうね?」
あまりに喜んでいる杉田に向かって、ちろりと冷たい視線を向けた村越が言った。
「おや、村越さん、そういうのを嗜まれるんですか?」
「ななな、なに言ってんの。読むわけないでしょ!」
「ほほー」
まるでじゃれているような二人を尻目に、成宮が、内谷に訊いた。
「その情報はどこから?」
「一緒にいた、自衛隊経由だ」
「なら、間違いなさそうですね」
「というわけでな、その男から預かったのがこれだ」
そう言って、ノートを四人の前に置いた。
「そいつで話ができるそうだぞ」
「なんですって?」
成宮が代表して、ノートのふたを開いて電源を入れると、やがて、ひとつのアプリケーションが立ち上がり、非常にシンプルな掲示板のような画面が表示された。
「なんだこれ? ダンツクちゃん質問箱(えらいひと用)?」
「ダンツクちゃんってなんです?」
「どうやら、先の資料にあったデミウルゴスのことらしい」
「いやー、萌え文化ですね! ジャパンはこうでなくっちゃ」
「これ、盗聴対策は大丈夫なんでしょうか?」
「うちの連中が、プロトコルの脆弱性については調べたらしいが、特に問題はないそうだ。向こうのサーバー内の話については、わからんが――まさか調査させろと言う訳にもいかんだろう」
「ここに何かを書き込めば、向こうに伝ってレスポンスを得られるってことですか?」
「そういうわけだ」
「こりゃ、相手はなりすまし放題だな」
「三井さんは考え過ぎなんですよ。さて、まずは、挨拶と――」
四人がそれぞれに、どういったやり取りで、どんな情報を引き出すのかを議論しているのを見た内谷は、説明はここまでだなと腰を上げた。
「それじゃあ後は頼んだぞ」
立ち上がった内谷に向かって杉田が発言した。
「国交を樹立するまでがこのチームの目的で、その後は外務省にバトンタッチするのかと思ってましたが、どうやら最後までやらせてもらえるようだ」
それを聞いた内谷は、杉田のセリフをもじって、口角を上げた。
「ほぼ個人的なディールに、外務省は不似合いだろう?」
そりゃそうですねと、杉田は頭をかいた。
200 ファースト "indirect" コンタクト
え? 更新時間が違う?
まあ、今日くらいはね。詳細は後書きをどうぞ。
「課長!」
先日まで、大学受験対策にセーフエリア問題が重なって半分ゾンビになっていた坂井が、そこから大分復活した様子で弾んだ声を斎賀にかけた。
斎賀はその様子を見て、もうすぐ転移石プロジェクトに巻き込まれてまたゾンビ化する彼を想像すると、まあ、時期課長はきっとお前だから許せと、心の中で手を合わせた。
「ん? どうした」
「3三層が見つかったそうです!」
その報告に、ダンジョン管理課内がどよめいた。
最深部の更新が滞った時期は今までにもあったが、フロアマップが作られた後、探し続けているのにも関わらず一ヶ月以上それが見つからなかったのは初めての出来事だったのだ。
もしかしたら代々木は全三十二層なのではないかという憶測がまことしやかに語られて、じゃあボスはどこにいるんだという意見に、セーフエリアがある特別なフロアだからボスはいないのではないかと言う話まで飛び出していた。
「発見者は?」
「チームIが――」
坂井はそこで少し躊躇するように言いよどみ、報告をメモした紙に目をやった。
「なんだ?」
「――チームIが、その、なんといいますか……オレンジ色の小鳥に導かれて入り口を見つけたそうです」
オレンジ色の小鳥だと? 斎賀は、坂井が言葉に詰まった訳を理解した。
モンスターじゃない小鳥が、ダンジョン内にいるなんて話は、いままでなかったからだ。
「モンスターじゃない、小鳥がダンジョン内で見つかった事例は――」
「ありません」
「うーん……」
しかし、二十一層では、スチールヘッドだと思われる魚が見つかっている。だから、モンスターじゃない動物が、ダンジョン内にいてもおかしくはないが……
斎賀は、オレンジ色の小鳥に心当たりがあったのだ。
「……まあ、よかったな」
「そうですね!」
そう言って、自分の席へと戻る坂井を目で追いかけながら、斎賀は自分のパソコンを操作して、入ダンリストを呼び出した。
「だろうな」
そこで、Dパワーズの連中が何日か前に入ダンしていることを確認して呟くと、携帯を取り出して、美晴の番号をタップした。
以前、Dパワーズの事務所に住み着いたコマツグミの話を聞いたからだ。
「はい、鳴瀬です」
「あ、斎賀だ。今、大丈夫か?」
「課長? はい、大丈夫ですが。どうしました?」
「いや、今Dパワーズの連中が入ダンしてるだろ?」
「はい」
「それでな、以前聞いたコマツグミって、今、連中の事務所に居るのか?」
「え? いえ、確か今回は一緒に連れて行ったみたいですよ」
「小鳥をか?」
「ええまあ。って、そう言われると変な感じですよね。それが何か?」
「いや、邪魔して悪かったな。で、お前は、何をやってるんだ?」
「――あー、例の彼女の……話し相手ですかね? これって業務……ですよね?」
例の彼女が、ダンツクちゃんのことなら、それは立派なダンジョン管理課の業務と言えるだろう。
しかも――
「世界の命運がかかってるんじゃ仕方がないよな」
「かちょお〜」
「詳細は、後でちゃんと報告しろよ」
「分かりました」
電話を切った斎賀は、やっぱり連中の差し金だったかと、携帯をポケットにしまった。
しかし、連中が直接見つければいいだろうに、なぜわざわざチームIに花を持たせたのだろう。
「課長!」
再び坂井が、斎賀の部屋の入り口をノックして顔をのぞき込ませた。
「なんだ? まだ何かあるのか?」
「い、いえ、今しがた下の連中から連絡があったんですけど……」
「なんて?」
「ダンジョン攻略局の区画に、いきなり基地ができたそうです」
「基地?」
「はぁ、それが5000kVA級のガスタービン発電機まで備わっているそうで、燃料を何とかしてくれるなら、しばらくは配電しても良いとか……」
「突然か?」
「先日までは何もなかったそうです」
おそらく、先月真壁常務が仰っていた、横田のアレだろう。
そりゃ、犯人は連中しかいないな。丁度インしているようだし。
「さすがに、先を越されたか」
うちもコンテナの準備は進めているが、いかんせん支払いがなぁ。
一月ほど前に鳴瀬から聞いた話じゃ、アメリカの大使が直接ワインを届けに来たそうだ。なんでもハンドラー大統領の私物で、マニアックなボトルだったらしい。
「日本ダンジョン協会にそんな趣味の人がいたかな」
「は?」
「いや、なんでもない。電力を借りたいのはやまやまだが、燃料ってなんだ? 流石に液化天然ガスは無理だろう?」
「今どきのガスタービン発電機なら、A重油や灯油、後は軽油でしょうか」
「どれも重いな」
「そりゃまあ、液体ですからねぇ」
燃料専用のポーターが必要だが、体積はどうにもならん。大キャラバンが――
「いや、待てよ……」
「え?」
「あ、ああ、すまん。なんでもない。燃料はどうにかできるかもしれないから、配電の話、進めておいてくれるか」
「え? ええまあ、それは構いませんが……」
坂井は、どうするつもりなのだろうと、首をかしげながら斎賀の部屋を後にした。
、、、、、、、、、
その日、俺たちの許へと戻ってきたロザリオに、3三層のへの扉を見つけたことを聞いた俺たちは、これ以上ここに留まることもないかと、転移石で一層へと戻った。
「今更ですけど、これって楽ですね」
「まったくだ。これに慣れたら、歩いて帰るなんて絶対無理だよな。ダメな人間になりそうだ」
「それは、大丈夫ですよ!」
「え? やっぱり、俺って自制できてるから?」
「もう手遅れですから」
「いや、何言っちゃってんの、キミ」
ロザリオを待っている間に、向こうへの転移石も大量に作れたし、これを引き渡せば日本ダンジョン協会での公開もすぐだろう。
その時世界にどんなインパクトを与えるのか、怖いような、楽しみなような……
「転移石の数は揃ったが、代わりに魔結晶の在庫はやや心もとなくなってきたな」
「ちゃんと用意しておかないとアルスルズが拗ねますからね」
「また十層でスケルトン狩りかなぁ……」
「そうだ、あの墳墓っぽいところも調べてみないと」
ああ、あの無駄にアンデッドが詰まっていた谷間か。
「しかし、転移石事業が始まるんなら、魔結晶の取得は他の探索者に任せたいところだよな」
「転移石の製法に魔結晶が必要だってばれますよ?」
「製法か……」
今のところは、素材は全部手持ちのものだから、はっきり言って丸儲けだが、今後は経済を回す観点からも、いずれは市場から材料を調達するべきだろう。
「ついでに祈りの技術が確立すれば、すべてが俺の手を離れて万々歳なんだけどな」
「祈りの技術は、確立したら確立したで、また別の問題が出てきますからねぇ……」
「うっ、まあな」
ダンジョンの中とは言え、誰でもどこにでも転移できるようになる時代か――そうしていずれは、自由にものが作り出せるかもしれない時代。
そう言うことが想定されていない従来のルールでは、上手く管理できなくなることは確実だ。
「ルール作りは、俺達じゃどうにもならないからな」
「だけど、信じがたい未来を提示したとき、それを信じてルールを先に作ろうなんて人は、ほとんどいませんよ」
そうしてリアルに実行して見せると、先に実用化したがるわけだ。
「まあ、携帯なんかは、とりあえずやってみて、ルールは後付けで作って行ったところもあるじゃないか。あれと同じで最終的には上手くいくようになるさ」
「人類に与えるインパクトの大きさが、ちょっと違う気もしますが……まあ、人間はバカじゃないって信じましょう!」
「投げたな」
「ヒドっ! それは先輩じゃないですか」
だが実際俺たちに法律やルールが作れるはずがない。仮に作ったところで誰が言うことを聞くと言うのか。
「餅は餅屋だよ」
「適当にかっこいいことを言ってもダメですー」
そう言って、笑いながら三好が事務所のドアを開けた。
「あ、お帰りなさい」
モニターの前で難しい顔をして腕を組んでいた鳴瀬さんが、ドアの開く音を聞きつけたのか、立ち上がって出迎えてくれた。
なにか相談したいことがありそうな様子だ。
「ただいま。ダンツクちゃんとのやりとりで、何かありましたか?」
「いえ、一般の方は特に」
そう言って、タブレットを手にした彼女は、レポートを見ながら要点を説明してくれた。
「公開から、2週間ほど経ったわけですけど、なんというか、一種の娯楽として定着してきた感じですね」
「娯楽?」
「はい」
自分たちの話している相手が本物かどうかは分からないが、まるで本物のようなリアクションが返ってくるこのサイトは、一種のAI相手の会話サイトのような様相を呈しているそうだ。
もちろん仮にAIだとしても、相手はダンツクちゃんだ。地球の文化的な話なども積極的に行われ、なかなか鋭い質問もあるらしい。
鳴瀬さんが、あまりに下らないものをモデレートしているせいで、そういうものにはリアクションがないというのも、まともな話の展開に繋がっているようだ。
鳴瀬さんは、ダンツクちゃんが一般人にから学んだと思われる、地球の体制や文化についての報告もまとめてくれていた。
やりとりを見る限り、この期間で、ダンツクちゃんは地球の体制や文化について、それなりに学んでいるようだった。
「あまりに生臭くて複雑な宗教や民族の問題は、今のところ、お茶を濁してあります」
まあ、過激な宗教がどうのだの、テロがどうのだの、特定の場所を取り合って争っていることがどうのだの言われても、簡単には理解することはできないだろう。
歴史を知っている俺たちですら、無関係な立場から見ればバカみたいに見えるのだ。もちろん頭では理解しているからそんなことは言わないが。
さらに、もし「宗教」なんて概念の存在しない社会だったりしたら、やっていることは不合理極まりないただの殺し合いだ。理解してもらえるはずがない。
それどころか、誤った認識を生む可能性すらあるのだ。お互いに殺し合うことを娯楽にしている生命体だなんて認識されて、それを助長するようなサービスが提供されたりしたら大事だ。
この辺の事情は、トップ同士の会談で問題になったりすることはほぼないだろうが、一般人相手の接触の場合は、がぜんクローズアップされてくる。
「でもなんだか反応が変なんですよね」
「変?」
鳴瀬さんが言うには、こちら側が、言ってみればピラミッド型の社会組織の場合、交渉はトップへの接触が基本になるはずだ。
だが、ダンツクちゃんは、そういうものにあまり興味を示さないそうだ。
「なんと言うか……まるですべての人間に平等にリーチしようとしているような感じです」
「そりゃ、実に侵略っぽい」
「なんです、それ?」
「どんなストーリーでも、インベーダーってやつは、大抵住民に直接接触して成り代わったり洗脳したりしながら、社会を汚染していくんですよ」
「まさか」
鳴瀬さんは笑ったが、実際ダンジョンの影響力の拡散は、静かな侵略と言えなくもない。
アメリカで起こった過剰な反応は、移民問題が絡んでいたためうやむやにされたが、社会的にダンジョン派と反ダンジョン派が生まれ始めているのは事実らしい。
「一般の方はってことは、他になにか?」
「とうとうこちらにアクセスがあったんですよ」
そう言って彼女が見せてくれたのは、『えらいひと用』のサイトだった。そこに最初のメッセージが書き込まれたそうだ。
「これ、本当に、何もしなくていいんですか?」
俺はそこに書かれた挨拶や質問の羅列を見せられながら、鳴瀬さんにそう聞かれた。
それは実によく考えられている質問のように見えた。少なくとも、ダンツクちゃんに渡して困るような情報は含まれていない。
日本に都合の良い常識を植え付けようとするような文章があればカットするつもりだったが、そういうものも見当たらなかった。
「さすがだよなぁ」
「芳村さん?」
「あ、いや。もちろんですよ。日本の官僚は世界トップレベルの頭脳が集まってるって言うじゃないですか。ヒントは渡してあるんだし、あとは彼らの仕事でしょう?」
俺は慌てて、鳴瀬さんにそう答えた。
彼女は、額に手を当ててふうとため息を吐くと、仕方なさそうに笑って言った。
「以前、特定の国家に丸投げしてしまうと、都合の良い常識を植え付けられて危険だとか言ってませんでしたか?」
「転移石が公になる以上、コンタクトの事実は隠しづらいですし、それにフランスあたりは感づいていると思いますよ」
「ヴィクトールさんたちの件で?」
以前フランスのなんとかいう中佐が、俺たちを尋ねて来たと鳴瀬さんに聞いた。
丁度、ダンジョンに潜っていたため顔を合わせることはなかったが、ちょっと聞いた感じでは面倒くさそうなタイプだった。できればお会いしたくない相手だ。
「そうです。あの後すぐに携帯が使えるようになったりしましたし……避けられないなら、せめて他国の干渉は日本に任せちゃった方が日本ダンジョン協会も楽でしょう?」
「それはそうですが……」
三好がくすくす笑いながら、俺たちの飲み物をダイニングから持ってきて、目の前のテーブルの上に置いた。
「先輩、自分で考えるのが面倒くさくなったんでしょう?」
「いや、お前、考えてもみろよ。異世界人だか宇宙人だかしらないけどな、そういう得体のしれないものと日本はおろか世界の命運をかけて渡り合うとか、俺にできるわけないだろ」
「意外とできそうな気もするんですけど」
「馬鹿言え。俺たちの肩に日本や世界の命運みたいなものが乗っかるなんて絶対間違ってるからな」
「先輩って、全然英雄志向とかないですよね」
「そりゃ、ちやほやされたいって言う欲求がないかと言えばあるだろうけどさ、英雄は変態のやるお仕事だから」
世界の命運を背負って、個人で何かと闘うなんて、頭がいかれているとしか思えない。
助けられることが日常になると、人間ってやつは増長するのだ。助けられて当然で、失敗したらなじられるとか、マゾかよ。
「だから、こういうのは、等しく分けて背負うことが前提の公務員さんにお任せするのが一番なんだよ」
「国家公務員は60万人くらいいますからね、三人と比べれば、重さは二十万分の一ですよ」
「だろ?」
そして最後のところは、鳴瀬さんが握っているのだ。明らかに問題があるものはそこでモデレートされるだろう。
「それって、私が恣意的に振る舞ったらどうするんです?」
実はそれはありうる話だ。例えば彼女の家族が人質に取られて、なんてことも絶対にないとは言えない。
もっとも、彼女がここで、こんな重要な案件に関わっているなんて知っているのは、俺たち以外では、あの斎賀とかいう四角い課長くらいだから、まだまだ大丈夫だとは思うのだが……
「一応考えてはみたんですが――」
そう、考えてはみたことはあるのだ。
鳴瀬さんは興味深そうに、言いよどむ俺を見つめた。
「――どうにもならなかったので、そうなったら諦めます」
人生ってのは諦めが肝心だ。どんなに工夫しようとも、できないことはできないのだ。
「先輩は、やれるだけやったら、あとはケセラセラだとか思ってそうですもんね」
「やれるだけやるってところが、実に立派じゃないか」
鳴瀬さんは、三好に礼を言ってカップを取り上げた。
「じゃあ、一般に比べて緩めに見ておきます、強いバイアスがかかった時だけご相談しますね」
「よろしくお願いします」
しかし、いつまでもこんな体制を続けられるわけはない、いつかはこのモデレートも終わりにしなければならないだろう。
ダンツクちゃんには、さっさと常識を学んでほしいものだ。
「それで、今回なにか気になる部分が?」
俺の言葉に彼女は躊躇なくその部分を指さした。
そこにあったのは一方的な宣言だ。
『乙は、甲が乙の国民に奉仕する準備をすることを認める』
乙は日本国で、甲はダンツクちゃんだ。しかも奉仕することを認めるじゃなくて、奉仕する準備を認めると来たもんだ。
それを見た三好が、鼻にしわを寄せると、胡散臭そうに言った。
「のっけから日本の代表みたいなことを言ってますけど、そんな権限のある組織なんですかね、この人たち」
「どうかな。そんな組織が一朝一夕に立ち上がるような国じゃないと思うけどな。ま、だから『準備を』なんだろ」
相手が準備をすることを認めることに意味なんかない。何も言わなくても勝手にするだろうし、認めようが認めまいが、そこに大きな違いはないのだ。
なにかがあるとしたら、『奉仕を認める前段階を認めたのだから、奉仕も認めるに違いない』と言う勘違いを誘発する、まさに『消防のほうから来ました』方式と大差ない詐欺のような手口だ。
「いきなり奉仕は認められないってことですか?」
「奉仕と言っても、お互いに同じ概念で話をしているとは限らないからな。奉仕ってなに? と聞いたところで、茫洋すぎてまともな返事が返ってくるはずないし」
いきなり奉仕を認めたら、奉仕が何かによっては大混乱を引き起こすかもしれない。かといって、奉仕とは何かを詰め始めたら、範囲が広すぎてまとまらないはずだ。
しかし、自分たちが望むことだけさせようとすると要求だけになってしまって、交渉の切り込みとしては最悪だし、そもそもダンツクちゃんたちに何ができるのかもわからないのでは望みもうかつには言えない。
そんな気分が『奉仕する準備をすることを認める』となったのだろう。準備が体験できれば、どんな奉仕なのかも想像できるだろうという目論見もあるに違いない。
「何も要求してないけれど、相手の奉仕が何かが見極められたらいいなってことだろ。ともあれ、普通の日本的な交渉とは大分違うよな」
「本当に認めちゃって大丈夫なんですかね?」
「うーん……。ま、準備だけだしな。それにこいつをモデレートしたら、それがばれたとき日本ダンジョン協会の不当干渉だって言われそうだぞ?」
「認めただけじゃ、日本に都合のいい情報を常識として植え付けるってわけでもありませんしねぇ……」
三好はそれが、なんとなく気持ち悪そうだった。
鳴瀬さんは、これが国家とダンジョンの初めての意思のやりとりだから、こちらもなんとなく慎重になっていたのだろう。
俺は、それの取捨に踏み込むことが、イコール、ダンジョンと日本の間に入ることになるため躊躇していた。
だが、ここまでダンジョンは、はっきり迂遠だと思えるやり方で、その影響力を人類に行使してきたのだ。
ここに来て相手が、そんなことをしなくていいよと言ったらどうなるのか、俺たちがその結果を目の当たりにするのは、わずか数日後《あと》のことだった。
201 SOS 3月21日 (木曜日)
「これは何かの冗談か?」
提出された文章を読んだハンドラー大統領は、オーバルオフィスの大きな机に肘をついて頭を抱えていた。
「残念ながら」
その文書を持ってきた補佐官の一人が、遺憾な表情を作りながら短くそう答えた。
それは、ダンジョン攻略局から提出された、モニカが新たに日本で発見された碑文を翻訳した文書だった。問題はそこに書かれていた内容だ。
「魔結晶から電力が取り出せる?」
「実際の影響は、こちらにまとめてあります」
今どき石油で電力を作り出すなんてことをやっている発電所はほぼない。世界規模で見ても全電力生産の3%ほどだし、アメリカに限定すれば1%にも満たないのだ。
だが、天然ガスは別だ。アメリカは3割を超える電力が天然ガスから生産されている。エネルギー産業もこの影響から逃れられないだろう。
そうしてさらに大きな問題は原子力だ。
「原子力発電への風当たりが、さらに強まりそうだな……」
「どんなに優れた発電効率を持っていたとしても、実際に現在の発電設備をリプレースするようなことはできないと専門家は言っています」
「そりゃそうだろう、規模が違うからな。だが、問題は世論だ」
どんなに権力がある役職でも、民主主義は国民と向き合わなければ成立しない。
世論の大部分が右を向けと言うなら、それを説得するか、そうでなければ右を向かなければならないのだ。
もしも、ほぼ完ぺきなクリーン発電が可能になるとしたら、環境団体やマスコミはこぞってそれを推進しようとするだろう。そうしてそれは正義なのだ。
正義にひれ伏さない人間は、社会的なリンチを覚悟する必要がある。そうして喜々としてそんなことをする連中は、大抵聞く耳を持っていない。自らに被害が及ぶまで説得は難しいのだ。
いつか我が国はこれで痛い目にあうかもしれないなと、ハンドラー大統領は眉をしかめた。
「社会の雰囲気によるエネルギー産業への影響もさることながら、問題は、バッテリー産業です」
「テスラか?」
「ネバダにギガファクトリーがあります」
「あれはパナソニックとの協業だろう?」
それにネバダはパープルに分類されているとは言え、ここのところは、ほとんどブルーだ。そう言えば、旗も青い。
「自家製に切り替えるなんて話もあったが、あれはまだ未着手だと聞いた。もっとも、これがオープンになれば、日本・中国・韓国は大騒ぎだろうな」
この情報が明らかになった場合の、LIBメーカーに与えるインパクトは小さくない。
ことに生産拡大に注力した中国は、ただでさえ技術革新の速度が遅れると懸念されている。いきなり全く新しい技術に切り替えるには、投資された金額が大きすぎるのだ。
「我が国だと、ちょうど一昨日、ジョージアのコマースでSKイノベーションが起工式をやったばかりですよ。これが発表された場合、もしかしたら建設を中止するかもしれません」
「そりゃまずいな。クリントンの時に寝返られたとはいえ、今じゃ立派なレッドステートだぞ」
この起工式には、商務長官のウィルバー=ロスや、ジョージア州知事のブライアン=ケンプが出席し大々的に行われた。
ケンプのスピーチでは、ジョージア州では最大規模の投資だと持ち上げたらしい。
「しかし、公開しないわけにはいかないだろう」
「仮に我々がごまかしたとしても、ロシアにはいずれバレますし、必ずそれを使って攻撃してくるでしょう。仮に奇跡的に手が組めたとしても――」
「ヘブンリークスがあるからな」
ハンドラーは忌々し気にそう呟いたが、内心は、どこのどいつが思いついたのかは知らないが、うまく三すくみを利用した優れた安全保障システムだと考えていた。
なお、ヒブンリークスはあくまでも駄洒落だ。英語の綴りだと heaven leaks なのだ。
「唯一の希望は、この設備の難解さだな」
そこに書かれていた設備は、なんとも珍妙なものだった。
「それは、錬金術の道具だそうです」
「錬金術? フラメルとかホーエンハイムとかの、あの錬金術か?」
補佐官はその言葉にうなずくと、言葉を継いだ。
「もっとも、炉は使用するのに、石炭での加熱工程がないなど、意味が分からないそうですが」
「加熱して電気を取り出すなら、普通の火力発電で十分だしな」
ともかく細かいことは研究者連中に任せるしかないだろう。スタッフに錬金術の専門家がいるのかどうかは知らないが。
「公開はどうしますか?」
ハンドラー大統領はその言葉に少しだけ躊躇した後、椅子に深く座りなおして言った。
「二日後の朝、各国へ配信する」
「二日後ですか?」
「そうだ。今のうちに将来足りなくなりそうなものに備えておくのはいいが、他者への配慮も忘れないように。あとで後ろ指をさされたりしないよう気を付けたまえ」
その言葉に、納得したように頷いた補佐官は、「承知しました」と頭を下げて、部屋を出て行った。
過去の経験から、ヘブンリークスの連中が新規の碑文を翻訳するのは、それがある程度各国のデータベースに拡散するか、アクセスを辿るのが大変なくらい増えてからだ。データベースのアクセス記録から辿られるのを恐れているのだろう。
つまりはあと二日くらいの猶予ならあるはずだ。ロシアはロシアで同じような決断を下していることだろう。
ハンドラー大統領は静かに目を閉じて、そう自らに言い訳した。
、、、、、、、、、
あれ? ここは?
黒い背景に、白い線が引かれているそこは、以前、俺の頭の中の三好と一緒に来たワイヤーフレームの世界だった。
つまりこれは夢に違いない。
「やっと来たー!」
「は? ダンツクちゃん?」
そこには先日夢の中の酒場にいた、エプロン姿の美少女がいた。十二歳くらいなんだから幼女はないよな。俺、そんな性癖はないはずだし。
NPCのふりをしたりして、何者かよくわからない子供だったが、たぶんダンツクちゃんが遊びに来たんだろうと、あれからそう考えていた。
「は? ダンツクちゃん?」
同じセリフを繰り返した少女は、あんた何言ってるのとばかりに、眉をひそめた。
「え?」
「え?」
俺たちは顔を見合わせながら、それぞれ相手が何を言っているのか意味が分からなかった。
「ま、まあ、そんなことはどうでもいいの。時間がないんだから」
「時間がないって?」
「いい、あなたはすぐに私を助けに来なさい」
「なんだこれ? 何かのゲームのイントロか?」
「いや、もうゲームはいいから。あんたのせいで、私、大変な目にあってるんだからね!」
「うーん。訳が分からん」
巻き込まれ型のストーリーなのだろうか。
良くある物語の導入だが、いくらなんでも説明が足りなすぎるだろう。
「いい? ちゃんと助けてくれたら、あなたたちに重要な情報を教えるから」
「重要な情報?」
「はっきり言って、あなたたち、ピンチなんだからね」
「ピンチ」
もはや訳が分からな過ぎて、俺はすっかりオウムになっていた。
「とにかく魔結晶も、もうほとんどないんだから、これからいうことを忘れないで」
「魔結晶?」
「いいから!」
「あ、ああ」
そうして彼女は、いくつかの固有名詞と説明を俺に残し、今すぐ起きて内容をメモしてと強調した。
「ああ、もう時間が! いい、夢は起きてしばらくたったら忘れちゃうんだから、すぐにメモしてよ! すぐによ?!」
、、、、、、、、、
「なあ三好」
「なんです?」
「フランスでCOSってなんだ? 余弦か?」
俺は手の中にある、自分が書いたと思われるメモを見ながらそう訊いた。
その最後には、『COSの中佐が嗅ぎまわってる。それより先に! 絶対先に来ること!』とあった。
「余弦はフランスじゃなくてもCOSですよ。聞いた感じだと、ファッションかコスメ関係って気もしますけど……」
「コスメの中佐ってなんだよ……」
三好が手早く検索している。便利な世の中になったものだ。
「あー……ロンドンのファッションブランド?」
「それのどこがフランスなんだ」
「うーん……あ、中佐って言うからには、これじゃないですかね」
三好がそう言って、タブレットを渡してくれた。
「コモーッデモン デソペラシオン スペシアラ?」
「特殊作戦司令部だそうですよ」
フランス4軍の特殊部隊を統合してできた機関で、フランスのダンジョン攻略部隊はこの旗下にあるらしい。
さすがゴーグル様。なんでも教えてくれるな。
「で、先輩、それがどうしたんです? まーた、厄介ごと?」
「いや、それがな……」
俺は三好に夢の中で発信されたSOSのことを話して、寝起きにメモした紙を差し出した。
彼女はそのメモを受け取ると、内容に目を通した。
「ビヤントゥ、エイデモワってなんです?」
「たぶん、bientot, aidez-moi! じゃないかと思うんだが……『すぐ助けに来て』かな」
「なんでカタカナなんです?」
「目覚めてすぐ書き取ったから、彼女が言った音をメモするのが精いっぱい」
俺は手を広げて万歳のポーズを取りながらそう言った。
フランス語っぽいなと思ったのも後付けだ。
「じゃあ、彼女ってフランス人なんです? イザベラってイタリアっぽいですけど」
「イザベラはヨーロッパ中にいるよ。だけど、夢の中じゃ日本語話しているようにしか思えなかったからなぁ。消えるときに呪文を唱えたと思ったらフランス語だった、が俺の認識だ」
三好は、ふーむと唸りながら、難しい顔をしてそのメモをもう一度見直した。
「以前は確かに、科学者の直感は侮れないって言いましたけど――」
そうして、メモから顔を上げると、それをひらひらと振った。
「――今度のは転移石の時とは訳が違いますよ?」
それはそうだ。
科学者の直感だの、知見がどうのだの言う以前に、そこには具体的な住所が書かれているのだ。直観とか思い付きとか言うレベルの話ではない。
「他人の部屋に侵入して、その理由が夢のお告げがあったから? 警察が認めてくれると思います?」
まあ確かにその通りだ。
しかもこの住所、マップで調べた限りではホテルなどではなく、個人の家のようだった。
「それに、このデヴィッドさんって……」
「心当たりが?」
「先輩。アルトゥム・フォラミニスに在籍しているデヴィッドって名前で、よく知られている人は、一人しかいません」
「実在するのか?」
「教団の代表ですよ」
マジかよ。デヴィッドなんてありふれた名前、どこにでもいるかと思ったが、よりにもよって代表とは。
「その代表が、女性を監禁している? しかも、彼女が夢の中で先輩に助けを求めた?」
三好に突っ込まれれば突っ込まれるほど、バカなことを言っている気がしてきた。確かに彼女の言うとおりだからだ。
「何をバカな、と言いたいところですけど……」
「ん?」
「振り返ってみれば、この半年でバカなと思えるようなことを、散々やらかしてきましたからね」
「じゃあ」
「ちょっと、グラスに頼んで探らせてみましょう」
ああなるほど、そういう手があったが、つい自分で突撃しなけりゃいけない気分になっていた。
「だが相手はグラスのことを知らないし、グラスも相手がイザベラとかいう女かどうか分からないぞ?」
アヌビスならしゃべるが、アヌビスを借りて来たとしても、まさか目の前でしゃべらせるわけにもいかないだろう。
意思の相互疎通が可能なモンスター? そりゃ引く手あまただろう、各種の実験施設から。
彼らを人類の生贄にするわけにはいかないくらいには、すでに近しい存在になっている。
「スワップするわけじゃないですから、繋がってるスマホでも持たせますか?」
「直接送ってもらうのは?」
「第3者に見つかった時に、言い訳できるならそれでもいいですよ」
「スマホにしよう」
この住所ならすぐそこだ。というか、斜め向かいじゃないか?
「木曜日だが、グレイサットと入れ替わるまでには――まだ時間があるか」
俺は部屋の時計を見上げながら言った。ブートキャンプの終了は、早くても3時だろう。
「じゃあ、グラス。この家で女の人を探してくれる? 誰にも見つからないように」
「ケンッ!」
グラスは三好に撫でられながら、ふふーんというドヤ顔を俺に見せつけて影に潜って行った。首輪には小さなスマホが取り付けてあって、skypeのビデオ通話が起動してある。
「お、来たぞ」
グラスが潜って、しばらくすると、真っ暗だったskypeの画面に、突然、男が二人いる室内の様子が表示された。
「これどっから撮ってるんだ?」
「画角から見て、部屋の上側の角みたいですね」
こそっと頭だけ天井から出して、撮影してんのか。
「部屋の上の角とか、普通にしてたら視界に入るだろう?」
「たぶんカメラの大きさだけ空間に穴をあけてるんじゃないかと思いますけど」
「そりゃ凄い」
これがほんとのスニークビューだな。
「スパイも真っ青ですよね」
男たちは、座って食事をしているようだった。なんというか、休憩中の護衛と言った感じだ。
「なにか怪しい家だってことだけは確かそうだな。話してるのは……フランス語か?」
「先輩!」
「なんだよ?」
「今大変なことに気が付きました! もし、女の人が二人以上いたらどうします?」
「あ」
話しかけてみないと相手がイザベラかどうかは分からない。
だが人違いだったりしたら――
「騒ぎになるかな?」
「空中から現れた犬に話しかけられたら、普通の人は驚くと思いますよ」
そのまま抜けた隣の部屋には誰もいなかった。グラスの移す映像が、天井裏の狭い空間になった時、小さな声で、グラスを呼んだ。向こう側はスピーカーフォンになっているのだ。
「グラス、グラス」
「くん?」
「女の人がいても、しばらくは姿を見せないで」
「ケンッ」
そうして次の部屋は――
「バスルームか」
「トイレとお風呂に人がいなかったのは幸いでしたね」
「LUCは高いんだがなぁ」
「だからじゃないですか? だって、全員男ですよ」
「おお!」
俺は思わず膝を叩いた。男のバスルームなんか覗きたいわけないよな。
「しかしこれ、ホテルにでも持ち込んだりしたら、いろいろと盗撮し放題だな」
「召喚魔法を売れない理由が、ますます増えていきますねー。オーバルオフィスとか、首相の総理執務室とか覗きに行きます?」
「絶対やめとけ。フリじゃないからな?」
そういや、ストックが一個あるんだよな。誰に使わせるか結構問題だよなぁ。やっぱ鳴瀬さんあたりが妥当なのかな。
「しかし、思ったより部屋数の多い家ですね」
二階建てのその家は、7LDKほどの間取りだったが、4部屋目で、それらしき人間に遭遇した。
「もしかして、あれですかね?」
その部屋はベッドに誰かが転がされているようで、ベッドが盛り上がっていた。
時折動いているから、そこには何かがいるのだろう。しかも部屋の前には見張りっぽい男までいた。
「だけど顔が確認できないぞ」
「向こうからも見えませんから、いっそのこと耳元で話してみませんか?」
「お前、フランス語は?」
「こまんたれぶー。……どうです?」
「俺と大差ないことだけは、よくわかった」
布団の頭だと思われる部分の傍で、スマホのスピーカー部分まで露出させるように伝えると、モニターに布の塊が見えるようになった。
「ネルヴィ ぱ ら ヴォア」
『声を立てないで』と言うと、シーツの中身がビクンと動いた。
「お? 通じてますかね?」
だといいが、ただ、声が聞こえて来たから警戒しただけかもしれない。
「エトヴ イザベッラ?」
『イザベラか?』と聞くと、ごそごそとシーツが動いた。頷いているような気もするが、なんで話さないんだ?
「もしかして縛られているとかじゃないですか?」
「部屋の前に見張りを置いて?」
「じぇ すぃ ら プーフ ティデ」
『助けに来た』と言うと、さらに激しくシーツが動いた。
うーん。これ連れてっちゃっていいんだろうか……
だが、Do you want me to take you out of there? って、フランス語でどう言えばいいんだ? ま、困ったときはゴーグル様だな。否定と肯定が入れ替わったり、一人称と二人称が入れ替わったりして、まるで読めずに使うと誤訳が恐ろしいけれど。
「ブゥレーブゥ ケ ジェブゥゾメンヌ オードゥラ?」
シーツの中から、うぃ、うぃ、と声が聞こえる。
「これって、oui! oui! かな?」
「なんだか捕まってるのは確かっぽいですから、そのまま連れて行っちゃっていいんじゃないですか?」
だんだん飽きて来たのか、三好が投げやりにそう言った。
「よし、三好。いつもの侵入者を捕まえるやり方で、その人を捕まえてくれ」
「え? 麻痺させるんですか?」
「どうやって連れ出されたのか、本人に分からない方がいいだろ」
「ははぁ、了解です。いつからSになったのかと思っちゃいましたよ」
「あのな……」
はたして、救出というか奪還と言うか、はたまた誘拐と言うべきか……それ自体は上手くいった。
そうしてグラスが連れて来たのは――
「誰だ、これ? 見たことないな」
彼女は、つややかな長く黒い髪をした、スペイン系のとても整った顔立ちした女性だった。
人種を考えれば小柄な方だろう。
「全然知らない人が、先輩に夢の中で救助を求めますか?」
「もしかして無関係だったりしたら……これって、誘拐?」
「その時はこっそり元に戻しましょう」
「だな……って、鳴瀬さんが来たらどうするんだよ? そういや彼女は?」
いつもならすでにやって来ていて、ダンツクちゃんとやり取りをしているはずだ。一段落ついたのだろうか。
「なんでも、あの四角い課長さんのお手伝いで、代々木に行くとか言ってましたよ」
「へぇ。珍しいな」
昨日、十分な量の転移石をサンプルとして渡しておいたから、その関係だろうか。
「もしいらっしゃっても、お客さんだと言い張りましょう。さすがに鳴瀬さんでもフランス語は……もしかしたら話せるかもしれませんけど」
なにしろ彼女は日本ダンジョン協会で取引の仲介をするのだ。外国語は堪能だろう。
「友人のツテをたどって、ソラホト文字の人にたどり着くくらいだからなぁ……」
「その時はその時で、ごまかすんですよ、先輩!」
「どうやって?」
「そりゃもう、先輩がどうにかするんですよ」
「鳴瀬さんの頭を左斜め45度からチョップしてみるとかか?」
「それ、おかしいのが治っちゃいませんか?」
そうして俺たちは、延々無駄な言い訳を考えていた。
、、、、、、、、、
「あ、課長!」
「ああ、忙しいところ悪いな」
その日、美晴は、斎賀の連絡を受けて、ダンジョンの一層の少し広い場所に言われたものを用意して斎賀を待っていた。
「課長が入ダンされるなんて、珍しいですね」
「いや、ちょっと例の石のテストをな」
「テスト?」
転移石のテストは、すでに二十一層で散々やったし、それを報告もしてある。
これ以上何を調べるんだろうと、美晴は首を傾げた。
「いや、転送時にどのくらいの荷物が持ち込めるかと思ってな」
「ああ、それでこんなものを」
美晴はあらかじめ一層の広めの場所に用意しておくように言われた、フォークリフトパレットの上に置かれた4つのドラム缶を叩いた。
ドラム缶の中身はA重油だったが、200リットルの中身の詰まったドラム缶をダンジョンの中に持ち込むのは意外と大変だったのだ。
「まあな」
そう言って斎賀は、荷物の固定状況を確認し始めた。
「すこしだけはみ出すんだな」
フォークリフトパレットの一辺は、大体110センチで、標準的な200リットルのドラム缶の直径は、55から60センチくらいなのだ。
このサイズのパレットは、動的耐荷重は1トンくらいだから、そういう意味でもこのあたりが限界ってところだ。
「え? これごと転移される気ですか?」
体積としては、大体一辺が一メートルの立方体だ。大きいとはいえ、このくらいの荷物は認知できる範囲だろう。
だが質量は1トン近くありそうだ。そんな質量の転移は行われたことがないはずだ。
「まあな」
「まさかとは思いますが、課長がテストされるなんて言いませんよね?」
「言い出しっぺの法則ってやつさ」
「責任ある方が、そういうテストをされるのは、逆に無責任な気がしますけど」
少しくらい傾いたり落ちたりしても大丈夫そうなことを確認して満足した斎賀は腰を伸ばした。
「部長がやったらまずいだろうが、課長なんて現場の年長者ってだけみたいなものだよ。それに何かあっても坂井がいるから問題ない」
「課長?」
その言い草に呆れた美晴は、眉間にしわを寄せながら、私を無理やり病院に押し込んだくせに、自分でやる気満々なのはどういうことかと、視線で斎賀を非難した。
「いや、ほら、安全性は、鳴瀬君たちが十分確認してくれているから大丈夫だ」
何しろこれが上手くいくなら、燃料の補給に長大なキャラバンを作らなくて済む。
この荷物なら一回で800リットルだが、非常用発電設備なら、例えばカワサキPUシリーズの燃料は調べた限りでは標準タンクで、490・950・1950リットルの三種類だ。
2個口を一度に運べるなら、最大のタンクでも一度でほぼ満タンにすることができるわけだ。
問題はコストだが――
「三十二層までキャラバンを組むよりは、転移石の方が安上がりだよな?」
「卸値を聞いていないので分かりませんけど、あの人たちそういうところザルですから……」
美晴は、Dカードチェッカーの高機能版の価格に、ダミーでSMD−EASYの価格を張り付けたまま公開してしまって、予定していたのよりもはるかに高価格になってしまったという話を思い出した。
それでもバックオーダーが処理できないほど溜まってしまったため、結局価格改定は行われなかったらしい。価格を下げても意味がないからだ。
「そいつは拙いな。いい加減価格を決めないと。試算はしたんだろ?」
「はい。ただ結構幅が……」
三十二層は遠い。だから途中で何泊するのかでするのかでもコストがかなり違ってくる。
まるっきりの素人を護衛して三十二層まで下りることを考慮したりすれば、さらにコストは跳ね上がるのだ。
「まいったな。結局それを取り扱う新部署はダンジョン管理課から独立させられなかったしなぁ」
「確かにギルド課のサブディヴィジョンというのが収まりがいいですから、しかたありませんよ」
ダンジョン管理課から独立させてしまえば、斎賀の職権が及ばなくなる。ただしその分責任も負わなくて済むと言う野望も少しだけあったのだが、そうは問屋が卸さなかったのだ。
社内でも秘密裏に進めなければならなかった結果、かかわったのがダンジョン管理課を擁するセクションの大物ばかりで、現場の人員が手薄どころはほとんどいなかったことも影響した。
「ともあれ、そろそろ人事の移動と共に社内での公開だ。ま、その前にダンジョン攻略局の発電機を使わせてもらうための根回しってところだな」
燃料の輸送さえ押さえてしまえば、要求はし放題……のはずだ。
輸送じゃアメリカに先を越されたが、さすがに向こうに転移石はないだろう。サイモンチームによるキャラバンにも限度があるだろうし、Dパワーズの連中をずっと使えるはずがない。ここは押しどころと言えるだろう。
「はぁ、わかりました。じゃあ代わりに私が――」
「いや、鳴瀬には先に三十二層へ転移して、転移場所の安全確保をやってほしいんだ」
「え、三十二層へ直接転移されるんですか?」
建前上、転移石は三十一層へ転移することになっている。
ただし、三十一層から三十二層へ下りる階段は、なかなか難所のようで、気を利かせたDパワーズが、大物を持ち込むために三十二層版もこっそりと渡してくれたのだ。
なにせ三十二層へ直接行けると分かったら、利用者は圧倒的にそれを使いたがるだろう。だが、セキュリティやイニシアチブのためにも、三十二層版は日本ダンジョン協会の内部専用だ。
もちろん三十二層への搬入を引き受けることもあるだろう。特別に。
「三十二層への移動手段も、ないことはないことを、こっそりとアピールしておかないとな」
斎賀は意外と商売人だった。
「はあ、分かりました。じゃ先に向こうへ行って、問題なさそうなら電話します」
「よろしく頼む」
その日、極秘裏に行われたテストでは、1トン程度の物資は同時に転移できることがはっきりした。
しかし転移した先から移動させる道具が何もなかったため、筋肉痛を覚悟しつつ、斜めに立てたドラム缶を回転させて移動させるという、原始的な移動方法をとるしかなかった。
「こりゃ、次はフォークリフトを丸ごと転移させるのが先かな」
A重油を満載したドラム缶の重さは、ざっと200キロ程度。探索者のトップチームの連中なら持ち上げるだろうが、一般人にはとても無理だ。
通常、このくらいの荷物を持ち上げるためのフォークリフトの車重は、最大荷重+1トンちょっとと言ったところだ。
つまり最大荷重1.5トンのフォークリフトの重量は2.5トンちょっとくらいになる。2.5トンなら3.5トンちょっとだ。この質量を転移させられるかどうかはまだ分からなかった。
また、それらが一層の入り口をくぐることが出来るかどうかも調べる必要がある。
「まだまだやることは尽きんなぁ……」
斎賀は、簡単なクールダウンストレッチを行って、久しぶりに使った筋肉をほぐしながら、新部署の立ち上げを迅速にやって使える部下を増やさなければと考えていた。
202 スパイとデートと女性の正体 3月22日 (金曜日)
「起きませんね」
昨日誘拐……もとへ、救出して来た女性は未だに目を覚まさない。仕方なく三好の部屋へ寝かせておいたのだが、あれから半日以上そのままだ。
アルスルズのシャドウバインドは、最低六時間は目を覚まさないことが分かっているがどこまで目を覚まさないのかは謎だ。
「シャドウバインドの効果の最短はともかく、最長って記録してるか?」
「田中さんに引き渡しちゃいますから、分かりませんよ」
「だよなぁ。これって、大丈夫なんだろうな?」
熱があるわけでも、自発呼吸が行えないわけでもなく、見た目はただ健やかに寝ているようにしか見えない。
「今まで、あれで死んだり後遺症が残ったりした人は聞いたことがありませんから平気だとは思いますけど……麻痺アレルギーってありますかね?」
「あるかい、そんなの」
アレルギーで麻痺することはあっても、麻痺に対するアレルギーなんてそんなバカなものはないだろう。
「二十四時間たっても目覚めなかったら医者に連れて行きます?」
「医者なぁ……最初は町医者だろ? 日本の町医者は無保険を嫌がるからな。こいつに保険があると思うか?」
「一応JNTO(日本政府観光局)で、外国人を受け入れる医療機関は検索できますけど……保険以前に、彼女のパスポートってどこにあるんだと思います?」
「それかー」
そもそも日本国籍があるのかどうか以前に、名前も知らないのだ。どう考えても俺たちが受診させるのは変だろう。
「いっそのこと行き倒れで通報するとか」
「最後はそうするしかないですかねぇ……」
ランク7のキュアポーションも一本あるが、そもそもこの状態が病気かどうかも分からないのだ。
午後には鳴瀬さんが事務所にやって来るだろう。
俺たちはやむを得ず、起きたら下に来るように書いたメモと、何かあった時のためにドゥルトウィンを監視に残して事務所へと下りた。
、、、、、、、、、
昼を少し回ったころ、その人物は、代々木ダンジョンにほど近い民家の、カーテンを閉めきった薄暗く寒い部屋の中で、目の前に座っている男に状況を報告していた。
どうして、灯りもエアコンもつけていないのかは分からなかったが、今しも墓から出て来たばかりのヴァンパイアのような容貌の男には、妙に似合っているように思えた。
「なるほど。それで、そのノートがあれば、神の眷属と直接話ができると言うわけかね?」
「そう言う触れ込みです」
「そしてそれが唯一の連絡手段だと言う事か」
「今のところは」
ダンジョン内に登場すると言うさまよえる館まで行くことは物理的に難しい。なにしろヴィクトール達ですら戻ってこられなかったのだ。
かと言ってイザベラは、Dパワーズの連中から情報を引っ張り出すことを、どういう訳かためらっている。
もっとも、もうしばらく今のままでいれば、すぐにおとなしくなるだろう。
「もう少し上手く付き合っていけたはずなんだがな」
あの女の能力は脅威だが、魔結晶の在庫もほぼない以上、その力を簡単に振るえたりはしないだろう。護衛の連中にも近づくなと言ってある。
連中が余計な欲望を彼女で満たそうとしさえしなければ、彼女がその能力を護衛に発揮することもないだろう。
「は?」
「いや、こちらの話だ。それで、それは持ち出せるのかね?」
「持ち出しは不可能ですね」
只の一般のボロ屋にしか思えない建物には、最新のセキュリティシステムと、警備の人間が配されていた。
それが内調だか、自衛隊だか、はたまた警備部だかは知らないが、精鋭であることは、ほとんど顔を合わさずとも、わずかにすれ違う機会だけで感じられた。
なんというか違うのだ、空気が。
「アプリケーションのコピーは?」
「試してみることはできますが、コピー可能かどうかはわかりません。また、なにか特殊なアクセスログが記録されている可能性は排除できません」
「ふーむ。今バレるのはまずいな」
世界で最も神に近づいていると断言できる日本政府の情報が得られなくなるのは問題だし、目を付けられることも避けたい。
ただでさえ、COSの中佐が俺たちをかぎまわっているのだ。便宜を図らせたあの男が漏らしたのだろうが、面倒なことこの上ない。
お蔭で、マリアンヌたちの身柄まで隠さなければならなかった。
「勝手にそこへ何かを書き込むことは可能ですが、書き込んだログは残ります」
「自由に向こうとやり取りするのは難しいか。せめて待ち合わせ場所でも指定して、お誘いできれば良かったんだがね」
暗い笑顔で冗談を言ったデヴィッドだったが、報告している人物はクスリとも笑わなかった。
「ともあれ、話はわかった」
そう言ってデヴィッドは、厚みのある封筒をその人物に渡した。
その人物は、満足そうな笑顔を浮かべると、その封筒を受け取ってバッグの中にしまった。
「また何かあったらよろしく頼む。何しろ君をあのチームに入れるのには苦労したからね」
いくら信者がいると言っても、日本での活動はまだ浅い。
あちこちから手をまわしてそうとう無理をしたため、もしかしたらどこかでほころびがあるかもしれない。もっとも、そのほころびが露わになる前に、目的を達成すればいい。そうすれば後のことはどうにでもなるはずだ。
彼は本気でそう考えていた。
、、、、、、、、、
経産省出身の村越芽衣が、ここは昼食をとるのが面倒だからお弁当にしようかしら、などと考えながらドアを開けると、自称ヲタクの杉田が、真剣な顔つきでソファに腰かけて、ダンツクちゃんノートの前で何かをしていた。
「杉田さん?」
「あ、おっかえりー」
村越と同期であることが判明した杉田は、彼女に対して結構砕けていた。
もっとも丁寧語を使っていたところで、杉田が本当に相手に対して敬意を抱いているかどうかは別の話だったが。
「杉田さん、お昼は?」
「まあ、コンビニで適当に」
村越の方を振り向きもせず、コンビニおにぎりを2個片手でかざしながら、杉田は、一心にダンツクちゃん質問箱にアクセスするノートパソコンに、一本指打法で何かを入力していた。
「ちゃんと食べないと持ちませんよ。って、さっきから何をやってるんですか?」
「何って――、アプローチ?」
「はぁ?」
意味不明な発言に、村越は眉をしかめながらノートの画面をのぞき込んで、そこに書かれている文章を目にすると、その内容にあきれ果ててため息を吐いた。
「……何、考えてるんですか」
「え、どっか変? 女の子的に」
「そうじゃなくて、その内容……」
そこに書かれていたのは、まるで高校生のデートのお誘い文句だったのだ。要約すれば、「次の日曜日に、渋谷で合わない?」だ。
「いや、いいでしょ、別に。日曜って休みなんですよね? 違うっけ?」
「そうですけど。それ以前に、漢字間違ってますよ」
「僕的には、これで正解なんですけどねぇ……」
そう言ってカーソルをその文字まで戻した杉田は、仕方なさそうに「会」と入力しなおした。
この男は、いきなり相手をホテルに誘う気なのかしらと、眉間のシワを深めながら、彼女は苦言を呈した。
「私たちの仕事は、政策の立案ですよ? そのため向こうの情報を集めている状況なのに、何を勝手に向こうの人と会おうとしてるんですか」
「会ってみないと分からないことも多いでしょ。人間、交渉は顔を合わせてやるのが一番ですよ」
「だから勝手に交渉しちゃダメでしょ!?」
「じゃ、デートってことで」
入力し終えた文章を確認するように見直している杉田の横からその文章を確認した村越は、これは送らせちゃダメな奴だと内心冷や汗をかいていた。
「それ、みんなに知られたら絶対止められると思いますけど」
「だから、誰もいない今、入力してるんじゃないですか。送信しちゃえば、こっちのもんですからね」
「確信犯ですか!」
「大丈夫、大丈夫。ほら、内谷さんも言ってたじゃない。『個人的なディール』だって。見逃してくれますよ、これくらい」
「だーめーでーすー!」
今にも送信してしまいそうな杉田の右手を思わずつかんだ村越は、杉田をパソコンから引きはがそうと、そのまま力任せに彼の体を引っ張った。
不意を突かれた杉田は、勢い余ってソファに倒れこみ、二人はソファの上でもつれ合うことになったが、それは、折悪しく昼食を済ませた成宮がドアを開けたのと同時だった。
ソファの上でもつれ合っている二人を見て一瞬固まった成宮だったが、そこは大人の余裕を装って、内心の動揺を押し殺しつつ言った。
「おいおい、部内恋愛を咎めはしないが、職場ではやめとけよ」
「な、何の話ですか!? 私は彼の蛮行を止めようと……」
あまりにタイミングの悪い勘違いに、思わず顔を上げた村越が目を離した隙を、杉田は見逃さなかった。
「ほいっと」
「ああ?!」
カチャリとした音に振り返った村越は、絶望したような声を上げた。
杉田は、村越に両腕をつかまれ押し倒されながらも、その隙をついて、右足でリターンキーを押してメッセージを送信していた。
「蛮行? いったい何の話だ?」
「すみません、手遅れでした……」
村越から説明を受けた成宮は、やり切ったとドヤ顔で、おにぎりを頬張っている杉田を横目に、書き込まれた内容に目を通した。
「杉田。これ、本気なのか?」
「もちろんですよ! 冗談で女の子を誘って許されるのはイケメンだけですからね! ついでに言うと社会に出てしまえば、それが許されるのはイケメンのエリートだけですから」
成宮は、いや、お前財務省本省採用のキャリアだろうがと、心の中で突っ込みを入れながら、本気でそう言っているらしい杉田になんというべきか悩んでいた。
しかし、すでに送られてしまったものは取り消しようがない。なんとか、それをプラスの方向に持っていかなければ。
「まあ、送っちまったものは取り消せないし……それに、怪我の功名ってことになるかもしれないからな」
顔を引きつらせながら、そうフォローする成宮に、村越が追い打ちをかけた。
「再起不能の大けがじゃなきゃいいですけどね」
「怖いことを言うなよ。で、杉田。もし、本当に彼女が出てきたとして、何かプランがあるのか?」
起こってしまったことを悔やむより、それをチャンスに変えようというポジティブさが成宮の優秀なところだったが、杉田の回答は成宮の想像の埒外だった。
「プラン? えーっと、まずはお茶をするとかですか?」
「お前……まさか、本当に何も考えてないのかよ!? ただ、誘ってみただけ?!」
「いや、評判のいいカフェくらいは調べておきますよ」
「そうじゃないだろ……」
こいつは本当に選抜試験を潜り抜けてここにいるのかと、成宮は頭を抱えそうになったが、気を取り直すと、村越も交えて、もしもこのデート(?)が現実になった場合の対応について相談し始めた。
午後の業務も始まっていないのに、キャリア官僚が三人、真顔で渋谷デートの検討をするという、なんとも奇妙な絵面だったが、当事者たちは真剣だったのだ。この事態を引き起こした一名を除いて。
だが、どんなに検討したところで、人じゃない何かを地球上でどうもてなすのかなんて、結局誰にも想像することはできなかった。分からないことが多すぎたのだ。
「私達って、向こうの人が何を食べるのかすら、まだ知りませんからね」
なにしろ人間なら鉄板の飲食が地雷になりかねない。肉が食べられないとか、ハラールだのハラームだの言うくらいならなんとななるかもしれないが、場合によっては、生の虫が大好物なんてことだって十分にありうる。
「そういうのは、いくら美少女でもちょっと引きますよね」
「いや、お前ね……」
そう言う問題じゃないだろうと、成宮は頭を抱えた。
そうしてこの話は、結局、どんな生命体でも水なら大丈夫だろうという程度のところに落ち着かざるを得なかった。
「そんなことより、成宮さん」
至極真面目な顔をして、バカみたいなことを話し合っている二人に呆れながら、村越にはひとつの懸念があった。
「なんだ?」
「相手って、人間に見えるんですか? エルフくらいならともかく、ドラゴンや巨大な昆虫みたいな生命体だったりしたら、渋谷がパニックになりますよ?」
「ああ!?」
すっかり相手が人間っぽいものだと言う認識を持っていた成宮は思わず声を上げたが、杉田は平然と答えた。
「いや、意外と平気じゃないかな」
「ええ?」
「現代人って、深夜、一人ぼっちの時にそれが現れたというのならともかく、真昼間に都会のど真ん中にそういうものが現れたとしても、たぶん殺戮が始まるまでは、逆に近寄ってくると思いますよ」
写真を撮りにね、と杉田が笑った。
確かにそうかもしれないと、二人は顔を見合わせたが、さすがにそれはごまかせない。
「もっとも美少女以外は付き合えませんからね。どこかからこっそり確認しなきゃなぁ……しまったなぁ、写真を送ってもらえばよかった」
そんな非常識なことを呟いている杉田を見ながら、お前、本当にデートのつもりだったのかよと、成宮は再び呆れていた。
、、、、、、、、、
「こんにちは」
お役所の昼休みが終わるころ、鳴瀬さんが事務所の扉を開けた。
三好の部屋の謎の女性は、まだ起きてきていない。
春物のコートを脱いで、ハンガーにかけながら、彼女は早速連絡事項を話し始めた。
「転移石の件ですが、発表は今週末に行われることになりました」
「今週末? 今日は金曜日ですけど……今日ってことですか?」
「そうですね。無理ならおそらく明日になるかもしれませんが」
土曜出勤ってやつか。俺も昔はよくやったっけ。
「へぇ、お渡ししたのはつい先日なのに、ずいぶん早いんですね」
「最初の報告をいただいてから、斎賀がすぐに根回しをしてましたから、一部の人間だけが知っている極秘プロジェクト扱いで進行させていたようですよ」
「何しろ転移ですからねぇ」
コーヒーを入れたカップを用意しながら、三好が他人事のようにそう言った。
いや、お前も当事者の一人だろ。
「結局政府方面は?」
ダンツクちゃん質問箱のえらいひと版が稼働してると言うことは、上には伝わっているはずだが、いままでどこからも横やりが入っていないと言うことは、普通のルートじゃないはずだ。
「連絡は課長が行っていましたから私には良く分からないんですけれど、どうもダンジョン庁とは別のルートらしくって」
社内でも直属の上司二名くらいしか知らないはずですと、鳴瀬さんが苦笑を浮かべた。
そりゃ、こんな話を一般省庁を経由して上にあげたりしたら、どこから漏れてどこに横やりが入るか分からない。
かといって、伝えないわけにはいかないという苦肉の策だろう。
「事後が大変そうですね」
省庁にだっていろんな面子があるだろう。頭越しにされた部署なら、嫌味の一つや二つは言いたくなるに違いない。
さもあらんとばかりに肩をすくめた鳴瀬さんは、ただ、「仕方ありませんね」とだけ言った。
「それで、昨日斎賀と一緒に、三十二層へ荷物を運ぶ実験をしたんですが――」
そう言って彼女は昨日やった転移石による燃料の輸送実験について教えてくれた。
それによると、結構な大質量が同時に転移させられるらしかった。俺たちがやったのは所詮アルスルズの同時移動程度だから、せいぜいが数百キロだろう。
「だけど、不思議ですよね。転移っていったいどういう物理現象なんでしょう?」
それを聞いていた三好が、首を傾げた。
以前も似たような話をしたことがあるが、今回は大質量付きの転移だ。DPハウスみたいなものが一緒に転移できちゃうかもしれないと話していたことが現実になりそうなわけだ。
「もしも一層の空間と三十二層の空間が不連続だとしても、この宇宙の中に実在する空間なら、AとBの間には距離があるわけで、ニュートンだろうがハミルトンだろうが、質量を持った物体の移動にはエネルギーが必要ですよね?」
「仮にこの宇宙とは別の場所に存在する場所だとしても、その両方を含む高次の空間を考えれば、同じことだな」
その距離にもよるけれど、おそらくは莫大なエネルギーが必要になるだろう。なにしろ距離は惑星間なんてレベルじゃないのだ。
「昔の戦艦を引き上げて宇宙船に改造しちゃうアニメで、空間を捻じ曲げてAとBをくっつけてから移動するって説明を見ましたけど――」
「そりゃ移動距離が減ると言うだけで、移動してないわけじゃないからな」
第一空間を捻じ曲げるエネルギーはどっから来るんだ。ブラックホールでも作るのだろうか?
「AとBの空間を重ねて入れ替えたらどうです? 距離の移動はゼロってことで」
「そりゃ核融合反応が捗りそうだ」
空間が重なった瞬間、そこにあった原子同士が重なったらどうなるのか、ひょいとよけるだけで済むはずがない。
「結局、一番ありそうなのは」
「以前から話にでてた蠅男方式だろうな」
「ああ、死んだら黒い光になる確率は、ひじょーに高いってことですか」
「なんです、その黒い光って?」
不思議そうに首をかしげる鳴瀬さんに、俺たちは、以前考察した内容を説明した。
最初は自分の体が、そんなことになっているかもしれないと言う点に驚いていた彼女だったが、人間ドックにも異常はなかったし、医学的な知見からも実感からも、以前と大きく変わったような感じはしないと感想を述べた。
「結局人間は、圧倒的な便利さを前にすると、表面に現れない問題は些末な事として取り扱ってしまいそうな気がします」
そう言って鳴瀬さんは笑った。
実際、それまでのスーパーに比べれば、人が定価と呼ぶ、圧倒的に高い価格の商品が並んでいる小規模小売店が世界を席巻したのは、ただ圧倒的にコンビニエンスだったからだ。
転移ができることと、自分の体がもしかしたらDファクターで構成されてしまっているのではないかということは、医学的に区別がつかないのであれば、確実に前者が選択されるだろう。
「だけどあらゆるものを再構築するために必要なDファクターの量って半端ないですよね?」
「たぶんな」
「それって、Dファクターが枯渇しませんか?」
「枯渇か……」
最初からDファクターで構成されていると思われるモンスターはリポップするとしても、元のモンスターを構成していたDファクターの再利用だと思えば大した量の消費にはならないだろう。
一度Dファクター化した何か、例えば人間でもそれは同様だ。
「分解されたDファクターと再構築に必要なDファクターの量が同じなら、コピーでもしない限り大した問題にはならないと思うが――」
「質量保存の法則みたいなものですね」
「――問題は初回だな」
Dファクターで構成されていないはずの原子を分解して、果たしてDファクターにすることが出来るのだろうか?
もしできなかったとしたら?
もし巨大質量を、次々と転移させたとしたら?
その結果、再構築するだけのDファクターが、再構築場所になかったとしたら?
「連続して同じ場所に新規転送した結果、周囲にDファクターが足りなかったりしたら、再構築が途中で……うわっ、なんだかグロい想像をしちゃいましたよ」
三好が嫌そうに顔をしかめた。
そりゃ、蠅と合成された男以上に、不気味な現象が生まれそうだ。
「以前、地上で転移を試した時、上手くいかなかったじゃないか」
「そう言えば」
「だから、足りない場合は転移に失敗するんじゃないかな。ただの希望的観測だけど」
あれは他にも座標系の問題だとか、いろいろな要素が考えられるわけだが、そういう可能性だってあるだろう。
「いずれ、この技術が広く使われ始めれば、どこかの天才物理学者がきっと解明してくれるさ」
「そういう意味では、所詮凡人ですからねぇ、私たち……」
「ま、そういうことだな」
そのセリフと聞いた鳴瀬さんは、引きつった笑いを浮かべていたが、たぶん気のせいだろう。
「今の話を聞くと、結構な質量を持ち込めそうな気がしますね」
「そうですね。なにか三十二層へ持って行きたいものが?」
「重機や、せめてフォークリフトが持ち込めるといいんですけど、一層へ持ち込むのが難しくて」
「ああ、入り口の大きさに限りがありますからね」
「あれ? 先輩。転移石ってダンジョン内で使えるんじゃありませんでしたっけ?」
「だから転移させたいものを一層へ持ち込むって話なんだろ?」
そこまで言って、俺ははたと三好が言いたいことに気が付いた。
スライムを叩いて歩いたとき、ダンジョンを出たことになるのは、入り口からしばらく行った場所だった。
つまり――
「まさか、あの境界の内側は、もしかしてダンジョン扱いなのか?」
「じゃないかと思うんですよ」
「あの境界?」
俺たちの話についていけない鳴瀬さんが、そう訊いた。
「ダンジョンって地上に影響を及ぼす範囲があるんですよ」
「地上に? 確かに現実空間を針のような形状が占めていると言われてますけど、その頭の部分みたいなものでしょうか?」
「はっきりとは分かりませんが、恐らくそうだと思います。で、代々木だと、ダンジョンの入り口から入ダン受付までの通路のちょうど半分くらいの位置にその境界があるんです」
「え? どうやってそれを?」
そう言えば、ダンジョンが地上に影響を及ぼす範囲があると分かってはいても、その境界を正確に知る汎用の方法があるなんて話は聞いたことがなかった。
「ま、まあそれは、地道に、いろいろとですね……」
まさかスライムの経験値をチェックしながらいろいろと試したとは言えず、かといって適当な言い訳も思いつかなかった俺は、言葉を濁すしかなかった。
「はぁ」
「そ、それはともかく、その内側ならダンジョンとみなされて転移が可能なんじゃないかと思うわけですよ」
入り口から境界までの距離は、最低でも5メートルくらいはあったはずだ。ダンジョンの入り口を囲む円がどのくらいの半径かは測ってみないとわからないが、それによっては――
「三好、日本の戦車の大きさってどのくらいなんだ?」
「ちょっと待ってください」
彼女はすぐに10式戦車を検索して、結果を教えてくれた。
「全長が9.42メートル、全幅が3.24メートルですね」
「それって……」
ざっと計算した俺は、もしも内径が3メートルあれば、5メートル幅のドーナツに――
「ギリギリ収まるじゃん!?」
全幅が3.24メートルなら、全長はぎりぎり10メートルまでドーナツの中に収まるのだ。
「え、それって……」
「うまくすれば、戦車級までは持って行けそうですよ」
幅が8フィートの40フィートコンテナは、ぎりぎりアウトだが、20フィートコンテナなら楽勝だ。
つまり俺たちが運ばなくても、物資は三十二層に届くわけだ。ビバ転移石!
「44トンもある物質が、向こうで再構築できるかどうかが問題ですけどね」
「まあそうだな」
それに仮に戦車を持ち込んだとしても、それが利用できるのはその層だけだ。
補給は地上に再転移させるにしても、本当に運用したいなら、持って行きたい階層の転移石を作らなければならないだろう。
「それに、ダンジョンの領域って、空中はどうなってるんでしょう?」
「空中?」
「ほら、例えば、L字型の何かを持って、境界ぎりぎりに立った時、空中で境界の真上からはみ出している部分はダンジョン内にあるとみなせるのかってことです」
それは結構重要な問題だ。
それが可能なら、タイヤの部分だけ確実にダンジョンの上にあれば、たとえば砲のようなものは厳密にははみ出していても構わないことになって、運用が楽になるだろう。
「転移時の転移領域の認識と言う観点から考えれば転移対象になりそうですが、もしもそうなら、ダンジョン外に大きくはみ出した物体も、ダンジョン内に立ってさえいれば、転移対象になるってことですよね?」
「これはもう、やってみるしかないだろ!」
そう言って俺が立ち上がった時、階上から、ぺたぺたと裸足が立てる足音が聞こえて来て、住居部分からおりてくる階段に現れた足が「J'ai faim〜」と声を上げた。
「え?」
鳴瀬さんは、その女性のものらしい足を見上げながら驚きの声を上げた。
「どなたです?」
「えーっと……どなたでしょう?」
「は? 何を言って……」
そんなやり取りをしている中に現れた、少し乱れたつややかな黒髪に、ブルーグレーの瞳の美しい少女を見た鳴瀬さんは、思わず絶句していた。
「?」
そりゃ知らない人が寝巻みたいな恰好で現れたら驚くかもしれないが、いくら何でも、この驚き方は激しすぎる。
「も、もしかして、マリアンヌさん?」
「え、鳴瀬さん、ご存じなんですか?」
「ご、ご存じもなにも……え、本物なんですか?」
鳴瀬さんは、ソファから立ち上がって、階段から顔を覗かせた女性に近づくと、フランス語で話しかけた。
『あなた、もしかして、マリアンヌ=マルタンさん?』
『そだよ。どうして知ってるの?』
げ、鳴瀬さんやっぱりフランス語OKなのかよ。
それを見た三好が、俺の耳元でささやいた。
「さすがは才女ですね」
「まったくだよ。マズいぞ度が一気に十倍に跳ね上がった気がするぞ」
鳴瀬さんは、怒ったような顔をしてこちらを振り返ると、詰問するような口調で俺たちに尋ねた。
「それで、彼女は、なんでここに?」
「え、ええ? 何でですかね?」
夢の中でお告げがあったから、助けに行ったら、人違いで彼女をさらってきてしまった。
うーん、自分で言ってて頭が痛くなりそうだ。
「それよりどうして鳴瀬さんは彼女を?」
「何言ってるんですか、フランスのDAを介して、捜索依頼が来てますよ!」
「はぁ?」
ちょっとまて、彼女を誘拐……じゃなくて、救出したのは昨日の午後だぞ? なんですでにFrDA(フランスダンジョン協会)から日本ダンジョン協会に捜索依頼が出されてるんだ? いくらなんでも早すぎるだろ。
「いや、ちょっと待ってください。その依頼って、いつの話ですか?」
「いつって……確か、一週間くらい前の話だったと思いますけど」
「一週間?!」
もはや意味が分からない。
じゃあ、あれは本当に誘拐されていて、俺たちが助け出したって事だろうか? そもそもイザベラって誰で、この話にどう関わってるんだ??
「じゃ、じゃあ、イザベラって女性も捜索依頼が?」
「イザベラ? いえ、依頼が来ていたのは、彼女だけですね」
「???」
「イザベラってどなたです?」
「いや、俺にも良く分からないのですが」
「はぁ?」
ダンジョンに空中問題を確かめに行こうとした俺たちは、それからしばらくの間、鳴瀬さんに絞られ続けて、一切合切を吐かされることになったのだ。
、、、、、、、、、
「ファシーラ、マリアンヌはまだ見つからないのか?!」
ただ、ラーテルという呼び名だけで知られているその傭兵部隊の隊長は、180センチに少し足りないくらいの傭兵としては小柄だが筋肉ががっしりと詰まった体形をしていた。
それは、イラク内戦で活躍し、第一次リビア内戦で反カダフィ派が確保した地域にちなんで、キュレナイカのバジリスクと恐れられた男だった。
その男の副官をずっと拝命し続けていた、ファシーラと呼ばれている男は、その名の通り飄々としたラーテルよりも背の高い細マッチョだった。
「まだと言われても、監視カメラの映像を調べた限りじゃ、家の外になんかに出ていませんし、家の中で探すところなんかないですよ。第一どうやってあの拘束から逃れるって言うんです?」
「じゃあなにか? 部屋の中から煙にでもなって消えたってのか?」
「壁にも床にも天井にも細工はありませんでした。私としちゃ、それを推しますね」
「……あの女、人間なんだよな?」
「隊長、相手は聖女様ですよ? それが、人間かどうか、私ごときにゃ分かりませんね」
ファシーラが真面目だか不真面目だか分からない様子で、そうアピールした。
「デヴィッドに知られたら、面倒だぞ。あの男、最近どっかおかしいからな」
「契約の内容と実際の業務が随分と齟齬をきたすようになってきています。そろそろ手を引くころ合いですかね?」
ラーテルは、小さく舌打ちすると、どかりとソファに腰を下ろして、クラブサイズのシガリロを取り出して火をつけた。
「くそっ、宗教団体の代表なんかやりながら、宗教を鼻で笑ってるところが気に入ってたんだがな」
「払いも悪くないですしね。だけど、こないだは、超越者が本当に居るとは思わなかったなんて言ってましたぜ」
「超越者だ?」
あの野郎、血迷いやがって。
「この仕事はここでキャンセルする。理由は雇用者側の契約違反だ」
「了解。じゃあ最後にあの女の味見を――」
「やめとけ」
「どうしてです? 隊長のお手付き?」
「バカ言うな。あの女の二つ名を知らないのか?」
「詳しいことは」
「”ナイトメア”イザベラ。あいつとやって破滅した男は数知れず。一度寝たら最後、二度と平穏は訪れないとよ」
「隊長、それって煽り?」
「別に止めはしないぜ」
ファシーラは、腕を組むと少しの間天井を仰いでいたが、すぐにそれを解いて小さく肩をすくめた。
「やっぱ、やめときましょう。一発に人生懸けるほど若かない」
「賢明だ」
「それで、これからどうします? リビアに戻りますか? ハフタルがトリポリへ侵攻するって話が出てますぜ」
LNA(リビア国民軍)か。フランスも後押ししているって噂があるが……
UAE提供の中国製の兵器と、フランスがアメリカから購入したジャベリンが並んで使われ、空からはミグやスホーイが支援してくれる空間ってのは、なんとも混とんとしているじゃないか。
「それも悪くはないが、いまさらロートルが割り込むのも気まずいだろ」
「ロートルね。ハフタルは70を超えてますぜ?」
「超人と一緒にするなよ。それに、今の世界の紛争は、リビアもイラクもイエメンもシリアもアフガンも、イスラム・イスラム・またイスラムだ」
ラーテルは、苦虫を噛み潰したような顔でそう言い放った。
「同部族でやり合いたくないから、代理で俺たちを使うって言う昔のリビアはまだわかりやすかったが、内戦終結後のイスラム過激派が台頭してからは、しっちゃかめっちゃかだろう」
民族紛争に宗教紛争が混じり合い、時代のあだ花みたいなイスラム国が台頭して大暴れしたかと思うと、それを機会に石油を狙った先進諸国が東西関係なくガンガン懐に手を突っ込んでくる。
面白いっちゃ面白いかもしれないが、ある日突然味方だった連中に、後ろから撃たれて吊るされるのはごめんだ。
「なら、後はクルドですかね?」
「YPG(クルド人民防衛隊)に付くのか? ハンドラーはYPGから手を引くぞ。その瞬間トルコはシリア北部に手を出すに決まってる。そしたら連中、今度はシリア政府軍にすり寄るだろうぜ。俺たちゃあっさり売られるかもな」
「兵は引き上げるにしても支援は続けるんじゃないですか? ロシアの影響下になっちゃ困るでしょうし」
「アメリカの支援を受けているYPGが、ロシアやイランが後ろ盾のシリア政府軍と一緒に、南下してくるトルコを迎え撃つのか? 生きるための方便とは言え、もはや何が何やらってところだな」
「それを隊長が言いますか」
金のために、昨日の敵の支援をすることなど日常茶飯事だった傭兵部隊のたたき上げが、そんな話をするのが少し可笑しかった。
ラーテルもそう思ったのか、かすかに笑みを浮かべて、「違いない」と言った。
「それじゃ次はどこに行こうって言うんです? 引退でもするんですか?」
「ダンジョンの中ってのはどうだ?」
ラーテルのセリフを聞いたファシーラは、一瞬耳がおかしくなったのかと、思わす聞き返した。
「なんですって?」
「だからダンジョンの中ってのはどうだって言ったんだよ」
「つまり、探索者をやるんですか?」
「悪かないだろう?」
「いや、悪いとか悪かないとか……って、ええ?!」
現在では傭兵の世界も様変わりした。
インターネットカウボーイの連中が大挙して押し寄せてきて、まるで命をやり取りしているという感覚そのものが薄れてしまったようにも見える。
そうして、紛争地帯の複雑さは20世紀の比ではなく、三年前からは探索者に乗り換えた奴も確かに居た。
「人間を撃ちたい奴は?」
「人型で我慢できない奴は、この仕事についてきてないだろ?」
「チーム全員が探索者に?」
「やりたくない奴はやらなきゃいいさ。自分の命は自分で管理する、あたりまえの俺達だろ」
ラーテルのチームは、作戦に参加するかどうかは、比較的自由に決められた。
自分の能力で生き残れないような作戦には、自分の意思で参加しないことができるのだ。
「誰にやとわれるんです?」
「当面は俺だな」
「本気ですか?」
「当たり前だ。弾薬の輸送用にポーターを一台手に入れろ」
「マジですか? って、代々木でやるんですか? デヴィッドと鉢合わせしますよ?」
「そりゃするかもしれないが、契約がなければ赤の他人だ、別に逃げることはないだろう?」
これだからラーテルなんて呼ばれるんだよと、ファシーラは呆れたように手を広げた。
ラーテルはアフリカに生息するミツアナグマのことで、誰が相手でも隠れたりせずに、堂々と姿を現し練り歩く、恐れ知らずで有名な獣なのだ。
「それに、マリアンヌの行方くらいは気にかけてやらなきゃいかんだろう」
「隊長は、妙なところで律儀ですから」
「やかましい!」
「それで、参加しない連中は?」
「フランスの拠点を好きに使っていい。リビアでもシリアでも、好きなところで遊んで来い」
ファシーラは、そう言い放つ上司の顔をまじまじと見なおして、腰に手を当て深くため息を吐いた。
「はー、キュレナイカのバジリスクも丸くなったもんだ」
「死にたいならいつでも殺してやるぞ?」
ラーテルは、並の人間なら視線だけでもちびりそうな圧力をまき散らしながらそう言ったが、ファシーラはそれを気にもしないで簡単に受け流した。
「生きるのに飽きたらお願いしますよ」
そう言って、ラーテルに言われた仕事を手際よく開始した。
203 3月23日 (土曜日)
昨日は、甲府で今年初の夏日を記録した。そんな、まるで春と言うよりも初夏のような陽気が続いていたところだが、今日は一転して、まるで冬がもう一度やって来たかのような寒さだった。
「いやあ、先輩。昨日はまいりましたね」
「鳴瀬さんって、怒ると怖いのな」
「もう二人とも床に正座ですからね。あんなの小学校以来ですよ」
昨日の鳴瀬さんの追及は、なかなか厳しかった。
なにしろフランスのダンジョン協会から捜索の問い合わせが来て、誘拐まで疑われていた重要人物が、『おなか減った〜』などと言いつつ、うちの事務所の二階から下りて来たのだ。そりゃあ驚くだろう。
しかも、フランスのダンジョン協会経由で捜索を依頼したのは、フランスのCOS(特殊作戦司令部)関連らしく、そこの中佐が確認に来ていたそうだ。
「ヴィクトールさんたちの捜索の指揮を執っていた人だそうですから、日本に来ているダンジョン攻略部隊の責任者っぽいですよ」
「なんでそんな連中が、どうして宗教団体の聖女を探してるんだ?」
「彼女さんか、ストーカーですかね?」
「よせやい」
鳴瀬さんに訊いても、その辺はよくわからなかったらしい。
単純に、日本での滞在場所から消えてしまったので、誘拐も視野に入れているが大袈裟にしたくないとか何とか。
それなら、その宗教団体が警察に届けそうなものだが、そんな様子はないそうだ。
「だけどさ、彼女が捕らわれていた場所って、デヴィッドってやつがイザベラを拘束していた場所じゃないのか? デヴィッドって教団の代表なんだろ?」
「そのはずですけど」
「マリアンヌって教団の聖女なんだろ?」
「そのはずですけど」
「じゃあなんで聖女が、代表に拘束されてんのさ? それって反教団組織辺りのやりそうなことだと思うんだけど」
見張りに立っていた連中は、どう見ても宗教団体の信者って感じじゃなかった。
荒事のプロって雰囲気がプンプンしていた。
「デヴィッドさんが反教団も指揮してるんですかね?」
「体制と反体制を両方手のうちに入れて争わせながらコントロールするなんて話は、フィクションなら結構見かけるけど、さすがになぁ……」
「なら、組織内の権力闘争ってやつですかね?」
権力闘争って……ナンバーツーがナンバーワンを蹴落とそうとするんなら分かるけれど、デヴィッドってやつは代表なんだからナンバーワンなのだろう。
それがいったい誰に対して権力闘争を挑むと言うのか。
「ナンバーツーが、聖女を手に入れて下克上を狙っているというのならそうかもしれないが、拘束してどうするんだよ。逆に聖女に逃げられるだろ、それ」
「世界は不思議にあふれてますからねぇ」
三好が、テキトーなことを言って納得している。考えるのに飽きやがったな。
「ところで、結局イザベラさんは助けに行かなくていいんですか?」
「それなんだけどさ。もうちょっと疲れたというか……少しインターバルをおきたいと言うか」
「あのメモには、COSの中佐よりも早く来いって書いてありましたけど、そもそもCOSが捜索を依頼したのは聖女様だけだったみたいですしね」
「すぐに命が危険にさらされるってこともなさそうだったし、イザベラって自意識過剰なのかね?」
「夢の中まで追いかけてくる人ですから」
「それだよ。いったいどうやったんだと思う? 仮に暗示をかけられたんだとしても、一体いつの話だろう?」
なにしろイザベラと言う女に心当たりがないのだ。
「最近外国人と関わったりしなかったんですか?」
「最近か……」
最近かかわりのあった外国人。特にフランス人って言うと――
「あ」
「なんです?」
「いや、一か月くらい前の話だからすっかり忘れてたけど、代々木の一層で、場違いな服装の女に絡まれた」
いきなりキスされたとは、さすがに言えないが、あの女が確かフランス語を話していたはずだ。
「めっちゃかかわってるじゃないですか!」
「いや、一方的に近づいてきて、一方的にまくし立てて、実際話していたのは一分未満だぞ? 道を聞かれるよりも短い時間なんだから」
「で、なんて言ってたんです?」
「それがな……一応、何か用かって尋ねたんだけど――」
「ど?」
「――全然分かんなかったんだな、これが」
俺は、テレをごまかすかのように、ことさらおどけて頭を掻いた。
それを聞いた三好は、脱力するように肩を落として、「結局何にも分かりませんね」と言った。
しょうがないだろう。いきなりだったんだし。
ともかく、マリアンヌは鳴瀬さんが自宅へと連れて行った。
フランスから捜索依頼が正式に出されている以上、対応しないわけにはいかないのだが、どうにも俺たちが首をひねっているのを見て、まずは彼女から話を聞くことにしたようだ。
帰り際に、ダンジョン内建築物の相互監視実験の話をしたら、件の一坪農園の周辺ならすでにDパワーズに貸し出されているみたいなものだからOKですよだと言われた。
「それじゃ、今日は?」
「相互監視実験の準備と、表層から飛べるかどうかの実験かな?」
「表層からの転移は、転移が発表されてからじゃないとまずくないですか?」
「あー、あそこで見つからないようにするのは無理だもんな」
「なら、相互監視実験だけ設定しちゃいましょう。機器は揃ってますから」
「了解」
そうして俺たちはいつもの日常を繰り返そうとしていたが、そのころ世界にはとんでもない爆弾が投下されていたのだ。
204 掲示板 【ダンツクちゃん】代々ダン 1572【中の人などいない】
1:名もない探索者 ID:P12xx-xxxx-xxxx-9923
とうとう到達深度世界記録を更新した代々木ダンジョン。
十八層は探索者オールスターズだし、セーフ層は見つかるし、どういう訳か携帯まで使えるようになっちゃって、いったいこの先どうなるの?!
次スレ 930 あたりで。
…………
321:名もない探索者
おい。今さっき日本ダンジョン協会の代々ダン情報局が更新されたぞ。
322:名もない探索者
別に珍しくもないだろ? なにかあったのか?
323:名もない探索者
あったというか、ありすぎたというか……
すまん、なんというか混乱していて、うまく説明ができん。自分で見てきてくれ。
324:名もない探索者
関係者乙。なんだよこの露骨な誘導は。
325:名もない探索者
関係者乙。俺は絶対見に行かないぞ。
326:名もない探索者
関係者乙。
327:名もない探索者
乙。
328:名もない探索者
関係者乙。
329:名もない探索者
ぎょえええええ! あれ、マジなわけ?!
330:名もない探索者
なんだなんだ? 関係者2号か?
331:名もない探索者
2号でも3号でもどうでもいいよ! 一体世界はどうなってんだ?! ここは本当に地球なのか?
332:名もない探索者
錯乱者一名。救急車呼んでください。
333:名もない探索者
てか、ちょっと見に行ってみたくなってきたwww
334:名もない探索者
意地張ってないで、今すぐ見て来た方がいいぞ。
ダンジョンができた、なんてのもファンタジーだったが、今度のやつは……なんというか、パーフェクトにモノホンのファンタジー?
335:名もない探索者
何を言っているのか、まったくわからんwww
336:名もない探索者
さすがにあれは嘘だろう? 今度こそエイプリルフール用のサイトが間違って公開されたんじゃないの?
いくらなんでも、ゲーム脳が過ぎる。
337:名もない探索者
くそっwww 釣られてやるよ! 情報局へGO!
338:名もない探索者
また一人、釣られたものが……
339:名もない探索者
おちけつ。奴は氏天皇の中でも最弱……
340:名もない探索者
なんかそれ、凄い強そうだな > 氏天皇
341:名もない探索者
なんだこれwww テレポートするための、石??? スタッフ扱いしてさーせん。> 323
342:名もない探索者
はあ? テレポート? なにかの比喩か??
俺も見に行ってくる!
343:名もない探索者
ああ! 釣られない四天王がw
344:名もない探索者
今までのダンジョン産素材を利用した商品と違って、地球の現代科学ではまったく説明がつかん。
……つかんよな?
345:名もない探索者
なんだよ、テレポートって比喩でもなんでもなくて、本当にテレポートなわけ?
仕方ねぇ、俺も見てくる。
346:名もない探索者
原理はあれだろ。ハエと合成されちゃうやつ。
347:名もない探索者
いや、あれだって、電送装置みたいな科学的なギミックがあったじゃないか。今回のは、石だぞ、石?! もう、意味が分からん。
348:名もない探索者
日本ダンジョン協会が宗教団体に?
349:名もない探索者
霊感商法www テレポート(したような気分になることが)できる石、発売!
350:名もない探索者
俺、物理系の研究室にいるんだけど、ちょっと見せてもらいたいな。
351:名もない探索者
調べたところで分かるもんか。予想どころか、想像もできないレベルだ。
魔法だってよく分かっていないが、火や水を作り出すことは魔法じゃなくてもできるだろ。だが今回のやつは……
352:名もない探索者
これ、どうやって製造してるのかな?
353:名もない探索者
ダンジョンのどっかに、転移石鉱山みたいなのが発見されたとか?
354:名もない探索者
それなら、少しくらい噂になってもいいだろう?
それに、探索者なら誰でも取りに行けるじゃん。日本ダンジョン協会専売ってどう言うことよ?
355:名もない探索者
専売なのか?
356:名もない探索者
でなきゃバンクシステムとか、作るわけないと思うんだけど。
357:名もない探索者
そう言われると、アニメの使いまわしみたいな感じだな。
358:名もない探索者
いや、それはどうかな。制限のところに代々木から離れるとただの石になりますってのがあるから、それが本当だとしたらバンクシステムは必要だろう。
359:名もない探索者
うさんくせーwww > ただの石になる
360:名もない探索者
マイニング関係かな?
361:名もない探索者
それもどうだろう。十八層には世界中の探索者がいるんだぜ? 日本ダンジョン協会が抜け駆けできるとは思えんな。
362:名もない探索者
いや、だから、マイニングで特定の層で、帰還石が出るようになったとかじゃないのかなってことだよ。
363:名もない探索者
か、可能性は……あるのか? あるとしたら、それ、どんな鉱石なんだよ!?
364:名もない探索者
実はダンツクちゃんに作り方を教えてもらった。
365:名もない探索者
それだ!
366:名もない探索者
質問箱に、「ダンジョン奥地に行くのが大変なんでなんとかしてください」って書いたら、何とかしてくれた、なんてことは……
367:名もない探索者
ばっかじゃねーの、の、一言で切って捨てられそうな話だけど、発表されている内容が事実だとしたら、絶対ないとは断言できない……
でもそうしたら、ダンツクちゃんは本物ってことに。
368:名もない探索者
ダンツクちゃんは本物です。中の人などいない。
異論は認める。
369:名もない探索者
きっと、ダンジョン奥地から、モンスターがキャラバン組んで輸送してくれるのさ。
370:名もない探索者
これが本当の、魔女の宅急便w
371:名もない探索者
誰が上手いこと言えと……
372:名もない探索者
探索者に襲われて奪われるまでが遠足です。
373:名もない探索者
盗賊だーーーー
374:名もない探索者
それって、日本ダンジョン協会がダンジョンの向こう側と、なんらかの交流をしてるってことか?
375:名もない探索者
何をいまさら。
ダンツクちゃんをなんだと思ってるんだよ。
376:名もない探索者
え? お話しするAIだろ? > ダンツクちゃん
377:名もない探索者
あのさ。世界中のダンジョンの中で、たぶん代々木だけで携帯が使えるを理由を考えてみろよ。
378:名もない探索者
あれもダンツクちゃんにお願いしたって言いたいのか?
379:名もない探索者
他に考えられると思うか?
あんな一瞬で全フロアに影響を及ぼすとか、人類じゃ、逆立ちしたってできっこない。
380:名もない探索者
逆立ちはできるけどなー
381:名もない探索者
別空間における量子エンタングルメントがー
382:名もない探索者
物理板に帰れw
383:名もない探索者
じゃあ、ダンツクちゃんが本物だってことで、FA?
384:名もない探索者
いやいや待て待て、もしも本当にそうだとして、ダンジョン庁はおろか、日本政府をすっ飛ばして日本ダンジョン協会が異世界と交流って、そんなことが許されるのかよ?
385:名もない探索者
ダンジョン庁って、ダンジョンに関する省庁間の利害調整のためにできたって聞いたけど?
386:名もない探索者
だからすっ飛ばしちゃ、余計まずいんじゃね?
387:名もない探索者
しかし、事実上、接触してるといえる存在は探索者しかいないじゃん。日本政府にどうしろって言うのさ。
三十二層に大使館でも建てるの?
388:名もない探索者
箱物行政キター!
389:名もない探索者
今ちょっと見て来たんだが、世界ダンジョン協会はこんなこと一言も発表してないぞ。
390:名もない探索者
じゃあ、日本ダンジョン協会の独断ってこと?
391:名もない探索者
代々木だけで起こってる事件だとしたら……可能性はあるよな。
392:名もない探索者
しかし、もしこれが冗談でもなんでもなくて、もし地上でも使えたりしたら、輸送系企業はすべて倒産しちゃうんじゃないの?
空売りで大儲け!
393:名もない探索者
そりゃ、リニアも飛行機もすべてが不要になるわな。下手すりゃISSまで飛ぶシャトルどころか、月面や火星に飛ぶ宇宙船すら不要になるかもしれん。
394:名もない探索者
いや、さすがにそれは……
395:名もない探索者
だから、代々木から離れたら、ただの石になるんじゃないの?
396:名もない探索者
離れずに代々木から使えばいいだけじゃん。
397:名もない探索者
いやいや、フィクションでも距離があればそれだけ大きな対価が必要で、困難になるから。
398:名もない探索者
ダンジョンの各層は別の空間なんだぞ? つまりこいつは別の空間から別の空間へジャンプできる凄技なんだぞ? 距離なんか関係あるか?
大体ダンツク星まで、数万光年の可能性とか、以前ダンツクちゃん質問箱のスレで言ってたぞ。
399:名もない探索者
そう言われれば、そんな気がしてきた。しかしダンツク星って……
400:名もない探索者
お前ら説明を読めよ。
帰還石は、一層の決められた場所に、転移石も十八層や三十一層の決められた場所に転移するだけって書いてあるじゃん。
401:名もない探索者
お前、人が良すぎ > 400
そこへ転移できるというのなら、他の場所に転移できないと考える理由はなによ?
402:名もない探索者
うーん……
403:名もない探索者
運輸系の空売り決定。
404:名もない探索者
いや、お前ら、ちょっと考えてみろ。これは、輸送がどうとかいう以前の問題があるだろ。
405:名もない探索者
それ以前?
406:名もない探索者
彼女の部屋へ、パパの目を盗んでジャンプするくらいしか思いつかなかった。
407:名もない探索者
リア充タヒね。
408:名もない探索者
氏ね。
409名もない404
あのな……まあ、近いか。
4十:名もない探索者
近いのかよ!
411名もない404
いいか? もしもこれが地上で使えたりしたら――国境が役立たずになるんだよ。
412:名もない探索者
お?!
413:名もない探索者
そうか、入国も出国もチェックのしようがないのか……
414:名もない探索者
パパりんの厳しいチェックもスルー
415:名もない探索者
地球上のどこへでも、自由に行き放題ってこと?!
416:名もない探索者
彼女じゃない、おにゃのこの部屋へも行き放題。
417名もない404
いや、それは普通に犯罪だからw
418:名もない探索者
オーバルオフィスだろうが、クレムリンだろうが、人民大会堂だろうが、いつでもどこでも誰でも、どんな目的でも……行き放題?
419:名もない探索者
それはまた、なんというか……
日本ダンジョン協会潰されちゃうんじゃないの?
420:名もない探索者
いくらなんでも、そんな危険を考慮しないで、一般に公開したりはしないと思うけど。
421:名もない探索者
まあなあ。いくら探索者の死亡率を下げるためとはいえ、俺たちがちょっとここで話しただけで出てくるような問題を回避できないようなものを公開するなんてことはないよな。
422:名もない探索者
しかしこれは、世界政府設立にワンチャンあるか?
423:名もない探索者
人の移動に規制が物理的にかけられない以上、国境は無意味になるわな。
424:名もない探索者
資源所有の主張とかあるから、すぐに無意味になるとは言わないけれど……
人間の管理も物の移動の管理も、移動が自由であるということを前提に構築しなおさなければならないってことか。
425:名もない探索者
地球の外から何かが攻めてこない限り、世界政府なんて絶対ムリだと思ってたけどなぁ……まさか交通手段が、その嚆矢《こうし》になるなんて、だれが想像した?
426:名もない探索者
ダンツクちゃん宇宙人説をとるなら、地球の外からの圧力だぞ。
427:名もない探索者
もしもこいつが、スキルなんかと同じ領域にあるファンタジーアイテムだとすると、利用するのにDカードが必要になるかもな。
428:名もない探索者
人類がすべてDカードを取得して、Dカードで管理される世界、クルーーーー?
429:名もない探索者
どうやって動いているのか分からないようなカードで管理ができるのかよw
430:名もない探索者
転移石スレが立った模様。 https://URL... 以降は、こちらで。
そして、超ファンタジーアイテムの話題に隠れて、こっそり公開されてるステータス計測サービス開始のお知らせ。
431:名もない探索者
不憫な子や……
432:名もない探索者
それはそれで、画期的な話なのにな。
433:名もない探索者
結局場所は、ゲート内のレンタルスペースに設置されたのか。
434:名もない探索者
一番ゲートに近い1層な。一等地だな。
435:名もない探索者
代々ダン施設群の入り口付近の広場にでも設置されるのかと思ってたけど。あそこじゃ混みこみで、大渋滞しそうじゃない?
436:名もない探索者
プライバシー情報だしなぁ、オープンスペースはちょっとないだろ。
437:名もない探索者
誰が測りに来たかってのも十分プライバシーなわけか。
438:名もない探索者
ゲート内の方が多少はましだよな。そもそもゲートをくぐれない人間には関係のないサービスだし。
439:名もない探索者
Dパワーズのブートキャンプ施設の隣の隣?
440:名もない探索者
いや、実質隣だな。順路説明を見る限り、どうも間の壁を取り払って一部屋にしてるみたいだったぞ。
441:名もない探索者
へー。
442:名もない探索者
日曜日スタートか。俺も計ってみるかな。料金は?
443:名もない探索者
無料、としてほしいところだけど、一回五百円。
444:名もない探索者
ワンコインか〜。同じワンコインなら百円にして欲しかった。
445:名もない探索者
いやいや、機器の本体って、最低構成で280万からだろ? おそらく日本ダンジョン協会のやつはフルオプションだろうから、たぶん一千万は超えるはず。
一回五百円でも元を取るのに2万回の利用が必要なんだぜ?
446:名もない探索者
2万回かー。すぐに行きそうな気もするし、なかなか無理な気もするな。
447:名もない探索者
場所が場所だからなぁ……一日何件くらい処理できるんだろう。
448:名もない探索者
いやいや、ガイドのおねーさん(希望)の日当だけでもそのくらいかかるんじゃないの?
449:名もない探索者
人件費か。
だけどさー、そんな頻繁に計るもんでもないし、探索者なら一回5000円でも利用しねぇ?
450:名もない探索者
……するな。足元を見られている気分になるが。
451:名もない探索者
500万くらいの外車をレンタルすると、最小単位時間でも1万ちょっとだろ。超過料金でも一時間で2500円くらいだぞ。
本体が倍額だとすると、5000円ってのはそれと大差ない気はするよな。きれいなおねーさん(希望)の分も入れればなおさらだ。
452:名もない探索者
そう考えると、意外と良心的?
453:名もない探索者
経費を除けばタダみたいなもん。いたずら除け程度だろう。
454:名もない探索者
撮影は?
455:名もない探索者
今のところ、特に禁止されてない。普通に公共の場所と同じ扱いだろう。
他人のステータスを盗撮したらNGだろうな。
456:名もない探索者
え、お前ら何の話してんの? あの信じられないファンタジーアイテムは興味なし?!
457:名もない探索者
それ、専用スレができてるから。 https://URL...
458:名もない探索者
聖人現る。
459:456
トンクス > 457。出直してきまつ……
205 転移石の影響と野次馬根性 3月23日 (土曜日)
その日の午後、私邸で昼食をとった井部首相は、グランドハイアットのフィットネスクラブ、NAGOMIにいた。
そこで、少しだけ運動をした後、汗を流すべく暗く静かで、檜の香りのするサウナルームの、2段になった座席の下段にゆっくりと座っていた時、誰かが扉を開けて入室して来た。
この時間は貸し切りのはずだし、不審者はステータスポイントが通すはずがない。
不思議に思いながら見上げた先では、足元の間接照明が、その男の顔を浮かび上がらせていた。
『伴も連れずに、こんな場所までいらっしゃるとは、一体何事です?』
扉を開けて入って来たハンサムな男は、駐日大使だったのだ。
『時間的余裕がなかったので、失礼を承知で無理を通させていただきました』
ビジネスで培われた、並外れた交渉力を期待されていた男は、前置き無しでいきなり本題を切り出してきた。
『ハンドラー大統領は、日本が秘密裏に別の世界と接触をして、良からぬことを考えていたりしないかと、深く憂慮していらっしゃいます』
そう言って、彼は、タブレットを差し出してきた。
もちろん、こんな場所に持ち込むことはできない代物だ。温度が上がれば防水機能も怪しいものだ。どうやって、ねじ込んだのか興味はあるが、井部は黙ってそれを受け取った。
掌にひんやりした筐体を感じるところをみると、冷たいタオルにくるんでいたらしい。
『あなたの裸体を撮影する趣味はないのでご安心を』
冗談なのか判断に困るセリフを吐きながら、彼は井部がそれを読むのを待っていた。
井部は見るまでもなく、それが帰還石・転移石のサイトだろうと予想していた。昨日の午後、村北内閣情報官から、今日公開されると言う知らせがあったのだ。
その後、ノーベル平和賞を受賞したマララさんとの会談があったため、詳細を詰める時間はなかったが、対応策はそれまでに検討されつくしていた。
『代々木では、ダンジョン内で携帯が使えるようになりました。それも突然に』
ハガティは額に浮かんだ汗をタオルでぬぐいながら言葉を継いだ。
『政府や省庁、そして経済界にとってそれが寝耳に水だったことは承知しています』
なにしろ、それは日本ダンジョン協会も巻き込んだ大規模な通信基地建設プロジェクトの計画中に起こったのだ。
日本や日本ダンジョン協会が、その実現そのものに関与していないことだけは明らかだった。
『いずれにしろ、こんなことが起こったのは、後にも先にも代々木だけです』
まるでそれがあり得ないことのように、ハガティは腕を広げて呆れたような様子を滲ませながら言った。
『そのことだけでも疑うには十分ですが、今度は「転移」ですって?』
井部は読むともなく目を通したタブレットを、ハガティに返した。
『この技術に関しては、世界中がその詳細を知りたがっています』
『軍事に利用できるか、ということでしたら、できないそうですよ』
井部は目を閉じて、両手で顔をぬぐいながらそう言った。
その答えには、日本政府があらかじめこのアイテムの情報を日本ダンジョン協会から得ているという意味を含んでいた。
『技術の詳細が公開されていない以上、それをそのまま信じる国はないと思いますよ』
大使はやれやれとばかりにかぶりを振って、井部の言葉を否定した。
核爆弾を作っていないと言う証明のためには査察が必要だ。転移石に何ができるのかを知るためには、当然その技術の詳細が必要なのだ。
それは安全保障の観点からも、アメリカが技術的な利益から取り残されないためにも必須の情報だった。
転移ができる場所というのならともかく、対象は石だと言う。
もしそれが本当ならば、転移ができること自体が重要なのであって、目的地の設定などは付属するプロパティにすぎない。
AからBへ転移できるなら、AからCへ転移できないと考える方がどうかしているのだ。いまここで話をしている間にも、世界は、その秘密に近づかんと活動を開始していた。
『なにしろ事態は、核の保有よりも深刻なのです』
仮に日本が核武装したとしても、一部の近隣諸国以外はそれほど大きく反対したりはしないだろう。
自国の防衛は自国で。それがハンドラー大統領の基本姿勢だからだ。
しかしこれは別だ。
従来の兵器が一瞬にして時代遅れになり、実用化した国は、一夜にして世界の覇権を握ることができる。そういう代物なのだ。
大陸間弾道ミサイルなんて重厚長大な兵器を使う必要などどこにもない。いつでも散歩に行く気軽さで、簡単に相手国の中枢を攻撃できて、しかも証拠は残らない。
国際的なテロ組織がこの技術を手に入れたりしたら最後、世界が混とんの極みに突き落とされることは確実だ。
なにしろ現在の地球の科学では、この攻撃を防ぐ手段はないのだ。それは、猛獣を前にして、無防備に裸で立っていることに等しかった。
『疑うなというほうが無理でしょう』
井部はもちろん彼の言うことを理解していたが、実際ここで話せるような技術の詳細についての情報はないのだ。
内調の話では、日本ダンジョン協会にもその情報があるのかどうか怪しいと言うことだ。
では、一体誰が、どうやってこれを作っているのか?
井部の頭には、やらかし続けているひとつのパーティの名前が浮かんでいた。
諸外国に対するやり取りは十分以上に検討したが、日本人が作った、たったひとつのパーティに対する対応は、未だに決めかねていたのだ。
ダンジョン攻略局のサイモンたちを通じて、ハンドラー大統領、ひいてはアメリカが、Dパワーズの連中に接触していることは報告を受けている。
それは、非常に繊細だともいえるアプローチで、言い方を変えればアメリカらしくないアプローチだった。つまりはアメリカだって、その震源地について独自の見解を持っているはずなのだ。
『ここのところ、どうも日本ではありえないことが起こり続けている』
『我々としても、一驚を喫しているところです』
『それにしては、落ち着いておられる。始まりはスキルオーブのオークションでしたか』
『それを我々に言われても困りますよ』
あれはあくまでも民間の出来事だ。
ダンジョン庁にも詐欺ではないかと言う問い合わせがあったとは聞いたが、基本的にDA(ダンジョン協会)の管轄だ。
政府としていきなり何かが言えるわけではない。
『異界言語理解のときも、以上に迅速な発見と、まるで示し合わせていたかのような迅速な対応だ』
『どうやらスタッフに恵まれたようです』
『あれがオークションにかけられたことにも疑問が残る。我が国なら、発見者に国家が直接関与するでしょう』
まさか、スタッフの暴走で関与を自ら捨て去ったとは口にできず、井部は黙って彼の話に耳を傾けていた。
その沈黙をハガティは肯定の意味で受け取った。
『そして、突然現れたヘブンリークス。マイニングや食料ドロップやセーフエリアの話がいきなり公になるとは、大統領も驚きでした』
『しかし、あれは悪いことばかりとは言えないでしょう』
『そう。安全保障上の脅威はほぼなくなったと言っていいでしょう。同盟国が疑心暗鬼に襲われる可能性も激減しました』
『パーティシステムにマイニングにセーフエリア。あれが公になった瞬間に信じられない速度で進む代々木の攻略。二十一層で足踏みしていたダンジョンだとは思えませんな』
『日本ダンジョン協会がマイニング取得者の新規フロア侵入を禁止したのにも驚きましたが――』
実際、日本ダンジョン協会が世界ダンジョン協会に提出したレポートによる勧告を無視した国が、マイニング取得者を自国のダンジョンで利用した例が報告されていた。
ドロップしたのは、もちろん「鉄」だったらしい。
『あれは、日本ダンジョン協会の研究成果と聞いていますが?』
『マイニングのことが発表されてから、わずか一ヶ月でどうやってそんな研究をやったのでしょう。我々が知る限り日本ダンジョン協会に独自の攻略部隊は存在しません。日本政府や自衛隊が何らかの関与を?』
つまりはその辺りの関係で、ダンジョンの向こう側とコンタクトを取ったのかという意味が、その言葉には含まれていた。
『まさか。もしもそうなら、発表なんかしませんよ』
アメリカもそうでしょうとばかりに、井部はハガティに視線をやった。
しかしそれは、もっと重要な情報を得ているからこそ、その程度の情報は「とるに足らないもの」だと考えているのかもしれない。なにしろ今度は「転移」なのだ。
『率直に言って、転移はダンジョンの向こうからもたらされた技術ですね?』
『大使。今回の件に関しましては、我々にとっても寝耳に水なところがありまして。はっきりしているのはそういうアイテムが見つかったと、ただそれだけなんですよ』
『詳細な調査はこれからであると?』
ハガティはやや疑わし気な視線を井部に向けたが、井部はそれを、顔を拭くことで受け流した。
『事はダンジョンの中の話ですから、我々が世界ダンジョン協会管轄だと認めた領域なわけです。もちろん協力はしてもらえるでしょうが……』
『では、詳細が分かりましたら、当然我が国にも?』
『もちろん、お知らせいたします』
日本政府の情報提供に関する言質をとったハガティは、ここが引きどころかと乗り出した身を引いた。
ただし、最後にくぎを刺すことだけは忘れなかった。
『しかし、こういうことが続くと、我が国の政治家の中にも、日本に二心があるのではないかと疑うものも出ると言うものです』
訪れた沈黙を遮るように、オートロウリュが音を立てた。
落ち着いたフットライトに照らされた床に汗が滴ったのは、新たに加えられた蒸気のせいなのか、今の話のせいなのか、二人には判断がつかなかった。
、、、、、、、、、
「よ、芳村さん!」
相互監視実験の準備を終えて、事務所に戻ってくるとすぐに、鳴瀬さんが血相を変えて駆け寄ってきた。
「どうしました?」
「いえ、あの……ダンツクちゃん質問箱の政府版が……」
そう言って渡された質問箱の画面には、要約すれば日曜日に渋谷でデートしようと言うまるで個人的なお誘いが、まるで友達を誘うような文体で書かれていた。
あまりにあまりだったが、一方的な話だし、モデレートするような内容でもなさそうだったので、そのままスルーしていたらしいのだが――
「え?」
それに返事が付いていたのだ。一言「いいよー」と。
「え、これ、本当に?」
あまりに軽いその内容に、俺は思わず画面を見直したが、そこには厳然と「いいよー」の文字が輝いていた。
「ど、どうしましょう?」
「どうしましょうって……ええ?」
これってつまり、ダンツクちゃんが、政府のスタッフと渋谷でデートするってことか? しかし、一体どうやって?
顕現するにしたって、街中をうろうろできるほどあの辺にDファクターがあるとは思えない。
「渋谷に魔結晶がありそうな場所ってあったっけ?」
「渋谷周辺には結構な数の短大や大学がありますよ」
三好がすぐにマップで周辺を検索しながら言った。
「だが、ほとんど全部文系だろ。魔結晶が確保されているような……企業の研究施設は?」
「あの辺にあるのは、経営関係かデザイン、後はせいぜいがITでしょう」
んん? 顕現できないのでは??
「あとは、範囲ですかね」
「範囲か……」
つくばの時は、黄金の木から研究施設までは研修施設まではせいぜい2・3キロだが、件のミカン農園までは10キロ以上離れていたはずだ。
3キロでも代々木や目黒や六本木まで、もしも10キロなら山の手の内側は全部範囲内だ。
「東工大や理科大なんかはぎりぎり5キロ圏の外ですけど、慶応や早稲田や東大の駒場は枠内ですね。後は医科大が結構含まれます」
「医療機関が魔結晶を大量に持っていたりはしないだろ? ダンジョン研究をしているところか、エネルギー関連だけだが――」
「あっ」
「なんだよ」
「六本木や品川まで含まれるとなると、もしかしたら、ファンド系の倉庫が……」
「ファンド? なんだそれ?」
魔結晶が、筑波から消失したとき、将来の値上がりを見越して、それを買い占めたファンドがあるのだとか。
「ワインといい魔結晶といい、金融分野の人たちは、腰が軽くてたくましいな」
「人よりも一歩でも早く、が、成功の秘訣らしいですからね」
そう言えば、最近では、日本でも株式取引の多くの部分を、超高速取引が占めている。
なにしろ東証そのものが、アローヘッドの導入と共に、データセンターのあるサイトでコロケーションサービスの提供を行っているくらいだ。
そう言えばどこかで1ミリ秒だけ先に情報を流して問題になっていた事件とかがあったような気がするな。
「しかし、世間様から見れば、つくばで謎の消失現象だぞ? 自分たちの魔結晶が消失するとは考えないのか?」
「消える前に売ればいいんですよ」
「そんな目茶苦茶な……しかし、それで、あれから魔結晶が市場になかったのか。筑波の後遺症だとばかり思ってたよ」
「まあ、これもある意味では筑波の後遺症でしょうけど」
「しかし、もしもその魔結晶がダンツクちゃん顕現に利用されたりしたら、そのファンドってどうなるんだ?」
「そりゃあ、困ったことになるんじゃないですか?」
軽くそう言って肩をすくめるだけの三好に、鳴瀬さんが困惑顔で聞いた。
「え、本当にその危険があるのなら、勧告しなくていいんですか?」
俺と三好は思わず顔を見合わせるた。
三好の目が語っていたのは、「さすがは鳴瀬さん。ええこやー」だった。いや、俺もそう思うけどね。
「そうかもしれませんが、突然、明日魔結晶が消えてなくなりますから、移動させて下さいなんて言って信用しますか?」
「むしろ輸送中を狙う窃盗団の一味だと思われてもおかしくないですよね」
「そこは日本ダンジョン協会からの勧告であれば……」
「こんな説明できそうにない根拠で日本ダンジョン協会がそれを勧告したとしてですよ、もしも何も起こらなかったとしたら、移し替えるのに必要だったコストをだれが負担するのかとか、後でいろいろと面倒になりませんか?」
気象庁が災害警報を出したから移動させるなんてのとは意味が違うのだ。
ダンツクちゃんが顕現するかもしれないから移動させろ? こう言っては何だが、普通の人には意味不明だろう。説得できる気がまるでしない。
「確かにそうですね……」
「帰還石のこともありますから、今後魔結晶は大量に必要になりますよ。そんな時、買い占めて高騰を狙うような連中が痛い目に合えば、ちょっとした抑止力になりませんかね?」
「まあ、確かにそうですけど、いくらなんでもそれは……でも、仕方ありませんね」
鳴瀬さんは、上手い対案を思いつかなかったようで、仕方なさそうに肩を落とした。
「だけど、この人って、ダンツクちゃんに会ってどうするんですかね?」
話が一段落したと思ったのか、三好は質問箱が表示されているタブレットを持ち上げて、それを目で追いかけながらそう言った。
「え? 日本の要求を伝えるとかじゃないんですか?」
まあ、普通なら鳴瀬さんが言うとおりだ。
だが要求だけなら、この掲示板で伝えられる。それでもいきなり会うことを望むとしたら、それは――
「もしもこちらがモデレートしていることを知っていたとしたら、そうかもしれません」
俺は、その文面をもう一度見た。
「確かに、直接会われたらモデレートのしようがありません」
「しかし、まさかこんなアプローチを行って、しかもダンツクちゃんがそれに応えちゃうとは」
「驚きました。予想もしませんでした」
まあ、俺も予想はしてなかった。
「だけど、休日の渋谷でそんな話をしますか? そういうのって、迎賓館とか、首相官邸とか使いません?」
「ええ、だって???」
「休日の渋谷で会うなら普通はデートですよね」
「すみません、意味がちょっと……」
鳴瀬さんは頭痛をこらえるようにこめかみに指を当てた。
しかしこの文面。どう見ても個人的なデートのお誘いだよな……一体どんな奴が書いたのか、ちょっと興味があるな。
「どうやら、なかなか面白いスタッフを集めたみたいだな」
「それで……私たちも渋谷へ?」
鳴瀬さんが、覚悟を決めたような顔でそう言った。
もしも本当に顕現したら、日本とダンツクちゃんのファーストコンタクトだ。その結果がどうなるのかは分からないが、なにかすぐに行動できる場所に居たいと言う気持ちが伝わってくるようだった。
「どんな理由で介入するんです? 監視していることがはっきりしてしまうのもアレですけど」
「そこは、日本ダンジョン協会からノートを貰った時点でばれてませんか?」
三好がそんなのとっくにバレてますよと突っ込みを入れた。
だが、そうだろうとは思っていることと、本当にそうであると知ることは違うのだ。
「そこは、秘すれば花ってやつだよ」
「それじゃあ、このまま放っておくんですか?」
鳴瀬さんが、少し心配そうな顔でそう尋ねた。
ダンツクちゃんも世界の常識について大分学んだようだし、とりあえず最初の二十七人分の知識もある程度有機的な結合を見せているはずだ。
ここまでくれば、事態はもう俺たちの手を離れたと考えてもいいような気もするが――
「まあでも、世界初の異世界人?とのデートがどんな展開になるのかは、目茶苦茶興味深いところだよな」
「ですよね!」
「ええ? それってつまり……覗き?」
「なんてことを言うんです! いいですか鳴瀬さん。我々には、ダンジョンとこの世界の行く末を見守る義務が――」
「先輩、いつからそんな責任感が!?」
「――あー、義務が……やっぱないよな、そんなもの」
「だと思いましたよ」
俺は、ゴホンと咳を一つすると仕切りなおした。
「ともかく! 明日は渋谷へ目立たない格好で見物に行こう。面白そうだから」
「おー!」
「お二人とも、お願いですから、騒ぎだけは避けてくださいよ? 頼みますよ? 相手は日本政府ですよ? 洒落になりませんからね?」
、、、、、、、、、
その返事を見た、杉田は一瞬自分の目を疑ったが、次の瞬間には思わずガッツポーズをとってソファーから飛びあがると、唖然としている同僚を全く無視して、「明日の準備があるので早退します!」と言って部屋を出て行った。
誰にも声をかけるタイミングすらない、見事な職場離脱だった。
「いったい、何があったんだ?」
「成宮さん、こ、これ……」
杉田が見ていた画面をのぞき込んだ村越が、震える指でそれが書かれていた部分を指さした。
「『いいよー』? って、まさか――?!」
その返事は、明日、杉田が渋谷でダンツクちゃんと会うと言うことを意味していた。
「おいおいおいおい、冗談だろ?!」
誰もその誘いに相手が答えるなどとは、心の底では思っていなかったのだ。
「け、警備は?!」
三井が思わずそう言った。
「そんなの無理に決まってます。国交がないんですよ?」
「それでも内調とか……そうだ内谷さんに連絡して、警備部に渡りをつけてもらおう!」
「それにしたって、今から明日の渋谷の立ち入りを禁止するなんてことはできませんよ」
村越と三井のやり取りを見ながら、成宮は頭を抱えていた。
まさか対象とのファーストコンタクトが、こんな意味不明な状況で発生するとは夢にも思っていなかったのだ。
相手は人の格好をしているかもしれないが人ではない。生き方も理念も道徳も常識も我々とは違うのだ。
それが日曜日の渋谷に現れる?
「虐殺だけは勘弁してくれよ……」
成宮は真剣にそれを心配していた。
「てか、杉田を呼び戻せ! せめて対策を話しておかないと!」
三井と村越がその声に反応して、同時に杉田を追いかけ始めた。
、、、、、、、、、
「なんだと? 明日神の眷属が渋谷に?」
自分の手ごまから突然かかって来た電話をとったデヴィッドは、そのあまりの突然さに、思わず面食らった。
非常に嬉しい情報ではあったのだが、傭兵連中が去り、スタッフを隠したり帰国させたりした今、手ごまが足りなかったのだ。
いまさらフランス政府筋には頼れないが、かといって日本の信者にすべてをゆだねるのも難しい。
イザベラやマリアンヌがどうなっているのか、すぐには分からない。
「くそっ、手が足りん!」
手ごまからの電話を切った後、デヴィッドは苦々し気にそう言い捨てて、しばらく考えた後、出かける準備を始めた。
、、、、、、、、、
「こちらへ」
暗い夜の闇の中、辺りには誰もいそうにない倉庫街で車を降りた男は、ごつい体格の軍人めいた所作の男二人に脇を取られると、そのまま引きずられるようにして、そのビルの中へと連れて行かれた。
男は、これが俺の見る最後の風景かと半ばあきらめながら、されるがままに身を任せていた。
正面に男が据わっている机を除くと、何もないコンクリートが打ちっぱなしにされた奇妙な部屋に案内された男は、その部屋のすえた臭いに拷問部屋と言う印象が頭をよぎった。
「どうして呼ばれたかは分かっているか?」
目の前の机の向こうに座っている人物の顔は影になって見えないが、それなりに年配らしい声でそう尋ねられた。
「ああ」
男は諦めたようにぶっきらぼうに答えた。
彼は、日本ダンジョン協会から情報を取得し、御殿通工の株取引を仕掛けた責任者だった。
三月十一日から予約の始まったDカードチェッカーは、すでにEMSでの生産が大々的に始まっていたが、硬軟織り交ぜ苦労してそこから引っ張り出した情報によると、調達部品の中に御殿通工の特殊なセンサーは含まれていなかったのだ。
実際御殿通工からそれらが出荷されている様子はなかった。
それを知った時、男は自分がすべてを失ったことを察したのだ。いずれ彼《か》の株価は元の700円台に戻るだろう。
十倍以上の株価でそれを大量に購入した彼の罪は、その命一つで贖えるようなものではなかった。
「それで、御殿通工の株をどうするつもりかね?」
取得にかかった金額は1兆円に近い。上がる見込みがないからと、今すぐ一気に放出したりしたら、その損失は最大で90%にも上るだろう。
「好きにしろよ。見せしめに海にでも沈めるのか?」
「ははは。君の命で損失が贖えるとでも?」
面子は非常に重要だが、今回の損失は、面子に構っていられないほど大きいと言う事だ。
面子にこだわるなどと言うものは十分潤っているものか、そうでなければ何も持っていないものだけに許された特権だ。
「幸い米国から今朝こういうものが発表された」
男が机の上に放り投げた書類を、感情を表に出さない男が拾い上げて、断罪を受けている男の前に突き出した。
それには、魔結晶から電力が取り出される碑文の内容が書かれていた。
「この瞬間から魔結晶は暴騰している。君がやっている魔結晶ファンドも少しは損失の穴埋めになるだろう?」
男が集めた魔結晶は、青山の倉庫に相当数が積み上げられていた。
しかし、どんなに暴騰したところで、損失のせいぜいが数パーセントと言ったところだろう。
それは十分な大金ではあったが、損失と比べれば微々たるものと言われても仕方がなかった。
ゼロよりはマシとはいえ、それだけで許されるはずがない。
「他にやらせたいことがあるんだろ?」
そのあまりの言葉遣いに、男の側近だと思われる連中が怒気を高めたが、正面に座る男はそれを軽く手を挙げて制すると言った。
「我々の面子を潰した人間には、相応の罰が必要だと思わないか?」
男はその言葉を聞いて、彼らが自分を最終的には鉄砲玉に仕立て上げる気なのだと理解した。
対象が相手の財産なのか命なのかは分からないが。いや、きっとすべてなのだろう。彼らは相手を破滅させたいのだ。
「我々の気は、江のように長くはない。特に今はね」
見えないはずの顔の口元が三日月のように割れているように思えて、男はぶるりと身を震わせた。
、、、、、、、、、
アメリカの東部時間の朝。日本時間なら、その日の夜。
各国の政府には、フランスが代々木で発見した碑文の情報が、アメリカから届けられていた。
魔結晶から電力が取り出せるというその情報は、各国の驚きと共に受け止められ、そうして、即座に魔結晶の高騰が始まっていた。
206 渋谷騒動(前編) 3月24日 (日曜日)
西高東低の冬が戻って来たかのような気圧配置の中、その日の渋谷は、寒いながらも抜けるような青空を見せていた。
「まるで僕たちの将来を暗示しているかのようですね!」
朝からテンションMAXの杉田は、いつになく生気にあふれ、ついでにドレスアップした様子で、朝のすがすがしい空気を深く吸い込んでは、白い息を吐きだしていた。
対照的な残りの三人は、寝不足の顔で背を丸めながら、杉田の後ろをとぼとぼと疲れた足取りで歩いていた。
あれから呼び戻された杉田と四人で、対応や質問についていろいろと議論を行ったが、なかなか結論の出ない中、今日のために普段通りに就寝した杉田と、朝までになんとか対策をひねり出さなければとミーティングを続けた三人の差が、今の様子に現れていた。
「ご機嫌なのはいいですけど、杉田さん、ちゃんと朝のブリーフィングの内容を覚えてらっしゃるんでしょうね?」
村越が、疑わしそうな眼差しで杉田を見た。
朝食をとりながら昨夜の対策の内容を、杉田に詰め込もうとした三人だったが、すでに心ここにあらずな状態だった彼は、それを覚えているのかどうかとても怪しかったのだ。
「大丈夫、大丈夫。世の中には出たとこ勝負って言葉があるんだから」
「それって、全然覚えてないって事じゃないですか!」
「大丈夫だって、僕らは一応……」
何か言おうとした杉田が突然何かに気が付いたように立ち止まって黙り込んだ。
「どうしました?」
何かあったのかと村越が、心配そうに杉田の顔を覗き込んだ。
「そういや、この組織の正式名称ってなんなんだっけ?」
「そこ?! いまさら?!」
いつもピシッとしたスーツに身を包んでいる三井が、心なしかよれたスーツで疲れたように、「内閣官房国家安全保障局D交流準備室だよ」と答えた。
それを聞いた杉田はおかしそうに笑った。
「交流なのにDCとはこれいかにってやつですね」
電流の交流のことはAC、直流のことをDCと呼ぶのだ。
「Dはともかく、どこにCの要素があるんです?」
遊びの延長のように楽しそうに笑う杉田に、仕事の延長で付き合わされている気分の村越が、ささくれだった目つきで突っ込んだ。
「Cabinet Secretariat(内閣官房)」
「遠い! 遠すぎますよ!」
「ははは、村越さん怒るとシワが増えますよ?」
「大きなお世話です!」
「そういうわけで、僕らは一応、DAC準備室の精鋭じゃないですか」
村越は「だから、何?!」と心の中で絶叫して眉間にしわを寄せていたが、疲れていた成宮たちはすでに突っ込む気力もなく、単に思いついたことを口にした。
「デジタルアナログコンバーターみたいだぞ、それ」
「外務省的には、開発援助委員会(Development Assistance Coミリittee)でしょう?」と三井が疲れたように言った。
「じゃあ、経産省的には分散型自律企業(Decentralized Autonomous Corporation)ですね」と村越が諦めたように放言した。
「何言ってるんですか、皆さん。DACと言えば、デヴィルアームドコンバットユニットでしょう」
「なんですそれ?」
「死ね死ね団の精鋭部隊」
「はあ?」
「知りません? Die Die Gang」
杉田たちの会話に、なんだかポン酢を作る季節に、材料のかんきつを盗んで歩く組織のようだなと苦笑しながら、成宮は隣を歩く三井に尋ねた。
「それで、結局警備部には応援を依頼したのか?」
「私服が何人か出ているとは思いますが、マルタイの容貌を伝えられませんでしたのでなんとも」
「そうか」
「なんです? 何かあるんですか?」
「いや、それならとっくに漏れてるなと思ってな」
「は? どこにです? 相手は警備部ですよ?」
なにしろ、例の転移石で、日本は一気に世界中の注目を集めたはずだ。その技術の出所を探る仕事は、最高のスタッフに最高の優先度が与えられたに違いない。
そこへ、新しくできたダンジョン関連の怪しげな組織から警備部へ護衛が依頼されて、しかもマルタイがはっきりしない?
そりゃあ注目を集めるだろう。
「ま、筒抜けだろうな」
「そんなバカな。もしもどこかへ漏れたとしたら日本ダンジョン協会経由でしょう?」
あの怪しげな掲示板と警備部の信用度は、比較できるほど近いとは思えなかった。
「だといいな」
信じたい事柄に足首を掴まれているように見える三井に、それを是とも否ともせずに成宮が答えた。
「ともかく、今日の渋谷はどこの組織がウロウロしているか分からない、まさに伏魔殿ってやつさ」
「とは言え、ここは日本ですよ? 流石に銃器の類は出てこないでしょう?」
成宮の言葉に、不安そうに村越が身を震わせた。
「去年の、異界言語理解の騒動の時は、結構発砲もあったらしいぞ」
「うそ?! そんなことニュースじゃ一言も――」
「ま、そういう判断が、あったんだろうな。どこか上の方で」
「ボディアーマーを借りてくりゃ良かったですかね」
「デートにそんなものを着て行くのは無粋でしょ?」
そうして彼らは宮益坂下の交差点を駅の方へと曲がって、山手線のガードを潜《くぐ》ろうとしていた。
、、、、、、、、、
『ほう。なかなかうまく溶け込んでいるじゃないか』
D交流準備室の連中が、宮益坂下を駅の方に曲がり、ちょうどみずほ銀行の前を通過しているのを、道路の反対側を駅へと向かう黒塗りの高級車の後部座席から眺めながら面白そうにつぶやいた。
待ち合わせ場所がハチ公前だというのは、どんな馬鹿が決めたのかと憤ったが、ともかく今日の目的は神の眷属たるものを我が教団にお迎えすることだ。
競争相手は、日本の準備室とやらを筆頭に、各国の諜報機関の面々になるだろう。
、、、、、、、、、
そのころ俺たちは、井の頭通りの一方通行を逆に進みながら、西武のA館とB館の間を歩いていた。
「それにしても今日は寒いですね、先輩」
「もうじき春だってのになぁ……で、待ち合わせはどこだって?」
「ハチ公前だそうですよ」
「嘘だろ?」
確かにメジャーな待ち合わせスポットだが、目茶苦茶人が多い上に、周囲の全員がスマホで写真撮っていると言っても過言じゃない超絶撮影ポイントだぞ。
あんなところにダンツクちゃんが直接顕現したりしたら、大騒ぎじゃすまないだろう。大体、雨が降ったらどうするつもりだったんだ?
「でも、本当に覗きに来ちゃっていいんでしょうか」
鳴瀬さんが思案気に、頬に手を当てていた。
「いや、だって、何が起こるか分かりませんし」
「はあ……」
「何が起こるにしろ、現場にいた方がフォローしやすいでしょう?」
「フォローする気があったんですか!?」
「そりゃもちろんしますよ。火の粉が飛んで来そうになった時は」
「……ですよね」
がっくりと肩を落とした鳴瀬さんは、それでも、上司には報告したらしかった。
しかし、ダンジョン由来の問題とは言え、場所は渋谷の駅前なのだ。管轄が違うため、どうにも介入は難しいらしかった。
せいぜいがダンジョン庁への報告を行うくらいだが、前代未聞の出来事だけに、昨日の今日で政府が主体的に動くことは難しいようだった。
なにしろ、ダンジョンの向こうとの接触は、今のところないというのが正式見解なのだ。ここで素早く対処してしまうと、その言葉自体が怪しまれるというジレンマもあったようだった。
そんなこととは全く無関係に、気楽な様子で歩いていると、三好が渋谷センター街と書かれた街灯を見上げながら言った。
「先輩。地元じゃないから良く分からないんですけど、センター街って、一本南じゃないんですか?」
「本来はな。だけど今は、井の頭通りも文化村通りもセンター街だと名乗ってるから。大体、今日俺たちがずっと歩いてきた道は、昔は宇田川で道なんかなかったらしいぞ」
渋谷川の水系は、軒並み暗渠化されていてもはやどこに川があったのかも良く分からない状態だ。
八幡のところで、宇田川に合流していた河骨川なんて、臭くてどぶ川になっちゃたからという理由で蓋をされて下水道にされたという悲しい川だ。
「へー、あの辺も川だったんですね」
「〈春の小川〉のモデルになったくらいきれいだったらしいけどな」
「あ、はーるのーうらーらーのーってやつですか?」
「そりゃ、隅田川だろ!」
、、、、、、、、、
『深い水底でじっとしていたような男が、どうして急に動き始めたんだ?』
『分かりませんが、どうやら各国の諜報機関の連中も行動を起こしているようです』
『つまり、渋谷で何かがあるって訳か……』
『DGSE(フランス対外治安総局)に問い合わせますか?』
CD(ダンジョン部隊)とDGSEは、CD関連で紹介されたゲストが、DGSEのおひざ元でやらかしたために、現在少しぎくしゃくしていた。
あの部屋に残された血痕は、デヴィッドのものと一致しなかった。いったい誰の血痕なのか、あのマンションで何が行われていたのか、それを報告するまではなかなかうまくいかないだろう。
それでも重要な情報を仕入れておいて、こちらに全くよこさないということは、国家的な利益の枠組みからも考えにくい。
『さすがに情報を伏せてるなんてことはないと思うが、一応さりげなく問い合わせてみろ』
『了解です』
、、、、、、、、、
星乃珈琲の前に停車しているテレビ局の中継車めいたバンの中では、アメリカのCIAとNSAの合同監視チームが待機していた。
フォンティーヌにいる連中が所属している部署だ。
『渋谷でダンジョンの向こう側の何者かが顕現する? って、東京に来てから異世界物のフィクションを演じている気分になるぜ』
『どうやら、警備部から官邸に上がった情報らしいです』
『さすがは、元大手コンサルの上級駐在員だ。日本政府の情報提供に関する言質が効いてるな』
大使の経歴には、大手コンサルタント会社の上級駐在員として、日本に三年間赴任した経歴があった。
『で、我々はどうすればいいんです?』
『こいつは、日本の政府マターだ。俺たちはとりあえず連中が何をしているのかの監視だな』
まさか、ダンジョンの向こう側の使者を誘拐するわけにもいくまい? と、チームリーダの男は冗談を飛ばした。
その星乃珈琲では、三人東洋系の男たちが、窓際のスクランブル交差点を見下ろせる席で話をしていた。
『どうやら辺りには世界中の同類がたむろしているようです』
後から入って来て席に着いた男が、先に席についていた二人のうち、ごつい体格の男に向かって報告した。
『我が国は、あれほど広い国土を有しながら、どういうわけかダンジョンの個数自体が少ない。しかも虎の子のそれは、インド国境の微妙な位置にあるありさまだ』
『探索者五億人プロジェクトも、なかなか進まないようです』
仮に一日に10万人を登録したとしても、一億人の登録に三年近くかかるのだ。
そうしてひとつのダンジョンで一日に10万人を登録することは不可能に近い。
『港と同様、金銭で支援して長期の借り入れを検討したが、初期の混とんとしていた時ならともかく、世界は迅速に世界ダンジョン協会を立ち上げて管理を委託した、我々にとっては非常に望ましくない事態となったわけだ」
『残念です』
とは言え、一つしかダンジョンがなかっ我が国は、それに固執して世界的な機構から爪弾きにされるわけにはいかなかった。
東洋と西洋では流れる時間のスパンが違う。彼らはいつものように、長い時間をかけてその組織を求める形にすればいいと考えて、表向きは同調した。
『残された道は、ダンジョンの制作者にお願いして、我が国にも多くのダンジョンを作ってもらうしかない』
『お願いですか?』
『そう、お願いだ』
男は薄い唇で、にんまりとした笑いを浮かべた。
『何が何でも、お願いをしなければな』
男は酷薄な視線を、話を縮こまって聞いていたもう一人の男へと向けた。
『やることは分かっているな?』
『ああ』
前日、あの拷問部屋めいた場所で、今日ここでやるべきことを聞かされたとき、彼は絶望した。一言でいえば犯罪者になれと言われたに等しかったからだ。
今すぐ始末されたところで、輝ける日々は失われたりはしない。栄光はすべて過去のものになってしまっていたとしても、それはそこに存在していたのだ。
だが、生きてそれを泥にまみれさせろと言われるとは……
――我々の面子を潰した人間には、相応の罰が必要だと思わないか?――
あれは、仕手を仕掛けた相手の話かと思っていたが、まさか自分のことだったとは。
、、、、、、、、、
渋谷のハチ公前は、いつものように若者たちで溢れていた。
いつもと違うのは、その中に、何をしているでもない外国人の姿が多数あったことだ。意外かもしれないが、ハチ公口でたむろする外国人は想像するよりもはるかに少ないのだ。
彼らはお互いに認識し合っていたが、それをおくびにも見せてはいなかった。
そうして時計の針が十時を指した時、それは起こった。
207 渋谷騒動(後編) 3月24日 (日曜日)
「鐘?」
青ガエル周辺で待ち合わせをしていた男がふと顔を上げた。
確かに駅周辺にもいくつかの教会があるし、聖体礼儀の開始をそれで告げることもあるだろうが、こんな風に聞こえてきたことは一度もなかった。
その音は徐々に近づくように、今ではスクランブル交差点周辺で大きく鳴り響いていた。
「先輩、この音って……」
三好が空を見ながら大きく鳴り響く鐘に眉をひそめた。
それは、さまよえる館が消えるときに鳴り響いているそれとそっくりだったのだ。
「まさか館ごと、スクランブル交差点のど真ん中辺りに現れるんじゃないだろうな?!」
もしも車道側が青の時にそんなものが突然現れたとしたら、大事故になるだろう。駅前には阿鼻叫喚の嵐が吹き荒れるに違いない。
「どう考えてもそんなDファクターはないはずですよ!」
俺たちが慌てて、TSUTAYAの前へ駆け寄った時、周囲から目に見えない何かが、渦を巻くようにハチ公と青ガエルの間に集まっていくような気がした。
「くそっ! ショーじゃないんだから、もっとこっそりやって来いよ!」
周囲を歩いていた人たちは、それを何かのシークレットイベントの合図だと思ったのだろうか。口々にいろんな予想を囁きながらいつでも来いとばかりに足を止め、自分のスマホを取り出して何かが起こるのを待っていた。
いつの間にか周りの街路樹やビルの上には、多くの黒い鳥が集まって来て、不吉な未来を暗示するかのようにじっと駅前をうかがっていた。
確かに渋谷や世田谷にカラスは多い。そうして今は繁殖期の走りだ。しかし、それらが一斉に集まってきて、人々を睥睨するありさまは、いくらなんでも異常だった。
「なあ三好……」
「なんです?」
「俺は、もう、おうちへ帰りたいんだが」
「奇遇ですね、先輩。私もです」
『青になりました。左右の安全を確かめてから渡りましょう』と機械音声が流れる中、俺たちは、ぎらついた眼差しで、シャッターチャンスを狙う数百人の群れをかき分けて、スクランブル交差点を仕方なく渡りながら、お互い逃げ出したい気分を吐露していた。
俺たちの後ろを歩く鳴瀬さんが、その様子を見て苦笑していたが、あなた他人事じゃないですよね?
、、、、、、、、、
『何かが集まってきている!』
インカムから聞こえる、現場チームの焦ったような声が、その場の異常さを物語っていた。
『何かってなんだ? カラスはこちらでも確認しているが――』
『違う! そんな鳥なんかじゃなくて……くそっ! 何かとしか言いようがないんだよ! こいつはまるでホラー映画だ!』
何かが集まってきている――その感覚は強烈に感じるのに、何も目には見えず風などが吹いている様子もない。街はいつも通りに動き続けていたが、ただそこを歩く人だけが、何かを感じたかのように、その異様な雰囲気の空間を避けていた。
ハチ公前にできたぽっかりと人のいない円形の空間。彼らはそこに突然現れた。
その瞬間、最後の鐘の音が余韻を残すように消えていき、カラスたちが一斉に声を上げると、空に向かって飛び立った。
平和をうたう鳩ならば画になるところだが、それがカラスでは、控えめに見ても悪の魔王が顕現したかのようだった。
そこに集っていた多くの人たちは声を失い、後には、道路を走る車の音や広告の発する音楽だけが残されていた。雑踏の聞こえない渋谷は、奇妙な廃墟感を醸し出していた。
その場を監視していたアメリカのチームは思わず息を呑んだ。彼らは当然ダンジョン攻略局関連の資料にも目を通している。つまりはほぼ全員が、そこに現れた男の顔を知っていたのだ。
『……セオドア=タイラー博士?』
『なんだと? すぐ映像を送信して確認しろ!』
突然現れたその男に、数百台のスマホが向けられ、一斉にシャッターが切られ始めた。
周囲を監視していた他国のチームも、そこに現れた西洋風の人物に不自然なほどに視線が吸い寄せられたため、傍らにいた小さな人物からは、完全に意識が外れていた。
その人物を明確に認識していたのは、この場にいた大多数の人間の中で、たった三人だけだった。
「先輩、あれって――」
「ダンツクちゃん扮するメアリーだろ。それよりタイラー博士の方が問題だろ! あのおっさん、『君に預けるよ』とか言ってたくせに、なんでこんなところで?!」
「公開されようとされまいとどうでもいいとか言ってましたからね……保護者としてついてきたんですかね?」
「どういう意図があろうと、これでまたひと騒ぎ――」
その時、周囲のほぼ全員がタイラー博士に注目している中、ダンツクちゃんがこちらに向かって走り出した。
、、、、、、、、、
「キターーーーー! あの子ですよ、あの子!」
二人が現れた瞬間、杉田は持っていた花束を掲げて万歳をしながらそう言った。
他の三人は、同時に現れた大人に注意を向けていたので、杉田が何を言っているのか一瞬理解できなかった。
「はーい、僕はここです――あれ?」
ダンツクちゃんが走り出したのを見て、喜んで手を振った杉田だったが、どうにも走り出した方向が違っていた。
「え? え? いったいどこへ――」
その行き先を目で追いかけていた杉田は、彼女が少し先に居た男の足に抱き着いたところで、ムンクよろしく「ぎゃー!」という叫び声をあげた。
、、、、、、、、、
「先輩!」
ダンツクちゃんがこっちに向かって走って来たのを見て、三好がどーすんですかと言った視線を投げかけて来たが、こんなの完全に予定外だ!?
しかし、ここで注目を集めるわけには――
その時、青ガエルの方から、「ぎゃー!」という叫び声が聞こえてきて、振り返るとバラの花束を掲げた男と、連れらしい三人が目に入った。
「おい、あれ、まさか……」
「D交流準備室の人っぽいですね」
「しかし、ぎゃーってなんだよ、ぎゃーって」
怪奇大作戦のエンディングかよ。目立つだろうが!
「原因はこれじゃないですか」
そう言って三好が指さした先には、俺の足に抱き着いているダンツクちゃんがいた。
心の中で、「ぎゃー!」と叫んだ俺は、小さく片手をあげて挨拶をした。
「よ、よお」
すると、彼女も手をあげた。おお、今回はコミュニケーションが取れてるぞ! と喜んだのもつかの間、俺の背後から煙を吐き出す何かがいくつも飛んで、タイラー博士の周辺へと転がって行った。
「スモークグレネード?! って、ここは渋谷のど真ん中だぞ?!」
その瞬間、視界の隅で、車を乗り捨てるようにして、こちらに向かって駆けだす男の姿が見えた。どこかしら熱に浮かされたようなその男の顔に見覚えはなかった。
辺りの連中は、逃げながらスマホをかざしている。ここまで来たら見上げた心意気だ。
「先輩! 逃げましょう!」
「どこへ?」
「ここじゃないどこかへですよ!」
「タイラー博士を放って?」
「ファントム様が助けに行きますか?」
「逃げよう」
どうせ彼はいつでもDファクターに還元される体だろう。放っておいても大丈夫のはずだ。
その瞬間、こちらを向いたタイラー博士が、ウィンクしたような気がした。なにをやらせるつもりなんだ、あの人は!
後ろからはスモークを投げたと思われる東洋系の連中が、駅側からは、どこかのエージェントみたいな連中が、タイラー博士に向かって走っていく。
俺は、ダンツクちゃんを抱え上げると、宮益坂方面に向かって走り始めた。
青ガエル方向からは交流準備室の連中が、道玄坂方向からは怪しげな男が、そうして後ろの駅前交差点の信号は赤だったのだ。
「あ、芳村さん!」
思わず声を上げた鳴瀬さんだったが、周囲の人間に邪魔されて、とっさに付いてくることができないようだった。
「アイスレムを置いて行きます! また後で!」
まさか突然渋谷のど真ん中で銃撃戦が始まったりはしないだろう。彼女の身の安全は大丈夫だろうと割り切って、俺たちは、全速力で宮益坂を上り始めた。
長く続く直線は攻撃されるかもしれないと、ガードを潜るとすぐに東口バスターミナルの方へ折れ、そのままターミナル内を抜けて建設中の高層ビル現場へと飛び込んだ。
警備員は駅前の騒動に気を取られていたのか、そこには誰もいなかった。
、、、、、、、、、
『中佐! あれを!』
部下が指差した方を見ると、デヴィッドらしき男が車を乗り捨てて飛び出して行くところだった。
この交差点で何が起こっているのかは分からなかったが、すくなくとも彼が走って行ったのは、他の国のエージェントらしき連中が殺到している場所とは違うようだった。
ブーランジェ中佐は、一瞬どちらを優先するべきか迷ったが、自分たちの目的はデヴィッドの捕縛だ。
『くそっ、訳が分からんが追うぞ!』
『了解です!』
そう言って彼も車を乗り捨てた。
、、、、、、、、、
「なんだか、俺たちより前に、彼らを追いかけている男がいますよ!」
「くそっ、一体何が起こってるんだ?!」
「す、杉田さん、ここから先は警察に任せた方が……」
前を行く男を追いかけながら、村越はそう言った。百メートルほど追いかけただけで、すでに息が上がっていたのだ。徹夜も相当効いていた。
「ぼ、僕の花嫁を取り返さないと!」
「おーい、杉田、戻ってこい!」
「でも俺たちこれを追いかけていていいんですか? 一緒に登場したように見えた男の方が向こうの大使なんじゃ?」
「だが、情報じゃ、相手は少女だと言っていただろ?」
「しかし、交渉は大人とするものでしょう。実際、その筋っぽい人たちが群がってたのは、西洋人ぽい年配の男性でしたよ。もしも彼らが擬態しているんだとしたら、こちらの常識に従った姿をとるんじゃないでしょうか」
「そいつは一理あるが――」
話をしながら全力で走るのは、もの凄く疲弊する。成宮は言葉を紡ぐのを止めて、先頭を走っている杉田を指さした。
「ともかく、あのバカを放っとけないだろうが!」
そう言って振り返った成宮の横を、体格の良い外国人が、風のように追い越していった。
「ええ?!」
確認するまでもなく、みるみる引き離されていく背中を見て三人は、この部署ってもうちょっと体を鍛える必要があるかもしれないと、場違いなことを考えていた。
、、、、、、、、、
殆ど完成している、高層ビルの建築現場へと入り込んだはいいけれど、どこにも抜け道が見当たらない。
「行き止まりじゃん!」
「先輩、あれ!」
三好が指差した先にあったのは、工事用の仮設エレベーターだった。怒られるかもしれないが、この際背に腹は代えられない。
「って、よく考えたら、俺たちってなんで追いかけられてるんだ?」
「知りませんよ!」
そうしてケージの中に飛び込むと、それは幸い自動運転装置付きのエレベーターだった。目的階のボタンを押しさえすればいいタイプだ。
俺はとにかく時間を稼ごうと、一番上の階のボタンを押した。
ゆっくりと、扉が閉まり始めるが、いかんせん工事用エレベーターの動作は緩慢だ。ぎりぎりのところで、追いかけて来た男が滑り込んだ。
、、、、、、、、、
『くそっ!』
あと一歩のところで、デヴィッドを捕まえられなかったブーランジェたちは、悪態をついて登っていくエレベーターを見上げていた。
そうしてその先にある階段を見つけると、すぐにそれに向かって駆けだした。
遅れて到着した交流準備室の四人は、息も絶え絶えになりながら、階段へ向かう男たちと、上がっていくエレベーターを見比べて悪態をついた。
「なんでエレベーターが動いてるんだよ?!」
「とにかく上だ。階段を使うぞ!」
「嘘でしょ! 私ヒールが付いてるんですけど!?」
「そりゃ、回復しそうで羨ましい!」
苦しい息遣いで、あえぎながらも、くだらない冗談を言うチャンスは逃さない杉田だったが、目の前にある今年の十一月にオープンするビルは、46階建てで地上230メートルの高層ビルだ。
階段で駆け上がることを考えただけで戻しそうだった。
、、、、、、、、、
『私の見るところ、そっちの少女が本命なのだろう?』
息を切らしながらぎりぎりで駆け込んできた男は、ねっとりとした熱っぽい視線でそう言った。
「先輩、フランス語ですよ」
「マリアンヌやイザベラの関係者かな?」
デヴィッドは日本語がほとんど分からなかったが、それでも固有名詞の音は理解できた。
『おや、マリアンヌやイザベラも世話になっているのか? なんなら、その少女と交換してもらってもいいんだが』
「なんか言ってるぞ?」
「先輩、ここははっきりと言ってやりましょう!」
「おお、そうだな!」
意を決したように、一歩前に進み出た俺に、男は警戒するような目を向けた。
「ジュ ヌプ パ パーリー フロンセ!」
『はあ?』
私はフランス語が話せません!と、片言っぽいとは言えフランス語で言われたデヴィッドは、何言ってんだこいつという顔をした。
「通じなかったか?」
「うーん、大丈夫だと思いますけど。外国の方に、『私は日本語が話せません!』って堂々と日本語で言われたときの気分なんじゃないでしょうか?」
「ああ」
デヴィッドは我に返ると、俺の発言を無視して、フランス語で何かを滔々と語り始めた。
かろうじて聞き取ったところによると、どうやらこいつは、ダンジョンの向こうにいる真の超越者とやらに、自分をアピールしているつもりらしい。
真の超越者が相手じゃ言語など些細な問題なのだろう。なにしろすでにテレパシーまで登場しているのだ。
エレベーターは工事用にしては結構な速度で上がって行った。足元に、渋谷駅や首都高三号線のパノラマが広がっていく。
目の前の男は、さほど強そうでもなかったが、ダンジョン関係者には何があるか分からない。何とかなるだろうとは思っていたが、油断をするつもりはなかった。
「ところで先輩、その人って――」
「やっぱ、アルトゥム・フォラミニスの関係者?」
「どうやら一番偉い人みたいですよ。デヴィッド=ジャン・ピエ−ル=ガルシアだそうです」
「お前の〈鑑定〉、知らない奴の名前まで分かるのかよ。もしかして、寿命が半分に減ったりしてないか?」
「今のところ、死神は見えないみたいですから大丈夫ですよ」
そうしてエレベーターが最上階へと到達しても、彼はまだ、枯れない泉の如く、超越者たちの栄光をたたえ、自分がそれに浴するのにいかに相応しいかを説き続けていた。
強い風の吹く工事中の最上階は、ほとんど完成していたが、一部に床のない場所があり巨大なクレーンが微かに揺れていた。
『ダンジョンの英知に触れる権利は、誰をおいてもこの私のものだ! 神よ! あなたなら分かるでしょう!!』
「いや、分かんないと思うよ」
「え、先輩、何を言ってるか分かるんですか? いつからフランス語が堪能に?」
「え? あ、そう言えば……」
「まあ先輩の知力は、御劔さんの3倍くらいありますからねぇ……もとからへたくそなフランス語も話してましたし」
「へたくそってな……お前は? お前も倍くらいあるだろ」
「半分くらいは聞き取れるようになってきた気はしますけど、鼻の穴にグリンピースを詰めたような発音はまだちょっと慣れませんね」
「いや、グリンピースって……」
こいつの知力も人類としては最高ランクを飛び越えているはずだ。
ここんところフランス人と関わることが多かったし、目の前の男は延々と話しているし、聞き取れるようになっていたとしてもおかしくはないだろう。
いつまでも話し続けているデヴィッドにちょっと飽きてきた俺は、嗜虐的な親切心を発揮した。
「ダンツクちゃん、あいつの言ってること分かるか?」
メアリー姿の彼女は、ふるふると首を横に振った。
『わかんないってさ』
そう言われて一瞬言葉に詰まった彼は、俺に向かって指を突きつけ、大声で罵った。
『黙れ、この偽預言者め!』
「偽預言者?」
「デイアボリックトリニティってやつですね」
「悪魔の三位一体?」
「悪魔と反キリストと、後は偽預言者ですね」
父と子と精霊の悪魔バージョンってことか。
「アルトゥム・フォラミニスって、キリスト教系なのか」
「まあ、フランスですから、その影響も大きいんじゃないかと思いますけど」
フランスは元々カトリックの国だ。
『聖なるものには悪が付きまとう。それが誘惑の本質だ』
男が勝ち誇ったように、ダンツクちゃんと俺を指差しながら、そう断言した。
「あいつ、オカルト映画の見過ぎじゃないか?」
「日本語版だと字幕になっていないところまでしゃべってますよ。マニアですかね?」
いや、フランス人なんだから日本語字幕関係ないだろと俺が思った瞬間、非常階段の入り口が音を立てて開いて二人組の男たちが飛び出してきた。
『デヴィッド!』
デヴィッドはそちらを振り返ると、苦々しげな表情をして、『くっ、ブーランジェか。間の悪い……』と吐き出した。
新たに登場した男は、強い風にジャケットの裾と髪をはためかせながら、颯爽と立っていた。
「おお! なんだか、風雲急を告げてきましたよ!」
「いや、おれは凪の日が好きなんだが……」
「自然の猛威からは逃げられませんからね」
「これが自然現象かよ?!」
たしかにここの風は強いけどな。
『ブーランジェ中佐。一体何事です? 私には、あんたやフランス当局に追い回される心当たりがないんですがね』
『ヴィクトールの件で話が聞きたいだけだ』
『話? 私に話すことなんかありませんよ。あなたには逮捕権も捜査権もないでしょう?』
デヴィッドは馬鹿にするような笑みを浮かべてそう言ったが、中佐と呼ばれた男はその言葉を無視して、デヴィッドの向こう側にいる男に内心驚いていた。
そこにいたのは、会おうとしても会えなかった92%の男。Dパワーズの芳村圭吾だったからだ。
「もしかしてあれがCOSの中佐ってやつか?」
「っぽいですよ。リュトゥノーコロネルって言ってました」
その時、もう一度入り口の扉が開いて、やっと非常階段を上がって来たD交流準備室の面々が、死にそうな顔でその場にへたりこんだ。
「千客万来って感じだな」
「だけど、これどうやって始末をつけます? そろそろ工事の関係者や警備員がやって来てもおかしくないですけど」
「うまいこと、政府機関の人間が来たから、押し付けてごまかそうぜ」
それにおそらく鳴瀬さんが下でフォローしているはずだ。たぶん。
そんなやり取りを、俺のシャツの裾を掴んで離さないダンツクちゃんがじっと見ていた。
入り口の壁にもたれかかりながら座り込んだ杉田が、目ざとくそれを見つけて声を上げた。
「ああ!?」
取り込み中に見える三人の男たちに気を取られていた他の面々は、その声に導かれて奥にいる二人の男女の傍にいる少女の姿に気が付いた。
考えてみれば、彼らは彼女を保護しに来たはずだったのだ。
「な、懐いてるな」
「な、懐いてますね」
成宮と村越が、苦し気な息遣いで同じような感想を漏らす中、杉田はハンカチを噛んで涙を流しかねない勢いで、「ぐぐぐっ、ボクの役目だったはずなのに!」と、ほぞをかんでいた。
「だが本当にあの子があれなのか?」
「バラの花束を渡して、その中の一本をボタンホールに差してもらおうと思っていたのにいいい」
「それでそんな本物のボタンホールが付いたジャケットを着て来たんですか」
そんな習慣を、異世界人が知ってるわけないだろと呆れながら、成宮は、対峙しているように見える三人の男たちを視線で示しながら言った。
「しかし、何やら取り込み中っぽいが、あれは?」
「よくわかりませんけど、聞こえて来たのはフランス語でしたね」
村越がそう言うと、三井が驚いたように言った。
「んじゃ、警備部への情報は、どっかからフランスに漏れてるってことか?」
「それマジですか? まだ、アメリカや中国って言われた方が納得できるんですけど」
「そういうところは漏れていたとしても、尻尾を出さないさ」
「はぁ……僕、外務省に来て初めて諜報の最前線ってやつを感じましたよ」
「よかったな、大した被害もなしに経験が詰めて」
「いや、だけど……」
「なんだ?」
「可能性って言うなら、漏れてるのは僕たちからってこともありえますよね?」
杉田の指摘に、三人は顔をひきつらせた。
「いや、四人しかいないチームで、そんな話をされてもな……」
「根拠なく否定する成宮さんも怪しいです。まてよ、そう言えば、最初に指摘した僕も怪しいですね。こりゃあ困ったな」
そんな四人を無害だと判断したのか、中佐に付いてきた男は、そちらへの注意を再びデヴィッドへと向けた。
『たとえ任意でも、ここで証言を拒否すると、あんたは困った立場に置かれることになるだろう』
『おや、脅迫とはお里が知れる』
『あんたが借りてたDGSE(フランス対外治安総局)の巣で、血痕が見つかった。職員の物でもあんたの物でもないそれは、そこで事件があったことを示唆している』
『ばかな』
まるで刑事ドラマのクライマックスのようなやり取りを、横目に見ながら、俺は三好に提案した。
「なあなあ、三好」
「なんです?」
「なんだか長くなりそうだし、結構疲れたし、俺たちもう、こっそり下りて帰っちゃっていいんじゃないか?」
「先輩! 実に魅力的な提案です!」
俺たちは、こそこそと忍び足で、上に止まっているエレベーターに向かって歩き始めた。
交流準備室に階段の入り口をふさがれている以上、俺たちが逃げ出す場所はそこしかなかったのだ。
あと一歩でエレベーターに飛び込める距離まで移動したとき、ダンツクちゃんが、俺のシャツの裾を強く引っ張った。
「ん?」
「良く分かった」
「「しゃべった!」」
「またね」
彼女はそう言うと、俺の裾を放して、非常階段の入り口に向かって走り出した。
「あ、おい!?」
俺は一瞬引き留めようとしたが、あれは少女のように見えるだけで、ダンジョンを作り出した何かが作り出した何かだ。
その何かが自発的に行動したのだ。ここは自由にさせた方がいいだろうと、同時に追いかけようとした三好の腕をつかんで止めた。
「先輩?」
「ここは見送る場面だろ」
「政府と直で接触することになりますよ?」
「それもまた、ダンジョンの意思ってやつさ」
いやあ、困ったなと、全然困ってない様子で言い放った杉田の目に、向こうの男のところから、テケテケと駆けてくる少女の姿が見えて、思わず自分の目を疑った。
「え? ええ?!」
少女は、子供とは思えない速度で彼のところまでやって来ると、座り込んでいた肩にぺたりと手を置いた。
「あ、あ……」
彼は、あまりの驚きに声を失ったかのようだった。
「お願いは分かった」
「お願い?」
そう訊き返して、四人で目を見合わせ、そうしてもう一度彼女の方を振り返った時――そこには誰もいなかった。
「え? うそ?!」
辺りをきょろきょろと見回した杉田は、どこにも彼女がいないことに気が付くと、思わず頭を抱えて絶叫した。
「僕たちのデートは?!」
そんな杉田を無視しながら、成宮は怪訝そうに言った。
「お願いが、わかった?」
三井は絶望のポーズをとっている杉田の方を見ながら尋ねた。
「どういう意味だ?」
「僕にわかるわけないでしょう!」
「何かお願いをしたのか?」
「まともに話してもいませんよ!! ああー、一世一代のチャンスがああああ」
その時、機械が動き始める音がして、三人のフランス語話者の向こうにいた二人組の男女を乗せたエレベーターが、階下へと下がっていくのが見えた。
今から追いかけたところで、とても間に合わないだろうことは明らかだった。
それが視界から消える最後の一瞬に、男がこちらに向かって手を振ったように見えたのは気のせいだろうか。
「しかし、あのふたりは何者なんだ? 随分となついているように見えたが……」
「日本ダンジョン協会の関係者じゃないんですか?」
「あれほどなつくって、どうなんだよ?」
絶望から復帰した杉田は、その目にめらめらと復讐の炎を燃やしていた。
「ま、僕たちのはるか先へ行ってることだけは間違いなさそうですよね。僕のダンツクちゃんを……許すまじ」
「俺たちのはるか先ってな……それって見過ごせるのか?」
「そういわれても我々は捜査機関でもましてや秘密結社でもありませんからねえ」
「上に報告は?」
「そりゃ、見たままレポートするしかないでしょう?」
「で、あれは、どうするんです?」
男女の二人組を乗せたエレベーターが降下していくのを横目で見ながら、どちらも動き出せずに固まっていた三人組を見て、村越が言った。
D交流準備室は警察ではない。彼らに職務質問を行う法的根拠などかけらもなかったが、この状況で話をしない訳にはいかないだろう。
「仕方ない。あの周囲を警戒している方の男に話をしてみるか。村越、間違いがないかサポートを頼む」
そう言って、成宮が、いまだがくがくする膝で立ち上がった。
「分かりました」
同じような膝で、村越がその後に続いた。
三井は、内心はらはらしながら、その様子を眺めていたが、結局ついて行くことにしたようだった。
その場に一人で残された杉田は、最後に彼女が言った言葉の意味を、ずっと考えていた。
「お願い……お願いか……」
そうしてその言葉の意味は、この翌日に明らかになったのだ。
208 奇跡・1 3月25日 (月曜日)
その日が一週間の中で最悪の日なのは、午後一の授業が数学だから。
カリキュラムを作る人はもっと考えてほしいなぁとぼんやりしていた私は、明日が終業式だという緩みもあって、もう先生が何を言っているのか分からないくらい、もうすぐやってくる春を先取りしたかのような、うららかな日差しに身をゆだねかけていた。
人前で平気でキスをしちゃうくらい仲良しになった上下の瞼が、またもやTPOを無視してイチャイチャしようとしていたその瞬間、私は思わず変な声を上げていた。
「ふわっ?!」
同じような反応を見せたのは私だけじゃなかった。少なくとも前を向いていたクラスメイトたちは、全員なんらかのリアクションを見せていた。
だって、その瞬間、先生が光っていたのだ。
いや、べつに頭がってわけじゃないよ? まだまだお若いし、数学の担当だってことを除けば、なかなか人気のある先生だし。
ただ、先生の体が、神様みたいに淡く輝いたのだ。
それを見たクラスメイトは全員が驚いていたが、その驚いているクラスメイトの体も同じように輝いているのを、それより後ろの席の人たちは目撃していた。
クラスの反応に、板書をしていた先生が振り返り、そうして、私たちを見て息を呑んだかと思うと、そのままチョークを取り落とした。それが黒板前の、一段高くなった木の床に落ちた音が教室に響いた瞬間、光がめいめいの目の前に集まって――
「うわっ?!」
――カードになって、机の上に落ちた。
その歴史的な日、日本国籍を有している人の許に、等しく奇跡が訪れていた。
、、、、、、、、、
そのニュースが彼らの元に届いたのは、昨日の報告書をまとめつつ、ダンツクちゃんがやたらと懐いていた二人の正体を日本ダンジョン協会に問い合わせる書類を作成していた時だった。
「成宮さん! これ、これ!!」
村越が焦ったようにそう言って、テレビの音量を上げた。
昨日の顛末がどういう報道になるのかを確認するために、ニュース専門チャンネルを始めとする数局の放送をマルチウィンドウでチェックしていたのだ。
「なんだ?」
そこでは、アナウンサーが日本中で起こった不思議なカード出現現象に付いて、速報で興奮したように告げていた。
どうやら生放送でも、出演者に同じ現象が起こったらしかった。劇場でも、試合中でも、運転中でも同様で、あちこちで事故も起こっているようだ。
「なんだこれは?」
「ま、まさか、お願いって……」
杉田がそのニュースを見ながら絞り出すようにそう言った時、準備室の電話が鳴って、村北内閣情報官から現在日本中で起こっている現象についての情報がもたらされた。
「はい、はい……わかりました」
受話器を置いた成宮に、村越が身を乗り出すようにして訊いた。
「で、なんですって?」
「どうやら、日本中で、Dカードを所有していなかった国民全員に、Dカードが配られたらしい」
「それか……」
そのことを分かっていたように呟いた杉田に、三井が、「お前、知っていたのか?」と尋ねた。
「いえ、僕たち彼女に言ったじゃないですか」
「なにを?」
「ほら、『乙は、甲が乙の国民に奉仕する準備をすることを認める』ってやつですよ」
「あ、ああ、確かに」
それは、最初に彼女に対して送ったメッセージの中にあった宣言だ。
「彼女の言う『奉仕』の内容が分からなかったから、とりあえず準備をすることだけを認めて、『奉仕』の内容を見極めようという話でしたよね」
「そうだ」
「つまり、彼女の奉仕は、Dカードを所持していることが前提になる何かってこと?」
村越が、何かを考えるように右手の指を唇に当てて呟いた。
「Dカードの所有にどんな意味があるんだ?」
モンスターを最初に倒した時に得られるDカードは、その不思議な現象――最初から自分の名前が書かれている等――から、当初は盛んに研究された。
だが、そもそも取得したスキルの確認程度にしか利用できなかったそのカードの研究は、自然に下火になっていき、特に大きな業績を残すことなく現在では忘れ去られたようになっていた。
「スキルオーブを使用するためにはDカードが必要らしいですけど、それ以上の細かいことはことは調べてみないとなんとも」
「すぐに問い合わせよう」
「どこへです?」
「日本ダンジョン協会とダンジョン庁、あとは学術会議か?」
杉田がうっとおしそうに手を振った。
「ダンジョンの専門家なんて所属していませんよ」
なにしろダンジョンを研究するような研究者は大抵が若い。大御所たちが顔を連ねているような組織に、若造が入り込む余地などないのだ。
「答申も勧告も十年くらい行われていませんし、分科会の要望を押し付けるような提言ばかりじゃないですか。答申しても、まともな答えなんか――そうだ、〈鑑定〉持ちの女性がいましたよね? 彼女なら、専門家以上に詳しいのでは?」
「三好梓か……」
珍しく渋い表情を浮かべる成宮に、杉田は首を傾げた。
「何か問題が?」
「以前村北さんに、『藪はつつくな』と言われたんだ」
「藪? いいですねぇ、どんな蛇が出てくるのか、興味ありません?」
「あのな」
元をただせば、今回の事件は杉田の暴走が始まりだった。
面白そうに眼をくるくると動かしている杉田を見ていると、手に竹槍を携えて藪に突撃していく様子が目に見えるようで、成宮は眉間の苦悩を深めた。
「一応日本ダンジョン協会経由で問い合わせはしてみるが――」
「なんです?」
「余計な事だけはするなよ?」
「余計なことって?」
「彼女の事務所にアポなしで突撃するとかだよ!」
実際彼女たちは世を儚んで隠遁しているわけではない。別に事務所も隠されていないし、Dパワーズのメンバーにしても、日本ダンジョン協会が彼女たちに付けた管理監にしても、その足取りを追うのは簡単だし、実際に事務所の場所も判明しているのだ。
「だけど報告書を見る限り、ダンジョン攻略局のガーシュウィン氏は入り浸ってますよね? ロシアのネルニコフ氏が訪れたなんて報告も見ましたよ?」
「もしかしてお前、あの膨大な関連書類に全部目を通したのか?」
「当たり前でしょ。情報なしで政策が立案できるわけないじゃないですか」
いや、俺たちが立案するのはダンジョンの向こう側との外交についてなんだがと成宮は内心苦笑したが、それに探索者が無関係であるとは決して言えなかった。
なにしろ、渋谷騒動が起こるまで、向こうとの接点を持っていたのは探索者だけだったからだ。
「それに、Dパワーズがやっているブートキャンプとやらの教官は、現役ダンジョン攻略局のメンバーですよ。一体我が国はなにをやってるんです?」
「何をって……」
「スキルオーブのオークションが始まった時点で、速攻ツバをつけとかなきゃいかんでしょ。奇貨おくべしなんて、今更言われなくても」
彼の言い分は実に最もだったが、今更それを蒸し返されてもどうしようもない。
「だから、遅ればせながら、うちのメンバーの誰かが入り浸っても問題ないと思いません?」
あまりに非常識な杉田の言葉に、常識人の三井がダメを出した。
「大ありだよ! 第一どんな理由で訪問するんだ?」
「うーん。なんとなく楽しそうだからってのはどうです?」
「……楽しそうなのはお前だけだろ。見知らぬ政府の役人に用もなく居座られて喜ぶ人間がどこにいるんだよ」
「ああ、政府の役人って嫌われてますからねぇ……」
「見知らぬ、ってところだろ!」
「まあ、あそこはダンジョンイノベーションの震源地らしいから本当にそうできるなら、それに越したことはないが、それよりも今は昨日の事件の分析と考察だ」
「分析ったって、僕らは、渋谷へ行ってダンツクちゃんを追いかけて、工事現場で屋上まで駆け上がったら、座り込んで、例の二人と、フランス人らしい三人のごたごたを見てただけですからねぇ」
分析するほどのこともありませんよと、杉田が両手を広げて処置なしと言ったポーズを取った。
「そう言えばあのフランス語を話していた人たちは? 軍の身分証明を見せられたときは驚きましたが」
「本人の説明では、単に探していた男を見かけて追いかけてきただけで、今回の騒動には無関係らしい」
「その探していた男というのは? ダンツクちゃんを連れた二人組を追いかけていたみたいですが……」
「現在大使館へ問い合わせているが、回答があるかどうかはわからんな」
「僕たちも欲しいですよねぇ、捜査権と逮捕権」
腕組みした杉田が真面目な顔でそう言ったが、昨日みたいな状況がそうホイホイ起こってもらっちゃ身が持たない。
「職務分掌規定の逸脱も甚だしいな」
「ほら、あるじゃないですか、殺しのライセンス的な」
「バカ言うな。せいぜい、警察機構から誰かを出向させてもらうくらいしか手はないよ」
ちぇっ、と舌打ちした杉田は、すぐに気を取り直して言った。
「一つだけ言えるのは、ダンジョンの向こうの連中ってのは、こちら側の体制や社会構造をある程度尊重してはいますが、こちら側のルールには興味がなさそうってことですね」
「どういう意味だ?」
「だって、彼女はあそこで学習したはずですよ」
「何を?」
「自分たちの存在が争いの原因になることを、です」
ただ姿を現したというそれだけで、いろいろな勢力がそれを奪取しに行動した。
中には渋谷のど真ん中でスモークグレネードまで使った勢力もあったらしい。渋谷の駅前は監視カメラだらけなのは、周知の事実なのにだ。
つまり少々外交的な軋轢が生じたとしても、現れたものを確保するのが重要だったということだろう。
ダンツクちゃんらしき少女と一緒に現れた、大人の男がどうなったのかは、彼らにも知らされていなかった。
「にもかかわらず、何事もなかったように、『お願いは分かった』の翌日にこの事件です」
杉田はカード出現のニュースを繰り返し報じているテレビを指差しながらそう言った。
「しかもこの対象は、日本の国土の上にいた人じゃなくて、日本国籍を有している人だけなんでしょう?」
「今のところ、そうみたいだな」
それが社会構造を理解している証拠だと、杉田は言った。
「つまり、諸外国は準備の許可を出していないから対象外になったってことか?」
「そもそも接触しているかどうかも怪しいですけどね」
だが、その対象をどこからどうやって取得したのかは分からない。
すくなくとも戸籍情報にアクセスしなければ、日本国籍を有しているかどうかは分からないはずなのだ。
「まさか各地方自治体に記録されている戸籍簿を覗いたとでも?」
法務省が戸籍のデジタル化を認めたのは1994年だ。
以降地方自治体単位でデジタル化が行われたが、当時の法務省と自治省が検討していたデジタル化の助成金が国会審議で否定されたため、それが出ないと分かった瞬間一様に先送りが始まったのだ。
なにしろ、一件あたりの入力費用が二千円と言われていた情報だ。そのコストは馬鹿にならなかった。
「成宮さん」
「なんだ?」
「新潟県加茂市の住民にDカードが出現したかどうかをチェックしてもらえますか。ああ、東京の御蔵島村でもいいですけど」
「どうして?」
「1994年以来、二十年以上かけて戸籍のデジタル化が行われた結果、ほとんどの自治体はデジタル化済みですけど、その二つは現時点でまだデジタル化されていない自治体なんですよ」
もしそこに何らかの異常――Dカードが出現していないとか――があったとしたら、ダンジョンの向こうの連中は、確実に日本のネットワークに侵入している。
不正アクセス行為の禁止等に関する法律によってそれを取り締まれるかどうかは分からないが。
「あれはオープンネットワークじゃないだろ?」
「マイナンバーと同じなら、LGWANを使ったクローズドネットワークということになっていますけど、LGWAN−ASPや省庁LANを介してインターネットと物理的に接続されていると思いますよ」
もっとも繋がっているからと言って侵入できるかどうかは別の問題だが。
「それを理由に逮捕するのは無理だぞ」
「当たり前ですよ。そんなことを言ったら、昨日のは、もろ不法入国じゃないですか」
もっとも政府、つまり外務省にとって国交のない国であっても、入国審査は法務省の管轄だ。法務省がウンと言えば入国は可能なのだ。
ダンジョンの向こう側が、法務省の言う「政令で定める地域の権限のある機関」と認められればだが。
もっとも、今の状況なら必ずウンと言うだろう。
「ともかく相手の手がどこまで伸びてるのかを知ることは重要でしょう?」
特別なノートパソコンを使ってやり取りしているとはいえ、彼らが無制限に地球のネットワークに侵入しているとしたら、日本ダンジョン協会の口輪は外されているということだ。
しかもパスワードが必要なネットワークへのアクセスも簡単にできるとなったら、それは非常に由々しき問題だ。仮に戦争になったら確実に負けるだろう。
もっとも、ダンジョンが作り出せるような勢力と戦争をしたら、そうでなくても勝ち目なんかないけどね、と杉田は苦笑した。
「そりゃそうだが……一応調査は要請しておく」
「よろしくお願いします」
要請のメールを書きながら、成宮はふと呟いた。
「しかしどうして日本だけでこんなことが起こってるんだ? ダンジョンは世界中にあるのに、ダンツクちゃんは代々木にしかいないのか?」
仮に彼女がダンジョンマスターのような存在なら、各ダンジョンに一人ずついてもおかしくはない。
もっともそれは、人類が人類の文化の中で育んだ、フィクションの物語に準じていれば、だが。
「碑文によれば、128層を越えるダンジョンは、繋がった世界へと渡る『通路』となるってことですけど」
「なら、128層を超えるダンジョンなら、向こう側の誰かが、ダンツクちゃんよろしく存在するかもしれないってことか?」
だが、そんな話は誰も聞いたことがなかった。
128層を超えるダンジョンが、代々木だけだという可能性はあるかもしれないが。
「どうしてそんな存在が、代々木にだけいる、または代々木にだけ姿を現しているんだと思う?」
考えても分からない思考の渦に巻き込まれそうになった時、パンパンと手を叩く音が聞こえた。
「はいはいはいはい、皆さん。そういう考察は専門の先生方に任せるとしてですね、今は、この後どうするかを考えるべきですよ」
何しろ準備はなされたのだ。この後、奉仕も許可したら、日本はいったいどうなってしまうのだろう?
それは恐ろしくも甘美な誘《いざな》いのように思えた。
「ともかく、今のところ国民全員がDカードを取得したという前提で――」
そう言ったとたん、杉田は何かに気が付いたように動きを止めた。
「杉田さん?」
突然活動を停止した杉田を訝しむように、村越が横から、彼の顔の前で手をひらひらと振った。
「や……」
「や?」
村越が、覗き込むようにそう尋ねた途端、杉田がばね仕掛けのように跳ね起きた。
「やばいよ!」
「きゃっ!」
突然立ち上がった杉田を、成宮と三井が驚いたように見上げた。
時折奇矯なことをする男だが、ここまで取り乱したところを見たのは初めてだった。
「成宮さん! すぐに文科省と法務省、それにダンジョン庁の担当者に連絡してください! あ、テレビ局への連絡があるから総務省も!」
「す、杉田? 一体どうしたんだよ?」
彼は頭をがりがりと掻きむしった。
「あー、もう! いいですか?! 何の訓練もダンジョン教育もされていない国民全員がDカードを取得したんですよ!!」
「あ、ああ」
「一度壊れた人間関係は、何年も修復されたりしないんですからね!」
「はぁ?」
「社会の危機なんですってば!」
「「「はあああ?」」」
209 奇跡・2 3月25日 (月曜日)
時系列はこんな感じ。
なお、2019年のアメリカは3月19日からサマータイムで、EDTとJSTの時差は13時間です。
日本 ワシントンD.C.
二十四日11時 二十三日22時(渋谷騒動)
二十四日22時 二十四日 9時(ハンドラーが報告を受けた)
二十五日 9時 二十四日20時(日本ダンジョン協会で騒動が起こり始める)
事務所の話はこのへん
二十五日14時 二十五日 1時(日本でDカードが出現)
ダンジョン管理課には朝から怒涛の問い合わせが届いていた。
最初は、朝早く代々木に潜った探索者たちからの報告だった。
「モンスターがいない?」
代々木ダンジョンの様々な層から、突然モンスターが消えて居なくなったというのだ。歩き回ってもまったく遭遇しないという。
モンスターを捕食する、強烈なユニーク個体が現れた可能性もある。事故が起こる前に立ち入りを禁止するべきだろうか。しかし、複数層に渡って同じことが起こるのはどうにも変だ。
通常モンスターは階層を移動しない。同時に複数層でそういったユニークが登場するという可能性は……ゼロではないか限りなく低いだろう。
「一層のスライムは?」
「今のところ見に行った探索者がいないので報告は上がってきていませんが、もしかしたら」
「十八層のマイニングチームのどれかに連絡してみてくれ」
「了解です」
ダンジョン内で携帯電話が使えるようになって本当に助かったなと斎賀は思った。
しかし、もしも十八層の無限に湧き出すかのようなゲノーモスまで消失していたとしたら、代々木ダンジョン全体からモンスターが消えたことになる。一体何の前触れだろう?
「課長!」
主任の坂井が、慌てた様子で課長室のドアから身を乗り出していた。
「どうした? 何かあったのか?」
「ま、魔結晶が消失したそうです!」
「また、筑波か!?」
「いえ、それが――」
坂井の報告によると、日本ダンジョン協会の倉庫内の魔結晶がきれいに失われていたことが、発覚の発端だったらしい。
つくばのことを知っていた職員が、それを見て、各地の日本ダンジョン協会支部や企業の研究機関に連絡をとってみたところ――
「どうも日本中の魔結晶が消失しているようなんです」
「日本中……?」
日本中に例のミカンがばらまかれたとでも言うのだろうか?
それとも他の……モンスターの消失と何か関係が?
「他のダンジョンにも、モンスターがどうなっているのかを問い合わせてみろ!」
「分かりました」
ダンジョン内で携帯が使えないダンジョンは、情報が伝わるのに時間が掛かるだろうが、それでも一層がどうなったかはすぐに調べられるはずだ。
何かが起こっている――それは確かだ。
だが、それがなんなのかは、未だに見当もつかなかった。
ダンジョン管理課の職員は、それぞれが各地のダンジョン入り口を管理している部署や、研究所等への問い合わせを引き続き行った。
そうして数時間が経つ頃には、起こったことの全貌が明らかになった。
結果は予想していたとおり、日本中のダンジョンから一時的にモンスターが消えて、ついでに日本中の魔結晶が消失していたのだ。
「いったい何が起こってるんだ?」
まさか昨日の報告にあった、渋谷の騒動と何か関連が……斎賀はスマホを取り出すと、鳴瀬美晴と書かれた番号をタップした。
丁度その頃、日本中でDカードの出現騒ぎが起こっていたのだが、研修で取得させられる日本ダンジョン協会職員にDカードを持っていないものはいない。
そのため、外部からそれが知らされるまで、しばらくの間、誰も奇跡には気が付かなかった。
、、、、、、、、、
ダンジョン攻略局は大統領直属の機関で、その報告は首席補佐官から直接届けられるが、日本の監視チームは混成チームとはいえ所属はCIAだ。
渋谷騒動が起こった翌朝、CIA長官のジーン・カスペルが携えてきた報告に、ハンドラー大統領は、冷たい汗が背中を流れるような気がした。
「日本に、タイラー博士が現れたそうです」
「は?」
その一報を聞いた彼は、ダンジョン発生に関する機密情報がつまびらかにされる日が来たのだと覚悟した。
ところが、ジーンが行った報告の詳細は、大統領の想像の斜め上を行っていた。
「日本の政府機関が、ダンジョンの向こう側の何かをデートに誘って、それが白昼堂々渋谷に現れたかと思ったらタイラー博士だった?」
彼は冷や汗から一転、目を白黒させるしかなかった。
「すまないがジーン。君が何を言っているのか、私にはまるで理解できないんだ」
「大丈夫よ、アルバート。私も報告を見たとき同じ気持ちになったから」
彼女は書類で口を隠すようにして笑うと、砕けた態度でハンドラーに応えた。
そこに書かれている言葉の意味は分かっても、それが何を言っているのかは理解の埒外だったのだ。
「だけど、放置はできないわね」
ジーンが差し出した資料には、監視チームが捉えた男の写真が添付されていた。それは確かに、ザ・リングで行方不明になった男のように見えた。
「それで、このタイラー博士らしき男は確保したのか?」
「いえ――」
この情報がもたらされたのは、日本政府が新設したD交流準備室とかいう名称の機関から、護衛対象が判然としないにもかかわらず警備部に依頼が来たことに端を発していた。
あまりに状況がはっきりしなかったとはいえ、新設部署はダンジョンの向こう側とのやりとりを行うために生まれた部署のはずだ、これはあくまで、念のための監視ミッションだったのだ。
そのため、突然発生した、各国のエージェントらしき連中のタイラー争奪戦を、ただ横から眺めていることしかできなかったらしい。
「行動指針をしっかりと指示できなかった我々のミスね」
「リソースは有限だ。すべてに全力を投入することはできないさ。だいたい、白昼堂々、東京有数の繁華街のど真ん中でスモークグレネードをぶっ放すバカがいるなんて誰に想像できる?」
報告書の詳細を読みながら、それを持った両手を開いて肩をすくめたハンドラーは、一体どこのバカがそんなことをやらかすのかと口をへの字に曲げた。
「それで、クローゼットの中の骨を持って行ったのは、どこの誰なんだ?」
「大騒ぎを演出した黒服面の連中だったそうだけど――」
ジーンは、その報告のあまりのばかばかしさに、一瞬言いよどんだが、諦めたようにそれを口にした。
「骨は誰にも拾われることなく、突然消えて、いなくなったそうよ」
「消えた?」
周囲から駆け寄ってくるいくつかのチームを尻目に、スモークを打ち込んだチームは、真っ先にタイラー博士まで駆け寄ると、手際よくそれを拉致しようとしたらしい。
張っていた各国のチームも、まさか東京のど真ん中でそんなことを実行する組織があるとは思わず、一瞬対応に躊躇した。それが明暗を分けたのだ。
黒服面たちが、両側からタイラー博士を拘束して、やってきた車に押し込めようとしたところで、彼は、まるで空気に溶けるようにいなくなったのだそうだ。
拉致しようとしていた連中が呆然として動きを止めたところで、日本の当局が何人かを取り押さえたということだ。
「騒ぎを起こしたもののうち、何人かは日本の当局に取り押さえられたそうだから、日本に問い合わせればもう少し詳しいことも分かるでしょうけど……」
「我が国の国民に犠牲が出たわけでもないし、死者が出たわけでもない他国の騒動に、わざわざホットラインを使う訳にはいかんか」
それは、ステイツがこの事件に大きな関心を寄せているという大きな証拠になるだろう。最悪、足下を見られかねない。
「テロだということにして、大使にお見舞いの言葉を送らせるというのはどう?」
「それだ」
大統領は、秘書にアポイントと手続きを依頼すると、印刷された写真をもう一度取り上げて言った。
「これをタイラー博士だと認識した国があると思うか?」
「彼はそれなりに有名人だったから。仮にその場にいなかった国でも、場所は東京有数の繁華街の駅前。監視カメラには事欠かないわ。それを押さえたとしても――」
「なんだ?」
「SNSへ投稿された数も結構なものでしたよ」
「相当数の映像が残っているということか」
「時代ね」
「圧力をかけて削除させることは?」
「ようこそ、民主主義の国へ」
ジェシーの言い草に苦笑したハンドラーは、予想される各国の問い合わせに対して、どのように言いつくろうべきなのか逡巡した後、インターホンに向かって言った
「ジョーに連絡を取ってくれ」
「承知しました。大統領」
ジョー・ボルトンは、国家安全保障問題担当大統領補佐官だ。これは、もはや、国家安全保障会議の助言を仰ぐ必要がある事柄だろう。
「それじゃあ、情報はレイに引き継いでおくわ」
国家安全保障会議に参加する情報関係のアドバイザーは国家情報長官だ。
以前は、CIA長官が兼任していたが、現在では国防総省との軋轢などが原因で別の人物がその職に就いていたため、ジーン・カスペルは参加できない。現在の長官は、ダニー・レイ・コーツだ。
「ああ、すまない。しかし、消えた、か」
ハンドラーは、どうしてそんな場所にタイラー博士が現れたのかや、今までどうしていたのかなどの尽きない疑問はさておいて、いきなり空中から現れたり、いきなり消えてしまったりすることの方が重要だと考えていた。
突然現れることができるというなら、突然消えることもできるのかもしれない。だがそれは――
「フーディーニやカッパーフィールドなら種もあるんだろうが……こいつは、安全保障上の危機ってやつかな?」
「危機ね」
当面、日本ダンジョン協会が発表した転移石がテロリストたちに利用できないことは、ハガティからの連絡で分かっている。だが、ダンジョンの向こうにいる連中が、何処にでも現れることができるというなら、潜在的な脅威としては同じことだ。
ましてや、どういうわけか、それはタイラー博士の姿をしていたのだ。他の誰かの姿になれない理由があるとは思えなかった。例えば大統領たる私の。
「とはいえ、対抗手段はなし。できるだけ友好的な関係を築くしかないってところか?」
「ダンジョンの入り口を何かの手段で閉じたとしても意味はなさそうね」
「件の転移石とやらの研究をさせるしかないだろうな」
そうすれば、なんらかの対応策を取れるかもしれない。
彼らに今のところ表立って人類と敵対するような行動はない。
我々よりもずっと進んだ科学力を持った何かなら、ずっと進んだ倫理観も持っておいてほしいものだと、彼は祈った。
幸いと言っていいのか、どうやら日本が先鞭をつけたようだ。
彼の国は同盟国だ。
彼らの行く末を見守りつつ、時代の流れに取り残されないよう、微妙で難しい舵取りが要求されることにはなるだろうが、未知の知的生命体を直接相手にするよりはましかもしれないなとハンドラーは前向きに考えることにした。
できるだけ美味しい分け前さえ手に入れられるなら、無理をする必要はないだろう。何しろ相手は武力を盾にした、ごり押しが通用しないのだ。
フロンティア精神には反するがね、と彼は内心苦笑した。
、、、、、、、、、
「いやー、昨日は参ったな」
昼飯の後始末をした俺は、事務所のソファーにだらしなく寝そべりながらそう言った。
頭の上で我がもの顔にそこを占有していたグラスだかグレイサットだかが、邪魔そうな目つきで、俺の頭を尻尾ではたいていた。こういうふてぶてしい態度を取るのは、たぶんグラスだろう。
鳴瀬さんは、昨日の事後処理でどうやら天手古舞らしく、うちでのんびりしている余裕はないようだった。
「結構ニュースになってますし、SNSは渋谷の映像で埋まってますよ。そりゃもう凄い数です」
「あそこにいた全員がカメラマンになってたもんなぁ」
「スモークグレネードが飛んできても誰も逃げませんでしたからね。きっと銃撃戦になっても踏みとどまってましたよ、あれ」
「歴戦の戦場カメラマンかよ……」
悪く言えば平和ボケだろうが、見方を変えれば、日本がそれだけ平和だということだ。それは悪いことばかりではないだろう。
政治家を始めとする国を動かす人たちがそれでは困るだろうが。
「しかし、これだとタイラー博士だって絶対にバレただろ。どうすんだ?」
「それはアメリカが考えることですからねぇ」
三好は、知りませんよとばかりに、わざとらしく腕を組んで頭を振った。
それもそうか。
三好はソファから立ち上がると、ダイニングテーブル上に広げたきれいな布の上に、ダンジョンの石と魔結晶を取り出して、ああでもないこうでもないと百面相を始めた。
例の祈りバージョンは、未だに作成に成功していないのだ。自らの神に祈るってのは、本当に難しいようだ。
「やっぱ、あのおっさんくらい信仰がなきゃだめってことかな」
「おっさん?」
「ほら、昨日の怪しげな」
俺たちが乗ったエレベーターのケージに飛び込んできて、フランス語でまくし立てた、あのおっさんだ。
「あれって信仰心ですか?」
「そう言われれば微妙かもしれないが、あれは本物っぽかったろ?」
「狂信的って意味でですか?」
「そうだ。だけど信仰ってそう言うものだろ」
神の存在を確信することを信仰と呼ぶなら、あれは確かに信仰と言えるだろう。
多分に欲と俗にまみれてはいたようだが。
「ちょっと怖かったですけど」
「神は畏れるべきものだからな」
「なんです、その、いいこと言った的なドヤ顔は」
「だけど、どうして急に姿を現したりしたんでしょうね?」
「そうだな――俺たちとの関わりは、所詮個人的レベル。せいぜいが友人ってところだろ?」
「そうですね。先輩のスキルの効果を無視すれば、ですけど」
「まあ、それは分からないことが多い話だから置いておこう。ともかく、彼だか彼女だかは知らないが、それが欲しいのは奉仕する対象だ」
「はい」
「こっちの世界の社会構造を学習しているとしたら、こないだの準備許可といい、国家からのお願いは渡りに船だったろうな」
日本人だけでも世界の人口の1.7%、一億二千万人以上いる。とっかかりとしては十分だろう。
「だけど、奉仕って具体的に何をするんです?」
「そこだよ」
俺たちは、すでにダンジョンの向こう側の連中が起こす、奇跡のような事象について多少の知見を持っている。
それがすべて奉仕により可能になるのだとすると――
「ダンジョンのように別の空間を作ったり、人間をテレポートさせたり、オレンジやサーモンや無限に回収できる麦や鉱石からも分かるとおり、有機物や無機物を作り出したりもできそうじゃないか?」
ついでにエネルギーまでそれで作り出せる感じだ。
「高度な技術と、素晴らしい茶葉を用いて淹れるのと同じお茶を、その場で作り出したりできるわけですね」
「最終的に、経済や貨幣なんて概念はなくなるかな?」
「それは分かりませんよ」
「まあ、そうか」
AさんとBさんが同じものを作り出せるなら価値の移動は不要だが、その品質に差があるなら、いいものを作り出した人間はそれを売ることができるだろう。
価値の尺度であり、交換の媒介であり、蓄蔵できるなにかを貨幣と呼ぶなら、貨幣は存在し続けるはずだ。
「でも、そうなったとしたら、人間は普段、一体何をすればいいんですかね?」
生きていくために仕事をする、が、文明が生まれる以前から動物たる人間の行動原理だ。
何もしなくても十分満足感を得られるレベルで生きていけるとしたら、人は一体何をするのだろうか。
「そりゃもう、真理の探究と、芸術や娯楽の探求と、後は、昼寝かな」
「貴族制時代の貴族ですか? なんとも腐敗した楽園が生まれそうな気が……」
「あれは特権を有する人が、全体のごく一部だったからああなったわけだけど、こいつはフラットなんだぜ」
芸術家はパトロンを求める必要がないし、研究者も同様だ。
誰かに援助されるなんて概念は存在しないのだ。
どんな機材も自由に手に入るし、どんな研究も誰にも邪魔されず行える。それはものすごく危険なことのような気もしないでもないが。
「すべてがDファクターに還元するというのなら、ごみ問題も発生しないし、環境問題も解決だ」
「それって楽園だと思います?」
すべての人間が、なんでもかんでも自由に作り出せる世界。
「楽園かどうかはともかく、問題は、人類にとって、それは突然のパラダイムシフトだってことだな」
ある日突然、すべての物欲が満たされる世界が訪れる。
ほとんどの人類は、その力を利用して、旧来の世界での行動をトレースするに違いない。そうしたら――
「まずは、通貨の暴落が発生しそうだよな」
「テロが横行したり、経済活動が停止してですか?」
「その可能性もあるが、最初はそんな影響は微々たるものさ。最大の要因は全員が通貨を大量に作り出し始めるからだよ」
「ああ……」
車が欲しいなら車を作り出せばいいわけだが、おそらく最初は通貨を作り出して買おうとするんじゃないだろうか。
念じれば一万円札が手に入るのだ。大富豪ならともかく、そうしない人間がいるとは思えなかった。
ものすごいスピードでインフレが加速するだろう。
その次は経済活動の停滞だろうか。高額な宝くじに当選したら仕事を辞めるという、あの心理だ。
「そして、ダンジョンめいた亜空間が大量に作り出され、国家が意味をなさなくなり、民族や氏族が勝手に独立を宣言して、世界が細分化されていく」
なにしろ、ひとりで孤立したとしても、不便なく生きていけるのだ。しかも予算は無限大。
物欲のすべてが満たされ、愛する人間すらコピーを作成することができるようになるかもしれない。だが、作り出した彼女が自分を好きになってくれるかどうかはわからない。
彼は彼女を閉じ込めて自由にするかもしれないが、コピーで作り出された彼女の人権は一体どう扱われるのだろう?
「そうしたら武器も大量に作られるだろ。他のコミュニティからの攻撃を恐れて」
相手のコミュニティから何かを奪う必要なんて、まったくないのだが、おそらくそんなことは考えもされないだろう。
二つのコミュニティがあれば、相手を恐れるのが人間だ。銃社会から銃がなくならないのは、伊達じゃないのだ。
「そして大量に、薬物にふける連中が生まれるだろうな」
最も単純かつ気持ちがいい探求は、快楽の探求だ。それに溺れる者は少なくないだろう。
「そして人類なら――娯楽で戦争を始めそうな気がする」
「なんだか、お先真っ暗じゃないですか」
「まあ、一般人が今すぐ突然ダンジョンの力を持ったらって話だからな。いくらなんでも現代日本の舵を取るような連中が、いきなりそんなバカなことを認めるはずが――」
ないかな? 結構怪しそうな人がいないかな?
俺が知っている偉い人を思い浮かべて検討し始めたとき、三好が珍しく素っ頓狂で裏返ったような声を上げた。
「あ、あれ?」
俺は、頭の上のグラスをつまんでどけると、体を起こして「どした?」と聞いた。
「せ、先輩! これ、これ、これ!!」
「ん?」
俺は、彼女が指さしているダイニングテーブルの上を確認しようと移動すると、敷かれた布の上には、石ころが一つ乗っていた。
「なんだ?」
「で、できちゃったかもしれません……」
「なんだと!? 相手は誰だよ?」
「はっ?」
「はっ?」
一瞬顔を見合わせたあと、三好は突然鋭いアッパーを繰り出してきた。
「ごはっ!」
「何を考えてるんですか! バカですか、先輩!?」
「あ、あたた。暴力反対。いや、紛らわしいことを言うお前が悪いと思うんだが、で、何ができたって?」
「転移石……かもしれないものでしょうか」
「まさか、祈りバージョンか?!」
「ええ、まあ……」
どうやら机の上には魔結晶と石が置いてあったらしい。
それで、なんとなく祈りの練習みたいなものをしていたのだそうだ。そしたら、突然魔結晶が溶けたのだとか。
「そうか、ついに……って、かもしれないってなんだよ。お前、仮にもワイズマンなんだから鑑定してみればいいだろ」
「あ、そうか!」
三好がそれを見つめた瞬間、一気に微妙な顔になった。
「で?」
「石(ダンジョン産)、だそうです」
「全然できてないじゃん」
「あれぇ? じゃあ魔結晶はどこに?」
その時ロザリオが突然綺麗な鳴き声を上げた。
ふとそちらを見上げると、壁の時計が2時を指していた。
「今までの例から行くと、近場で誰かがDファクターを消費した影響ってのが一番ありそうだが……」
「この近くですか? 代々木で何かあったとか?」
三好が、新しい魔結晶を〈収納庫〉から取り出して石の傍に置いたが、それは勝手に溶けたりしなかった。
「なにかあったとしても、一瞬だったってことかな?」
「そうですね。ちぇっ、ぬか喜びしちゃいましたよ」
そう言って彼女がツンと魔結晶をつつくと、それが光と共に音もなく空気に溶けて、机の上の石ころがかすかに光を帯びた。
「え?」
それは一瞬の出来事だったが、以前俺たちがダンジョンの一層で初めて転移石を作った時と同じ現象だったように思えた。
「み、三好。鑑定」
しばらくそれをじっと見ていた三好が、微妙な顔を俺に向けた。
「で、できちゃったかもしれません……」
「相手は――」
「それはもういいですから」
俺のセリフをすっぱりと遮った三好が言うには、鑑定すると確かに『転移石』と書かれているそうだが、俺が作ったものとは表記が違うらしい。
「表記が違う?」
「はい。先輩のは転移先だとか、最近の奴は細かいルールだとかが明文化されてるんです」
「え? 本当に?」
「はい。ところがこれは、『転移石』としか書かれていないんです。使ったら、なんだか分からない世界に飛ばされそうな、やな感じがしません?」
うーん。しません? と、聞かれてもなぁ……
「普通に考えたら、使用時にとび先やルールを決められる超フレキシブルな転移石なんじゃないか?」
「じゃ先輩、帰還石を持って、これを使ってみます?」
帰還石があれば、どこに転移しても戻ってこられるってことだろうが……
転移した先が、星の中心部や、マリアナ海溝の底や、何もない宇宙空間や、ついでに原子炉の中だったりしたら帰還石を使う暇があるとは思えない。*いしのなかにいる*ってやつだ。
「いや、ちょっとそれは……」
「でしょ?」
物語なら、死刑囚に使わせてみるというところだろうが、この場合は、もしもどこかに正常に転移しても、そのまま逃げて戻ってこないって可能性が高い。というよりも戻ってこないだろう。
つまり、行った先に問題があったのか、自らの意思で戻ってこないのかが分からないわけだ。
強力な発信機を身に付けさせて、世界中の協力を得た上での実験なら可能かもしれないが、現実には難しいだろう。大騒ぎになって収拾がつきそうにない。
「だけどなんで突然?」
俺たちは首を傾げながら追試を始めた。
、、、、、、、、、
『くそっ、なぜ私がこんなところに軟禁されなければならんのだ!』
フランス大使館から程近い、それほど高品質とはいえない狭い部屋に、彼は閉じ込められていた。
抵抗したにもかかわらず、彼は、任意という名の強制で、あの忌々しい中佐に連れて来られて、CD(コマンデ・ドンジョン)にしたオーダーについて詳しく聞き取りをされたのだ。
今日も2時半から昨日の続きがあるらしい。
部屋に備え付けられていた、忌々しいティーバッグという名のダストの牢獄から絞り出した茶を口にしながら、やはりCTCなど茶ではないなと眉をひそめていた。
『しかし、やはり神はいたのだ』
彼は味もそっけもない紙コップをテーブルに置くと、熱に浮かされたように宙を見つめた。
『ああ、願わくばもう一度!』
彼がそう願った時、部屋の時計の長針が12の位置を指して、彼の目の前に光の粒が集まった。
それを驚くように見つめながら、彼は歓喜の声を上げた。
『おお! おおっ!』
三十分後、ブーランジェ中佐の部下がその部屋を訪れたとき、彼は人が違ったかのようににこやかで協力的になっていた。
210 奇跡・3 3月25日 (月曜日)
「国民の皆様の前に突然現れたカードですが、決して使用せず、未成年の方のカードは連絡があるまで保護者の方が保管してください――あなたの心を守る。♪AC〜」
「なんだこりゃ?」
三好が突然作れるようになった、祈りバージョンの転移石で、あれこれテストをしていた俺たちが、つけっぱなしだったテレビから流れるACジャパンの公共広告を耳にして顔を上げたのは大分遅い時間だった。
「さすがに急いだみたいですね」
テーブルの上に大量に散らばっている石や、乾電池ケースを始めとする雑多なアイテム群を、今更ながらに見回しながら三好がそう言った。
「急いだ?」
「先輩。ニュースが本当なら、今回Dカードを手に入れたのは国民のほぼ全員で、ダンジョンのことに興味があろうとなかろうと強制的にそれを手にしたんですよ」
呆れたように背もたれに体を預けた三好が、胸の前で手を組んで人差し指を立てた。
「お、おお」
「この情報網が行き届いている時代、自分が手に入れたカードについて、ネットで調べない人がいますか?」
「そりゃ、よっぽどのお年寄りか、小さい子供以外は調べる――テレパシーか!」
「使ってみたくなりますよね」
それは確かになるだろう。
しかも、全員がカードを所有しているのだ。最初は身近な人とつながるに決まっている。親子や兄弟、それに仲良しの友達だ。
そうして、本音が聞こえてくるのだ。
「知らずに使ったら、下手すりゃ人間関係破壊兵器ですよ」
知らなかった親の愛情が伝わるなら感動もするだろうが、がっかり感が伝わってきたりしたらトラウマものだ。
家族崩壊待ったなしってやつだ。
「安全な使い方の教育や、無関係かつ慣れた人間と使用の講習を受けなきゃ危なくて仕方がないだろうな」
どこからが相手に伝わるのか、やってみないと分からないのだ。
教師が実習しようにも、知っている人間同士じゃ危なくて最初は無理だ。
「きっとカマをかける生徒とか出ますよね」
「カマ?」
「先生がいつも態度に出していることが伝わったふりとかしちゃうわけですよ」
「動揺したらアウトだな」
「思春期は、難しい年頃ですからねぇ……」
「うちも何かしなきゃダメかな?」
「こうなったら、私たちの規模じゃ何もできませんよ。日本ダンジョン協会や政府からお達しが来たら協力するくらいが関の山ですって」
「電話線は抜けたままだけどな」
「本当に重要な依頼なら、日本ダンジョン協会経由で鳴瀬さんが持ってきますって」
「それもそうか」
ダンジョンに関する政府や省庁からの要請が、俺たちに直接届くとは考えにくい。最初は日本ダンジョン協会に持ち込まれるはずだ。
「ああ?!」
散らかったテーブルの上を片付けていた三好が、突然声を上げ、がたりと音を立てて椅子から立ち上がると、近くにいたアルスルズがびくりと体を震わせて振り返った。
「な、なんだよ三好」
「先輩! 大変ですよ!」
「なにが?」
「Dカードチェッカーですよ、Dカードチェッカー! 全員が所有しているのが分かってるなら、チェッカー不要じゃないですか! めっちゃ増産してますよ?!」
確かにバックオーダーのキャンセルが出まくったら、もの凄い損害だろう。
だが――
「大丈夫だろ」
「ええ?」
「だって、こないだ入試に使ったやつと違って、新型はパーティを組んでるかどうかも分かるんだろ?」
「あ、そうですね」
「表に出しているDカードが本物かどうかなんて分かんないしさ、仮に本物でも本人のカードかどうか分かんないんだから、結局調べる必要はあるだろ」
「そっか……うーん、じゃあパーティチェッカーとかにした方が良かったですかねぇ」
「こんなことになるなんて誰も想像できなかったからなぁ。むしろ大被害を被りそうなのは、あれをコピーして作ろうとした奴だろ。いるかどうかは知らないが」
あのシリーズは、Dカードを所有しているかどうかしか分からないタイプだ。
苦労してあれの情報を取得してコピーした連中がいたとしたらご愁傷様だ。少なくとも日本国内じゃ捌きようがなくなったわけだ。
「ああ!」
「うわっ、なんですか、先輩」
「拙いぞ、三好……」
「ええ?」
「全員のステータスが取得できるってことは、『戦闘力…たったの5か…ゴミめ…』遊びが――」
「復活しちゃいますよ!」
その時、呼び鈴が鳴ったと同時に事務所のドアを押し開けて鳴瀬さんが飛び込んできた。
「た、大変です!」
「どうしたんです?」
息を切らしながら、ダイニングへ駆け寄った鳴瀬さんは、三好が差し出した水を一気にあおって、空のコップをテーブルの上に置くと勢い込みながら言った。
「きょ、今日だけで、三個のスキルオーブが発見されました!」
その報告を聞いて、顔を見合わせた俺と三好は、同時に鳴瀬さんの方を振り返って声を上げた。
「「はぁ?!」」
彼女の説明によると、本日9時ごろから、ダンジョン内のモンスターが消失したらしい。
「消失?」
「文字通りいなくなったんだそうです」
「あのべらぼうに湧いていた、十八層のゲノーモスも?」
「下からの報告によると、突然消えたそうです」
もし、ダンジョンが日本中にDカードを出現させようとしたら、一時的にそれくらいのDファクターが使われるかもしれない。
なら、もしかして――
「もしかして、魔結晶も?」
鳴瀬さんは、驚くように目を見開くと、頷いていった。
「誰かから聞かれたんですか?」
「いえ、日本中の人間にDカードを配ろうかと思うと、それくらいのDファクターが必要になるんじゃないかなと」
Dカードは、初めてモンスターを倒した時取得できるカードだ。
つまり、モンスター一匹分くらいのDファクターが必要とされる現象だと仮定すると、仮に日本のDカード所有者が2000万人いたとしても、一億体以上のモンスターが必要となる計算だ。
日本中のダンジョン内にいるモンスターだけでは賄いきれない可能性は高い。
「まるで、ダンジョンの影響をリセットしたみたいだったそうです」
途方に暮れていた探索者たちが探索を続けた結果、午後になってぽつりぽつりとモンスターがリポップし始めたらしかった。
そうしてそれを討伐すると――
「オーブが三個もドロップしたということですか」
なにしろ年間数個しかドロップしなかったスキルオーブが、一日で三個。しかも午後から今までの間にだ。
「もしかして、それの保存ですか?」
「いえ、三個とも積極的なプロ探索者による発見だったこともあって、発見者が使用するそうです」
「なら、どうしてあんなに慌てて?」
「半日で三個ですよ? もしも明日からもそんなペースでドロップしたりしたら、当然保存の問題も発生しますから、早めに連絡を通しておくようにと……」
「ああ、斎賀さんですか」
「はい」
あの人らしい、周到なことだ。
しかし半日で三個か……
「先輩。調べてみないと分かりませんけど、もしかして、オーブのドロップ率に変化があったんじゃ」
「可能性はあるな」
特異日の可能性もあるが、単純計算で300倍以上だ。半日にだということを考えれば600倍以上ってことになる。
もしも全部が600倍になっていたら、マイニングなんか20体に一個はドロップすることになる。
「明日から、マイニングが大量にドロップするかもなぁ……」
今までダンジョンは、オーブやアイテムの取得を目的に人類をダンジョンに引き付けていた。これはおそらく、興味を持たせることで人類にダンジョンの向こうの何かの受け入れ態勢を作るのが目的だろう。
しかし、「準備を許可する」の一言で、それを一気に達成してしまった今、次の目的は奉仕を体験させることで引き返せなくすることではないだろうか。
コンビニの商品はスーパー等に比べれば高い。だが、その利便性の前にスーパーは駆逐されてしまったのだ。
一度便利なものに慣れてしまえば、ほとんどの人類は引き返せなくなるだろう。
「じゃあ、今までみたいにオークションで稼ぐのは難しくなりますね」
「多少はな。だがレアはレアだからな」
それまで黙って話を聞いていた鳴瀬さんが、訝し気な視線で話に割り込んできた。
「なんです、そのまるでオーブの出現確率を知っているようなやり取りは」
「え? ああ、まあ、なんというか……世の中に出回っているものといないものがありますから、出にくいものもあるのかなぁと……」
「ふーん」
「あ、あしたもこの調子だったとしたら、一日に6個くらいドロップする可能性があるってことですよね?」
「まあ、そうですけど」
「それって、年間2000個以上ドロップするってことですよ。世界の常識が崩壊しそうじゃないですか」
「続きますか?」
「そこは分かりませんが、続かない理由もないかな、と」
もしそうなら、なんらかの超人が、代々木だけで年間2000人も誕生する。しかも日本には、未踏破のダンジョンが7つもあるのだ。
すべてが同じになっていたとしたら、1万4千人の超人が誕生する。
「さすがに、全ダンジョンで同じようなことが起こるとは思えませんが……」
「起こらない理由もありませんよね」
明日からは、世界ダンジョン協会へ報告されるスキルオーブのドロップ数をチェックする必要があるだろう。
そうして翌日。俺達は、メイキングで表示されるドロップ率を確認しに、代々木ダンジョンへと向かった。
、、、、、、、、、
日本がそんな事件に沸いている頃、アメリカのインディアナ州では、ダンジョンが造られる様子が子細に観測されていた。
最初にダンジョン震が確認されたのは、インディアナ州ゲーリーの市街地だった。
そこは、マイケル=ジャクソンの生家のすぐそばにある、有名な廃墟となっているメソジスト教会だったのだ。
それを感知したシカゴ大学とイリノイ工科大学の混成チームは、すぐに現場へ急行した。そこで、後に「神の思し召し」と呼ばれるようになる現象を目にすることになる。
『なんてこった!』
最初は施設利用型のダンジョンが生成されようとしていたその場所は、廃墟だったことが災いして、ダンジョン震に耐えられず建物そのものが崩壊していた。
だが、その結果、施設を利用したダンジョンが作成できなくなったDファクターは、混成チームが作業している目の前で、もう一度地下タイプのダンジョンを作り始めたのだ。
研究者たちは、千載一遇の幸運に狂喜しながら、あらゆる手段を使って、その生成を観測した。
『どうなってる?』
『あ、リード先生』
シカゴ大学のダンジョン研究室に所属している、リード=ジョーンズは、三年前、地球物理学からダンジョン研究に転向するものが多い中、同大学の天体物理学から転身した変わり種だ。
32歳でアソシエイト・プロフェッサーに抜擢された俊英で、その鍛えられた風貌と、学生だったころから住んでいるハモンドのボロ家に棲み続けていることから、学生たちには、インディ・ジョーンズと呼ばれていた。
通常30そこそこでアソシエイト・プロフェッサーになることは難しい。ポスドクから最短三年でアシスタント・プロフェッサーになったとしても、アソシエイト・プロフェッサーになるためにはそこから6年を要する。
とびぬけて優秀でも、大抵は35を過ぎると言うわけだ。
『目に見えない何かが、まるで穿孔機のように地中に潜り込んでいくようです』
肩まであるブルネットを無造作に頭の後ろで括ったポスドクの学生が、興奮したように画面を見つめながらリードに説明した。
どうやら、研究室の学生が、多くのドローンを果敢に穴へと突入させているようだ。
『こいつがダンジョン針の正体か』
最新のダンジョン物理学によると、ダンジョンは、地球上にダンジョン針が打ち込まれることで生成されることは分かっている。
『針と言うより、ドリルですね』
『深いダンジョン程、ダンジョン震の時間が長いのはこのせいか』
ダンジョン震が終了した後、数分間その映像を眺めていると、突然、一つのドローンの映像が途絶した。
『それは?』
『もっとも深い位置にあったドローンですが……』
途切れる前の映像を再生すると、そこには、何かおかしなものが映っているように見えた。
『よく見えないな』
『超音波センサーが、何かがそこに現れた様子を示しています……これは』
映像に映ったそれは、なんだかよく分からなかったが、センサーが捉えた形状は、丸太のように太い紐のような生物に思えた。
『まさか……ヘビか?!……よりにもよってなんでヘビ?』
『アスプですかね?』
大げさに驚くリードを見ながら、彼女が苦笑いしながらそう答えると、リードは、解ってるなとばかりににやりと笑った。
その瞬間、穴に突入していたドローンが、次々と通信を途絶させ始めた。
『ああ?!』
どうやら下層にあるものから順に接続が切れているようだ。そして、最後のドローンが失われるまでにそう時間は掛からなかった。
『こいつは、予算のやりくりが大変そうだな』
『半分は私物だったみたいですけど』
『ご愁傷様』
がっくりと肩を落とす学生たちを見ながら、リードは飯でもおごってやるかと考えた。
どう考えても経費で補償してやるのは無理そうだからだ。
残されたデータを見ながら、リードはあえてその惨状を無視して言った。
『おそらくダンジョンは、何かが地中を掘り進み、そうして最下層に到達したところで、コアとなる物体を作り出すんだろう』
『コア?』
『さっきのアスプさ』
『所謂ボスモンスターですか?』
『かもな。ダンジョンはボスモンスターを倒してしばらくするとなくなってしまう。だからそれはダンジョンを支える物質の発生源ではないかと思うんだ』
『支える物質』
『DFAを中心とした論文には、Dファクターとか書かれていたな』
『DFA?』
彼女には、どうしてここで、ダンジョン協会食品管理局の名前が出て来るのか分からなかった。さすがに専門から外れすぎるため、そんな論文には目を通していなかったからだ。
それに気が付いたリードは、少しだけ指導者っぽくふるまった。
『ダンジョン研究は始まったばかりだ。関連するジャンルの論文は精読せずとも簡単に目を通しておいた方がいいいぞ』
『分かりました』
もっとも大抵の学生は、そんな暇があるもんかと内心憤慨していたりするのだが。
『つまり先生の仮説では、そのDファクターの塊? が、地中へもぐりこみ、ある深さに達するとコアを作り出し――』
彼女は小首を傾げて先を続けた。
『――そのコアがDファクターを作り出して、最下層を形成し、以下順次上へ向かって層を構築していくと言うことですね』
『今見た情報からだと、そう思えるね』
『もっとも、コアが生成された時間を考えると、各層が完全に生成されるというよりも、一種のプレースホルダーとして階層が形成されていくんじゃないかと思うけどね』
『そこは今後の検証ってことですか?』
『検証方法がなさそうなのが残念だよ』
『出来立てのダンジョンに飛び込んでみるとか――』
彼女はそう言って、目の前にできた黒い穴を見た。
『くだらない富と栄光を求めて殺されるつもりかい?』
『かもしれません……でも今日じゃないですよ』
リードは声を立てて笑った。
とにもかくにも、そこで得られた知見は人類初のものだった。
彼らが喜々として書いた論文と引き換えに、世界でもっとも有名な廃墟の一つだった教会は、がれきの山と化し、ワシントンストリートの廃墟の壁には、誰が書いたのかわからない落書きが「ゴミやがらくた、俺の目に入るのはそれだけだ」と落ちぶれた街を嘆いていた。
新しくできた教会跡のダンジョン入り口は、まるで地獄へと通じるような真っ黒な穴となり、「リンボへの門」とそれにふさわしい落書きをされていた。
メソジスト教会の跡地だというのに。
211 奉仕の兆し・1 3月26日 (火曜日)
翌日。
早速代々木へと下りた俺達は、オーブを出現させるべくスライムを叩いて一層を歩いていた。
「そういや先輩。明日のこと忘れないでくださいよ」
「明日?」
「もう。例のファインドマンさんが来るんですよ」
「ああ、あれ明日だったのか」
リチャード=ファインドマンは、NYのイベントでスキルを破棄するコマンドを発見した男性だ。
果敢なチャレンジの結果、自らが所有していたスキルを失ったため、三好がオーブの提供を申し出た。丁度ひと月ほど前の話だ。
「渡せるオーブはリスト化してるんだろ?」
「そうですけど、手元にないものもありますから」
「最近、偏ってるからなぁ」
いろいろあって、新規のチャレンジが難しい状況だったし、転移石のせいで道中のモンスターも全スキップ状態だったため、数もそれほど倒していない。
倒しているモンスターにも結構偏りがあった。
「しばらく探索に集中するか」
「あれ? 先輩、スローライフを目指してたんじゃ?」
三好がくすくすと笑いながら、突込みを入れてきた。
「好きな時に好きなことをするってのが、スローライフだぞ」
「働くのが好きだったら、ブラックでもスローライフとか言い出しそうですね」
「社畜はなかなか舐められないからな」
そう言って、次のスライムコアを叩いた瞬間、目の前に表示されたオーブ取得の画面を見て、俺は思わず呟いていた。
「おいおい……」
「なんです?」
俺は、表示された確率をメモすると、それを三好に差し出した。
それを見た三好は、早速いままでの数字とそれを比較していた。
、、、、、、
スキルオーブ 物理耐性 五十万分の一
スキルオーブ 水魔法 六百万分の一
スキルオーブ 超回復 六千万分の一
スキルオーブ 収納庫 七億分の一
スキルオーブ 保管庫 百億分の一
、、、、、、
「以前と比べると、物理耐性は200倍、水魔法は百倍、超回復が20倍で、収納庫と保管庫でも十倍になってますね」
「一律じゃないんだな」
「手に入りやすそうなものが、より手に入りやすくなってる感じですけど……あ!」
「どうした?」
「先輩。この倍率が、ゲノーモスにも適用されていたりしたら……」
以前のマイニングのドロップ率は、一万分の一だ。もしも200倍になっていたりしたら――
「ゲノーモス五十匹あたりにひとつ〈マイニング〉がドロップすることになるな」
「それって今頃、マイニング祭りになってませんか?」
もしもそうなら、マイニングの価格が暴落するのは確実だ。そうして、下手をすれば今日にも鉱石のフリードロップが始まることになるだろう。二十層以降に行けさえすれば、誰もがその恩恵に与れることになる。
実際にどうなっているのかは、確認してみなければわからないが、これが全体に適用されているとするならば、キメイエス級からドロップする〈異界言語理解〉は、ほぼ一〇〇%になるだろう。
「こりゃ、オーブ市場の活性化は間違いないが、それなりに暴落することになるぞ」
「保有してるオーブは今のうちにオークションに出しちゃった方がいいですかね?」
「後でばれたら恨まれそうなんだが……それより、こんな倍率になっていることを知らない日本ダンジョン協会が片っ端から買い上げて保管を依頼してきたらどうする?」
昨日の鳴瀬さんの勢いでは、そういうことも十分にあり得るだろう。
日本ダンジョン協会の決算月がいつなのかは知らないが、それによっては、節税のために異界言語理解の手数料を使って無茶なことをしかねない。
「斎賀課長が一月の半ばに、会計年度の終盤がどうとか言ってましたもんね。日本の企業だと三月末とか多いですし、十分あり得ます」
だが、今までの感覚で取引したりしたら確実に損をするはずだ。それが分かっていて、黙ってるのも悪い気がするが――
「だけど、どうやって説明するんです?」
「だよなぁ……」
「10億円のオーブが、一億円くらいにはなりそうですよね」
例え出現率が跳ね上がったとしても、需要が十分に満たせるかというと難しいところだ。だから、出現率が百倍になっても、価値が百分の一になったりはしないだろうが……
「保管料、売却代金の3割とか、最低一億とか吹っ掛けちゃったからなぁ……」
もうここは、「カンです」の一言ですませるしかないか。考えてみれば、以前から似たようなことをやってきた気もするし、あの課長と鳴瀬さんなら黙ってスルーしてくれそうな気もするし。
「こうなっちゃ、3割はともかく最低金額は引き下げるべきかもな」
「まあ、それはむこうから話があった時でいいんじゃないですか?」
「だな」
「あとはクールタイムがどうなったかが知りたいですよね」
さっき取得したのは、丁度取得可能になっていた〈超回復〉だ。もう一度表示させてみれば、表示されるクールタイムの値によって、どうなったのかが分かるだろう。
「しかし、出現率に連動するクールタイムの計算がそのままだったとしたら、〈超回復〉は、14時間24分に一個、〈収納庫〉だって、一週間に一個取得できることになるぞ」
「そうなったら、あちこちに配って歩きますか?」
「自衛隊とか、ダンジョン攻略局とかか?」
「最初はそうでしょうね」
「あしながおじさんの正体を知られずに配れるならそれもいいかもしれないけど……やっぱりこれを世に出すと自由がなくなる気がするなぁ」
なにしろ密輸も泥棒もやりたい放題なアイテムだ。白昼堂々ルーヴルから絵画や彫刻が消えうせるくらいのことなら簡単にできるだろう。
そして証拠は決して見つからない。なにしろボックスの中のものを外から認識することはできないのだから。
だが、それの存在が明らかになって、所有している人間がはっきりしているなら話は別だ。なにしろ世界中でそれが可能なのはそいつだけだということになるからだ。
「ほんと面倒くさいよな、これ」
「じゃ、フェアウェルしちゃいますか?」
「……すみません。ボク、弱い人間なので、便利に慣れてしまうと元に戻れません」
「誰が、ボクですか、誰が」
結局捨てられもせず、かと言って公開することもできず、情けない限りと言われればその通りなのだが、それが人間というものだ。
「異世界に転生した希少なアイテムボックス持ちって、どうして泥棒の冤罪を被せられないんだ?」
「そりゃ、勇者様は他人の家どころか王城のタンスやつぼを調べてアイテムをゲットする権利を持っているからに決まってますよ」
三好のあまりの言い草に、俺は思わず吹き出した。
ま、そんな冤罪を被せられる話を読みたいかと言われれば、微妙なのは確かだが。
「それより先輩。こうなったら、アイテムのドロップ率がどうなってるか気になりませんか?」
「確かにそうだな。ダンジョンの人類に対する奉仕って点で、一番貢献しているのは、今のところポーションだろうし、増えていてもおかしくはないか」
「十層なら、以前のデータも豊富にありますから、すぐに比較できますよ」
「携帯も使えるし転移石もあるから、このまま下りてもいいけど、昨日の今日だから一応地上にいないと鳴瀬さんが困らないか?」
「それもそうですね。じゃあ、手がすいたら、すぐに確認に行きましょう」
「了解」
俺達は、その後も時間の許す限りモンスターの出現確率を調べながら代々木内をうろうろしていたが、結果はおおむねスライムと似たようなものだった。
なおクールタイムは――予想された通り、短くなっていた。
、、、、、、、、、
3三層は、地面の下のにできた土の洞窟のようなフロアだった。それはまるで巨大なアリの巣のように見えたが、そこに生息していたのは、妙に動きの速い徘徊性の蜘蛛型モンスターの一団だった。
3三層の攻略を行っていたDAG(ダンジョン攻略群)のチームIでは、それまで悩まされ続けていたモンスターが突然消えたことに、安堵よりも警戒が先に立ち、一旦三十二層へ引き返した後、翌日再び3三層へと足を踏み入れていた。
「アースタイガーもキメララクネも少しずつ戻ってきているようですね」
アースタイガーは、巨大なタランチュラのようなモンスターで、キメララクネはサソリと蜘蛛が合体したようなそれだ。
3三層には、他にも巨大なジグモやトタテグモのような修正を持った、トラップドアと呼ばれるモンスターが存在していた。
「あー、やっぱり消えたときに一気に進むべきだったんじゃないっすか?」
若く調子のいい海馬三曹が、88式鉄帽の位置を片手で修正しながら、モンスターがいなくなったのなら、素早く調査するチャンスだったのにと主張した。
「馬鹿言え、それでトラップドアが待ち構えていたりしたら、俺たちゃカモだぞ、カモ。ダンジョン内で状況が分からないときは安全策だ。命は一つしかないからな」
鋼一曹が、海馬の手綱を握るようにそう言った。
「へーい」
「しかし、鋼さん。もうハチキュウじゃ無理っすよ」
自衛隊が採用している89式は、5.56ミリの弾を使う。これがすでに雑魚にも通用しないのだ。
キメララクネの装甲は、角度のこともあってこの弾を完全に弾いていた。
「こいつでも傷をつけるのがやっとって有様ですからね」
そう言って海馬が手に持ってみせたのは、ロクヨンと呼ばれている89式以前に使われていた小銃だ。
7.62ミリのいわゆるNATO弾を使う銃だが、減装弾を使用するため、やや威力は控えめだ。
今や作戦の主流は、7.62ミリでけん制しつつ、大物は伊織が、それ以外は寺沢から配布された水魔法所持者がとどめを刺すスタイルになっていた。
今は、沢渡二層が最前線でその任を果たしていて、随時ローテーションで入れ替わっていく体制だ。
都合、通常戦闘では、水魔法所持者三人の負担が馬鹿にならないレベルで重くなっていた。
とはいえ、それ以上の威力をもつ兵器は、取り回しの問題でモンスターに当てるのは難しいものが多く、難しいところだった。
「従来の兵器だと、どうにも帯に短したすきに長しってやつになってきましたよね」
「一応、小型の装甲車両や、エリコンの25ミリや35ミリを利用した武器なども計画はされているようだな」
「エリコンと言えば、転移石とやらで87RCVを転移させるテストをやるらしいな」
「マジですか?」
「成功すれば、16式のキドセンも持ち込めるかもな」
「ですけど、十八層と三十一層、それにスペシャルで三十二層があるだけで、他の階層へは行けないって聞きましたけど」
「十八層と三十一層と三十二層に行けて、他の階層に行けない理由はないだろ」
いずれでてくるか、隠されているかのどちらかに違いない。うちのチームにならいずれ公開されるはずだ。鋼はそう考えていた。
「もしもそうできれば、もう少し安全に探索が進むだろう。LAVにM2をくっつけるって話も出てるしな」
「任意の層へ転移できるのを願うばかりっすね」
「そいつは日本ダンジョン協会に頼んでみるしかないな」
だがそう言う実験をする以上、持ち込める可能性があるということのはずだ。
「隊長!」
その時前線で一匹のトラップドアと戦闘していたチームから叫びが上がった。
伊織が急いでそこへ向かうと、隊員が、焦ったように報告して来た。
「お、オーブが出ました!」
「なに? 名称は」
「それが……〈機織り〉です」
「機織り?」
それが、人類が到達した最も深い階層からドロップしたスキルの名称だった。
212 奉仕の兆し・2 3月26日 (火曜日)
「これがそのオーブなんですが……」
申し訳なさそうに鳴瀬さんが取り出したボックスは、うちがオーブを納品する際に使ったチタンのケースだった。中のオーブは既に使われたのだろう。
そこに収められていたのは、3三層で出現したにもかかわらず、オーブカウントが僅か48という、今までの常識を覆すものだった。
出現後、携帯で日本ダンジョン協会へ連絡、一気に帰還石で戻って来て、代々木で鳴瀬さんに預けられたものらしい。皆がその時、世界が変わったことを実感したようだった。
「いや、そのオーブって言われてもですね……」
俺は苦笑しながら頭を掻いた。
なんでも伊織さんが、三好に鑑定してもらってくれと依頼したらしい。
キメイエス戦の後、「門の鍵」をさらっと鑑定してしまったからだろう。実にストレートで表も裏もない依頼だった。なにしろ発見されてから4八分しか経っていないのだ。何かを画策する暇なんかないはずだ。
「まあまあ先輩。伊織さんって、そんなに難しいことは考えてなさそうな人でしたよ」
「いや、お前、それはちょっと失礼じゃないか」
三好がペロリと舌を出す。
キメイエスの時会った印象では、やたらとクールなお姉さんって感じだった。
なにしろ手足がもげてるのに、他人事みたいに状況を説明したのだ。あれが訓練のたまものだというのなら、自衛隊って凄いんだな。
難しいことは――それほど話をしなかったから分からないな。
「それに国家権力に無駄に逆らってもいいことないですよ」
「甘いことを言ってると、ちょーしこいた国家権力が、なし崩し的に依頼を強要してくるぞ」
なにしろ、国家権力者の数は多い。一人から1件を頼まれたとしても、70人いれば、710件になるのだ。
「なんです、その具体的な数字」
「国会議員の定数」
日本の国会議員は、衆議院議員が465人、参議院議員が245人いる。人口に対して定数が少ないとはいえ、別々に相手をするには結構な数だ。
「地方議員まで入れたら、とんでもない数字になるぞ。でもって、陳情をよっしゃよっしゃと請け負った連中が大挙して押し寄せてくるのさ」
「そしたら商業展開して、鑑定一回100億えーんとか、バカみたいな値段を付けておけば誰も注文しませんって」
こいつ、どうでもいいからって、思い付きでテキトーなことを言ってやがるなぁ……
「それは止めておいた方がいいぞ」
「なんでです?」
「仮に自由を欲しての手段でも、いやらしく価格の部分で争っているように見せかけて、大衆を扇動して反感を買わせるのがひとつのテクニックだからさ」
大衆の目を分かりやすく反感を買いそうなものに向けさせて扇動するのは、扇動家の常とう手段だ。
「いや、分かりますけど、この場合それに何の意味があるんです?」
三好は不思議そうに首を傾げた。
気持ちは分かる。
通常、この場合の勝利とは三好に鑑定をさせることだ。
社会的に叩くことでその目的が達成できるならいいが、そうでなければ、鑑定料をタダにさせたところで、鑑定自体をしてもらえなければ目的は達成できない。売っていない商品は買えないなんて子供でも分かることが想像できないとなれば、バカのそしりを受けても仕方がないだろう。普通ならなんとか懐柔するところを、へそを曲げられるようなことをしてどーすんだって話だ。
だが――
「意味なんかないさ。極言してしまえば、そういうことをするやつは勝つか負けるかしか考えてないんだよ。目的がいつの間にか相手を遣り込めることにすり替わってしまい、否定されたら脊髄反射で反撃してしまうんだ」
「もしかして、バカなんですか?」
「いや、もっとオブラートに包もうよ」
俺たちの脱線に口を挟めず、黙って聞いていた鳴瀬さんだったが、一段落しそうなところで、すかさず割り込んできた。
「あのー」
「あ、すみません」
そう言った三好が、さらさらとメモを書き始めた。いや、お前、いままでの話はなんだったの。
俺の苦笑を尻目に、彼女は書き終えた紙を鳴瀬さんに渡した。
、、、、、、
スキルオーブ 機織り the gift of forming fabric.
布を作りだす。
汝の子孫も汝同様、同じ罰が下されるだろう。永遠に。
、、、、、、
「布を作り出す? って、なんですこの最後の行?」
「あー、最後のブロックは俺たちの経験上、フレーバーテキストみたいなものですから、あんまり気にしなくてもいいんですよ」
「フレーバーテキストって……」
鳴瀬さんは、そのメモにもう一度目を落として言った。
「もしかして出典は転身物語でしょうか」
「転身物語? どうしてです?」
どうやらこのオーブをドロップしたのは3三層のトラップドアらしい。
トラップドアと言うのは、いわゆるトタテグモのことだが、3三層のモンスターは巨大なジグモのような形をしていて、隠された巣穴に近づくと飛び出して巣に引きずり込もうとするのだとか。
「つまりアラクネの話ですか?」と俺が訊くと、彼女はこくりと頷いた。
「そうです。アラクネがアテナに叩かれて首を吊り、蜘蛛にされる直前に永劫の呪いがどうとかいう部分があるはずです」
「へー」
転身物語は、オウィディウスの代表作で、変身物語とも訳される。ギリシア・ローマ神話を題材にとった、何かに変えられてしまう人間の話を中心に取り扱った物語集だ。
その内容も一通りは知っているが、文章の詳細までは気にしたことがなかったな。
「もちろん、蜘蛛にされたから永遠に巣を作り続けることになるのを呪いと表現しただけでしょうけど……」
「そんな感じです。そこはあくまでも雰囲気なんですよ。重要なのは機能が書かれた名称の次のブロックなんです」
三好はそう言ったが、鳴瀬さんはそれでも気になっているようだった。まあ、子々孫々に渡って呪われるようなスキルはお断りだろう。俺だってそう思う。
だが――
「大丈夫だと思いますよ。今までだって、『その叡智に触れるものは、狂気に支配されるだろう』だとか、『地獄の扉を開いて眷属を呼び出せば、地上は闇の楽園と化すだろう』とかでしたから」
「え? それを使われたんですか?」
改めて驚いたようにそう言われると、若干?軽率だったような気もして、俺は少し言いよどんだが、三好は、今更のようにあっけらかんと言った。
「そういや、全然気にしませんでしたね」
まあ、気にしていたとは言えないよな。
「それを見たときの感想は『どこのカードゲームだよ、まったく』だった気がする」
「そうそう、そんな感じでした」
「はあ」
鳴瀬さんは呆れたようにため息を吐いたが、先駆者ってのはそう言うものだ。
各種茸を始めとする食べ物だって、食べて酷い目に遭った人たちの屍の上に、知識が積みあがっていったことは間違いない。
「ですから、このスキルの機能は、ただ『布を作る』だと思います」
「分かりました。でもどうやって作るんでしょうか?」
「それは使ってみないと分かりませんね」
スキルを取得すれば、ある日突然、なんとなく使い方が分かるようになるのだ。
「だけどさ。蜘蛛の作る布って……もしかして構造タンパク質ってことか?」
「まあ、レーヨンやポリエステルの布が造られても驚きはしませんが、ドロップ元を考えるとその可能性は高そうですよね」
「最新素材じゃん!」
世界で唯一、山形県のスパイバー社が量産化に成功している合成クモ糸繊維「QMONOS」に代表される、枯渇が心配される天然資源に頼らず、サスティナブルで超高機能な次世代素材を創り出すことを期待されいてるジャンルだ。
「それはともかくですね」
鳴瀬さんがにっこりと笑って、バッグの中から一枚の書類を取り出した。
「預かりですか?」
昨日予想した通り、それはオーブの預かり契約の書類だった。
「よろしくお願いします」
確かに攻略に使用するようなタイプのオーブではないから、誰に使われるのか、どう利用するのかは難しいところだろう。〈マイニング〉と同じだな。
ともあれ、すでに〈マイニング〉を預かった前例もあるし、約束していたものは仕方がない。
「分かりました、お預かりします」
鳴瀬さんはほっとしたように肩の力を抜いた。
「ただ――」
「え?」
身構えるように顔を上げた彼女に苦笑しながら、俺は代々木のオーブの出現率の上昇と、スキルの価格低下に伴う預かり価格の問題について話をした。
それを聞いた彼女は、頷きながら現状を告げた。
「……実はすでに報告があっただけでも、今日のスキルオーブ出現個数は10個を超えているんです」
「それってもしかして、マイニングじゃありませんか?」
「どうしてご存じなんです?」
「やっぱり……」
話を聞くと、オーストラリアとアメリカが、いくつもドロップさせたらしかった。
なにしろキャンベルの魔女たるエラと、サイモンチームのナタリーの広域殲滅能力は他を圧倒しているらしい。あそこじゃ無双していてもおかしくないな。
だが、ゲノーモスの出現数自体は、リセット前に比べれば減ったということだった。
「ともかく、こちらから条件の変更をお願いするようなことがあるかどうか、斎賀と話してみます」
そう言って、鳴瀬さんは足早に市ヶ谷へと向かって事務所を後にした。
「なあ三好」
彼女を玄関まで見送って、ダイニングに戻ってきた俺は、気になっていたことを打ち明けた。
「なんです?」
「さっきの〈機織り〉だけど、何かを作り出すっていうスキルは、もしかして初めてドロップしたんじゃないか?」
それを聞いた三好は、すぐに世界ダンジョン協会のデータベースを呼び出して、しばらく一覧を確認した後頷いた。
「確かにそうみたいです。先輩が出したリストで、ラプドフィスパイソンに〈猛毒〉ってのがありますけど、これは毒を作るというよりはたぶん攻撃魔法の一種っぽいですよね」
ダイニングの椅子に腰かけて腕を組んだ俺は、天井を仰いで、独り言のようにつぶやいた。
「跳ね上がったオーブの取得率。そして登場した、無から何かを作り出せそうなスキル。もしかしたらこれが――」
そして、三好に目を向けて言った。
「奉仕の先鞭ってことじゃないか?」
「個人が祈りの力で何でも作れる社会の始まりへの予兆ってことですか?」
「考え過ぎかな」
「増えたと言っても、今のところ少数ですからね。実際、職人が少々増えたところで、職人社会の始まりとは言えないでしょうが――」
三好は収納庫から、転移石祈りバージョンを取り出して机の上に置いた。
「なにしろ、できちゃいましたからねぇ。虚空から耳かきが作り出されても驚きませんよ」
もちろんこれに成功した人間は、世界で三好だけだろう。何しろ俺にもできないのだ。もっとも俺の場合は、作り出されたものが、祈りの力か〈メイキング〉の能力か分からないからなのだが。
その言い草に苦笑した俺は、ふと思った。
「現時点で社会のどこかに、命を懸けるような強烈な望みを持った誰かがいて、その望みは具現化すると思うか?」
種はすでにまかれている。もしもそれが芽吹いたりしたら、それが新しい創世の始まりとなるわけだ。
「今のところ、魔結晶がないと転移石はできませんから、いきなりそんなことができる人はいないと思いますけど、今後も現れないかどうかは分かりませんね」
「それなりに、なにか訓練や慣れのようなものが必要ってことか」
「祈りだって、今までの経験や知識が邪魔をしていたのか、時期尚早だったのかわかりませんからね。そもそもどうしてできるようになったのかも説明できません」
三好は、なすすべ無しといった様子でそう言うと、転移石をしまって、お湯を沸かしにキッチンへと向かった。
「そうそう、先輩。明日のファインドマンさん向けに、何か和菓子を用意しようと思うんですけど」
「なんだよ。和のおもてなしか?」
「まあお気持ち程度ですけどね。岬屋に菱葩《ひしはなびら》とか売ってますかね」
岬屋はうちから歩いて行ける距離にある京和菓子の銘店だ。
趣のある誂え菓子などもやっているが、さすがに今日の明日では無理がある。
店舗は小さいから、行ってみないと何が売られているのかは分からない。
「よーするにピンクで白あんの和菓子を買ってこいってことか」
「いざとなったら道明寺はあるんじゃないですかね、季節的に」
「どこが白あんなんだよ。あ、俺、舟和の芋ようかんが食べたい」
「浅草まで行く根性があったら、勝手に買ってきてください」
「へいへい。だけど明日の生菓子を今日買っていいものか? 上菓子の餅は硬くなりやすいぞ」
「わらび粉入りだから、大丈夫じゃないかとは思うんですが……大体岬屋さん十時からですから、下手したら間に合いませんよ」
「それもそうか。んじゃま、行ってくるよ」
「よろしくおねがいしまーす」
213 ファインドマン氏の来日 3月27日 (水曜日) 前編
その日、代々木の事務所には、リチャード=ファインドマン氏がはるばるボストンから訪れていた。例のスキル削除コマンドを発見した勇気ある彼だ。
『あなたがワイズマン? ワオ、初めまして、リチャードです!』
ショートカーリーで背の高い細身の男が人懐こい笑みを浮かべながら、三好の手を取って、上下にぶんぶん振った。
『お疲れ様です。大変でしたか?』
『昨日の夕方日本に付いて、時差ボケも徹夜で解消しましたから大丈夫です。ホテルまで取っていただいてありがとうございました』
『こんにちは、ファインドマンさん。俺はヨシムラ。彼女のパーティメンバーです』
『おー、ヨッシーですね。僕が出入りしている研究室のセンサーも同じ名前ですよ』
『センサー?』
いきなり慣れない愛称で呼ばれた俺は、内心苦笑しながら訊き返した。
どうやら、アンダーワールドという下水の状態をリアルタイムに調査するプロジェクトに使われているサンプリングロボットの名前が、マリオだのルイージだのヨッシーだのという、どこかで聞いたようなキャラクターの名前なのだそうだ。
『どこですそれ。大丈夫なんですか?』
『MIT(マサチューセッツ工科大)のセンサブル・シテイ・ラボです。まだ怒られたことはないみたいですよ』
まあ、研究室のロボットの名前にするくらいなら、厳しいことは言わないだろう。そもそもマリオとルイージじゃ、恐怖の報酬だってそうだしな。
ヨッシーはごまかしようがないが。
『それにしてもワイズマンのパーティメンバーだとは実に羨ましい! あ、僕のことはリックと呼んでください』
『OKリック。俺は――まあ、ヨッシーでもいいか』
俺が笑いながらそう言うと、彼は自分たちが作ったヨッシーに付いて話し始めた。
どうやら彼はスマートシティと呼ばれる領域の研究を専門にしているらしく、その一環としてダンジョン内に興味を持ったのが探索者になった切っ掛けらしい。
『スマートシティ自体は、情報通信技術とデータサイエンスを活用して都市の問題を解決するためのアプローチと言えます。今も世界中でこの構想に向けてデジタルトランスフォーメーションのプロセスが進行中なんです』
デジタル・トランスフォーメーションは、実に適当な言葉で定義は様々だが、おおむね、「デジタル化による変革によって何かをより良い方向に変化させる」程度の意味合いだ。
結局、センサー技術によって大量の情報をリアルタイムに取集し、サービスやインフラの管理をより効率化して、環境問題の解決や生活の質を向上させるのが目的の研究なのだろう。
なお、去年末に経済産業省がDX(デジタル・トランスフォーメーション)推進ガイドラインを発表したのは記憶に新しいが、その内容は、老朽化・ブラックボックス化した既存システムをどうにかしないと2025年には大損するからポイしてIT化を進めろやーという脅しのようなものだった。
『そして、現在ではAIのユビキタス化によって、より詳細な――』
更に彼は大規模データを利用するAI以外に、センサー部にばらまかれたAIの活用による、都市サービスの変革に付いて滔々と語り始めた。
「やべ、三好。こいつも……」
「中島さんや榊さんのお仲間ですね……」
俺たちは段々引きつりがちになる笑顔で固まりながら、彼の話を延々と聞かされていた。
「こいつ年を取ったら、名前の通り、リック=サンチェスになりそうな雰囲気だぞ」
「先輩、意外とフォローしてますよね」
リック=サンチェスは、カートゥーンネットワークのアダルトスイムで放映された「リック・アンド・モーティ」に登場する主人公の一人で、言ってみればマッドなサイエンティストの典型だ。
モデル?は、バック・トゥ・ザ・フューチャーのエメット=ブラウン博士。彼をアル中にして人間嫌いにして、ジコチュー、あ、これは元々か。にすればリック=サンチェスの出来上がり。
こそこそ三好とそんな話をしている間も、彼の説明は続いていた。
俺たちは、なんとか話に割り込もうと、額に汗を浮かべながら突っ込むタイミングを計っていた。
『それで丁度去年、AMS(アムステルダム先進都市ソリューション研究所)とうちの共同事業でアムステルダムの水路の3Dマップを作ったんですが、同様のシステムをダンジョンに持ち込んで――』
『あ、似たようなことはうちでもやってますよ』
『え?』
(ナイスだ三好!)
(放っておくと、いつまで続くか分かりませんからね!)
なんとか話を引き取ることに成功した三好は、深度センサーで作成したダンジョンの3Dマップを彼に見せた。
そして、代々木ダンジョン内で通信が行えることを聞くと、目を見開いて、「あれはデマじゃなかったんですね!」と驚いていた。
彼の研究にとって通信技術は必須だろうから、従来のダンジョンでは多階層を対象に何かを行うことは難しかっただろう。だが、代々木なら別だ。彼は、興奮して俺たちが集めた公開データを舐めるように見ていた。
『それで、欲しいオーブは決まりました?』
一向に進まない展開に、三好がさりげなくそう尋ねると、彼は思い出したようにデータが表示されているタブレットから顔を上げて、しまったとばかりに頭を掻いた。
『これ、本当にどれでもいいんですか? 何千万ドルもするものが含まれてますけど……僕が失ったのはスケルトンがドロップした〈生命探知〉ですよ?』
今回彼に提供されるオーブは、あらかじめ送っておいたオーブリストから、好きなものを選んでいいことになっていた。
そこには、攻撃魔法の〈火魔法〉や〈地魔法〉や〈水魔法〉、それ以外にも〈促成〉や〈生命探知〉や〈マイニング〉など、俺たちが所有しているか、すぐに取得可能なものだけがリストアップされていた。
『あなたが支払ったのは、本物の勇気ですからね。それはそれらのオーブ以上の価値があるでしょう?」
三好がかっこつけてそう言うと、リックは感動したように目を見開いた。
彼が自分のスキルに向かって、それを削除するようなコマンドを使ってみたからこそ、俺たちは〈マイニング〉の呪縛から逃れることができたのだ。
それにスケルトンの〈生命探知〉だって、従来のドロップ率なら二千万分の一。年末ジャンボ宝くじの1等級であることは間違いない。もっとも従来のスキルオーブは大抵がそうなのだが。
『実は、〈マイニング〉を貰って、代々木のプラチナでひと儲けしようと思ったりもしたんですけど』
『今なら、二十四層のパラジウムの方が価値がありますよ』
現在、プラチナはグラム3三百円弱だが、パラジウムはグラム5900円弱だ。
そこまで下りて戦えるなら、モンスター3体あたり59万円の収入になる。冷静に考えたら、結構凄いな。
『だけどあまり長くいられないし、帰国したときちょっとね。現在のBPTD(ブリージー・ポイント・チップ・ダンジョン。ロングアイランドの西の端にあるNY市が管理するダンジョン)の最下層は十七層だから、二十層まで行っても何が出るかは分かりませんし』
ボストン周辺には適当なダンジョンがない。だから彼らが本格的にアタックするのは、休みの日のBPTDだということだ。
どうやら彼らはBPTDの最前線組らしく、二十二層や二十四層で戦う自信はあるようだった。
ケンブリッジからNYまでは、大体340キロ。車で三時間半といったところだ。日本で言うなら名古屋の手前当たりから代々木ダンジョンへ遠征するのと同じくらいだ。
アメリカは飛行機代が安いから、ローガン国際空港からJFK国際空港なら大体100ドルで行ける、所要時間は一時間だ。しかもJFKからBPTDまでは30キロもないだろう。
しかし、仮にBPTDが二十層まで攻略されたとしても、二日の休みでそこまで潜るのは難しいだろう。転移石があれば別だが、今後BPTDで作られるかどうかは分からない。
そう考えれば、彼の場合マイニングを持って帰国しても宝の持ち腐れになるわけだ。
『だから、〈火魔法〉にします』
『攻撃魔法なら水もありますよ。飲める水なので、魔法の中では結構人気です』
三好がそう言うと、彼は照れたように頭を掻いて言った。
『実は僕、スチュワートさんのファンで』
『スチュワート?』
誰だっけと首をひねった俺を見て、三好が日本語で教えてくれた。
「ナタリーさんですよ」
「ああ。彼女、スチュワートって言うんだっけ」
「今まで知らなかったことの方が驚きです」
三好は呆れたようにそう言うが、ファミリーネームを聞いたことは……たぶんないはずだ。
「いや、だって、最初のオーブの受け渡しの時、名前しか名乗らなかったじゃん」
あの時は、日本語で突っ込まれて、とぼけられずに困ったっけ。
「むしろお前はなんで知ってるんだよ?」
「超有名人じゃないですか……」
三好はやれやれというポーズを取ったが、すぐに一転舌を出した。
「私もブートキャンプの申込書で、初めて見たんですけど」
「大して変わんないだろ!」
『?』
『ああ、失礼。ナタリーさんですよね』
ナタリー=スチュワートは、サイモンのチームの紅一点で、炎の魔法を巧みに使うことで知られている。
『そうです、そうです! 今、代々木にいらっしゃると聞いて、どっかですれ違えないかなーと』
リックは、きらきらしたような眼差しでそう言った。
二十歳もとうに過ぎた男のキラキラって、誰得なんだよ。
「見たか三好。やっぱあいつらって、一般の探索者にとっちゃアイドルなんだな」
そう言えば三代さんも、最初にあった時サイモンに手を取られて目をハートにしてたっけな。
「そりゃそうですよ。自分がやってるのと同じスポーツの世界ランカーに憧れない人は少ないと思いますよ?」
「だけどナタリーさんって、何と言うか……怖いだろ? 三代さんが最初にサイモンに会った時、不意打ちで奴の頭にかかと落としを決めてダウンさせるのを見て、ちょっとビビったぞ」
「まあ気は強そうな人ですけど、美人ですし。ともあれ、先輩くらいですよ、ナンバーワンチームをないがしろにしてるのは」
「ないがしろにはしてないだろ?!」
「ええ? サイモンさんの扱い、結構雑くないですか?」
「そんなことは……」
ないはずだが、あんまりひょいひょい来るものだから、多少はテキトーになっていたのかもしれない。
「そうだ、先輩。サイモンさんに電話してアポとってください」
「なんの?」
「彼の、お・も・て・な・し、ですよ」
「はあ?」
どうやらリックがファンだというナタリーに会わせてやろうという目論見らしいが、そのためにサイモンをパシリに使うとは、三好の方がよっぽど扱い雑くないか?
「だって先輩、ナタリーさんの連絡先知ってます?」
「いや。だけど、キャシーに訊けば分かるだろ?」
「いま、キャンプの真っ最中ですよ。でも先輩が、直接ナタリーさんに連絡して食事に誘えるほど親しかったとは知りませんでした」
「……すみません。電話させていただきます」
俺は携帯を取り出して、電話帳からサイモンのアドレスを検索していると、三好が続けた。
「それに――」
「なんだ?」
「ここ二日の情勢を考えると、今頃、いろいろと仕事を押し付けられそうになって逃げだしたくなってるに決まってますって。ここは恩を売っときましょう」
「それを、恩って言うのかねぇ?」
単なる仕事の邪魔じゃないのと思わないでもなかったが、とりあえず、サイモンの番号をコールしてみた。
代々木の中にいても外にいても電話が繋がるようになったんだから、戦闘中でもない限り――
『よう、ヨシムラ。どうしたんだ?』
――繋がるよな。
俺が事情を説明すると、彼は嬉しそうに笑って、二つ返事でそれを了承してくれた。
『じゃ、6時にそっちの事務所に行けばいいんだな?』
『それでお願いします』
『わかった。んじゃまた後でな』
そう言って彼は通話を切った。
『ええっと?』
しばらく蚊帳の外だったリックに、三好が、ナタリーを呼んで、リックの歓迎会をやるからと伝えると、彼は驚いたように、『ホントに?』を繰り返していた。
「じゃ、先輩は、〈火魔法〉をよろしくお願いします」
「いまからか? 六時間で十一層に行って帰るなんて、無理――あ、今ならいけるのか」
今は転移石があるから、大抵のフロアに行って帰ってくるだけなら一瞬だ。
そう言えば今週から売り出された帰還石は爆発的に売れているらしい。
転移石18と、転移石31も同様に需要が大きく、新しくダンジョン管理課の中に転移石を専門に扱う部署が作られたようだった。
Dカード出現と被ったことでてんやわんやになるかとも思われたが、Dカード出現が日本ダンジョン協会に与える影響はそれほどなかったようだ。
俺たちにとって、実にありがたいことに、その部署が転移石に関するあらゆるテストをしてくれていた。
その検証で、設計通り代々木から一定以上離れるとただの石ころになることが確認されていた。
そのせいもあって、ダンジョンの裏側に現在建築中の建物の部屋の引き合いが世界中から凄い勢いで集まってきているらしい。
転移石そのものの研究は、今のところダンジョン内でしかできないが、三十二層にいろいろな機械を持ち込むよりも地上に立てられる建物の一室が使えた方が圧倒的に便利だからだ。
あろうことか、世界ダンジョン協会のDFA(食品管理局)を始めとする世界ダンジョン協会関連の組織からも強権が発動されたようで、「断りにくい組織を全部引き受けたら部屋がなくなっちゃいそうなんです」と、鳴瀬さんが苦笑していた。
「ま、こっそりすばやくお願いしますよ。私はこっちの準備をやっておきますから、先輩は、レッサー・サラマンドラってことで」
「了解。ドルトウィンを貸してくれよ。あいつら見つけにくいだろ」
同じスキルを複数取得した今ならどうだかわからないが、以前のままだとしたら、レッサー・サラマンドラの擬態は、よっぽど注意していない限り〈生命探知〉にも引っかからない。
だが、アルスルズはそれを簡単に見極めることができるのだ。
「尻尾が出たら、ちゃんとゲットしておいてくださいね」
「へいへい」
装備は〈保管庫〉の中に揃っている。一瞬で装備を身に付けると、俺はそのまま代々木へと向かうために、玄関の扉を開けた。
「あ、ししょー」
ポーチの階段を下りたところで、門の向こうから声をかけられた。
「あれ、斎藤さん?」
彼女は小さく手を振って、アプローチを小走りに駆けてきた。
そう言えば、二十一日から選考会がどうとか言ってたっけ。何かあったんだろうか?
「どもども。なに? これからダンジョンに行くの?」
俺の格好を見た斎藤さんが、そう訊いた。
「まあね。で、どうしたの?」
「ほら、例の選考会で、二十四日まで嬬恋にいたんだけど、戻ってこれたと思ったら、あの騒ぎでさー」
「Dカード出現の?」
「そうそう、それでいろいろあって、報告が今日になっちゃったわけ。入れ違いにならなくて良かった」
生放送中の番組内でDカードが出現するくらいなら放送事故で済むけれど、運転中に出現したカードに驚いて交通事故になるケースなんかも結構あったようだ。
彼女の周りでも、色々とごたごたがあったのだろう。
「電話でも良かったのに」
「一応師匠への報告は、直でするのが礼儀ってもんでしょ」
「なに殊勝なこと言ってんの」
「私はいつも殊勝だから」
「はいはい。で、結局どうなったんだ?」
「もち、芳村さんに貰った弓で通過したよ」
「なぜそこを強調する」
「だってさー」
どうやら、選考を通過してしまったために、スポンサーの申し入れが殺到したらしい。
青田買いにも程があるが、プロスポーツの世界でも可愛いは正義だからなぁ。しかも非公認世界記録の噂が出回ってるし。
「契約の縛りとか、いろいろ面倒くさかったから、道具は『シショー印』のがあるからって、全部断っておいた」
「はぁ? なんだよ『シショー印』って?! 適当にショップの人と話して決めただけだろ!」
偶然使っているメーカーが、よろこんで手を上げてきたのだが、使ってるパーツのメーカーがばらばらだったことが災いして、なんだかごちゃごちゃして良く分からなかったのだとか。
「スポンサーの申し入れなんか、事務所にぶん投げとけばいいんじゃないの?」
「まあ、そうなんだけどさ」
そうすると今度はギャランティが面倒なことになるらしい。
本来芸能事務所は、芸能人を売り出すためにお金をかける。その分ギャラの配分が低めになりがちだ。
ところが最初から優秀なアスリートが、マネージメント会社に所属する場合は、アスリートの方に重きが置かれるため当然ギャラの配分は高額になる。
「私の場合は、線が引きにくくって」
仕事をアスリートとしての仕事と芸能人としての仕事に分けることができるなら、ギャラの配分もスムースに契約できるだろうが、世の中そううまくはいかない。
例えば、バラエティ番組に登場してアーチェリーを披露したとして、それは芸能ジャンルなのかアスリートジャンルなのか非常に分かりにくいことになるわけだ。かといって、出演させる方はそれを期待するだろうから、「今日は女優としての仕事ですから」とすべてを無視するわけにもいかないのだそうだ。
「めんどくさくなっちゃったから、全部断ることにした!」
相変わらず男前なことを言う斎藤さんに苦笑しながら、俺はポーチの柱にもたれかかりながら腕を組んだ。
「いや、事務所がアスリートとしての活動を認めたってことは、そこに何かの利益がなきゃまずいんじゃないの?」
「近代五種ほどじゃないけど、日本じゃマイナースポーツだからテレビCMって訳にもいかないしねぇ」
アーチェリーの国内競技人口は、下手すれば1万人を割りかねない。
ちなみに近代五種は50人を割っているらしい……そりゃ、ランニングと水泳はともかく、日本に、馬術とフェンシングとアーチェリーを全部やってる選手は少ないだろう。
どこで稼ぐつもりなんだろと、彼女は首をひねっていたが、そりゃスポンサー料とかだろうと俺は頬を掻いた。それを勝手に断られちゃ事務所としても涙目だろう。
「でもまあ、私は女優で行くよ!」
間違ってCMが来たら出るけどねと彼女は笑ったが、弓道具のCMだって見たことがないのだ、アーチェリー用具のCMは日本にはないだろう。
「でね、四月にある第一回ワールドカップ・メデジン大会の上位三名が、六月にオランダで行われる世界選手権の日本代表になるんだってさ」
「忙《せわ》しないな」
「そうなんだよ。2か月に一回渡航しちゃうんじゃ、ドラマのオファーが来ても受けにくいじゃんね」
すでに選考に残る自信が満々なのは、さすが斎藤さんと言ったところか。
「でもって、世界選手権でメダルを取ると自動的にオリンピックの1次と2次の選考会はパスできるんだって。で、来年四月の最終選考会に出て上位三名になるとオリンピックに出られるんだってさ」
「凄いじゃん」
渋チーの連中に次いで、オリンピックに出場しそうなダンジョン勢の嚆矢だな。向こうは陸連の褒賞の話がこじれそうな気もするが……
「でもねぇ……なんだかちょっとめんどくさいんだ」
またかよ、と一瞬呆れたが、話を聞いてみれば人間関係のごたごたに対する警戒のようだった。
どうやら仕事の関係で、強化合宿だのなんだのを全部キャンセルして大会にだけ出るようなスケジュールになってしまうのだが、それだとやはり選手の印象が悪い。
「なんだか事務所のごり押しで役に割り込む俳優みたいでねぇ」
俺はその例えに思わず吹き出しかけた。
だが確かに彼女が売り出し中の女優でなければ、これほど物事が素早く展開したかどうかは分からない。
「実力があれば関係ないだろ」
「そりゃそうかもしれないけど。これって実力かなぁ……」
彼女は、首を傾げながら腕を組んで、アプローチから俺を見上げるように覗き込んだ。
「だっておかしいでしょ。演技はともかくアーチェリーだってピアノだって」
「さ、才能ってそういうもんじゃないの?」
「二十歳も過ぎてから突然開花するわけ?」
「遅咲きなんだろ」
ふーっとため息を吐いた彼女は、ちょいちょいと指を曲げて俺を呼んだ。
「な、なんだよ?」
おそるおそるポーチの階段を下りると、斎藤さんがぐっと胸ぐらをつかんで俺の頭を引き寄せ、触れんばかりに顔を寄せた。
おいおい、ここでこの構図はヤバいだろ。
「はるちゃんとも話したんだけど、どう考えても芳村さんたちのせいでしょ、これって」
まあ、俺たちのせいと言えば、俺たちのせいだろうが……
「すごく感謝はしてるんだけどさ、ちょっとは不安もあるわけ。だからなんかあったら、ちゃーんと責任を取ってよね」
「なんかって?」
「それはよく分かんないけど」
「責任って?」
「それもよく分かんないけど」
「おい」
寄せた顔を元に戻すと、彼女は、ポンポンと俺の胸を叩いて言った。
「大丈夫大丈夫。何があっても芳村さんだったら女の子の二人くらい簡単に養えちゃうでしょ?」
「いや、あのね……」
「あ、三好さんも入れたら三人か。でもまあ、平気だよね」
「いや、だからね……」
「他にもまだいるわけ?」
「いや、そうじゃなくてね……」
どう見てもからかわれているのだが、もしかしたら、本当に不安があるのかもしれない。養う云々はともかく。
しかし、彼女たちもずっぽり足を踏み込んでるからなぁ……完全に関係者だよな。
「まあ、何か? あったらちゃんとフォロー? するから」
「よろしい」
満足したようにそう言った彼女は、持っていたバッグの中から紙の袋を取り出した。
どうやらそれが、直接あいさつに来たひとつの原因だったようだ。
「はい、嬬恋のお土産。あの辺って日本茶の産地なんだってね」
「お、サンキュー」
と言うからにはお茶だろう。あの辺は掛川茶の産地だ。深蒸しが多いが、浅蒸しや極浅蒸しも作られていて、いろいろと楽しめるお茶が多い。
「しかし、芳村さん日本茶マニアなんだって? なんだかじじむさい」
「……お前は今、確実に世の日本茶ファンを敵に回したぞ? 人気商売なんだから言動に……って、なんだこりゃ?」
包装を解いて出てきたパッケージには茶師の名前と共に、手摘み玉露と書かれていた。そこまではいいだろう。
「え? どっか変だった? 結構高い奴だよ?」
有名茶師が『さえみどり』だけで作った手摘み玉露だ、そりゃ高かっただろう。たぶん1グラム百円級だ。お店で飲んだら1000円級だな。
だけどな……
「宇治田原茶って書いてあるぞ」
「んん? それって美味しいの?」
いや、そりゃ美味しいだろうよ。ただな……
「宇治田原町は京都だろ!? 嬬恋土産なら掛川茶じゃないのかよ、普通」
「ええー、掛川で買ったのに?」
「なんで、わざわざ静岡茶の生産地のお土産に宇治茶を買う?!」
宇治茶と静岡茶は、日本の二大茶だ。その片方のど真ん中で、もう片方を買ってくるとは……成田空港でハワイアンホーストのマカデミアナッツチョコレートを買うより酷い。
彼女はぷーっと膨れながら、パッケージの左上に貼られたシールに小さく書かれた文字を指差して言った。
「こんな小さな字なんか気が付かないって。大体、売ってる方が悪くない? 掛川で買ったら地元のお茶だと思うよね?」
「うーん……」
沖縄の「紅いもタルト」や二鶴堂の「博多の女《ひと》」を東京駅で買って、それを東京土産だという奴はいないんじゃないかなぁ……しかし鳩サブレなら勘違いする奴もいるかも……
「まあ、そう言われればそうかもな。まあ斎藤さんらしくっていいか。ありがとう、大事に飲むよ」
「私らしくってってところがちょっと引っかかるけど、まあ許して進ぜよう」
その時三好が玄関から顔を出した。
「玄関先でいつまでも何をやってるんですか? あ、斎藤さんいらっしゃい。せっかくだからお茶でも飲んでいきます?」
「飲みまーす。じゃ、ししょー、代々木、頑張ってくださいね」
「お、おお。そうだ三好、これ彼女からいただいた、嬬恋のお土産」
それを受け取った三好が、一瞬変な顔をした後、「嬬恋が京都にあったなんて知りませんでした」と言って笑うと、斎藤さんは、「ひとつ賢くなれて良かったねー」と嘯いてポーチを駆け上がった。
214 ファインドマン氏の来日 3月27日 (水曜日) 後編
「結局、侵入があったのかどうかははっきりしませんでしたね」
村越が、調査結果を整理しながらそう言った。
資料によると、全数かどうかは判らないが、御蔵島村にも柏崎市にもDカードは出現していた。ただし、そうでない人もいて、時間差で出現しているという情報もあった。
たった二日では、全数調査など不可能だし、これ以上の追及も難しい。
「侵入されていて、それ以外の部分を何か別の方法で補っているようにも感じられるが……」
「しかし、明治時代に作られたような達筆の紙情報をめくって、それを確認した、なんてことはありえないだろ」
三井が、何が何だか分からないと言った体で首を振ると、杉田はそれが当たり前だと言わんばかりに軽い口調で応えた。
「ありえないという意味では、ダンジョンそのものが従来の常識ではありえませんからね」
この二日の間に、様々な現象が起こっていた。
まずは、妊娠中の赤ちゃんはカード出現の対象外だった。母親のお腹の中にDカードが出現したりはしなかったことに、日本中の妊婦とその家族は胸をなでおろした。
また、すでに生まれていても、まだ出生届が出されていない赤ちゃんは対象外だった。届け出時に国籍の留保が行われる場合があるからかもしれないが、日本で日本人の両親から生まれた子供でも同じだった。
そして、役所に出生届を市区町村役場に提出した瞬間に奇跡が起こる現象も確認された。
自分の子供が淡く輝きカードがその場で現れる現象は、まるで神の祝福を受けるかの如く、一種荘厳な雰囲気すら感じられたためか、携帯で連絡を取りながら知り合いに提出を任せて、両親や祖父母は家や病院で子供をビデオで撮影しながら見守ると言うスタイルが流行することになった。出生届は、出生した子の父または母が届書に署名・押印してさえいれば、届け出るのは誰でもよく、提出者は使者扱いになるため委任状さえ不要なのだ。
当然だが、すでにDカードを所有している人は対象外で、重複して2枚目のDカードを取得することはなかった。
不思議なことに、日本国籍を所有していても対象にならない例が発見されたが、調査の結果、それが重国籍者であることが判明した。
成宮はそれを聞いて首を傾げた。
「国籍の決定は国家の専権事項だぞ。重国籍者なんて、一体どうやって判断してるんだ?」
単純に戸籍簿に記載されている者を日本国籍を有しているとみなすなら簡単だが、そこには保留届が出されている未成年者や、重国籍者が存在している。
「日本でできることが他の国でできない理由はないでしょう?」
杉田がこともなげに言ったが、成宮はそれでも首を傾げたままだった。
「これでもしも、オーストリア人とのハーフの日本国籍取得者にカードが発生していたりしたら、さらに意味が分からないな」
オーストリアやブルガリアは、国籍の離脱を認めていない。
だから、日本の国籍を取得したとしても相手国の国籍を離脱することができず、結果として重国籍になるが、それは例外として認められている。
しかしその人物にDカードが現れるということは、各国のルールをダンジョンが熟知しているということだ。
「ともかく、どうやったかは分かりませんけど、あまねく正しく日本国籍を有する者だけにDカードは配布されたようです」
つまり、Dカードを所有していない人間は、日本人ではないか、日本以外の国籍を有していることが明らかになったのだ。
杉田は珍しく何かを心配するように言った。
「国籍留保者への差別が発生しなきゃいいですけど」
知らずに重国籍になったものは、成人までに国籍を選択する必要があるが、それまでは留保できる。
そのことを無視して、重国籍者だと非難される可能性がある。
「なにしろ、見方を変えればこれは、日本国籍の視覚化ですからね」
折しもDカードが出現した当日、参議院で第十三回予算委員会が開かれていた。つまり審議のインターネット中継の最中に、事件は起こったのだ。
面白いこと好きのネット民が、その検証をしないはずがない。
その時点で淡い光に包まれなかった議員は、果たしてすでにDカードを所有しているからなのか、もしくは――なんて議論が今まさに行われているのだ。
「しかし、思ったよりもずっと侵略が進んでいるみたいですよね。こりゃ、政治家や実業家も何人かはダンジョン人に入れ替わってるんじゃ?」
杉田が冗談めかして言った言葉に、室内は水を打ったように静まり返った。
「え、冗談ですよ?」
「杉田さんの冗談は、妙に怖いんですよ」
村越がそう言って、疲れたようにため息を吐いた。
「侵略系SFの定番なんだけどなぁ……」
「まあ、この件はこれ以上突っ込んでも意味はないだろう。懸念事項として国籍留保者への差別の可能性は報告書に入れておく」
「次に、各国からどうやってこの現象を引き起こしたのかの情報を開示してほしいという連絡が殺到しているそうなんだが――」
「特に探索者五億人登録による食料ドロップを待望している国が多いみたいです」
奇跡が起こった翌日に、それは速やかに世界の知るところとなった。なにしろ全国民が当事者になった事件なのだ、隠しようがない。
「え、それってここで検討する事案ですか? ダンジョンの向こう側との折衝のために作られた部署ですよ」
「うちが発端なんだからケツも拭けってことだろ」
「それ以前に、この件に関しては、うちよりも状況を把握している部署はないってことだ」
「はぁ、しかし報告書は上げたはずでは?」
「あのな、いくら真実でも、『ダンツクちゃんをデートに誘ったら、こうなった』なんて正式に発表できるか? そもそも誰が信用するんだよ、それ」
当事者だった俺だって意味が分からないのに、と三井が頭を抱えた。
「まさに、事実は小説より奇なりってやつですね」
それを聞いた三人からは、お前が言うなと冷たい視線が送られたが、杉田は我関せずと続けた。
「我々官僚の、粘り強い交渉と努力によって達成されたとでも言っておけば――」
「問われているのはその内容だろ」
そう突っ込まれた杉田は、あんたら外務省組だろと、呆れたように尋ねた。
「一体、どこの国が他国との交渉方法を、第三国に対して明らかにするって言うんです?」
「今回は少し事情が違うからな……」
言ってみれば国家と国家の接触時に、県が勝手に相手国と接触して利益を引き出したという状況に近い。他の県や所属する国家が、その内容を開示しろと要求することはありえなくもないだろう。
「それに、それじゃ、向こうとの接触を認めることになるだろ。建前上、ダンジョンの向こうと政府の接触は、今のところないというのが正式な見解だぞ」
「渋谷の一件はともかく、転移石が登場しちゃいましたから、今更それは無理でしょう」
あれがダンジョン内の鉱山で獲れたとか、魔物がドロップしたなんて言ったところで、代々木はパブリックダンジョンだ、そんな嘘はすぐにばれる。
何らかのスキルで作り出したということも考えられるが、それだって、Dカードを見れば一目瞭然だ。
どうやって手に入れているのかは分からないが、誰かから技術移転を受けたか直接譲渡されたという以外説明が難しい。
「あれはあくまでも日本ダンジョン協会による接触ってことになるだろうな」
「なら、今までは『なかった』ってことで、日本ダンジョン協会の報告を受けて接触を試みた際の、交渉と努力によって達成されたってことで良くないですか?」
なにしろ状況の変化するスピードが速すぎる。
毎日顔を合わせて会議をしているならともかく、いくら大使が居るといっても国同士の関係でそれは不可能だ。
昨日発表した正式見解が、今日覆されたとしても仕方がないし、保険に「今のところ」とでもつけておけばなんとかなるだろう。というより、他にどうしようもない。
「ファーストコンタクトで、異世界人をナンパしたって言うんですか?」
村越が、適当なことを言う杉田をジト目で見ながらそう言った。
「僕の魅力のたまものですかね」
「だから、誰がそれを信じるんだっての」
「ええ? 魅力ないですか?!」
「そこじゃない……まあ、それほどあるとも言い難いが」
「成宮さん、それ、酷くないですか」
「ともかくうちより詳細な情報を持っている省庁はどこにもない。だから、今回の件に関する社会の動きの予測と、諸外国との折衝のベースストーリーの作成、ついでに今後のダンツクちゃんとの関わりがどうなるのかのシミュレーションは至急やる必要があるんだ」
「どこにそんなマンパワーがあるんです?!」
村越は悲愴な叫び声をあげたが、成宮と杉田は期間のないプロジェクトに増員することの危険性を良く分かっていた。
「この状況で増員なんかしたところで、説明に割く労力が増えて混乱するだけだ」
「デスマの増員あるあるですよね。しかし、ベースストーリーの作成って、要するに今回の件を引き起こした状況を、諸外国が納得しそうな物語にしろってことでしょ?」
杉田は腕を組んで椅子の背に体をもたせ掛け、天井を仰いだ。
「だんだん小説家でも連れてきた方がいいんじゃないかって気がしてきましたよ」
、、、、、、、、、
「ただいまー」
十一層で、無事火魔法をゲットした俺は、代々木を出て配送手続きをした後、装備を普通の私服に変えて事務所へと戻ってきた。
約束の時間よりも大分早かったので、まだ誰も来ていないようだった。リックも一度準備をしにホテルへ戻るとかで、部屋には三好しか居なかったが、いつの間にかワイズマンに変装していた。
おそらくリックが記念撮影をするからだろう。
「あ、先輩、お帰りなさい。首尾はどうでした?」
「無事にゲットしたよ。例の箱につっこんで、バイク便に時間指定で預けてきた」
「パーティの最中に届くってやつですね。だけどバイク便で高価なものって運べなかった気がするんですが」
「俺はルールを守る男だからな。ちゃんと調べたぞ?」
通常、有価証券類や、貴金属、宝飾品、美術品、骨董品などは運んで貰えない。
だが、運べないもの一覧にスキルオーブが書かれているバイク便などなかったのだ。もっとも頼む奴もいないだろうが。
「まさか中身が何億もするアイテムだとは、誰も気が付かないだろ」
「ルールに規定されていないことは、何をしてもいいというのは、ルールを守るってことになるんですかね?」
「マンチキンの汚名は被ろう」
「和マンチですね」
俺は笑って二階へと上がると、シャワーを浴びてダンジョンの汚れを落とし、さっぱりした。
そして事務所へと下りたとき、丁度やって来たサイモンたちと鉢合わせした。
『よう、ヨシムラ。今日はなんだか美味いものが食べられるって?』
『美味いかどうかは分かりませんね』
『なんだ、お前が作るんじゃないのか。キャシーが料理上手だとか報告してたぞ』
『素人芸ですよ。突然呼び出したりしてすみません』
『いや、丁度良かった。こっちも話があったんだ』
『話?』
そう訊き返したところで、呼び鈴を鳴らしてきちんとした服に着替えたリックがやって来た。
彼は、まるで違った様子になっている三好に驚いていたが、ワイズマンとして人前に出るときはこの格好なので黙っててくださいねと念を押されて頷いた。
そして、少し遅れて出迎えに出て来たナタリーを見て、顔を赤くしながらカチコチに固まっている様子がほほえましい。
俺はサイモンに視線を戻すと、嫌そうな顔で彼に尋ねた。
『それ、ろくな内容じゃない奴ですか?』
『かもな』
『えー、聞きたくないんですけど……』
『聞いておかないと後悔するかもしれないぜ?』
『ええ……』
居間の方からは、ナタリーに握手してもらい舞い上がったリックの歓声が聞こえてくる。
楽し気な空間とは切り離されたかのようなダイニングでは、サイモンがテーブルの椅子に腰かけて言った。
『ELFって覚えてるだろ?』
『耳の長い異世界のスレンダーな種族――』
『あのな』
『先輩。ほら、NYイベントの乱入事件の犯人が所属していた組織ですよ』
丁度、食べ物を居間へと運びぶために用意している三好が、そう補足した。
『ああ、あの地球なんちゃら戦線って、アニメかSF映画みたいなやつ』
『地球解放戦線だ』
Earth Liberation Frontで通称ELF。
確か、地球をダンジョンから解放するための運動を行っている組織とかいうやつだ。以前からあるエコテロリストとの関わりははっきりしない。
『それが?』
サイモンは、居間の方をちらりと見ると、声を落とした。
『あの事件以降ELFに対してFBIが調査と監視を行ってるんだが、その情報を元にCIAとNSAがそれぞれ分析を行って、昨日大統領に提出した情報だ』
奇しくも内容はほとんど同じだったらしいがなと、サイモンが苦笑した。
合衆国内で活動するエコテロリストの取り締まりはFBIの管轄だ。CIAが関わるってことは、その活動が合衆国外へ広がっているという事だろう。
『ますます聞きたくないんですが……そういうのって、外交的な見返りを期待しつつ大使あたりが政府に流すべき情報では?』
『かもな。だがこっちの方が手っ取り早いだろ?』
『国家間の駆け引きに巻き込まないでくださいよ……』
俺の苦情を無視して、サイモンはさらに顔を寄せて小声で話し始めた。
『例のNYの事件からこっち、彼らの活動は移民問題と絡まって、もっと広がると予測されていたんだが、実際にはほとんど広がりを見せていないらしい』
以前話題になった、グリーンカードの技能者枠に探索者枠が作られて、移民が押し寄せた件だろう。
もしもその枠で合衆国に入国したとしたら、全員が探索者であることは想像に難くない。
そこで、文化的な差異による行動や、仕事の奪い合いが発生して、排他的な愛国主義が幅を利かせるようになるというのは、一般的な予測だろう。
競合する仕事は、平均的に能力の高い探索者に奪われがちだし、Big4(アメリカの4大プロスポーツリーグ)の台頭選手は探索者上りで占められるし、探索者による優位性が表に出れば出るほど、侵略されているような気分になるというやつだ。
だが――
『排除に力を入れるくらいなら、自分もDカードを取得して、能力を上げた方がいいと考える人たちが思ったよりも多くて、支持が得られなかった?』
『自分たちと言うよりも、自分の子供たちという考え方が多いようだが、まあ、そんなところだろう。笛吹けど踊らずってことで、連中、大分くすぶっていたらしいんだが……先日彼らの鬱憤を受け止めてくれそうな場所が出現したんだ』
『まさか……』
彼らにとっての敵は、ダンジョンの向こう側にいる何かと、その先兵だ。だが、誰がその先兵なのかは見ただけでは分からない。大衆に恐怖を与えることが目的の、無差別テロとはわけが違うのだ。
探索者を装って社会を混乱に陥れ、探索者全体を排除することを目的とした活動をやるにしても、「俺は探索者だ!」と犯行声明を出すというのは、あまりにも馬鹿げている。
ところが先日、国民全員が確実にDカードを持っている国が出現した。その国なら、何処で何をやろうと、どうせすべてが粛清対象。
ダンジョンが地球環境を汚染していると考えるなら、それに関わる活動をしている国家に対してのテロは正当化されるってところだろう。
『ま、そう言うことだな』
『そんな無茶苦茶な……』
『分析によると、残念ながら、何かのテロ活動が起こったとしても、諸外国は積極的な介入はしないだろうとのことだ。もちろん口先では非難するだろうけどな』
『ダンジョンの向こう側との取引による利益を独り占めにしているかもしれない国家だから』
『嫉妬ってやつは怖いよな』
そう言って、彼はポケットから小さな何かを取り出した。
『USBメモリ?』
『分析の報告書と、後はELFの名簿だとさ。分かっている範囲だが』
『いや、ちょっと待ってくださいよ』
たしかに水際で防ぐには非常に重要な資料だろうが、そんな名簿を外交ルートもくそもないところから渡されたところで、ただの怪文書だ。
『心配するな。一応外交ルートでも連絡が行くはずだ。こいつは、うちのボスからワイン友達への支援だとよ』
一緒に渡されたメモには、『2036年に生きてたらよろしく』と書かれていた。
俺がそれを、黙って三好に押し付けると、彼女は苦笑して言った。
「ルフレーヴの件ですね」
「しかし、これって支援か? 一体どうしろってんだよ??」
「丸ごと田中さんにぶん投げるしかないでしょ。こっちのルートの方が上まであがるのが早いかもしれませんし」
「だがなぁ、露骨に釣り針が見え隠れしてないか、これ」
俺たちに落とした波紋が、何処へ広がっていくのかを冷静に見ている視線が感じられる。
「地下通路に蟹のパックを落として撮影させ、SNSを監視することでアカウントを特定したり、上司がサプライズでインスタ映えしそうな何かを配り、部下のアカウントを特定しようとしたりするのは定番ですからね」
「やな定番だな」
「とは言え、他にやりようはありませんから」
そう言って、三好が某田中さんへ電話をかけているのを横目に見ながら、俺は露骨に肩を落とした。
『俺たち、こういうスケールには向いてないんですけど』
『そりゃ手遅れってもんだろ。下じゃ突然できたステイツの基地の話題で持ちきりだったぞ』
『おうふ』
各国がこれから基地を作ろうかというところに、突然完成した基地が登場しては驚くしかないだろう。アメリカの底力の一言で納得できればいいが、あれは転移石でも持ち込めないサイズだからなぁ。
『燃料は転移石とやらで、日本ダンジョン協会がガンガン持ち込める体制を整えたらしくてな、その見返りに、しばらくはあの発電機を共用で使うってよ』
キャラバンをやらされなくて助かったぜと、サイモンがバンバンと俺の肩を叩いて喜んでいた。
燃料の輸送をポーターでやろうとしたら、三十二層まで行く大キャラバンが登場したはずだ。
三十二層ともなると、サイモンチームクラスが護衛に付かなきゃならないだろうから、しばらくは、仕事がそればかりになってもおかしくなかったわけだが、転移石の登場でそれが不要になったってことだ。
『で、あの転移石ってやつはどうなってるんだ? 他にもいろいろのか?』
『知りませんよ。日本ダンジョン協会に訊いてください』
『たまにはカマに引っかかれよ』
サイモンが冗談めかしてそう言ったが、そんな切れなさそうな鎌に引っかかるやつはいない。
『しかしあの石が発売されたおかげで、こっちは上へ下への大騒ぎになってるぞ。まさか、本当だとはってところだな。きっと他の国も同じだろうぜ』
『意味不明なダンジョン技術の象徴みたいなもんですからねぇ……』
『で、どうやって作るんだ?』
『さあ? 分かったら俺たちにも教えてください』
『ちっ』
彼が舌打ちするのと、三好が電話を終えるのが同時だった。
『ほら、先輩も。料理と飲み物を運ぶのを手伝ってくださいよ』
『了解。サイモンさんは、そこのグラスをお願いします』
『OK』
すべてを居間に運び終わり、飲み物が行き渡った時、玄関の呼び鈴が鳴った。
『ピザでも頼んだのか?』
『いえ、あれはバイク便ですね』
『バイク便?』
『今日のメインイベント。彼への報酬ですよ』
そう言って立ち上がる三好に、ナタリーは何かいけないことを聞いたかのように眉根を寄せ、ジョシュアは呆れたように天を仰いだ。
『……お前ら、スキルオーブをバイク便で送って貰ってんのかよ?!』
驚いたように言うサイモンの言葉に、三好が当たり前のように答えた。
『早くて便利ですよ』
『そう言う問題か?』
『門の前で待ち構えて、やって来るバイク便を片っ端からさらうギャングで溢れそうな話ね』
ジョシュアがさりげなく窓から外を覗いている。どうやらバイク便の会社をチェックしているようだ。
『後で送り主を調べようったってダメですよ。たぶん、俺か三好の名前で発送されてますから』
ジョシュアはそれを聞いて、ばれたかとばかりに笑みを浮かべ、小さく降参するように両手を上げた。
『伝票のサインがあるだろ?』とサイモンが言った。
『ネームカードを渡して、伝票を作成してもらったんじゃないですかねぇ』
そうでないにしても、どうやってそのサインを確認するって言うんだよ。
諜報機関ってのは、本当に何でもありだな。
『便利になるのも善し悪しだな』
『じゃーん!』
三好が、そう言って受け取ったばかりのアイテムを取り出し、リックに向かって差し出した。
俺はリックに頼まれて、その様子を彼の携帯で撮影した。俺を除けば後は全員顔が知られている有名人だ。ここはカメラマンに徹しましょ。
『それではお待ちかね! ご希望のスキルオーブを進呈します! コマンドの発見ありがとうございました!』
それを照れながら受け取った彼は、ケースの横に、サイモンチーム全員と三好のサインを貰い、ついでに彼の携帯で集合写真を記念に撮った。
リックは素早くそれをYouTubeにアップロードしていた。さすがはIT系の名門に通っているだけのことはある。YouTuberがどうとか言う以前に、それが日常のツールになっているようだ。
そうしてその場の雰囲気は、和気あいあいとした懇親会に移って行った。
『だけど、日本、凄いことになってますね』
リックが言ったのは、昨日のDカード出現のことだろう。昨日一日ずっとそのニュースばかりだったし、中国NやBBCでも報道されているようだ。
国外のニュースは主に、「一体、日本で何が起こっているのか」に焦点が当てられているようだったが、それでもどこに取材すればいいのかがはっきりしない事柄だけに、切り込み方は各局によって様々だった。
同一の手法が使えるなら、探索者の五億人登録など今すぐに可能で、食糧問題に一石を投じることができるだとか、いきなり国民全員がテレパシストになった場合の、社会の混乱についての警鐘だとか、様々な切り口と言いながらも、主にセンセーショナルな予測について専門家と名乗る方々が実に様々なことを述べていた。
『誰も経験したことのない事態だから、専門家もくそもないんだけどな』
『一番的確に話ができそうなのは、SF作家かもしれません』
『今後日本ってどうなっていくんですかねぇ』
『日本がどうなるのかはともかく――』
それを聞いたサイモンが、身を乗り出して言った。
『――日本人って、絶対どっかおかしいだろ?!』
『え?』
『考えても見ろよ、得体のしれない現象が白昼堂々首都のど真ん中で起こって、テロどころか超常現象まで確認されたかと思ったら、次は奇跡めいた全国民へのDカード配布だぞ?』
『こんだけ非常識なイベントに見舞われてるってのに、ほとんどの人間が、しれっと日常生活を営んでいるってなぁ――もう、意味わかんねぇな! ジャパニーズサイコーだぜ!』
そのせいで、あちこち駆けずりまわっていたらしく、ほとんどやけくそでサイモンが力説した。
『ああ、日本人って、確かにそういうところ鈍感ですよね』
『鈍感って言うか……なにしろ国民の大部分がヲタクカルチャーで鍛えられてるからなぁ。超常現象じゃ、目の前で人が死んだりしない限りパニックにならないかもな』
そういや、俺たちも狙撃されたとき、いまひとつ実感が湧かなかったし、東京湾からゴジラが現れたら、避難なんかそっちのけで湾岸で鈴なりになっていそうな民族なのは確かだ。
『平和でいいってことじゃないの?』と、ナタリーは白ワインを口にしながら手を振った。
『深夜に襲われることを心配しないで牛丼屋に行けるもんな』
『牛丼屋?』
『ああ、メイソンは最近ホテルの傍の牛丼屋がお気に入りなのさ』
『ビーフボウルはアメリカにもあるでしょう?』
『ヘイ、ヨシムラ。分かっちゃいないな。あの飯を食うってスペースがいいんだよ。あといつでもやってるしな』
『はあ』
『アメリカのヨシノヤは、ハンバーガーショップっぽいし、遅くまでやってる店でも0時でクローズだ』
どうやら、あの島になっているただ食べるだけ、みたいなレイアウトが、ストイックに映るらしい。謎だ。
それと、本場の方が美味い「気がする」んだそうだ。確かに気分は大切で、馬鹿にできない。
それからも俺たちは、リックを交えて『東海岸にヨシノヤはありませんね。数年前まではNYにあったそうですが』なんてとめどない話をしながらリラックスした時間を過ごした。
そうしてリックは、最後にナタリーとツーショットの写真を撮ってもらって、感激しながら帰っていった。
どうやら、仲間たちから代々木の様子を見てくるように言われているらしく、休暇の許す限り代々木へ潜って調査するようだ。
『さすがに人気がありますね』
『アイドルじゃないんだけど』
『誰かが敬愛してくれるって言うのは嬉しいでしょう?』
『そりゃまあ、ああいう人ばかりならね。中には凄い人が居るからねぇ』
そう言って苦笑しながら、ナタリーもサイモンたちと一緒に帰って行った。
「はあ、やっと終わりましたね」
みんなを見送ったポーチの上で、ウィッグを外しながら三好がそう言った。
「いやー、ホムパって大変だな。どっかの店を貸し切った方が百倍はらくちんだ。開きたがる奴の気が知れないぞ」
「そういうことをやる人は、人を招くこと自体が目的か、そうでなければ用意してくれる使用人がいるんですよ」
そう言われればそうかもしれない。
俺たちにそんなものはいないから、仕方なく自分で使用人をやるべく事務所へと戻った時、ポーンと奥の部屋から通知音が聞こえてきた。
「なんだ、今の?」
「ダンツクちゃんコールですね」
「は?」
「例のBBSの管理者宛メッセージですよ」
「そんなものがあるのか」
渋谷の事件以来、彼女は沈黙していて、日本ダンジョン協会の質問箱にも反応していなかったらしい。
それがここに来て、わざわざ管理者宛メッセージを送る?
一体何事かと、端末の前へと移動した俺たちの目の前には、想像もしていなかった文章が書かれていた。
たった一言、「ヒトには宗教が必要?」と。
215 宗教が必要かと言われても…… 3月27日 (水曜日)
ダンツクちゃんから来たメッセージには、一言だけ、「ヒトには宗教が必要?」と書かれていた。
「「ええ?」」
それを見た俺と三好は、思わず眉根を寄せて、同時に嫌そうな声を上げていた。
「なんでいきなりこんな質問が?」
「あれじゃないですかね。ほら、エレベーターに一緒に乗った」
「ああ、あのちょっと変なおっさん」
「デヴィッド=ジャン・ピエ−ル=ガルシアさんです。言ってることがカルトというよりオカルトでしたからねぇ」
「アルトゥム・フォラミニスね……」
こうしてみると、彼女は思想のサンプルを集めているような気もする。
集合的無意識のようなものがあるとしても、それは単なるデータベースに過ぎない。活用には知識の中身を理解する必要があるだろう。
彼女が最初に触れたのは、ザ・リングで行方不明になった二十七人だが、ここにいた人間は偏っていたはずだ。
なにしろ全員が量子物理学の最先端にいた人たちだ。
安息日なんて概念がはなから抜け落ちているワーカーホリックな科学者に、神様のような存在を感じる人はいるかもしれないが、まともな信徒がいるとは思えない。
そうして彼女が次に触れ合ったのは、ダンツクちゃん質問箱の連中と、こないだ会った政府の連中、そして──
「先輩ですよね」
「残念ながら。ま、良識ある人類代表ってところだな」
「え?」
三好が豆鉄砲をくらったような顔をした。こいつ一瞬素になりやがったな。
「いや、質問箱で接触しているメンバーを見てみろよ。国家の利権を背負っている連中と、手品の種を暴こうとやっきになっている匿名の群れだぞ?」
「うーん……まあ、まじめに宗教を語るのには向いていませんよね」
「だろ?」
日本人は良くも悪くもニュートラルだ。某政党への影響力はともかく、政教分離がこれほど進んでいる先進国も珍しいだろう。
平均的な日本人なら何かを信仰する心はなんとなく維持しながら、宗教的な神様の存在などは欠片も信じていないに違いない。
かつて宗教的だったイベントたちは、単に社会生活を営む上での習慣になり、宗教的な意義を失いつつある文化的な行事になり、宗教とはほとんど無関係になった商業主義に彩られた楽しいお祭りに過ぎなくなって久しい。
「ダンジョンのギミックを見る限り、その歴史や内容は知っていたかもしれないが、直接人間と話してもまるで話題に上らなかったところへ例のおっさんだ」
「急に興味がわいた?」
「それまでフィクションの中に現れるギミックに使われる文化程度の認識だったはずだ。聖書なんかベストセラー小説だと思っていたかもな」
「あながち間違ってはいませんけどね」
「しかしあのおっさんは、宗教家というよりもダンジョン教の使徒みたいなポジションの方が似合ってそうな様子だったぞ」
そりゃあ真面目な宗教の話を聞きたければ、教皇とか、カリフとか、アーヤトッラー・ウズマーとかと話せればいいんだろうが、そんな人たちがダンジョンに行くはずはないし、ダンツクちゃん質問箱を見ていたり書きこんだりするとは思えない。
それにしても新興宗教の教祖様という人選はどうなのか。
「ダンツクちゃんと仲良しになったら、速攻で人間の復活なんてことをやりそうな雰囲気でしたよね」
「ありそうで嫌だな……」
怪しげな地下の祭壇の前で、リーザーレークーショーンなんて叫びながら高笑いするデヴィッドが目に浮かぶようだ。
完全にニュートラルな超越的存在が、地球人類と触れ合ってなにを思うようになるのか。触れ合う順番によっては大事になるだろう。
今回は奇跡的にうまく行きかけているのかもしれない。
「そこで、『良識ある人類代表』の俺たちにこうして尋ねてきたに違いない」
「そこにこだわりますね」
三好が苦笑しながら、モニタに乗り出していた身を引いて事務用の椅子に腰を下ろした。
「しかし、宗教が必要か、ねぇ……」
「どうします?」
困ったように三好がそう言ったが、どうしますと言われてもどうしていいか分からない。
もしもダンツクちゃんが、例のおっさんに啓発されて人類の歴史を調べたのだとしたら、現在の紛争の大部分は宗教がらみだと知っているだろう。
冷静に歴史を紐解けば民族や宗教が絡まない紛争の方が少ないはずだ。歴史を俯瞰的に見ただけなら、人類全体にとって、不要どころか害悪にしかなっていないようにすら見える。
人は信仰や正義という名の許にどこまでも残酷になれるし、十字軍を見ても、それが残虐な行動を正当化するための大きなよりどころになっていたことは間違いないのだ。
最近だけ見ても、たとえば北アイルランド問題は元はといえば宗教問題だし、少し前まではプロテスタント地区のカトリック教会の周辺では小競り合いが起こったりしている。
今までに積み上げられてきたお互いのヘイトはともかく、宗教に無関心な視点から見れば、何やってんのと思われても仕方がないだろう。
生きていけないほどの弾圧や貧しさや、そこからの救済を願う心が生み出した何か。
そういう宗教成立の背景を考慮しなければまるで理解不能だろうし、仮に背景を知ったとしても、社会の外からやって来た合理性の権化みたいな何かには理解できないだろう。
だから俺たちに質問してきたのかもしれないが、実は現代に生きる俺たちだってよく分かってはいないのだ。
「こんなパーソナルなことを訊かれてもな……」
信仰が個人と神の契約だというのなら、それは実に個人的な領域の話だ。
パスカルだって、『神を感じるのは心情であって理性ではない。信仰とはそのようなものだ』と言っている。
それはつまり神なんて理性で精一杯捉えようとしてもできないものだと言ってるわけだ。
「何かに祈るとか、何かを信じるってことは人間にとって必要なんじゃないですか?」
それにそれはすでに受け入れられている気もしますし、と、彼女は件の転移石を取り出して言った。
これは祈り?の結果作りだされた何かだ。
「それって別に対象が宗教じゃなくてもいいだろ」
三好が作りだした転移石は、別に既存の宗教を信じることで作りだされたわけではない。
むしろそういう部分が邪魔をしていたような雰囲気すらあった。
「そりゃまあそうですけど」
「結局、祈りと信仰と宗教は別物だろ?」
真にパーソナルな領域なら、祈りと信仰と宗教の間に区別はない。個々人がそれぞれ自分の信じる何かに祈るのみだ。
だが集団となると違う。
「最初に発生するのは祈りですよね」
そうだと思う。そして祈る対象は、最初は漠然としているだろう。
『明日もいい日でありますように』とか『健康でありますように』なんて祈りは明確な対象に捧げられるわけではなく、漠然と自分を超越した何かに捧げられているのだ。
「そうだな。そして、祈る人間が二人以上になって同じことを祈ろうとすると、それをささげる対象が生まれる」
「大地の神様に『豊作でありますように』なんて祈るパターンですね」
「そうだ。信仰が生まれる瞬間だな」
「じゃあ宗教は?」
「便宜上、信仰の対象を神様と呼ぶなら、神様に値札を付ける行為かな」
それを聞いた三好が、がっくりとを肩を落とした。
いや、『神様が、人類が生み出した最高の商材だ』なんて、さんざん言われつくしているだろ。
「あー、……まあ、現代において、そういう一面がないとは言いませんけど……歴史を振り返ればある程度のリスペクトは必要じゃないですか?」
そんな主張を大っぴらにしたら、いつかどこかの信徒に刺されますよと、彼女に突っ込まれた。
大っぴらになんか言わないよ。TPOくらいは弁えてる。
「じゃあ、そもそも宗教ってなんだよ?」
「いきなり哲学的な命題ですね」
三好がパソコンを操作して何かを呼び出しながら言った。
「先輩の言を是とするなら、『神様を商材とした集金システム』ってところですか?」
「もしもそうなら、答えは『必要』だな」
「ええ?」
思わずキーボードを叩く手を止めた彼女は、驚いたような顔をした。
どうやら三好はそんな俗なものなら不要だと言いたかったようだが、要不要をそんなレベルで語っていいのかどうかは難しいところだ。
「いやだって、それを利用している人にとったら生業《なりわい》じゃん?」
それが違法かどうかや倫理的にどうかなどは、この際関係ない。
人にとって必要かどうかということなら、必要な人がいるとしか答えようがないのだ。
「ま、冗談はさておき──」
「ほんとに冗談だったんですか?」
「さておき──」
「はいはい」
三好はおざなりに返事をしながら、モニタにとある資料を呼び出した。
日本の文部省宗務課が1961年に作成した『宗教の定義をめぐる諸問題』だ。
この本の第2部にあたる、『宗教の定義集』には、哲学者や神学者、社会学者や宗教学者が述べた104の定義が挙げられているのだ。
もちろん全部読んだところで宗教が何かなどという結論は出しようのない内容だ。だから宗務課もただ集めるだけでとどめたのだろう。
そうでなければ多面体として捉えたその一面一面を世の研究家たちに代弁させたかったのかもしれない。
「もう、これをそのまま送っちゃえばよくないですか?」
「ダンツクちゃんの質問は、宗教が何かじゃなくて必要かどうかだろ」
「そんなこと私たちに決められます? ここに並んでいる定義だけみても、個人個人の立場でばらばらじゃないですか」
それはつまり宗教の捉え方が個人個人の立場で異なっているということだ。
それをひとまとめにして要不要を論じるのは、正しく暴挙と言えるだろう。
「105個目に、『信仰のおしゃれな代用品』って書きこみたくなるもんな」
「先輩の家の廃れた勉強部屋には、だんだん醜くなる肖像画がかかってるってことだけは分かりました」
「心配するな。階上なんてないから」
俺は頭の上天井を指差しながらそう言った。
残念ながらこの建物にはロフトも三階も存在しない。
「収拾がつかないから、この際、発想を変えてみないか」
「発想?」
「彼女が聞いたのは必要かどうかだろ。なら、あるとないとで、社会に対する影響がどうなるかを考えてみようぜ」
「本質から目を逸らして、それに対する結果が良さそうな方を選ぼうってことですか?」
「実際問題、俺たちに宗教の必要性が語れるわけないだろ」
俺は諦めたように両手を広げた。
「そもそも俺たちの浅知恵で言っていいなら宗教なんていらないな」
なにしろ世界から宗教が消えてなくなれば、紛争のほとんどは解決する。
現在の宗教紛争から宗教の仮面を引っぺがしてしまえば、大部分は経済的な利権の奪い合いに過ぎない。そして経済的な利権の奪い合いなら、お互いの利益をすり合わせることも可能なのだ。
だが宗教に妥協はない。
建前や仮面のおかげで泥沼化しているだけだなんて多くの人が気が付いているが、それも宗教のせいで大っぴらに言えないだけだ。
もちろんその方が望ましい勢力もあるのかもしれないが。世界は複雑だから。
「まあ、実際それがなくなって困る日本人って、宗教法人関係者や文化庁の一部の人以外は、ほぼいないとは思いますけど」
「仏壇や墓なんて、いまや宗教とは無関係に売り買いされてるしな」
葬儀は葬儀屋がやってくれるし、仏壇購入時に最も重要視される要素は価格だ
「自分が十三宗五十六派のどこに位置するのかなんてどうでもいい人も多いでしょう」
「家の宗派なんて、一部の旧家を除けば、単なる惰性や地域の圧力っぽいところもあるしな」
「ま、そんな風に考えている俺たちに訊かれたところで、答えは『いらないんじゃない?』の一択になるわけだ」
「じゃ、もうそう答えて──」
おきましょうとばかりに、キーボードに手を掛けた三好の腕を、俺は掴んで止めた。
「早まるな、三好。そうは言ってもだな。もしここでそう答えたら一体なにが起こると思う? そうして俺たちはその責任を取れるのか?」
「責任?」
「いいか、三好。奉仕の準備をしていいと言っただけで、全国民に強制的にDカードを所有させる何かだぞ。ここで俺たちがいらないと言って、それが採用されたら何が起こるんだ?」
「まさか、そこから離れられない人の虐殺──なんてことはさすがにないと思いますけど」
必要だと考える人がいなくなれば、それで目的は達成だ。ものすごく短絡的だが、相手がそうしないかどうかは分からない。
そもそもそんな倫理観があるのかどうかすらも怪しい。なにしろダンジョンでは結構な数の死傷者が生まれているのだ。
人間は知らずに蟻を踏み潰したとしても気にしないだろう。
いくつもの生物は人類に滅ぼされて久しいが、それを日常的に気にして痛みを感じている人間はさほど多くはない。ダンツクちゃんにとって人間がそう言った生物と変わらないかどうかなんて、現時点では誰にも分からないのだ。
確かに奉仕対象としてできるだけ大切には扱ってくれているようだが、なにしろ世界には77億人も人間がいる。そのうちの数%くらいなら損害を許容してもおかしくはないのかもしれない。
「そんな直接的な手段でなくても、例えば、今後ポーションが一般にも簡単に使える程度に普及したとしてだな、宗教関係者にだけそれが効かなくなったらどうする?」
社会にはあらゆるインフラが存在している。例えば現代日本の大部分で、水は蛇口をひねれば出てくるものだ。
なのに、宗教を信奉しているものがひねった時だけ水が出なかったらいったいどうなるだろう? その人たちだけ、プラグをコンセントに差しても電気が使えなかったら?
「うーん……」
「逆に必要だと答えれば、史上最強の伝道師が生まれるかもな」
「人類を滅ぼすくらい朝飯前の、なんでもできるAIを学習させるのは難しいですよねぇ……」
俺は話は終わりだとばかりに立ち上がって告げた。
「よし! 我々はこの質問に答えるのにまったくふさわしくない! なぜなら宗教とはゲームのフレーバーか俗化した文化くらいしか接点がないからだ」
「先輩、まさかまた鳴瀬さん経由で日本ダンジョン協会に丸投げする気じゃないでしょうね?」
そう突っ込む三好の方に優しく手を置いた俺は、目を閉じて頷きながら彼女を諭すように言った。
「三好君。我々人類は長い歴史を経て、『話し合い』という誰にも文句の言えない素晴らしい責任の分散手法を確立したのだよ」
、、、、、、、、、
「まずい。実にまずいですよ」
その日の朝、官邸で上野官房副長官と打ち合わせをした通り、午後の参議院本会議を一時間で途中退席した井部総理は、そのまま官邸へと戻って甘《かん》利明《としあき》選挙対策委員長と顔を突き合わせていた。
十日ほど前にヘリの中で低ステータス議員の公認について頭を悩ませた結果、そもそも高齢の議員にはステータスを計測できないものも多く、幸い影響は当選回数の少ない若手に限定的だろうと先送りを決めたばかりだった。
ところが──
「仮にステータスの開示を要求されたとしても、Dカードを所有していないという理由で非開示で行こうという戦術は頓挫しました」
甘が眉間にしわを寄せながらそう言った。
何しろ日本国民全員がDカードを所有することになったのだ。
つまりステータスを開示できない人間は、ステータスが低いか、日本国籍がないということだ。どちらにしても大きなイメージダウンになるだろう。
「全議員の事前計測は行えますか?」
放っておけば前回のように、いつの間にか計測されて公表されるに違いない。
全員が計測可能である以上、党内でも計測しておかなければ、公表された値が正しいのかどうかすら判断できない。
でたらめな数値を並べられても、それをでたらめだと否定できないのだ。そうして嘘は独り歩きを始め、それだけで結構なダメージになるだろう。
「デバイスの購入は不可能でした。一応ダンジョン庁には長官を通してサンプル提出をさせるようにお願いしてあります」
「サンプル? 法的根拠は?」
ダンジョン庁に、ダンジョン素材を利用したアイテムを確認するための強制提出などという制度はない。
「ま、総務省あたりから技適の確認があるとかなんとか、そのあたりは現場が何か考えるでしょう」
「そいつは酷い……」
「後はすでに日本ダンジョン協会に何台か納品されているそうですから、そちらに頼めば可能でしょうが……」
「あまり大げさにはしたくないですね。できれば秘密裏に行いたい」
議員全員の計測が行われたなんてマスコミにかぎつけられたら最後、公開を要求されるに決まっている。それではまずいのだ。
全議員の一斉公開ならともかく、与党だけの先行公開はどういう切り取られ方をするか分からない以上避ける必要があった。
「それにしても能力が客観的な数値で見られる社会がいきなりやってくるとは……いくらなんでも変革が早すぎます」
井部が眉をひそめて中空をにらんだ。
「段階数がそれほど多くないのが幸いなのか不幸なのか」
発表されている資料によると、探索者ではない成人のステータスは9から10を中心に、せいぜいが10段階ていどらしい。
だが段階数が少ないということは、1違うだけで能力が違うとみなされる可能性が高いということだ。
みな自分の能力の数値を知りたがるだろうが、知ってしまえばカーストが生まれ、根拠のある劣等感に苛まれかねない。
それは思った以上に精神に影響を与えそうだ。
「急ぎ、ステータスの公開を法で規制するべきかもしれません」
「個人情報保護法の改正では無理でしょう」
個人情報は、特定の個人を識別できる情報のことを意味しているが、ステータスで特定の個人を識別するのは一般的には難しい。
したがって、ステータスはプライバシーにあたることになるだろう。
しかし個人情報保護法は、事業者が個人情報を適切に取り扱う方法を規定した法律で、プライバシーの保護は目的にされていない。
「新規立法ですか」
「所轄は、個人情報保護委員会かダンジョン庁か……利用という観点では範囲が広すぎて個人情報保護法同様各省庁のガイドラインが必要になりそうですが、そうすると迅速な立法は難しいですね」
「そもそもどのように規制すればいいのやら……原則開示禁止で例外を作るのがセキュアな作り方というものでしょうが──」
「こう言ってはあれですが、法律はなるべく複雑で穴だらけでなければ運用が難しいと考える連中が多すぎる」
ステータスだって利用したいものは多いだろう。
特に各社の人事などにとっては垂涎の情報だと言える。しかしそれだけで安易に決められては本当にカーストが生まれることになるだろう。
学閥よりも酷いことになるのは確実だし、出世速度にだって影響するはずだ。同じような業績を持った二人がいたら、単純にステータスの高い方を取りたくなるのは仕方がない。
「この後、経済財政諮問会議の前に国会へ寄って、参議院の達伊議長や司郡副議長、各会派へのあいさつ回りを装って問題を共有します」
「分かりました。須賀官房長官と上野官房副長官にも連絡を入れておきましょう」
「よろしくお願いします」
そう言って立ち上がった井部は、そのまま国会へと向かった。
総理番たちがいなくなるのをひとり待っていた甘は、傾いた夕日が照らす雲を眺めながら、数値で客観的に能力が評価される社会の行く末を考えてため息をついた。
、、、、、、、、、
日本ダンジョン協会に丸投げすることを決めた俺たちは、とりあえずダンツクちゃんにもう少し待てという意味の婉曲的な返事を書いた後、居間でグダっていた。
パーティの後片付けもあるのだが、なんだかやる気が起きなかったのだ。
「なあ、三好」
「なんです?」
「以前はさ、なんでこんなに迂遠なことをやってるんだろうと思ってたんだが――」
「ダンツクちゃんですか?」
「まあな」
「じゃ、今は?」
「うーん……なんて言うか、『恐る恐る』って感じがしないか? まるで触れたら壊れる硝子細工をつついているような――」
三好は何かを考えるように宙をにらみながら聞いていたが、こちらに視線を向けるとこともなげに言った。
「もし彼女が人と同じような思考をするとしたら、そうする理由なんて一つしかないですよ」
「なんだよ」
「失敗したことがあるんじゃないですか」
失敗したことが──ある?
「仮にダンツクちゃん質問箱の話が事実だったとして──」
以前活発に論じられていた彼女の星についての話だ。地球から数万光年の位置にあるとかなんとか、そんな話だったはずだ。
「この宇宙のどこかにいる、魔法のように見えるほど科学の進んだ何かであるダンツクちゃんが、現在の地球と同じような事態を別の場所で引き起こして──失敗した?」
「そうです」
その結果がどうなったのかは分からない。
だが奉仕するというのが彼女の目的なら奉仕対象がいなくなったのだろう。おそらくは。
俺は、その恐ろしい結末を振り払うように首を振った。こいつはあくまでも推測だ。
「だが、何万光年も離れている地球のような惑星を見つけだす確率なんてほとんどゼロだろ? そもそも彼女はどうやって地球を見つけたんだ?」
「分かりません。でも、最初のダンジョンにその秘密がありそうな気がしません?」
「……ザ・リングか」
あまりにモンスターのレベルが高すぎて未だに攻略が行えない、おそらくは最初に作られたダンジョン。
そこにいた二十七人が最初の犠牲になって、その知識からダンジョンが作られることになったと思われる原点ともいえる場所。
確かに何かがあってもおかしくはない。
「それから、先輩」
「ん?」
「彼女が仮に失敗したことがあるとしても、それが現在の地球のような状況で発生したことだとは限りませんよ」
「どういう意味だ?」
「彼女がほとんどゼロの確率をもう一度引き当てなくても失敗できる場所がひとつだけあるんです」
「──自分の……星か」
三好が小さく頷いた。
もしも三好の想像が当たっていたとしたら、そこで一体何があったのか。
たぶん幸せな出来事ではなかっただろうなと、俺は頭の後ろで手を組むとソファーに体を投げ出して目を閉じた。
216 いや無理、もう無理、絶対無理! 3月28日 (木曜日)
「いや無理、もう無理、絶対無理!」
徹夜は能率も下がるし無意味だと、誰もがみんな知っているが、時にはそれを押しても期日までに何とかしなければならない現実がある。
あの騒動からたった四日、Dカード出現騒動からは三日しか経ってないが、各国の圧力は相当なもので、それも日に日に増すばかりらしい。
当然当該部署への問い合わせや対処の作成などが毎日積み上がっていた。
「しかも何ですかこれ? なんでこんなもんが回って来てるんです?」
そこにはステータス保護法制定のための基礎資料提出の要求が書かれていた。
余りにも影響範囲が広すぎて、どこから手を付けたらいいのか迷った挙句、一番詳しそうなここへ投げられたに違いない。
二十四日は徹夜でファーストコンタクトの準備をし、二十五日はその大騒ぎで各所へのレポートで追われ、やっと休めると思ったら二十六日に発生したDカード事件で各所からの問い合わせや上から事実関係のレポートを命じられ、27日に徹夜でそれをまとめたところで、帰る間もなくステータス関連の問い合わせだ。
すまじきものは宮仕えとはよく言ったものだが、緊急案件が五月雨式で、しかも雪崩のごとく襲い掛かってくるとなるとさすがの宮仕えでも切れるというものだ。
「これって、個人情報保護委員会の仕事じゃないですか?!」
左手で持ったその書類をバンバンと右手で叩きながら村越が憤慨していた。
「あそこはなぁ……個人情報保護法の見直しとマイナンバー関連法のためにだけあるような部署だしなぁ……」
成宮が目の下のクマをもみほぐしながら、顔を上げてそう言うと、三井がボールペンを人差し指と中指の間に挟んで振りながら補足した。
「個人情報取り扱いの国際的な窓口もやってますよ」
「つまり、個人情報以外はシラネってことじゃないですか? 」
杉田が身も蓋もないことを言いながら、ものすごい勢いでキーボードに指を走らせて、日本ダンジョン協会によるファーストコンタクト以降、転移石のやりとりやダンジョン内における電波の開通、そして渋谷騒動までを日本ダンジョン協会協力ででっち上げたカバーストーリーに肉付けしまくっていた。どうやらかな入力のときは一本指打法で、ローマ字入力のときはタッチタイピングらしい。
本日の3時までに送らなければならないとか、まったく何の冗談だと文句を言いながら、これに僕とダンツクちゃんの恋愛要素を盛り込んでもいいですかなどと冗談を飛ばす余裕はあるようだった。
もちろん「出会う前から寝取られてたじゃないですか」と突込みを入れられて、至極まじめだった彼は凹むことになるのだが、なんにしても気分はもう小説家だ。
「そんなバカな……」
村越はどさりと腰を下ろすと、がっくりと肩を落とした。
「そもそもそういった省庁じゃ、ステータスが何なのかもよく分かっていないでしょう」
「なら、ダンジョン庁にやらせてくださいよ!」
「あそこはダンジョン行政における各省庁の調整もやってますから、最終的には各省庁のガイドライン作成のとりまとめなんかもやるかもしれませんが、こいつはそれの前段階の資料ですからねぇ」
うなだれている彼女のほつれ毛を見て、疲れた女性の横顔は結構エロティシズムに溢れてるなと益体もないことを考えながら、村越が放り投げた書類を拾い上げて目を通した杉田は、それを机の上に積み上げられている書類の山に戻して苦笑しながら言った。
「しかし、上はうちが四人しかいないってことを認識していませんよね、これ」
「言うなよ。泣きそうになるだろ」
三井が頭を抱えながら机に目を落とした。
もちろん村北内閣情報官は知っているだろうが、次から次へと問い合わせをしてくる外務省などは、自省の人間を二人も送り込んでいるからか、遠慮というものがまるでなかった。
もちろんそれだけ諸外国に圧力を掛けられているのかもしれないが。
外務省組の二人は苦笑を浮かべるしかなかったが、いずれにしても優先順位を整理しないと仕事の海に溺れかねない。
問題はすべての作業がトップ・プライオリティ扱いなところだ。この瞬間、順位付けの意味は完全に崩壊していた。
三井の嘆きに苦笑した成宮は、立ち上がって腰を伸ばした。
「よし、ちょっと休憩するか」
ついでに昼食にしようと、彼らは出前を注文することにした。疲れて食事に出かけるのもおっくうになっていたのだ。
一通り電話で注文が終わると、早速、頭の後ろで腕を組んでソファに座っていた杉田が成宮に尋ねた。
「そういや、あの屋上にいた二人って、結局どこの誰だったんです?」
可能なら引っ張って来て手伝わせたいくらいには、あの事件に関わっていた二人だ。
そもそもダンツクちゃんの懐き方が尋常じゃなかった。つまりは顔見知りだったという可能性は大きいだろう。それはつまり真のファーストコンタクトを果たした連中だという可能性でもあるのだ。
「一応日本ダンジョン協会に問い合わせはしてみたんだが──」
成宮は目の前の書類の山から、写真をプリントした用紙を拾い上げて指で弾いた。その用紙では、屋上から下りていく問題の二人組がこちらを見ていた。
それはエレベーターがおり始めたのを見て、あわてて撮った一枚だった。あまり写りは良くないが知っている人が見れば区別できる程度の解像度はある。
「──プライバシーを盾に回答を拒否された」
「へえ、なら写真を持って代々木で聞いて回れば一発で分かりますね」
回答が『分からない』じゃないってことは、写真だけで誰だか分かる程度には有名な探索者だということだ。
成宮は、その写真を杉田に渡すと苦笑しながら頷いた。
「たぶんな。だが調べるまでもなく村北さんが知っていた」
「内閣情報官殿が?」
政府の要人が普通の探索者と面識があるはずはない。
自分の親戚や交友関係のある人物の関係者か、そうでなければ普通ではない探索者ってことだ。
「まあな。写真を見せたら苦言を呈されたよ。藪をつついて遊んでいると思われたらしい」
「藪? じゃあ、あの女性は──」
「そうだ。件の〈鑑定〉持ちだってことらしい」
「三好梓? じゃあ男の方は?」
「村北さんは知らないようだったが、状況から考えれば彼女のパーティメンバーだろう」
ダンツクちゃんの懐き方を見ても、ただの知り合いだとは思えなかった。
小数点以下0が限りなく続いたあとの1%くらいは、なにかフェロモンのようなものを放出している特殊な体質の男って線もあるかもしれないが。
「ふーん。こいつが芳村圭吾ってわけですか」
杉田はそう呟きながら、まるでライバルを見るような目つきでその写真を見ていた。
その写真を横からのぞき込んだ三井が、「テレビと全然違うじゃないですか?!」と驚き、「女は化けるってホントだな」と呟いていた。
「いや、そういう話じゃないと思いますけど」
あれは化粧じゃなくて変装だ。
まあ、あれだけの有名人になれば、公の場に出る時にそうすることも分からないでもない。マスクを付けてサングラスを掛けなければならないような日常はごめんだろう。
「Dパワーズの連中に、どうしてあれほどダンツクちゃんが懐いていたのかも問題だが、日本ダンジョン協会に聞いても素直に教えてくれそうにはないな」
「それで、軍人の方は?」
杉田が写真をテーブルの上に置きながら成宮に尋ねた。
「フランス大使館から返答が来たそうだ。件の軍人二人は実際に在籍していて、提示された身分証も本物らしい」
「COS(特殊作戦司令部)の中佐が現場でうろうろしてたら十分怪しいですけどね。なら彼らが追いかけているように見えた男は? 犯罪者か何かですか?」
本来この部署に身分証の提示を求めるような権限はない。
軍人二人は事を荒立てたくないがゆえに、自らの身分をさらして場を収めたのだ。だから彼らはデヴィッドがどこの誰だかは知らなかった。
だがちらりと聞いたやりとりでは、証言がどうの、血痕がどうのと言い争っていたはずだ。
「一部では有名人だったぞ。デヴィッド=ジャン・ピエ−ル=ガルシア。フランスのカルトの教祖らしい」
「へー。カルトの教祖を軍人が追いかけてるって、なんだか危なそうな話ですね」
杉田がフィクションのような出来事に、眉を顰めるどころか目を輝かせた。
村越が、それを横目に見て苦笑しながら尋ねた。
「じゃあ、本当に無関係だったんですか?」
「ところがそうとも言えないんだ。件のカルトは、ええっと──」
成宮がだんだん混沌と化していっている机の上からメモを取り上げた。
「アルトゥム・フォラミニス・サクリ・エッセという名称らしいんだが──」
「深い穴教? 変な名前ですね? エロ系ですか?」
妙なことを言い出した杉田に、三井が呆れながら口を挟んだ。
「おまえ、ラテン語もいけるのかよ? エロ系って発想はないが」
「ラテン語はヲタクのたしなみですよ、たしなみ」
「たしなみねぇ……エロ系はないですけど」
エロはともかく、深い穴は十分ダンジョンを連想させる。
その教団のトップが、ダンジョンの向こうの何かが顕現するはずの場所を、顕現するはずの時間に歩いていたなんて、偶然で片付けるのには無理がある。
つまりその情報は漏れていたのだ。
「しかし、諜報機関でもないはずのカルトの教祖様が渋谷の情報を握ってたことの方が問題じゃないですか? まさか偶然とは言いませんよね」
警備部からの漏洩だとしても、何をどうやったらカルトに行き着くのか。
事はマスコミからビデオが流出したことがきっかけになった弁護士殺害事件よりも根が深そうだ。
そもそもフランスが本拠地のカルトが、日本の公安に情報網を築いているなんて、それこそフィクションの世界でもありえなさそうな話なのだが。
「まさかこれの調査も?」
「いや、報告はしたし、上も動いているはずだ。結果が俺たちのところに下りて来るかどうかは怪しいがな」
「まあ、報告されても困りますから。しかし、いくつかの組織も張ってたみたいでしたし、やっぱ、日本の機密管理はザルなんですかねぇ……」
分かっちゃいたけど、凹みますよと杉田がため息をついた。
「それで、結局Dパワーズには接触するんですか?」
「ダンジョン交流準備室として、いずれは避けられないと思うが──」
成宮はうんざりした顔で、目の前の書類の山を指差した。
「──まずはこいつらをどうにかしないとな」
「他省庁への協力で本来の業務が滞るとか、バカの極みですね」
杉田がソファをずずずと滑り、だらしなく腰で座りながら横柄に足を組んで毒を吐いたところで呼び鈴が鳴った。どうやら出前が到着したようだ。
、、、、、、、、、
その日の3時半、井部首相は村北内閣情報官と短い面談を行った。
そこで渡された資料は、今後の日本の外交の基盤になる重要な資料となるはずのものだ。
「これはなんとも……それで、これは調べられても大丈夫なのか?」
「嘘は書かれていないそうです。推測部分以外は解釈の違いだと突っぱねても問題ないということでした」
さすがは選りすぐられた官僚の中から選抜された精鋭だ。そのあたりはぬかりがないのだろう。
井部はその選抜がどのようなものか、具体的には知らなかった。もしも知っていたら不安になったに違いない。
「しかしこれでは、場合によってはDA(ダンジョン協会)が悪者扱いされないか?」
「DAに権限を委譲したのは世界の国家ですからね。この程度は許容範囲なのではないかと思いますが──」
「コンタクトが明らかになった以上、今後は分からんか」
「いつまでも野放しにしておくのは……なんて意見は出かねません」
そんな話が出るようでは、またぞろ、世界ダンジョン協会による国家の樹立なんてヨタが真剣味をおびかねない。
「しかもこれで、日本は嫌でも世界の矢面に立たされるぞ」
「腕の見せ所ですね」
「そろそろ総裁選をやらないか?」
「去年三期目を決めてから、まだ半年しか経ってませんから無理でしょう。不祥事でも起こしますか?」
井部は大げさなため息をつくと、資料の内容について簡単な質疑を行った。
、、、、、、、、、
一時間後、内谷国家安全保障局長、道槌防衛政策局長、野河統合幕僚長を呼び出した村北は簡単なブリーフィングを行った後、井部はNSCの4大臣会合に出席し、その後新宿一丁目に向かった。
日が沈んでしばらくしたころ、御苑前に立っているビルの八階で、そんな場所にいるはずがない人物と顔を突き合わせていた。
表向きの理由のために連れ立って来た、山柴文部科学大臣、耕世経済産業大臣、藤衛総理大臣補佐官、生田萩幹事長代行、藤新政務調査会長代理は、隣室で事務所の持ち主と会食している。
「金さんの事務所に向かえとは、冗談にしてもきつすぎませんか?」
好々爺然とした男が眼鏡の奥の瞳に憮然とした光を浮かべながら、開口一番そう言った。
ここは長年台湾の独立運動に関わってきた女性の事務所だ。そこに駐日中国大使を呼び出すのは確かに洒落になっていない。秘密裏に訪れているところを関係者にでも目撃されたら9年以上にわたって務めてきた大使すら解任されかねないだろう。
しかも隣には──
「先日のグランドハイアット以来ですね」
リラックスした様子でそこに座っていたのは大使のハガティではなく、DMC(特命全権公使)のジョナス=ヤングだった。
彼は経験豊かな職業外交官で、どんな人物が大使になろうと対日外交に問題が起こらないのは彼らDMCがいるからだと言われている。もちろん日本語は堪能だ。
現れたのがカウンターパートではなく格下の公使だったのを見た時、それでも駐日中国大使の程《チェン》華永《ファヨン》は軽く目を細めただけで、大使のハガティを少しだけ見直した。
各国一人しか入室が許されない秘密会合だ。誰も知らないのだからメンツがつぶれることもないし、高度に外交的な話になると自分では足りない可能性があると判断したのだろう。ハガティは、カウンターパートへの配慮も躊躇もなくDMCのヤングを送り込んできた。彼は事実上、対日外交の現場指揮官なのだ。
「ほう。首相とホテルで何を? 秘密の会合ですかな」
「いや、大使がグランドハイアットのサウナで井部首相と一緒になっただけですよ。私は単なるお供です」
「大使と休日にサウナ? そんな関係でしたか?」
「なに、公邸で共に昼食をとられるほどではありません」
日本語がペラペラな程は、かなり頻繁に井部と昼食を共にしていた。大使としては異例なほどだ。
フフフ、ハハハと乾いた笑いで応酬している中国大使とアメリカ特命全権公使に冷や汗を流しながら、井部は中途半端な笑顔を張り付けていた。この二人は最も激しく説明を要求してきた国の代表なのだ。
ひとしきり言葉のジャブで応酬しあった後、程が前置き無しに話を切り出した。
「色々と言いたいことはありますが、我が国としては日本国民にDカードが一斉に配布された秘密をお伺いしたい」
すでに食糧輸入国になった中国は、無限の食料を期待して、現在国を挙げて探索者の登録を行っているがダンジョン過疎地域でもあり、その進行は遅々として進んでいない。
それはそれなりにダンジョンの数があるアメリカにも興味のある話だった。
現在FDA(アメリカ食品医薬品局)が躍起になって調べているが、どうやらダンジョン産の食料には人間の能力を伸ばす効果があるらしい。もしもそれが本当なら大変なことになるだろう。アメリカが後手に回るわけにはいかないのだ。
「今日は日本の状況を説明すると同時に、できるだけの質問にお答えするつもりではありましたが、それでもいきなりですね」
「我々には時間がありません。そうでしょう?」
中国らしからぬセリフに、井部は内心苦笑を浮かべながら細かい経緯を飛ばして説明した。
「端的に言えば、先日の渋谷騒動のとき、少女に接触した政府関係者がお願いをしたのが発端だそうです」
「お願い?」
「というよりも許可でしょうか。『日本国民に奉仕する準備をすることを許可する』と、おおむねそういう許可を与えたそうです」
「政府の頭越しに、そんなことを決定できる権限のある機関があるとは知りませんでしたね」
「いや、そんなことより、どうやって渋谷の出現を知ったかの方が問題でしょう」
ヤングの感想を遮って、程が言った。
なんとか日本が接触している証拠を掴んで、そこに祖国を割り込ませるのが彼らの目的の一つだからだ。
渋谷で接触したというのはいいが、そもそもどうやって渋谷に出現することを知ったのか、それは事前の接触がなければ不可能だとしか思えない状況で。
突っ込まれれば困ることは間違いないのだが、井部はあらかじめこの質問への回答を用意していた。
「それはあなた方も同じでしょう、どうやってキャッチされたんです?」
二人の外交官は口を閉ざした。
渋谷の監視カメラ群には当然CIAの職員も、中国の特殊部隊員も映っている可能性がある。何しろ突然の大混乱だ、細かな状況までコントロールすることは不可能だったのだ。
しかも民間のカメラは数知れず、そこで撮られた写真やムービーは今でもSNSを賑わしていた。
中国側だと思われる何らかの組織は、同時に現れた老人の方を拉致するところまでいったのだ。一瞬目を離した隙に幻のように消えていたと報告が来たときは一体何を言っているんだと報告者の正気を疑ったものだ。
しかしアメリカにしても中国にしても、まさか日本の警備部からのリークだとは言えない。そのためどこからだとは明言できなかった。
もちろん二人とも「お前の国からだよ」と放言したいのはやまやまだったのだが。
「言葉は?」
「日本語が通じたらしいですよ」
Dカードは世界中のネイティブ言語で表示されているし、ダンジョン内のアイテムについても同様だ。
言語そのものは特に問題にならないらしい。
「しかしいきなり渋谷の騒動というのも納得しかねるものがあります。本当にそれ以前に接触は行われていないのですか?」
ヤングが足を組み替えると、胸の前で両手を合わせテントを作りながら疑わしげな眼差しを向けた。
「実は、三月の12日に、とある報告がもたらされました」
「報告?」
それが、ダンジョンの向こう側にいる何者かの目的は『人類に奉仕すること』だという報告だった。
もしもそれが本当なら、報告書の先にいる誰かが、ダンジョンの向こう側の誰かと接触したか、そうでなければ決定的な証拠になる何かを手に入れたということだ。
「その報告書を書いたのは?」
「大元を辿れば日本ダンジョン協会でしょう。詳細を調査した結果、今年の二月に、偶然デミウルゴス──ダンジョンの向こうの何かのことらしいです──に接触した探索者が、ダンジョンの目的を持ち帰ったということです」
「それを日本は今まで隠ぺいしていたのか!」
ガタンと音をたてながら椅子から立ち上がった程が激高を装って言った。
「いや、証拠も何もなく、ただの証言で『人類に奉仕することが目的』などと言われて、まともに取り合えますか?」
「むぅ……」
「もちろん、そんな眉唾も甚だしい、噂レベルにすら満たない事案は、要調査の分類に放り込まれ当面何も進みませんでした」
眉唾案件の数は多い。全部に労力を割いていては政府の機能がマヒしてしまうだろう。
今回のようなケースなら、日本ダンジョン協会に問い合わせをだして回答待ちが関の山だ。
「その探索者は一体どこで?」
「報告によると三十一層のとある部屋だそうです」
「ではその部屋へ行けば──」
日本ダンジョン協会ではすでに転移石31が販売されている。つまり、三十一層なら危険を冒すことなく外交官を送り込めるのだ。
隠しきれない喜色を浮かべた二人だったが、井部は悲しい顔で先を続けた。
「残念ながらその部屋はもうないのです」
「ない?」
報告を受けてすぐ、自衛隊のダンジョン攻略群にその部屋の確認を行わせたが、そこには扉そのものがなかった。
それが報告の調査を進めなかった原因だった。
「では、最初の報告が虚偽だった?」
「そう結論付けたいところですが、実際に渋谷事件は起こり、日本国民にDカードが配布されました」
「そこにはなんらかの真実があったと?」
井部は小さく肩をすくめて見せただけだった。
そのときヤングは、以前ハガティがワインを届けた家にいた男のことを思い出していた。
渋谷の映像を分析した結果、あれはまず間違いなくあの男だった。
記録によれば三好梓は自衛隊の騒動の際、三十一層にいたことになっている。男の記録はなかったが一緒にいたとしてもおかしくはない。そうしてこの物語には所属の分からない何者かが重要な役割で登場する。あとは簡単な算数の問題だ。
サイモンたちから寄せられた情報を加味すれば信憑性はさらに増すだろう。
ふと気が付くと、程がこちらに探るような目を向けていた。ヤングは微かに笑ってそれを躱した。
どうやら中国はまだその情報に辿り着いていないようだ。
民主主義国家の正義と人とカネを利用した彼《か》の国の篭絡テクニックは芸術の域に達している。正義を掲げ、それ利用した扇動だけでも大したものだ。
行き過ぎた倫理やプライバシーの保護に拘泥させられている我が国では、向こう数年の間にAIや医療などの重要な部門で彼《か》の国に置いて行かれる可能性すらある。なにしろあちらは実質制限がないのだ。
そんな国が気付いたとしたら、そこには必ず何かの平和的な接触が発生するはずだが、監視チームからその手の報告は上がって来ていなかった。
ロシアとの接触はあったようだが、時期的にも無関係だろう。
「では我々が直接接触する手段はないと?」
井部はそれに答えず、ブリーフケースから2部の書類を取り出して、二人の前に置いた。
「これは?」
「もしあなた方がそれを信用するなら、もう一つだけ接触する方法があります」
「なんですと?」
二人は慌ててその書類を手に取った。
それを見た程は、そこに書かれている文字を見て眉をひそめた。
「日本語とはまた、不親切ですな」
「漢字にはルビを振らせましたよ。これは命綱なしで綱を渡るような案件ですから、誤解を招くのはまずいでしょう? お二人が相手で助かります」
先にそれを読んだヤングは、彼には珍しく呆けたような声を上げた」
「は? 井部首相。失礼ながら、正気ですか、これ……」
そこに書かれていたのは、危険を冒してダンジョンに潜らなくてもいい上に、ウェブブラウザで簡単に接触できる方法だった。
「ダンツクちゃん質問箱?」
「ええ。日本ダンジョン協会が開設したサイトの一つなんですが」
確かにそんなものができたことは二人とも知っていた。
とはいえ、それは単なる日本ダンジョン協会が運営するサービスの一つに過ぎないという認識だった。だがここに書かれていることが本当だとしたら──
「ま、まさか……」
「ええ、そこに書きこむと話ができる──そうですよ」
「一般大衆と接触させたのか?!」
程は思わずテーブルを叩いて腰を浮かせた。
だが井部は苦笑いして言った。
「タウ・ケチの友人と話ができるサイトが作られたら、それを国家が検閲するんですか?」
「むっ……」
そんなサイトができたとしたら、利用者全員がネタサイトだと考えるだろう。
以前ならリテラシーがまだ低い年代は夢を見られたかもしれない。川口浩探検隊を本物だと信じて楽しみにしていた少年少女たちのように。
だが今や情報があふれる時代だ。そんな人間は絶滅危惧種だと言ってもいいだろう。
そんな時代に、国家がそのサイトを閉鎖させたりしたら、実は本物だったのではなんて陰謀論が巻き起こることは間違いない。
最近ならそこまで計算して遊ぶサイト開設者もいるかもしれないが、ダンジョンの正しい情報を伝えることが目的の日本ダンジョン協会が、そんな真似をするはずはなかった。
「考えても見てください。本当にダンジョンの向こうにいる何かと話してるなんて、誰も信じませんよ」
時折際どい話も持ち上がるが、ほとんどの利用者は今でもAIか中の人がいると思っていながら遊んでいるのだ。
わざわざそこに波風を立てる必要はなかった。
「では日本もこれを?」
「これから活用することを考えています」
実際は、D交流準備室の一人が彼女をデートに誘ったことが渋谷事件の発端だと聞いているが、そんな話をしても呆れられるだけだろう。
それに専用のサイトは、日本の切り札にしておきたかった。なるべく長い間。
、、、、、、、、、
「せせせ先輩!」
がたりと音を立てて、自分の机椅子から立ち上がり、妙に焦っているような三好の声に、俺はソファに座って読んでいた資料から顔を上げた。
「なんだよ。SMDの高額転売の問題なら、今のところどうしようもないぞ」
「違いますよ! ブートキャンプの申し込みが──」
「?」
「百倍くらいになってます!」
「はぁ?」
それは、さながらステータスバブルとでも言うしかない現象だった。
Dカードが全国民に配られた瞬間、ステータスの利点やその増加方法についてのサイトにアクセスが集中し、なかでも成功体験しか綴られていないブートキャンプが最もクローズアップされたらしい。
その結果、それまでも週5千人ほどあった申し込みが、一気に50万件になり、今後も増え続けることが予測される。
何しろ世界人口の1.7%が、この狭い島国で事実上探索者になったのだ。その数一億2000万人オーバー。
「だが、応募が増えたところで、今までの基準で並べて上位から同じ人数を取ればいいだけだからさほど労力は変わらないだろ?」
「世間の圧力が違いますよ」
あー、まあ確かにそうだよな。
抽選と銘打っている以上、いつかは当たるかもと応募し続けるだろうが、そもそも足切りを受ける人たちは当選のしようがない。
足切り後に抽選しているから嘘ではないのだけれど。
「それに小麦さんみたいな依頼が、もっと広範囲に渡って行われたらどうします? 何しろ前例を作っちゃいましたからね、私たち」
「む」
確かにそれは問題だ。
なにしろ一種の超人化だ。低ステータスの者は、どんなに努力しても高ステータスの者に勝つことは難しいだろう。同じ程度の努力をされたら絶対に勝てない。
今までなら素質の違いという言葉で諦めることもできただろうが、こいつはその素質そのものを引き上げることに等しいのだ。この事実が浸透すれば全員がそうしたがることは想像に難くない。
そうして、日本人にとってチャンスの平等は非常に重要視される要素だ。少なくとも建前上は。
ステータスによる社会分断の兆しが見えたりしたら、マイナンバーカード取得者の中から毎週xx人に受講させるようになんてお達しが来かねない。
もっとも実際にはアルスルズたちがいないと、効率の良く経験値を得ることは難しい。
いちいち入り口なんて非効率を実直に守れるのは、大きな目的と強い意志があるものだけだろう。なにしろ効果があるのかどうかもすぐには実感できないのだ。
そうして一層の人口密度が上がれば、それすらも難しくなる。結果、詐欺扱いされたりしたらたまらない。
「だがなぁ……仮に毎週百人を小麦さん化したとしても、全員に行きわたるには、えーっと……」
「2万3千年以上かかりますね」
指折り数える俺を尻目に、三好が素早く暗算してそう答えた。
「2万3千年って……ぺトルコヴィチェのヴィーナスが作られたあたりから始めても現代までかかるってことだぞ?」
「なんですそれ?」
「チェコのブルーノの考古学研究所に所蔵されているヴィーナス像。だがあれは現代からの転移者が慰みに作ったエロ人形に違いない。なにしろ頭がない上に、プロポーションが現代的で、ショーツのラインが──なんというかグラビアっぽい」
「ニッチ過ぎて誰も知りませんって、そんなの。ともかく、私たちが責任を負えるのはせいぜいが70年後までですからね」
それを聞いて俺は以前から考えていた疑問を口にした。
「なあ、三好」
「なんです?」
「〈超回復〉って、寿命、どうなると思う?」
「なるべく考えないようにはしてたんですけど……」
小さな切り傷なんかが一瞬で治ってしまうことは分かっている。
「もしも体の修復が、代謝の加速によって行われているんだとしたら、確実に寿命が縮みそうですよね」
体内を流れる時間が、他人の二倍だとしたら、外から見た寿命は半分になるのが道理だ。
「そうだな。だがもしそれが、単純に細胞を修復するような機能だった場合は?」
時間が経ってがん化することもなく、いつまでも正常な細胞の機能を維持し続けたとしたら?
「先輩。さすがに不老だの不死だのは飛躍のし過ぎですよ」
三好は苦笑しながらブートキャンプの申込管理ページを閉じた。
医療機関で詳細な検査をしたところで、単に『正常だ』という結果が得られるだけだろうことは、常磐の医療ポッドから得られた情報でも明らかだ。
だが、悩もうと悩むまいと、あと数十年も経てば、おぼろげに結果は見えて来るだろう。
「これもまた、結論の出ない問題か」
「もしも長生きしちゃったら、メトシェラの末裔でも名乗りましょう」
「そうして、宇宙へと逃げ出すのか?」
長命な種や不老不死の種がそうでない者たちと争った結果、宇宙へ飛び出しちゃうのは、定番の展開だ。
「まあ、ハインラインでも超人ロックでもそうなってますけど。数十年の進歩で恒星間宇宙船を造るのは無理そうですよね」
「明日をも知れぬこの激動の最中に、数十年後のことを考えても仕方がないか」
俺は頭の後ろで手を組むと、諦めるように脱力して、ソファに深く体をうずめた。