第7章 変わる世界
126 プロローグ
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1. Sawkill Rd, Kingston, NY on Sunday, January 13th, 2019
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NYでは、一年のうちで最も冷え込みが厳しい一月の中旬。
ハドソン川沿いにあるレイクカトリーンからソウキルロードをウッドストックへと向かう途中にある、セントアンズセメタリーの側の家の二階で、ディーン=マクナマラはノートパソコンのハードディスクがOSを起動させる音を聞いていた。
いいかげんSSDにしたいなと考えていたとき、skypeがメッセージの到着を告げた。
「ハイ、ディーン。大変だぜ!」
それは、今度NYで、Dカードの機能を探る大規模オフを計画しているチームのポールから届いたメッセージだった。
ディーンは、机の上のJabra Evolve 80を掴んで装着すると、ビデオ通話に切り替えた。
アクティブノイズキャンセリングに引かれて購入したヘッドセットだったのだが、彼の家の周りに騒音なんて何処にもないということに購入してから気がついた。
実際に使用してみればエアコンの動作音やパソコンのファンの音が軽減されているようだったが、それは音楽を垂れ流していても聞こえなくなるのだ。
もっとも、彼はその機能に満足していたし、気に入ってもいた。窓ガラスに映る自分しか見る者がいないビジーライトを含めて。
「どうしたんだ?」
「たった今、インクレディブルなメールを貰ったんだ」
「誰から?」
「聞いて驚くなよ。ザ・ワイズマン、アズサミヨシからだ」
それを聞いたディーンのマウスを握る手に力がこもる。
「ええ?! なんだって?! まさか今度のオフに参加するなんてことは……」
「いや、流石にそれは無理だろう」
「なんだ、残念だな。で、どうしたって?」
「俺たちのイベントにとても興味を持っていて、人数が多くなりそうだったら、アズサの会社が会場を確保してもいいってさ」
「はあ?! 何故?」
「さあな。人数がわからないから、とりあえずブリージーポイントからは少し距離があるけど、ジャビッツセンターでいいかって聞かれた。喫緊なら二月の終わりの土日、二十三ー二十四なら押さえられるってさ」
「ジャビッツセンター?!」
ジャビッツセンターは、NYで一番大きな展示場だ。
ヲタクの間では、NYコミコン会場と言えば分かり易いだろう。米国版コミケというかポップカルチャーの祭典だ。コミコンは日本にも輸出されていて、今年も十一月の二十二から二十四日にメッセの九から十一ホールを使って行われる。
コンピューター関係者にアピールするように言えば、シリコンバレー・コミコンの主催者は、あのスティーブ=ウォズニアックだ。まあ、そんな感じのイベントなのである。
「一等地じゃないか。スポンサーとしてなにか要求されたのか?」
「いや、販売みたいなビジネスっぽい要求は特になにもなかったな。ただアズサの会社で発売するデバイスを貸し出すから、使ってみて欲しいってことだ」
「彼女の会社で発売するデバイス? って、それ、ステータス計測デバイスじゃないのか?!」
驚いたディーンは、思わず立ち上がって、ビデオのフレームから外れた。
ポールは、興奮してクマのように左右に歩く彼の様子を見て苦笑した。ゲーマーでもある彼のヘッドセットは今でも有線だ。それほど多くは動けないだろう。
「たぶんな。おそらく貸し出しは世界初じゃないか?」
ディーンは、ぐっとカメラに近寄るように身を乗り出すと、右手の人差し指と中指をカメラに向かって突き出すと、懸念を表明した。
「初も何も、販売すら始まってないだろ。機器を分解して調べるやつがいたら、どうするんだ?」
「そこは流石にNDAを結ばされるだろうし、技術スタッフも一緒に来るんじゃないか?」
「まあそりゃそうか」
ディーンは納得したかのように椅子に座り直した。
「だけど興奮するだろ? お前自分のステータスを知りたくないか?」
「すっげー、知りたい」
「な。それで、探索者が大勢集まっていろんな状態になるのなら、状態が変化する度にゲートをくぐって比較測定してくれればありがたいってさ」
「ああ、パーティを組んだ場合、ステータスがどうなるか的な感じか?」
ヒブンリークスで発表されたパーティの内容には、パーティを組むと+五%のステータス補正というのがあった。
ただし、そのこと自体が数値で証明されているわけではないし、普通の探索者が5%増しになっても効果がよくわからないためさほど重視はされていなかった。
「まあそうだろうな。さまざまな状態による比較情報が欲しいそうだ。どんな状態かを入力するのに少し手間がかかるだろうから、協力してくれる人は、ホテル代をアズサの会社で持ってくれるってさ」
「なんだって? NYだぞ? ホテルの面倒を見てくれるなんて、アンケートの対価としちゃ行き過ぎだろ。ちょっと怪しくないか?」
ディーンは腕を組んで難しそうな顔で眉間にしわを寄せた。
「彼女の会社は、ダンジョンの秘密に挑戦している人達をサポートする目的で作られたらしいから、そういう事業を沢山やってるみたいだ」
彼はそのポーズのまま、呆れたような顔になった。
「はー。それビジネスになるのか?」
「ビジネスってより、ブランディングの一環じゃないか? でな、サイモンたちにお世話になったからアメリカに恩返しみたいなことも書いてあったぞ」
「なんだそれ。そういや、サイモンのチームって、今ヨヨギにいるんだっけ?」
「サイモンだけじゃないさ。世界中のトップチームはほぼ全員がヨヨギにいるらしいぞ。民間のサーモンや魔女もヨヨギだって噂だ。まったく、ダンジョンが出来て以来初めての出来事だろうぜ」
俺も行きたいよと、ポールが笑った。
「まあ、その程度の要求で、援助をしてくれるというのなら、それは助かるからお願いしたいところだが……そうなると、なんとか結果が欲しいな」
「そこは時の運だから、気楽にやれってさ。まずはダンジョンを楽しめと書いてあった」
「おー。分かってんな」
「ワイズマンだからな」
「しかし宿泊費がタダとなると、応募するやつが激増しそうな気もするが、個人情報の扱いは?」
計測はどうせ実験の一環だ。協力することに問題はないし、宿泊費の件も自腹でここまでやってくる連中にとってはありがたい話だろう。
しかし数値化されたステータスデータは、それなりに重要な個人情報になり得る。取扱いに注意するのは当然だろう。なにしろここは、訴訟大国なのだ。
「収集したデータと、特定個人は紐づけないそうだ。おそらく問題ないだろう」
「ああ、同一人物のデータだということがわかりさえすれば、それが誰かは問題にしないってことか」
「たぶんね」
「だけど、どうやって同一人物だと判断するんだ?」
「タグを送ってくれるそうだよ。そのタグを身につけてデバイスゲートをくぐってくれればいいってさ」
「そりゃいいや。名前の公開すら不要ってわけだ。そのタグの個数が、ホテル代を持ってくれる人数ってことか」
「そうだね。一応千ルームくらいなら問題ないから、是非参加してくれってさ」
「マジかよ!?」
「マンダリンのスイートに泊まったら自腹だって書いてあったぞ」
ポールが笑いながらそう言った。
「そりゃそうだろう……って、それ、スイートじゃなかったらOKってことか?」
「うーん、あそこはなぁ。最低でも八百ドルはするだろ?」
NYは物価が高い。ハイエンドなホテルは大抵が六百ドルが最低ラインだ。
安いホテルもあるにはあるが、サービスという点ではお察し下さいというところだ。
「……このことは伏せとこうぜ。ウォルドルフ・アストリアだのニューヨーク・パレスだのフォーシーズンズだのピエール・ア・タージだのの客室を千室も埋めたらアズサが激怒しそうだ」
高級ホテルの予約にチャレンジするのは、いざとなったら自腹で払うつもりがある勇者だけに許された特権ってことにしておこう。
「だな」
「よし、早速実験計画を決めて計測協力者を募集するか。さすがに交通費は無理だが、会場と宿泊料金はワイズマンが持ってくれるって宣伝してやろうぜ」
「大枠が決まったら、金を振り込むから、会場以外の見積もりを連絡してくれってさ」
「了解だ。あと一ヶ月ちょっとか。よし、面白くなってきたな!」
「まったくだ」
通話を終了して、ヘッドセットを外し、今しがたの興奮を冷ますかのように、窓に近づいて外を眺めた。
WeWorkあたりを借りてやろうと考えていたから、人数をどう絞るかと悩んでいたけれど、ジャビッツなら千人を越えてもまったく問題ない。
夕日が空と墓地をオレンジに染めていくのを眺めながら、どんな実験をやろうかと彼は真剣に考え始めた。
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2. YYG Dungeon level.32, Tokyo on Sunday, January 27th, 2019
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三十一層の階段を下りた先にあったのは、一本の巨大な、まるで生命そのものが腕を広げているかのように見える木だった。
階段は、その木のウロへと繋がっていたのだ。
『わお、なに? ここ』
ウロから出たナタリーが薄明るい辺りを見回して言った。
そこは短い下草に覆われた土地で、光る花のようなものが、そここに咲いていた。
『これは……オークか?』
サイモンがいま自分が出てきた木を見上げながら言った。
『しかもびっしりとヤドリギが絡まってやがる』
ジョシュアは、その枝のあちこちに、丸いぼんぼりのようなものがくっついているのを見て言った。
『こりゃ、森の王でも出てきそうな雰囲気だな』
『なんだそれ?』
『フレイザーでしょ。さしずめここは、ディアナ・ネモレンシスの聖所ってところかしら? ほら、ディアナの鏡もありそうよ』
ナタリーが指差す先には、水面のようなものが星と花の明かりにキラキラと輝いていた。
『なんにせよ、ちょっと空気が違う感じだな』
サイモンが辺りを見回しながらそう言った。
周囲には次々と各国の探索者が下りてきて、めいめいがあちこちを見回していた。
『こいつは実に、アレくさいね』
『アレ?』とジョシュアがサイモンに聞いた。
『リークスを見ただろ? マン島のダンジョンから出た奴さ』
『……セーフエリアか?』
そう言ったジョシュアに向かって、サイモンが人差し指を口に添えた。他の連中に聞こえるだろってサインだ。
それを聞いてナタリーが同意した。
『まさに、そんな感じ』
『で、もしここがそれだとするとだな』
『場所取り合戦ね』
『おいおい、ここは日本だぜ?』
『代々木はパブリックだから、早い者勝ちってところだろ。日本様々ってことだな。俺たちもダメ元で確保するぞ』
『了解』
サイモンチームは速やかに動き出した。
、、、、、、、、、
「アメリカのチームが行動を開始しましたね」
「どうやら連中も、そうだと感じたようだな」
海馬三曹の言葉に、鋼一曹が答えた。
ほかの国の連中も、それに追従し始めているように見えた。
「しかし縄張りの主張は難しいでしょう。まさかこの場で拠点を作り上げるような資材を持ってきているはずがない」
なにしろ、すっかり忘れられているが、自衛隊以外のチームは、チームIの救出に来たのだ。
その延長で、こんな場所が見つかるなんて、誰も想像していなかったはずだ。
「それでも未踏エリアだと主張できれば、いくばくかの権利は主張できるでしょ」
伊織はそれを肯定しながらも、彼らが将来主張するはずの意見を推察した。
「つまり?」
「連中より先に未踏エリアを減らすわよ。人数はうちが一番多いんだから」
「電柱に小便をひっかける犬ですか。なんともしょぼい仕事ですねぇ」
「国益を守るのは、俺たちの立派な業務だ。……ま、これも宮仕えの辛いところだな」
チームIは、嘆き節を吟じながらも、二人一組で未踏エリアを潰すべく行動を開始した。
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3. TV tabloid show in Japan on Monday, January 28th, 2019
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芳村と三好が、三十一層から転送されて戻ってきた翌日、朝のワイドショーはとある話題一色だった。
「スタジオには、昨日行われた第三十八回大阪国際女子マラソンで、驚異的な記録で優勝された高田瀬里奈さんをお招きしております。瀬里奈さん優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「瀬里奈さんは、まだ二十一歳の大学生です。しかし、信じられないようなタイムでしたね」
「大阪国際は、フラットで走りやすい、世界でも屈指の高速コースですけど、ちょっとできすぎでしたね」
瀬里奈は少しお茶目に、小さく舌を出して言った。
キャスターがそれに頷きながら、フリップを取り出した。
「それではテレビをご覧の皆さんに、現在の女子マラソンの記録をご紹介しましょう」
そうして、10位から順次簡単な説明付きで紹介されたあと、めくりが付けられた3位から上を順にキャスターが剥がして行った。
「そうして、2位! つまり昨日までの世界記録ですね。二時間十五分二十五秒! この記録は、それまでの2位を一分三十秒以上引き離し、高速化した現代のマラソン事情の中、なんと十五年間も破られていない大記録だったんです」
スタジオから、おお〜と感嘆の声が漏れる。
「そうして、1位はもちろん、昨日瀬里奈さんが作られた記録です。なんと、二時間十四分十八秒。いいですかみなさん、この大記録をなんと一分以上縮めたんですよ!」
「いやあ、驚きましたね」
瀬里奈がそう言うと、キャスターが、貴女が言うなと突っ込みを入れて笑いを誘っていた。
「いや、ホント、自分でも驚いているんです」
「それまでの瀬里奈さんの自己ベストは二時間二十二分三十一秒ですので、ほとんど八分以上短縮されています。失礼ながらドーピングなども随分疑われたようですが――」
「それは仕方ありません。けど、一気に記録を八分も縮める薬はないと思いますよ」
「あったら逆に凄いですよね。なお、もちろん瀬里奈さんはシロでしたよ」
スタジオに笑い声が巻き起こる。
「八分というと大したことないみたいに聞こえますが、四十二.一九五キロの道のりで四八〇秒ですからね、百メートル走る毎に一秒以上縮める必要があるんです」
再びスタジオが感嘆の声に包まれた。
「普通ありえません。一体何が原因だったんです? フォースが覚醒したとか?」
「そうかもしれません。もしも前日予定通りに大阪に入っていたとしたら、たぶん二三分台かせいぜい二十二分台だったと思います」
奇妙なことを言った瀬里奈に、一瞬キャスターが面食らった。
「え? どういう意味です? そう言えば瀬里奈さんは、第1次点呼を欠席されていて、大阪に入られたのが夜遅くだったとお聞きしました。皆さん随分心配されていたと伺っていますが」
「はい。どうしても外せない用事が東京であったんです。それで陸連にお伺いを立てていたのですが、認めていただけて幸いでした。認められなければ出場を諦めていたところです」
「それは、陸連も幸いでしたね。なにしろぶっちぎりの世界記録ですから」
キャスターがおどけて言うと、再びスタジオに笑い声が起こった。
「しかし、国際大会と天秤に掛けるような重要な用件って、気になりますね」
ちらりとステージの袖を見ると、ADが「突っ込め」と書かれたフリップを掲げていた。
「前日、不破正人さんと歩いていたという情報もあるようですが、まさか彼氏とデートとか!?」
不破正人は、高田瀬里奈と同じ大学に所属する、二十歳《はたち》の新鋭長距離ランナーだ。
「ははは、まさかそんな理由で大会を棒に振ったりしませんよ。第一彼氏じゃありません。不破君とは、たまたま用事が同じだっただけで――」
「え? 不破さんと一緒にいらっしゃったのは本当なんですか?」
「ええ。同じ用事で東京にいたんです」
「ええ? それってどんな――」
「それは、今週末に開催される、別府大分毎日マラソン大会での彼の活躍を待ってからにしましょう」
別府大分毎日マラソン大会は、「新人の登竜門」と称されることも多いレースで、大阪国際と同様、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ。東京オリンピックの選考会)への出場資格を得ることの出来るレースだ。
キャスターもそう躱されては、突っ込みようがなかった。
「では、週末を楽しみにしておきます。いいですかみなさん、別府大分毎日マラソンの不破正人、注目です!」
キャスターは仕切り直すと、次の話題へと水を向けた。
「とにかくこれで、東京オリンピック選考会の、グランドチャンピオンシップへの出場権を手に入れたわけです。同時期にはドーハもありますが……」
「昨日の今日ですので、その辺りはゆっくりと考えたいと思います」
「そうですか。本日はどうもありがとうございました」
「こちらこそ、また応援よろしくお願いします」
彼女が言ったどうしても外せない用事が、二十六日に代々木開催されたブートキャンプであることが世に知られるのは、この後二月三日に行われた別府大分毎日マラソンで、件の不破正人が二時間〇分四十三秒の驚異的な世界記録でゴールした後のことになる。
127 課長への報告 1月30日 (水曜日)
鳴瀬美晴は、眠りの浅い夜を過ごして、早めの時間に出勤していた。
「あの人たち、絶対私を過労死させようとしているわね」
美晴は、小さなあくびをして市ヶ谷の改札をくぐりながら、そうつぶやいた。
昨夜家に帰ってから、一人で見ろと言われたデータを開くと、そこには三十一層の死闘?が記録されていた。
美晴のノートの画面の中では、世界の名だたる探索者たちが呆然と見守る中、全然違うゲームをしているように見えるマントの男が、一人で無双していた。
「これが芳村さん?」
思わずこみ上げてくる笑いをこらえながら、美晴はひとり、その映画のような映像を楽しんだ。
最後に格好良く決めて消えたところで、あまりの演出に思わず爆笑してしまい、お隣の住人から壁ドンを貰いそうなありさまだった。幸いそうはならなかったが。
映像を見終わった後、少しもったいないなと考えながらも、言われたとおりにデータを消去しながら、最後に貰った封筒を開いた。
そこには、これまた頭を抱えたくなるような案件が入っていた。
美晴はそれを見なかったことにして封筒に戻すと、マイニングに関する上申書と、斎賀向けのスペシャルレポートを書き始めた。
なにしろ今晩聞かされたダンジョンの目的の件や、信じられないようなホイポイカプセルの情報なんて、どう考えても自分の手には余る。いや、余りまくる。
こういうものは悩んでないで、さっさと上にあげるに限ると考えた美晴は、自分の主観を一切交えずに事実だけをレポートにして印刷を始めた。
これは紙案件だと考えたのだ。
「あ、美晴。どうしたの今日、早いじゃん」
どうやって斎賀課長に説明しようかと考えながら、日本ダンジョン協会入り口の自動ドアをくぐろうとしたとき、ダンジョン管理課の同僚が声を掛けてきた。
「いろいろと案件が溜まっちゃってて」
「あー、そういや昨日、お騒がせパーティが戻ってきたんだっけ? 専任管理監殿も大変ね」
美晴は乾いた笑いでそれに答えた。
Dパワーズは、美晴が専任管理監に任命されたことで一躍他の課でも有名になった。しかも管理官が課長補佐待遇で自由裁量勤務ときては、人事に敏感な人達の注目を集めても仕方がなかった。
「そう言うあんたは、なんでこんなに早いの?」
「それがさぁ、セーフエリアが見つかったじゃない? ほとんどはその権利問題の調整ね」
「え? そんなの法務の仕事でしょう?」
「違う違う。そこへ行く前の区割りとかよ」
「それこそ、すぐに終わったんじゃ? チームIの救援に来てた国がらみのチームの拠点問題も調整は終わってたでしょ?」
発見された直後に協賛企業数プラスαで分割する区割り計画は、うちうちとはいえ、迅速に策定されていたはずだ。
幸い拠点を作るような装備を持ち合わせていなかった各チームは、有りあわせのもので未踏エリアの拠点を主張したが、一部を除いて無理がある作りだったため区画の優先利用権で話が付いていた。
もっともチーム丸ごとで来ていたダンジョン攻略局だけは、ちゃっかりと広めの拠点を確保していたのだが。
「それがさ、営一《えいいち》がやらかしたんだわ」
「営業一課が? なにを?」
セーフエリアの発見は、瞬く間に関係者の間に知れ渡った。
その結果、ダンジョン開発協賛企業としての申し込みが殺到したらしい。
「そんなの。区割り数は決まってるんだから、制限すれば……って、もしかして全部引き受けちゃったわけ?!」
「そっ。そりゃ向こうの成績は上がるんだろうけどね」
「面積は決まってるんだから、全部に割り振れるわけないでしょう?」
「営業としては、そんなことはこっちの仕事らしいよ? おかげでうちの課、死屍累々よ」
なんといっても、毎日協賛企業が増えていくのだそうだ。
計画を立てても立てても、後から大口だからと言う理由で営業からスペースを要求される始末だ。そんな計画終わるはずがない。
大手企業は意思決定が遅い傾向が強い。つまり後から協賛企業として参入する会社が大口である可能性は割と高かった。しかもどうやら大口を得るために担当が安請け合いをしているようだった。
「第一、協賛企業であることと、区画が割り振られることの間に関係はないでしょう?」
「本来ならね」
すべての協賛企業はあくまでもダンジョン開発を協賛しているだけで、それがイコールセーフエリアの区画を貰える企業となるはずがない。
セーフエリアの区画を借りられる要件に協賛企業である必要があるという項目はないのだ。もちろんある程度の優遇はあるかもしれないが、それは、かもしれないという程度の話だ。
「それにしたって、結局どっかで打ち切るしかないんじゃないの?」
「だから、それをうちでやれって言ってるのよ、向こうは」
営業としては、割り振られるはずがないと分かっていながら、入手できますよと安請け合いをした。だから割り振られなかった場合、管理課がそれを拒否したから仕方がないと言うことにしたいらしかった。
とにかく今期の成績を上げれば何でも良いと考えているふしまであるそうだ。
「さすがにそれは……」
「課長のとこ行くんでしょ? ちょっとご注進申し上げといてよ」
「一応言ってはみるけど」
「よろしくね! じゃ、また」
同僚が忙しそうに去っていく姿を目で追いながら、美晴は微かに苦笑した。
「課内でも、お騒がせパーティなんて言われているのね」
全くその通りだと思いながら、彼女は、ダンジョン管理課の部屋の隅にある、一部透明なパーティションで区切られた場所を目指した。
斎賀はすでに出勤していて、そこで何かの資料を見ていた。
「おはようございます」
「おはよう。どうしたんだ、こんなに早く?」
ちらりと美晴を見た斎賀は、すぐに手元の書類に目を移して、忙しそうにそれを繰《く》っていた。
「色々報告が。って、課長もいらっしゃるじゃないですか」
「朝一から面倒な会議があるんだよ。その準備」
「大学入試センターの件ですか?」
それを聞いて斎賀は、書類をめくる手を止めて、美晴の方を見た。
「どうして?」
「どうしてじゃありませんよ、課長。ステータス計測デバイスの件、どこかに漏らしたでしょう」
「なんの話だ?」
美晴は、Dパワーズに大学関係者からの問い合わせが殺到していることを説明した。
「あいつら、結論が出るまで行動は慎めって釘を刺しておいたのに……」
「情報が流れてしまえば、この短期間に発売前のデバイスが揃うわけがないと誰でも想像できますからね。担当者の気持ちとしては、先に問い合わせて少しでもそれを得られる確率を上げたいって所でしょうけど」
「ほぼ全員がそう考えたとすれば、総メール数は大した数になっただろうな」
「書く方の労力は1通分でしょうが、読む方はそれの千倍以上だったそうです。三好さん怒ってましたよ。あ、あと守秘義務違反が疑われるって」
美晴はちょっと盛った。
なにしろ昨日から色々ありすぎて、少し気持ちがささくれ立っていたのだ。よーするに不幸になる仲間が欲しかった。人間というのはさもしい生き物なのだ。
「げっ。まて、漏らしたのは俺じゃないぞ。関係各所に問題解決に関するレポートを配布しただけで――」
「日本ダンジョン協会から漏れたんなら同《おんな》じことじゃないですか」
斎賀は焦った。
社会は信用で成り立っているのだ。日本ダンジョン協会が会員の情報を、余所に流していたなんて話になるのは、はなはだ困る。
更に言うなら、Dパワーズにヘソを曲げられるのは、もっと困る。
「うーん……どこのバカがやらかしたのかは、あとで調査するとして、なにか懐柔策とか条件とか、ないか?」
「無いこともありませんが」
にっこりと笑った美晴は、手元のタブレットに目をやって、昨日の拠点について報告した。
「二十一層の未踏エリアに拠点を作ったから、認めて欲しい?」
「はい、それと三十一層への拠点作成の申請も出てます」
「三十一層? 三十二層じゃなくてか?」
「三十一層です」
「相変わらず、あいつらの考えてることはわからんなぁ……」
斎賀は椅子の背もたれに体重をかけると、頭の後ろで両手を組んだ。
正規の拠点申請手続きは、まだ発表もされていない。なにしろやっと法務がダンジョン内の賃貸借契約についてまとめたばかりなのだ。
セーフエリアの発見にかろうじて間に合って、胸をなで下ろしていたところだった。
「まず、二十一層の未踏エリアの拠点についてですが――」
「以前も話題になったが、それは規制のしようがないだろう。探索中に苦労して確保した拠点を、後になって高額の賃借料が課されたために撤去しなければならなくなるなんてことが起こったら、誰も深層に向かわなくなるぞ」
「いまのところ、無償で許可される範囲が曖昧です」
「代々木の探索された領域は、ほぼリアルタイムに公開されている。常識的に考えて、公開領域がその範囲だな。ただし立ち入り禁止エリアは除く」
踏破された領域は、あらかじめ計画を立てることが出来るし、料金を明示しておけば問題にならないだろう。立ち入り禁止エリアには、そもそも立ち入れないから問題ない。
「未踏のセーフエリアはどうしますか?」
「発見者には許可したいところだが……」
今回のセーフエリアは、各国の連中が一度に下りて発見した。
これを自衛隊の発見と見なすのは、やや苦しいが、かといって広大というわけでもないエリアを発見者全員に割り振ると、協賛企業群のスペースがなくなる。
「今回は特殊な状況だったこともあって、各チームの所属機関とはすでに調整がついている。今後は、場所の選択等で優遇はするにしても、セーフエリアは別枠で考えるしかないだろうな」
「その線で日本ダンジョン協会としてルール化して下さい」
「わかった。ってか、お前、俺の上司みたいだぞ」
「止めて下さいよ」
苦笑いしながら、斎賀は、今の件をメモに残した。
そこに書かれたTODOリストは、かなりの長さになっていた。決めるべきことは溜まっていく一方だ。
「協賛企業と言えば、営業一課の件、何処かで歯止めを掛けないと拙いんじゃありませんか?」
「あれなぁ……」
斎賀はため息をつきながらファイルを保存した。
「別に協賛企業には必ず割り振らなければならないなんてルールはないんだ」
なにしろ協賛企業の受付は、セーフエリアの存在が知られる前から行われているのだ。そんなルールがあるはずがない。
「営業は、協賛企業になればスペースが貰えるみたいなことを仄めかしているらしい……それ自体は苦情を入れておいたが、今のところ他に出来ることはないな」
向こうのスタンスとしては、うちはうちの仕事をしてるんだから、そちらはそちらの仕事をしてくれと言うことらしい。ものは言いようだ。
「いっそのこと区割りだけして、割り振りは入札で行っては?」
「それもいいかもな。なら、うちの作業は純粋に区割りだけですむわけだ。まあ、インフラをどうするかって話はあるが……」
「割り振りについての希望や問い合わせを、営業がこちらに丸投げしてるみたいですから、早々に方針を決めてやらないとスタッフが死んじゃいますよ?」
「わかってる」
「それと今朝上申書をお送りしておいたのでご確認下さい」
「上申書?」
また面倒じゃないだろうなと言う顔で、連絡用のフォルダを開くと、新規のマークがついたファイルを開いた。
タイトルは――
「マイニングの使用制限について?」
そこには昨夜Dパワーズから聞いた、マイニングが各層の鉱物を決定するためのメカニズムについての仮説が書かれていた。
「おい、これ……ドロップする鉱物を選択できるって、なにかの冗談か?」
「一応最後に、Dパワーズさんが試した実例を記載してあります」
斎賀は急いでそちらに目を通した。
「二十一層が宝石の原石、二十二層がプラチナ、二十三層が銀、二十四層がパラジウム、か。さすがはGIJのマニアック、偏ってるにも程があるな。しかし、この宝石の原石ってなんだ?」
「それが、鉱石ドロップの新しい可能性だそうです」
そう言って美晴は、昨日芳村から聞いた、『あらゆる原石を思い浮かべたあげく決められなかったから、宝石の原石という括りでドロップが確定した』という思わずハテナを浮かべそうな話をした。
ただの推測だったため、レポートには記載していなかったのだ。
「なんだそれ?」
「レポートにも書きましたが、要はダンジョンに何をドロップしたいのかを伝えること――イメージが重要だそうです」
「いや、ダンジョンに伝えるって言われてもな」
まるでダンジョンそのものに意思があるようなことを聞かされて、斎賀は面食らった。
「その件は、後で渡す書類を参考にしてください」
あのデミウルゴスが奉仕したがっているというアレだ。今すぐここで開陳しても意味不明なだけだろう。
「とにかく、Dパワーズによると、適当な人員に適当にドロップさせると、全フロアで鉄がドロップするようになる可能性が高いそうです」
「それは、確かに問題だが……しかし、どうする?」
「その是非がどうであれ、起こってしまえば取り返しがつきませんから、当面、許可のないマイニング所有者の未確定層への侵入を禁止するしかありませんね」
「まあ、今のところマイニング所有者は限られているだろうから、それは可能だと思うが……」
「もし、他の国のダンジョンも、地球の資源と考えられるのでしたら、世界ダンジョン協会へ報告された方が良いとは思いますが……」
「信じるかな?」
「通知だけしておけば、最初の2つの層あたりで鉄ばかりドロップした時点で、信じざるを得なくなると思いますよ」
斎賀は少し考えていたが、すぐに決断した。
「よし、こっちは日本ダンジョン協会の研究成果みたいな振りをして、世界ダンジョン協会へ報告だけはしておこう。流石に一パーティの推測というのは相手にされないだろうからな。それでいいか?」
「一応聞いてはみますけど、たぶん全然問題ないと思います。あの人たち自由と名誉なら圧倒的に前者って感じですから」
斎賀は、さらにTODOリストに1行を書き加えた。
「ところで課長。Dカード取得者識別デバイスの件には、もう一つ大きな問題があるんです」
「なんだ?」
まだ何かあるのかよと顔を上げた斎賀に向かって、美晴はさりげなく爆弾を投下した。
「Dパワーズは、この技術に対するダンジョン特許を、まだ申請していません」
「なん……だと? なぜだ?」
「さあ。そこは分かりませんが、機器を発表するスケジュールはずっと先だったからじゃないですか?」
これはつまり知的所有権を得る前に、実際に動作する製品が世間に出まわると言うことだ。しかも、緊急に組み立てたプロトタイプ状態で。
そのことは、製品に特殊なチップなど何も使われておらず、現在購入できる部品のみで組み立てられていることを意味していた。
さらに悪いことに、それは世界的なヒットが間違いのない商品だ。
なにしろ、ダンジョンは世界中にある。そして試験を必要とする組織は、世界中に数え切れないくらいあるのだ。
「まいったな……日本ダンジョン協会が無理強いして発表前の技術を提供させ、何処かの誰かがそれを手に入れて、模倣して製品を発表したり、特許を申請したりする?」
結果として日本ダンジョン協会は産業スパイに荷担したあげく、情報を提供させた企業に大損害を与えるって事だ。それはまさに悪夢だった。
金や女で、担当者から機器を買い取ったり、ちょっと拝借して解析したりするくらいのことは平気でやってのける連中が、世の中にはうようよしているのだ。
かといって、全大学の関係者に見張りをつけることは、物理的に不可能だ。
「あー……もう大学には一年だけ煮え湯を飲んでもらうか? それがベストな気がしてきたぞ」
各大学の試験関係者が聞いたら頭を抱えそうなことを呟きながら、斎賀も頭を抱えていた。
なにしろ、月曜に配布したレポートの内容が、翌日には日本中の大学関係者に回っているのだ。この機器の情報が漏れないなどと、どの口で言えるのか?
「三好さんによると、現在、大学の数は八百校くらいあるそうですが、今年の入試を全てフォローするのは難しいそうです。そもそも各校に1台くらいじゃどうしようもないでしょうし」
「そうだな」
「ですから、この問題をなるべく広くカバーするには、用意できる台数が日別に明らかになった時点で、入試日を確認して貸与スケジュールを作成し、使い回すのが最善だろうとのことです」
「なるほど。販売じゃなくてサービスの提供か」
「もっとも人員の提供は日本ダンジョン協会がやるしかないと思いますけど……」
斎賀は苦笑した。
何しろ急な話だ。サービスの提供までDパワーズに振ったりしたら、じゃあ無理だからやめときますと言われることは確実だ。
なにしろ、競合企業があるわけでなし、彼女たちに、機器の秘密が漏れる危険を冒してまで、急いでこの事業を行うメリットはないのだ。
「そいつは頭の痛い問題だな」
ばらけているのならともかく、国立に到っては、全大学がほぼ同じ日――今年なら二十五日だろう――に試験が行われるのだ。
「三好さんの弁を借りれば、不正をしても入りたいと思うような大学に絞って対応することにしても構いませんよ、とのことです」
もしその恣意的な選択を日本ダンジョン協会がやれば、面倒なことになりかねないが、私企業が行うなら単なる商業的な契約に過ぎない。
Dパワーズが多少理不尽な恨みを買うかもしれないが、全部に行き渡らないものを対象を絞って提供することなど、当たり前の商行為だ。
「じゃあ、うちはDパワーズに対する協力って線で行くわけか。それは助かるが……旧帝大ってことか?」
「国公立なら、東工大や横国大、筑波や神大、あとは各大学の医学部なんかでしょうけど……その辺はこっちで選べということでしょう」
「ふーむ」
確かに妥当なところだが、それをどう会議で全体に納得させるのかは別の問題だ。各部署にはそれぞれの思惑や付き合いがあるだろう。
「よし、大学入試センターに連絡して、全大学の入試日程を手に入れておいてくれ」
「課長。私は課長の秘書じゃありませんよ?」
「なあに、補佐だろ? 大した違いはないさ」
良い笑顔でそれを言う斎賀に、美晴は肩をすくめたが、お返しだとばかりに、昨日帰り際に預かった封筒を渡した。
「わかりました。代わりと言っては何ですけど、その件とは別に、これを預かっています」
「なんだ?」
その封筒を受け取った斎賀は、とりだした書類の表紙に書かれた文字を見て固まった。
「ダンジョン関連研究を支援するための基金の設立について?」
それは大雑把に言えば、そういう基金を設立するけど、日本ダンジョン協会はどうしますか? という資料だった。
「もう、あいつらが日本ダンジョン協会を名乗った方が良いんじゃないか?」
基金の原資となる金額を見て、斎賀は苦笑しながらそう言った。
もちろん日本ダンジョン協会にも、そういった研究を支援する仕組みは一応ある。だが、なにしろ予算は限られている上に、新しい研究をしたがる機関は多い。満足な補助金が提供できるはずもなかった。
それは、単に、そういう部署をつくっただけと揶揄されても仕方がないレベルだった。
「こりゃ、振興の連中が黙ってないよなぁ」
「規模が何十倍もありますからね。下手に首をっこんで、監督省庁よろしく、イニシアチブを取りに行ったりすると面倒が起きますよ」
基金の設立に日本ダンジョン協会の許可は必要ない。
つまりこれは、Dパワーズが筋を通してきただけで、言ってみれば日本ダンジョン協会に対する温情みたいなものだ。
巨大なダンジョン関連基金が立ち上がったとき、それに日本ダンジョン協会がまったく関わっていないとなると、面目がつぶれかねないってわけだ。
ダンジョン管理課は、彼女たちの異常さを身をもって知っているから、絶対に侮ったりはしないが、他の課は接点が少ないこともあって、よく分かっていない可能性が高かった。
ちょっと運が良かった、ぽっと出のパーティくらいの認識でいる部署があってもおかしくない。なにしろ、「お騒がせパーティ」くらいの認識なのだ。
「会議の直前に、こういう爆弾を投げ込んでくるなよ」
「えーっと、それはせいぜい火炎瓶と言ったところです。本格的な爆弾と言えば、もう一つあるんですが」
「お前な……」
「こっちはちょっと……どころじゃないな。もうとんでもない話なので、会議の後に覚悟してご覧下さい」
そう言って、斎賀は紙のレポートを渡された。
「紙? 基金の報告は、Dパワーズから貰ったものだろうからわかるが、成瀬の資料ならデータで貰った方が――」
そう言いかけて、斎賀は口を閉じて、彼女を見た。
今どき、この手のレポートは、電子情報にして添付するなりなんなりするのが普通だ。わざわざ紙に出力したと言うことは、そうする理由があるってことだろう。
「まあ。あんまりファイルにしたくないってところです」
ファイルにすれば、どこかから侵入されて持って行かれるかも知れないしコピーも容易だ。
ところが紙ならそうはいかない。便利になった現代ではなおさらだ。
「わかった。心して読ませてもらう」
そう言って、斎賀はレポートを机の引き出しに突っ込んで鍵を掛けた。
「課長……」
「なんだ?」
「ショック死しないで下さいね」
「そんな内容なのかよ?!」
あのレポートには、極秘扱いで、ダンジョンの目的とホイポイカプセル、それに二十一層の拠点の写真が添付してあった。
それを課長がどうするかは分からない。だけどこれで美晴は責任から解放されたのだ。
「芳村さん方式も悪くないですね」
そう呟いた美晴は、昨日見た彼の勇姿を思い出してくすりと笑った。
そうして彼女は、大学入試センターへの問い合わせと、日曜日の三好の退出時間&三十一層での目撃された時間を調べるために、自分の机へと向かった。
128 緊急生産計画 1月30日 (水曜日)
その日の朝早く家を出た俺たちは、始業時間と同時に鳴瀬秘密研究所へと突撃した。
「先輩。一応ここには、TOKIWA Medical Equipment Laboratory という名前があるんですから」
株式会社常磐医療機器研究所。略して常磐ラボらしい。
もう何度も来てるのに、何で知らないんですかと言いながら、三好がロビーのドアを開けた。
「だって看板もないし、俺はずっと、鳴瀬秘密研究所だと思ってたよ」
「販売店でもないのに看板なんか掲げるわけないだろ。カネの無駄だ。それに、ちゃんと門に小さく表札が出てるだろ」
腰に手を当てたみどりさんが、俺たちを迎えながらそう言った。
「社名を考えるとき、どいつもこいつも、放っとくとすぐに鳴瀬医療機器なんちゃらだの、みどりラボだの、人の名前を付けようとしやがってな」
「なんで常磐なんです?」
「前にここにあった工場が、常磐精機だったからだ」
件の実家の工場ってやつか。
母方の祖父が操業したらしいが、跡継ぎがいなくて孫のみどりにくれたんだとか。
「それで、名前がみどりだったんですね」
「どういう意味です?」と三好が不思議そうな顔をした。
「常磐色ってのは、緑色のことなのさ。常緑樹の緑な」
姉の名前は、おそらく父方の意向が働いたのだろう。それで次女は母方の意向で付けられたに違いない。常磐だからみどり。ありそうな話だ。
それで、母方の祖父に可愛がられていたのかも知れないな。
「へー」
「ま、そう言うわけで、それに医療機器研究所をくっつけたわけだ」
そんな話はさておき、とみどりさんが本題を切り出してきた。
「それで――お前ら、一体何を考えてるんだ?」
俺たちは、朝一でみどりさんの研究所に昨日送ったメールの説明をしにやってきていた。Dカード取得者を識別するためのデバイスの件だ。
何しろ工場をリフォームして二月の終わりから生産と決まっていたところに、いきなり新しいデバイスの話が出たのだ、何を考えているんだと言われても仕方がない。
「いやー、渡世の義理って言いますか」
「渡世の義理ってな……何時代に生きてるんだ、お前ら」
「だけど、この回路はいいですね、すごくシンプルで。しかもステータス計測デバイスと違って、滅茶苦茶売れそうですよ、所長」
回路図を見ながら中島さんか面白そうに行った。特に売れそうなところが気に入ったようだ。
何しろ世界中の試験を行う場所が潜在顧客なのだ。需要は考えられないほど大きい。
「はぁ……それはいいけどな。ガワはどーすんだよ、ガワは。最短だと1週間くらいしかないんだろ? 金型の発注なんかした日には一ヶ月でも間に合わんぞ」
「3Dプリンタでの出力もありですけど、やっぱり速度はぱっとしません。FDM(材料押出堆積法)で速度を上げたら確実にガタガタになりますね」
中島さんが腕を組んでそう言った。
俺は気楽な顔で、昨日考えていたことを伝えた。
「いや、ガワは、百円ショップのPPパックでいこうと思うんですよね」
PPパックは、白い半透明の箱状の入れもので、ポリプロピレン製の入れものに、柔らかく使いやすいポリエチレンのフタをくっつけた、よく見かける入れものだ。
「はぁ? ポリプロピレンの? あの食品とかを入れるやつか?」
「そうです」
「ははっ、そういや中学生の頃やりましたね、電子工作で外側紙箱とかPPパックとか!」と中島さんが面白そうに言った。
あ、やっぱりやったんだ。実は俺もやった。最初に作った電子工作のガワは、ビスケットの缶箱だったっけ。
「半田ごてを初めて買って貰ったとき、ゲルマニウムラジオとか作った口ですか?」
「この時代、クリスタルイヤホンがなかなか手に入らなくて」
そうだそうだ、あと、アースがちゃんと繋がってなくて、音が出なかったりな。懐かしいぜ。
「いや、先輩。おっさんの電子工作昔話はその辺で」
「なんだよー。お前やらなかったの?」
「しませんよ、そんなこと。女子力ががた減りしちゃうじゃないですか」
「ええー?」
お前に女子力なんてあるのかよ、なんて思っても、決して言ってはいけない。宇宙にはそういう領域があるのだ。
そんな話をしている俺たちに向かって、みどりさんが真面目な顔で突っ込んだ。
「いや、ちょっとまて、PPパックの外装って……お前らこれをいくらで売るつもりなんだ?」
「えーっと。原価は?」
「そうですねぇ……通信部分もいりませんし、判定部分は赤と緑のダイオードで済みますし。電源のダイオードとボタン。後は実行のボタンですよね。センサーはD132だけですから……あれ? D132?」
中島が怪訝な顔をして、眉をひそめた。
「ねえ、三好さん。この図面なんですが、なんでセンサーがD132なんです? 資料を見る限り、SCD28の方がこれに向いてるんじゃ……安いし」
「流石中島さん。その通りなんです」
「じゃあ、修正を?」
「いえ、D132で作成して欲しいんです」
三好が意味深に笑ってそう言った。
「ええ? コスト的にも性能的にもSCD28の方が向いてますよ? あれれ? しかもここのフィルタって意味ないんじゃ……」
「そうなんです。ソフトウェアの中身を知ってれば当然そうなりますよね」
「ええ??」
中島さんは、混乱するように、訳が分からないといった体《てい》で、三好を見た。
「ねえ、中島さん。これってまだ発表前の製品なんですよ。しかも特許も出願していません」
「そうですね」
中島さんは、そんなの特許を取ればいいだけじゃんと言いたそうにして、訝しんでいた。
三好は、俺の方を向くと、真顔で切り出した。
「先輩。そもそも、この依頼って最初からちょっとおかしいんですよ」
「おかしい?」
「考えても見て下さい。Dカードの取得の有無を調べる方法がどこにもないとしたら、普通は、『残念ながら不可能です』で、済んじゃう話じゃないですか」
「ふむ」
どんなに困っていたとしても、方法がないのなら仕方がない。あきらめるしかないのだ。
そもそも、この問題で入試を行う側が不利益を被ることはほとんどない。不正を行ったものが笑うだけで、不利益をこうむるのは、まじめに受験したボーダーライン付近の学生だけだ。
「試験を行う側に大きな不利益がないのに、どうしてこんなに必死になるんだと思います?」
「そりゃ、手段があるなら公平を期すのが仕事だから……か?」
「そうですね。でも、仮にステータス計測デバイスでそれが判断できるのだとしても、発売スケジュールは今年の受験に間に合いません。つまり本来ならその手段はないってことです」
「そうだな」
「なのに、突然入試関連の部署から問い合わせが千通も届くんですよ? なにかの圧力や誘導があったとしか思えません」
三好は、左手を右ひじにあてて腕を組むと、右手の人さし指を立てた。
「まるで、急いでデバイスを作らせてばらまくこと自体が目的みたいに見えませんか?」
俺たちが、ステータス計測デバイスを開発したことは記者会見で知られている。
しかし、具体的な技術については一切外へ出していない。何しろその詳細を知っているのは三好と中島さんの二人だけで、俺やみどりさんすら概要を知っているに過ぎない。
それに関する特許すら、今のところは申請していないのだ。
「この技術が知りたい、どこかの誰かの横やりってことか?」
「かもしれません」
そこで三好は名探偵よろしく、俺と中島さんを交互に見比べて言った。
「というわけで、この製品の情報って、絶対外部に漏れると思いませんか?」
「仮にそうなっても、日本ダンジョン協会がその責を負うんじゃないですか?」と中島さんが言った。
それを聞いた三好は静かに首を横に振った。
「それを追求する法的根拠がありません」
偶然うちも同じものを開発しちゃいました、あははーと言われたら、それを覆すだけの法的な根拠がなにもないってことになるのだ。
もしも日本ダンジョン協会側の不備で漏れたってことが立証されたら、日本ダンジョン協会だって巨額の負債を抱えることになる。組織防衛を専門にする連中なら、それが分かっていてまともな調査を行うはずがない。組織というのはそういうものだ。腹を立てるだけ無駄なのだ。
「いや、普通そういう調査って、第三者委員会とか……」
「そういうのがまともに機能していそうな会見とか見たことないですよ?」
まあ、そう言われれば確かにその通りか。
再発防止のための第三者委員会なんていいながら、自社と付き合いの深い弁護士事務所の人間だったりするのは普通だもんな。
「そういうわけなので、今回の製品はD132で作成して下さい。ソフトウェアの動作を勘違いしまくりそうなフィルタてんこ盛りで。より高価で、この用途にはあまり向かず、センサーの知的財産権を老舗でちょっと落ち目の大手一社だけが保有していて、まだその期間が長く残っているところが理想的なんです」
ついでにステータス計測デバイスの製品からは取り除かれたセンサーであることも重要らしい。
その意図に気がついたように見える中島が、暗い笑顔で、「三好さんって、策謀家だったんですね……」と言った。
「みどりさん、こいつらに任せといて大丈夫なんですか?」
「おまえ、あれを御せるならやって見ろ。うちで管理職で雇ってやるから」
俺は悪い笑みを浮かべながら頷きあっている、三好と中島さんをちらりと見て、首を横に振った。
「ムリ」
「だろ?」
結局この工作を仕掛けてきた誰かに、しっぺ返しをしてやるためにD132とやらを使おうってことか。
「――というわけで、PPパックなら、原価は五千円ってところですね。あとは組み立て工賃がどうかってところです」
「じゃ、売価は十万円ですね」
それを聞いて俺とみどりさんは吹き出した。
「十万?! 原価率五%かよ!」
「いや、お前ら、PPパックの外装に発光ダイオード三個とスイッチ二個付けて十万とか、いいのかそれ?」
「百四十万のCDプレイヤーの基盤が二万円のCDプレイヤーと同じだったなんて話もあったじゃないですか。重要なのはそこじゃないんですよ」
三好がしたり顔でそう言った。
あれは単にデジタル部の処理が同じだっただけだろと突っ込みを入れそうになったが、まあ重要なのはそこではない。
「先輩。この場合、費用の大部分は超特急の時間にかかってるんですよ? ほら、みどり先輩のところの仕事だって、下手したら一ヶ月間、中島さんが使えなくなっちゃうってことなんですから」
「え? ぼく、いなくなるんですか? これで?」
「一個二万のバックマージンでどうです」
「任せてください!」
「お前らな……」
中島さんは、設計図を見直しながら言った。
「部品にそれほどマイナーなものはないので、発注に問題はありませんけど、これ、何台くらい作ります?」
「それより、何台くらい作れますかね?」
「小ロットから基盤を作ってくれる会社へ発注することもできますけど……」
「それはちょっと露骨すぎますね」
まるで秘密を盗んでほしいと言わんばかりの行為だから、敏感な連中だとちょっと警戒されそうだということだろう。
「なら自作ですか。ブレッドボードを使えば半田付けも要らないんですけど、振動による抜けが心配だし、慣れれば半田付けのほうが早いですから、主要回路はぼくが作るとして……最初は、一時間で十枚ってところでしょうか」
「え? そんなに?」
「最終的な組み立てと、機器のテストは他の人がやってくれることが前提ですけど、頑張れば一日二百万……じゃない、百個くらいは行けるんじゃないですかね」
それを聞いたみどりさんが、イイ笑顔で言った。
「中島君。そのお金は会社の収入だからね?」
「いっ……も、もちろんですよ、所長!」
その様子を見てみどりさんはため息をつきながら、「まあ、臨時ボーナスは期待しとけ」と続けた。
それを見た三好が、デレた! と言って殴られていた。
「組み立てはバイトでもいいですが。まともな人が来るかどうかはわかりませんね。後、昨今は募集サイトの情報からいろんな事がバレるんですよ」
「いざとなったら、私たちでやってもいいですしね、先輩」
「え? 俺も?」
「ですよ?」
「そうだ! 小麦さんは無理だろうけど、三代さんとキャシーなら手伝えるだろ! 早速頼んでみよう!」
「それって技術者として雇っておいて、焼きそばとかたこ焼きを焼かせるどっかの企業みたいですよ」
「ぬう」
言い訳を考えるのが忙しい俺を尻目に、三好は中島さんに生産計画を指示していた。
「それじゃ、明日から一日百個生産ってことで、当面千二百個分の部品を発注して下さい。早める分にはいくらでも構いませんから」
「了解です」
彼はそういうと、さっそく部品メーカーへの発注を始めた。
EASYの部品はモジュール化されているから流用できないし、そもそも当該センサーは省かれている。明日の分は、後で秋月あたりに取りに行くつもりらしかった。
三好は、生産目安と想定価格を鳴瀬さんに送っている。
日本ダンジョン協会が何個発注するのかは分からないが、最低千台くらいはないと、大学を絞っても国立の二次試験は乗り切れないだろう。
「それでみどり先輩」
「なんだ? まだに何かあるのか?」
「事実上、中島さんを一ヶ月くらい借りちゃうわけですけど、大丈夫ですか?」
「まあ、四月の展示会まで特に重要なハードの変更はないからな。だから新しいバージョンの設計とか始めちゃうわけなんだよ」
彼女は、お前らの百億のせいで、と目をぐるぐる回しながら肩をすくめた。
「なら、二月の終わりか三月に、以前中島さんに改造して貰った例のリファレンス機が仕込んであるゲートを持って、NYに行って貰いたいんですけど」
「なんだと?」
「先輩も行きますか? 旅費は持ちますよ」
三好がニヤニヤしながらそう言った。
みどりさんは、そのほっぺたをムニーっとしてやりたくなる三好の笑顔をスルーして、聞いた。
「一体何をしに?」
「向こうでパーティ関連のコマンドを調べたりする、大規模なオフ会というか、イベントがあるんですよ」
「それで?」
「そんなイベントでもなきゃ滅多に出来ない状況での計測をやりたいなぁと思いまして、会場やホテルをどーんと寄付しておいたわけです」
「データ収集か?」
「です」
みどりさんはそれを聞いて、少し考え込んでいたが、突然、とても良い笑顔を浮かべた。
「そうだな、ここのところ忙しかったし、社員旅行もいいな」
「はい?」
「社・員・旅・行、もいいな。一週間くらい」
「みどり先輩、そういう性格でしたっけ?」
「中島と私ばっかり、面白そうな案件に首を突っ込んでたら、他の連中の士気に関わるだろ? なあに、うちは少数精鋭だから、たった六人だよ。ファーストクラスでウォルドルフでも楽勝だろ?」
「わかりましたよ。その代わりイベント当日は、ちゃんと働いて下さいよ?」
「よし、契約完了だ」
おいおい。NYの話は、findを見つけた流れで聞いていたけど、まさか常磐ラボ全員を送り出すっての? いいのかなぁ……まあ、所長がOKって言ってるんだからいいのか。
全員外国語は出来るだろうし、適任と言えば適任だろうけど――
「おい、三好。製造はいつまでやるんだ?」
「ピークになる国立の二次は二十五日ですからね。配布時間を考えても、二十二日くらいまでに終わらせないとどうにもなりませんよ」
「そりゃそうか。本当に一日百台作れるなら、それでも二千台くらいはキープ出来るわけだしな」
「先輩。その発想はヤバくないですか?」
三好が苦笑しながら、そう言った。
「ん?」
「二十日間休みなしの計算になってますよ?」
「おお!?」
「さすがはブラックの星だけのことはあります」
納得がいったような顔をして頷きながら、パンパンと俺の胸を叩いてそう言った。くっ。
その後一通り打ち合わせを終えた俺たちは、みどりさんのところを辞した。
「さて先輩。私はこれから鳴瀬さんを捕まえて、弁理士さんの所に行ってきます」
都営新宿線で市ヶ谷に着く頃、三好が席を立ってそう言った。
「ダンジョン特許の件か?」
「です。D132でチェックするパラメーターを除いて、他のパラメーターでのDカード取得判別特許を、良い感じの日程で申請しておきますから」
これはステータス計測には直接繋がりませんからね、と三好が笑った。
中島さんが作成したリファレンスの計測装置は、簡易に計測可能な、あらゆるセンサーがくっついていた。つまりそこから得られたパラメーター群は、現状で普通に計測できるほぼ全てのパラメーターを包括していると言って良かった。
それのすべてをダンジョン特許に申請すれば、少なくともDカード判定に関しては1社で占有できると思うのだが、何故そうしないんだろう?
わざわざ除いたD132による計測パラメーターにどんな意味があるのか分からないが、あらかじめそれを除いた書類をすでに揃えているところに、三好の商人魂(黒)を感じる。
それに、良い感じの日程ってなんだよ……この後どうするつもりなんだ、こいつ。
「あんまり阿漕なことはやめとけよ?」
「先輩、商売って言うのは、極論すれば戦争みたいなものなんですよ。好意には好意で報いたいと思いますけど、相手に悪意がある場合は別でしょう?」
「ハンムラビ方式ってわけ?」
「いえ、ここはウル・ナンム方式で行きたいと思います」
ウル・ナンムは世界最古の法典だ、その成立はハンムラビよりも古いとされていて、罪に対して損害賠償の銀の量(単位はシェケル)が定義されている。
ハンムラビ法典にも損害賠償の項目はあるが、ウル・ナンムの方がそちらに偏っているのだ。たっぷりと損害賠償をふんだくるってことなんだろうけど、一体何を考えている?
「卑怯なことをする人達からは、たっぷりシェケルを毟ってやりますよー」
まあ、楽しそうだからいいか。
俺は若干諦め気分でそう結論づけた。
「それで、出願者は、みどり先輩の所と併記で構いませんか? 持ち分は50:50で」
特許の持ち分は、単にその特許の価値に対する所有の割合だ。
行使に関しては、50:50であろうが、1:99であろうが、お互いの同意が必要なので、99を持っているからと言ってそれを自由に出来るわけではない。
「もちろんだ。実際あの『無駄に高性能な』リファレンス機を作ったのは、あそこだしな」
「了解でーす」
電車が市ヶ谷駅へと滑り込む。
開いたドアから、小さく手をふって日本ダンジョン協会へと向かう三好を見送った後、俺はキャシーと三代さんに連絡した。
早速、労働力をゲットしておかなきゃな。例え焼きそばを焼くのと同等だとしても、だ。
129 その後の自衛隊 1月30日 (水曜日)
陸上自衛隊習志野駐屯地では、検査を終えた君津伊織二尉が、朝食前に軽く流しながら走っていた。
習志野の空は広い。山は見渡す限り見えないし、さほど高い建物も多くはない。時折雲の切れ間から顔をのぞかせる太陽が、そんな世界に光の帯を作り出していた。
早朝のそんな奇跡のような時間を感じながら、彼女は、仮面の男のことを考えていた。
「まったく。ちゃんとしたお礼も言ってないってのに」
気が付いたとき、彼はすでにいなかった。
うちの隊員は、私をおいて、煙のように消えてしまったと口をそろえて言っていたが、いったいどういうことだろう。
隊員は、デスマンティスはおろか、キメイエスすらも、まるでいないかの如く振る舞って、歩いて私のところまで移動した様子を見て、彼がダンジョンの管理者だといわれても納得しそうになると言っていた。
「不思議な人……」
その後、助けに来てくれた探索者たちを含めて、手当たり次第に尋ねてみたが、彼が誰で、どこに行ったのか、誰も知らないようだった。
鑑定をしてもらった三好さんだけは、三十二層への入り口の件でごたごたしているうちにどこかに行ってしまったようで、気が付いたら周りにはいなかった。少なくともセーフエリアに降りてきていないことは間違いない。
あと、彼についての話を聞いていないのは、彼女くらいだ。今度出会ったら聞いてみよう。
唯一、サイモンの態度には、何か違和感を感じたが、突っ込んで聞いても肩をすくめられただけだった。
「もしかしてダンジョン攻略局の秘密兵器かなにかなのかな?」
それにしては格好が、ヨーロッパより、というより日本のコスプレだ。
第一、ダンジョン攻略局なら、もっと実用的な装備を使うだろう。
残されていたマントは、普通に買える布で作られていて、特に先端素材なども使用されていなかった。
鋼さんが、「これをまとって戦闘するとか、どこの傾奇者だ?」とあきれていたくらい、防御力という観点で見れば、マイナス点しかないしろものだったらしい。
角を曲がって、目の前に開けた長い直線で、一気に速度を引き上げる。
冷たい空気を切りさいて進む体の切れは、以前よりもいいくらいだ。足はまるで疲れを知らないかのように、以前にもまして力強く地面をとらえていた。
「やっぱり、あの、置き土産のせいなのかな」
こうして走っていると、忘れそうになるけれど、あの時私、足がなかったんだっけ。
彼女のDカードには、磁界操作と並んで、グレーアウトしているような状態で、[超回復]の文字が刻まれていた。
以前、例のオークションで一度だけ販売されたことのあるオーブだ。その時の落札価格は、五十億円を超えていたはずだ。
調べてみたら、世界ダンジョン協会データベースにも、ちゃんと記載されていた。
もっともそこには、失われた手足を復活させるような劇的な効果は記載されておらず、疲れにくくなり、小さなけがが非常に早く治る程度のことが書かれていた。
「非常に早くどころか、一瞬だったし、しかもその効果は……」
伊織は自分の体に起こったことを思い返しながらそうつぶやいた。
彼女は、オーブを使った時の、あの熱いんだか気持ちがいいんだかよくわからない世界の中で、まるで体中から集められた細胞が目に見えない手足を作り上げていくような感覚をぼんやりと思い出して、ほのかにほほを染めた。
、、、、、、、、、
セーフゾーンで1泊した日、彼女は、鋼とボス戦のことをプライベートで話していた。
「やっぱりそうだったのか」
「はい」
彼女は自分の右の手足が、切断された後、復元したことを、鋼に訊かれて肯定した。
「服の右袖部分はきれいに切り落とされていたし、血の跡もあった。右足首も同様だ」
鋼は、その時のことを思い出しながら言った。
「それだけならまだしも、右手首にあったバイタルチェックデバイスがなかったからな。常識を無視すれば、切断した後生えてきたとしか思えなかったんだ」
「自分で体験していながら、自分でも信じられません」
鋼は、むつかしい顔をして腕を組んだ。
「しかし、ランク7を常備している組織なんて、世界中を見渡しても存在しないだろう。もっとも、公開されている範囲では、という意味だが」
「仮に持っていても、そんな希少なものを私に使うことに意義を見出せるのは、日本国くらいですよ」
そうは言ってみたが、伊織は自分の言葉を信じていなかった。もし日本がそれを持っていたとしても、それは、もっと偉い人たちが自分のためにとっておくはずだ。
いかにダブルの最上位陣とはいえ、自分は、取り換えの利く二尉にすぎないのだ。ほかの組織至っては、言うまでもなかった。
「それに――」
伊織は、その時のことを思い出しながら、かすかに頬を染めた。
「――あの人が私に使ったのは、ランク7ポーションじゃありませんでした」
「ポーションじゃなかった?」
鋼は、ポカンとした顔を向けて、「じゃあ、どうやって?」と訊いた。
伊織は鋼に、使われたのが超回復のスキルオーブであったことを、Dカードを見せて告げた。
「超回復って……失った部分が復元するのか?!」
もしもそれに時間制限がなかったとしたら……
「まてよ……」
鋼は、以前、超回復がオークションにかけられた後、寺沢に聞いた、印欧の社交界で噂になった、おとぎ話めいた、魔法使いの物語を思い出した。
「まさか、あれは全部本当のことだったんじゃ……」
「鋼さん?」
「ん?」
鋼が我に返ると、伊織が不思議な顔をして、その顔を覗き込んでいた。
「あ、ああ、すまん。以前聞いた話を思い出していたんだ」
そうして、鋼は伊織にその噂を語って聞かせた。
「それって、ランク7のポーションどころの話じゃないんじゃ……」
伊織は驚いてそう口にした。
ランク7のポーションは、確かに失われた手足を元に戻す。しかしそれには時間制限があるのだ。
古傷で試して効果がなかった例と、48時間ほどで試して助かった例をもって、今のところ四十八時間だとされている。細かくテストするほどランク7の数は多くないため、その効果時間は、偶然でしか分からなかった。
ところが、その噂の中で回復した女性は、何年も前の怪我だという。
失われた部分はおろか、体にあったすべての損傷は修復され、なかったことになっているそうだ。
「でも、本当にそんな効果があるんなら、世界ダンジョン協会のスキルデータベースで、すでに大騒ぎになってるんじゃありませんか?」
「効果があることは確実だろう。何しろ実例が目の前にあるんだからな」
鋼は、伊織を見ながらそう笑った。
「だが、騒ぎになっているという話は聞いたことがない。つまり世界ダンジョン協会のデータベースにはこのことが書かれていないんだろう」
「そんなことが?」
「報告者が情報として伏せた可能性が高いだろうな。なにしろ、この話が明らかになったら、マイニングどころの騒ぎじゃなくなるぞ」
「え?」
「考えてもみろ。マイニングはしょせん鉱物資源の産出だ。ミスリルやオリハルコンが出るというのならともかく、普通の鉱物は自然界にもあるし、世の中の主流はいまのところそちらからの産出だ」
「それはまあ」
「だから、代々木に来ているのは、主に国家的な組織ばかりだろ?」
「そうですね」
「だが、こいつは違う」
鋼は、Dカードを伊織に返しながらそう言った。
「もしもこれが明らかになったら、こいつを欲する世界中の大金持ちが、探索者を雇って代々木に押しかけてくるぞ。下手をしたら、血で血を洗う奪い合いになるかもな」
Dパワーズは、マイニングを除いて、スキルオーブをドロップしたモンスターを届け出ていない。だから、それほど深刻にはならないかもしれないが、代々木でドロップしたことだけは疑いようがない。
鋼が言ったことは、実際に起こる可能性が高かった。
、、、、、、、、、
「鋼さんが言ってたことも、大げさってわけじゃないのかも」
そう考えたとき、後ろから足音が迫ってくるのに気が付いた。走りながら、後ろをちらりと振り返ってみると、当の鋼が走っていた。
「君津二尉、おはようございます」
「何言ってんですか、鋼さん」
わざとらしく挨拶をする鋼に向かって、伊織は苦笑を浮かべながら返事をした。
「ははは。それで、こんなところを走ってるところを見ると、体はもういいのか?」
「おかげさまで。前よりもいいくらいですよ」
「例の、スキルのおかげかな?」
「そうかもしれませんが……下から上がってきたばかりなのに、早朝から鋼さんがこんなところを走っているところみると、なにかお話があるんでしょう?」
「お前はだんだんやりにくくなるなぁ……」
「先輩の薫陶のたまものですよ」
鋼は苦笑して頭をかくと、急に真面目な顔をしていった。
「実はな……お前に査問の話がでてるらしい」
「査問?!」
そう聞いて伊織は思わず足を止めた。
「お前、例のスキルを報告したんだってな」
「あたりまえじゃないですか。隠せるわけないでしょう」
「それはそうだが、まともに貰ったと報告したらしいじゃないか……それが、査問の対象だ」
つまりは、誰かから五十億円の価値のある物品を貰ったことが問題視されたようなのだ。
「なんですそれ? 別に職務に密接に関連する行為を、あの人に対して行ってなどいないでしょう?」
第一、どこの誰かもわからないのだ。そんなことができるはずがなかった。
「そういう意味では、収賄というより、国家公務員倫理規程違反のほうだろう」
「ええ?」
「五十億だからな。額面だけを見るなら、社会通念上相当と認められる程度を超えた接待や財産上の利益の供与とみなそうと思えば、みなせるわけだ」
「第5条1項ですか? そんな無茶な。第一、オーブがなければ、今頃私、公務災害で、賞じゅつ金貰って退官してますよ。自衛隊って得しかしてないじゃないですか」
大けがをして死んだり、障害が残った自衛官には、賞じゅつ金という補償システムがある。最大で三千万だ。
「それ以前にあいつが現れなければ、部隊自体が危なかったかもな」
「言ってみれば、恩人ですよ? それに、現在の法解釈では、スキルオーブは支配可能性が不完全であるため動産にあたらず、その無償使用は贈与や譲渡とはみなされないという見方が支配的じゃないですか」
「調べたのか?」
「報告書を書くときに。私だって、多少は気にしますよ」
それで安心して報告書に真実を記したのだ。
「その主張はしてみるべきかもしれないが……同じオーブがごく最近、五十億以上で落札されていたのは不幸だったな」
「そんなぁ……」
「こうなってくると、相手が誰なのかが問題になるかもな」
「利益供与対象かどうかの調査ってことですか?」
「まあそうだ」
「誰だかわかりませんというしかないんですけど、信じてもらえるでしょうか……誰が調査するんです?」
「市ヶ谷の、自衛隊員倫理審査会事務局あたりかな? 裁判になったら一般人と同じだ。なにしろ日本には、軍法も軍法会議もないし、軍法務官すらいないからな……」
「76条ですか? 憲法は絶対視されてますから」
「それ以上はちょっと誤解を招く発言になるから、現役のうちは、やめとけ」
「あれ? 鋼さんでも気にするんですか?」
「当たり前だろ。自衛隊には、とことんデリケートな領域があるからなぁ」
長く現場で活動していると、そのあたりに言いたいこともでてくるが、反面その危険性についてもはっきりと認識できるようになる。
「ともかく、倫理審査会に呼ばれる前に、一度寺沢二佐に相談しろ。アポは取っておいてやる」
「わかりました。お心遣い感謝します」
伊織は、自衛隊に入ってから、スキルオーブやアイテムの支給を受けていない。
彼女が女性であることも、その一因だと、まことしやかに囁かれていたが、実際は磁界操作があまりに強力だったため、ほかのスキルを必要としなかったというのが真相だ。
しかし、そのせいで、組織に対して負い目がない。かかったコストにかこつけて慰留を促すことすらむつかしい。しかも自衛隊員には失業手当がない。つまり、自己都合でいつ退官しても関係ないのだ。
なにしろ世界ランク18位、知られている限りでは日本のトップエクスプローラーだ。そのうえ、テレビ映えのする美人で人気もある。退官したほうが稼げることは確実だ。
つまらないことで、彼女に退官を決断させるなんてことがあったら、それは自衛隊の大損失だといえるだろう。
「今、二尉にいなくなられたら困りますからな」
鋼は、自分でスカウトしたということもあって、本心からそういうと、宿舎に向かって走り始めた。
130 会議は踊る 1月30日 (水曜日)
朝から始まった会議は一向にまとまりを見せず、一旦休憩を挟むことになった。
斎賀が、疲れた顔で背筋を伸ばしながら廊下に出ると、美晴が駆け寄って来て、「どうでした?」と聞いた。
「会議は踊る、されど進まず、ってところだな」
「課長はいつからリーニュ公に?」
「死んだような目をしてるだろ?」
ウィーン会議で、有名なこの台詞を吐いたリーニュ公、シャルル・ジョセフの肖像画は大体目が疲れ果てて逝っている。
酷いのになると、ヤク中みたいな目つきの絵まであるのだ。
「そんな面倒な話でしたっけ?」
「大学入試センターだけならどうと言うことはなかったんだが、対象がいきなり全大学に広がったからかな、営業が茶々を入れてきたんだ」
「営業? そもそもこの会議は、Dパワーズから提供されるデバイスをうまく割り振って、大学入試に対応するための体制作りが議題じゃないんですか?」
「俺もそう思うんだが、どうもなぁ……」
斎賀はどうにもおかしな方向に進みかけた会議の内容に首をかしげた。
突然会議に割り込んできた営業関連の部署が、機器をDパワーズから一括購入して、各大学に販売するというプランを持ち出してきたのだ。
それだと、フォローする大学の取捨を日本ダンジョン協会が行うことになる。せっかくDパワーズが泥を被ってくれようとしているのに、どうしてこの状況でうちから再販する必要があるのか斎賀には見当がつかなかった。
そもそもそんなに台数が確保できるとは思えない。
「台数が足りないから、大学を集めてオークションでもやらせるんじゃないですか?」
「現状とDAの立場で、そんなことしちゃまずいだろう」
「なら、将来的な取り扱いの布石でしょうか? 台数が見込める機器ですし」
「今回は突然の依頼だからこんな形になってるが、Dパワーズは法人も持ってるんだから、普通はステータス計測デバイスと同じ販路に乗せるだろ? うちが噛める余地が何処にあるんだよ」
「そうでないなら、ブラフしか考えられませんよ。今後の話し合いを有利に進めるための」
「馬鹿みたいに強気に出て、少し引くことで目的を達成するってやつか?」
「そうです」
「しかし、落としどころがわからんな」
斎賀は首を傾げた。
「現状日本ダンジョン協会にとってベストなのは、Dパワーズから提案があった通り、Dパワーズの依頼を受けて日本ダンジョン協会が各大学へサービスを提供するという形だろう」
「それなら日本ダンジョン協会は、各大学の要請を受けて企業と大学を繋いだという名目が立ちますし、取りこぼしがあっても、それは大学とDパワーズの問題で、日本ダンジョン協会としては第3者の立場を守れますからね」
「そうだ。だが、Dパワーズから購入したり、リースしたりして大学へあたれば、それは日本ダンジョン協会と大学の取引になるぞ。立場上相手の取捨が難しくなる」
「まさかとは思うんですけど……」
「なんだ?」
「前者なら、Dパワーズの依頼を受けるのは、立場上ダンジョン管理部の商務課ですよね」
「だろうな」
「つまり取引はダンジョン管理部扱いになります。でも後者なら――」
「大学と取引するのは、営業二課か、でなけりゃ営業企画課だろうな」
「――ってことじゃないですか?」
「いや、しかし、いくらなんでもそれだけのために日本ダンジョン協会の立場を悪くするってのは、本末転倒だろう」
「課長。今の営業部って、それくらいなりふり構ってない気がするんですけど……原因は、今年度の成績でしょうか?」
「営業の成績なら、例年と大差ないだろ」
「全体の割合が違いすぎますよ」
今年度の日本ダンジョン協会の利益の大部分は、営業と無関係の部署から上がっていた。端的に言えば、それは美晴が仲介したオーブの仲介料だ。
「会長選挙の点数稼ぎじゃないですか? 営イチの協賛企業の勧誘だって、どう考えてもやりすぎですよ」
「おいおい、憶測でヤバイ発言をするなよ」
昔からちょっと跳ねる傾向があったが、それを上手く自己フォローして立ち回っていたはずの部下が、露骨な発言をするのを苦笑しながら遮った。
専任先に影響されたのか、自分の信頼度が上がったのか、その辺は斎賀にも判断が難しかったが。
美晴は、片手を口に当てて、それをつぐむポーズを取りながら、「いずれにしても、今年のダンジョン管理課は、営業方面から疎まれてそうじゃないですか」と付け加えた。
「ほとんどお前のせいじゃないか」
「私、関係ないですよね?!」
実際、営業部としては、自分達の頭越しに行われるオーブの取引は気に入らないだろう。従来のオーブ取引は、営業企画課が運営している売買用データベースを介していたため、営業部が仲介していたのだ。
Dパワーズの件にしても、何事もなければ営業部仲介になっていたはずだ。しかし、肝心のDパワーズ側が美晴を指名したため、そこに捻れが生じていた。
もっともDパワーズが美晴を指名したのは、オーブ預かりの件であって売買ではなかったのだが、そのパーティの異常性にいち早く気がついた斎賀が、人事と上司に手を回し、彼女を専任にして押しつけたたため、なんとなくそうなっているというのが真相なのだが、営業から見ればうまうまと金の生る木を自分の課に取り込んだようにも見えるだろう。
「いいか、鳴瀬。あのDパワーズだぞ? 営業の連中なんかにくっつかれたら最後、一月《ひとつき》しないうちに、日本ダンジョン協会との関係がおかしくなるぞ? そう言った未来が目に見えるようだ」
大まじめな顔でそんな話をする斎賀に苦笑して同意しながら、美晴は、わざわざここまで来る原因になった情報を伝えた。
「それで課長。先ほどその三好さんから連絡を頂きました。生産数ですが、二月一日から製造、納品可能だそうです。当面は一日九十個程度になりそうだそうです」」
「思ったより多いな。どうやったんだ?」
「分かりません。ただし、外観は期待するなとのことです」
「ああ、金型を作ってる時間はないだろうからな。それで機器自体の価格は?」
「一台十万円だそうです」
ステータス計測デバイスの簡略版が、百万くらいになるだろうことを聞いていた彼は、随分安価に設定してくれたんだなと感じたが、具体的な金額が出た時点で、高価だとか一括仕入れで値下げを要求しようだとか言う連中が出てくることは確実だろう。ことに自分の所から直接大学と取引するなら、仕入れを圧縮したいのは当然だからだ。
数がないものをどうやって一括仕入れするつもりなのかは分からないが。斎賀は、会議再開後のことを考えてうんざりした。
「それで契約の形態について、なにか要望はあったか?」
「いえ、大学との契約主体はどこでも構わないようです」
「どこでも構わない?」
あまりに怪しげな返答に、斎賀は一瞬固まった。もしも流出を気にするのならここは直接契約1択のはずだ。
その場合日本ダンジョン協会とDパワーズはサービスの委託契約ということになる。機器の管理上の問題で情報が流出した場合、無理なく日本ダンジョン協会に損害賠償を請求できる契約にできるということだ。
単に日本ダンジョン協会に対する販売、またはリースということになれば、機器になにかあった場合の損害賠償は、通常、機器の価格と同等だ。そこにはただの商品のやり取りがあるだけなのだ。
どちらでも構わないってことは、漏れたら漏れたで構わないと言われたようなものなのだ。
「この件に関して、あいつらは特許を取得してないんだな?」
「今のところはその通りです」
彼女が日本ダンジョン協会を信頼してるってことか? いや、昨日のありさまでそれはないだろう。それに、あいつらに限って、ただわきが甘いなんてことは考えにくい。では何故だ?
「あ、それと、入試スケジュールの件は、返信があったので、課長のパーソナルフォルダに送ってあります」
「そうか。ありがとう」
斎賀は、どうにも不思議なDパワーズの態度について考えを巡らせながら、さっそくそのファイルを開こうとした。
「それで、課長。全然話は変わるんですが」
「なんだ?」
斎賀は自分のタブレットで、入試のスケジュールを確認しながら返事をした。
「三十一層から五時間で地上へ出られると思いますか?」
彼は確認の手を止めると、さらなる面倒事の予感に眉をひそめながら、美晴に向かって顔を上げた。
「なんのクイズだ? それとも、ダンジョン内にエレベーターでも発見されたのか?」
通常三十一層からなら、トップレベルの探索者だったとしても、最低二日はかかる。一日では絶対に戻ってこられないはずだ。
「実は日曜日の三好さんの退出時間なんですが……」
「それが?」
「三十一層で、伊織さんたちに会った約五時間後なんです」
「……あいつら本当にエレベーターでも発見したのか? それともまさか……転移魔法か?」
なにしろDパワーズなのだ。今更転移魔法のひとつやふたつで……いや、やっぱり驚くな、と斎賀は思い直した。
「いえ、Dパワーズさんが言うにはそれとは別の何からしいですが……」
「なんだ、はっきりしないな」
「あの紙のレポートを読むとき、この話のことを覚えておいていただけますか」
美晴の迂遠な言い回しに、いやな予感を覚えながら、斎賀はこりゃ今日も残業だなとうつむいた。
「……わかった。なんだかトワイライトゾーンに踏み込んでいるような気がしてきたが、言うとおりにしよう」
そこで、会議の再開が告げられた。
斎賀は思考を一旦中断して、会議へと意識を向けた。
「いずれにしても個数や日程が出たんだから、さっさと不毛な議論を終わらせて、スケジュールの確立と人員の配置に注力したいものだな」
「お疲れ様です」
美晴は心の底からそう言って、会議室へ入っていく斎賀の疲れた背中を見送った。
、、、、、、、、、
「内職、ですか?」
しばらくお願いしたい仕事があるからと、俺は、三代さんとキャシーを呼んで説明していた。
「ナイショク? What does NAISYOKU mean?」
『エクストラジョブってことかな。通常はピースワークの』
キャシーは二月から定期開催になるブートキャンプを、月から水の三日間と決めたようだった。
先週の土曜日に一般のプレオープン的な位置づけで実施してみたところ、利用しているのが二層だけに、混み合う週末は問題が多く良くないと考えたようだった。
土曜日の人選は、キャシーと三好がやったみたいだが、どうやら結構有名な人達も含まれていたようだ。
「先行投資って奴ですよ」と三好は笑っていたが、そもそも儲ける気がないのに投資もクソもないだろうと言ったら、「先輩、ブランディングは重要ですよ?」と出来の悪い生徒をなだめるような視線で諭された。
「結果はおいおい」なんて言いながら不敵な顔をして笑う三好は、立派な経営者の顔をしていた。立場が人を作る?って、まだ一ヶ月しか経ってないんだけどな。
週末を対象にしなかったのは、当初の目的通り、アマチュアのあまりポイントが溜まっていない探索者からの応募を減らしたかったってこともあるようだ。
週末を入れると兼業の人達の応募が激増するらしい。
まあ、小麦さんのような特例はしばらく勘弁して欲しいし、俺としても開催はまとまってくれていた方がありがたいから、特に文句はなかった。
キャンプがない日のキャシーは、基本フリーで、サイモンたちにくっついていったり、機器の整備をしたり、三好と一緒に参加者を選定したり、訓練や観光をしたりしているようだった。
「結構なギャラを頂いてますから、手伝ってくれと言われれば手伝いますけど」
「手が空いているときだけでもいいんだ。ちょっと世界が大ピンチなんだよ」
「世界が?」
キャシーの目が光ったような気がした。彼女は体の芯からセーバー体質だからな。
「そうだ。これは言ってみれば世界を救う仕事だな」
「わかりました! 任せて下さい!」
それを聞いたキャシーは、勢いこんでそう言った。
三代さんはその台詞にうさんくさそうな顔をしていたが、特に異論はなさそうだった。契約社員みたいなものだからな。
世界を救う仕事が、PPパックでオモチャみたいな電子機器を組み立てる作業だとは、お釈迦さまでも気がつくめぇ。なにしろ、カタカナで書いてしまえば、piece work も peace work もピースワークには違いないのだ。うはははは。
、、、、、、、、、
北区、三田線の本蓮沼駅A1出口を地上へと出ると、そこは蓮沼アスリート通りだ。とは言え、特にアスリートが走っているわけではない。
その道を右へしばらく行くと、たぶんその名の原因になった施設が現れる。国立西が丘サッカー場、別名、味の素フィールド西が丘だ。
同じ味の素でサッカー場だから思わず間違えそうになる味の素スタジアムとはもちろん別の施設だ。あちらは調布に位置している。
その隣にある、国立スポーツ科学センターの建物の中で、今、JADA(日本アンチドーピング機構)の臨時の専門委員会が開かれていた。
「大阪国際の高田選手に聞き取りを行ったところ、前日に代々木で行われているダンジョンブートキャンプに参加していたことが分かったわけですが、問題はこれをドーピングと見なすべきかどうかということです」
「いや、それは無理筋でしょう」
比較的年齢の若い、元短距離の男子選手が発言した。
「ダンジョン内での訓練は、言ってみれば高地トレーニングと意味的な違いがありません。薬物を使用するわけでもありませんし。実際高田選手からは何も検出されなかったんでしょう?」
「アスリート・パスポートに基づく血液検査でも、なんの問題もありませんでした」
元短距離選手は鷹揚に頷くと、しょうがないといった体《てい》でペンを両手で弄んだ。
「来年のオリンピックにしても、それを行ったことがある選手全員を出場禁止にするなんて、現実的じゃないでしょう?」
「いや、しかし……」
「頂点を競うアスリートは、ルール違反でなければ何でもやります。実際私たちもそうでしたし」
「それに、ダンジョン訓練は今更禁止するのも難しいでしょう」
「なぜです?」
「仮にそれをやったとすると、高田選手やアーチェリーで話題になった、斎藤さんでしたっけ? それに、箱根九区の長井君もおそらくそうでしょう。彼女たちを見る限り、現役の選手はすでにダンジョンで鍛えた選手に逆立ちしても勝てない可能性があります。薬物と違って、効果が一過性でない場合、不満が続出するでしょうね」
「かといって、すでにダンジョンに入っている選手を排除することもできません。なにしろ今までは禁止されていなかったのです。法の不遡及の原則は憲法にも記載されたルールですよ。実行したら違憲です。JADAの独自ルールとは言え、裁判で訴えられたら確実に負けるでしょうね」
「そもそもダンジョン内の訓練は、血液検査にも尿検査にも引っかかりません。実際、高田選手もそうでした。それをどうやって検出しようと言うんです? 好記録を出したという理由でドーピングだと主張するんですか?」
ダンジョントレーニング反対派は、そう言われてしまえば反論のしようがなかった。
「大学入試センターがDカード取得者の識別方法を日本ダンジョン協会に依頼したと聞いています」
「いやいや、かりにDカード取得者を識別できても、その後どうするんです?」
なにしろオーブ問題があるのだ。とりあえずDカードを取得する人は多い。しかも今は、学生の取得が激増していると聞く。
「Dカードを持っていればドーピングだなんて言い始めたら、今でも日本人の数%は失格になるでしょう。現役アスリート年齢ならもっとずっと高率になるでしょうね。もはやDカードの有り無しで階級を作る方が現実的なくらいです」
全員に適用しない場合どこからが違反なのか、その線が引けないなら、ルールを策定できるはずがない。
「しかしあれほど差があるのでは……クリーンでフェアなスポーツの未来が――」
「高地トレーニングと同様、全員がダンジョントレーニングを始めるだけじゃないですか? テニスの試合中に念話を利用したコーチングが行われる可能性が問題になるのがせいぜいでしょう」
ばっさりと切って落とされると、比較的若い世代は全員が頷いていた。
「高地トレーニングの分野では有名なレバイン博士は、個人的な考えだと前置きした上で、『身体を環境に順応させようとする創意工夫は、順応が自然に行なわれる限りにおいて、すべて倫理的で合法的だ』と述べていますよ」
「ダンジョントレーニングもそれに準じると?」
「どこからどう見ても準じていると思いますよ」
それ以上の反論が難しいと感じたのか、議長が話をまとめに入った。
「ともあれ、週末の大分で、不破選手がどんなタイムを出すかが注目されます。また、トップレベルの探索者が、どんな運動能力を示すのかの情報が必要ですね」
「議長。一度日本ダンジョン協会にお願いして、そういう探索者を紹介して貰い、非公式の記録会を行ってみるというのはどうでしょう?」
「確かに。正確な情報が無ければ、なにごとも判断できませんし」
専門委員も情報がなければなにも判断できないことは分かっていたため、これは渡りに船だった。
「では、当面ダンジョントレーニングについての勧告は行わず、動向を注目しておきましょう。また、日本ダンジョン協会にお願いして、非公式記録会をなるべく早い時期に行う方向で調整します。なにか異議はありますか?」
この件に反対する委員は一人もいなかった。
「それではこれで閉会します。本日はありがとうございました」
各専門委員は、今でも自分の競技団体に強い影響力を持っている。
高田選手の記録を見る限り、ダンジョントレーニングは、自己血輸血もエリスロポエチン製剤も、まるで意味がないと思えるくらいに凄い効果を示していた。
もう、必死でドーピング検査を逃れようなどとしなくても、ダンジョントレーニングだけしていればOKなんて、実はアスリートの心や体にも優しいのではないかなどと、ほぼ全員が考えていた。
そして、いつそれが禁止されても良いように、今のうちに訓練させておこうと考えた指導者も多かった。
、、、、、、、、、
「はー、下から戻ってきたとたん、怒濤の忙しさですねぇ」
夕方、事務所へと戻ってきた三好は、上着を脱ぎながらそう言った。
「お疲れー。弁理士を紹介して貰ったのか?」
「貰いました」
「俺もちょっと調べてみたけど、知的財産権って国をまたぐと、とたんにややこしくなるのな。PTCルートだのパリルートだのさっぱりだった」
「まあ、国をまたぐ特許の申請は、そんな風に非効率の塊みたいな状況ですから、ダンジョンに関わる知的財産権っていうのは、世界ダンジョン協会がまとめて管理してるみたいですよ」
「へ? 各国の特許庁みたいなところじゃないの?」
「ダンジョンのフロアは歴史的経緯から世界ダンジョン協会管轄ですから。もちろん協力はしていますけど、各国には権利が貸与されているという扱いですから、基本的にダンジョン関連で発生する知的財産権を管理しているのは世界ダンジョン協会だそうです」
「その方が複数の国に対して横断的に適用できて、合理的なのか」
三好は、向かいの席に座ると、俺の言葉に頷いて言った。
「そういうことですね。いずれはその仕組みを利用して、地球規模の知的財産権管理に向かうかも知れませんが……」
「発展途上国の問題があるから難しいだろうな」
例えば、近代において飛躍的な経済成長を成し遂げた日本や台湾において、欧米技術の模倣がそれに貢献したことは言うまでもない。
それに、WTOが発効した、TRIPS協定のミニマムスタンダードにしても、医薬品や植物新品種の知的財産権保護の義務化が途上国の生命そのものを牛耳るのではないかと警戒されている。
知的財産権という権利が、地球規模で統一された場合、国家という枠組みが無くならない限り、圧倒的に先進国が有利なるのだ。
「まてよ……世界統一ってことなら、あのパーティを結成する手法なんて、ダンジョン特許を取っていれば……」
「今頃大儲け……というわけには行きませんね。発明と発見は違いますから、おそらく特許の対象と見なされないと思いますよ」
「じゃあ、掲示板で見つかったfindなんかも――」
「発見ですから、発明とは言えないでしょうね」
確かに高度な創作とは言えないか。
「それで、先輩は何をやってるんです?」
その時俺は、ダイニングの椅子に座って、テーブルの上に上質紙を1枚敷いてそれを眺めていた、ように見えたはずだ。
三好には、新しい遊びですか? と笑われた。
「メイキングがDファクターに仕事をさせる力だと言うのなら、無から何かを作り出せるんじゃないかと思ってさ」
「練習してたってことですか?」
「そういうこと」
三好は何かを思い出したかのように、ぷっと吹き出した。
「なんだよ?」
「いえ。ほら、去年先輩が、『メイキング』と散々呟いていた姿を思い出して」
「だー! つまんないことを思い出すんじゃない!」
俺は、バンバンとテーブルを叩いて誤魔化した。
「それで、成果は?」
「いや、それが、なーんにも起きないな。いや、むしろ起きた方が吃驚するわけだが……やってて俺はアホなんじゃないかという気分になってきたぞ」
「信じる力が大切なんじゃ?」
「おまえな。何にもないところに向かって『耳かき出ろー』とかやる身にもなってみろよ」
「なぜに耳かき」
「丁度欲しかったから。なにかそういう欲求があった方が成功しそうだろ?」
「それはそうですけど……強い欲求と言うことなら、一万円ーとか、当たりくじーとか、当たり馬券ーとか」
「全部犯罪だろ、それ」
「あ、そうか。んじゃ、彼女ーとか」
「それで本当に出てきたらどうするんだよ……」
「ああ。もしかしたら先輩の特殊な性癖がばれて困るかも知れませんね」
三好がニヨニヨしながらそう言った。
そりゃ、本当にそんなシステムで、ロリとか2Dな人とかが出てきたら人生がヤバい気がしないでもないが――
「いや、困るような性癖は持ってないから」
――そういう問題じゃないだろうと、ため息をつきながらそう言うと、俺は話題を変えた。
「そういや、例の組み立て労働力、明日から確保しておいたぞ」
キャシーは週三か四だけどな。
「本当に三代さんやキャシーに頼んだんですか?」
「うん」
「彼女たちも驚いてたでしょ?」
「まあな。だけど、キャシーなんか、やる気満々だったぞ?」
それを聞いて三好が、ジト目で俺に尋ねた。
あんな内職じみた仕事を、キャシーが張り切ってやるはずがないのだ。
「……先輩、何て言ったんです?」
「えーっと……これは言ってみれば世界を救う仕事だって」
「そういうのは詐欺っていいませんか?」
「何を言う! 世界の秩序をダンジョンの魔の手から守る、立派な作業だぞ!」
「なんというマッチポンプ」
「なんでさ」
「念話を公開したのはうちみたいなものですよ、先輩」
「おう……いや、だけど、あれは時間の問題だったろ?」
それに充分な周知期間を取ったとしても、対策の打ちようがないから同じだ。むしろ周知する領域が広すぎて、そこから情報を得られる一部の人間を利するだけになりかねない。
日本の大学入試センターはせめて大学入試が終わってから、などと思うかも知れないが、世界的に見れば試験は年中行われているわけだし、それを利用する側の準備期間も同じ長さだ。
「まあそうなんですけどね」
「だけどさ。仮にこれでDカード所持者を判別したとして、どんな方法で防ぐつもりなのかね?」
「え? Dカードの裏面を見えるようにして机の上にでも置いておけばいいんじゃないですか?」
パーティ編成は、Dカードの裏面に表示される。
「そりゃだめだよ」
「どうしてです?」
「無関係なやつのDカードを借りてきて置いておけば、パーティを組んでいても気がつかれないだろ?」
「それって、カンニングに参加する人間の数だけ、無関係なDカードが必要になりますよ」
「そりゃそうだが、予備校あたりがグルになってるなら、違う学校を受験する同人数のグループを二組作れば簡単さ」
無関係な人間のカードを借りてくると言うのは、そこから足がつく可能性がある。出来るだけ全員が共犯者である必要があるのだ。
例えば、東大と京大ならそういうグループを作ることも可能だろう。
東大と、ずっと格下の大学だと、全員が東大を希望して無理だろうが。
「先輩って悪知恵が働きますねぇ」
「いや、誰でも思いつくだろ、それくらい」
「結局いちいち名前を確認しないとだめなわけですか」
「まあな。しかしそれでも、同姓同名だったりしたらお手上げなんだよな」
なにしろDカードには住所や年齢が書かれているわけではない。
「それはちょっと難易度が高そうですけど」
「俺なら自分と同じ名前の奴を探してきて、十万くらい渡して、Dカードを取得させるけどな」
「そこまでやりますか?」
「そこまでやらないやつが、裏口入学なんか考えるわけ無いだろ」
「うーん……」
「ま、俺たちが依頼を受けたのは、Dカードの所有の有無を判定することだけだ。そこから先は依頼者が考えるだろ」
「そうですね。それに今回は無理ですけど、実は何とかなりそうな気もするんですよね」
「え?」
「ほら、例のNYのオフ会。あのデータが集まれば、なにかメドが立ちそうな気がするんですよね」
「パーティを組んでいる人間を識別できるとかか?」
「パーティを組むと、いろいろと特典が生まれるわけじゃないですか」
ステータスに+5%の補正がかかるってのは、ステータスの上積みだけだから検出が難しいだろうが、メンバーの位置やヘルスがわかったり、念話が使えるというのは、ステータスとは関係のない機能だ。
「だから、きっと何かのパラメーターは変化すると思うんですよ。ただパーティの組み方にしてもバリエーションがいろいろあるんで、その辺の情報が一度に得られるイベントは貴重なんです」
特に念話が使えると言うことは、なにかの出力が行われている可能性が非常に高い。
これはちょっと期待できるかもな。
「さて」
そう言って三好は席を立つと、自分のデスクへと向かっていった。
「なんだ、まだ作業があるのか?」
「あとは、二月四日からのブートキャンプの人選ですね」
「適当に探索者のキャリアで閾値つくって、それを越えてる中からランダムでいいんじゃないの?」
「軌道に乗ったらそれで良いですけど、最初はある程度厳選しないと……って、ええ?!」
「なんだ?」
「せ、先輩。まとめて来たみたいですよ」
「何が?」
俺は三好のデスクまで行って、表示されている応募リストを見た。
「なんだこりゃ?」
先日見たときは、スポーツ選手や芸能方面らしき名前が多かったはずだが、そこには、ずらりと外国人の名前が並んでいた。
そうしてその全てが――
「ダンジョン攻略局所属?」
――だった。
131 斎賀の苦悩 1月30日 (水曜日)
長い不毛な会議を終えて、自分の席へと戻った斎賀は、さっさとスケジュールと体制を構築しようとする自分に、それ以前の部分で執拗に食い下がった営業部の連中の事を考えていた。
「しかし、あそこまで露骨に食い下がってくるとは……」
結局、買い取りを取り下げ譲歩したように見せた営業部は、次に所有権移転ファイナンスリースを提案してきた。
どちらにしても、大学と契約を結ぶのは日本ダンジョン協会だ。しかも所有権移転となると、期間だけ見ればレンタルでおかしくない今回の場合、買い取りと同じだ。
どうしても大学との契約を渡したくなかったのが、取捨もせず申し込み順でできる限り対応するという前提で、いろいろとごねた結果、最終的にはファイナンスリースで決着した。
「これじゃ、より必要な大学へ割り振られるかどうかもわからないな。第一、日本ダンジョン協会とDパワーズの間の契約がリースのみじゃ、機器情報の取り扱いも日本ダンジョン協会責任でやりたい放題か……」
なんとか機器管理の危険性を周知して、一部は契約に割り込ませておいたから、もしも情報が流出すれば、それを意図していなかったとしても未必の故意が適用される可能性が高い。多少は抑止力になるだろう。
「まったく、なんでわざわざ面倒ごとに突っ込んでいくのかね……まさか本当に鳴瀬が言ったように選挙の点数稼ぎじゃないだろうな」
日本ダンジョン協会の組織は、会長の下に事務局を統括する専務理事がいる。
専務理事は理事会の議長でもあるが、理事会の実体は、関係省庁や企業等、関連組織への連絡会に近く、実務にはほとんどタッチしていない。
そして実務に関しては、専務理事の下にいる二名の常務理事の管理下にまとめられていた。
ひとりは言うまでもない瑞穂常務理事で、彼は管理部・営業部・法務部を統括する理事だ。
もうひとりは、ダンジョン管理部を統括する理事で、真壁聡常務理事と言った。
彼は瑞穂常務と違って民間から引き抜かれた人材で、その頃のコネもあって産業界に知己が多く、大抵は世界ダンジョン協会との連係で関係各国を飛び回っていて、年の半分近くは日本にいない。
そのことについて理事会で質《ただ》されたとき
「常務理事は二人いるんだから、国内に一人いれば充分だろ」
「管轄は、ダンジョン管理部だけだし、橘君が優秀だから問題なし」
と言い切って話題になった人だ。
理事会も彼の実績は認めているし、業務が滞るわけではないため苦笑して承認したらしい。
なにしろ各国DA間の協定やルールは、ほとんどが真壁によって策定されたと言っても過言ではない。
また、橘というのは、ダンジョン管理部の部長で、橘三千代というバツイチの女傑だ。
名前と経歴から、誰が藤原不比等役になるのかが時折話題に上る、美魔女と言われる40代だ。なお下一桁を追求して生還したものはいない。
ともかく、日本ダンジョン協会の組織構造のうち、ダンジョン管理部を除く他の部は瑞穂常務の管轄なのだ。
今年九月の会長の退任に伴って、理事会が後任を選出することになっているが、候補の筆頭が、ふたりの常務理事であることは公然の秘密だった。
「面倒なことは勘弁して欲しいんだがなぁ」
ちらりと時計を見ると、もうすぐ退勤時間だ。予想通り、本日の残業は確定したようだ。
小さくため息をつくた斎賀は、美晴に渡された基金設立の提案というか報告に目を通し始めた。
通常、これは、補助金の交付を司っている振興課に丸投げで構わないはずだが、なにしろ、あそこは、営業部振興課だ。
会議の感じががそのまま反映されるとすると、なんだか拗れる明日が目に見えるような気がしてならなかった。
斎賀はぱらぱらと企画書をめくって全体を俯瞰してみた。
「よくできてるが、基金というより投資に近いな。これにうちが噛むとなると、後援がせいぜいだと思うがなぁ」
後援は、基金が円滑に活動できるよう、後ろ盾となる団体のことだ。イベントの場合は、大抵公共機関や報道機関がやっている。
金を出せば協力や協賛となるが、予算的に考えて難しいだろう。
なにしろ、日本ダンジョン協会は基金を管理する組織であって、実際に資金を拠出しているのは協賛企業だ。そのため、日本ダンジョン協会本体に潤沢な予算が用意されているわけではない。
単純に比べれば、ゼロがふたつくらい違う可能性があるのだ。そんなので大きな顔をされたりしたら、Dパワーズだって困るだろう。
「単に後援要請という形で連絡だけしておくか。丸投げすると、協賛どころか共催なんて言い出しかねないしなぁ」
それくらいならまだしも、今の連中の勢いじゃ、主催が日本ダンジョン協会で、Dパワーズは主管で特別協賛なんて言い出す可能性すらあった。
根回しもしないで発表したあげく、Dパワーズがそれを無視して別の基金を立ち上げたりしたら日本ダンジョン協会のメンツは丸つぶれだ。
ともかく連絡だけはしておこうと、振興課の課長宛にメールを書いて送信した。
「で、これか……」
斎賀はデスクの鍵を開けると、薄い紙束を取り出した。そしてそのレポートに目を通すと――
ゴンといきなり音がして驚いた課長ブースの側の職員が顔を上げると、机の上に額を打ち付けて突っ伏している斎賀が目に入った。
「か、課長?!」
仕事のし過ぎで、脳溢血や心不全に陥ったんじゃないかと、慌てて立ち上がった職員に向かって、斎賀は、突っ伏したまま、なんでもないと手を振って無事をアピールした。
職員は訝しげに感じながらも、それを見て自分の仕事へと戻って行った。
、、、、、、、、、
美晴が、三好に日本ダンジョン協会御用達の特許事務所を取り次いだ後、ひとり表に出ると、丁度退勤時間を過ぎたところだった。
Dパワーズが、おそらくDカードの有無を識別する特許だと思われるものの提出を準備したことを斎賀に報告しようと思っていたのだが、まあ、明日で良いかと思い直した。
なお、実は三好は現時点で出願を行っていなかった。『良い感じの日程』で出願するように要請して、準備だけをお願いしたからだ。
「晩ご飯作るの面倒だし、なにかをテイクアウトして帰ろうかな……」と、つぶやいたところでスマホが振動した。
「課長?」
美晴は画面をスワイプすると、斎賀からの電話を取った。
「はい、鳴瀬です」
「斎賀だ。今どこだ?」
「西新宿です。弁理士の先生のところを出たところです」
「悪いが、すぐに日本ダンジョン協会まで来てくれ」
「え? それって残業ってことですか?」
「自由裁量勤務にそんなもんあるか」
「ええ?!」
「いいからすぐ来い。そこからなら靖国通りで一本みたいなものだろ。タクシーチケット使っても良いから」
「分かりました。課長、お食事は?」
「ああ、そうだな。じゃあ何か適当に買ってきてくれ」
「了解です」
美晴はすぐそこにあるドトールに飛び込むと、ミラノサンドとジャーマンドッグをひとそろい注文し、ラテとココアのMを受け取ってタクシーへと飛び乗った。
実は斎賀は甘党なのだ。
、、、、、、、、、
「あれ、美晴。どうしたのこんな時間に」
ダンジョン管理課では、セーフエリアの発見と共に監視セクションを除く全セクションの仕事が飽和していて、残業している者も多かった。
「ちょっと課長に呼びされちゃって」
「ああ、さっき机の上に突っ伏してたわよ。何かあったのかって、ちょっと話題になってた」
美晴は多分あれを読んだんだなと思ったが、それならなおのこと、この呼び出しはヤバいのでは? と気を引き締めた。
「へー。どうしたんだろうね?」
「最近、喫緊の案件が多いから。んじゃ、頑張ってね」
そう言って、ダンジョン管理課の同僚はウィンクをして自分の席へと戻っていった。
頑張れって、なにか他の意味で言ってるんじゃないよね? と曖昧な笑顔を顔に張りつけながら、それを見送った美晴は、斎賀のスペースへと足早に歩いて行った。
「課長、お届け物です」
美晴が、課長のスペースへ、差し入れを持って入ると、斎賀は憮然とした面持ちで、腕を組んで机の上のレポートを眺めていた。
「課長?」
「鳴瀬。何か言うことはないのか」
「え? えーっと。お疲れ様です?」
斎賀は、カーっと息を吐くと、「まあ、座れ」と机の横の椅子を指差した。
「はあ。あ、これ。ドトールですけど」
美晴はそういうと、彼の前に三種類のミラノサンドを並べて、ココアを渡した。
「どれでもお好きなのをどうぞ。私も失礼しますね」
そう言うと、早速自分のジャーマンドッグをほおばった。
ドトールのジャーマンドッグは、シンプルな見た目だが、とてもコーヒーによくあう味だ。
美晴は学生時代からこれが結構好きで、大学近くの聖坂の終わりにある三田三丁目店にはよく行ったものだった。禁煙席は少し落ち着かない場所だが、テイクアウトが多かったので、あまり気にもならなった。
ドトールのミラノサンドAはカットしてくれるお店と、してくれないお店があって、ここはカットしてくれるお店だ。カットしないお店の方が多いため、初めてほかの店舗に行ったときは驚いたものだった。
高田馬場1丁目店もカットしてくれるお店だったのだが、こちらは美晴が卒業する年に閉店してしまい、今はCOCOというカフェになっている。
斎賀は、適当にミラノサンドのCを手に取ると、それを口に入れた。
先日新しいメニューになったばかりのCは、ホタテやあさりのエキスを使った濃厚な海老グラタンにカマンベールチーズがのっているサンドだ。ココアによく……合うかどうかは個人の好みによる。
「んで、お前。俺にこれをどうしろって言うんだ?」
端からはみ出しそうになるグラタンを包み紙で押さえながら、斎賀が言った。
「嫌ですね、課長。それが分からないから、課長に押しつけたんじゃないですか」
美晴が、花が咲いたような笑顔でそう言うと、対照的に斎賀は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「あのな……まあ、それはともかく、いくつか聞きたいことがあるんだが」
「レポートに書いてある以上のことですと、お力になれるかどうかわかりませんよ」
「突っ込みたいことは山ほどあるが、まずはこれだ」
斎賀はホイポイカプセルのページを開いた。
「これはつまり、アイテムボックスってやつか?」
「私もそう尋ねたんですが、どうやら制限が色々ある見たいです」
「制限?」
「まず、レポートにも書いたとおり、単体のものしか入れられないそうです」
「本を入れたら、本しか入らないってことか?」
「まあそうですね。というより1冊の本を入れると、他にはもう入らないってことです」
「ああ、個別に一個ってことか」
手に持った、サンドをぱくりと大きく囓る。
流石に男の人は一口が大きいなと、美晴は妙なことに感心していた。
「ただ、何を持って一個と見なすかは聞いていません」
「つまり、大きな袋に色々詰め込んで、袋を収納するなら入るかもしれないってことだな?」
「そうです」
「後は容量だが……」
「制限が体積なのか質量なのかは、わかりません。少なくとも、そこに添付してある二十一層の拠点は入るみたいですよ」
「これが持ち運べるのか……」
「というより、それ――DPハウスって言うらしいですけど――を入れてしまったから、もうそれしか入らないかもしれないと言うことです」
「本当か?」
「分かりません。けど、試させろと言うわけにも……」
「いかんよなぁ……だが、多分それはないな」
「なぜです?」
「そのアイテムが複数あるならともかく、ひとつしかないんだとしたら、あのDパワーズがテストしないはずないだろ」
Dパワーズじゃなくても、最初は失われてもいい無価値なもので試さないはずがないのだ。
つまり最初に入れたものがあるにもかかわらず、DPハウスが入っているのだとしたら、彼女たちが意図的にそれを隠している可能性が非常に高い。
「それはわかりませんよ。三好さんには鑑定がありますから」
「表示された説明にそう書いてあったらってことか」
「そうです」
言われてみればその通りだ。
斎賀は、何かを考えるように宙を睨むと、残っていたミラノサンドのCを全部口の中に放り込んで、ココアで流し込み、唐突に聞いた。
「なんでこう、Dパワーズに偏るんだ?」
「どういう意味です?」
「いや、去年の終わりから、重要な発見はDパワーズが独占しているだろ?」
「我々が認知できる範囲ではそうですけど、そもそもあの人達は、ダンジョンに対する視点が普通と全然違いますから……」
普通の探索者は、『ダンジョンに潜って、モンスターを倒して、アイテムやオーブを取得する』を、ただ繰り返すだけだ。プロならそれが仕事だし、アマチュアは狩りや冒険を楽しんでいるようなものだからだ。
妙なことを考えたり、妙な実験を繰り返したり、妙な行動を取ったりはしない。そんな余裕があることは稀《まれ》なのだ。
オーブやポーションを手に入れて、大金を手に入れた探索者もそれなりにいるが、大抵は従来の世界にそれを投資していて、赤字のダンジョンを丸ごと借り上げたりした人間は、世界中さがしてもおそらく彼女たちだけだと断言できた。
「なにしろ初めて芳村さんにあったのは、自殺者がいるって通報でしたからね」
美晴は当時のことを思い出して、くすくすと笑った。
「研究者連中ならやるかもしれんが――」
「大抵はダンジョンに潜るところで挫折します。況《いわん》や下層など、とても無理でしょう」
潜ることに大きなモチベーションがあった小麦は、非常に特殊な例だろう。
それだって、Dパワーズのサポートがなければ、おそらく途中で挫折していたはずだと美晴は考えていた。
ゼロから初めて十八層でマイニングを手に入れ、さらに二十層まで潜るなんて、一人で挑んだとしたら何年かかるか分からない。
「そして、ダンジョンに潜る連中は、そんなことより大切な事があるってわけか」
プロ探索者の目的は、端的に言えばお金だ。
剣で切れば倒せる、銃で撃てば倒せる。そんなモンスターに向かって、剣で切ったり銃で撃ったりしないで、より簡単に倒す方法を考える、なんてことは普通の探索者はしない。
目的はモンスターを倒すことなんだから、せいぜいが、どううまく剣で切るかを考える程度だ。
ネットがない時代なら、そういうおもしろ系の雑誌が登場して、編集部がやっていたかもしれないが、情報がネットに移行してからは、安易にカネを稼げるプラットフォームにばかり注力されていて、コンテンツ開発はアマチュアかバカのやることだとまで言われる始末だ。
コンテンツなしでプラットフォームが存在できるはずがないのに、そんな意識が蔓延しているのは、なんとも酷い話ではある。
しかし美晴は、Dパワーズがそういう方法を見つけていることを確信していた。
でなければアーシャにDカードを取得させるなんて絶対無理だし、ダンジョンの中にあんな拠点を置いておくなんてありえないからだ。普通はスライムに食われて終わりだ。
もちろん口にはしないが、斎賀なら添付した写真で察するだろうとも思っていた。
「あいつらのどっちかが、なにか特殊なスキルを持っていると思うか?」
「と、言われましても……三好さんは、鑑定やヘルハウンドをペットにする何かを持っていますから、最初から思いっきり特別じゃないですか? 他にも、オークションに数多く出品されている水魔法なんかは持っていそうですし、以前聞いたところでは、超回復も所持されているはずです」
「数だけなら、おそらく世界一のスキル保持者だな。いっそのこと日本ダンジョン協会のルールを改変して、探索者は全員スキルを登録しなければならないなんてことにすれば――」
「おそらく自衛隊から待ったが掛かると思いますけど」
「ま、現実的とは言い難いか」
以前から世界ダンジョン協会でも何度かその話は出ていたが、どうせスキルを悪用するような連中は素直に登録したりしない。
管理情報だとしても、何を管理するのか不明瞭だってことで毎回流れていた。登録が実現したとしても、単に引き抜き行為が勢いを増すだけだ。
「これに関しては、上にあげれば確実にセーフエリアの開発に協力して貰えないだろうかって話になるぞ。もし本当に使えるならなおさらだ」
「でしょうね」
「貰えないだろうか、くらいならいいが、実際はその言葉を協力しろと言う意味で使っている連中が、その界隈には大勢いる」
「でしょうね」
「だがあいつらが、困ってる人や知り合いならともかく、そんなやつらのために、せっせと地上と三十二層を往復する姿は全くと言っていいほど思い浮かばないんだ」
「でしょうね」
「それどころか、圧力が掛かれば掛かるほど、へそを曲げることは請け合いだ。強権で取り上げようとしたりしたら、どんなに貴重なアイテムだろうが、平気で壊してへらへら笑ってる姿が目に見えるようだ」
美晴の耳には、壊れちゃいましたーと悪びれずに言う三好の声が聞こえるような気がした。
「課長、凄いです。完璧な予測《プレディクト》、いえ、予知《プレコグニション》です。まるで超能力者ですね!」
「全然嬉しくない。というわけで、なんとかしてくれ」
「……はい?」
笑顔のまま固まった美晴は、斎賀の話を理解できないように小首をかしげた。
「いや、鳴瀬君なら出来るだろう? なにしろあの意味不明な条件で、異界言語理解の取得に協力させた実績があるんだ」
「かーちょー。自分で意味不明な条件とか言わないでくださいよ!」
「ほら、このミラノサンドのA、やるから」
「私が買ってきたんですけど……」
斎賀は、はーっと大きくため息をつきながら、がっくりと肩を落とすと、最後のページを開いて指差した。
「で、あまっさえ、こりゃいったい何だ?」
「なんだと言われましても……」
そこにはDパワーズ曰く、デミウルゴスの目的が簡潔に書かれていた。
「ダンジョンの向こう側にいる奴の目的が、人類に奉仕することだ? で、そのためにダンジョンは作られたって?」
「はい」
「どっかのファーストコンタクト系侵略ものSFの『承』部か?」
「それを信用すると掌クルンされて、人類大ピンチの『転』に突入するわけですね」
「そうでなきゃ、新興宗教だな。ダンジョン教だ。彼《か》の道のりの向こうには、幸い住むと人の言う。ってか」
「まあ、そうですよねぇ……」
「で、これ、奉仕して貰ったらどうなるんだ? 対価とか必要なのか?」
「分かりません」
「仮にこの目的が本当だとしてだな、こちらの意思はどうやって伝えればいいんだ?」
「分かりません」
まあそうだよな、と斎賀は苦笑した。
「で、これも?」
「はい?」
「取り扱いに困ったから、俺に丸投げしたのか?」
「はい」
どこでそんな上司の使い方を覚えたんだよとは思ったが、そんな場所はひとつしかない。
斎賀は、こいつを専任にしたのは早まったかなと、少しだけ後悔した。
「しかしこれなぁ……報告するとしたら、ダンジョン庁か? 世界ダンジョン協会を始めとする国際機関にこのまま報告したりしたら相当追求されるぞ?」
なにしろ、ダンジョンの中でデミウルゴスの影のようなものにあって教えて貰ったと書いてあるのだ。正気を疑われることは間違いない。
美晴は、それがタイラー博士だと言うことを報告から省いていた。もしもそれまで報告したとしたら、さらにややこしくなることは請け合いだ。
「そこは、証拠がないですからね。一応例の五時間が間接的な証拠っぽいものだと仰ってましたが」
「あれか……もしかして、全能のデミウルゴス様に送ってもらったとでも言うのか?」
「その通りです。気がついたら一瞬で一層だったそうです」
「マジかよ……一瞬って、じゃあその五時間が――」
「邂逅時間ってところですね」
「だが、それは不思議ではあっても証拠にはならないだろう。転移魔法のスキルが発見されたと言う方がよっぽどリアルだぞ」
斎賀は自分が言っている言葉の意味を考えて、心の中で苦笑した。
転移魔法がリアルなんって発言をする日が来るとは思いもしなかったのだ。
「そうなんですよね。あ、一応それに会う方法は聞き取りしました」
「レポートにはなかったが?」
「書けませんよ、こんなの」
美晴は軽く肩をすくめて言った。斎賀は聞きたいような聞きたくないような複雑な気分だったが、最後は職責に負けてそれを尋ねた。
「……で、どうするんだ?」
「まず、さまよえる館に行って、そこで働いている人達のお手伝いをします」
「手伝い?」
「うまくすれば魂っぽいアイテムをドロップしてくれるので、その後、魂の器というアイテムを手に入れて、ドロップした魂っぽいアイテムを魂の器に入れることで、隠された庭に招待されるかも、だそうです」
美晴は、それがさまよえる館の書斎で待っているかも知れないことを知っていたが、最終ページは無かったことにしてあるため、それを口にはできなかった。
「魂ってなんだよ? 魂の器ってどうやって手に入れるんだよ? あと、『かも』ってなんだよ! 突っ込みどころがありすぎて、突っ込みようがないくらいだ。ともあれ、まず再現は不可能だな」
さまよえる館に行くのは、不可能じゃないかも知れない。
だが、働いている人達のお手伝いってなんだ? 以前公開された映像じゃ、目玉の大軍だのガーゴイルだのが大挙して襲ってきていたが、どうやって何を手伝うんだ? 斎賀には、さっぱりわからなかった。
「確かに、書いたほうが信憑性が失われそうな内容だな、これは。方法自体が疑わしい上に、再現はほとんど不可能だ。うさんくさいことにかけては、ダンジョンの目的と同じで五十歩百歩というやつか」
「はい」
「ただ、仮にこのまま報告したとしても、証拠を出せとは言われない気がするけどな。正気を疑うとボロクソにけなされて、検討する価値もない、なんてこき下ろされてスルーされるだけで」
「どうしてです?」
「報告したのがDパワーズだからだよ」
証拠を出せと凄んだあげく、もしも本当に証拠が出てきたとしたら、なにか大ごとになりかねないってことは、こき下ろす側もよくわかっているはずだ。なにしろ、わざわざ言われるまで証拠を提出しなかったということは、必ず何かの理由があるはずだからだ。
「つまり、Dパワーズなら、実は証拠もあるんじゃないかと考えるってことですか?」
「そうだ。お前、ここ三ヶ月で、あいつらの周りで何人の外国人が強制送還の憂き目にあったか知ってるか?」
「いえ」
「俺が知ってるだけでもかなりの数だ。直接的なヒューミントはほぼ全滅、まさにアンタッチャブルってやつだな。実際あいつらの評価は国外の方が遥かに高い。インド・ヨーロッパ方面では、魔法使いなんて呼ばれていて、すでに半分伝説だし、そうでなくても向こうじゃ立派にVIP扱いらしいぞ? ただし『危険な』って修飾詞が付きかねないんだけどな」
「それって、三好さん達を国家がガードしてるってことですか?」
そういう人達をあまり見たことはない。彼女が会ったのは謎の田中さんくらいだった。
斎賀は首を振った。
「まあ、何かしらはしていると思うが、そう大げさなものでもないだろう。大抵は当局へ電話が来るんだとさ。邪魔だから持って帰ってくれって」
「え、三好さんたちからですか?」
斎賀は口をへの字に曲げて、肩をすくめた。
最近じゃ、いろんな場所で行き倒れになっている外国人も発見されるそうだが、それが実はアヌビス達の仕業であることは、三好たちはおろか、当の小麦も知らなかった。
行き倒れた者たちは、日本の安全な社会という特殊事情によって、大抵は無事に保護されていたから、たいしてニュースにもなっていない。
「それくらいだから、各国も藪をつついたりはしないだろう。そもそも、証拠もなしに、こんなバカみたいな内容を報告するやつがどこにいるんだよ」
「そりゃそうですね」
「ああ、ストレスで毛が抜けそうだ。禿げたら、お前らのせいだからな」
「それで、どうします?」
「普通のルートで上げるのは無理だ。だから俺も丸投げするぞ」
「え? 部長にですか?」
「こんな情報、ダンジョン管理部あたりのレベルで取り扱ったって意味ないだろ。仮にそれが本当だとしても、だからどうしたのとしか言いようがない。こんなのは出来るだけ上の方にリーチできそうなところに投げとくのが正解だ」
「ええ?」
「自衛隊の寺沢とかいう偉いヤツに丸投げする。こいつにはちょっとした貸しがあるんだ。どうやら内調あたりともつながりがあるみたいだしな」
「厄介払いってことですね」
「ま、そう言うことだ」
斎賀はにやりと笑って、持っていたミラノサンドのAを囓った。
くれるんじゃなかったのかと思いながら、美晴は最後のBへと手を伸ばした。彼女が好きな、海老とアボガドのサンドだ。
「むぐっ。じゃあ、この件はこれで終了ですか?」
それを一口囓って飲み込むと、美晴は確認を入れた。
「そうだな。ホイポイの件は専任官である鳴瀬君におすがりするしかないから、頼むな」
「え? こっちは報告するんですか?」
「二十一層にあんなものが建ってるのに、理由や方法を報告しないで済むと思うか?」
「まあ、無理ですよね」
「まともに報告すると、余計なことをしそうな部署が沢山ありそうだから、さりげなくアイテムデータベースに追加しておこう。後は野となれ山となれ、だ」
「課長、最近壊れてません?」
「誰のせいだと思ってるんだ?」
「さて、そろそろ帰ります!」
矛先がこちらに向く前に退出しようと、美晴は急いで残りのサンドイッチを食べて、スカートをはたきながら立ち上がった。
「ああ。お疲れ。しかし、こうなるとやはり日本ダンジョン協会にも、鑑定持ちが欲しいな」
「さまよえる館を出現させるだけでも大変ですよ。アイボールは沢山いるみたいですけど。何を鑑定したいのか知りませんけど、今は三好さんに頼んだ方が早いと思いますけど」
「だがなぁ、あいつら鑑定を請け負ってないだろ? きりがないってのは、よくわかるが」
例え『しない』と明言していたとしても、一度引き受けて貰ったら最後、心理的なハードルはだだ下がりだ。
調子に乗って依頼してくるのが目に見えるようだ。まるでそれが特権だとでも言わんばかりに。
「意外と現場で頼まれたらしてるみたいですけど。三十一層でも、ドロップしたアイテムの鑑定をその場で自衛隊に頼まれてたみたいですよ?」
「なに?」
「だから、持って行き方次第じゃないかと思うんです」
「なにかアイデアがあるのか?」
帰ろうとしていたところにそう聞かれた美晴は、広報セクションと協力した、代々ダン情報局のリニューアルにDパワーズを巻き込む案についてざっと話した。
「そりゃ面白そうだが、あいつらにとっちゃ面倒なだけだろ? 協力してくれると思うか?」
「課長、今言ったじゃないですか『面白そうだ』って」
「それが?」
「三ヶ月一緒にいて思ったんですけど、あの人たちの行動原理は、それなんですよ」
「子供かよ!」
あまりにストレートな表現に、美晴は苦笑しながら肯定した。
「世の天才と呼ばれる人達は、みんなそんなものですよ。それに、好奇心は人類が進歩するための原動力ですから」
「確かに俺たちにとっちゃ『天災』みたいなものなのは確かだな。あと、そいつは猫を殺すとも言うから気をつけろよ」
「九つも命がない身としては、そうならないよう注意します。ではお先に失礼します」
「ああ、ホイポイの件よろしくな」
美晴は諦めたように振り返ると、「動くのは具体的な話が出てからでいいですよね?」と確認した。
「それでいい」
「了解です」
そうして美晴は、日本ダンジョン協会を後にした。
ダンジョン管理課の明かりは、まだまだ消えそうになかった。
132 誰がために麦は生る 1月31日 (木曜日)
その日は、朝からどんよりとした曇天で、今にも雨が降り出しそうだった。
それにもかかわらず、三好は朝からどこかに出かけているようで、いつもいるはずの事務所にいなかった。
俺は、仕方なく自分で朝食の用意をしようと、事務所のキッチンへと向かった。
「考えてみたら、自宅の台所、全然使ってないな」
まえのボロアパートも、まったく使ってないにもかかわらず、いまだに維持したままだ。
家って、人が住んでないとだめになるんだっけ。いい加減引き払わないとまずいよな。
大きな冷蔵庫を開けて、中を物色すると、パテがいい感じに仕上がっていた。
「あとは、ほほ肉かー。今日も寒いし、夜は赤ワイン煮込みにするかな」
赤ワインは、何にするか結構悩んだが、三好のセラーだけに、あんまり希少なのを引き当てると殺される。
しかし、俺には南アフリカや南米の知識はほとんどない。
「まあ、牛肉煮こむんだから、ブルゴーニュでいいよな」
三好のセラーのブルゴーニュは、概ね、北から順番に整理されている。つまり、一番上には、ジュヴレ・シャンベルタンがあるのだ。マルサネやフィクサンはさすがに少ないからだ。
今度、その上にディジョンのマスタードをつるしておいてやるか、とくだらないことを考えながら物色する。
「しかし、ジュヴレ・シャンベルタンはトラップが多いからな。下手なのを選んで、料理に使ったりしたら絶対に殺されるからな……」
なにしろ、三好的な順位は、価格じゃなくてその年にあったイベントだの希少性だのが優先されるから、まるで分らないことも多い。以前、俺のカードで買わされたバタール・モンラッシェみたいなやつだ。
グラン・クリュはNGとかなら、ラベルに書いてあるからわかるんだが、こういうのは知らないと回避できないのだ。
ドニ・モルテひとつとっても、二〇〇〇年の前と後、二〇〇六年の前と後、そして、サンク・テロワールの前と後など、悲劇も含めて変化がありそうなイベントは数多い。
二〇〇四年のベルナール・デュガ・ピィや二〇〇六年のアラン・ビュルゲも作り手や作り方の変化がある年で、比較の楽しみを重要視する三好的には重要だ。
とりあえず村名のACを選んでおけば無難だろうと思ったら大間違いで、例えばルロワの二〇〇四年なんかは、不幸が重なった結果、所有するすべての畑をACブルゴーニュと村名ACとしてリリースした。
その年のルロワのジュヴレ・シャンベルタンには、グランクリュのシャンベルタンとラトリシエール・シャンベルタン、それにプルミエクリュのレ・コンベットのブドウが使われたのだ。もっともテントウムシさんも入っていると思われるが。
「まあ、そういうのがなさそうなドメーヌの村名で、ある程度バランスの取れた酸とタンニン、それに力強さがあるやつでいいか」
あとはなるべく安そうな――
「レシュノーかな」
そこそこ力強く、そこそこバランスよく、そこそこ安い、お買い得なジュヴレ・シャンベルタンだ。
俺は湯を沸かすと、オレンジを一個を取り出して、そのままお湯の中に入れた。
その間に、香味野菜と赤ワインでマリネ液を作り、ほほ肉とともにジップロックに突っ込んで冷蔵庫へ。せめて何時間かは寝かせないとな。
オレンジは、都合七回ほど煮こぼした。
パテに添えるソースを作っているのだが、皮も使うタイプにする場合、ここで煮こぼす回数で苦みをある程度調整できる。さらにここで、皮を使う量を調整してもいい。
その後、くし形にカットして、ヘタの部分と種、そして中心の綿は取り除く。あとは適当にカットして鍋で煮るだけだ。
甘さを追加するために、ここでシロップなどを投入するわけだが、オレンジの場合、最初から糖度が高い状態で煮込むと苦みが強調されるきらいがある。
そこで、糖度が低めの状態から煮詰めて糖度を上げていくのが、うまく仕上げるコツだ。
「こんなもんかな」
皮が柔らかくなったところで、グランマルニエを加えて、香りを追加する。うちではルゴルのオランジュも少しだけ加える。
酸味にレモンを加える場合もあるが、今日はフレッシュですぐ使うから、オレンジ果汁を加えてみた。
全体をミキサーにかけるてとろりとさせると出来上がり。
レトロドール《バゲット》を保管庫から取り出して、カットしたところで、玄関の扉がいきなり開いた。
「せ、先輩!」
「なんだ?」
あまりの三好の慌てぶりに、おれは急いでダイニングへと出た。
「これ、これ見てください!」
三好の手には、一条の小麦が握られていた。
「なんだ? デメテルごっこか?」
「え、そんなに乙女っぽいですか?」
「何言ってんだ。デメテルってば、乙女というより、かーちゃんだろ?」
「先輩こそ、何を言ってるんですか。乙女座ですよ、乙女座。ほらスピカも完備!」
三好は麦の穂をつきだして、上下に振っている。乙女座って、アストレイアじゃないの?
「あれって、大麦じゃないの?」
「時代を考えればその可能性もありますが、デメテルだとしたら小麦でしょう」
そうか、ギリシア神話では小麦の作り方を人類に教えたのはデメテルだもんな。
「なるほど。しかしこうしてみると――」
俺は、三好が動かしている小麦の先を見ながら続けた。
「――スピカと麦の穂って、エルフを連想させるよな」
「なんですか、その飛躍は」
「いや、だって、スピカってΣταχυ?《スタキス》から来たラテン語だろ? 元は、尖ったものっていう意味なわけだ」
「それはそうですけど……なんでそれがエルフなんです?」
「だって、小麦の穂って、ear of wheat じゃん。尖ったもの=ear《耳》。ほらエルフだ」
「なんというこじつけ」
実際エルフが尖った耳を持つのは、神話の成立なんかに比べればずっと後の話だ。
全てのエッダに目を通しているはずもないが、エッダのアールヴに耳が尖っているという記述があるという話は聞いたことがないから、それが英語やドイツ語の文学に引用された時点で、悪戯好きの妖精や悪魔のイメージと交じって尖った耳が与えられたことは想像に難くないだろう。
「乙女座って、バビロニアですでに、女神シャラと穀物の穂を表す星座として知られてるんですよ。エルフの耳が尖るのに先んじること二五〇〇年以上です」
「そうか。予言って本当にあったんだな」
三好は呆れたように、天を仰いで腕を広げた。あ、そのポーズ、ちょっと乙女座っぽい。
「で、こんな話をするために、わざわざ南半球から取り寄せたのか、それ? 今二月だぞ」
「惜しい! 出所《でどころ》は、ダンジョンの二層でした!」
「全然惜しくないだろ! って、二層? ……まさか、例の一坪農園か?」
「はい」
俺は一瞬唖然としたが、すぐに気を取り直した。
「しかし、植えたのって、一月二日だよな? 柳久保(二層に植えた小麦の種類)って、一ヶ月で収獲できるのか?」
「代々木の二層では、そうみたいですね」
「そりゃ、JA東京みらいのお姉さんもびっくりだ」
なんと12期作が可能な麦! って、土地が一瞬で死にそうだな。
「芽が出るまでは普通だったんですけどね」
そうだ。確か地面に芽が出てきたのは、十日目くらいだったはずだ。
それで、一ヶ月後の麦踏みまでは、あまりやることもないだろうと油断してたんだった。
「Dファクターがなじむにつれて、成長速度が上がったってことかな?」
「私たちが、『早く育たないかな』と考えながら世話をしていたからかもしれませんよ」
あり得る……実にダンジョンらしい方向だ。
俺は、ダイニングの椅子に座ると、落ち着いて先月からの流れを思い出していた。そうして、一番重要な事柄を確認した。
「それで、リポップは?」
三好はいままでのおちゃらけた態度を引っ込めると、急に真剣な顔つきになり、持っていた麦をテーブルの上に置いて、言った。
「しました」
「まじかよ……」
それは世界の食糧事情が、もしかしたら大きく変革されたのかもしれない瞬間だった。
「じゃちょっとまとめるか」
「了解です」
ダイニングで、そのインパクトから立ち直った俺たちは、あらためてテーブルの上に置かれた一条の小麦の穂を見た。
その穂は、未来を象徴するかのように、金色に輝いていた。
「ひとつめ。ダンジョンが管理しているオブジェクトは成長しない」
「たぶん」
「ふたつめ。ダンジョンが管理しているオブジェクトはリポップする」
「こっちは確実ですね」
「みっつめ。Dファクターによって進化するものは、どういうわけか選別されている。種は進化するようだ」
「カギは、幹細胞の有無ですかね?」
「成長した後の動物や植物も、ある程度は幹細胞を持ってるぞ。特に植物は。それだけだとは思えないな。そもそもダンジョン内の木本《もくほん》の維管束形成層ってどうなってんだ?」
維管束形成層は、木本(つまりは木だ)の樹皮の下にある層で、内側に木質部を作ることで木を太く成長させる組織だ。
成長しないということはここが機能していないことになる。そうした木に、果たして年輪はあるのだろうか? 年輪はこの層が活動してできる模様だからだ。
「ダンジョンが最初から作ったオブジェクトとしての木は、きっと年輪付きでそこに登場してるんだと思いますよ」
「まあ、いくらダンジョン内ば別空間だからと言って、実在する空間そのものを切り取ってきたとは考えにくいもんな」
切り取られた元の空間は、どうなってんだって問題があるし。
「形成層や、頂端分裂組織がどうなってるのかは……謎ですね」
育たないんだから、機能が停止しているか、その組織がないかのどちらかだろうが……あ、時間が止まってるというのも可能性としてはあるか。
「なんにしても進化するのは、先輩が進化して欲しいって思うものですよ」
三好があっけらかんとそう言い放った。
俺は言葉に詰まったが、言下に否定できないところがオソロシイ。
「よ、よっつめ。Dファクターによって進化したものは、ダンジョンへの通知が行われるとき、プロパティが修正され、以降成長しなくなる」
「これも小麦では確認されました」
先月最初にリポップさせた小麦(傷つけたやつだ)は、結局そのまま生長しなかったのだ。
「あとは……そうだな。当初の話だと、新しく作られてダンジョンに通知されていない種は、そのまま次の種として使えるんじゃないかという話だったが――」
「たぶん切られた瞬間に通知されちゃってる気がします。一応確認用に、いくつか埋めておきましたけど、芽は出ないんじゃないでしょうか」
「結局、最初の種をD進化させて植えた後、ダンジョンへの通知イベントが起きないようにうまく育てて、実っているときに刈り取ることができれば、あとは刈り取り放題の畑ができあがるってわけか」
この農法のすごいところは、リポップ時間にもよるが、広い面積が必要ないことにある。
なにしろ刈り取る端から復活するのだ。最後の刈り取りが終わったときに最初のものがリポップしていれば、もはやそれは永久機関だと言ってもいいだろう。
俺は机の上に置かれた、麦の穂を手に取ると、それを軽く振って言った。
「本当に無限に刈り取れるのかも気になるよな」
「じゃあ後は、刈り取った麦でネズミを育てる実験と、ひたすら刈り続けてリポップが行われなくなるか確かめる実験が必要ですね」
前者は、本当にエネルギーに変換されるのかという問題のチェックで、後者はどのくらい収穫できるのかを確認する実験だ。
細胞分裂のテロメアのように、リポップするたびに減っていく何かでリポップ回数が制限されていてもおかしくないからだ。
「よし、進化と作物については発表してもいいだろう」
「書類は前から揃ってますし、提出はネットでもできますからすぐに審査請求できますよ。すぐやっときます」
「了解。栄養に関しては……ネズミの実験をやったら出荷もしてみるか?」
「一応小麦の種は、横浜の踊り場に積み上げておきましたから、各研究機関からの要請に応えるくらいなら大丈夫ですけど」
あそこは、ちょっとDファクターの濃度が薄いのか、いろいろと時間がかかるから、実際に進化しているかどうかを調べる手段が欲しいよな。
「そういや、進化した種とそうでない種って見分けられるようになってるのか?」
「ある程度まとまっていれば、あのリファレンス機で計測可能でした。Dカード所有者検出との類似性もあるみたいでしたよ」
なら、間違って進化前の種を出荷することもないか。
「あとは農園をどうするかだな。いつまでもリポップする小麦を、二層に放置したままだと拙いかもしれないし」
「とはいっても、引っこ抜いたりしたら、二層中にばらまかれちゃうと思いますよ」
切り取れば、切り取った部分がリポップで再生するが、引っこ抜いてしまえば、どこにリポップするか分からない。モンスターのリポップ位置が分からないのと同じ理由だ。
実際のところ、知的所有権さえ確保してしまえば、別にばらまかれてもいいような気はするが、なにしろことがことだ。管理組織の意向をうかがっておくことは重要だろう。
俺は組んでいた腕をほどくと、おもむろに言った。
「いっそのこと、管理を日本ダンジョン協会に丸投げするか」
「ええ?」
「ほら、あそこって、今のところ世界にひとつしかないダンジョン内麦畑だろ?」
「おそらく」
「だから、今なら喜んで引き取ってくれると思うんだよ」
「それは、そうかもしれませんけど」
「もしも人間の食料としてこいつを活用するなんて話になれば、どうしたって安全性の確認とかが必要になるだろ?」
「せとかは平気で食べちゃいましたけどね」
「川の水を個人が飲むのは勝手だけれど、それを広く社会に提供しようとしたら水質検査は行われるさ」
何しろ対象は主食の穀物なのだ。
オーク肉なんかでも、最低限の確認は行われたのだろうが、それとは比較にならない範囲に影響を及ぼすに違いない。
「まあ先輩が、文化的な英雄を目指すわけないし、そういうのはパスするとは思いましたけど。トリプトレモス役は、各国の政府や団体に押し付けたいってことでしょう?」
トリプトレモスは、デメテルに麦の栽培を人類に教える役目を押しつけられた男だ。
デメテルに、エレウシスの秘儀を開示され、有翼の蛇の戦車を押しつけられた後は、空を飛んで世界中の人々に麦の栽培を教えることを命じられたとアポロドーロスが言っている。
「さすがは三好、よくわかってる」
そんな役どころは絶対に御免だ。いいことなど、ひとつも想像できない。
「多少の利益は頂きたいですけどね」
「D進化の特許は、ものすごく基礎的で範囲が広いから、そこだけ押さえておけば、ほとんどの類似行為は引っかかるだろ。その先の、何を進化させるのかという個々の問題は、世界に任せちゃえばいいさ」
「どうせ手に負えませんし」
「その通り。しかし、これって……やっぱり、ダンジョン管理部扱いか?」
なにしろ管理対象がはっきりしないうちに立ち上がったあの部署は、業務範囲が広すぎる。
すぐやる課としての価値はとても高いと思うけれど、今後はちょっと無理があるんじゃないかと思わないでもなかった。
「鳴瀬さんの悲鳴が聞こえてきそうですけど」
「営業部との兼ね合いがどうとかって?」
「日本ダンジョン協会のことは、日本ダンジョン協会に解決してもらいましょう」
俺たちは明後日の方向を見ながら耳をふさぐ決断をした。
組織内部のことは、組織内部に解決してもらわなけらばならないのだ。本音を言えば、そんなことまで知らんがな、だ。
「それはともかく、動物を進化させてみるやつは出るよな、絶対」
「先輩も家畜の話をしてましたもんね」
「どこにリポップするかわからないから管理が難しいうえに、屠殺した瞬間、モンスターよろしく黒い光に還元されそうな気もするし……第一、受精からスタートさせるとか専門家じゃないと無理だから断念したけどな」
俺には絶対無理な自信がある。たっぷりと。
「倫理観のない国は、すぐに人間で試しそうですけど」
「そういうのって抑制できないものかな」
俺は結構真面目にそう言ったが、三好の返事は、さっきと同様、あっけらかんとしたものだった。
「先輩が、人間はD進化をさせないって決めれば、きっと抑制できるんじゃないですか?」
「……俺は、神様かよ?」
「冥王は、立派な神様だと思いますけど」
そういわれてみて、なるほどと納得したが、生き神様になるってのはちょっとどころではないくらい抵抗がある。
「それで、神様にお願いがあるんですが」
三好が真剣な顔で、俺の顔を覗き込みながらそう言った。
「な、なんだよ」
「すごくいい感じのオレンジの香りがするので、きっと何か手の込んだ料理が出てくるんだろうと期待してます」
三好は、芝居がかった様子で、おなかを抑えてペコペコだよポーズをとった。
その瞬間、居間からグラスが飛んできて、三好の周りをくるくるとまわり始めた。
「はいはい。パン食だから、飲み物でも入れてろ」
「了解です」
突然戻ってきた日常に、俺は苦笑しながら椅子から立ち上がると、パテをカットしにキッチンへと向かった。
D進化にかかわるダンジョン特許と、それと間をおかずに提出された『ダンジョン内作物のリポップと、現行作物のダンジョン内作物への変換』というレポートが、世界をまたまた震撼させてしまうのは、すぐ先のことだった。
133 査問の意図 2月1日 (金曜日)
市川では、柔らかく差し込んだ冬の光が、机の上にブラインドの影を静かに落としていた。
防衛省の一角にある寺沢の部屋では、部屋の主がディスプレイを前に、腕組みをしたまま固まっていた。
「ったく、そろそろ鋼たちが来るって時に。こんな情報を暗号化もせずに添付して送って来るとは……あの男も食えんな」
彼宛に、日本ダンジョン協会のダンジョン管理課の課長から送られてきたメールには、小さなテキストファイルがアーカイブされて添付されていた。
それを開くと、そこには、ダンジョンの目的などと言う途方もないヨタ話が綴られていたのだ。
「異界言語理解の時の意趣返しにしては……」
話がぶっ飛びすぎている。今日が四月一日なら、読んで笑って、はいそれまでといった内容だ。
それに暗号化されていないと言うことは、とっくに何処かの誰かが傍受しているに違いない。インターネットを流れるパケットは、一般道を歩く人間みたいなものだ。監視する気があるなら見られていないと考える方がどうかしていた。
もちろん彼も、それをわかっていて暗号化せずに発信したに違いない。
なにしろ書かれている内容が内容だ。
衝撃的ではある。だがそれには、もし本当だとしたらという条件が付くのだ。しかもそれを確かめる術はない。
「異界言語理解の時の碑文と同じ構図だな」
しかも報告は暗号化されていない。寺沢が傍受した側だったとしても、何の罠だと考えることだろう。
しかし、もしもこれが真実なら、日本がダンジョンの向こうにいるとされる何かとファーストコンタクトをとった、と言うことになるのだ。
そのコンタクトは継続しているのか? なにか特別な情報を得ているのではないのか?
傍受した相手にとっては、知りたいことだらけだろう。
それは、地球よりも遥かに進んだ文明を持った宇宙人がやってきて、特定の国家とだけ交流するようなものだ。
コンタクト相手は我が国か、そうでなければ最低でも国連でなければならない。どんな国家もそう考えるに違いない。
「こいつはまた、大した爆弾だ」
寺沢は、大きくため息をついて椅子の背にもたれかかった。
傍受した側から見れば、もしも真実だったときの損失が、ヨタ話だと笑い飛ばすには大きすぎる。
たった1通の、真偽すらも定かでない怪しい報告によって、世界はさらに危ういバランスになるだろう。あたかも、複雑に絡み合った巨大な機械の要の点を、指で軽くつついただけで、全体が大きく動き出すように。
「たかが日本ダンジョン協会の課長だなどと侮っていれば、足下の地面毎ひっくり返されないな」
斎賀の評価は、自分のあずかり知らないところで、だんだん手に負えないものになりつつあった。
その時、寺沢の部屋のドアがノックされる。
「入れ」
「失礼します」
そう言って、鋼と伊織が入室してきた。
「本日はお時間をいただきありがとうございます」
鋼が鯱張ってそういうと、寺沢は思わず吹き出した。
「鋼。この部屋には誰もいないぞ」
「二尉がおりますが」
寺沢は伊織をちらりと見ると、「まあ、大丈夫だろ」と言った。
「ならいいか」
そう言って、鋼は、ソファにどかりと腰を下ろした。
「君津二尉も座り給え」
「は。失礼します」
寺沢に促されて、鋼の隣に腰かけると、寺沢が3本のペットボトルに入ったお茶をテーブルの上に並べた。
「瓶もので悪いな」
「気にするな。何かが出てくるようになっただけましだ」
鋼がそう言って、お茶のボトルを開栓した。
二人が気安い間柄だというのは知っていたが、これほど近しいとは思わなかった伊織は、目を白黒させていた。
「それで今日は?」
「こいつに査問が行われるらしい」
「査問? どうして?」
「聞いてないのか?」
怪訝な顔をする寺沢に向かって、鋼が詳しい経緯を説明している。
伊織は、なんだか保護者についてきてもらった学生みたいな気分で、私が主体じゃなかったっけ? と黙って鋼の話を聞いていた。
「ふーむ。少なくとも日本ダンジョン協会Gのラインからは、そんな話は聞いていないな。第一その内容で懲罰決議を出すのは無理があるだろう」
そう聞いて、伊織はほっと胸をなでおろした。
大丈夫だろうとは思っていたが、寺沢のお墨付きを得ることができたのだ。それに彼女はまだ自衛官をやめるつもりもなかった。
「ならどこから?」
「自衛隊員倫理審査会は、服務管理官管轄下だ。なら上というと、防衛省人事教育局か、またはそこの直接影響力を行使できる誰かってことだろう」
「いや、直接影響力を行使できる誰かってな……目的はなんだよ。まさか君津二尉の排除か?」
寺沢の言い草に、あきれるように上半身を起こした鋼は、隣に座っている伊織を見た。
「そんなことをして得するのは、そのあと彼女を確保する企業や組織くらいなものだろう。防衛省には不利益しかない。もっとも、他国のスパイでも紛れ込んでいれば別だが……」
「おいおい」
「それにしたって、別に戦争をやってるわけじゃないんだ。今彼女を排除する理由はない」
「ってことは……」
「それ以外の理由だな」
「それ以外って……」
査問を受けるのは伊織一人だ。他の関係者と言えば……
「まさか……」
「そうだ。この問題に、関係者は二人しかいない。片方じゃなけりゃ、狙いはもう一人の方だろう」
「あの仮面の男か」
鋼は、どこかひょうひょうとしていた、ダンジョン探索を馬鹿にしたような恰好をした男のことを思い出していた。
その男は、デスマンティスもキメイエスも、まるでそこにいないかのように自然歩いて、伊織の元まで歩いて行ったのだ。
「ダンジョンの管理者じゃないかって冗談が出ていたが」
「管理者? なんだそれは?」
「え? その話じゃなくって?」
「鋼さん。そんな話、上に報告されているわけありませんよ。報告した内容で上が興味を持つのは、彼の戦力と超回復の出所でしょう」
現場では、確かに鋼の言った内容の方が、そのインパクトも含めて話題になったが、上が興味を持つような内容は伊織が言ったとおりだった。
「どっちにしても、どこのどいつか分からなければアプローチのしようがないってことか」
「そういういことだ。こいつは査問の調査にかこつけた、その男の身元調査ってところだろう」
「なんとまあ、迂遠な」
「表の組織には、常に根拠が必要だからな。しかも相手は日本人とは限らない。なにしろ代々木はパブリックだし、東京は外国人だらけだからな」
「表の組織ってなぁ……裏があるみたいな発言はやめろよ」
寺沢は、嫌そうに言った鋼の言葉を、笑って受け流した。世界には知らなくていい事柄も沢山あるのだ。
「やはり、ダンジョン攻略局の秘密兵器なんでしょうか?」
ぽつりと伊織がこぼしたセリフに、寺沢が反応した。
「ダンジョン攻略局の? なにか根拠があるのか?」
「いえ、実は……」
伊織は、キメイエス戦の後、その場にいた探索者に彼のことを聞いて歩いた話をした。
彼が誰で、どこへ行ったのか、その場にいた誰も知らないようだったが、ただ、サイモンの態度だけが少しおかしく、突っ込んで聞いても肩をすくめられただけだったのだ。
もっとも、サイモンが伊織に対して少し引いた態度をとることは珍しくないのだが。
「なるほどな。しかし、彼はエリア12の探索者だろう?」
「誰も知らない1位の男だとしたらそうだな。だがダンジョン攻略局ってのはどうかな」
「どうしてそう思う?」
「あいつが残していったマントは、なんというか普通の布っぽかったぜ。何の防御力もなさそうだった。言ってみれば雰囲気アイテムだな」
「ほう」
「ダンジョン攻略の最先端で、合理主義の権化みたいなダンジョン攻略局があんな装備を使うはずがないと思うんだがなあ」
消える演出に使うために、ありふれた布を残している可能性もなくはないが、鋼には、どうにもアメリカっぽくないと感じられて仕方がなかった。どちらかと言えば、素人の趣味人だと言われた方がピンとくる。その強さを除けば、だが。
「もっとも、それが許されているくらい凄い男だって可能性もあるだろうが……」
その場合でも、ひどい趣味だなと、鋼は思った。
「それほどか?」
「報告は?」
「一応目は通したが、淡々とした経過報告だからな」
鋼はもぞりと腰を動かして座りなおすと、身を乗り出して語り始めた。
「そいつは、俺たち全員が全力で対応しても、押さえておくのが精いっぱいのモンスターを、まるで子供みたいに扱っていたんだ。エバンスのボスだったデスマンティスが、まるでゴブリンみたいに倒されるなんて、今思い返しても信じられん」
「キメイエスにとどめを刺したのは、君津二尉だと聞いたが」
「あれは、譲ってもらったんですよ」
その瞬間を思い出すように、伊織がそれに答えた。
「譲って?」
「私の手足を再生した後、彼は私にキメイエスを倒したいかと聞いてきました。そして私が頷くと、鉄球を数個渡して、準備をして合図を待てと」
「合図?」
「光の柱が上がったら撃てと、そう言われました」
「その鉄球は、手元にあるのか?」
「わかりませんが、隊員が回収していれば、持ち帰った装備の中にあるでしょう」
「悪いが探してみてくれないか」
「わかりました」
鉄球は確かに彼の持ち物だ。マントと違って、加工にはそれなりの設備も必要だろう。そこから彼の素性がたどれるかもしれないと考えるのは普通だろうが……
「寺沢二佐も、彼のことを調べるおつもりですか?」
「ん? ああ、まあ……保険みたいなものかな」
「保険、ですか?」
言葉の意味が分からず、伊織が首をかしげるが、寺沢はそれに取り合わずに会見を終わらせる言葉を紡いだ。
「ともあれ、査問の件については心配することはないだろう。おそらく資料準備の段階で目的は達成されるだろうから、査問自体が行われない可能性も高いが、仮に行われたとしても、オーブを使われた経緯を正直に話すだけで問題ないはずだ」
「わかりました。ありがとうございます」
「安心したよ……それでは、寺沢二佐、失礼いたします!」
すっくと立ちあがった鋼は、たたき上げにふさわしい所作で着帽すると、お手本のような敬礼をしながらそう言った。
134 サイモンの来所 2月1日 (金曜日)
アメリカ合衆国内務省の本館では、ダンジョン省初代長官のカーティス=ピーター=ハサウェイが、日本に向けて送り出したマイニング使用予定者が日本に到着するはずの日、スタッフからそれに関する報告を受けていた。
「日本ダンジョン協会がマイニング所有者の特定階層への侵入を禁止しました」
「侵入禁止? あれは完全パブリックなダンジョンだったろう? そんなことがすぐに出来るのか?」
「いえ、正確には、鉱物資源が確定していないフロアへの侵入が禁止されました。確定しているフロアでテストするのは自由とのことです」
カーティスは、その報告を聞くと、ペンの尻で机の上をコツコツと二回叩いた。何かを考えるときの彼の癖だ。
「つまり、鉱物を勝手に確定させるなってことか?」
「措置だけを見るとその通りです」
そんなことをする理由はほとんど無い。
あるとすれば、自分達でドロップさせた場合と、他人がドロップさせた場合で明確に結果が変わるか、変わりそうであることを突き止めた場合くらいだろう。
もしかして、日本ダンジョン協会は任意の鉱物をドロップさせる方法を確立したのだろうか? それならば意味は通る。
世界中のダンジョンで、マイニングが使用されたのは代々木が最初だ。その後何層か確定させていく過程で、そういう研究が進められていたとしても何の不思議もなかった。
「それならそれで、その方法とやらを報せて貰わなければな」
「は?」
カーティスは、なんでもないと頭を振ると、アメリカダンジョン研究所所長のアーロン=エインズワースに所見を問い合わせるように言った。
「わかりました」
スタッフが部屋を出て行くと、彼はインターホンのボタンを押して秘書のメリッサを呼び出した。
「お呼びですか?」
「メリッサ。アレン=コールマンに連絡してくれ」
「CIAのDDD(ダンジョン情報担当次官)、ですか?」
「そうだ。なるべくはやく来て貰えるよう頼む」
「承知しました」
蛇の道はヘビだ。
彼はここ2ヶ月の間に失点を重ねていた。自前の実働部隊が役に立たなかった以上、専門家の力を借りることは別段恥でもないだろう。
このさいダンジョン攻略局を出し抜けさえすれば、他のことには目を瞑るつもりになっていた。
、、、、、、、、、
「斎賀課長!」
ダンジョン管理部は規模が大きいため、管理部にある三つの課の課長には、部長に準じる待遇が与えられている。
執務エリアも、部長のように別室とまでは行かないが、課内にパーティションで区切られたスペースが用意されていた。
そのスペースの入り口で、パーティションをノックしながら、吉田泰斗振興課課長が斎賀を見ていた。
「吉田課長? どうされました? こんなところまで」
「どうしたじゃありませんよ、何ですか、あのメールは。あ、今大丈夫ですか?」
斎賀は内心の面倒くせーという意識を完全に隠しつつ、パーティション内に併設されている打ち合わせスペースへと彼を誘《いざな》った。
「探索者のパーティが基金を立ち上げると言うことでうちに報告がありましたので、一応振興課さんにもお知らせしておこうと思った次第なのですが、なにかありましたか?」
「ありましたかじゃありませんよ。どうしてうちがあの規模の基金にタッチしてないんですか」
「そう言われましても……民間基金の設立に日本ダンジョン協会の認可は必要ないでしょう?」
「いや、確かにそうですけれども。常識的にこの規模の基金に各国DAが全く関わっていないというのは、情報の流れ的にも問題があるでしょう」
情報の流れって何だ。基金に申し込んできた研修者の研究内容を横流しでもする気なのか? と斎賀は内心苦笑した。
「ではどのようにされるのがよろしいとお考えですか?」
「一番良いのは、うちがやっている振興事業へお金を拠出していただいて、特別協賛という形でそのパーティに参加して貰うとかですね」
おい。それは基金じゃなくて寄付だろうが。それ以前に日本ダンジョン協会の基金規模より拠出額の方が大きいぞ。
「それは基金の設立じゃなくて、単なる日本ダンジョン協会の振興事業への協賛じゃないですか」
「こういった大規模な基金は、日本ダンジョン協会のような組織が一元的に取り扱うべきだと思いませんか? 複数立ち上がってしまうと、申し込む側の手続きも増えて混乱するでしょうし。もちろん特別協賛という形で扱いたいと思っています」
確かにそういう考え方もあるとは思うが……主管企業よりも拠出額が多い特別協賛「パーティ」とか、なんの冗談だよ。
「確か、今パーティには専任の管理官が付いていましたよね?」
「ええ。それが?」
確かも何も、今のなりふり構わない営業の原因の一つになっている以上、それを知らないはずがない。どうにも回りくどい話になりそうだと、斎賀は内心うんざりしていた。
「ここは、そちらから、協賛について説得していただきたいですね」
「いや、それは……私も資料に目を通しましたが、日本ダンジョン協会があのプロジェクトに噛もうとするなら、後援が妥当なところでしょう。それで、面子も立ちますし」
「後援? それでは日本ダンジョン協会のうまみが薄すぎますよ。それに、このプロジェクトをうちの協賛にしてしまえば、日本ダンジョン協会によるダンジョン開発も一層進もうというもの。そのために専任が付いているんでしょう?」
「ダンジョン管理課の専任制度は、あくまでもパーティ側の利便を図るためにありますから……」
「そこは魚心あれば水心というではないですか」
斎賀はその勝手な言い分にあきれていた。
Dパワーズ側にメリットがないのに、水心もくそもあるはずがない。魚に水を思う心がないのに、水がその気持ちを汲み取るはずがないだろう。その点、鳴瀬はよくやっている。
「魚心、あるんですか?」
「そ、そこは、そちらでなにか……あるでしょう?」
「ありませんね。ともかく一応話はしてみますが、期待はしないでください」
「それだけ?」
「ご不満なら、そちらから何かアプローチされてみては?」
吉田はそう言われて、一瞬考えていたが、なにかを思いついたように斎賀に尋ねた。
「基金の母体については、とくに記載がなかったようですが……」
「ああ、私たちも聞いていませんね。NPOでも立ち上げるんでしょうか」
それを聞いた吉田は、奇妙な笑顔を作ると、斎賀に向かって言った。
「ではこちらからも何かしらアプローチしてみましょう。いや、賛同していただいてよかった」
そう言って立ち上がろうとする吉田に、慌てて斎賀は待ったを掛けた。
ダンジョン管理課が、そんな馬鹿な行動に関わったと思われては非常に困るのだ。
「ちょっと待って下さい。はっきり申し上げますが、ダンジョン管理課は協賛とすることに賛同していません。ここははっきりさせておきたいのですが、我々としては、日本ダンジョン協会は後援としてお墨付きを与えるべきだと思っています」
「斎賀課長、それは越権行為というものではありませんか?」
「ですから、賛同はしていませんが、そちらがどういう行動を取ろうと、関知もしないと言うことです」
「では日本ダンジョン協会の総意と言うことには?」
「なりませんね。ダンジョン管理課に判断を求められるのでしたら、後援にするべきだと主張させていただきます」
「わかりました。仕事中に突然、申し訳ありませんでしたね。では」
吉田は不満そうな顔でスペースを出て行った。
打ち合わせが終わったことを察知して、やってきた女子社員が、心配そうに聞いた。
「吉田課長、随分むすっとされていましたけど」
「むすっとくらいですめばいいがなぁ……」
「はあ」
協賛なんて話、Dパワーズが認めるはずがない。
どんな話を持って行くのか分からないが、自分勝手で理不尽な話を持ち込んだりしたら、あいつらの行動から考えて、最悪の結果になるぞ。
「まあ、そこだけは回避するよう、手を打つしかないか」
斎賀は、何で俺がと思いながら肩を落とした。
「あ、それで課長。さきほど会員管理セクションに問い合わせがあったんですが、相手が日本アンチドーピング機構様で、内容がちょっと会員管理セクションでは対応できないものなので、担当が相談したいそうです」
「わかった。午後イチで来るように伝えておいてくれ」
「了解です。ついでにミーティングスペースも片付けときましょうか?」
「ああ、悪いな。頼むよ」
JADAがうちにいったい何の話だろう? まさかダンジョンに入ること自体がドーピング扱いされるとかか?
一瞬そう考えた斎賀は、いくらなんでもそりゃないかと思い直して、自分の席へと戻って行った。
、、、、、、、、、
Dパワーズの事務所の裏にある5階建てのマンションは、今や知る人ぞ知る諜報銀座と化している。
いましも5階のCIAとNSAの合同チームが陣取っている一室で、監視をしていたラリーが言った。
「おい、またサイモンだぞ?」
「ここんところ、ちょっと回数が多いな。またダンジョン攻略局あたりが騒ぎそうだ」
事務所の門を開けて、玄関へと歩くサイモンを直接スコープで覗きながらノールが言った。
単に時々三好のコーヒーを目当てにやってくるだけなのだが、彼がダンジョン産アイテムの横流しをしているのではないかなどという勢力もあって、一時期調査対象になったこともあったのだ。
「今回は、行動計画書が出てる。……どうやら、明日行われるマイニング受け取りの打ち合わせらしい」
、、、、、、、、、
『よう! お邪魔するぜ』
『いらっしゃい、サイモンさん。今日は? 明日の段取りですか?』
『そういう名目で、アズサのコーヒーを飲みに来たのさ』
先日無理矢理預からされたマイニングは、その翌日に二月二日受け渡しと決められていた。
『で、場所と時間は?』
『日本ダンジョン協会が噛んでるからな。いつもの場所だ。市ヶ谷の小会議室。時間は1四時だと』
『そういえば、使用者は?』
『パトリオットで来るはずだから、今朝着いたんじゃないか?』
『たまには、成田か羽田から来てくださいよ』
『民間のルートだと持ち込めないものが多いからな』
『あのね……』
サイモンは三好が持ってきたコーヒーを満足そうに嗅いで口に含むと、カップをテーブルに置いて、乗り出した。
『ま、こっちもいくつか聞きたいことがあるんだが……』
『なんです?』
『アズサ。あの開かなくなった三十一層の扉の向こうで何をやってたんだ?』
『開かなくなった扉? って、あの神殿のことですか?』
『そうだ。あの時、あの中にいたんだろ?』
『どうしてです?』
『イオリのチームに付いてきてなかったし、表でも見かけなかったからさ』
三好は、よく見てますねと笑うと、神殿の中で起こったことの説明をした。俺がそこにいたことを除いて。
『振動ってことは、イオリたちが三十二層への入り口を開いたときだな。それ以降、あそこは、入ると入り口がロックされるタイプのボス部屋になったってわけか』
『たぶんそうですね。私は最初から内側にいたので確かなところはわかりませんけど』
『それで、ボスは? まさかあのデカブツか?』
『まさか。それなら今頃ここにはいませんよ』
サイモンは、そうかなと口角をあげながらおかわりを要求した。
『じゃあ、なにがいたんだ?』
『イーヴィル・レッサーと、スーサイド・リーフテールでした』
三好はサーバーからサイモンのカップへとおかわりを注ぎながらそう言った。
どうせすぐに二杯目が要求されるだろうと考えて、多めにドリップしていたようだ。
『闘ったことがないな。どんなやつだ?』
『名前の通り、悪魔っぽいタイプでしたね』
『レッサーってことは弱いのか』
『まあ、強さだけでしたらデスマンティスの方が上だと思いますけど……』
『何かあるのか?』
『スーサイド・リーフテールをガンガン召喚するんですよ』
『ほう』
『大きなヤモリみたいなモンスターなんですが、これがテケテケ近寄ってきて――』
『なんだ?』
『――自爆するんです』
オーと良いながらサイモンが天を仰いだ。
『最悪なテロリストみたいなヤツだな。それで、名前が自殺《スーサイド》なのか』
『注意点としては、ヤモリの大きな目に、スターボウみたいな効果が現れるまでは、無敵状態というか攻撃があたりません。それが現れて一段落すると実体化するわけですが、その後、対象に近づくか衝撃を与えると――』
『ボムッ!!ってわけか』
『爆発は、オフェンシブハンドグレネードタイプでした。範囲は控えめですけど、放っておくと数で圧倒されるので、もし出会ったら、リーフテールが増える前に、さっさとイーヴィル・レッサーを始末したほうがいいですよ』
『了解だ』
『そして、戦闘が終了しても、ドロップしたアイテム類を全部拾わないとドアが開きませんでした』
『ふーん……で、トレジャーボックスは?』
ニヤリと笑いながら彼がそう言うと、三好は苦笑しながら説明した。
『出ましたよ。中身は、ヒールポーション(5)でした』
サイモンは、ヒューと口笛を吹くと、俺たちも仕入れに行くかなとうそぶいた。
『あの7つの部屋は、全部そういうボス部屋じゃないかと思います。ただ、横浜の例もありますから、いつも同じモンスターだとは限らないと思います』
『横浜って言うと、あのギャンブルダンジョンか?』
『そうです』
日本だとガチャダンだが、国外ではルーレットダンジョンだのギャンブルダンジョンだの言われているらしい。
『三十一層の広場にスライムがポップする気配はいまのところなかったし、重火器を持ち込むには丁度良い感じだよな』
『スライムって何かを置いておくと、どこからとも無くやってくるって聞きましたけど』
『まあな。だが、溶かされるにしても時間は掛かるだろ。三十二層の拠点と頻繁に行き来してればそこそこ大丈夫じゃないか?』
『そうかもしれません。とは言え、三十一層まで持っていくのが大変でしょうけど』
それを聞くとサイモンは、にやりと笑って、マイニングの利用者と一緒に秘密兵器が届いたはずだと言った。
『秘密兵器の話なんかしちゃっていいんですか?』
『ダンジョン探索の装備は軍事用の兵器とは少し扱いが違うからな。表に出せるってことは、すぐに市販モデルが出るってことさ』
体《てい》の良い広告塔だよと彼は笑った。
『それに三十一層の戦いを見ていた限りじゃ、この先、いまの装備のままだとちょっと辛そうだ。そう連絡したら、テストってことでメーカーが送りつけてきたのさ』
『アメリカでやればいいじゃないですか』
『いやいや、今世界で一番攻略が進んでいるのは代々木だろ? 三十層クラスで行う火器のテストはここが一番向いてるって。広いし、三十一層のボス部屋もあるしな』
ついにダンジョン攻略局主導でメーカーの兵器テストまで始まるとは……いかにパブリックとは言え、日本ダンジョン協会的に大丈夫なのかな。
『各国の兵器持ち込みルールとかどうなってんですか?』
『核はNGだったと思うぜ?』
『あたりまえでしょ……』
しかし、日本ですら、国際連係の都合で、内部では銃器の利用が許可されているんだから、ほとんど制限が無くても当たり前なのかも知れない。さすがにNBC兵器は規制されているだろうけれど。
もっともゴツイ兵器は層を跨いで持ち込むのが、物理的に難しいという制限があるから、制限はそれ任せってところがあったのかも知れないな。
『ともかく楽しみにしていてくれよ。ま、ジャパンも似たようなヤツを開発してると思うけどな』
二十層を超えると、五.五六ミリはおろか、七.六二ミリでも心もとないし、三十層じゃまるで豆鉄砲みたいになっちゃうからなぁ……もっとごつい火器が持ち込みたいってのはよくわかる。
もしも戦車だの機動装甲車だのが持ち込めるなら、三十層以降でもそこそこ通用しそうに思えるし、強力な兵器を持ち込むための工夫は、どの国でも研究されているだろう。
『で、話は変わるんだが、日本ダンジョン協会はなんでマイニング取得者のドロップ鉱石未決定フロアへの立ち入りを禁止したんだ?』
『え、本当に?』
『知らないのか? 現在のドロップ確定フロア情報と一緒に、昨日通達があったようだぞ』
それを見たうちの連中が、色めき立ってたぞとサイモンが笑った。
『おかげで、取得後はすぐに帰国するはずが、しばらく代々木にとどまることになったらしい』
『なにかのテストですか?』
『いや、遠回しに言っていたが、要は、今回掛かった経費を代々木のプラチナで回収しろってことだろ』
『世知辛いですねぇ……』
どうやら、小麦層のドロップを見て、マイニング取得のための経費が稼げると考えたらしい。
「しかし、鳴瀬さんに情報を渡してから、たった一日って、日本ダンジョン協会とは思えないくらい素早い措置だな」
「ダンジョン内での暫定ルールの策定は、ダンジョン管理部単体で行えるみたいですよ。初期は、とにかく素早く対応しないと手遅れになる問題だらけでしたから」
「ははー」
この問題も、マイニング取得者がぽつぽつと出てきている以上、急がないと間に合わない可能性があったってことか。
『なんだって?』
『いや、日本ダンジョン協会にしては対応が早かったなって』
『そういうからには、お前ら関係なのか? これも?』
『多分今頃は世界ダンジョン協会にも報告されてるんじゃないかと思いますけど――』
そこで、俺はマイニングのドロップ仮説について説明した。
『って、ことは何か? ダンジョン内でドロップする鉱石を恣意的に選ぶことが出来るってことか?』
『まあ、有り体に言えば。ただ、これが結構難しいんですよ』
その難易度の高さを説明し、求められる専門性や偏執性についても付け加えておいた。この辺まで世界ダンジョン協会に報告されているかどうかはわからない。
『つまり、専門家を探索者として鍛えるか、探索者を専門家として鍛えるかってことか』
『単純な期間として考えるなら前者が早いですけど』
一般に、専門家になるために勉強している期間の方が、軍人を訓練する期間よりも長い。
『現代にチャレンジャー教授はあまりいないからな』
『ダンジョン攻略局の使用者には、翼竜を持って帰らないように、よく言っておいてください』
コナン=ドイルの書いた『失われた世界』は、アクティブな学者のジョージ=エドワード=チャレンジャーがアマゾンの奥地へと赴く話だ。
彼らはそこで、失われた世界を見つけてロンドンに戻ってくるが当然誰も信用しない。そこで、密かに持ち帰っていた翼竜を見せるのだ。しかもロンドンで逃がしちゃうオマケまでついている。
『それと、将来、最前線を任されるようなタイプの人はやめておいた方がいいですよ。新しい層に挑む時に、鉱物のことを考えている余裕のある人は少ないですから』
どちらかと言えば、すでに探検済みのフロアでじっくりと後追いでマイニングに専念できるタイプが相応しい。
『そう言うことはもっと早く教えてくれよ。とっくに手配は終わっちまってるし、アメリカはダンジョン攻略局もダンジョン攻略局も、きっと次代の最前線を任せるような人材だろうぜ』
普通に考えれば、若くて生き残れそうなものを選ぶだろうから、仕方がないか。
しかしそれなら――
『サイモンさん達は?』
『俺たちは、現時点で世界中を飛び回ってるから、こういうプロジェクトには向かないんだ。ま、俺たちのせいで、世界中のダンジョンから産出するのが鉄だらけになったりしたら、後で散々嫌みを言われるだろうから、そこはラッキーだったな』
あと、上の言うことをあまり聞かないからダメなんだと、笑いながら言った。
『軍人が上の言うことを聞かないって、それ、大丈夫なんですか?』
『ダンジョン攻略局は厳密には軍じゃない。設立の経緯もあって、現場に大きな裁量が与えられているから大丈夫だ。ともあれ、大体のところは分かった。うちの方でも何か実験させてみよう。とはいえ、丁度良さそうなダンジョンがないんだよな……こうなるとエバンスをクリアせずに残しときゃ良かったぜ』
サイモンは残念そうに言ったが、それこそいまさらだ。
『代々木と似たようなシチュエーションだと、BPTDがあるでしょう?』
大規模オフで話題になった、NYのブリージーポイントチップダンジョンだ。
『あそこはアマチュアっつーか、軍じゃないプロ探索者主体のダンジョンだからな。たしか現在十六層くらいじゃなかったかな』
『軍じゃない?』
『あの辺は土地の所有権が複雑なんだが、ダンジョン自体は一応NYの管轄って事になってる。で、今のNY市長は、格差是正を訴えて当選したんだ。つまり、低所得者向けの政策を高所得者の増税とかでまかなってるわけだが、ダンジョンもそれに一役買わせてるわけ』
『つまり?』
『ダンジョンを利用した金儲けが世界で一番進んでるダンジョンなんだよ。で、攻略主体のアプローチには独自の規制がいっぱいあるんだ』
なるほど。攻略されてなくなっちゃ困るってわけか。世界は広いな。
代々木は国の管轄とはいえ、完全なパブリックダンジョンだから、直接日本ダンジョン協会が監督しているようなもので、ローカルルールはダンジョン管理課が策定している。各省庁との連携は、大抵ダンジョン庁への報告だけで済むから、素早い対応も可能になっているわけだ。
これが東京都の所有になっていたりしたら、なにかを決めるのにやたらと時間がかかるだろう。ついでに入ダン料なんかを取っていてもおかしくはない。
『それに地上に基地めいたものを作るスペースもないし、装備を持ち込むだけでもトラブルが起きそうな場所だからな』
そういえば、そこに到るまでの道路は私有地だとか聞いたような気がする。トラブルを避ける観光客は、海岸の砂浜を移動するらしい。
有事でもないのに海岸を大量の軍車両が走るというのも問題がありそうだ。
『ま、そういうわけで、二十層以降に比較的簡単にアプローチできて、国家間の問題も起こらないような理想的なダンジョンは、なかなかな』
アメリカは何事も合理的でやることが派手だ。重要な鉱石が出るフロアに重火器を据え付けて、モンスターの大量虐殺を機械的に始めてもおかしくない。
それを許してくれるダンジョンは、外国にはあまりないだろう。
『そうだ、せっかくだから聞いておきますが、ダンジョン攻略局は何を考えてるんですか?』
『何をって?』
そこで俺は、ブートキャンプにダンジョン攻略局から大量の申し込みがあったことを彼に伝えた。
『へー、そりゃ、ダンジョン攻略局のフロントチーム全員分じゃないか? 奮発したな』
『普通、様子見とかあるでしょう』
『それは俺らのチームでやっただろ』
ああ、そうか。実際にキャシーとメイソンの腕相撲で効果は丸見えだったもんな。
『ジョシュアは、あれで、ちゃんと報告書は書く男だからな』
『しかし数が多すぎますよ。どこにそんなキャパがあるんですか』
普通のブートキャンプは抽選という体をとっている。
ここに大量のダンジョン攻略局の隊員が含まれたりしたら、後々面倒なことになりかねないだろう。ただでさえスポーツ界からの突き上げが厳しいのだ。無視してるけど。
『そこは何とかしてくれよ。今、週三なんだろ? あと四日も空いてるじゃないか』
俺は、何言ってんだという意味を込めて、肩をすくめて見せた。そんなに働きたくないでござるよ。
『それに、ブートキャンプに参加したら、代々木の攻略に力を貸す必要ができるんですよ?』
ダンジョン攻略局が大挙して代々木の攻略に参加して、アメリカは大丈夫なんだろうか?
『そりゃ、願ったり叶ったりじゃねーの?』
『はぁ?』
「先輩、アメリカは石油だって自国の資源を掘らずに輸入していた国ですよ」
「いや、ダンジョン攻略は、それとは……資源だって考えれば同じなのか? それにしたって……」
『いいかい、ヨシムラ』
『はあ』
『ダンジョン攻略局はともかく、ダンジョン攻略局の最終的な目標は、ザ・リングの攻略だ』
『ああ、以前そんな話を……って、今もそうなんですか?!』
設立の経緯から聞いた話だったから、まさか今もそうだとは思っていなかった。
『そうなんだよ。だからそこに至れるようになるのなら、アメリカのダンジョンで訓練しようと、代々木で訓練しようと大差ないのさ』
『訓練って……』
『第一、こんなの小手調べみたいなものだろ? 自衛隊から申し込みはあったか?』
『そっちは……三好、どうなんだ?』
『今のところ、自衛官は少ないですね。まとまった申し込みはありません』
『あれからまだ五日だからな。日本はどうも行動が遅いし、まとまった申し込みがあるとしても、もう少し先か』
「まとまった申し込みって言われても……チームIだけとかならともかく、ダンジョン攻略に参加している自衛隊員って、結構な数がいるんじゃないの?」
「三桁では収まらないと思いますよ」
「そんなのフォローできっこないだろ」
『申し込まれても、対応できるはずないですよ。これって断れるもんですかねぇ……』
『頑張ってくれ。あ、ダンジョン攻略局は先に頼むぜ。もっとも俺としちゃ、お前らのフォロワーが登場するのが先だと思うけどな』
『フォロワー?』
『類似のキャンプを事業化するのさ』
すでに何人かはそれっぽい人も受け入れているし、確かにマネをしたカリキュラムが立ち上がってもおかしくはない。
「そういや、メンテに来た人が、件のゲーム機の発注が激増したって言ってましたよ」
「は? マジかよ」
「なんだかやたらと輸出の問い合わせも来てるそうですけど……ちょっと笑っちゃいますね」
三好がにやりとしながらそう言った。
まあ、あれは内容そのものに意味はないからなぁ。カリキュラムをまねしたところで効果なんか出るはずがない。
「いや、まあ、それはそうだが……ちょっとかわいそうな気もするな」
「楽して真似する人が悪いんですよ」
うん、まあ、それはそのとおりなんだが。
『可能なら、苦労が減りますし、ありがたいですけど』
『つまり不可能ってことか?』
俺の話を聞いて、サイモンが興味深げに訊いた。
『どうですかね。それに現時点ではステータスの計測ができないでしょう?』
『先輩先輩。詐欺師をなめちゃだめですよ。独自の計測システムを開発したとか言って、適当な数値を表示するくらい平気でやりますって』
『ええ、そんな怪しいやつらに引っかかるか?』
『いやいや、外から見れば、うちも似たようなことをやってるわけですし』
『まあ、お前らのところは、終了後に効果を実感するからな』
『それは重畳』
『でも、やたらと焦ってるように見えるスポーツ界あたりは、引っかかりそうな気がしますね』
『それで、ブートキャンプ全体が詐欺のように言われるようになるのはいやだな』
『大丈夫ですよ。それなりにスポーツ界の新鋭の人も選んでますから。結果は目に見えます』
『……おまえ、それで適当に当選させてたのか』
『でへへ。ちゃんとダンジョン歴はチェックしましたよ』
さすがは三好、ぬかりはないな。日常的にぬかりだらけのやつとは、とても思えん。
「先輩、なにかよろしくないことを考えていませんか?」
「かんがえてないよー」
そう言ったとたんに、ロザリオが頭の上に飛んできて、首を左右に振りながら美しい声を上げた。
『おいおい、なんだその鳥は?』
『最新型のウソ発見器です』と三好がサイモンに向かってどや顔をしてながら言った。勘弁してくれ。
ともかく、ダンジョン攻略局の大量発注の件は、地上部分の施設の拡張予定があるから、それに合わせて検討しますと三好が告げて一段落した。
そう思った瞬間、サイモンがいい笑顔で爆弾を投げ込んできた。
『で、お前ら、三十一層からどうやって5時間で上まで戻ったんだ?』
『はい?』
しかもなかなか強烈な奴だった。
『なんのことです?』
『おいおい、日本ダンジョン協会のミハルから三十一層でアズサに何時頃あったのか、さりげなーく聞かれたんだぜ? そりゃ気にもなるだろ』
『気になるのは分かりましたけど、どうやって探索者の退出時間を?』
『ほら、俺たち同盟国だから』
『そんな権利ありましたっけ? 日本ダンジョン協会に言いつけますよ』
『よせよ、バレたのが俺が原因だったなんて知られたら、NSAあたりに殺される』
サイモンがわざとらしく笑いながら万歳をした。
『まあ、いまさらですけどね』と三好が肩をすくめた。
シギントの対象が入退室時間くらいなら、特別害はないだろう。とは言え、後でちょっと鳴瀬さんに耳打ちしておくか。
俺は、座り直すと、サイモンの方へと体を乗り出して言った。
『どうせ話さなきゃと思っていたところです。覚悟して聞いて下さい』
『なんだ? そんなヤバい話なのか? お前らがテレポートをゲットしたとかじゃなく?』
『そんなものがあったら欲しいですよ。良いですかサイモンさん。以前あなたが言ってた独り言ですけど――』
『そんな話はした覚えはないが、それが?』
『――あれ、事実でしたよ』
サイモンは大きく目を見開いた瞬間、手に持っていたカップにヒビが入った。
『WAO! すまん!』
彼は慌てて謝ると、それをテーブルの上に戻した。
『――会ったのか?』
『書斎じゃありませんでしたけどね』
そうして俺たちは、ダンジョンの中の不思議な場所でタイラー博士と会ったこと、三年前のネバダで何が起こったのか、彼から直接聞いた話をサイモンに伝えた。
『それで、死体がひとつも残ってなかったわけか……』
彼は、両膝に両肘を付いて乗り出した体勢で、手を組んだ。
『ふう。で、おまえら、この話をどうするつもりなんだ?』
『どうって?』
『誰かにするつもりかってこと』
『こんなヨタ話を? 死んだはずの人とダンジョンの中で出会って、三年前の真相を聞いたって? 誰が信じるんです?』
『いや、お前らのことだから録画とかしてるだろ?』
『したつもりでした』
『つもり?』
『何にも映ってなかったんですよ』
『本当に?』
『神に誓って』
信じてもいない神に誓われてもなと、サイモンが笑った。
『とにかく起こったことはお伝えしましたよ』
『了解だ。だが、俺だってこんな話どこにも持って行きようがないぜ?』
『それはサイモンさんの問題です。俺たちはとにかくあなたに伝えた。それでこの葛藤からはおさらばです』
『おまっ、そういうのアリなわけ?』
『ま、たまにはね』
そう勝ち誇ったところで、呼び鈴がなった。
今日はもう来客はないはずだが……鳴瀬さんかな?
「ええ?!」
来客を確認した三好が思わずあげた声に、俺たちは振り返った。
135 亡命? 2月1日 (金曜日)
その男が姿を現した瞬間、アメリカの監視チームが陣取っている部屋は、突然の嵐にみまわれた。
「おい! ノール!」
「なんだ?」
「あ、あれ! 今門の前にいるの、ドミトリー=ネルニコフじゃないか?!」
「はあ? んなわけ……うそだろ」
慌てた様子のラリーに促されて、モニターを確認したノールは、確かにそれが偏屈ドミトリーであることを確認した。
ロシアの英雄が、なぜDパワーズの事務所に? しかも、中には、サイモンが居るんだぞ?
「何でサイモンとドミトリーがここで待ち合わせしてるんだ? 何か、聞いてるか?」
「いや、何も聞いていない。ってか、待ち合わせなのかこれ?」
「偶然にしちゃできすぎてる」
「そりゃそうかもしれないが」
「中の音は――」
「相変わらず拾えてない。鉄壁だな」
サイモンチームのスタンドプレーは今に始まった事じゃないが、ヤバい話じゃないだろうな。
、、、、、、、、、
「なあ、サーシャ。あれ、ドミトリーじゃないか?」
CIAとNSAの合同チームとは反対側の角部屋で、下の事務所を監視していた東スラブ系の顔立ちをした男が驚いたように言った。
サーシャと呼ばれた、精悍なヒゲを湛えた鋭い目つきの男は、懐疑的にそれに答えた。
「ドミトリー? まさか。あいつは今十八層だろう? ドローニャの見間違いじゃないのか?」
サーシャは、ドローニャが見ているモニターを見に近寄ってきた。
奧の椅子に腰掛けていた、ストイックにヒゲを刈り込んでいるイケメン風の男が、組んでいた足を下ろして言った。
「昨日、目的のオーブがドロップしたとかで、一旦休憩に引き上げたって情報もあったが……撮影はしたか?」
「ああ、データはそっちへ転送しておいた」
「了解。ダンジョンチームへ問い合わせる」
本人らしいその姿に、部屋の中にいるスタッフはあわただしく行動を開始した。
「もし本人だったら、どうする? さっきサイモンらしき男が来たばかりだぞ?」
「ロシアのトップ探索者が、Dパワーズの事務所でアメリカのチームと接触する? 亡命でもされた日には、ミトロヒン再びってことになりかねないぞ」
「そんなことになる前に……」
「早まるな。しかし、あそこはいったい何なんだ。アメリカの出先機関か?」
「それにしちゃ、向こうの端のご同業もあわただしそうだぜ?」
「もともと世界ダンジョン協会は国家を横断した機関だ。あそこが、何らかのダンジョン政治の中心であってもおかしくないのかもしれん」
なにしろ外部からの盗聴対策が完璧に為されている建物だ。それだけでも普通の家屋じゃないことだけは確かだ。
このマンションに世界中の諜報機関が巣くっていることは、すでに周知の事実だが、いまだ、あの家への潜入に成功した国はなかった。
しかもどういうわけか、彼らはそのまま本国へ送り返されてくるのだ。彼らに聞いても突然意識を失ったようだというだけで、何がどうなっているのかさっぱり要領を得ない。気味が悪いとしか言いようがなかった。
先日も、あの家に時々出入りしている女性に盗聴器を仕掛けようと、それを尾行したリョーニャが、いつの間にか道ばたで倒れているところを発見されて、当局に連行されたばかりだ。
どう見てもただの小娘にしか見えない女ですら、訓練を受けた我々をいとも容易く撃退してくる。
「なあ。この世界、何かが狂ってきているような気がしないか?」
ドローニャが不安そうにそう言った。
「なんだよ、いきなり」
「いや、この家の監視を始めてから、なんだか自分達が、この世界から置き去りにされているような気がして仕方がないんだ」
「おいおい、よせよ。俺たちはあの建物を見下ろしてるんだぜ? セーラムズ・ロットの高台に建っている古い館じゃないんだから」
「誰も侵入に成功しないのは、そのせいか。きっと窓の外から、誰かが生贄にされ、主が首を吊ってるのが見えるんだろう」
ドローニャとセリョージャのやりとりを聞いて、サーシャが苦笑混じりに言った。
「いや、おまえらアメリカの文化に毒されすぎじゃないか?」
「三十年も前に、グラスノスチが推し進められた結果だろ」
セリョージャが肩をすくめたところで、ダンジョンチームからの返信が届いた。
、、、、、、、、、
ソファでは、一本の細い糸のような緊張感が、三好とドミトリーの間にピンと張られていた。
まるで、お互いに真剣を持って対峙している、剣の試合のようだった。
事務所内に入ってきたドミトリーは、そこにサイモンが居ることに気がつくと、微かに驚いたような雰囲気を見せたが、それは、よく見ていないと分からない程度の変化だった。
彼は、どうやら、三好を訪ねてやってきたらしい。居間は二人に明け渡し、俺とサイモンはダイニングのテーブルへと移動した。
『サイモンさん。彼、何しに来たんだと思います?』
『俺が知るわけないだろ』
居間を横目で見ながら、俺はダイニングの椅子から立ち上がった。
『まあ、飲み物くらいは出さなきゃね。って、ロシアじゃ何が定番なんですかね?』
『さあな。甘くてビタミンがとれるコンポートは、よくジョークのネタにされてたが……あとなんだかすっぱいやつとか、蜂蜜のへんな茶っぽいやつとか』
流石にコンポートの用意はない。ケフィールもメドヴーハも……蜂蜜って言うと、スビテンか?
『コーヒーはあまり飲まないんでしたっけ? うちだとお茶くらいかな』
『もう面倒だからウォッカでも出しとけよ』
『それって、ロシアンジョーク?』
俺は笑いながらサイモンにそう言うと、ドミトリーに声を掛けた。
分からないときは、実際に聞いてみるのが一番だ。ロシアの英雄殿は英語もいけるみたいだし。
『ガスパージン、ネルニコフ』
彼はちらりとこちらを見た。
『チャイは、チョールヌイとゼリョンヌイ。あとはコーヒーと、ウォトカくらいしかないですけど、何が良いです?』
ロシアでお茶というと、緑茶と紅茶が多いそうだ。
緑茶はそのまんま、│ゼリョンヌイ・チャイ《緑の茶》で、紅茶は│チョールヌイ・チャイ《黒いお茶》というらしい。
それくらい濃く入れて、お湯で薄めて飲んでいたからだと聞いた。
しかし、初めて聞いたときは、チョーヌルイ・茶かと思ったよ、ホント。
『ウォトカを』
おう……さすがだ。
彼が小さく鋭く返事をするのを聞いたサイモンは、呆れたように肩をすくめた。
『あの国の連中がバターとウォッカで出来てるってのは、本当らしいな』
グレイグースも悪くはないし、三好の趣味で葡萄から作るシロックもある。
しかし、現代のプレミアムウォッカは、どうにもカクテル向きで、現代の嗜好に合わせてクリアに蒸溜されている。
クラシックなウォッカをそのまま全力で洗練させてみましたみたいな、ベルーガ・ノーブルもあることはあるが……
『ドミトリーさんって、出身はどの辺でしたっけ?』
『確かエリアは22だったはずだ……最初はオレシェクダンジョンにいたらしいぜ』
『どこです、それ?』
『日本じゃヨーロッパの歴史はやらないのかよ。湖に浮かぶ有名なオレシェク要塞を知らないか?』
シュリュッセルブルク要塞とも呼ばれるその要塞は、サンクトペテルブルグの東にあるラドガ湖から、ネヴァ川が流れ出す場所に浮かんだ島に建っていて、島全体が要塞と一体化している。
13世紀以降、最初はスウェーデンとの、後はドイツとの間で激しい奪い合いがあった土地らしい。
オレシェクダンジョンは、その西側の岸にあるダンジョンで、川の向こう側では、ピョートル1世が、まるでこのダンジョンを警戒するように立っている。
サイモンの説明によると、このダンジョンは、僅か三層という超浅深度ダンジョンだがクリアされていないことで知られているそうだ。というよりも三層の立ち入りが制限されていて、故意にクリアさせていない変わったダンジョンらしい。意図は不明だということだ。
『ロシア人の考えてることなんかわかるかよ。日本人の考えてることもさっぱりだけどな。あとアメリカ人も何を考えてるのかわからねーな』
『そりゃ、他人が何を考えているのかわからないってだけじゃないですか』
しかし超浅深度ダンジョンってことは、しょっちゅう出入りすることになるわけで……もしかして彼の高ステータスポイントはそのあたりが原因なのかもしれないな。
その話を聞いた俺は、冷凍庫からルースキースタンダルドを取り出した。サンクトペテルブルグで作られるウォッカだ。
何年か前プロムテック・ビズがやったフーデックスのセミナーでルースキーブリリアントを試飲したとき、その味わいに驚いたものだが、残念ながらあの独特なファセットで構成された500ミリリットルの瓶はゴールドもプラチナも日本には輸入されていない。
とは言え、スタンダルドのゴールドも、麦の甘みが感じられ、柔らかくて、高クオリティなクラシックウォッカだ。
きっとお気に召すと……いいなぁと思いながら、赤い(ロシアだしな)江戸切り子のショットグラスに霜がつくほど冷やしたそれを注いで、スモークサーモンを添えた。
さすがにキャビアの買い置きはない。
相手がウォッカを飲んでいるのに、三好が茶というわけにもいかんな……というわけで、薄っすいウォッカトニックをつくって出しておいた。
もちろん俺は速攻で台所に退散だ。
『いいもんあるじゃん。俺にもサーモンくれよ』
『いいですけど、ウォッカは?』
『それはパス。ビールある?』
遠慮のないサイモンに、お前何しに来たんだよと心の中で苦笑いして突っ込みを入れつつ、今となっては完全に市民権を得たアメリカンクラフトビールを注いだ。ストーンのルイネーションダブルIPA2.0だ。2.0というところが実にバズワードっぽい。
で、このIPA。クラフトIPAらしい、バリバリのシトラスフレーバーに苦み主体の味わいで、たぶんピザにはぴったりだが、サーモンにはあまり合わないだろう。
だが、アメリカ人はこういうビールがとても好きだ。テイストよりもフレーバーって感じだ。もちろん偏見だ。
とは言え、サイモンも、それを美味そうにゴキュゴキュと飲んでいたから、あながち間違いではないに違いない。
ところでサイモン、それはコロナじゃないんだからグラスに注いだ方が良いと思うよ。瓶直の方がサイモンっぽいけれど。
(で、三好。一体何事なわけ?)
(いや、それがよく分かんないんですよ……ぱくっと食べて、ぐっと飲んで、じっと見られる。って、そんな感じなんです)
(うーん……)
(サイモンさんが来てるタイミングでやって来て、一向に目的が分からないって……まさか亡命の橋渡しとかじゃないですよね?)
(うちの事務所で? そういうのは大使館でやってくれよ……)
俺はサイモンに近づくと、小声で言った。
『まさか、ドミトリーさんの亡命の橋渡しとかじゃないですよね』
それを聞いたサイモンが、俺の顔に向かってビールを吹き出した。
『ブー!!!』
『ちょ! なにやってんですか!』
『おま、なに言ってんだよ! そんなわけあるか!』
俺はティッシュで顔を拭いながら、言った。
『んじゃ、バッティングは偶然? 本当に、ただ明日の受け渡しの打ち合わせに来ただけ?』
『あたりまえだ! あーあ、吹いちゃったじゃねーか。もう一本くれ』
『ストーンはそれで終わりですよ。後はギネスかブリュードッグ』
『パンクか?』
『そうです。後は、ペンギン』
『そんなの飲めるか。パンクくれパンク』
俺は冷蔵庫からパンクIPAを取り出した。
こいつもグレープフルーツ香の強いIPAで、日本じゃそういうホップを使ったビールの草分け的な位置づけだ。
『じゃあ、もうサイモンさんの用事は終わったんじゃ?』
『バカ言え、あれが気になって帰れるわけないだろ』
サイモンは自分の後ろを左手の親指で指しながら、口角をあげた。
『みろよ、まるでジャパニーズオミアイだぞ?』
『よく知ってますね、そんなの』
そう言われてみれば、三好をじっと見てるし、段々顔も赤くなってきてる。
『おいおい、これは恋の始まりってやつじゃねーの?』
『いや、単にウォッカで酔っぱらっただけじゃないですか?』
『なんだよ、つまんないヤツだな』
『そこを面白くしてどーするんですか?』
サイモンもビール二本で酔っぱらってんじゃないか?
『いや、それほど親しいわけでもないけどな、あいつはどうにも妙なメンタリティなんだよ。上にしか興味がないっていうか』
そう言えば十八層でも、ちょっと病的な視線で山の上を見てたっけ。
『ランキングって、発表され始めてからずっとドミトリーさんが1位だって聞きましたけど』
『そうだ。そいつが初めて2位になって、自分より上のやつがいる可能性が高い代々木へとやってきた。で、あのお見合いだろ?』
パンクIPAのボトルの先で後ろを指したサイモンは、ぐっと身を乗り出して聞いた。
『あいつらの間に一体何があったんだ?』
いや、別に何もないと思うけど……もしかしてあれかな?
『接点ぽいものって言えば、十八層で、三好が忠告したことがあるくらいですかね?』
『忠告?』
俺はその時の様子をサイモンに話した。
『おいおい、スゲー事をするな』
『スゲー事?』
『仮にもあいつはずっと世界ナンバー1だったんだぜ? そいつに向かって、お前じゃ弱すぎて話にならないから出直してこいって言ったんだろ? そりゃインパクトあるぜ。印象に残るはずだ』
『え? そんな言い方じゃ……』
『言い方なんか関係あるかよ。言ってることは同じだろ』
『だが、それって、あいつが生まれて初めて視界に入れた女ってことじゃないの? 母の愛も知らず、訓練、訓練で、悲惨な子供時代だったはずだからな。おかげで友達も出来ず、ロシアでも孤高の存在だ』
『え、本当ですか?』
驚いた様子でそう聞くと、サイモンはにやりと笑った。
『いや、俺の妄想。第一ダンジョンが出来てから三年しか経ってないっての』
『あのね……』
お前は大阪のおばちゃんか……
俺は台詞の後ろに、『しらんけど』が聞こえるような気がした。
『西側の下世話な憶測に基づいた、妙な詮索はやめてもらおうか』
『げっ』
『おお! な、なんだドミトリー。こっち来てたのかよ!』
『ヨシムラ……だったか。俺の出身を?』
『おいおい、ドミトリーが人の名前を覚えてたって? こいつは驚きだ』
彼はちらりとサイモンに視線を投げかけると、すぐにこちらをむき直した。
『ケイゴと呼んでください。出身はサイモンさんに』
『なら俺のことはミーチャと』
『カラマーゾフですね』
『シベリア送りにされるつもりはない』
そう言って俺たちは握手をした。
ロシア人と始めて話をするときは、ロシア文学の話題が良いよと聞いていたが、ドストエフスキーやトルストイが精一杯だ。ともあれ、物語のラストは多かれ少なかれ『祈り』になると思っておけば大体合っている(暴言)
サイモンはそれをニヤニヤ見ながら、ビールの瓶を振って、言った。
『いや、俺はあんたがエリア22の探索者で、オレチェフで鍛えたってことしか知らないよ』
『そうか……このウォトカは懐かしい味だった』
『もう一杯いかがです?』
ドミトリーは素直に頷いた。
『まあ、座れよ、せっかくだから』
そう言って、サイモンが、ダイニングの椅子を引いた。
『じゃなんか作りますかね、先輩が』
一緒にダイニングへやってきた三好が、そう言って、ワインを取り出してくると、引かれた椅子の隣、サイモンとは反対側に座った。
取り出したのはモルドバワインのようだった。少し前からなかなか高品質なものが日本にも入ってきていて、身近になりつつある国のワインだ。
このワインを最も多く輸入しているのはロシアだから、一応TPOを考えたようだ。もっとも近年では政治的な問題でしばしば禁輸の憂き目にあっているらしい。
『いや、そこまで言ったらお前が作るんじゃないの?』
『先輩の方が美味しいですよ』
そう言って、自分のグラスにワインを注ぐと、おもむろにそれを掲げて、高らかに言った。
『私の祖父は、家を買うつもりがあっても余裕が無く、山羊を飼う余裕はあるが買う気はないと言うのです。ではみなさんご一緒に、私たちの願いと余裕が一致して、それがかないますように!』
ワイングラスに、切り子グラスとビールの瓶が触れ合わされて、小さく澄んだ音を立てた。
『どこでそんな口上を?』
うっすらと口角をあげながらドミトリーが聞いた。
『レオニード=ガイダイのコメディで。合ってました?』
『問題ない』
『なんだよ、それ?』とサイモンが、もう一本よこせのポーズ――空のビール瓶の首を持って左右に振る――をしながら聞いた。
『旧ソ連で知らない人はいないくらい有名な六十年代のコメディ映画ですよ』
『へー、ロシア人は乾杯の口上が長いからなぁ』
『短いのもあるぞ』
『へえ、どんなんだ?』
サイモンは俺から新しい瓶を受け取り、切り子グラスに新しいウォッカを満たしながら聞いた。
ドミトリーはそれを持ち上げて言った。
「За здоровье」
『ザ ズダローヴィエ? 何て意味だ?』
『健康のために』
『そう言えば、フランス語でも a votre sante.っていいますもんね。乾杯で健康を祈るのは世界共通でしょうか』
お酒はあんまり健康とは言えないんですけどねと、三好が日本語で呟いている。
『俺たちも、大抵、cheersやtoastで済ませるが、To your health.もあることはあるな』
『サイモンさんは、Here's looking at you.じゃないんですか?』
三好がハンフリー=ボガードの名台詞でチャチャを入れた。
『ジョシュアあたりなら言いそうだが、俺のキャラじゃないね。そういや、フランス・イタリアの合同作戦の時は、あいつら、チン――』
『はーい! それは日本じゃNGですからね』
慌てて三好が、サイモンの言葉を遮った。
フランス・イタリア、後はスペインあたりで使われる乾杯の音頭に、グラスがぶつかる音から来た言葉がある。ただしそれを日本人が聞くと、ちょっとした下ネタになるのだ。ちなみにチ○チ○。
おそらくそれを知っているのだろう。サイモンがしつこく、どうしてどうしてと三好に絡んで遊んでいた。
「なんだかんだ言って、すっかり3カ国懇親会になってやがんの」
『先輩は、ひとりでぶつぶつ言ってないで、さっさと美味しいもの出してくださいよ』
『そうだそうだ』
『美味しいものねぇ……そうそう、面白いものがありますよ』
そう言って、俺は例のダンジョンせとかを取り出して、二人に渡した。
『ヨシムラ。酒のつまみにオレンジはないだろ? なんだよ、これは?』
『ジャパニーズハイクオリティオレンジでセトカって言うものによく似てるんですけど、実はこれ、ダンジョン産なんですよ』
『はぁ?!』
サイモンとドミトリーはそれを聞いて同時に目を見張った。
ドミトリーは信じられないものを見るような目つきで、自分の手の中にあるそれを見つめ、それを確かめるように転がした。
『ダンジョンの中の木に、こいつがなってたってことか?』
『二十一層で見つけました。なかなか美味しそうでしょう?』
『聞いたかドミトリー? このアホは、これがどんな意味を持ってるのか、全然分かってないぞ』
『ケイゴ。ひとつだけ聞きたい。――リポップはしたか?』
俺は三好と顔を見あわせると、俺の代わりに三好が二人に答えた。
『はい。リポップタイムは、およそ一分でした』
『それ、報告はしたのか?』
『もちろん日本ダンジョン協会にしてありますよ』
『こいつは世界の食糧事情を変革しかねないだろ。ヘタすりゃ無限に産出するんだぞ?』
確かにその通りだが、俺たちはすでに無限リポップするかもしれない小麦の生産もやっちゃってるから、インパクトは薄い。
(先輩。小麦の話は――)
(D進化の申請をしたのは昨日だし、まだ知られてないっぽいな。麦畑の件は、とりあえず日本ダンジョン協会の意向がわかるまでは黙っておこうぜ)
(――了解です)
『一層あたりで見つかったんならその可能性もありますけど、二十一層ですからね』
『ダンジョン内に高品質の食用になる植物が存在したってだけで大ニュースなんだよ。知られる前に保護しないと、ダメ元で木を丸ごと持っていくやつがでるぞ』
『ああ』
確かに周りの土毎掘り返して、一層辺りへ植えてみるという可能性はあるな。あの土がどこまで掘れるのかは分からないが……
モンスターは自発的に階層を移動しないが、トレインで付いてくると言うことなので、移動できないってことはないはずだ。
もっとも移動したモンスターを放置したらどうなるのかは分からない。外へ出たものは時間の経過と共に弱るなんて話も聞いたことがあるが、正確なところは知らなかった。
『アメリカやロシアで、モンスターを生け捕りにして外に持ち出したなんて研究はやってないんですか?』
そう言うと、ふたりはそれぞれ真面目な顔でそれに答えた。
『俺たちは攻略が主体だから、生け捕り作戦なんかに参加したことはないが……企業、特に軍産の連中はやってるかもな』
『生物兵器に、なんてことを考える連中がいてもおかしくはない』
『おいおい……だが、やってそうだと思えてしまうところがヤバいよな。――それってつまりその木を地上に植えたらどうなるのかって話だろ?』
『まるでアイソーポスの寓話のようだ』と、ミーチャがぽつりと言った。
アイソーポスはトルコだかギリシャだかの人で、日本ではイソップと呼ばれている。
金の卵を産むガチョウの話は、まさにこれと同じだ。
『その木を全部掘り起こしたあげく、上で枯らしてしまうなんてことはありそうな話だが……ダンジョンならその木もリポップするんじゃないか?』
『するかもしれませんけど、同じ場所にはリポップしませんでした。だから実際にリポップしてるかどうかはわかりません』
『やってみたのかよ?!』
『あ、いや、別の適当な草で、ですけどね』
二層の農園で、一応確認してある。
横浜の踊り場フロアで同じ実験をやって、フロアの何処かに登場すればリポップすることが証明できるから、それはそのうちやってみることになるだろう。
『ふーん。そういう話を聞いていると、ダンジョン関連の研究をするところと攻略をするところが縦割りなのは、いまいち効率が悪い気がするな』
『世間には、いろいろと柵《しがらみ》がありますからね』
『俺たちの所もダンジョン攻略局ができて、ますます混沌としてるからなぁ……おっと、ロシアにばれちゃ大変だ』
おどけたように言うサイモンを見て、そんなことはとっくに知られてるだろと言う顔で、ミーチャが珍しく苦笑した。
その後もしばらく、俺たちは、三国で懇親会を続けていたが、横浜への荷物の搬入の件で訪れた鳴瀬さんが、玄関で目を丸くして固まったところでお開きとなった。
最後にミーチャが、「За дружбы」と言って、グラスに残っていたウォッカを一気に飲み干して帰っていった。
『ドルゥーズバイってなんだ?』
『さあ? きっと元気でとか、そんな意味じゃないですか』
『そうだな。じゃ、俺も帰るか。明日はよろしくな』
そう言ったサイモンは鳴瀬さんにウィンクして帰っていった。相変わらず軽いヤツ。
「えーっと……一体何があったんですか?」
鳴瀬さんがおそるおそる聞いてきた。
「そういや、結局ミーチャは何をしに来たんだ?」
「故郷のウォッカを飲みに?」
「三好に用事だったんじゃないのかよ……サイモンのコーヒーと言い、うちはカフェかなにかか?」
「そのうちランスさんも来そうですしね。何を出せばいいんですかね?」
「あの人、ワシントン州だよな。十年ちょっと前に州法が改正されて、シアトルあたりにクラフト・ディスティラリーが大量にできたけど、最近過ぎて故郷の味って感じじゃないか」
「ランスさんってたぶん三十代ですから、十年ちょっと前なら充分飲み始めって感じがしますけど。もういっそのことCC《カナディアンクラブ》とかで良くないですか?」
「……確かに。なんとなく似合う気がする」
大自然の中で、たき火を焚きながら丸太に座り、ランスが持っている銅製のマグの中にはCCが入ってる。ボトルは足下で、たき火の光を反射している。
って、CCのポスターっぽいな!
「先輩、先輩。ウイキペディアのカナディアンウィスキーの項目を見たら、バンクーバにセンチュリー蒸留所というのがあって、センチュリーリザーブってお酒を造ってるみたいですよ。ランスさんちの近所じゃないですか?」
「そりゃでたらめだろう。センチュリーリザーブがバンクーバのブランドだったのは確かだが、作ってたのはカスカディア蒸留所だし、それも十年以上前にアルバータのハイウッド蒸留所に売り飛ばされてる」
だから今のセンチュリーリザーブ二十一年はハイウッドの製品だ。なお、原酒も同時に買われてアルバータの倉庫に持っていったはずなので、中身はまだカスカディア蒸溜のものだろう。
跡地は同じ年にアンドリューワインに売り飛ばされてワイナリーになっている。そしてその翌年、アンドリューワインは、アンドリュー・ペラー・リミテッドになるのだ。
「へー、先輩、ウィスキーは詳しいんですね」
「興味のあるところだけな。お前のワイン病には負けるよ」
「いや、そういう話じゃなくてですね……」
鳴瀬さんが、眉をハの字にして言いよどんだ。
、、、、、、、、、
「おい! 出てきたぞ!」
ずっと監視を続けていた、ドローニャがサーシャに向かっていった。
「結構経ってるが、一人か?」
「どうやらそうらしい。一応セリョージャにも後を付けてるやつらがいないか確認に行って貰っているが、見える範囲にはなにもくっついてなさそうだ」
「じゃあ、一体、なにをしに?」
その時、ドローニャが目を大きく見開いた。
「うそだろ。ドミトリーが鼻歌を歌ってるぞ」
まさに天変地異が起こったかのような彼の発言に、すぐに集音マイクの音が繋がったヘッドフォンを片耳に押しつけると、サーシャもそれを確認した。
「信じられん……」
「まさか、何かの取引がまとまったんじゃ……」
「すぐに大使館とダンジョンチームに伝えろ。ドミトリーをしばらく監視下におくことにする」
「了解」
、、、、、、、、、
週末の農業・食品産業技術総合研究機構の果樹茶業研究部門では、眼鏡を掛けた細面の酷い顔色をした男――佐山│繁《しげる》研究員が、暗い顔で、主任の水木│明憲《あきのり》に話しかけた。
「主任、あの依頼されていた柑橘のDNA鑑定なんですが……」
「ああ、結果は出たのか?」
「それが……訳が分かりません」
「どういう意味だ? うちにあるCAPSマーカーでは同定できないってことか?」
「いえ、それが――」
佐山の説明によると、万全を期すように言われていたので、二人の研究員で別々に鑑定を行わせたら――
「全然違う結果になったんです」
「どういうことだ? 対象に複数種の柑橘が混じっていたということか?」
「いえ、同一の果実から取られた試料が使われました。訳が分からないので、何度か繰り返してみたんですが……」
ここでは、9種類のCAPSマーカーを使って、柑橘の品種識別を行っている。
「うちにあるマーカーと突き合わせたところ、せとかと天草という結果がでるんです」
せとかと天草?
確かに見た目は似ているが、せとかは(清見×アンコール)×マーコットで、天草は(清見×興津早生)×ページオレンジだぞ?
Cp0089/HindIII も、Tf0013/RsaI も異なるはずだ。遺伝子的には間違えようがないくらい違う。
「つまり、この果物内に、せとかの遺伝子と天草の遺伝子が混在しているということか?」
「いえ……そうではなくてですね……」
「なんだ、歯切れが悪いな」
「主任、言っておきますが、これは私の頭がおかしくなったわけではありませんから。結果から論理的に判断すると――」
彼はそこで言いよどんだが、意を決したように先を続けた。
「――鑑定をした人間によって結果が変わっていると思われます」
水木は、一瞬呆けたような顔になった。一体この男は何を言ってるんだ?
「すまん、君が一体何を言っているのかよくわからない」
「報告しておいてなんですが、私にもわからないんです」
「試料か器具が汚染されているってことは?」
「それだと、両方の遺伝子が混じるはずですが、結果はどちらかになるんです」
余りにも馬鹿げている結果に、佐山はすがるように水木を見た。
「主任、この試料、どこから預かったんですか?」
「……日本ダンジョン協会だ」
「ってことは、まさかダンジョン産……ですか?」
水木はその辺りの詳しい出所については聞いていなかった。
しかし日本ダンジョン協会がわざわざ鑑定に寄越したのだ、従業員が買ってきたせとかが、本物かどうか知りたくて調べさせた、なんてことはありえない。
「詳しいことは聞いていないが、たぶんな」
ダンジョン産の果物と言えば、以前ヨーロッパで木イチゴが発見された話を聞いたことがある。あれもDNA鑑定したはずだが……たしか結果はありふれた木イチゴだったはずだ。
水木は、後で詳しい情報を手に入れようと心にメモした。
「ところで、どちらかになる法則はあるのか? それとも完全にランダムなのか?」
「実は何度かやり直してみたのですが、せとかだと鑑定したものがやりなおすとせとかに、天草だと鑑定したものがやりなおすと天草になります」
「初回観測時にどちらかが決定すると、以降はずっとそれになるということか?」
「その通りなんですが……」
「なんだ?」
「情報を一切与えずに、別のものに鑑定させたら、清見という結果になったんです」
佐山は、もう訳が分からないと言った感じでそれを報告した。
それを聞いた水木は皮肉な笑顔を浮かべた。
「対象のDNAが調べられるまで決定しない? いつから遺伝子鑑定は、量子力学になったんだ?」
「まるで最初から複数のDNA配列が重なっている状態で存在していて、観測した瞬間にそのうちのどれかに収束するようにすら思えます」
佐山は、悪い冗談だというように首を振った。
「少し前に、フラーレンで二重スリット実験の干渉縞が出たって話がありましたけど、DNAでも起こるんですかね」
実は多世界解釈が正解だったなんて結果が分子生物学から導かれたり――するはずないよな。おちつけ。目の前にあるのは、得体が知れない化け物じゃない。ただの柑橘のはずだ。
結論を出すには、もっとサンプル数が必要だ。とはいえ、こんなテストにそう多くの予算が出るとは思えない。
鑑定者によって、DNA鑑定の結果が変わる? 自分の部下じゃなかったら、おそらく耳もかさなかっただろう。
「それで、君はこの鑑定結果をどう伝えるべきだと思う?」
「せとかでした!と報告して、後は全てを忘れて日常に戻りたいです」
「可能だろうか?」
わざわざ日本ダンジョン協会がうちに緊急でDNA鑑定までさせて、その対象が普通のせとかだというほうが無理がある気がする。
最初からこんな結果を予想していたんだろうか。もし、そうだとしたら、適当な報告は、うちの鑑定能力を疑われる結果に繋がりかねない。
「……無理でしょうね。追加で鑑定させたのは我が人生最大の過ちでした」
佐山は、さらに顔色を悪化させると力なく肩を落とした。
なにしろこれから自分でも信じられないようなレポートを書かなければならないのだ。しかも署名付きで。
「そうとは限らんだろう。もしかしたら、うちの名前をあげることになるかも知れないぞ」
水木は、そう言って目を細めた。
これでできあがるレポートは、世紀の大発見になるはずだ。ただし、狂人扱いされなければ、だが。
「果実はまだあるのか?」
「あとふたつ残っていますが……」
「京大の北島先生と、国立遺伝学研究所の神沼先生に追試を依頼してくれ」
「え?」
「念のためだ、品種の同定を、必ず別人の二名以上で、別々に鑑定するように申し添えておいてくれ」
「わ、わかりました。すぐに手配します」
「こちらで出た結果については書くなよ」
「了解です」
狂人扱いされる可能性を、少しでも減らすべく彼らは追試を依頼した。
、、、、、、、、、
その日、十八層から戻ってきた渋チーは、ダンジョン受付で呼び止められ、別室でJADAから出された依頼についての説明を、商務課の職員から受けていた。
「というわけで、JADA様から依頼が来ていますが、お引き受けになりますか?」
「俺たちを名指しで?」
「いえ、代々木のトップ探索者の方に依頼したいそうです。林田康生さんのチームを推薦したのは日本ダンジョン協会です」
「ふーん。で、JADAってなんだ?」
「日本アンチドーピング機構様です。日本のスポーツ界のドーピング検査等を行っている組織ですね」
「アンチドーピング? そんな組織が俺たちに何を依頼するって?」
「非公式の記録会を行いたいそうです」
「記録会? なんでそんなものを?」
「依頼目的は、探索者のトップにいる人達の運動能力が知りたいということのようです」
「ふーん」
「いいじゃん、林田。面白そうだし」
喜屋武《キャン》がそう言って、林田の肩に手を回した。
「またまたファンが増えそうなイベントだろ?」
「あのな……で、報酬は?」
そこで提示されたのは、一日拘束のバイト代としては破格だが、ダンジョン探索と比べれば、さほど高額でもない金額だった。
「ちょ、渋くない?」
東が言うと、喜屋武《キャン》がそれをなだめた。
「まあまあ、実際俺たちだって、スポーツでどれくらい通用するのか知りたいだろ? うまくここでアピールすれば来年の代表になって、ヒーローだぜ?」
「来年って、オリンピックか?」
「そうそう。正式な代表が決まるのはこれからなんだろ?」
「いや、そうだけどさ。いくらなんでもその野望はどうなの」
目立ちたがりの喜屋武《キャン》の話は、現実的な東には荒唐無稽に思えた。
「ダイケンはどう思う?」
「俺は別にどっちでもいいさ。大して興味はないが、絶対に嫌って程のことでもない」
「よし。じゃ、あとはデニスだな」
「うーん。ま、俺もどっちでもいいかな。それで、ハヤシダはどうなんだよ?」
「そうだな。誰も反対しなかったし、若干一名滅茶苦茶乗り気なやつがいるから、一日くらいなら引き受けても良いか」
「よし! 決まりだな!」
「ありがとうございます。ではこちらが詳細となります」
そう言って日本ダンジョン協会の職員は、テストの詳細が書かれた用紙を、林田に渡した。
「足のサイズ?」
「陸上用のシューズは、JADAで用意するそうですので、サイズを記入してくださいとのことです」
「そりゃ、助かる。ん? 日付に幅があるけど」
「その間ならいつでも良いそうです」
「じゃ、一番早い日にしておいてくれるかな。さっさと終わらせて本業に復帰しないとな」
「わかりました。それではそのように手続きしておきますので、当日直接本蓮沼の国立スポーツ科学センターへ向かってください」
「わかった」
渋チーがヒーローになる日は近い。……かもしれない。
、、、、、、、、、
マクリーンから内務省までは9マイルだ。車で二十分もかからない。
その日連絡を受けたアレン=コールマンは、午後の遅い時間に内務省内にあるダンジョン省の長官室を訪れた。
「やあ、アレン。久しぶりだな」
「面倒な挨拶はいいから、それで、一体なんの用だ?」
アレンとカーティスは仲が悪いわけではない。これが、効率を重視するアレン=コールマンという男のスタンダードなのだ。
ディビッドは苦笑しながらアレンに椅子を勧めた。
「実はちょっとジャパンのDAで調べて貰いたいことがあるんだ」
「正規ルートで問い合わせればいいだろう?」
「もちろんそれもやるさ」
アレンは神経質に足を組み替えた。
「それにしても、またジャパンか?」
「何かあったのか?」
「あんたのところの商売敵からも、うちに依頼があったぞ」
商売敵とはおそらくダンジョン攻略局のことだ。
さりげなく情報をくれるアレンに感謝しながら、カーティスは思わず失言した。
「何を?」
「それは直接聞いてくれ。それで何を調べれば良いんだ?」
「どうやらジャパンじゃ、ダンジョンの鉱石を選ぶ方法を確立したらしい」
アレンは、それを聞いて眉を寄せた。
「……」
「それを探り出して欲し――」
「カーティス。お前、世界ダンジョン協会のレポートに目を通してないのか?」
話の途中で割り込まれたカーティスは、困惑した。
「いや、今日の分の報告はまだ受けていないが……どういう意味だ?」
「その話、最新の、世界ダンジョン協会レポートで公開されているぞ」
「なんだと?」
アレンは深いため息をついた。
「どうやらうちは不要のようだな。じゃ、俺は忙しいから帰るぞ」
「あ、おい」
呼び止める間もなく出て行った彼の背中を見送った後、カーティスは、世界ダンジョン協会のレポート一覧を呼びだした。
そこには確かに、最新の場所に日本ダンジョン協会のマイニングに関するレポートが上がっていた。
その内容をざっと眺めた彼は、こめかみを押さえると呟いた。
「どう考えても機密情報じゃないのか、これは……あの国は一体どうなってるんだ」
136 パテントの波紋 2月2日 (土曜日)
世界ダンジョン協会(世界ダンジョン機構 World Dungeon Association)の本部は、その設立経緯から、国連本部ビルの二フロアを間借りしていた。
手狭なこともあって、各局は、世界中の協力機関の近くに分局を作っていたが、現在は、すぐ南側の土地に本部ビルが建築中で、そろそろ引っ越しと局の再編成が行われる予定だった。
DFA(食品管理局 the Department of Food Administration)は、人類にとっても重要なポジションだけに、二つの分局が、メリーランド州のホワイト・オークと、イタリア、パルマのドゥカーレ公園の隣に作られていた。
前者はアメリカのFDAに、後者はEUのEFSA(欧州食品安全機関)に間借りして協力体制をとっているわけだ。
「何度見ても、出来の悪い冗談だとしか思えないな、これは」
イースト川を見下ろす、DFAの本局では、主席研究員のネイサン=アーガイルが、緊急・最重要扱いでPO(知財局特許課 Patent Office)から回ってきた資料を見て思わずそうこぼした。
エイプリルフールはまだ一ヶ月以上先のはずだ。
「ミスター・アーガイル。どうされました?」
アシスタントの、シルクリー=サブウェイが、彼の様子を見てそう尋ねた。
親しい人たちは、みな彼女のことをシルキーと呼んだが、思春期を過ぎた後、モノトーンの服が好きだった彼女は、その亡霊や妖精を思わせる呼ばれ方をあまり好きにはなれなかった。もちろんそんなそぶりを見せたことはない。
今ではそれを気にするようなこともなくなり、研究で徹夜をした翌日に、モノトーンのワンピースでガラスに映る姿を見ると、うんシルキーだよねと苦笑をするくらいだ。
初めて会った時から、ネイサンは、彼女のことを堅苦しくミス・サブウェイと呼んで、親しくなった今でもその呼び方は変わっていない。
彼女は、彼の口から、堅苦しくミスと呼ばれるのが、今では結構好きになっていた。それに倣って、彼女も彼のことを、ミスター・アーガイルと呼んでいたが、周囲の研究者たちには、もしかして仲がうまくいっていないのだろうかと心配されてしまうことさえあった。
もちろん、二人ともそんな雑音に耳を貸したりしない性格だったから、ある意味、割れ鍋に綴じ蓋と言える関係なのかもしれなかった。
「いや、POに提出された出願情報のチェックが回ってきたんだが……」
「それは珍しいですね」
ダンジョンから産出する食品の安全性の確認や管理がこの部署の仕事だが、ダンジョンから産出するアイテムに、食べることが前提のものは、今のところそれほど多くはない。
本格的な稼働は、例の五億人登録後の浅層ドロップが開始されてからだろうと、誰もが思っていた。
そのため現在は、協力している機関から安全性試験の下請けをテストがてらに引き受けたりするくらいには暇だった。
「そういえば、ミス・サブウェイの専門は、分子生物学だったかな?」
「はい」
「この件をどう思う?」
ネイサンは、自分が見ていたモニターのドキュメントを、タブレットで開きなおすと、それを彼女へと差し出した。
そこには、定型の書式で記された、POの申請書類がそのままクリップされていた。
「Dファクター?」
「そうだ、提出者の主張によると、ダンジョンは独自の管理機構を持っていて、ダンジョンに属するオブジェクトを管理しているそうだ」
「モンスターのリポップなどを管理と呼ぶのでしたら、そういうシステムがあると考えるのは妥当だと思いますが」
「まさにゲームシステムだな。それで、その管理機能の根源には、提出者たちがDファクターと名付けた物質があるそうだ」
管理機能の根源? シルキーには意味が分からなかった。
電気のようなものだろうか? いや、仮にコンピューター社会でも、それを根源と呼んだりはしないだろう。では管理者としてのAIのようなものだろうか。いや、それをファクターなどと呼ぶのはいかにも変だ。
「ダンジョン碑文の翻訳に表れる、『魔素』などと訳されているもののようなものでしょうか?」
魔素が魔法の発動にかかわっているという仮説は、すでに立てられていて、一応研究はされていた。
しかし、魔法スキルを得た人間の数はとても少ない上に、大抵はダンジョン攻略におけるVIPとなっている。さらに、実験でその意識を暴走させたりしたら、実験者を無意識に殺害することなど、簡単に行える存在だ。脳にプローブひとつまともに落とせず、研究は遅々として進んでいないと聞いていた。
「提出者の主張によると、そのDファクターは、魔法だけでなく、あらゆるダンジョン内オブジェクトの構成に利用されている。言ってみれば、自由に構成を変えられる原子のような存在らしい」
「それはまた、なんというか……大変夢のある、お話ですね」
その、あまりに遠慮した言葉の選び方に、ネイサンはくすりと笑みをこぼした。
つまり彼女は「馬鹿じゃないの?」と言ったのだ。
「そこに書かれていることが事実なら、ダンジョンは、Dファクターを自由に構成することで、あらゆるものを作り出していると、そう想像できるわけだが……」
「さすがにそこまで来ると、ほら話にしか聞こえません」
「しかし、ただのほら話なら、POからここまで、緊急かつ最重要扱いで送られてきたりはしないよ。それがたとえアメリカ大統領の発言だったとしてもね」
つまりその内容は、あらかた妥当だと判断されたのだ。
そしてPOとしては、ディテールを補ったり、確認された結果が欲しいわけだ。しかも早急に。
それがなぜなのかは、提出された書類を見ればすぐに理解できた。
「しかしそれなら、なおさらうちに送られてくる理由がわかりません。DD(ダンジョン局 the Department of Dungeon)あたりが妥当だと思いますが」
「そのわけは、その先を読めばわかる。そのパテントは、Dファクターに関するものではないんだ。その部分は、あくまでも前提としての説明にすぎない」
シルキーは、前提の説明に素早く目を通しながら、ページをめくった。
そうしてそこに書かれているアブストラクトを読んで、思わずタブレットを取り落としそうになった。
「D……進化?」
ネイサンはもみ手をしながら、大きくうなずいた。
「そう。そのパテントの主要な部分は、我々の現実に属しているものが、D進化と呼ばれる工程を経ることで、ダンジョンの管理に組み込まれるというところにあるんだ」
「それはつまり……死んだらリポップする人間が作れるってことですか?!」
「額面通りに受け止めるなら、可能性はある」
そう言って微かに肩をすくめた彼は、今でこそ落ち着いた大人としての名声を勝ち取っていたが、実はブリティッシュパンクで育った男だった。
ダムドやセックスピストルズの結成とともに、この世に生を受けた彼は、成績は良かったが、どちらかと言えばライ麦畑に共感するようなタイプの少年だった。
そして、思春期にパンクに出会い、その強烈なインパクトに一発でノックアウトされた。つまりその時の彼は厨ニ病だったのだ。
その後、世界が、水の中で一ドルの餌に飛びつこうとしているスペンサー・エルデンに熱狂し、ロック史上もっとも有名な作り手と聞き手の間の行き違いが起こっていたころ、彼は「グランジ? パンクについていけない連中がひねり出したクソだろ」とうそぶいていた。要するに彼はこじらせたのだ。
そういうタイプだったとはいえ、行きたい大学ならどこへでも、他人のお金で行ける程度には頭の出来が良かった彼は、きちんと自分と社会に折り合いをつけ、順調にキャリアを重ねて、今ここにいた。
そんな彼が、目の前に現れた、まさにファンタジーとしか形容のしようのない可能性に、大人のままでいられるはずがなかった。
そこには未知の可能性という名の、性悪だが飛び切り美しくセクシーな何かが横たわっていた。まるでフェロモンの塊のような体つきで彼を誘惑するそれは、思春期の抗いがたい性への衝動にも似た何かを、強烈に刺激していた。
「もっともリポップした人間が、元の人間の記憶を持っているかどうかは分からないけどね」
「まあ、それは」
そんな夢物語の可能性に、相槌を打ちながら、彼女さらにページをめくった。
そうして、そのパテントに関連する別のパテントと、それに添えられたレポートの内容を見て、大きく目を見開いた。
「!!」
「そいつがまさに、それがここに送られてきた原因さ」
そこには、『ダンジョン内作物のリポップと、現行作物のダンジョン内作物への変換』が、厳かに添付され、外部の専門家たちの評価を待っていた。
「ミス・サブウェイ」
「は、はい」
「すぐに、飛行機のチケットを取ってくれ」
「東京行きですか?」
彼女はパテントの申請者を見てそう言った。
「そうだ。そこに、そのレポートにある農園があるそうだ」
「しかし、急ぎでやりかけの仕事を放りだすわけには……すぐに移動するのは許可が下りませんよ」
「むぅ……すぐにけりをつける。そしたら、すぐにだ。できるだけ早い便を頼む」
彼は、さっそくたまっている雑事にけりをつけるために、仕事を再開した。
「人類史上に残るような問題は、自分の目で確かめないわけにはいかないだろう? チャンスは鳥のようなものだそうだよ。君も同行するかい?」
顔も上げずに問われた言葉だったが、彼女の答えは最初から決まっていた。
137 日本ダンジョン協会からのお願い 2月2日 (土曜日)
「昨日はまた、面倒なことになりましたね……」
少し遅めの朝食をつつきながら、三好は頬杖をついた。
「まあな」
サイモンやミーチャがやってきたことが原因なのか、何人かが敷地に侵入してアルスルズの餌食になり、田中送りになっていたが、その話ではない。
あれから鳴瀬さんが持ってきた話が問題だったのだ。
、、、、、、、、、
「それで、ちゃんと話していただけるんでしょうね」
サイモンとミーチャが帰った後、鳴瀬さんが、俺たちの雑談を遮って蒸し返した。
「ちゃんとって言われましても……サイモンさんは、明日のオーブの受け渡しの打ち合わせに……って、やったか、打ち合わせ?」
「一応時間と場所だけは聞きましたよ」
「あ、そうだそうだ。というわけで、打ち合わせに」
「……はぁ。では、ドミトリーさんは?」
「そうだよ、結局ミーチャは何をしに来たんだ?」
「故郷のウォッカを飲みに?」
「いえ、その展開はもういいですから」
鳴瀬さんは眉間のしわを抑えながら、同じ展開になりそうだった俺たちの話を遮った。
そして、なにかを決したように、目に強い光を宿して、体を乗り出すと、「まさかとは思いますけど、お二人とも政治的な問題に巻き込まれたりしていませんよね?」と言った。
「政治的な問題?」
「例えばドミトリーさんがアメリカへ――」
「ストーップ」
おれは慌てて、彼女の話を遮った。
まあ、仕方いよな、俺だってそう思ったもの。
「その話をしたら、サイモンさんがビールを噴いてびしょびしょにされましたよ」
「――ビール?」
「あー、つまり、そういう話は一切なさそうでしたよ」
「じゃあ、いったい……」
「おそらくですけど」
「はい」
「遊びに来たんじゃないですかね」
「はい?」
鳴瀬さんの、何言ってんだお前、みたいな顔はもしかしたら初めて見たかもしれない。なかなかレアな表情だ。
「ミーチャと三好は、一応十八層で知り合ってるんです」
「それはまた、なんというか……珍しいですね」
「そうなんですか?」
「あまり来日されたこともありませんし、噂でしかありませんけど、あまりそういうことはしない人のようですよ」
三好が目をつぶって腕を組みコクコクと頷いている。こいつまた、世界チャンピオンは孤高でなければとか考えてやがるな。
どうやらミーチャが孤高な人間だということは、ある程度以上に周知の事実らしい。
RUDA所属探索者の中でも飛びぬけて能力の高い人間だし、ついていける人間がいなければそうなってしまうのも仕方がないのか。
その点サイモンたちは、似通ったレベルの仲間がいたから、そうでもないのかもしれない。もっとも、あの軽さはラテンの血のような気もするが。
(なら、先輩は?)
(うわっ、またお漏らしかよ!)
(まあまあ)
(俺は別に。ただステータスが高いだけだし……あ、そうだ。三好がいるから大丈夫かな)
(ちょ、ちょおーっと、とってつけた感が否めませんね)
「三好さん? 体調でも……」
「え?! あ、いえ、大丈夫です」
ふとみると、ちょっと顔を赤くした三好が、鳴瀬さんに心配されていた。
おお? 照れた三好って、なかなかレアじゃないか?
(先輩……覚えておいてくださいよ)
げっ、まだ漏れてんのかよ。注意してるんだけど、いまだに思考と念話の切り分けって難しいんだよなぁ。
きっと今頃、喧嘩してるパーティがいっぱいありそうな気が……
「ま、まあそういうわけで、偶然ここでバッティングして、なんとなく流れで懇親会みたいになっちゃっただけで、特に意味なんかないんですよ」
「第三者がどう考えるのかが不安ですけど……まあ、そこは考えても始まりませんね」
「そうです、そうです。それで、なにかご用だったのでは?」
「あ、そうでした。実は……」
鳴瀬さんは、そう言って、申し訳なさそうに話を切り出した。
「基金にする予定の資金を、日本ダンジョン協会のダンジョン振興事業へ拠出してほしい?」
「というのが、振興課の希望のようです」
三好が渡した基金に関する資料は、ダンジョン管理課に渡されたが、本来基金は振興課の取り扱いらしい。
それでそちらに回した結果、振興課からそういった提案をされたらしかった。
「ダンジョン管理課は、これに賛同していません。ただ、一応同じ組織ですし、Dパワーズさんの専任管理官を拝命している立場なので……」
「ああ、振興課から話をしてくれるよう頼まれたわけですね」
「はい」
まあ、そこで明確な理由もなく断ったりしたら、課間の軋轢につながるだろうし、そりゃ仕方ないか。
「だけど先輩。日本ダンジョン協会の基金って、『お金はあなたたちが集めてね、助成先はうちが決定するよ。で、管理料は貰うね』ってタイプじゃありませんでしたか?」
「どうなんです?」
「ええ、まあ、確かにそうですが……」
三好のあまりの言い草に、鳴瀬さんは苦笑しながら頷いた。
なお、日本ダンジョン協会の名誉のために言っておくと、基金は大抵このタイプだ。寄付者の考えた分野に助成する組織もあることはあるが、しょせんは「分野」にすぎないし、それも、それほど多くはない。
「日本ダンジョン協会に協力することはやぶさかではないのですが、重要なのは、私たちが助成先を決定できるって事なんですよねー。だけど無視すれば日本ダンジョン協会との関係がギクシャクしそうですし……そう露骨じゃないにしても、細かいところで邪魔されるのは面倒ですよね」
「結局どんな組織も運営しているのは人だからなぁ。意趣返しくらいは、されてもおかしくはないだろう」
「ちっさいですねぇ……」
人間ってそんなもんだよ三好くん。おお、紛う事なき川柳だ。
「だけどさ。うちと振興課に接点なんかないだろ?」
「うーん。いまのところ特にありませんね」
俺たちがやっている、ダンジョン攻略のサポート云々は、一部振興課の業務と被りそうだが、あくまでも一企業の独立した活動だ。
ブートキャンプにしても、探索者のサポートなだけに、ダンジョン管理課の方が近いだろう。
「じゃ、すこしくらいギクシャクしても平気じゃないか?」
「まあ、そうなんですけど……」
三好が心配そうな顔で、鳴瀬さんの方を見た。
「ここで俺たちが断ると鳴瀬さんが困るとか?」
「いえ、一応話をするというだけの約束ですから、これで一応役目は果たしましたし、それにうちの課長は、いただいた基金プロジェクトに後援という形でお墨付きを与えるべきだとの考えですから」
ああ、斎賀さんか。あの人分かってそうだもんな。
「なら、いいんですけど」
「もっとも、この後は、振興課が直接アプローチするという話ですよ」
「はい?」
直接アプローチ? って何をするんだ?
少し考え込んでいた三好が、ふと言葉を継いだ。
「振興課から、専任管理官が送られてきたりして」
「げっ」
いや、それはいくらなんでも……鳴瀬さんはそれなりに知っていたからいいけれど、新たに誰かが送り込まれてきたりしたら、それってスパイじゃないのかと疑わざるをえないぞ。というか、スパイだろ。
「いえ、専任管理官制度は、ダンジョン管理課にしかありません。直接探索者を管理する課ならではですから」
「ならアプローチって、いったい何を?」
「先輩、相手は営業部なんですよ。管理する方法がないなら、営業をかけるに決まってるじゃないですか」
「営業? いったい、何の?」
「この場合は、資産家に対する銀行の営業みたいなものですかね?」
「金融商品がどうとかいう、あれか?」
「きっと、基金のすばらしさを力説してくれると思いますよ」
三好がやれやれとばかりに肩をすくめながらそう言った。
「うわー、面倒くせぇ……」
「先輩……対応するのは私ですよ?」
「お疲れ様です」
三好の憤慨に対して、しれっと対応した俺の態度を見て、鳴瀬さんが苦笑した。
「だけどさ、基金の素晴らしさってなんだ?」
「寄付する側のですか?」
「そう」
「社会的な地位の向上とか? それが損金扱いできて税制面でちょっと優遇されるとかですかね」
「それもうちには関係なさそうだな」
「まあそうですね」
「むしろデメリットを強調されるんじゃないかと思います」
頭をひねる俺たちを見て、鳴瀬さんが口を開いた。
「デメリット?」
「ほら、先輩。Dパワーズを株式会社で立ち上げたとき、調べたじゃないですか。基金の母体としてNPOや公益財団法を作るのは結構面倒で時間もかかるんですよ」
「だから、どうせ支援事業にするなら、すでにある基金に寄付したほうがいいって流れ?」
そう言うと、鳴瀬さんは、軽く頷いた。
「よし、三好。情報を整理しようぜ」
俺は手を叩いて言った。
「まず、基金と言っても、元々うちの売り上げの社会還元が目的だから、当面寄付を募る予定はないだろ」
「ですね」
「なら、寄付者の控除に関して、気にすることはないってことだ」
日本は寄付に対する控除という仕組みがほとんどない。あっても複雑な条件や手続きが必要で、気軽に寄付をするのは、あまり現実的とは言い難い。
中小企業庁のエンジェル税制なんていうのもあるが、ベンチャー企業が中小企業庁認可の企業でなければダメだったり、手続きが面倒くさい。投資時点の控除上限が一千万ってところも低すぎる。上場して株式売買するところまで行けば、かかったお金は上限無く控除されるのだが、潰れた場合のフォローがしょぼすぎるのだ。
「で、思ったんだが、これはすでに基金というより、ベンチャーキャピタルじゃないか?」
「他人からお金を集める気がありませんから、そういう分類だとビジネスエンジェルですね。ただそれだとベンチャーじゃない企業は二の足を踏んじゃうかもしれません」
たしかに、すでに上場している企業は普通申し込んでこないだろう。
「大手でも窓際で変なことを研究している人とか、大学や個人でも面白い発想がある人に、幅広く助成なり投資なりしたいんですけど」
「うーん」
お金を借りるのが難しくて面倒なのはわかるが、お金を貸す側でこれほど苦労するとは思わなかった。
貸してあげると言えば、ほいほい借りに来るものとばかり……
「ならいっそのこと、Dパワーズの投資部門にしてしまって、単独でそういう制度を作ったことを広くアピールしたらどうです?」
悩んでいたら、鳴瀬さんがそんなことを言い出した。それって日本ダンジョン協会職員の発言として、大丈夫なの?
「従来の枠組みとか無視してですか?」
「そうです。従来の枠組みのメリットなんて、出入りに関する税金の控除に集約されるわけで、ただそれだけのためにあんなに複雑なあれこれが存在しているわけです」
まあ、脱税に利用されないための仕組みを考えてたら、無駄に複雑になった上に抜け道まで出来ちゃったみたいなルールは結構ありそうだ。
逆に抜け道をつくったことを気付かれないために、不必要に複雑にしたんじゃないかと邪推しそうになるルールまであるくらいだ。
「だから、寄付も求めないし、利益が出るなら普通に税金を払うよって場合は、好き勝手してもいいんじゃないでしょうか」
「って、鳴瀬さん、そんなこと言っていいんですか?」
「振興課とは、そもそも部が違いますし。ダンジョン管理課の管理監としては、こちらの利益が優先……ですかね?」
鳴瀬さんがペロッと舌を出しながらそう言うのを見て、三好が「あざとい!」と呟いた。
「しかし社会への告知はどうするよ?」
広く知られていなければ、申し込みは来ない。
勝手にやるには、自分たちでそれを行う必要があるのだ。
「そこは貸しを返してもらいましょう」
「貸し?」
「あとは、ウェブですかね」
三好は、俺の質問をさりげなくスルーして、話をwebに振った。
何の話だかわからないが、きっと鳴瀬さんに直接聞かせたくない話なんだろう。念話も来ないから緊急でもない。あとで訊けばいいか。
「そういや、ドメインはとってあるんだろ? いい加減Dパワーズのサイトもちゃんとしないとな」
「d-powers.com を取得してあります。とりあえず簡単なフレームワークだけ突っ込んで、先輩と私と三代さんのメールアドレスだけ作りましたけど、弄ってる暇がありませんからそのまま放置されてます。先輩、やります?」
HTMLとCSSとjavascriptだし、サーバーサイドはpythonかruby、最悪でもphpでいいだろうし、やれと言われれば出来ないことはないが、特にそんな趣味はないしなぁ。
最新のサービスだのライブラリだのを調べるのも面倒くさい。web関連って、なんであんなに次から次から似たような概念で名称が違うことを作りまくってるんだろう。車輪が百個ある車かよってレベルだ。
デザインだって、下手をすれば毎年トレンドが変わっていくし、立てスクデザインの代表! みたいなリンクを踏んだら、すでに全然違うレイアウトになってるとかザラにある。
「丸投げは?」
「デザインとかならともかく、内容は分かってる人がやらないと無理ですよ」
ヒブンリークスやオークションは、やるべき事がはっきりしていて、フォーマットを決めてしまえば流し込むだけだったからさほどでもないが、汎用的な情報発信となると考えることがいきなり増える。
「……面倒だな」
「ですよねー」
、、、、、、、、、
というような話が昨夜あったわけだ。
「で、どーすんだ?」
俺は、バターを載せた四つ切りのトーストをオーブンから取り出すと、三好に聞いた。
「とにかく私たちが投資先を決められないシステムはNGです。昨日話があった通り、会社として投資をするにはどうしたらいいのか、法律事務所の先生に相談してきます。もしも、事業目的の追加が必要なら定款の変更だけじゃだめで、登記変更が必要になりますし」
「じゃあ振興課のアプローチが来たら、それにのっかる感じで、昨夜の結論に誘導するか」
「基金の母体を作るデメリットに誘導されて、会社に投資部門を作っちゃうって流れですね。アドバイスにすごく感謝しながら」
そう言って、三好は、ニシシシと笑うと、元気にサラダを頬張り始めた。
「そうそう」
「斜め上の結論って感じで面白そうですよね! とはいえ、今日はオーブの受け渡しがありますから」
「振興課のアプローチっていつ頃来るんだろうな?」
「近日中って感じでしたけど……まあ、基金の件は特に急ぎませんし、来たら進めるってことでよくないですか?」
「了解。で、もう一つの件はどうするよ?」
「そりゃもう、協力しますよ。面白そうですもん」
三好は、すました顔で、さも当然といった体で、コーヒーに口をつけた。
「どうせいずれは発信しなけりゃならない情報だし、日本ダンジョン協会でロンダリングしてくれるなら万々歳といえば、その通りだが……」
「先輩、ロンダリングはないでしょ、ロンダリングは」
、、、、、、、、、
「それと、ご相談があるんですが」
「相談? なんです?」
基金の話が一段落した後、鳴瀬さんは、三好にメモリカードを渡して、代々木ダンジョン情報局という日本ダンジョン協会が公開しているサイトのリニューアルプランについて話し始めた。
「いままで三好さんからご提供いただいたデータを、どうユーザーに向けて活用するのかという話が課内でもありまして」
「はあ」
「それで、うちの広報セクションが、代々木ダンジョン情報局のリニューアルを行って、そこでまとめてはどうかという企画を提案してきたんです」
「3Dマップデーターとかもですか?」
「はい。みんな驚いてましたけど、あれはどうやって取得したデータなんですか?」
「え? 深度センサーのポイントクラウドから3Dマップを起こして、カメラ画像をテクスチャーにして張りつけていっただけですよ? 一時期ARで流行ってた技術の応用です」
利用者が見ている部分が3Dデータ化されて、それをサーバーに上書きしていくというのは、世界の3D化やARを活用するのに必要な基幹技術の一つだろう。
歩けばマップが出来る、そこがポイントだ。ただ実際は光学的なセンサーと超音波タイプのセンサーを組み合わせるなどの工夫がしてある。
ダンジョンの内部は光量が足りなかったり、霧のような障害物が出ることも多いからだ。
「それって、探索者に簡単に持たせられないでしょうか?」
「可能かと言われれば可能だと思うんですけど、バッテリーの重量が結構な負担になりますから、いつもの探索のついでというのはあまり現実的じゃないかもしれません」
あのカメラキットは、今のところ、一つのリチウムイオンバッテリーで約二時間程度動作する。
俺たちは保管庫に大量のバッテリーを持っているから、それほど問題にならないが、一般の探索者は、ここぞという時以外に使用することは難しいし、ヘルメットに搭載しているカメラ機材も、実際に自分で殴りかからない三好ならともかく、普通の探索者ではすぐに壊れる可能性が高いだろう。
「もっと小型化されて、ついでにバッテリーがせめて8時間くらい持てば実用になるんですけどね」
「え? じゃあ三好さん達はどうやって?」
「うちは、カヴァスたちがいますから」
三好が自信満々でテキトーなことを言うと、その声に反応して、呼んだ? とカヴァスが顔を出した。
「この子たちが運んでくれるんですか? いいですね」
鳴瀬さんが、うらやましそうにしながら、カヴァスの頭をなでている。ここのところアルスルズ成分が不足しているようだ。最初はビビってたのに、慣れというのは凄いものだ。
「自動車メーカーなんかが、ダンジョン内で使うポーターみたいな機器を開発しているそうですから、そういうのが実用化されれば、オプションとして取り付けるというのもありじゃないですか」
データを日本ダンジョン協会に提出するという前提で、補助金を出すというのもいいかもしれない。
「それに、こういう技術をダンジョン内で開発しておけば、いずれ機器が一般化して、地上へ応用する企業が出てくると思いますよ。ARのインフラ化が進むかもしれません」
そうすれば、電脳コイルの世界が出現する日も遠くないな。
あれを実際に作り出す動機は、今のところ現代社会にはないが、ダンジョンの中にはありそうだ。そこで技術が熟成すれば、それを地上に適用する企業が出てきてもおかしくない。なにしろインフラ技術が完成していれば、サーバーを増強してデバイスを売るだけで済むのだ。
後はカメラを利用したプライバシーの問題が発生するだろうが、今でもスマホにカメラはついているのだ。圧倒的に便利な世界が出現したら、どうせ社会はそれを受け入れざるを得ない。
「いいですね、先輩! センサー部分の精度はちょっと問題ですけど」
深度センサーは、距離が離れると、とたんに誤差が酷くなっていく。
ダンジョンのマップを作る程度なら一センチくらいの誤差は許容範囲だが、流石に十センチもずれると苦しいだろう。
近づけば精度が上がるから、それで上書きするとしても、やはり五メートルで一センチ未満の精度は欲しい。通路を歩くとき、このために右と左をふらふらしながら進んでいくなんて人は普通いないのだ。
「去年TDKがアメリカのチャープ・マイクロシステムズを買収したんですよ。その辺りから、超小型で精度の高い超音波センサーがそろそろ出てきそうなんですけどね」
「そうだな。ポーターに乗せるなら、ちょっと大きめのLIDARでも良いかもな。あれなら精度がでるだろ?」
ToFカメラだと距離が離れると急激に精度が悪化していくが、LIDARならそれよりはずっとましだ。
「カメラを作るときに調べたら、MITが、深度情報を従来の千倍くらいの精度で読み取るLIDAR型のシステムを、少し前に発表してたんですよ。頭の上に乗せるのは無理でしたけど」
首が折れちゃいますよね、と三好が笑った。
「いずれにしても需要ができれば、メーカーがそれぞれ勝手に工夫するだろ」
「そうですね。そういう意味では、アメリカの政策のせいで一気に研究が進みそうな感じもありますし」
「なんで?」
「移民の抑制で、季節労働者が不足する懸念が高まってるんです。特に機械化されていない生食用の果物の収穫を始めとする農業分野の労働力枯渇ですね」
「それで機械化、というかロボット化が進んでる?」
「そうです。一昨年にゴーグルが、アバンダンド・ロボティクスに一千万ドル投資したりしています。果物を捉えるセンサーは数メートル先の果物を正確に捉える必要がありますからね」
なんというか、流石アメリカって感じだな。人がいなければ機械にやらせればいいじゃないってところか。
日本なら、働く場所が機械とAIによって奪われるって話が出るところだ。こういう議論は、奪われるんじゃなくて、任せちゃって楽ができるという方向へ向かってほしいんだけどな。
「それに、いざとなったら何処かの企業と提携して、専用のセンサーを開発して貰えばいいんですよ」
そういや、今の俺たちはそれが可能なんだった。一千万ドルは、たった十一億円なのだ。どうにもスケール感が……という話を三好にしたら、なんでも思いついたことがやれるんだと思えばいいんじゃないですかと言われた。まあ、確かにその通りなんだけど……
段々予想しないスケールの話になっていくのを聞いていた鳴瀬さんの笑顔が引きつっていた。
「ダンジョン技術の延長で、ARメガネ時代が来るってのも夢があっていいかもな」
「ですよね」
「ま、まあ、将来の話はともかく、いままで代々ダン情報局は、そこで起こったイベントやニュースが主体になっていたのですが、お預かりしたデーターを中心に、これをもう少し攻略方向へシフトできないかということなんです」
そういって三好のタブレットに企画書のようなものを転送した。
「それで、三好さんにもご協力をいただければと……」
すまなそうな鳴瀬さんの様子を見て、俺ははたと気が付いた。
(なるほど、情報局でのデータの公開にかこつけて、三好に鑑定を依頼しようという謀《はかりごと》だったか)
(謀《はかりごと》はひどいですよ)
異界言語理解の時も思ったけれど、謀《はかりごと》には向かない人だよな。もっとも、もし、これが演技だとしたら、それはそれで凄いのだが。
ともあれ、俺たちが鑑定を受け付けていないのは、その後の関係が面倒だからであって、鑑定をすること自体が、命を削るとか、多大な労力を要するとかいうわけではない。
柵《しがらみ》なしに情報を提供できるというなら、積極的にそれを拒否する理由はないのだ。
(だけど先輩。オーブの情報はどうします?)
(うーん。あれはなぁ。提供すると、そのオーブをどこから得たのかって話になるからなぁ……)
(ですよね。オークションで取り扱ったものだけにしておきましょうか)
(それが無難だな。不死とかあからさまに怪しいから、すぐに使うヤツもいないだろうし)
(了解です)
「構いませんよ。私たちが鑑定を受け付けてないのは、依頼の相手をするのが面倒なだけなので。妙にへりくだられたりしたら気持ち悪いですし、だんだん遠慮が無くなってくるのも嫌ですよね」
以前も言っていたヒーローの宿命ってやつだな。
誰も助けてくれない状態が普通なら、助けられれば感謝してくれる。しかし、助けて貰えることが日常になると、それを既得権益だと考え始めるのか、助けがなくなると文句を言うようになるのだ。実に浅ましいが、それが人間だ。
俺たちは聖人君子じゃない。
感謝されれば嬉しいし、いわれのない文句を言われればむかつくし、一般人が背負っている以上の義務を不当に負うのも嫌だ。
たとえ、百メートルを九秒で走れる男がいても、彼にオリンピックに出る義務はないはずだ。
そして三好は、鳴瀬さんにこれまで溜めていたモンスターやアイテムの情報の一覧を送った。
「なんです、これ?!」
「いまのところこちらで確認したアイテムやモンスターの鑑定結果です。どっかで公開しなきゃと思ってたんですけど、日本ダンジョン協会がやってくれるならお渡ししておきますよ」
驚いてそれを確認している鳴瀬さんを横目に言った。
「しかしブラウザで3Dマップが表示できる時代なのか。今までのダンジョンビューと違って、完全3Dだろ? WebGLとかかな?」
「今頂いた企画書だと、フル機能はアプリでやるみたいですよ」
「え、じゃあパソコンは?」
「さあ。まあ今時はブラウザでも結構なことが出来ますから。でなきゃアプリのパソコン移植みたいな形で実行ファイルにしちゃうんですかね?」
開発側はともかく、利用側はパソコンで見るユーザーそのものが減っているから、なくても大して困らないのかもしれないな。
「これならもういっそのこと、ステータス情報や世界ダンジョン協会IDとかと紐づけちゃって、代々木ダンジョン攻略アプリみたいな位置づけにしちゃうってのもありかもしれません」
「ダンジョン情報の部分をデータベースとくっつけて、アクセスするAPIを公開すれば、ユーザーが勝手にクライアントを作ってくれそうな気もするしな」
勝手に拡大していく構想に、笑顔を引きつらせていた鳴瀬さんが、三好がこぼした次の一言に食いついた。
「これでダンジョン内でもネットが使えれば完璧なんですけどねぇ……」
「それなんですけど」
「え?」
「あの二十一層のDPハウスってどうなってるんです?」
「何がですか?」
「実は、あのハウスが維持できるなら、ダンジョン内にインフラが構築できるんじゃないかという話がありまして」
(おう、やっぱ来たか。どうするよ、三好)
(一層の有効活用のためにも、もうちょっと、秘匿しておきたかったんですが……)
(だが、DPハウスが知られたら、現地で調査するやつが出るよな)
(絶対です)
(仕方ない、開示するか。いつかはやんなきゃならないしな。……一応特許、取っとくか? って、とれるの?)
(製薬会社の特許に、害虫駆除剤の特許がありますから、たぶんとれますよ)
(陽イオンタイプの界面活性剤全体が有効なのか、塩化ベンゼトニウムだけが有効なのか、一応その辺を確認してからだな)
(ですね。一応界面活性効果のある物質ということで広く書くこともできますけど)
(それくらいなら、今までだって誰かがやってるはずだろ。効果の範囲を確認するためにも、テストはやれるだけやっとくか)
(了解です)
うーんと、腕を組んで、難しい顔で考えている振りをしながら、三好と念話をしていた俺は、何かを決めたように腕組みを解くと、鳴瀬さんに向かって言った。
「わかりました、情報を開示しましょう」
「え? 本当に?」
「ええまあ。あれを作っちゃうと隠すのも難しいですしね。使い捨てですって開き直ってもいいんですけど」
その時、三好が、はたと手を打って言った。
「よく考えてみたら、アルスルズが番犬してるってものアリでしたよ、先輩」
「しまった、その手があったか! 猛犬注意の立て札かなにかを立てて」
「あのー」
「ああ、実は、アルスルズが番犬をしてまして――」
「あははは」
鳴瀬さんが乾いた笑いを浮かべた。
「まあまあ、先輩。ダンジョン内にインフラができるのは、私たちにとっても嬉しいことじゃないですか」
「ありがとうございます」
「まあそうだな。本当にインフラが優先されるなら、その通りだ」
だが、この技術が公開されると、インフラよりも先に別のものに使われる気がするんだよなぁ……
「じゃあ、先輩。特許を取って、インフラ整備に使う場合は無償なり、格安なりにすればいいんじゃないですか?」
「うーん。まあ、俺たちに出来そうなのはそれくらいか」
「いっそのことうちで代々木に通信インフラを作っちゃうと言う手も」
面白いが、通信関係は面倒くさいからなぁ……
「ダンジョン内の電波利用ってどうなってんだ?」
「多分ルール自体が整備されていないと思います」と俺たちの話を聞いていた鳴瀬さんが、そう答えた。
「便宜上、日本の法律と同じものが適用されているような気分になってますけど、現状、どのパーティや部隊も持ち込んだ無線を使ってるだけですから、本格的なルールは、まだなにも設定されていないはずです」
「とは言え、さっきのダンジョン攻略デバイスみたいなのをハードウェアから作って、それ専用にするならともかく、各キャリアのスマホが使えるようにしたいわけだろ? そりゃ、キャリアとの折衝がめんどくさくてやってられないって」
「……なんだか苦労だけ多そうで、イヤーンな感じがしてきました」
「だろ? インフラなんか通信事業者か国、この場合はDAかもだが……あたりに任せておけばいいんだよ」
「従量制で、すんごいパケット代を取られそうな予感がします」
「その辺は規制組織、総務省とダンジョン省かな? の良識に任せておけばいいだろ」
「ま、そう言うことなんで、すこし待って下さい。こちらにも準備とかありますし」
「わかりました。お待ちしています」
スライム対策の話が終わって、ほっとした様子だった鳴瀬さんは、すぐに非常に言いにくそうな感じで新しい話題を切り出してきた。
「で、ですね。もう一つあるんですが……」
「ええ?」
その様子に、俺たちはわざとらしく驚きながら笑った。
「ホイポイカプセルの件なのですが」
「ああ」
「来ましたよ、先輩。でも、面倒です」
「まだ何にも話してませんよ」と鳴瀬さんが苦笑した。
「セーフエリアの開発の件でしょう?」
「ええ、まあ……」
「先輩、DPハウスしか入らないことにしましょう!」
「目の前でそう言うことを言わないでくださいよ」
三好の軽口で、眉をハの字にした鳴瀬さんに、俺は助け船を出した。
「で、何を持っていきたいんです?」
「え? 手伝ってもらえるんですか?!」
「先輩は美人に甘いから……」
三好は、呆れたような顔でそう言ったが、鳴瀬さんの説明によると、現時点ではなにも決まっていないそうだった。
そして、ホイポイの件は積極的に開示しておらず、そっとデータベースに登録しただけだそうだ。
「ただ、誰かが気がつくと――」
「そりゃ絶対協力してくれって言われますよ」
「そうだな。ともかくそれが現実になったとき、何を持っていきたいのかを教えてもらえれば、その時考えますよ」
「ホイポイありきみたいな予定を、どこかの偉い人が立てたら逃亡ですね!」
「まあ、程度問題だな。そればっかやってるのも嫌だし」
「行って帰るだけで四日かかりますからねぇ……」
全力を出せば、たぶん二日で行けると思うが、わざわざそんな目立つことはしたくない。
「それでお聞きしておきたいのですが、あれって、なにかでひとまとめにすれば、ひとつのアイテムと見なされるんでしょうか?」
「テストしてみないと分かりませんけど、多分大丈夫だと思いますよ」
「分かりました。何かあったらご相談します」
「はいはい」
その後鳴瀬さんは、先日話題になった宝石の原石を査定のために預かりたいので、まとめておいて欲しいという話をしたあと、疲れた顔で帰路についた。
「あ、先輩!」
「どうした?」
「麦畑の件、伝え忘れましたよ」
「あ、そうか……まあ、いろいろと案件が多かったからな。D進化の申請は終わってるし、畑の引き渡しについては次でいいだろ」
「専任ってのも、いろいろ面倒なことを背負わされて大変そうですもんねぇ」
「まあな。代々ダン情報局もホイポイも、報酬のことをひとつも言わなかったろ?」
「そういえば」
「あれは、鳴瀬さんも条件を提示されてないんだぜ。異界言語理解の時もそうだったけど、向こうも協力が得られるかどうかわからなくって、とりあえず専任に押しつけて探らせましたってところだろ」
「そんな状態で折衝させられるのは嫌ですねぇ……って、先輩ってそういうのに甘いですよね。あの窓ふきメイドにしても」
「い、いいだろ。ちょっとくらい」
「まあ、それが先輩の良いところですよ」
そう言って三好は、ポンポンと俺の背中を叩くと、事務所の中に戻っていった。
「結局、七回生まれ変わる前に、鑑定協力するお前に言われたかないよ」
そう呟いて、俺は三好の後に続いた。
、、、、、、、、、
「――というわけで、特許の前に、一応他のタイプの界面活性剤や、陽イオンタイプでも別の物質で確認しないといけません」
フォークに指したソーセージをフリフリしつつ、三好が言った。
「薬液を用意してくれれば、俺が調べても良いけど。お前、法律事務所へは、いつ行くんだ?」
「そっちは後回しで良いですよ。アポも取ってませんし、どうせ『検討中です』ですから」
ソーセージをぱりんと囓った三好は、もぐもぐと咀嚼してそれを飲み込んでから言った。
「二十一層にすでにあれが建っている以上こっちが優先でしょう。十四時のオーブの受け渡しは外せないので、その後に薬液を揃えてみます。テストはなるべく早くやりましょう」
「了解。横浜の方はいいのか?」
「あっちは、搬入さえしておけば配置は後回しでかまいませんし」
配置は、保管庫や収納庫を使えば、そうとう重いものでも一人で自由自在に行える。
「後は工事の監督とかスケジュールとか決めないといけないんですが、まあおいおいでいいですよね」
「踊り場で実験だけ出来れば、それ以外はいつでもいいだろ。あそこに泊まる事なんかしばらくないだろうし」
「なら私は今日中にできるだけ薬剤を揃えときます」
「頼む。じゃ、本日もテキトーに働きますか」
「おー!」
、、、、、、、、、
その日の午後、俺たちは予定通り、日本ダンジョン協会でアメリカにふたつのマイニングを引き渡した。
それを手に入れた瞬間、部屋の隅で早速それを使った二人に、何人かの人間が群がって話をしていた。
「きれいにふたつに分かれてますね」
「ダンジョン攻略局とダンジョン攻略局の確執は思ったよりも根深いのかもなぁ……」
「ダンジョン攻略局は、実働部隊が失態続きで焦ってるって話も聞きますよ」
「いや、それな……」
なにしろ原因はの半分以上は俺たちなのだ。
あんまりコケにしていると、そのうち世界から抹消されそうな気がする。
「コケにしているつもりはないんですけどねぇ……」
「だよな」
なんてことをこっそり話していると、『よ。先日は楽しかったな』とサイモンが声を掛けてきた。
『まさかドミトリーにあんな一面があったとは。意外だったぜ』
『でも、結局なにをしに来たのか分からなかったんですよね』
『……そういわれりゃそうだな。ま、大事な用なら、また来るだろ』
そんなにホイホイ、ロシアのエースに来られたりしたら、国際関係で物議を醸しそうで困るんですけど。
そういや、サイモンはしょっちゅう来てるけど大丈夫なのか?
『ロシアのエースが一人でうちに出入りしてたら、国際的に色々言われないんですかね?』
『あー、そりゃあるかもなぁ。俺もしばらくチェックされてたっぽいし。最近は外出時に行動計画書とか提出させられる有様だぜ』
『ええ? それって、大丈夫なんですか?』
『別に何にも国家に反逆するようなことはしてないんだから、平気に決まってるだろ?』
『いや、そこはえん罪を演出されるとか』
小さな声でそういうと、サイモンは、顎に手を添えて少し考えた。
『まあ、利用価値がある間は大丈夫だろ』
おい! そんなシビアな話なのかよ。
『うちもそんな感じですもんねぇ』と三好が相槌を打つ。
『だろ?』
ええ? 君たちちょっとネガティブすぎない?
『そ、それで、彼らはこれからどうするんですか?』
俺は、部屋の向こうで、二つのグループに分かれている人たちの方を見ながら訊いた。
『さっそく二十二層らしいぞ。お供を言いつかったから、しばらくアズサのところには行けないな』
『頑張ってください』
『で、お前らはどうするんだ?』
『これから? えーっと……買い物ですね』
午前中に三好が注文しまくった化学物質を取りにいかないといけないのだ。
『ふーん。まあいいか。暇があったらついでに二十一層のオレンジ畑を見てくるぜ』
『ええ?』
あそこには、目立つ建物が……
『なんだよ?』
『い、いえ、なんでも。木を掘り起こして持って行っちゃだめですよ』
『そんなことしな……いよな?』
そう言ってサイモンは、二つのグループの方へ目をやった。
『しりませんよ。でもダンジョン攻略局って資源関係の省庁だから連れていかない方が無難じゃないですか? 掘り起こして持っていくのを防ぐルールは、今のところ代々木にはありませんからね』
『ドミトリーじゃないが、イソップの寓話がリアルに感じられるな。まあおそらく十八層のキャンプで1泊して、二十二層へ直行だろうぜ。連中も効率が好きだからな。下層へのルートからは外れてるんだろ?』
『何キロか』
『じゃあ大丈夫だ。ダンジョン攻略局の連中が余計な探索をしなきゃ、だけどな』
『ダンジョン攻略局と合同で二十二層へ行くんじゃないんですか?』
『一応例の荷物も届いたみたいだし、初回の案内はするが、その先は分からんな』
『まあ、できるだけ回避してくださいよ』
『そうは言っても、俺たちにダンジョン攻略局の指揮権はないからな』
そしてサイモンは、『そうならないよう、神に祈るのが精々ってところさ』と肩をすくめて、諦めたような顔をした。
138 オペレーション・トモダチ? 2月3日 (日曜日)
ワシントンのオーバルオフィスでは、そこの主のアルバート=ハンドラー大統領が、首席補佐官のニック・マルベリーと共に、ジーン・カスペルCIA長官の報告を受けていた。
「世界ダンジョン協会が独立をもくろんでいる?」
「可能性があるという分析です」
一通りの報告を聞き終えた彼らは、プライベートの時のような砕けた会話に移行した。
「ジーン、いくらなんでもそれは唐突すぎるだろう」
「アルバート。世界ダンジョン協会がダンジョン内の権利を完全に有しているのは、世界のドタバタをなるべく穏健に収めようとした各国の妥協の産物でしょう?」
「それはそうだ」
「当時の混乱はすでに収束していると言えるし、代々木で発見されたセーフエリアがその可能性に輪をかけたのよ」
CIAの報告が今一つ理解できなかったニックは、率直にジーンに尋ねた。
「ちょっと待ってくれ。独立ってなんだ? そもそも世界ダンジョン協会はどの国にもとらわれていないだろう。見ようによっちゃ、国連なんかよりもよっぽど独立しているぞ」
「あの機関は、金ばかり要求してひとつもアメリカのためにならん。あんな特定国家の思想に汚染されたような組織は――」
「アルバート、その話はちょっとおいておいて。ニック、独立っていうのは……そうね、国家って意味でもいいわ」
「国家?」
「そう。これは、世界ダンジョン協会が国家としてふるまい始めるのではないかという予測でもあるの」
「おいおい。仮にダンジョン内をその領土と認めるとしても、住民がいないだろ? まさかモンスターを住民だというわけには――」
そう言い始めて、ニックは言葉を飲み込んだ。
「――セーフエリアか」
ジーンはその言葉に頷いた。
「しかし、世界ダンジョン協会が自らを国だと言い張ったところで、誰もそれを認めたりはしないだろう?」
「国家の資格要件に、国家承認は含まれないってのが時代の趨勢だ。我が国がモンテビデオ条約をないがしろにするわけにはいかない」
アルバートは、椅子の背に体を預けながらそう言った。
「しかし、それにしたって……」
国家の資格要件には、永続的な住民と明確な領域、それに政府と外交能力が必要だ。
永続的住民は、セーフエリアのおかげで得られる可能性がある。
明確な領域は、ダンジョン内だから、地上とは完全に線が引かれている。
政府は、現在の世界ダンジョン協会がその任を果たそうと思えば可能だ。というより、実際にダンジョン内のルール策定等で内向きには機能している。
外向きには――
「物理的な実力はどうする?」
「一流の探索者が永続的な住民となるなら、確保できるんじゃない?」
ダンジョン内に近代兵器を持ち込むのは難しい。
ダンジョン内から外に責めてくるというのならともかく、どこかの島国ではないが、専守防衛を貫かれるとしたら、外向きの力として十分機能するかもしれなかった。
なにしろ相手は魔法を使うのだ。
ジーンは、まるでファンタジー小説のようねと、微かに笑みをこぼした。
「とはいえ、今まではダンジョン内だけで世界を完結させるのは難しかったから、そんな行動に出ることは考えられなかったけど」
「入り口を閉鎖されれば、すぐに干上がるからな」
ダンジョン内に食料はないも同然だ。
産業と言えるものは、何に使用していいのかも良く分からないダンジョン産の素材がせいぜいだった。ついこの間までは。
「ところが、つい先日、戦慄のレポートが提出されたの」
「戦慄?」
「ある人たちにとってはね」
そういってジーンは、世界ダンジョン協会のPO(知財局特許課)から入手したレポートについて説明した。
どうやって入手したのかを聞くのはヤボというものだ。
「これは……何かの冗談か?」
レポートの内容に目を通したアルバートは、思わずそう言った。
「いいえ。現在、DFA(食品管理局)の主席研究員が、何もかも投げ出して東京行きのチケットを申請したっていうから、信ぴょう性は高いわね」
「もしもそれが事実だとしたら――」
アルバートが言いよどんだところで、ジーンが引き継いだ。
「ダンジョン内であることの問題点は、ほとんど解決したも同然ね」
「いや、水だって必要だろ?」
「ダンジョンの中にだって水はあるじゃない。それに、向こうには水魔法なんて便利なものがあるそうよ」
水魔法は、例のインクレディブルなオークションでいくつも販売されている。
つまり、比較的潤沢に存在するってことだろう。あの世界では。
「無限に産出する鉱物資源と穀物。現実にはあり得ないような素材群とファンタジーから飛び出してきたような魔法なる現象。そうしてついには安全な場所か。独立を考えてもおかしくはない、のか?」
「あとはエネルギーがあれば完璧ね」
「魔結晶か」
「次あたりに出てくるのは、それのパテントじゃないかと睨んでいるのだけど」
「冗談はよせよ」
こうして考えれば、独立しようとしてそれが行える要件は満たされているのかもしれなかった。そのメリットはともかくとして。
「問題は、その大部分が代々木発ってところね」
「ダンジョン攻略局からも報告が上がってきている。どうやら震源は、たったひとつのパーティらしいじゃないか」
「我が国に、非常に高価な福音を売りつけた連中ですね」
「あれは安全保障上必要な経費だ。たとえ、どこの誰だかわからないインタプリタなどという探索者が、碑文の内容を公開したとしてもね」
自陣営でその内容を確認できないなら、公開者が謎の人物だろうがロシアだろうが結果は同じだ。
「オーブのオークションから始まった奇跡は、ステータス計測装置の開発を経て、ついにはダンジョン内農園と来たわけだけど、ここまでたった3か月よ」
「信じがたいな。この先どうなるのか、恐れすら抱きそうだ」
「そうやって調べれば調べるほど、噂の信ぴょう性は増すばかりってところね」
「噂?」
「日本は、ダンジョンの向こう側にいる何かと、すでにコンタクトを持っているって話」
「それは、外交チャンネルを使って訊いてみた。向こうの政府は否定したよ」
「相手は政府とは限らないでしょう?」
そう言って、ジーンは一枚の写真をテーブルの上に投げた。
「その中心に誰かがいるとしたら、彼女たち以外には考えられないわね」
そこには、ショップで喜々としてワインを選んでいる、ザ・ワイズマンの二つ名で呼ばれる女性の姿が写っていた。
アルバートは、隠し撮りとは思えない鮮明さの写真の中で、あまりにうれしそうな様子をしている彼女が持っている、シンプルで、ともすればやる気がないようにすら思われそうなラベルのワインに気が付いた。
その写真を手に取った彼は、ボトルを確認するように目を近づけた。
「コルギンか」
写真をテーブルの上に戻しながら、彼は言った。
コルギンは、ナパのカルトワインを代表するワイナリーのひとつだ。
「彼女、ナパが好みなのか?」
「というより、ワイン全般がお好きなようね。報告の分析によると、買い方がマニアックだそうよ」
「マニアック?」
「見て。彼女が購入しようとしているのは、カリアドの1999」
「それが?」
「棚には05も07もあるのに99を嬉々として選んでる」
コルギンのカリアド、05と07は、いわゆるパーカーポイントで満点を取っているワインだ。
もはや彼《か》のポイントの満点は、カリフォルニアのカルトワインには珍しくないとはいえ、評価の話を聞いたこともない99を選択するのは、確かに変わっている。
「99は良くない?」
「パーカーが最初に評価したときは91ポイントだったそうよ」
「それほど評価が違えば価格も違うだろう? 今の高騰ぶりは、少し、なんというか……うんざりするくらいだ。リーズナブルなものを選んだだけじゃないのか?」
「今の彼女に買えないワインがあるとしたら、持ち主が絶対に売らないものだけね」
そういわれてみれば、彼女は異界言語理解のバイヤーズプレミアムだけで、ワインくらいなら大抵のものが、好きなだけ買えるだろう。
目の前にビンテージ違いの同じワインがあったとき、どれでも好きなものが選べるなら評価の高いものを選ぶのが普通の感覚だ。
「ともかく、目の前にもっと高評価のワインがあるにも関わらず、彼女が選んだのは、たいして評価の高くない年で、しかも飲み頃としてはギリギリピークって感じのもの」
「それで? 調べたんだろ?」
CIAの分析官は、プロファイリングという言葉で、重箱の隅をつつくのが大好きだ。
「一九九九年は、醸造がコルギンの代名詞だったヘレン=ターリーから、ナパの申し子、マーク=オベールに変わった年なんだって」
「それだけ? 偶然じゃないのか?」
「調査した者は絶対それが原因だって断言したわ。マニアックって意味がわかった?」
アルバートは、あきれたようにのけぞって、椅子の背もたれに体重を預けた。
そうして天井を見上げたまま言った。
「97のスクリーミング・イーグル1ケースで買収できないかな?」
「え? アルバート、それを持っているわけ?」
ジーンはそのセリフを聞いて驚きつつも、さすが大統領と関心もした。
当時はそれほどでもなかったが、今、手に入れるのはほぼ不可能なワインだからだ。
「それなら、多少は可能性があるかもね」
彼女は笑いながらそう言った。
「ううむ……ダメもとで送りつけてみるかな」
「本気なのかよ、大統領閣下。買収って、何を要求するつもりなんだ?」
「そうだな……うちの娘にサインでもしてもらうとするかな」
「……おいおい」
アルバートは姿勢を元に戻すと、机の上で両手を組んだ。
「実は、ダンジョン攻略局のサイモン中尉から、何度かレポートが上がってきている」
「ああ、彼」
ジーンは嫌そうに眉をひそめた。
「うちのスタッフは、彼がDパワーズに近づきすぎじゃないかと疑ってるわよ。先日はロシアのドミトリー氏とも一緒だったという報告があったし。残念ながら、部屋の中で何をしていたかは分からなかったそうだけど、先に出て来たドミトリー氏は、大変上機嫌だったそうよ」
「それはダンジョン攻略局からも報告が上がっている。しかも内容付きだ」
報告したのはサイモンなのだから、当然と言えば当然だ。
「まあ。CIAもかたなしね」
「心配しなくても、あそこじゃ世界中の諜報機関がコケにされてるって聞いたぞ」とニックが茶化した。
「送り返されてくる人員は数知れずってところね」
ジーンが肩をすくめながらそれに応じると、アルバートは少し渋面で言った。
「我が国もか?」
「残念ながら。それで、中ではどんな密談が? うちにも公開されないくらい重要な話?」
「それが、『クラフトビールとロシアのウォッカとモルドバのワインで乾杯して、楽しく酒を飲んでいたら、ダンジョン産のオレンジが出てきて頭を抱えた』、だそうだ」
「何それ?」
「ダンジョン産のオレンジについては、すでに日本ダンジョン協会で公開されていたから、情報はここで止めておいたよ」
アメリカのスーパースターと、ロシアの英雄が、日本の怪しさナンバーワンのパーティと秘密裏に懇談したなんて話が出まわったら、内容が何もなくても、有ることにされかねない。
さっきの話じゃないが、全員で世界ダンジョン協会国へ亡命する算段をつけてたなんて言い出す者が現れても不思議はないのだ。
「それで、彼が言うことにはだな。連中に言うことを聞いてもらいたかったら――」
大統領は、言うべきかどうしようか、一瞬躊躇した後、いたずらが見つかった子供のような顔をして言った。
「――友達になれ、だとさ」
ニックはぐるぐると目を回すと、手を広げて大仰なポーズをとった。
「なんというパーソナルな安全保障!」
「いえ、友人になるというのは悪くないかも」
政治家ならほとんど誰でも、選挙になるたびに、有権者の前に現れて、彼や彼女と友達になろうとする。
大部分の有権者は、投票するのに公約の詳細なんて見てはいないし、知らない人よりも知っている人に投票してしまうのは、人間に共通の心理だということをよく知っているからだ。
そうでなければ、政党が有名人を連れてきて看板にしようとするはずがない。どぶ板選挙が廃れないわけだ。
「日本人は、あれでとてもウェットだし、確かに友人のお願いをドライに断ることは少なそうね」
「合衆国を上げて、個人とお友達になるプランの発動か? これぞまさしく、オペレーション・トモダチだな」
「相手はダンジョン界のセレブリティ・オブ・ザ・イヤーだ。ダンジョンの向こう側にある世界の親善大使だと思えばおかしくはないさ」
「向こう『へ』の、じゃないのかよ……」とニックがあきれたように言った。
それでも、世界ダンジョン協会国の、じゃないところを喜ぶべきだろうかと、アルバートは考えていた。
139 遅延評価と記録会 2月3日 (日曜日)
二月に入って数日、いい天気の日が続いているが、放射冷却の影響か、昨日は氷点下まで気温が下がっていた。
シャワーを浴びた足で窓に近づき、ピーカンの空をぼんやりと見上げながらそれを開けると、息の輪郭が白く縁取られた。
「今日も寒そうだな……」
俺はそう呟いて、窓を閉めると、簡単に身だしなみを整えてから事務所へと下りていった。
ダイニングでは三好が、難しそうな顔で頬杖をつきながらタブレットを眺めていた。
「おはよう。どうした、朝っぱらから景気が悪そうな顔をして」
「ダンジョンせとかのDNA鑑定、ファストレポートが送られてきたんですが……」
「日曜日に? それで、なんだって?」
俺は、キッチンへ入ると、冷蔵庫から水を取り出して、グラスに注ぎながら、そう聞いた。
「量子力学の実験結果みたいなレポートになってるんです」
「なんだそりゃ?」
ボトルを冷蔵庫に戻して、水を一口飲むと、グラスを持ったままダイニングへと出て椅子に座った。
「このレポートが間違っていないとして、どう思います?」
三好から差し出されたタブレットを受け取った俺は、そのレポートに目を通し始めたが、そこにはとても信じられない内容が綴られていた。
「正気か?」
「何てことを言うんですか、先輩」
三好は盛大に苦笑しながら続けた。
「一応、農業・食品産業技術総合研究機構の果樹茶業研究部門はこういった研究の権威みたいなものですよ」
「お前だって、一応とか言ってるじゃん」
俺は、コップの冷たい水を飲み干して、頭を切り替えると、続きを読み始めた。
そしてしばらく後に、それを三好に返しながら言った。
「これが事実だとして、一番あり得そうなのは、遅延評価だろう」
「やっぱりそうですよね」
遅延評価。それは、もともと計算量を最適化するための概念だ。
とある値の評価を、実際にそれが必要になるまで先送りにする手法で、最高の効率で実行が行われれば、必要な計算量はゼロになる。つまり評価されないのだ。
ダンジョンせとかを食べようとするとき、Dファクターは、せとかの味や香りを再現したとしても、その分子生物学的なディテールまで厳密に再現する意味はない。つまり、そこの決定にDファクターを割くのは無駄なのだ。
その後、それが必要になるシチュエーション――例えば、今回のように測定されるとか――が発生したときに、その詳細を決定していると考えれば一応説明はできる。
おそらく、せとかになったものは、測定者がせとかだと思い、清見になったものは清見だと思ったに違いない。観測者の予断がそのまま結果に反映されたのだろう。
そのとき味が変わるかどうかは非常に面白い問題だが、個人による検証は不可能だ。何しろ清見だと思ってしまえばずっと清見になるとレポートにはあったからだ。
「しかし、これが本当だとすると、ダンジョン内で育った食物を食べたときの反応が心配だな」
具体的に言えば、それが栄養になるのかってことだ。
「普通に考えれば、栄養素に対する化学反応が発生するところで、評価が行われると思いますけど」
「それって、Dカードを所有していない人間でもそうなると思うか?」
例えばスキルオーブは、Dカード所有者にしか使えない。
今では、それが、体内でDファクターの受け入れ体勢ができていないからではないかと推測できるわけだが、作物でも同じことが起こらないとは言い切れないのだ。
「オーク肉はわずかとは言え流通していますけど、健康に影響がないと言うだけで、栄養になったかどうかまでは調査がないと思います」
さすがに実験動物にそれだけを食べ続けさせた記録はない。
「だけど、鑑定した人全員がDカード保持者なんて考えられますか? 国立研究開発法人のバリバリの研究者の人達ですよ?」
「うーん……年齢的にも、ダンジョンなんかシラネって人も多そうだよな」
「大学出たてとかじゃありませんからね。その人たちが、なんらかの結果を導いているんですから、そこは大丈夫なんじゃないかと思いますが……」
「どうせ、ダンジョン小麦は、それだけで一ヶ月くらい生きていけるかどうかネズミか何かで試してみる予定だろ? 体重の変化を記録すればある程度推測できるはずだ」
「もし栄養にならなかったら、やせ衰えるでしょうからね」
「問題は、俺たちが餌としてそれを与えたとき、ディテールが決まるかもってところなんだが」
「調べようとしたら評価が定まるわけですから、それを確かめる方法はありませんよ」
「確かに量子力学っぽい」
量子よりもはるかにマクロな世界で、観測そのものが難しい羽目に陥るとは一体誰が想像しただろう。
「一応、鑑定者のカード取得状況については、鳴瀬さんに聞いてみよう。身元のはっきりしている人達なんだから、Dカードはともかく、世界ダンジョン協会カードの所有はわかるだろ。プライバシーは……カードの有無だけだし、大丈夫だろ?」
なにしろ、いきなり農研機構に、鑑定者はDカードを所有していますか、なんて聞き返したら、おかしな興味を引きかねない。
「先輩みたいな人がいなければ、ですけどね」
「野良ゴブリンの話か?」
「後で、なんて言っておきながら、まだ聞いてませんよ」
「そうだっけ? すっかり忘れてたな」
それは、俺が初めて三好に、Dカードを見せたときの話だ。
Dカードを持っているのに探索者登録をしていない理由を尋ねる三好に、昼休みが終わってしまうから、そのうち話すと約束したままになっていたっけ。
「まだ、聞きたいなら、せっかくだから話してもいいけど」
「じゃ、コーヒーでも入れましょう」
「しょうがないな」
スライムのテストに行かなければいけないが、午前中に到着する最後の薬液がまだ届いていない。
もちろんほかにもやることはたくさんあるのだが……主に三好が。
「人間、責任ある立場になると仕事が増えるってホントだな」
「何の話です?」
三好がドリップを落としながら、唐突な俺の台詞に返事をした。
「いや、俺たちも考えることが日に日に増えていくなぁと思ってさ」
「今頃何を言ってんですか」
三好はコーヒーをカップに注ぐと、呆れたように笑いながら、それをテーブルの上に置いて、聞く体勢をととのえた。
そうして俺は、去年の秋に起こった騒動の顛末を話し始めた。
、、、、、、、、、
「――と、言う訳なんだ」
俺は一通り顛末を話し終えると、カップの底に残っていた冷えたコーヒーを一息に飲み干した。
三好はその話を聞いて、ふむふむと頷いていたが、ふと真顔になって疑問を呈した。
「だけど先輩。それっておかしくないですか?」
「なにが?」
「例え裂け目が出来ていたとしても、ダンジョンのフロアって別空間ですし、そうでなくても、落ちた鉄筋は、単に一層に刺さるだけじゃないですか?」
そのことは俺も考えた。
そうして、色々と調べた結果、ひとつの結論に到達していた。
「それはダンジョンの生成ルールのせいじゃないかと思うんだ」
「生成ルール?」
「ダンジョンが生成される時って、針状のダンジョン針とでも言うべき空間が地球に突き刺さるように現れるだろ?」
「その時の揺れで深度が測れるって聞きました。ダンジョン震ってやつですね」
「そうだ。それが、針が地球に突き刺さったときに起きる震動だと言われている。でな、それが刺さった瞬間、ダンジョンは、まだ物理空間にあるんじゃないか? そして、そこから随時新しい空間が作られて行くんだとしたら――」
「先輩の落とした鉄筋は、実際のダンジョンが展開する前、おそらく最下層だけが作られたタイミングで、空洞の空間を滑り落ちて、最下層にいた何か――ダンジョンボスみたいなの――を直撃した?」
「まあな。他に理由を思いつかない」
「どのくらい深かったんです?」
「音が聞こえてくるまで、二十秒近く経ってたような気がしたからなぁ……」
「あの辺の現場でしたら、鉄筋は大規模建築用ですよね」
「鉄筋はD41っぽかったな。まあD38も、ぱっと見た目には同じに見えるが」
D41は公称直径が四十一ミリちょっと、D38は三十八ミリちょっとの鉄筋だ。Dxxと呼ぶときはxx部分が大まかに公称直径だと考えていい。
「四センチくらいってことは……二十秒近いなら千メートルは確実にありますよ」
三好は当時の俺と大体同じ計算をして言った。空気抵抗係数も鉄筋じゃかなり小さいし、質量はかなり大きい。
「トレーラー一台分のD41が高さ千メートルオーバーから突然落下してくるんですから、そりゃ普通じゃないモンスターでもやられちゃいますね」
「たぶん油断しまくりだったろうしなぁ。仮に硬さがあっても殴り殺されるレベルだ」
最初の一発がヒットすれば、何かを考える暇もなく次々と致死レベルの物理攻撃が降り注ぐのだ。
できたばかりの深深度ダンジョンで、いきなりそんな攻撃が発生するなんて、考えもしないだろう。
「そんな深層にいるエンカイみたいなヤツが相手だとしたら、高ステータスポイントも当然です。それで世界1位の経験値を得て、ついでにメイキングもゲットってわけですか」
「まあな」
「そりゃ、誰にも知られず突然1位になれるわけです」
三好は、やっと納得がいったという顔をしてそう言った。
「でもそれって、日本ダンジョン協会に記録されてるんじゃないですか?」
「発生後一時間で消滅する深深度ダンジョンがか? そりゃミステリーだったろうな」
「今度聞いてみましょう!」
「いや、やぶ蛇になるからやめとけって。仮に記録されていても、単なる機器のエラーとして処理されてると思うぞ」
何しろ状況が異常すぎるし、証拠もないのだ。
「まあ、検証できませんもんね」
実は半分地面に埋まっているトレーラーがあったはずだから、検証しようと思えばできたんじゃないかとも思うが、あの件は特にニュースにもなっていなかった。
そこここで起こった、地震に伴う交通事故のひとつであり、社会的には、すでに忘却の彼方と言ったところだろう。
三好はスッキリした顔で、少し遅くなった朝食の用意を始めた。
、、、、、、、、、
その日、渋チーは、朝十時になる少し前に、本蓮沼の国立スポーツ科学センターを訪れると、すぐ近くにある陸上競技場へと案内されていた。
「しかし、まさか最短が日曜日だとは思いもしなかったぜ……」
林田があくびをしながらそう言った。
東が興味深げに周りを見回している。
「へー、ここがナショナルトレーニングセンターか」
「トラックにも屋根があるんだな」
「一部だし、簡単に吹き込んで来そうだけどね」
トレセン内に渋チーが足を踏み入れると、そこには大勢の人間が集まっていた。
「本日は、ご足労頂きましてありがとうございます」
「はいはい」
八塚《やつづか》と名乗った女性が、吉田と名乗った男と一緒に頭を下げた。
他には何人かの男女が様子を見るように遠巻きにしていた。
「あの人たちは?」
「ああ、陸連の偉い人達です。一応その目で確認したいとのことで」
「ふーん。じゃ、あのカメラは?」
「日ノ本テレビの取材です。ダイヤモンドリーグ権利者の関係で……拙いでしょうか?」
八塚《やつづか》がおそるおそるそういうと、喜屋武《キャン》が笑顔でカメラに向かって手を振って言った。
「いやいや、全然。な、林田」
「お前な……まあ、面倒にならなきゃ別に構わない」
「ありがとうございます」
「おい、さっさと済ましちまおうぜ」
ダイケンが遠巻きに見る連中を見ながらそう言った。
彼は、ただの記録会だと聞いていたのに、人の目がありすぎて落ち着かなかった。
積極的に喜んでいるのは喜屋武《キャン》くらいだ。
「じゃ、まずはトラック競技からか?」
「はい、短距離からお願いします。まずは百メートルで」
「百メートルねぇ。うちで一番足が早そうなのはデニスか?」
「うーっす。ご氏名承りましたー。じゃあ、走るっすよ」
デニスは、借りた陸上用のシューズを履いて、少し屈伸すると早速スターティングブロックへと足をかけた。
「Set!」
「すみません。セットって何ですか?」
「え?」
その質問に驚いた八塚《やつづか》は、クラウチングスタートの方法と、スタート時のお約束をデニスに説明した。
「ああ、用意ドンの用意ってことっすか。了解です」
on your marks で位置に付き、setで腰を上げて、スターターピストルが鳴ればスタートだということを聞いたデニスは、もう一度スタート位置に付いた。
「Set!」
デニスが腰を上げた様子を見て、吉田は、彼がクラウチングスタートを練習したことがないことに気がついた。体重のかけ方がでたらめなのだ。
クラウチングスタートは、足を伸ばす力を前へ進む力へと変換するが、それはあくまでも姿勢の移行をスムーズに行った場合で、それには正しい練習が必要だ。そうでなければスタンディングの方が早かったりすることもある。
これだけでコンマ何秒かの差が生まれるのだ。
「これじゃタイムは出ないだろうな……」
そう呟いた瞬間に、スターターピストルの音が鳴り響き、デニスがスタートを切った。
思った通り、姿勢の移行はぎこちないものだった。だが、ゴールしたのは妙に早かった気がした。
その時、隣にいた八塚《やつづか》が大きく目を見開いて吉田の脇腹を肘でつついた。吉田が振り返ると、八塚《やつづか》の指は震えながら今日のためにメーカーが持ち込んだトラックタイマーを指差していた。
「よ、吉田さん……あれ」
そこには、とんでもない数値が表示されていた。
「えっ?! 九秒四六?!」
観戦者から、驚いたようなどよめきが上がる。
「そんな馬鹿な! スタブロの使い方も姿勢の移行も、あれほどグダグダなのに、そんなタイムが?! か、風は?!」
超音波風速計の数値は、−一.二を示していた。
「む、向かい風?!」
「十メートル毎のスプリットタイムも計測してありますから、後で確認しましょう」
「あ、ああ……そうだな」
スタート地点では、デニスが叩き出したタイムを見て、東が手を叩いて喜んでいた。
「おおー、デニスやるじゃん。で、あれって速いの?」
「さあな。でもあのくらいなら俺にも出来そうな気がするな。おい、林田! 俺にも走らせろよ!」
喜屋武《キャン》が林田に向かって要求すると、林田は苦笑しながら頷いた。
まあ、大体こうなるとは思っていたのだ。
「しゃーねーな。すみませーん! 他のやつも走って良いですか?」
声を掛けられた八塚《やつづか》は、コクコクと頷いた。
それを見て喜屋武《キャン》は、「よっしゃー! なっちゃう? ヒーローに!」と腕を回しながらスタートブロックへと足をかけた。
日ノ本テレビのカメラが、その一部始終を捉えていた。
、、、、、、、、、
「この間、高田さんが言ってた通りになりましたね」
事務所の居間でテレビを見ながら、三好が静かにそういった。
テレビの中では、今しがた終了した別府大分毎日マラソンで、注目されていた不破正人が、ブッチギリのタイムで勝利して優勝インタビューを受けていた。
「それでは不破選手。まずは、優勝おめでとうございました」
「ありがとうございます」
「それにしても、驚異的な記録でしたね。二時間〇分四十三秒。従来の日本記録を、なんと5分も縮めて堂々の世界記録です。それまでの不破選手の自己ベストは、二時間八分二十一秒ですから、なんと、ほとんど八分近く更新されています」
「先週の大阪国際で高田選手がやはり自己ベストを八分以上縮めて世界記録を作られました。前日にはおふたりで東京にいたとの情報もありますが、なにか関連があるのでしょうか?」
「まずは僕のことを聞いて下さいよ」
不破は笑いながら冗談めかしてそう言った。
「あ、これは失礼しました」
「これで不破さんもグランドチャンピオンシップへの出場権を手に入れたわけですが、やはり最終的な目標は来年のオリンピックでしょうか?」
「そうですね。オリンピックもいいんですが、これからはちょっと違うこともやってみようかと……」
「え?」
インタビュアーが素で疑問符を浮かべてしまった。
聞きようによっては、二十歳で世界記録を更新した選手が、世界選手権にもオリンピックにも出ずにマラソンから離れるかのような言い方だったからだ。
それに気がついた不破は、慌てて付け足した。
「いや、ほら、大学卒業まで、まだ二年もありますから、いろんなことにチャレンジしてみたいなと、まあ戯れ言ですよ」
「これからの選手が、いきなりマラソンをやめられるのかと驚きましたよ」
「ははは」
少しおかしくなった空気を元に戻そうと、インタビュアーはお茶の間向けの話題を振った。
「そうえば、先日大阪国際で優勝された高田選手との噂が報じられていますが、実際のところはどうなんですか?」
「え、ほんとに? もちろん高田さんは怖い先輩ですけど、それ以外は特に……あ、強いて言えばトレーニング仲間でしょうか」
「おふたりで何か特別なトレーニングを?」
「ええまあ」
「ええ? それはどのような?」
「そこは、秘密トレーニングと言うことにしておいてください」
不破は茶目っ気たっぷりにウィンクをして見せた。
「わかりました。突然世界記録を叩き出しちゃうようなトレーニングでは仕方ありませんね」
インタビュアーは笑いながらそう言った。
カメラの向こうでADが巻きを指示しているのが見える。そろそろしめようと彼女は最後の台詞を言った。
「それでは不破選手、最後に何か一言お願いします」
そう言われた不破は、一歩カメラの方へ乗り出すと、拳を突き出していった。
「キャシー教官! やりました! ありがとうございました!」
「え? ええ? ちょっと待っ――」
そこでカメラはスタジオへと返された。
「あ、中継が切れたようですね。別府大分毎日マラソンを世界記録で優勝された不破選手の喜びの表情をお伝えしました」
そうして番組はCMに入った。
「なあ、三好。あれって、もしかして」
「不破選手も高田選手も、二十六日のキャンプ参加者ですよ。まさか翌日に国際大会があったとは思いませんでしたが」
「マラソン前日に、ブートキャンプを受講するって、スポーツ選手ってバ……どっかおかしいのか?」
「でも世界記録で優勝しちゃいましたよ?」
「だよなぁ……しかし、よく余剰ステータスポイントがあったな」
「お二人とも大学入学と共に、真面目に代々木に通われていたみたいですよ。だから最初のキャンプメンバーに選んだんですけど」
「しかし、こいつら、本当に代々木攻略に力を貸す気なのか?」
「それは……どうですかねぇ? 最前線は無理だと思いますけど」
とは言え、俺たちも最前線はやばいんだよなぁ……マイニングの件があるから。これほど足枷になるとは、取得したときは想像もしていなかった。
しばらく世の中はセーフエリアの開発にかかり切りになるだろうし、俺たちにもやることは沢山あるからいいが、そのうちどうにかしないとなぁ……やっぱり物理量方式を試してみるべきかな、横浜の三層あたりで。
四時間に一度しかリポップしないボスフロアなら、仮に失敗して鉄になっても被害は少ないだろう。
「あ、先輩。そろそろ出ないと、遅くなっちゃいますよ」
スライムテストの薬液は、範囲が広すぎて、思ったよりもはるかに多種類に渡ることになった。
おかげでそろえるのに、今日の午前中いっぱいまでかかったため、ついでに注目のレースを見ていたというわけだ。
「そうだな。じゃ行くか」
俺はテレビの電源を落として立ち上がった。
今後の攻略に大きな影を落とすかと思えたマイニング問題は、この後、思わぬところで解決することになるのだが、それはまだ少しだけ先のことだった。
、、、、、、、、、
「しかし、トップエンドの探索者というのは凄いものですね」
記録会が終了した後、国立スポーツ科学センターの一室では、JADAのアスリート委員会と学術委員会合同の検討会が行われていた。
「確かに、百メートルと二百メートル、そしてマラソンに関しては、まだまだ世界記録が大幅に伸びる可能性があると、以前、SMUのワイアンド博士が仰ってましたが……」
この季節にしては異例のことに、最高気温が二十度近くまで上がったこの日、高コンディションとは言え、渋チーたちが叩き出した記録は異常とも言えるものだった。
その一覧を見ながら、物腰の柔らかそうな男がそう言った。
長距離は時間の関係で計測されなかったが、計測した短中距離および、フィールド競技ではほとんどが世界記録かそれに近い結果が記録されていたのだ。
「坂上さん、感心するのは分かりますが、ワイアンド博士の発言は、栄養学、生体力学、医療支援、指導法、リアルタイムのデータ収集といった幅広い領域で科学的な知見を積み重ねることで、身体能力の向上を目指すという大がかりなものですよね」
学術委員の坂上が発した能天気な台詞に、神経質そうな男がメガネの蔓を弄りながら言った。
「この記録をマークしたのは、何の練習もしていない、言ってみればただの素人ですよ?」
「素人というのはどうでしょうか。彼らだって探索者の世界ではトップレベルにあるわけですから、単に訓練の質が違うと言うだけでしょう? 大地を毎日、ただ駆けていただけの高地民族が、陸上競技で凄い記録を叩き出すことはままあったんじゃないですか?」
「現在とは走る技術に差がありすぎますよ。それなしでトップを争うのは無理でしょう」
そんな話を聞くとはなしに聞きながら、三塚《みつづか》と共に記録会を進めていた吉田は、自分の現役時代を思い出していたのだろう、それを受けてぽつりと呟いた。
「しかし、これは……真面目にトレーニングしてきた選手は驚愕するでしょうね。屈辱を感じるとまで言えるかも知れない」
三塚《みつづか》は議長に向かって記録表を掲げ、結論を告げた。
「結果は明らかでしょう。同じ技術を持っているなら、ダンジョンプレイヤーに、ノンダンジョンプレイヤーは絶対に勝てません。もしかしたら勝負にもならない可能性さえあります」
彼女はそれを目の前の机の上に放り出すと続けた。
「今までそれが問題にならなかったのは、トップレベルのアスリートは練習が忙しくてダンジョンに潜る暇などないし、トップレベルの探索者はダンジョンに潜るのが忙しくて、本格的にスポーツを行う暇がなかったという、ただそれだけのことだと思われます」
議長の隣に座っていた、がっちりした体格の年のいった、浦辺という男がそれを受けた。彼はアスリート委員会の重鎮だ。
「両方をやっていたものはいたが、それだとどちらも中途半端で、そこそこの成績にしか繋がらなかったということか」
「何しろダンジョンが出来てから、まだ三年しか経っていませんから」
「高田や不破のような選手は、他にはいないと?」
浦辺は委員を睥睨《へいげい》しながらそう尋ねた。
「若い選手には、彼らのような選手がいる可能性はあります」
三塚《みつづか》は説明を続けた。
高田や不破は、丁度ダンジョンができた頃大学へ入学して、興味本位で代々木へ通っていたという点で共通していた。そうして、それによって徐々に記録が伸びるということに気がつき、ダンジョン探索を練習の一環として独自に考えていたふしがあった。
「ダンジョンができた当時、大学入学前後の世代には、同じ事を考えているアスリートがいてもおかしくありません。ダンジョンブームもありましたし」
今ひとつ納得のいかない浦辺は、疑問を口にした。
「しかし、高田や不破だって、先日までは有望とはいえ普通の選手だっただろう」
その質問には、三塚《みつづか》に代わって吉田が答えた。
「聞き取りを行った結果、突然成績が伸びた原因は、これだとしか思えません」
そう言って吉田は、委員の前に置かれている資料の中にある、とあるサイトの抜粋を持ち上げた。
「ダンジョンブートキャンプか……しかし、あれは本来、ダンジョン攻略のための訓練プログラムだろう?」
「ブートキャンプの説明によると、ダンジョンで得られる何らかの力は、何もしなければ蓄積されるだけで、自然に強化される部分は最高でも五〇%、場合によっては数%しか使用されていないそうです。しかもどんな力が強化されるのかは行動に依存していて、任意には選ぶことは難しいのだとか」
「正しい訓練を行うことによって、その溜まっている力を引き出すと言うことか?」
「そう言うことらしいです。探索者の潜在能力を引き出すためのプログラムなんだとか」
それを聞いた瞬間、坂上が思わず吹き出しながら言った。
「クンダリニー・ヨーガですか」
Dファクターをプラーナと言い換えるなら、それは、あながち間違いでもなさそうに思えた。
「古代インドあたりの怪しげな秘技みたいに聞こえますよ、それ」
坂上の台詞に、参加者からは、失笑めいた笑いが漏れた。
「つまり、ブートキャンプを受けても、それまでに蓄積された探索者としての潜在能力がなければ効果は薄いと言うことか」
「逆に言えば、ダンジョンを練習に組み込んでいた選手は、このキャンプを受講することで、一躍世界のトップ選手になることが出来る可能性があります」
吉田の声に、会議室が静まりかえる。
アスリートたちにとって、そのことは何にもまして重要だったからだ。
「不破や高田の記録は、たった一回ブートキャンプを受けた前後で大きく変わっています。サブ2アワープロジェクトも、このことを知ったら平常心ではいられないでしょう」
渋チーの記録を見た指導者たちの興味は、すでにダンジョントレーニングへと向かっていた。
高地トレーニングがドーピング扱いできない現状、ダンジョントレーニングをドーピング扱いするのは無理だというのが共通の認識ではあったが、それでもそれをよく理解できない指導者の中には、いい顔をしないものが多かった。
だが、出てきた記録がその全てを吹き飛ばした。
これに乗り遅れたものは、今までどんなに栄光の時間を過ごしていたとしても、一瞬で過去の遺物にされることは間違いない。
「……それで、費用はどのくらいなんです?」
おそるおそるといった感じで、三十代の女性指導者が手を挙げた。
「不破と高田は三万円だったそうです」
「三万円?! それで世界記録?」
「もっとも、組織枠だと三万ドルだそうです」
「なんだその違いは……」
あまりの料金差に、驚いた委員が呟くように言った。
「しかし三万ドルでも安くないですか? 世界記録に支払われる報奨金を考えれば」
吉田の言葉に、アスリート委員たちはなるほどと頷いていた。
「しかし、応募してもすさまじい倍率で、選考されるのはそうとう難しいそうですよ」
それを聞いた浦辺は、こいつらは権力の使い方をちゃんと学んでないのかと呆れていた。
「日本陸連で、そのキャンプの枠を押さえることができるんじゃないのか? こういう時のために献金しているわけだろう?」
「浦辺さん、ちょっと待って下さいよ。陸連というところは聞き逃せません。そういうことなら水連だって手を挙げさせていただきますよ」
浦辺の台詞に議長が割り込んだ。浦辺は陸連の出身だが、議長は水連の出身なのだ。
日本のスポーツ団体は非常に複雑だ。
以前はある程度、公益財団法人日本スポーツ協会(いわゆる体協)がまとめていたが、一九八九年に日本オリンピック委員会が体協から独立したため、国体やアジア競技大会は体協への参加が必要だが、オリンピックはJOCへの参加が必要になった。
さらに、国際競技連盟主催の国際競技大会へは、体協へ加盟していなくても、直接当該競技の国際行儀連盟に加盟していれば参加できる。もはや一般人には訳の分からない状態なのだ。
「各競技団体がバラバラに申請しても、影響力が薄まってしまいませんか? 体協やJOCに依頼した方が……」
「しかし体協やJOCがとりまとめてその席を確保しても、加盟団体は軽く五十を越えるでしょう。各競技の連盟や協会に等しく枠が回ってくるんですか?」
カンカンガクガク様々な人間が、自分の出身の競技団体の利害を代表して声高に主張を述べていた。
学術委員たちは呆れたようにそれを見ていたが、エスカレートするばかりで収束しそうにない議論に、坂上が待ったを掛けた。
「まあまあ、みなさん、落ち着いて下さい。この問題は、おそらく、最終的にはスポ庁預かりで、実際の管理は日本スポーツ振興センター辺りがやることになるんじゃないかと思います。各競技への割り振りについては全体の数が出てから改めて話し合えばいいでしょう」
なにしろここはJADAの会議ですから、と彼はさりげなく当てこすった。
「それで、結局議員の先生たちにお願いするわけですか?」
「日本のためだと言えば、国会の先生方も断りにくいだろう。それに、大して後ろ暗い話でもないわけだし、ここで力を貸しておけば来年のオリンピックの立役者にもなれる」
「そりゃ、食いついてきそうな方もいそうですね」
こういう会議をしている者たちには共通の錯誤があった。
それは政治マターにしてしまえば、なったも同然であり、相手の都合などお構いなしで自分達の考えの通りになるという、通常ならあり得ない発想だ。
しかしそんな中に、こいつらもしかしてバカじゃないのかと、その議論をスルーしていた男がいた。
菅谷《すがたに》恭也《きょうや》三十四歳。現役時代からアウトロー扱いされていた男で、なまじ実績があっただけに、あちこちに厄介者扱いされたあげく、こんな委員会に放り込まれてくすぶっていたはぐれものだ。
これはJADA、日本アンチドーピング機構の専門委員会だ。
アスリート委員会は、アスリートの視点からドーピング検査や教育活動などの助言や提案をするのが仕事だし、学術委員会は同様にドーピング検査や教育活動に関する調査研究を審議する委員会なのだ。
「それがなんでこんな話になってんのかね……」
しかも争っている事柄自体もおかしい。球技ならいざ知らず、目の前にあるのは陸上の話なのだ。一年で選手をダンジョンに馴染ませるくらいなら、すでに最初からダンジョンに馴染んでいる連中に競技の基礎技術をたたき込む方が早いのは自明の理だ。
記録会の記録を見てもその方がずっと効率が良さそうだ。こいつらを選手として登録しただけで、世界記録は続出だ。ただし、今なら、だろうが。
しかし、ここで議論をしている連中には、すでに自分達が預かっている選手たちがいて、それを切り捨てるということが難しいのだろう。
しかしこの男は違っていた。
「潜在能力か……」
その男は渋チーたちが出した記録の一覧を眺めながらそう呟いた。
こうしてこの日、日本スポーツ界は、不幸にもブートキャンプへの参加を政治マターにしてしまったのだった。
140 スライム vs 界面活性剤 2月3日 (日曜日)
地上では、キャシーが、不破の不意打ちに喜びながら、定期開催になって初のブートキャンプを明日に控えて準備を行っている頃、俺たちは代々木の一層奧でスライムに対する実験を始めようとしていた。
キャシーに聞いたところ2グループまでは面倒を見られそうだとのことだったので、多すぎるダンジョン攻略局の申し込みは、地上部のキャパを広げてから孫階層で処理することになった。
「しかし、今回の薬液の量は半端なかったな」
「ほんのちょっととかでは売ってくれませんからねぇ……」
界面活性剤は、あらゆるジャンルで活用されている化学物質だ。研究されている年月も長いし、その分種類も多い。
俺たちは、それをひとつひとつ百ミリリットルのスプレーボトルにつめて準備をしたのだ。
「そもそも、塩化ベンゼトニウムの何が作用するのかさっぱりですから、絞り込みもできません」
三好は収納からタブレットとペンを取り出しながらそう言った。
「とにかく、片っ端から試しましょう。対象は一杯いますし。最初はイオン系陰イオンタイプから行きましょう」
「アニオンなんちゃらって書いてあるやつだっけ?」
「そうです。番号順でいいですよ」
俺はアニオン1と書かれた、トリガータイプのスプレーボトルを取り出した。
百ミリリットルでトリガータイプのボトルはほとんど無いが、対スライムならフィンガースプレータイプよりトリガータイプの方が使いやすい。
わざわざ探して購入したのだ。
「じゃ、アニオン1行くぞ」
「了解です」
俺はスライムに向けてそれを三回、間を置いて噴出した。
一プッシュ〇.三ミリリットルなので約一ミリリットルを使用したわけだ。
「アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム、効果ありませんね」
「どっかで聞いたな」
「昔の泡公害の原因物質ですよ。ドデシルもダメでしたから、アルキルベンゼン系はダメっぽいですね」
「じゃ、次行くか。アニオン2! でやっ!」
プシュっと音を立てて、アニオン2がスライムに降りかかる。
スライムはフルルンと身を震わせただけで変化がなかった。
「高級アルコール系もだめですかね。アニオン3と4も連続して行ってみてください」
「いや、そんな混ぜていいのかよ。別のスライムを使うか?」
「可能ならそれでお願いします」
「了解」
きょろきょろと辺りを見回しながら、アニオン6までためしたところで、陰イオンタイプは終了した。
「うーん。陰イオンタイプは全滅でしたね。オレフィン系は魚毒性が強いので、なにか効果があるかなと思いましたけど」
「へーきのへーざって感じだったな」
仮に毒が効いたとしても、即効性というわけにはいかないだろうしな。
「じゃ、次は非イオンタイプに行きましょう」
「陽イオンタイプじゃないのか?」
「それは効果があるものが分かってますから、他を先に」
「了解」
そう言って、俺はノニオン1と書かれたボトルを取り出すと、それを新しいスライムに向けた。
「ノニオン1、撃ちまーす!」
プシュと音を立てて発射されたそれは、霧状になってスライムに降りかかったが、変化は何もなかった。
それ以降も、2から5まで変化なし。そして6番目を取り出したときだった。
「なんでこれだけスプレーじゃないんだ?」
「それにはふかーいワケがあるんです。ともかくそれは、塗りつけてください。ぺとっと」
「分かったよ」
俺はそのゼリー状の物質を、スライムの上にぽとりと落としてみた。
「特に変化はないぞ?」
「うーん。効果ありませんか」
三好は残念そうにそう言った。
「で、これってなんなの?」
「メンフェゴールです」
「なんだ、その悪魔の名前みたいなのは? ベルフェゴールの親戚か?」
化学物質も、よく知られた物質が長々とくっついている名称は、物質が想像しやすいが、こういうのは知らない時点でアウトだ。
「松ヤニから抽出される非イオン系の界面活性剤ですね。これを買うの、大変だったんですよ」
三好が腕を組んでウンウンと頷いている。心なしか顔が赤い。
「なにか取り扱いに免許でもいるのか?」
「いえ、昔はエーザイで買えたらしいんですけど、今ではそのもので売っているところが無くて。まあ、なんといいますか、ラブドームガールズガードから取り出したんですよ」
「ラブドームカールズガード?」
なんだ、その怪しげな名称は。
「分かり易く言えば、殺精子剤付きの今度産む、ですね」
おっと。考えていたよりも、ずっと普通の商品だった。しかし、名称が怪しすぎないか?
「殺精子剤って、界面活性剤なのかよ」
「です。以前はキャンディフロートシリーズで、エポカって名前だったみたいですよ」
「ふーん」
音はともかく、そう聞いたところで何の商品かは全然想像できないな。お菓子かと思いそうだ。そう考えるならラブドームってのは、一度聞けばなるほどなぁと思えることは思える。
「DOMEのOが模式化された手でOKを作っていたり、パッケージと個包装に『女性に人気のヘビ柄を採用』なんて言ってみたり、オカモトさんって、どっかちょっと変で面白いですよね」
「ヘビ柄って女性に人気か?」
「大阪のキタやミナミには大勢いらっしゃる気がします。戦闘服って感じで」
「あ、そっち」
「これを買うときに見たら、ダンボーバージョンのケースなんかもありましたよ。そっちは可愛いというか、ダンボーでした」
そんなところにまで。ダンボーはどこにでも現れるってのは、都市伝説じゃなかったのか。
「あと付け方のビデオとかがあるんですけど、ザ・コンドームマスターのコンドー教官が出てきて、オカモト以外のコンドームを持っているやつは精子からやり直せって罵倒されるんですよ」
「なんじゃそりゃ」
「そして、装着したら、魂から叫ぶそうですよ、エクスカリバー!って」
「……あまりにコメントしづらいが、やってることはうちも大差ないか」
「ですね」
ともかく、ノニオン6は、その先端をちょん切っては集め、ちょん切っては集めした、力作なんだそうだ。
残念ながら効果はなかったが。
「因みにノニオンは5番目のポリオキシエチレンノニルフェニルエーテルが期待大だったんですが」
「有機化学やってて思うのはさ、とにかく名前が長いよなぁ」
「ただ順番に並んでるだけだから理解はしやすいんですけどね」
「で、それも?」
「タンパク質の変性作用がある非イオン系の界面活性剤で、これも殺精子剤に使われてます」
「タンパク質の変性作用がある殺精子剤って、言葉だけ聞いてるとヤバいな」
「そうですね。なにか怖そうな感じがしますけど。その程度の量だと、人体への影響はほとんどないみたいですよ。あ、感染症にかかってると装着したとき男性は痛いそうです」
「へ、へー」
なんとも微妙にリアルな話で、俺は思わず苦笑した。
その後も持ってきた物質は全て試してみたが、非イオン系で効果のあるものは見つからなかった。
「こうなってくると、両性タイプもあんまり期待は出来ませんけど、一応やっときますか」
結果、アミノ酸系もペタイン系も、アミンオキシド系も効果はみられなかった。
そして問題の陽イオンタイプだ。
「陽イオンタイプの界面活性剤は、全部第4級アンモニウム塩だって聞いたが」
「お、先輩。予習しましたね」
俺はカチオン1と書かれたボトルとカチオン2と書かれたボトルを取り出した。
「まあ、もともと化学系のお仕事だったわけだし、一応作用機序とか気になるだろ。んじゃ、いつもの、塩化ベンゼトニウムから行くか」
カチオン1と書かれたボトルのトリガーを引くと、スライムは一吹きではじけ飛んだ。僅か〇.三ミリリットルだ。
「いつみても感動的に凄いよな」
「というか、今更ですけど、意味不明ですよ」
三好は頭を捻っている。
「どんな効果が作用したら、こんな事になるんだと思います?」
「一番劇的になりそうなのは、界面自由エネルギーを低下させて、形状維持が困難な状態にするってところだろうが――」
「そうなんです。でも、それだと他の界面活性剤でも同じような効果が少しは出るはずなんですよね」
「殺菌効果が原因なら、まずは蛋白変性と酵素の切断か?」
俺は殺菌剤の作用機序を思い出しながら言った。
「それならノニオン5だって同じでしょう」
あの、ポリオキシエチレンなんちゃらエーテルだ。
「まあな。それについで、糖の分解や乳酸の酸化……代謝への作用か。で、膜透過性障害による溶菌とリンおよびカリウムの漏出」
「そうです。それから解糖が促進されて、原形質膜の活動を支える酵素に作用すると言われています。だけど――」
三好は俺の手から、カチオン2と書かれたボトルを取って、近くのスライムに噴射した。
スライムはプルルンと震えただけで、特に何も起こらなかった。
三好はそれを見て残念そうに肩をすくめた。
「それ、効果があるはずだったのか?」
「そうですね。このカチオン2なんですけど、塩化ベンザルコニウムなんです」
三好は、シュッシュッともう二回トリガを引いたが、効果はなかった。
「これって、おかしいですよ」
「なにが?」
「塩化ベンザルコニウムと塩化ベンゼトニウムは、作用に関して言えばほとんど同じなんです」
「同じ?」
「抗微生物スペクトルも、さっき言った作用機序も、使用したときの主な副作用まで、ほぼ同じなんです。なのにこの効果の違い――」
三好はもう一度トリガを引いてから言った。
「――これって実は、化学的な作用機序とかとは、全然無関係だったりしませんか?」
もはや化学的な実験云々を超越するその台詞に、俺はしばし無言で考えた。
「ごく僅かな違いが劇的に違う効果を引き出すことがゼロとは言い切れないが――なあ、三好」
「なんです?」
「お前、始めてダンジョンに潜って、ドデシルなんとかを使った時、効果がなかったろ」
「はい」
「その後、塩化ベンゼトニウムを使うとき、何を考えてた?」
「え?」
ちょっと前のことを思い出すように、三好は首をかしげた。
「うーん。よく覚えてませんけど、あのときは始めてここであちこちにくっついているスライムを見て、なんだかばい菌みたいだなって……」
たしかにそうだ。洞窟のあちこちに張り付いてうごうごしているスライムは、模式化されたばい菌に似ている。
「実は俺も似たようなことを考えてた。その時、塩化ベンゼトニウムがマキロンの主成分だって事は知ってたんだろ?」
「それは、もちろん」
「つまり、スライムはばい菌みたいだったし、マキロンは消毒液だった」
「先輩、まさか……」
「……じゃないかと思うんだ」
こうしてみると、スライムが塩化ベンゼトニウムに弱いのは、ほぼ間違いなく俺たちのせいなんじゃないだろうか。
俺たちがスライムをばい菌ぽいと考え、三好がそれにマキロンを噴出した。つまり、それに弱そうだと強くイメージしたから、その時から、スライムはそれが弱点になったんだ。
もちろんメイキングの仕業なのかも知れないが。
「じゃあ、もしかして、もしかしてですよ? 他のモンスターも……」
「もちろんあり得るけど、普通の探索者のイメージまで影響するんだとしたら、逆もあると思わないか?」
「逆?」
「くそっ、何も通用しない! こいつに弱点なんかないのかよ! って強くイメージされたモンスターは――」
「弱点がなくなる?」
「かもな」
今この瞬間にも世界中でモンスターが探索者たちと闘っている。
そのイメージがモンスターのプロパティにフィードバックするとしたら、そいつらはどんどん俺たちが想像するとおりの機能を身につけていくだろう。
「もっとも、もしもこれがメイキングの知られざる作用だとしたら、こんなことができるのは俺たちだけだろうけどな。今のところは判断できない」
あのとき最初にスライムにスプレーしたのは三好で、俺は横に立って見ていただけだった。
確かに同じようなことを考えていたが、それで、対象に影響を及ぼしたのだとすると、メイキングの効果範囲にさえいれば誰がやっても効果があるってことだろうか?
それとも、たまたま同じ事を考えていたからそうなったんだろうか?
それともメイキングは無関係で、誰がやってもそうなるのだろうか?
「これの証明は難易度が高そうですよ」
三好が、カチオン2を収納に仕舞って言った。全くその通りだ。
ともあれ、もしもそうなら、スライムに効果があるのは塩化ベンゼトニウムだけだと言うことになる。
もしもそれだけで特許を取ったとしたら、世界中の研究者は、ありとあらゆる似通った物質で特許を回避しようとするだろう。
そうして、それがスライムに与える作用の機序を躍起になって調べるかも知れない。実はそれが無駄な努力だとも知らずに。全員が意味不明な結果に頭を抱えるのが目に見えるようだった。
もちろん、誰かが新たな弱点をスライムに与える可能性はゼロではないが。
「ちょっとでたらめすぎないか、この世界」
「全てがDファクターで構成されているとするなら、分からないでもないですけどね。だって動的にどんな性質にでもなる物質ですよ? 私たちからすれば、それ自体がでたらめですよ」
「まあな」
俺はため息をついてそう答えた。
「結局、Dファクターの利用方法や性質を調べる方向へ進む方が、ダンジョンを利用する研究としては正しいのかもなぁ」
「地球の科学で、物性的に割り切ろうとするのが間違いってことですか?」
「それって前の会社の俺たちを思いっきり否定してるよな」
俺たちは以前の会社で、ダンジョン産アイテムの性質を研究していたのだ。
何かに応用するにしても、もとの性質を知らなければ何もできはしない。そう思っての研究だったが、なにしろ基礎研究は直接的な利益を生まない。今年度になってから、成績を気にする上司によって、無理矢理カネを儲けるための無茶な開発に舵を切らされて……まあ、それが上手く行くんなら苦労はしないよな。
結果今に至るわけだ。あれ? もしかして、ある意味、榎木って恩人なのか?
俺は、訳の分からない結論に辿り着きそうな思考を打ち切るように頭を振った。
「もちろん、それが無駄とは言わないが、例えば魔結晶からエネルギーを取り出そうとしている研究があるだろ?」
「はい」
「あれ、思うんだがDファクターの高レベル集合体っぽい魔結晶を、地球の常識で取り扱うから瞬時にDファクターに分解しちゃうわけで、いっそのことDファクターそのものとして取り扱った方がいいんじゃないかと思うんだ」
「先輩。言ってることはわかりますけど、意味が分かりません」
三好はハテナを頭の上に浮かべていた。
「今は、魔結晶から何らかのエネルギーを取り出して、例えばそれを熱にすることで発電機のタービンを回そうとかしてるわけだろ?」
「そうですね」
「そうじゃなくて、もうそのまんま、魔結晶を構成しているDファクターに、電気になってねと頼んだほうが良いんじゃないの、ってことさ」
もしもDファクターが充分にある世界なら、そこらにあるDファクターに電気になってもらえるのなら、それこそ電池も電源も要らない電化製品ができあがる。
地球の科学では、電気を電波で転送しようという試みがこれに近いだろう。
濃度が充分でないダンジョン外なら、その部分をDファクターの塊である魔結晶で補おうという発想だ。
「どうやってです?」
「だから、それを直接研究した方が早いんじゃないかってことだよ」
三好はうつむいて、足下の石ころを蹴飛ばした。
「もしもそれが可能になったら、ダンジョンに持ち込むいろんな機器が、バッテリーのくびきから解き放たれるってことですよね」
「そうだな」
もっとも安定供給できるかどうか分からないから、緊急用にバッテリーも必要になるとは思うけど。
「DPハウスの調達価格がすごく下がりそうで嬉しいですけど――」
顔を上げて、苦笑しながら肩をすくめた。
「――とっかかりがなさ過ぎて想像するのも難しそうですよ、それ。もうやけくそで、魔結晶に電線張りつけて、豆球をつないでみます?」
「そりゃあ酷い。とは言えそんな感じだよ。魔結晶の場合は、物性的な事を調べてどうにかしようとしてもダメだと思うんだよな」
「メイキングがあればできそうな気もしますけど。そして、スライムを見る限り、一度できるようになると、誰にでも再現できるようになるみたいですし」
俺たちが発見した後は、誰が塩化ベンゼトニウムを使ってもスライムははじけ飛ぶ。
つまり一度イデアに設定されたプロパティは、利用者にかかわらずそれを利用できると言うことだ。
「これぞまさしくシンクロニシティってやつだな」
「ユングの言う集合的無意識みたいなものが実在していて、ダンツクちゃんはそれを参照してるってことですか?」
「俺は集合的無意識自体は信じていない。だが、全探索者からその思考を読み取っていると思われるダンツクちゃん自体が集合的無意識に当たるんじゃないかと言われれば、その通りだと思うよ」
そうしてそれに基づいて世界はDファクターで再構成されるのだ。
「それって、メイキングを利用してDファクターの利用方法を確立すれば、誰にでもそれが再現可能になるってことですよね」
「まあ、今までの話が正しいとすれば、そうだ」
三好はカヴァスを呼び出し、その腹に寄りかかって、額に手の甲をあてた。
「先輩。今更ですけど私、世界の命運を握らされているような気がして、げんなりしてきました」
「奇遇だな、俺もそんな気がしてる。耳かきは錬成できなかったけどな」
ヤンキー然としたウンコ座りでそう言うと、俺たちは顔を見あわせて、力なく笑った。
そう、それは決して握っているのではない。握らされているのだ。
「ともかく魔結晶の利用についてはちょっと考えてみましょう。アルスルズのご褒美用に結構な数がストックしてありますし」
「さすが三好、それでも一応調べるんだな」
「先輩、分からないことが分かりそうなときって、知りたくなくても調べちゃったりしません?」
「するする。で、知ってから大抵後悔するんだよ」
好奇心は猫を殺す。
なにしろそれが成功したりしたら、その気がなくても俺たちは、益々ダンジョンを地球に馴染ませる尖兵っぽい。松明を掲げた群衆に取り囲まれて、魔女狩られるのは勘弁だ。
俺としては、ダンジョンはいつなくなってもおかしくないと考えているし、どんなに便利なDファクターの利用方法を発見したとしても、全てをそれに置き換えるのは危険すぎる。
ダンジョンの便利さは享受するにしても、従来の技術はきちんと今のまま進歩させていくべきだ。その落としどころをどうやって見つけるかだが……
「まあ、人類もバカじゃないって信じるしかないか」
それを聞いた三好が、同じ事を考えていたのだろう、「しばらくは供給量と価格がその役目を果たしてくれますよ」と宣った。
確かに、どんなに便利なものが出来ようが、百に満たないダンジョンからの産出量で世界を覆い尽くすのは不可能だもんな。今のところは。
実際、ポーションが発見されても、地球の医療が廃れたりはしていない。
「だといいな」
三好はカヴァスから離れると、フンスと大地を踏みしめた。
「握らされちゃったものは仕方がありません。この際、そのことは全力でスルーしましょう!」
「お前な。それ、そんな気合いの入ったポーズで言う台詞か?」
「先輩。空元気でも元気って言うでしょ」
「へいへい」
そういい加減な返事をしながら、俺も立ち上がって、膝をはたいた。
「もう、反応性界面活性剤と高分子界面活性剤は調べるまでもなさそうですが、とりあえず薬液を用意してあるものは、一通り帰りながら全部試しましょう」
「了解」
スライムを見つける度に、新しい薬液を噴射しながら、俺はDファクターを電気に変換する方法について考えていた。
141 濫觴《らんしょう》(前編) 2月4日 (月曜日)
「おはようございます。今日も寒いですね」
鳴瀬さんが入り口でコートを脱ぎながらそう言った。
「おはようございます。昼は春並みに温かくなるそうですよ」
彼女のコートを受け取ると、来客用のハンガーに掛けながらそう言った。
予報によると最高気温は二十度近くまで上がるそうだ。
「それにしてもなんです、改まって。何を言われるか、ちょっと怖いんですけど」
彼女は、俺の後に続きながら、冗談めかしてそう言った。
ちょうど土曜日に伝え忘れた麦畑の今後について、鳴瀬さんに相談するため、週明けに寄ってもらうように連絡しておいたのだ。
「別に大した話じゃありませんよ。飲み物は?」
「あ、じゃあ、カフェ・オ・レをいただけますか」
そう答えた鳴瀬さんに、キッチンのカウンターの向こうから、三好が「はーい」と返事をした。
最近のソファは、グラスかグレイサットのどちらかが、我が物顔で丸くなっている。
もう片方は、キャシーにくっついていて、お互いにブートキャンプの連絡役をやっているわけだから、さぼっているのとは違うのだが、見た目はすっかり居間の主《あるじ》と化していた。
俺にもちょっと、グータラセンスを分けてくれよ。
というわけで、我々人間は、自然とダイニングへと追い出されるのであった。
もしも本物の犬なら、人間様が家庭内カーストの下方に追いやられそうな話だが、ヘルハウンドではそういうことは起きないようだ。考えてみればこいつら三好に召喚された僕《しもべ》だもんな。一応。
席に着くと、俺はさっそく本題を切り出した。
「実は、世界に一つしかないと思われるダンジョン農園を、日本ダンジョン協会さんにお任せしようと思いまして」
「はい?」
彼女は、突然の申し出の意味がよく理解できなかったようで、その話を聞いてきょとんとしていた。
「それは……あの二層の、ですか?」
「そうです。一坪農園です」
「つまり、レンタル契約を終了したいということでしょうか? まだそれほどは経っていませんけれども」
「ああ、そうか。そういう考え方もありますね……」
冷静に考えれば、あそこは日本ダンジョン協会からレンタルしていた土地だ。
だから、この話を聞いて、レンタル契約の終了だと思われるのは、至極もっともな話だった。
「んー、三好どうする?」
俺は、飲み物を持って、キッチンから出てきた三好に、話を振ってみた。
「レンタルはしたままでいいと思いますよ。何か必要になったとき、もう一度借りられるとは限りませんし。今回は、そこにあるものの管理を、日本ダンジョン協会さんがやらないかなあってことですから」
「はい??」
鳴瀬さんは、ますます分けがわからないといった体《てい》で、首をかしげた。
「Dパワーズさんの農園の管理を日本ダンジョン協会がやるってことですか? どうしてです?」
「そこが、麦畑になってるから、ですかね」
「麦畑?……もしかして、麦が生えたんですか?」
「生えたというか、すでに実ってるんです」
「実ってる? 手続したのって、ついこないだですよね?」
「その辺は謎です」
「謎って……」
鳴瀬さんは、頭痛をこらえるかのように、右手で眉間を抑えていたが、まるで見てはいけないと言われているものを覗かされる時のような顔つきで、おそるおそる訊いてきた。
「それで……なぜそれを日本ダンジョン協会に?」
「あー、つまりそのー」
「リポップするんですよ、その麦」
どう説明しようかと言いよどんだ俺の隙をついて、三好があっさりとそう言った。
「え?」
鳴瀬さんは一瞬、何を言われたのか分からないといった様子で、頭の上にクエスチョンマークを浮かべていたが、その言葉の意味を理解すると同時に、大きく目を見開いた。
「ええ?! リポップする!?」
「びっくりですよね」
「そ、その麦がですか?」
「はい」
三好の返事に、鳴瀬さんは、思わず椅子から立ち上がって体を乗り出した。
「ちょ、ちょっと待ってください……勘違いならそう言っていただきたいのですが、それはつまり、麦が無限に収穫できる農園ってことですか?」
「無限かどうかはわかりませんが、少なくとも三時間刈り続けても、問題はありませんでした」
俺たちは、一応無限にリポップするのかどうかを確かめようと、昨日、ひたすら農園で麦を狩り続けたのだ。
一坪農園における麦のリポップ時間は、概ね数秒から十数秒だった。結構幅があったが理由はわからない。
ともあれ、カマを持っての手作業では、右から初めて、左に行きつくころには、最初の麦がリポップしていた。
しかしながら、あまりの単純作業に、俺たちは三時間で音を上げた。平たく言うと飽きたのだ。超回復がなかったら、確実に腰にもきていたはずだ。都心の地下で、農業生産者の方の苦労と凄さを思い知らされたというところだ。
「それは、その、あの、なんて言っていいか…………ええ?!」
ただただ驚く鳴瀬さんに向かって、俺たちは、その事実が及ぼす影響範囲を考えたとき、一《いち》パーティはおろか、一《いち》株式会社でも、持て余しそうだという予想を伝えた。
「それはよくわかりますが……」
「今のところ、このことは誰にも知られていません。一応ゴブリン対策に、壁で囲んでありますし、そもそもそこで実っているものの見た目はただの麦ですからね。普通の探索者は、あ、麦が実ってると思うくらいで、手を出したりはしないでしょうが、この事実が公になったりしたら……」
「それを手に入れようとする人は多いでしょうね」
その気になれば、鍵もドアも破壊することなど簡単だ。
「そういうわけで、いつまでも、農場をそのままにしておくわけにもいきませんし」
「抜いたり、燃やしたりしては?」
「モンスターのことを考えると、おそらく二層中にリポップでばらまかれて、コントロール不可能になると思うんですよね。切り取られた種が、新しい麦を作り出すかどうかがはっきりするまでは、ちょっと拙いんです」
鳴瀬さんは、あきらめたようにため息をつくと、短く、「わかりました」と言った。
「しかし、さすがにこの話に即答は無理です。いったん上司に相談させていただいても?」
「それはもちろん。ただし世間に対する発表は、その麦の作り方のベースになる技術のダンジョン特許が公開されてからにしていただきたいんです」
月末に申請したD進化に関する特許は、どういうわけか、週明けになっても出願リストに登録されていなかった。
特に問い合わせも来ていないので、書類不備というわけでもなさそうだし、世界ダンジョン協会のワークフロー上の問題なら、それがどのくらいかかるものなのか俺たちには今のところ知りようがなかった。
「作り方?」
「ただ、ダンジョンの中に直接植えるだけでは、リポップする植物はできないんですよ」
それを聞いて鳴瀬さんは、一瞬目を見開き、眉をピクリと動かしたが、すぐに気を取り直して訊いてきた。
「それで、その技術をどうされるつもりなんです?」
「そこなんですよ」
俺は実に困ったという様子で、腕を組み目を閉じて、頭を振ったあと、彼女を見て行った。
「どうしたらいいと思います?」
「ええ?……」
なんとも情けない顔をした鳴瀬さんは、情けない顔のまま、その案件を日本ダンジョン協会へと持ち帰って行った。
「農林水産省あたりへ報告が上がれば、もっと大規模な試験が始まりますかね?」
鳴瀬さんを見送った後、テーブルの上のカップを片付けながら、三好がそう言った。
「うーん、それなぁ……」
「なんです?」
俺は、テーブルの椅子を引くと、そこに腰かけた。
「ほら、俺たちの農場は、広い二層の面積に対して、たった一坪だろ?」
「そうですね」
「ドリーは広いとはいえ、しょせんはキャンピングカーの面積だし、もっと大きなDPハウスだって、専有面積自体は、直径十メートルかそこらの円にすぎないから、二十一層全体の広さから考えれば微々たるものだ」
「先輩……」
三好は俺の言いたいことに気が付いたように、まじめな顔で、椅子へ浅く腰かけた。
「それって……私たちが、実は、確率論的な安全の上に胡坐をかいてたんじゃないかってことですか?」
「まあそうだな。アルスルズがいるから、他よりはずっとましだろうが……いずれにしても、農場やドリーやDPハウスの中に、モンスターが直接ポップする危険は常にあっただろう」
「建築物の外側のスライム対策しか考えてませんでしたけど、言われてみれば室内だってダンジョンの中であることに変わりはありません」
「確率的には、外側でポップしたモンスターが近づいてくる方が圧倒的に高いからな」
十八層のキャンプだって、外で倒されたモンスターが、寝ている最中にテントの中にリポップしてくる可能性はあるはずだ。
もっとも大量に狩られているゲノーモスのリポップは、地下に限定されているようだから、今のところそんなことは起こってないようだったが、起こる可能性があることは、いつか必ず起こるのだ。例外はない。
もっともあそこの探索者たちは普通じゃないから、十八層のモンスター程度がリポップしたとしても、瞬殺するかもしれないが……
「探索者ってやつは、比較的安全なキャンプでも必ず夜番をおいてるだろ? おそらくそういう事態に対処するためだと思うんだ」
「経験から得た知恵ってやつですね」
「たった三年だけどな」
「その前に、数多のフィクションの積み重ねがありますよ」
確かに。古いSF作品で語られるギミックが、次々と現実化していることは単なる事実だ。携帯電話はその筆頭だろう。
普通の人たちが、持ち運びできる大きさのデバイスで、世界中の情報にアクセスできるようになるなんて、少し前までは、夢物語にすぎなかった。
「結局、広い工場を作ったりしたら、内部にモンスターがポップする確率が飛躍的に上昇するってことですよね?」
「そうだ。室内にポップさせない方法を確立しないと、多くのモンスターが倒されているフロアほど、この問題がクローズアップされることになるぞ」
麦畑自体は、DPハウスと同じくらいのサイズでドーナツ状かオーバル状の畑を作って、くるくると周囲を回りながら収穫を行う、自脱型コンバイン風の自動機械を用意すれば、簡単にパッケージ化できるはずだ。
つまり、今と同様、事故が起こることを前提に、確率論的な安全に身を任せるわけだ。なんなら、うちで開発して、ワンパッケージとして売り出しても構わない。
しかし、スライム対策めいた情報が公開されたら、世界がそれ以外のものをダンジョン内に作る可能性はとても高かった。その時、それを作る人たちは、内部へのモンスターのポップ対策を行っているだろうか。
「きっと先輩が、この部分でポップするなと考えれば、そこではポップしなくなりますよ!」
「いや、そのネタはもういいから」
「えー、ネタじゃないのに」
三好がそう言って、口をとがらせた。
こいつは、秘密の花園を経験してから、メイキングの力を確信しているような節がある。
確かに三十一層から一層へ転送されたときは、俺も何事かと驚いたものだが……
とは言え、他者から与えられた超常的な力をふるって世界を変える、なんてのは、思春期の妄想程度にとどめておくに如《し》くはない。大人が真顔で振るうには、過ぎたる力というものだ。第一結果に対して責任が取れるとは思えなかった。
「それだとなおさら不味いだろ。万が一、それが現実に起きるとしたら、なにか施設が計画されるたびに、いちいち出向いて地鎮祭めいたことをやらされるぞ。そんなことで世界中のダンジョンを渡り歩かされる人生は、ちょっとぞっとしないな」
「世界の神主さんになるわけですね。なんて崇高な」
三好は宗教にかこつけて、そんな冗談を言ったが、聖人にならされるなんてのは勘弁だ。俺はまだ煩悩にまみれていたいのだ。
「神主だって、そればっかりやってるわけじゃないさ。だが、こっちは確実にそればっかりの人生になるな。って、ネタの掘り下げはこの辺でやめてだな、とにかく、ある領域にポップさせない方法は、もっと即物的で再現可能なものじゃないとだめだ」
誰にでも実行できる対策ってことが、もっとも重要だ。
「ほかの物体が占有している空間にポップすることはないですよね?」
「まあ、木に埋まったモンスターなんてのは発見されていないみたいだからな。そこは大丈夫だと思うが」
「植物もポップするとしたら、その時の根っこと土の関係はどうなってるんでしょう?」
「よけることが可能なものはよけられるって認識でいいんじゃないか? 地上へのポップでも、空気自体はよけてるわけだし」
リポップしたモンスターが、酸素や窒素と核融合して、あたり一帯が消し飛んだりしたら洒落にならない。幸いそういう事件は起こったことがないようだ。
「じゃあ、大物のポップは、室内にモンスターの体よりも狭い間隔で物体を配置すれば避けられますね」
「物体って、木の棒とかか?」
「一メートル幅の通路の両側で一メートルおきに棒を立てておけば、一メートル四方の正方形に収まらない大きさのモンスターはポップできなくなるんじゃないでしょうか」
「その可能性はあるが、そんな大物より、問題になるのは――」
「スライムですよね」
そう、そこなのだ。
施設を建設するとしたら、目の届かない場所が必ずできる。
重要ななにかを直径二十センチの管に押し込んでそれを守ろうとしても、菅の中にスライムがポップしたらそれで終わりだ。ものによっては大事故につながるだろうし、発見も難しい。
管の中がびっしり埋まるくらい何かが詰まっていれば大丈夫だが、普通はある程度、余裕を持たせるものだ。それに――
「不定形だからなぁ……」
「タコの目玉みたいに、コアの大きさよりも広い隙間ならどこにでも入れるとかだと、手に負えないかもしれません」
「いっそのことスライムの討伐を禁止したらどうだろう?」
ベンゼトビームを使えば、スライムははじけ飛ぶが、その段階では倒したことになっておらず、コアの状態で転がっているだけだ。
そこからスライムが復元するにしても、リポップするわけじゃないから内側には現れない。
「確率は下がるでしょうけど、代々木の一層を見る限り、リポップしなくてもポップしてくるんじゃないですか? あそこのスライムって、どう見ても当初より増えてますよね」
一層は長い間だれもまともに討伐を行っていなかったために、驚異的な密度のスライム天国になっていた。
それはつまり、リポップ以外でもモンスターが現れるということだ。分裂で増えるとは思えない。そうでなければ、最初のモンスターはどうやって現れたのかってことになるしな。
「そこは、なにかでDファクターの濃度をコントロールしてやれば防げる気もするけどな」
横浜の階段1段と同じことだ。あまりにDファクターの量が少なすぎるのだろう、そこにモンスターは生まれていない。
テンコーさんが見た踊り場モンスターが現実だとしたら、それが、この三年で唯一の例外だが、踊り場は、普通の階段よりもずっと広いのだ。
「とはいえ、すべては仮説、仮説、仮説、だ。証明された事実はほんのわずかしかない」
「証明は難しいと思いますよ」
「まあな」
これらの仮説を証明するには、それなりに適切な環境が必要だ。
できれば、障害物が少なく、平坦で狭くて、全体の一割程度を占める面積の建物が建てられそうなダンジョン。
「こないだ話に出た、ロシアのオレシェクなんかそんな感じでしたね」
「俺たち、渡航に関しちゃ自粛要請が出されてるからなぁ……ロシアの西の果てはちょっと無理だろ。国内のダンジョンでそういう場所がないか、鳴瀬さんに聞いてみるか?」
それを聞いた三好は、あきれたようにため息をついた。
「ヒーローになりたくないのに、なんでも自分でやっちゃおうとするのは、先輩の悪い癖ですよ」
「うぐっ」
「こういうのは、もっと人的資源の大きな組織に任せてしまうのがベストですよ」
「それはそうだろうが、どうやって?」
「ふっふっふ。やはりここは必殺の、数学方式で行きましょう」
「数学方式?」
それ以前に必殺のってなんだよ。
三好は、テーブルの上に肘をついて身を乗り出し、人差し指を立てて言った。
「いいですか、先輩。私たちは、すぐに反証も思いつかないし、正しいんじゃないかなと思われる仮説を、テキトーに考えて、じゃんじゃん勝手に発表するわけです」
「いや、テキトーってな……まあ、発表自体は、ワイズマン様のネームバリューで行けそうな気がするが。それで?」
「そこから先は、世界が勝手に証明してくれるのを待ちましょう。仮説だって書いておけば大丈夫ですよ」
「おいっ……」
「先輩。我々は、誰かが『私はこの定理について真に驚くべき証明を発見したが、ここに記すには余白が狭すぎる』って本の余白に落書きしただけで、三百五十年以上もそれについて考え続ける人たちが出てくる生命体なんですよ?」
そういう風に言われると、なんだか人類は異常な生物のように思えてくるな。惑星を支配するような知的生命体ってのは、多かれ少なかれどこか異常なのかもしれないが……
「勇者はワイルズひとりじゃないってことか」
「そうですよ。いかに先輩が神様然としていたって、私たちは、たったふたりしかいないんですから、体もふたつしかありません」
「水先案内人が精一杯だな」
「ヤタガラスポジションですね。足は二本ですけど」
「ふたつで十分ですよ。分かってくださいよ」
「そんなこと言ってると、キャプテン・ブライアントに呼ばれますよ」
「そして仕事を強制される?」
「選択肢はありません」
『警官でなけりゃ、ただの人だ』って脅されてるわけじゃないが、確かに選択肢はないのかもしれない。
それにしても、分かってくださいよの一言で、世界中のファンが共通の理解に至れる作品ってすごいよな。他にはほとんどないだろう。翻訳の力で『君の瞳に乾杯』くらいだろうか。
「ともあれ、俺たちは、鳴瀬さんの報告待ちか」
「そうですね。私はちょっとこれから大学へ行ってきますけど」
「大学?」
「みどり先輩の紹介で、研究室の学部生に、マウスの育成実験のアルバイトを頼んだんですよ。こちらから持って行った餌を与えて、体重を計るだけの簡単なお仕事です!」
「へー」
「SLCにしても、東京実験動物にしても、研究機関でない我々が少数の実験動物を手に入れるのは、ちょっと面倒だったんです。というわけで、例の麦を餌に実験を開始してもらいます」
「じゃあ俺は最近さぼり気味だった、スライムハンターでもやりに行きますかね」
「オークションも一ヶ月間やってませんから、そろそろやらないと」
「オーブは結構たまってるぞ。ゲノーモスドロップもそこそこあるし、ヘルハウンドの召喚も一個ある。あと、超回復が5個あるな。水魔法と物理耐性は言わずもがなだ」
「売れないもの多数って感じですね。それについては今晩にでも検討しましょう。それから、今日はブートキャンプの日ですから、グラスを忘れずにつれて行ってくださいよ。ついでにダンジョン攻略局用に拡張している部屋の進捗も確認しておいてください」
「意外とやることが多いな」
「それは今更です。じゃ、私は出かけてきます」
「あいよー。気をつけてな」
三好は、洗面所で身だしなみを整えると、コート掛けの上着をつかんで出て行った。
俺も、初心者装備にチェンジすると、上からロングのコートを羽織った。気分はマトリックスのキアヌ・リーブスだ。
「ほら、グラス、行くぞ。ロザリオは留守番をよろしくな」
グラスが勢いよく走ってきて、俺の陰に潜り込む。ロザリオは美しい声で一声鳴くと、天井の隅に作ってある、板の上へと移動した。
俺は、玄関の扉を開けて、思ったよりも温かい外の空気に春を感じると、ドアに鍵をかけてダンジョンへと向かった。
142 濫觴《らんしょう》(中編) 2月4日 (月曜日)
「こんにちは」
代々木のロビーで、今からダンジョンに潜ろうとしていた渋チーの一行に、後ろから場違いなスーツを着た中年の男が声をかけた。
若いころは、それなりに鍛えていたことを感じさせるスマートな男だった。
「おいおい、俺たちのファンにしちゃ、年が行きすぎてるな。おっさんには興味ねーよ」
突然知らない男に声をかけられた喜屋武《キャン》は、失礼にもほどがある態度でそう言った。
それを見て東が慌てて彼を遮った。若い男ならともかく、年を取った男には、社会的なステータスがある場合が少なくない。それは時折とても厄介な存在になることを、彼はよく知っていた。
「おい、喜屋武《キャン》。やめろよ」
そうして、男に振り替えると、「失礼しました。何か御用ですか?」と無難に聞き返した。
「これは失礼。私はこういうものですが」
男は東に名刺を渡した。
「菅谷《すがたに》……恭也《きょうや》さん?」
肩書は、JADA専門委員となっている。
「ああ、昨日の記録会の。何かありましたか? これからダンジョンアタックであまり時間は取れないのですが」
「それなら、率直に言おう。君たちをスカウトに来たんだ」
「スカウト?」
「おいおい、おっさん。スカウトって、いったい何の? 映画にでも出してくれるってか?」
「映画ではないが、極上のストーリーに酔える舞台さ」
「は?」
おっさん頭大丈夫かといった様子で、喜屋武《キャン》が顔をしかめた。
それあで黙って話を聞いていた林田が、一歩前に出て口を開いた。
「JADAでスカウトってことは、スポーツ選手としてってことか?」
「さすがリーダー。話が早くて助かるよ」
「おお!」
ヒーロー好きな喜屋武《キャン》が声を上げたが、林田はそれを片手で制して、冷静に言った。
「だがな、あー、菅谷さんだっけ? 俺たちは探索者だ」
「それで?」
「稼げない仕事を引き受けるつもりはないってことさ」
「世界記録を出せば――」
「待った。俺たちを説得できる材料があるんだったら、そこのカフェにでも行こうぜ。ここは目立ちすぎる」
「分かった」
菅谷は頷くと、代々木ダンジョンカフェに向かって歩き出した。
渋チーは、説得できる材料があるのかよと、お互いに顔を見合わせたが、林田を先頭に彼の後へと付き従った。
、、、、、、、、、
代々木ダンジョンカフェの目立たない席に陣取った六人が注文を済ませると、菅谷がさっそく話を切り出した。
「確かにオリンピックのメダルにかかわるJOC報奨金はそれほどでもなかったが、リオから少し増額された」
「少し?」
「金が五百万、銀が二百万、銅が百万だ」
「はぁ? ヒーローになるのはいいが、リターンがそれじゃ、さすがにやる意味ねーだろ」
一番乗り気だった喜屋武《キャン》がそう言い放った。
仮にも渋チーは、民間パーティとしては代々木ダンジョンのトップの一角だ。稼ぎもそれなりにある。
大会に出るだけだというのならともかく、練習や選考会まで拘束されるとなると、割に合わない可能性が高い。
「まあ、まてよ。JOCの報奨金はそれだけだが、実際は各競技団体や、スポンサー企業からの報奨金が支払われるし、それがデカいんだ」
「所属企業なんて、俺たちには関係ないだろ」
「それでも陸連なら、金が二千万、銀が一千万、銅が八百万だぞ。マラソンで日本記録を更新すれば一億だ」
「へえ。金十個で二億なら、まあまあか」
こいつら十個も金をとるつもりなのかよと、菅谷は内心苦笑した。オリンピックの陸上競技、男子は混合リレーを入れても二十五種目しかないし、長距離を掛け持ちするなんて普通は不可能だからだ。
だが、今なら可能かもしれない。ほとんどのアスリートがダンジョンになじんでいない今なら。
「競技って十個も出られるのか?」
「選考会を通過して、競技時間さえかぶってなければ可能だ」
「へぇ」
喜屋武《キャン》が少し前向きになって身を乗り出したところで、背をゆったりと椅子に預けたまま、目を閉じてカフェオレを口にしていたデニスが突っ込みを入れた。
「喜屋武《キャン》、だまされんなよー。この世界には税金ってやつがあるんだからな」
「え? オリンピックの報奨金に課税されるのか? それってなんだか詐欺みてぇだな」
喜屋武《キャン》の歯に衣着せぬ言い草に、菅谷は苦笑しながら訂正した。
「詐欺はひどいな。今は一応JOCの報奨金は非課税ってことになってるよ」
「微妙な言い回しですよね」
菅谷は、東の冷静な返しに頭を掻いた。
「競技団体の分は非課税枠が決まってて、それ以上の部分には課税される。噂じゃ枠を広げるみたいだが、今のところは、金が三百万円、銀が二百万円、銅が百万円を超える額には雑所得として課税されるよ」
「なんだよそれ、ほとんど半分くらい持ってかれるってことか?」
ダンジョン税に慣れた彼らにとっては、ぼったくられているような気分になる割合だ。
住民税まで合わせれば、最高税率は5割を超えかねない。馬鹿げてると彼らが感じても仕方がないだろう。
「なんか微妙だなー」
「しかし、君たちなら出られる競技はすべて優勝できる可能性があるだろう? そんな選手は前代未聞だ。スポンサーだって引く手数多だろう」
「ゴルフやF1を見てみろよ。今や一人のスーパースターが、何十億円も稼ぐ時代だぜ? そんな特別なヒーローになれるなら、もっとすごいことになるかもな」
「ふーん。スーパースターか。芸能人と付き合っちゃったりできるかな?」
こいつは何を言ってるんだ、と菅谷は内心思ったが、そこはいい感じの笑みを浮かべて頷いておいた。
「もちろんさ。より取り見取りだろうぜ」
スポーツ選手の奥さんの芸能人率は低くないからな。
ともあれ、俺の実績のためにやる気になってくれよ。
菅谷は内心ニヤリと笑みを浮かべながら、選考会に向けての説明に移って行った。
、、、、、、、、、
榎木義武は、開発部の部長に連れられて会議室へと早足で歩きながら、面会の相手について考えを巡らしていた。
真超《まごえ》ダンジョン株式会社の三浦典義と言えば、彼《か》の会社の開発部長のはずだ。
化学業界最大手は三菱ケミカルだが、利益率と現預金ではそれを大きく引き離しているのが真超化学だ。
その真超化学がダンジョン関連素材セクターを独立させた子会社が、真超ダンジョン株式会社で、日本のダンジョン素材研究ではトップメーカーと言える。
知名度では、『パウダー』を開発した日本触媒が1歩抜きんでているが、幅広い研究と素材の応用では真超ダンジョンに軍配が上がるだろう。
それが突然、ダンジョン関連では特に大きな業績も上げていないうちの会社との提携話を持ち込んでくるなんて、一体何が目的なのだろう?
ここへ来るまでに、守秘義務契約書にサインさせられたからには、なにかとんでもない話が飛び出してくることは間違いない。
訝しげに頭を捻りながら、榎木たちは会議室のドアを開けた。
「早速ですが、実は、弊社の素材研究所にとある素材が持ち込まれまして、その研究を北谷《ほっこく》マテリアルさんと共同で行いたいと考えているのです」
三浦は名刺交換を行うと、挨拶もそこそこに、早速共同開発の内容について話し始めた。
部長は、この降ってわいたような幸運に、相好を崩しながら、提携は決定事項のように相手と話をしている。
だが、榎木には、何故業界最先端の企業が、大手の一角とはいえ、このジャンルでは後発のうちにそんな話を持ちかけてくるのか、まったくわからなかった。
「詳しいことは、開発の現場にいるこちらの榎木にお願いします」
物思いに沈んでいた榎木は、突然部長に振られて我に返った。
「それで、最初の共同プロジェクトですが、とある物質の同定と合成を行いたいと思っています」
「とある物質、ですか?」
「はい。それが、これです」
そう言って、三浦は、透明な小さな瓶を取り出して机の上に置いた。
「液体?」
「はい。最終的には合成できればそれに越したことはないのですが、まずは同定ですね。どうやったらダンジョンから、これが得られるのかを調べたいのです」
榎木は液体で満たされている、透明な小さな瓶を手に取るとそれを透かしてみた。
「ただの水に見えますが」
そういうと、三浦は笑いながら、自分のペンを榎木が透かしている瓶の反対側に立てた。
「え?」
榎木はそのペンの位置のずれかたに驚いた。あまりに異常な位置だったのだ。
三浦は肯定するように頷くと、言った。
「屈折率が七.九あります」
「七.九?! しかも無色透明の液体ですか?!」
榎木は思わずそう声を上げた。
屈折率の高い透明な液体。その用途ははっきりとしていた。光学顕微鏡と半導体だ。
特に半導体においては、非常に重要になる可能性があった。
半導体は、レチクルと呼ばれる半導体の原版をレンズで縮小してウェハの上に再現する、言ってみれば写真のようなものだ。
微細化の限界は、この仕組み上、レイリーの式――分解能δ《デルタ》を求める式――に支配されている。
δ=K×λ/(n×sinθ)
Kはプロセスに依存した定数、λ《ラムダ》は使用する光の波長、nは対物レンズと対象の間にある物質の屈折率で、θ《シータ》は光がレンズに入る最大の角度だ。
n×sinθ部分は、一般に開口数と呼ばれている。
従来の半導体の微細化では、λ部分を小さくする、つまり光を短波長化することに注力されていた。以前は露光波長二四八ナノメートルのKrFエキシマレーザーだったものが二〇〇〇年頃にはArFエキシマレーザーが開発され一九三ナノメートルになる。
しかし、その先は開発が難しかった。CO2レーザーを利用する次世代のEUVの開発が遅々として進んでいないことは、やや畑違いの榎木でもよく知っていた。
そのため、以前は一.〇を越えられないと考えられていた開口数を大きくすることに力が注がれ、レンズとウェハの間を純水で埋める技術が開発された。nを増やすわけだ。それがArF液浸露光装置だ。
そうして、開口数は順調に増えていき、現在の最高の機器では一.三五に達している。
また定数のKを小さくする努力も行われた。通常は〇.六一だが、近年では変形照明、位相シフト、超解像技術等のあらゆる技術を導入することで、〇.三以下にまで小さくなっている。理論限界値は〇.二五だ。
そうしてArF液浸露光装置の解像度は三八ナノメートルに到達したのだ。
「もしもArF液浸露光装置の純水をその物質に置き換えることが出来たとしたら――」
三浦は、その通りだと言わんばかりに頷くと、エア轆轤《ろくろ》を回して言った。
「もしもこの物質をArF液浸露光装置で利用できれば、七ナノメートルまでなら現在広く普及している機械で、マルチパターニングなしで可能になります」
現在EUV開発を牽引しているのは、オランダのASMLだ。
光源の高出力化はコマツの子会社であるギガフォトンが解決したが、高出力になったせいで、フォトマスクを保護するための膜――ペリクルに、光透過率が高く熱耐性の高いものが必要になったのだ。
ASMLは今必死でペリクルの素材を探しているが、二〇二〇年までに完全なものが登場するのは無理だろう。
後はキヤノンとニコンだが、両者ともEUV開発からは手を引いていて、前者は東芝と共にナノインプリントを、後者はArF液浸露光装置に注力している。
つまりこの液体は――
「半導体の微細化要求に技術が追いついていない世界の救世主になるかもしれないってことですか」
実用化されれば、まさにF2レーザー開発時の液浸ショック再びと言ったところだ。なにしろ純水をこの物質で置き換えるだけで七ナノメートルが実現するのだ。マルチパターニングのコストも、機器の導入負担もなくなり、コストは大きく下がるだろう。例えこの液体の価格が上乗せされても、だ。
もちろん将来はEUVに置き換わっていくだろうが、少なくとも7ナノメートルまでは現在の機器がそのまま使える。その恩恵は計り知れなかった。
「先日弊社のダンジョン素材買い取りに持ち込まれたアイテムを入れた袋に溜まっていた液体なのですが、どこで付着したのか、対象がなんなのかがまったく分からないありさまでして」
ダンジョン産アイテムは触れればその名称がわかる。
だが、そこから漏れたり欠けたりした場合、その液体やカケラに対してその現象は起きなかった。
「はあ」
「御社のダンジョン素材の基礎研究論文を拝見しました。あのような地道な研究をされている会社なら、そういった点をフォローして貰えるのではないかと期待しています。どうにもうちには応用に走る研究員ばかりが在籍していまして」
そう言って三浦が苦笑いしたが、榎木は内心冷や汗をかいていた。そのレポートを作成したのは芳村のチームだったからだ。
芳村のチームは、ダンジョン素材研究が始まって以来、ずっとアイテムの物性を調査していた。対象の性質が分からないと応用のアイデアも産まれないからだが、それはアイテム購入代金や人件費が嵩むだけで、直接的にはなんの利益も上げない研究だった。課としての成績を考えたとき、大きなお荷物だったのだ。
それを中断させて、利益の上がりそうな応用研究を押しつけたのは榎木だった。
榎木はその一連の課内改革で成績を上げたのだ。
「そして、あの論文にあった研究者の一覧に、三好梓さんという方がいらっしゃった。これはもしや、というわけです」
三浦は、それが提携の目的だったとばかりに、少しテレながらそう言った。
それを聞いた部長は、顔色を変えて榎木を振り返った。
その目は、三好の退社について話すなと言っていた。
真超が芳村チームと三好梓に期待して提携を提案してきたのだとしたら、仮調印の段階で彼女たちがすでにいないと知られるのは非常に拙いのだ。
それは、せめてもろもろの契約が正式に終わってからでなければならない。それにワイズマンと呼ばれる世界一有名な探索者が、その三好であるかどうかの確信はないはずだ。単なる同姓同名であってもおかしくないのだから。
その様子を見て三浦は勘違いをした。
「ああ、失礼しました。御社の基礎研究チームに期待しているのは本当ですから」
彼はそう言って、頭を下げた。
その基礎研究チームの中心になった人員はすでにいないのだ。
それに榎木は一度三好に協力を要請して断られていた。きりきりと胃が軋むような気分になりながら、彼は小さな瓶に入った液体を見つめていた。
、、、、、、、、、
昼休みが間近に迫った農研機構の果樹茶業研究部門では、眼鏡を掛けた細面の酷い顔色をした男――佐山繁――が、以前同定した柑橘の追試結果を、主任の水木明憲に対して報告していた。
大至急という枕詞が付いていたおかげで、追試をお願いした研究者は、週末にそれを行ってくれていたのだ。
「北島先生のところは、二人で検査したところ、どちらもせとかだったそうです」
「そうか」
「北島先生は、この検査に何の意味があるのかと逆に興味津々で質問してこられていますが、どうします?」
「それは後だ。それで、神沼先生の方は?」
「それが、最初に検査を行った二名は、どちらも清見だったそうです」
「じゃあ、ばらばらの結果が出たのはうちだけか?」
この結果では、誰が聞いても、検査機器が汚染されていたという以外の結論にならないだろう。
いや、まてよ……
「……最初に?」
「それが、その後すぐ、研究室に来ていた学生の指導で、同定作業をやらせたそうなんですが、そうしたら……せとかという結果がでたそうです」
彼の報告によると、驚いた最初の研究者が、もう一度実験を行うと、やはり清見になったそうだ。
いったいどこからせとかを持ち込んだのかといぶかしんだ研究者は、自分の監督下で、もう一度学生に実験を行わせた。すると――
「せとかだという結果になったんだな」
水木は確信をもってそう言った。
佐山は、ご明察とばかりに肩をすくめて報告を続けた。
「混乱した研究者は、学生のいたずらを疑いましたが、当の学生は、なぜ問い詰められているのかまるで分らない様子だったそうです」
研究者は、もう一度、機器を完璧にクリーニングすると、何も知らない同僚を連れてきて同じ検査を行わせた。
すると結果は――
「……天草になったそうです」
佐山は報告書を、静かに机の上に置いた。
「どう思う?」
「ハードウェアの故障ですね。ああ、困ったなぁ……じゃなきゃ」
棒読みで困っていた佐山は、渋柿をかじったような顔をすると、「神のいたずらってやつですかね」と吐き捨てるように言った。
確かにこんなに奇妙な作物が登場したら、我々は検査機器を疑うべきか、検査の手順を疑うべきか、そうでなければ、自分自身の正気を疑うべきなのかわからずに混乱するだけだろう。
しかしルールは必ずある。それが自然科学というものだ。
「佐山君」
「はい?」
「ちょっと代々木へ行ってくれないか?」
「え?」
「なに、興津に比べれば近いものだろう? 通うことだって不可能な距離じゃない」
静岡県の興津には、農研機構が二〇〇六年に再編成される前から、由緒正しい、カンキツ研究興津拠点があるのだ。
「いえ、興津だっていいところですよ。変なお店も多いですし。そうそう。先輩の奥さんの退院の手伝いに産婦人科の病院へ行ったときなんか、昼にちょっと外へ出たら、某子供向けテレビ番組の名前そのまんまのお店が、すぐその先にあったりしてですね」
「佐山君」
「なんとなく入って、カツカレーを頼んだら、店名ロゴの隣に夢の国のネズミが描いてある皿が出てきたりして、いや、ほんとに混とんとしてますよね。いいのかよこれって驚いたものですよ。ガチャピンやムックならともかく――」
「佐山君!」
怒涛の興津押しで話題を無理やり変えて、昼休みになったらダッシュで逃げようとした佐山の計画は、あっさりとついえた。
「はぁ……分かりました。それってやっぱり……」
「そうだ、日本ダンジョン協会に問い合わせた。その柑橘は、代々木ダンジョンの二十一層に生えてるそうだ」
「ダンジョンの中に柑橘があるなんて話、聞いたことがありませんよ」
「向こうでも最近発見されたものらしい」
「それで、私は何を?」
「今は二月の中旬だ。接ぎ木用の枝を採取するにはちょうどいい季節だろう?」
接ぎ木用の穂木の採取は、大体一ヶ月弱から二ヶ月前までに採取する。柑橘類は四月ごろが接ぎ木の適期だから、ちょうど今頃からが採取時期なのだ。
「ダンジョン内の木に休眠期間とかあるんですか?」
「わからん。わからんからやってみるしかないだろう」
いや、それ、死亡フラグじゃないですか? と、佐山は思ったが、口に出したら現実になりそうだったので、ぐっとその言葉を飲み込んだ。
「それに、ダンジョン内の植物を外で接木なんかして大丈夫なんですか?」
「違法じゃないだろ? 一応日本ダンジョン協会にも話は通しておくし、拡散しないよう、密閉した場所を用意するさ」
何しろうちは研究機関だからな、と水木がにやりと笑っていった。
そんな場所から持ち出した枝に、もしも花が咲いて、花粉が何か――たとえば蜂だ――によって世界に拡散したりしたら大問題になる可能性がある。佐山が心配したのはそこだった。
「しかし、どうやって二十一層まで行くんです?」
「そこは、最初にそれを持って帰ったチームを紹介してもらった。まったくの素人だった宝石鑑定家を二十一層より下まで連れて行った実績があるそうだから、大丈夫のはずだ」
「はずだって……」
佐山は、大昔、原種を探しにヒマラヤやアマゾンを飛び回った植物学者たちに思いをはせた。まさかこの時代にそんなことが、しかも自分の身に降りかかってくることなど予想もしていなかったのだ。
「実にうらやましいね。できるなら私が行きたいくらいだよ」
いつでも変わって差し上げますよと、心の中で毒づいた佐山は、「はぁ」とあいまいな返事をしただけだった。
「せめて、傷病手当金はお願いしますよ」
「怪我を前提にするなよ。だが、もしもそうなったときは、ちゃんと書類は用意するから心配するな。それにこんな機会はめったにないぞ。ついでにダンジョン内の植物についても採取してきてくれ」
「できるだけご期待に沿えるよう頑張ります」
そりゃ、リアルで冒険家になるチャンスはめったにないだろうが、死体になるチャンスも同時にやってくるんだと思うと素直に喜ぶ気にはなれなかった。
それでもどこかに、ワクワクと弾むような気持ちがあるような気がしたのは、男の子の性《さが》というものだろうか。
「ところで、君、世界ダンジョン協会カードは持ってるのか?」
「持ってるわけありませんよ」
「それなしじゃ、ダンジョンへの進入は認められないそうだ。時間の都合はつけるから、直近の講習会を調べて、取得しておくように」
「わかりました」
どうやら、それで話は終わりのようだった。
水木は、よろしく頼むよと、佐山の肩をたたきながら、「出発は向こうの予定を聞いて決めるから、準備だけはしておいてくれ」と彼に伝えて去って行った。
去り際に、「そうだ、次世代研の連中が、話を聞きたいそうだから、午後はそっちに回ってくれ」と聞こえてきたのは気のせいだろう。
一人残された佐山は、窓から外の寒空をちらりと見あげると、「代々木ね、どうするかな」と呟いた。
農研機構は、駅から遠い。
つくばからも、万博記念公園からも、みどりのからも、荒川沖からも、ひたち野うしくからも、すこし幅を取るなら、研究学園や牛久からも、だいたい同じくらいの距離にある。
最寄り駅が5から7駅あるといえば、まるで都心のど真ん中のようだが、この辺りは、空の広さをごまかすために街路樹を植えたのではないだろうかと邪推したくなるような道が延々と続いているだけだ。
だからほとんど車で出勤しているわけだが、まさか通勤時間帯の都心部で市ヶ谷まで車を運転するのは、さすがに躊躇《ためら》われた。
「つくばエクスプレスを使えば、『みどりの』からなら一時間ちょっとってところか」
市ヶ谷なら秋葉原から総武線で一本だ。秋葉原の乗り換えでダッシュをすれば、一時間を切るかもしれなかった。
「さすがに交通費くらいは出るよな?」
そう呟いたとき、昼休みの時間が訪れた。
「さて、飯はどうするかなぁ」
果樹茶業研究部門のある藤本は、旧果樹研究所の跡地だが、農研機構の本部からは飛び地で少し離れていて、ほかには野菜花き研究部門の一部がある以外、なにもない場所だった。
住民基本台帳によると、この地区に住んでいる人の数は、まさかの0だ。仮にもつくば市の一部なのに、だ。
つまり近場に飯屋など、ほとんどあるはずがなかった。道路を挟んだ向かい側に鬼が作ってるラーメンがあるくらいだ。
その隣にあるラブホでも、ご飯が食べられるらしいが、下手な部屋を選ぶと部屋の壁にインパクトがありすぎて落ち着かないと、同僚のやつが言っていた。リア充は死ね。
「午後から次世代研なら、マルベルでいいか」
マルベル食堂は、農林水産技術会議筑波産官学連携センターの食堂だ。
社食のようなものなのだが、昼は一般にも開放されていて、結構安く、まさに気分は学食と言ったところだ。
農研機構の管理センターと同じ敷地にあるその施設は、次世代作物研究センターの隣でもあった。
佐山は方針を決定すると、駐車場の自分の車に向かって歩き始めた。
ダンジョン初体験で二十一層へ向かわされるとは、命短し恋せよ乙男。向かいのホテルのご飯を一緒に食べてくれるパートナーを早く見つけないとなぁ、などと考えながら。
、、、、、、、、、
茅場町から少し西、平成通りから見上げるそのビルは、ドラクエに登場するちょっとだけ強いゴーレム――ストーンマンを彷彿とさせるデザインだった。
そこは日本の証券取引の中心地、にもかかわらず今では証券マンよりも見学者で溢れている奇妙な場所、東京証券取引所だ。
そのビルから、二人の男がランチを取るために出てきて傘を開いた。
「どうする?」
「そうだな。たまには、めいたいけんに行こうぜ」
背の高い痩せた男がそういうと、小太りの男が笑いながら答えた。
「なんだよ、平日の昼間っから観光か?」
「まあな。たまーに、あそこのハヤシライスが食べたくなるんだよ」
「ブルジョアかよ」
「なんのなんの。二階に上がらないうちは、まだまだよ」
痩せた男も笑ってそう答えた。
めいたいけんの二階は、一階とはメニューが違うのだ。大体一階の倍くらいのお値段の料理が並んでいる。
それは、その辺のイタリアンやフレンチで、立派なランチコースがいただけるお値段だ。
「それにしてもあのハヤシ、なんでカレーの二倍以上するんだろう?」
江戸橋ジャンクションのガードの下で、日ノ屋カレーの入り口を見ながら、思い出したように小太りの男がそう呟いた。
「そりゃ、使われてるドミグラスがスペシャルなんだろ」
それを耳にした背の高い男は、カレー屋の入り口をちらりと見ながら、そう答えた。そして、「キッチンNがなくなったのは痛かったな」と漏らした。
日ノ屋カレーのある場所には、つい一年少し前まで、キッチンNという定食屋があったのだ。
「めいたいけんの半額で食べられる店だったしな」
「いや、定食屋としては普通の値段だから」
そう苦笑した後は、しばらくの間無言で昭和通りへと向かって行った。
そうしてその通りにある大きな陸橋を上がったところで、小太りの男が、息を切らせながら切り出した。
「そういやさ、御殿《ごてん》通工《つうこう》、おかしくないか?」
「御殿通工?」
御殿山《ごてんやま》通信工業、通称御殿通工は老舗の大手電機会社で、株式発行数も非常に多いのだが、最近では売り上げも一時に比べればぱっとせず株価も低迷していた。
その銘柄に、数日前から大量の取引が発生していると言うのだ。
「なにか材料があったか?」
「いや、プレスリリースを見る限りじゃ、別に何も変わったことはないんだが……」
小太りの男はひーひー言いながら陸橋をわたり、その階段を下りた。
背の高い男は、もうちょっと運動しろよと苦笑いしながら、続きを促した。
「なんだよ?」
「二月に入ってから、なんだか取引の量がおかしいんだ」
「おかしい? 株価は?」
「それがほとんど変わってない」
その先にある、野村アセットマネジメントの次の細い角を曲がると、すぐに「麺」と書かれたシンプルで小さいにも関わらず、場所柄大変目立つ看板が見える。めいたいけんのラーメンコーナーだ。
ラーメンと言えば、めいたいけんの向かいにも、たにますラーメンがある。なんで京都銀閣寺なのかはまるでわからないが、ラーメンは鶏ガラ系さっぱり醤油味だ。
今も、そこには数人が並んでいた。それを横目で見ながら、小太りの男が、めいたいけんの扉を開けた。
「御殿通工は、長期保有者も多い銘柄だけど、ここのところの株価低迷に続く配当金の削減で、放出している株主も多いんじゃなかったか?」
「まあな。ただ、七百二十から七百四十円くらいで、出てきた売りが全て消化されてるんだよ」
「消化されてる?」
「そう、株価はその範囲から微動だにしない。だからほとんど話題にならないんだけど、取引量だけが連日増えてきてるんだ」
成り行きの売りまで、すべてそこで消化されていた。
注文を取りに来た給仕に小太りの男が「タンポポオムライス」と告げる。伊丹十三が撮った映画で、細長い乞食とターボーが夜の厨房に忍び込んで作るあれだ。
「なんだなんだ? お前だってブルジョアじゃないか」
「観光ならこれ一択。それに残念、三十円ほどお前の方が高額だ」
小太りの男が笑ってそう答えると、背の高い男は「変わらないだろ」と言って、コップの水を一口飲んでから、話を元に戻した。
「しかし、御殿通工ね……売られるわけも、買われるわけもないのか?」
「買いの方はまったく。アナリストのレポートでも、七百円を超えるどころか六百円を切るような下り基調の予想しかないから、板を見たやつらが、今のうちとばかりに、売りを増やしているって感じだ」
「それが全部消化される? 買い方は?」
「いろんな会社から、指し値もバラバラ、厚みもバラバラで注文されてる。もしも同じ奴ならそうとう用心深いな」
「なんのために、御殿通工を?」
そう、それが問題だ。
いまのところ、御殿通工の株を集める理由はないのだ。
「買収とか」
「バカいえ、シャープじゃあるまいし。パナソニックとまでは行かないが、それに次いで発行株式数が多いんだぞ? 市場でちまちま買い占めたくらいで買収なんかできるわけないだろ」
パナソニックは仮に一億株を買ったとしても、大量保有報告書を提出しなくてよいくらい株式を発行している。
御殿通工の発行株式数は、それに次ぐ規模だ、市場に出まわる株を全て買ったとしても、買収などは夢の又夢だろう。TOBも宣言しないでそんなことは絶対に不可能だ。してもおそらくは不可能だろうが。
「だが売買は行われてる」
「そうだ」
「しかし株価は上がらないのか……」
「そうだ」
「しかも配当は期待できない」
「奇妙だろ?」
何のためにその株を買いあさっているのか、確かに意図が分からない。
「まあな。しかし、俺たちが気付くくらいなんだから、気付いてるやつもいるだろう? なら、七百四十五円とか七百五十円とか、少し高い金額で指し値売りをするやつが出るんじゃないか?」
「もちろんいた。だが売買がまともに成立しないんだ」
「成立しない?」
大量の買い板を見た瞬間、成り行きの買いはゼロになった。下がり基調が明らかな株を高値で買わされてはたまらないからだろう。
「もしもこの株を買っているやつがいるとしたら、そいつの目的は御殿通工の株を集める事じゃなくて、ある価格帯で買うことなんだろうよ」
「なんのために?」
「さあな」
「レポートを見た会社が、株価維持のついでに自社株買いって線は?」
「たとえ市場からの調達でも、公開はされるだろ。それに内部留保がそんなにあったかな……そもそも、今さら少しくらい株数を減らしたところで、PERもPBRも大して改善しないよ」
「じゃあ、あれだな。近い将来爆上げするネタを掴んでるヤツが買い占めてる」
「おいおい、へたすりゃインサイダーじゃないか。それにそれなら、なおさら成り行きで買わない理由がわからないだろ」
そこで料理がやってきた。
小太りの男は、早速スプーンでオムライスを切り取ると、「ま、本当に集めているやつがいるんなら、大量保有報告書や変更報告書ですぐにわかるさ」と言ってそれを頬張った。
「そうだな」
背の高い男は、上の空でそれに答えながら、出てきたハヤシライスを口に運んで、そうそうこの味とばかりに口角をあげて満足げにそれを飲み込んだ。
143 濫觴《らんしょう》(後編) 2月4日 (月曜日)
「――というわけで、先ほどDパワーズさんから、二次ロットの三百台が納品されました」
斎賀の部屋では、日本ダンジョン協会の大学入試対策委員会の対策委員に抜擢された、ダンジョン管理課の主任――坂井《さかい》典丈《のりたけ》二十九歳――が報告していた。
「三百台? そりゃまた早かったな。一次ロットから、まだ数日だろう?」
私大の数は多い。
基本的に希望する大学からの連絡を受けて予定を組んでいるが、機器の個数もあるから、早い者勝ち……というよりも営2が恣意的に選んでいるようだった。結果として、難易度で選別されているようにも見える。
1次ロットは、昨日、順天堂の医学部と、上智で使用された。その結果、思った以上に受験生のDカード取得者は多かった。
「昨日の結果が速報で流れてからは余計ですね。各医学系私大から、二次試験だけでもという依頼が殺到しているようです」
医学系大学の一次試験は早いところが多い。二次試験も二月の一桁日に集中していた。
「他の大学からも、派遣して貰えるのかと、矢のような問い合わせが殺到していたところなので、そこのところは大変ありがたいのですが……」
「どうした?」
「……これ、本当に役に立ってるんですかね?」
坂井は、目の前に置かれた、いかにもアマチュアの電子工作ですと言わんばかりのアイテムを指差した。
「納品時に、委員会の方でテストしたんだろ? 昨日の動作も正常だったようだし」
「はい。実行すると、たしかにDカード所有者は緑の、非所有者は赤の発光ダイオードが点灯しました。日本ダンジョン協会内で試した限り精度は一〇〇%でした」
「なら問題ないだろう」
「しかし――これ、十万でしたっけ?」
斎賀は彼の言いたいことを理解して苦笑した。
なにしろ外側は、百円ショップで買えそうな食品保存用のPPパックなのだ。10万円と言われれば、何事かと思うだろう。
「オーダーしたのが数日前じゃ、そりゃ外側までは手が回らないだろう。間に合わせてきただけでも驚愕ものだからな」
「はぁ……」
「それで、機器の管理と人員の派遣は、どうなってる?」
外側がPPパックである以上、簡単にふたを開けて中を確認できる。部品だってむき出しなのだ、見るものが見れば何が使われているのかは一目瞭然だ。
「そこは、営2任せですね。結局うちは常磐ラボさんとのリース部分のみで、大学と日本ダンジョン協会間は営2が仕切ってます。なにしろ対象が全国に散らばっていますから」
営業2課は地方管轄の営業課だ。
地方の主要都市に対する人員の派遣という意味では、商務課と並んで相応しいのは確かだ。
「機器の管理という意味では、倉庫や店舗、それに販売員を確保している商務課の方がいいという話もあったのですが、なにしろ出先が全国に広がっていますので、ダンジョンの位置で偏っている商務課よりも、全国の都市部に散らばる2課の方が利便性が高いと主張されました」
「アイテムの数も大きさも大したことはないし、事務所でも充分置いておけるからな」
「はい」
「しかし、派遣人員はどうするんだ?」
常に販売員を確保している商務課と違い、営2ではアルバイトを雇うツテがないだろう。
「懇意の派遣会社に依頼するとのことです」
「大丈夫なのか、それ? ……日本ダンジョン協会が情報漏洩の片棒を担ぐなんてのは御免だぞ?」
営業部にどんな思惑があったのかは知らないが、結局機器はファイナンスリースして、日本ダンジョン協会が大学へとサービスを提供する契約になった。
営業の主張で一年のリースを行おうとした時、Dパワーズの三好梓に、気の毒そうな顔でお勧めしませんよと言われて、急遽ワンシーズン、年度内のリースに切り替えたのだが、あれで大分営業に文句を言われた。
年間を通して、いろいろな場所と契約しようとしたのだろうが、個々の機器だって間に合わせなのだ。こんなものを一年にわたって使わせることの危険性に斎賀は目をつぶれなかったのだ。
「それに、Dパワーズの連中の顔がなぁ……」
「なんです?」
斎賀の呟きに坂井が反応したが、斎賀は慌ててそれをごまかした。
「あ、いや、なんでもない。それで、足りるのか?」
「私大は数が多いと言ってもそれなりにばらけてますけど、二十五日から二十七日は確実に日本ダンジョン協会職員だけでは手が足りなくなると思われます」
「国公立の2次試験か……やはり、もっと対象大学を絞った方がいいんじゃないか?」
「営2は営2で、その地域に関する柵《しがらみ》がありますからね」
「おいおい。絞らないってのか? それじゃ最低、全国立大学への派遣が必要になるだろう。人員はともかく機器も足りないだろう?」
「国立だけで86大学ありますから、予定通り千台が揃ったとしても、一カ所十台ちょっとですね」
「微妙だな。公立はどうするんだ?」
学部毎に試験会場が異なっていたりしたら、確実に足りないだろう。
「九十三大学あります。札幌・福島・京都・奈良・和歌山には医科大学もありますし、全くフォローしないわけには……おおっぴらには言えませんが、やはり偏差値の高い大学への重点配備は避けられないと思います」
「営2がそれを理解してればいいけどな」
二月後半の派遣スケジュールは、未だに確定していない。
いろいろな部署の綱引きがあるようだが、状況だけ見ればこの機器の情報は確実に漏れるだろう。鳴瀬の話を聞く限り、それを分からない連中じゃないはずなんだが、実に無防備に思える。
「まあ、あのお嬢ちゃん達が何を考えているかは知らないが、機器を用意してしまえば、ダンジョン管理課としては not my business だ」
斎賀は気味の悪い現実を振り払うようにそう呟くと、坂井に向かって言った。
「じゃ、引き続き、そちらの方はよろしくたのむ」
「分かりました。しかしセーフエリアの件で天手古舞だってのに、うちも大変ですよね」
彼は失礼しますと頭を下げると、他人事のように独りごちながら、自分の席へと戻っていった。
斎賀は、それを見届けると、彼が来るまでに見ていた報告書に目を通し始めた。
「……結局Dパワーズから忠告を受けたとおりの展開になってきたな」
それは、先月のダンジョン産アイテムリストの一覧だった。
自力でアイテムを取得して、自力で売りさばいている商業ライセンス持ちのアイテム取得報告は提出までにラグがあるが、それ以外の一般探索者は、日本ダンジョン協会の買い取り受付で売ることが多い。
日本ダンジョン協会の買い取り受付は、ダンジョン管理部商務課の管轄だ。
商務課は別名ギルド課と呼ばれているように、いわゆるフィクションのギルドの業務から探索者の管理を除いた部分を扱っている課で、企業や他国などの特別なチームについては、探索毎の商務課への報告が義務づけられていた。
そういったわけで、ダンジョン管理課でも、ある程度リアルタイムにダンジョン産アイテムの動向を調べることが出来るのだ。
斎賀が見ているリストには、すでに4つのマイニングが発見されていることが報告されていた。
その分価値が下がったかというと、そんなことはない。なにしろ絶対数が少ないからだ。
そう言えば日本ダンジョン協会が保持しているマイニングは、使用予定者だった六条小麦が勝手にマイニング保持者にされてしまっていたので宙に浮いたままだった。
小麦に使ったことにして、Dパワーズに返還するという案もあったが、Dパワーズから拒否された。
「遠慮というよりも六条さんの自由度を下げたくないって感じだったな」
日本ダンジョン協会からそれを貸与されてしまえば、彼女の行動は日本ダンジョン協会に縛られることになる。それを避けたという印象が強かった。
「それにしても――」
マイニングを取得したのは、サイモンチームと、ドミトリーを中心にしたロシアのチーム。後は、ミズ・エラを擁するオーストラリアのチームと、イギリスのチームだ。やはり、集団を相手にまとめて処理できる能力のあるチームが有利なようだった。
中でも、エラ=アルコットのスキルは集団戦に向いているらしい。
「オーストラリア政府が協力を依頼するはずだ」
マイニングを確保したチームからは、引き続き代々木での探索期間の延長が申請されていた。
どうやら、二十二層でマイニングの試験と、ついでにプラチナで経費の回収を行いたいってところだろう。
「アメリカとロシア、それにイギリスとアフリカか」
いかに優秀でも、攻略組のトップや国家と関係ない民間人に使わせたりはしないだろう。
世界ダンジョン協会に提出したレポートのこともあるし、それなりに優秀で学識の深い人物が選ばれたはずだ。つまり武器は銃器が中心にならざるを得ない。
「しかし、二十二層は湿地帯だからな」
銃器でウォーターリーパーやウィッチニードルにあてるのは相当難しいだろうし、ラブドフィスパイソンも小銃程度で相手をするのは中々骨が折れるはずだ。
「事故用にポーションをいくつか確保しておくか……」
そう呟いて、申請書類を用意したとき、パーティションの入り口をノックする音がした。
「あの、課長……今よろしいですか?」
「ああ、どうかしたのか?」
「いえ、参議院議員の方が見えられていまして。アポがないのでお断りしようとしたのですが、どうしてもと」
「参議院議員?」
「はい。葉山議員と仰るそうです」
大臣や自分の住んでいる選挙区ならともかく、何百人もいる議員の名前などいちいち覚えているはずがない。
葉山と言われても、斎賀にはぴんと来なかった。
「瑞穂常務あたりの間違いじゃないのか?」
「いえ、直接探索者の管理を行っている部署の長ということですので、こちらで間違いないと思います」
ダンジョン管理部は探索者の管理以外の業務も多数ある。
直接と言うことなら、確かにダンジョン管理課の課長がその長と言うことになるだろうが……
寺沢あたりからデミウルゴスの報告への意趣返しがあってもおかしくはなかったが、それにしたって事前の連絡が一切無いというのはいかにも変だ。
とはいえ、政治家と直接関わる案件なんて、他には思い当たるふしがなかった。
「探索者の直接管理ね。わかった、会おう。あいている小会議室へ案内しておいてくれ」
「わかりました」
斎賀は、手早く申請書類を書き上げて送信すると、はてさてどうしたものかと考えながら立ち上がった。
、、、、、、、、、
「キミが、探索者管理の責任者なのかね?」
小会議室に行くと、いきなりそう言われたので、斎賀は型どおり名刺を差し出して挨拶した。
「直接的にはそう言うことになりますでしょうか。それで、本日はどういったご用件でしょう?」
「時間もないので単刀直入に申し上げる。ダンジョンブートキャンプの席を日本のために用意していただきたい」
「は?」
斎賀はいきなりの要求に、思わず変な声を上げていた。
「用意していただきたいと仰られましても、あれは日本ダンジョン協会とは何の関係もありませんが……」
「そんなことは分かっている」
どうやら、先にスポーツ庁を通じてダンジョンパワーズへと接触を図ったらしい。
「あの会社はどうなっているのだ。電話をしても一向に誰も出ないそうではないか」
そういや、線が抜けたままにされたまま忘れられているようですと鳴瀬が言ってたな。連絡は個人所有の携帯なので、何一つ困らないのが困ったところだ。なにしろあの会社、社員はひとりしかいない。
最近、契約社員も入れると全部で三人だか四人だかになったらしいが……
「商業ライセンスが公開されていますから、登録メールアドレスは公開されていますよ」
「なしのつぶてだ!」
葉山議員は、怒り心頭と言わんばかりの表情で顔を赤くしながらそう告げた。
どうやら、散々日本のためを吹聴したあげくに席を要求するメールを送ったらしい。
斎賀は、そりゃスルーされるだろと内心苦笑していた。鳴瀬に言わせれば、攻める場所が違うのだ。
確かに、議員だろうがなんだろうが、返事を返す義務はない。面倒くさいことをスルーするのは彼らの流儀だ。
会社の姿勢としてはいかがなものかとも思うが。
「一体どうなっているんだ?!」
「そのようなことを日本ダンジョン協会に仰られましても、ダンジョン関連とは言え、民間企業の業務そのものは管轄外ですよ。お話はそれだけですか?」
そう問い返すと、葉山議員は眉間にしわを寄せて言った。
「キミは、今までの話を聞いて、なんとも思わないのかね?」
大変だなぁとしか感想はないが、そんなことを口に出せるのは、あの二人だけだろう。
「ええと……日本ダンジョン協会の業務とは特に関係ありませんし、コメントする立場にないのですけれども」
「なんと、嘆かわしい! 日本のために一肌脱ごうとは思わんのか!」
「先生が愛国心に溢れているのはよく分かりましたが、実際問題、これは民間企業の業務の話ですから、日本ダンジョン協会ではまったくお力になれないと思います」
ただでさえ今はホイポイカプセルの件で微妙な時だ。これ以上、面倒な案件は抱えたくないというのが本音だった。
「そうかな? キミたちは、専任管理監というのをおいていると聞いたが?」
誰だよ、そんな話をこいつに伝えたのは。
斎賀は心の中で苦虫をかみつぶしながらも、しれっと言った。
「何処でお聞きになったのか知りませんが、それはパーティに対して専任の者をつけただけで、会社とは無関係ですよ」
「なんだと?」
更に憤った葉山は、その後も、自分の時間が尽きるまで、延々と罵倒を交えながら斎賀と不毛な会話を繰り返した。
これは流石に業務妨害だろうと、斎賀はダンジョン庁へと苦情を上げることにした。ダンジョン庁は、省庁関係だけでなく、民間と政府との調整機関の役割も担っているのだから。
、、、、、、、、、
「あれ、課長。どうしたんですか?」
今朝聞いた麦畑の件を報告しに斎賀のもとを訪れた美晴は、ダンジョン管理課へ向かう廊下で斎賀を見つけて呼び止めた。
「ああ、鳴瀬か。いや、ちょっと面倒なお客があってな。ちょうどいい、お前にも関係ありそうな話だから……少し、いいか?」
「はい。私も課長に報告が」
それを聞いて、また面倒ごとじゃないだろうなと、鼻白んだ斎賀は、今度はこっちの相談も面倒ごとかと苦笑した。
美晴はそれを見て、課長の一人百面相はナシね、と失礼なことを考えていた。
課長のブースへ戻ると、さっそく斎賀はさっき会ったブートキャンプがらみの問題を美晴に話した。
「葉山議員、ですか?」
「ああ。詳しいことは知らなかったが、調べたところ、文科省畑出身の参議院銀らしい」
「それでどうしろと?」
「どうしようもないが、そういう事実があったという報告だな。何かあるかもしれんし、Dパワーズの連中に、気を付けるように言っておいてくれ」
「何にです?」
「そりゃ、何かに、だろうな」
そう訊いた美晴に対して、斎賀は露骨に肩をすくめて見せた。
地位のある議員が、直接的な行動に出るとは思えないが、世界はとても複雑だ。どこで何がどうつながって、どんな影響が出るのか予想することは難しい。
だが、何かが起こるかもしれないということだけは知らないよりも知っておいた方がいいだろう。噴火前の地震みたいなものだ。
「雲をつかむような話ですけど……まあわかりました」
美晴は切り替えるように座りなおすと、今度は自分の番だとばかりに、小麦畑の件を報告した。
「と、いうわけなんですが……」
報告が終わるまで、じっと腕を組んだまま、黙って口を挟まなかった斎賀が、その腕をほどいた。
しかし、眉間に刻まれたしわは、そのままだった。
「あのな、鳴瀬。現在うちの課は、セーフエリアの競売と、大学入試対策でいっぱいいっぱいなんだぞ? フロアを見てみろ、ゾンビが量産されているだろうが」
彼が指さしたフロアでは、透明なパーティションの向こう側で、ダンジョン管理課の面々が、足取りも重くうごめいていた。
週明けの月曜日だというのにこのありさまでは、週末どころか終業時間まで彼らが生きていられるのかどうかも怪しかった。もっとも、終業時間が来るかどうかは、もっと怪しいところのようだったが。
「スライムの件が公開された後の準備も後回しにはできないし、代々ダン情報局の方も止めるわけにはいかん。商務課も一杯一杯で、ダンジョン管理課へのヘルプも満足には送れない。スタッフ持ち回りの監視セクションなんか、スタッフゼロで風来が直接監視しているありさまだ」
美晴は、風来さんのところはどうせ警報がでるまで、ほとんど見てるだけだしそれでいいんじゃないの? と身も蓋もないことを考えたが、それ以外は、手伝えるところは手伝おうと心に決めていた。
斎賀は首を振って、ためを作った後、身を乗り出して言った。
「それが今度はなんだって? ダンジョン内での小麦栽培? しかも無限リポップだ?」
そのままがっくりと首を落とした斎賀は、そのまま呟くように言った。
「その話は、セーフエリアだの入試問題だの、ついでに言うならスライム対策だのを全部吹っ飛ばすくらいの大物だぞ……勘弁してくれ」
彼の脳裏には、それを発表したときに生じる問題や、社会に与える大きなインパクトのリストが、軽く一ダースは並んでいた。
とにもかくにも、先物市場が大変な嵐に見舞われることだけは間違いない。
勢いよく頭を上げた斎賀はきっぱりと言った。
「どうにもならん! はっきり言って、うちの余力はゼロだ。第一、余力があっても受け止められるかどうかわからない代物だぞ、それは」
「まあ、そうですよね」
美晴はダンジョン管理課の現状も把握していたし、自分の上司が、出来ないことは出来ないと、はっきり言うタイプであることも理解していた。
「せめて一ヶ月後にならなかったのか」
そうすれば、いくつかの案件、特に受験問題が片付いて、少しは余裕があったはずだ。
少しの余裕でどうにかなるかどうかは分からないが。
「三好さんたち風に言うと、実っちゃったんだそうです」
「実っちゃったってなぁ……」
いい加減、あの連中には、自分たちの行動が社会に与える影響というものを考えて行動して欲しいものだと、斎賀は心の底から願った。
「それにしても――」
斎賀は、身を起こして背もたれに体重を預けると、天井に目を向けて言った。
「――ひと月前に、たった一坪の土地をレンタルしたかと思えば、これだ」
斎賀は、ゆっくりと身を起こして、美晴の方を見ると、疲れた顔で力なく言った。
「連中が、横浜で何をやっているのかは知らないが、そっちの爆弾が爆発したら最後、世界は滅びるんじゃないのか?」
美晴はその言い草を聞いて、思わず吹き出したが、特に反論はしなかった。みんな疲れているのだ。
「まあ、そうですよねぇ……じゃあ、この話はなかったことに」
「まてまてまてまて。そんなわけにいくわけないだろ。……ちょっとした愚痴くらいスルーしとけよ」
「課長。上司が部下に向かって愚痴をこぼすのは感心しませんね。どちらかと言えば、部下の愚痴を聞くのが役目ってもんでしょう?」
「むっ。よし、なにかあるなら聞いてやるから言ってみろ」
美晴は、そう言われて、ため息を一つつくと、斎賀に向かって話し始めた。
「私、芳村さんたちに、この技術をどうするつもりなのかって尋ねたんです」
「まあ、当然だな」
「そしたら、『どうしたらいいと思います?』と訊かれました」
美晴はがくーっと頭を下げてそう言った。
「あの人たち、次から次へとトンデモ案件を開発するばっかりで、その先のことを全然考えてないんですよ?!」
「お、おお……」
「あの人たちは、手段と目的を取り違えてます、絶対」
普通、研究や開発は、なにかを達成するための手段のはずだ。しかし、美晴の目からは、それそのものが目的のように見えるのだ。
その結果、次から次へといろんなものが飛び出してくるのだが、その先に明確なビジョンがない。いいかげん、この辺でちょっと手を緩めてほしいものだと、真剣にそう願っていた。
「あ、それで思い出したが、お前が要請していた、せとかのDNA鑑定な」
「はい?」
「あれが、えらい騒ぎになってるぞ」
「はいい?」
「うちにも、あれの出所を教えろと連絡が来てたはずだ」
「課長、何も聞こえませんでした。私は何も聞いていません。聞いていませんから……」
その様子に、何を言ってるんだこいつと苦笑したとき、机の上の内線が鳴った。
なにか、ものすごく嫌な予感がしたが、まさか居留守を使うわけにもいかない。斎賀は、意を決したようにそっと受話器を外すと、おそるおそるそれを耳に当てた。
そうして、受話器の向こうの相手といくつか言葉をやり取りしていたが、いきなり頭をあげた。
「自衛隊員倫理審査会事務局?」
突然、聞こえてきたその聞きなれない組織に、美晴が、席を外しましょうかとジェスチャーで問うと、斎賀も、そのままそこにいろとジェスチャーで指示した。
「うん。うん。……わかった。こちらから返事をしておく。うん。ああ、ありがとう」
斎賀が受話器を置くのを見ながら、美晴は、電話の内容を聞いていいものかどうかわからなかったので、だまって座っていた。
「なあ、鳴瀬」
「はい」
「お前、ファントムが誰なのか知っているか?」
「はい?」
いきなりそう聞かれた美晴は、「いきなり、なんの話ですか?」と問い返すしかなかった。
「いや、それがな――」
どうやら、日本ダンジョン協会に、自衛隊員倫理審査会事務局から、ザ・ファントムと呼ばれる探索者が誰なのか知りたいという問い合わせがあったらしい。
「どうやら、幽霊さんは、三十一層の自衛隊のピンチに颯爽と駆け付けたらしいぞ。律儀な奴だな」
当時の話は、当然日本ダンジョン協会にも報告書が上がってきていたが、探索者の損失が自衛隊員のみだったため、こちらへはほとんど結果だけの報告となっていた。
もちろん美晴は、三好が撮影した映像まで見ているが、同じように自衛隊が撮影していた可能性のある映像は、日本ダンジョン協会には提出されていなかった。
「そこで、君津二尉に対して、どうやら超回復を使ったらしい」
「超回復?」
「ああ。どこかで聞いたような話だな」
もちろん斎賀の念頭にあったのは、アーシャの一件だろう。
あれはあれで、日本ダンジョン協会にとっても大事件だったのだが、相手がインドの大富豪とイギリス軍では突っ込むに突っ込めず、たんなる探索者の活動のひとつとして処理されていた。
「ともかく、それが収賄や国家公務員倫理規程違反にあたるかどうかの調査を行っているそうだ」
「ザ・ファントムが、自衛隊の利害関係者かどうか知りたいってことですか?」
「まあ、そうなんだろうな。利益を提供したものが誰なのかわからないんじゃ、どうしようもないというところだろう」
「利益提供者が誰だかわからないなら、便宜の図りようもないと思うんですが……それにオーブって、動産とみなされなかったはずですよね?」
「少し前に五十億で落札されているから、インパクトがなぁ……ちょっとアンラッキーだったな」
「それって、五十億の利益供与だとみなされるかも、ってことですか?」
美晴は驚いてそう聞いた。なにしろ彼女は四千億オーバーのオーブを譲渡されているのだ。
しかし、いかに日本が、制定法主義国だといえ、判例法主義的要素は多分に存在している。成文法が存在していない領域なら、なおのことそうだろう。
オーブが動産としてみなされていないという解釈が、一年を超える議論の結果導かれ、判例もでている現状で、どうしてそんなことになっているのだろう。
「まあ、委員も法の専門家が三人と、会社の役員が一人、それにテレビの解説委員が一人からなってるようだから、最終的には動産ではないという判断に落ち着くとは思うが、議論の前の資料作成の段階で情報が必要になったようだな」
そう言って、斎賀は難しそうな顔をした。
「しかしスキルオーブの無償使用は、贈与や譲渡とはみなされないとはっきりとした判例がある――」
「なんです?」
「――なにか違和感がないか?」
「違和感?」
「収賄とみなされたりするはずのない一件だ。それが議題に上ること自体がおかしいだろ。まるで、それにかこつけて――」
「――何か別のことを調べたがっているように見える?」
斎賀はその通りと言わんばかりに頷いた。
「ザ・ファントムの正体を明らかにしたい人って、誰なんでしょう?」
「さあな。突然現れた、世界1位の探索者だ。いくらでも利用価値はあるんだろ」
ことに、こんなに急激に、まさしく馬鹿みたいにいろんな案件が、一度に転がり始めた現在《いま》となっては――
「ああ、今は麦畑のことだったか」
「あ、そうですね。それでどうします?」
「どうもこうもあるか。五億人の探索者登録が、まだまだ年単位でかかりそうな現在、こんな事実は発表したとたんに大ごとになるぞ。それも世界的な規模で、だ」
無限に収穫できる畑は、浅層の食料ドロップとはわけが違う。
たとえ狭い畑でも、一日二十四時間、三六五日収穫し続ければ、いったいどれだけの量になるのか見当もつかないが、きちんと計算してみなくても結構な量になることは確実だ。
「それは、三好さんたちも言っていました。私たちじゃ手に負えないから、任せたって」
「そんな簡単に任せるなよ!」
「穀物メジャーから命を狙われるのは嫌だそうです」
「どこの劇画だよ!」
「あと、ダンジョン産食品の安全性調査手続きも面倒だから嫌だそうです」
「そりゃ、世界ダンジョン協会のDFA(食品管理局 the Department of Food Administration)の管轄だな」
オーク肉を始めとする、ダンジョン産の食品の安全性は、その部署が、各国のFDA(アメリカ食品医薬品局 Food and Drug Administration)のような組織と協力して行っていた。
「しかし、これは揉めるだろうな」
「揉める?」
「さっきの劇画の話じゃないが、検査自体に穀物メジャーが横やりを入れたとしても、俺は驚かない」
斎賀は椅子の背から体を起こすと、身を乗り出した。
「しかし、真っ先に大きな影響を受けるのは、確実に先物市場だ」
なにしろ、季節に関係なく、ほとんど無限に算出する穀物だ。
こんなものが世界に発表されたら、穀物の先物が暴落する可能性は高い。
実際にどの程度作れるのかはわからないにしても、そのインパクトだけで値を下げることは想像に難くない。
「発表前に売りまくっていれば大儲けできるぞ?」
「課長、それはインサイダーでは……」
「わかってりゃいい。つまり、この情報は、絶対外に漏らすなよってことだ」
「この部屋に盗聴器があるかもしれませんよ」
「そこは一応毎日チェックしている」
「え? 本当に?!」
冗談のつもりで言ったにもかかわらず、本当にそんなスパイ映画じみたことが行われているとは思ってもみなかった美晴は、驚いた。
「きっかけを作ったのは、お前だろ」
「私ですか?」
「異界言語理解の時、有無を言わさず、市ヶ谷橋に引っ張って行ったのは誰だよ」
「ああ」
しかしあの時は、異界言語理解の件に関して、芳村が日本ダンジョン協会も自衛隊も信じていないようだったから、どこに耳があるかわからない日本ダンジョン協会から連れ出しただけで、まさか本当に盗聴器が仕掛けられたりしていると思っていたわけではなかった。
「それに、今はセーフゾーンの競売の件があるから、余計だな」
「それで、見つかったことは?」
「それがな……」
そういって、斎賀は胸の前で彼女に手の甲を向けて右手の指を3本立てた。
「え? 本当ですか?」
「まったく、世の中ってのはどうなってるんだろうな」
美晴はあたりを気味悪そうに、見回した。
「課長。Dパワーズの話って、外でしたほうがいいですかね?」
「まあ、よっぽどの案件ならそれもいいだろうが、今のところこの部屋はクリーン……のはずなんだがな」
なにしろ人の出入りがある部屋だ。まさか入室の際に全員をチェックするわけにもいかないし、なんとも心もとない話ではあった。
「ともかく、少なくとも来月までは、そこの管理に人員を割くのは無理だ。一坪と言わず、周囲の土地も使っていいから、ふたでもかぶせて厳重に保護しておいてくれと伝えてくれ」
「わかりました。あちらも特許を確保するまでは、この件の詳細は伏せておいてほしいそうですから、大丈夫でしょう」
「特許? まだ何かあるのか?」
「あの人たちが言うには、ただ、ダンジョンの中に直接植えるだけでは、リポップする植物はできないんだそうです」
それを聞いた斎賀は、がっくりと肩を落とした。
「この技術をどうするつもりかっていうのは、そういうことか……」
「わかっていただけましたか」
「……あいつら、世界の食料市場を牛耳るつもりでもあるのか?」
「課長、あの人たちに、そんな目的があるわけないでしょう。だってそれは――」
「「面倒だから」」
同時にそう言うと、二人は疲れたように深いため息を、これまた同時につきあったのだ。
144 レディキラー 2月5日 (火曜日)
「おはようございます!」
やたらと爽やかな知らないイケメンが、モニターの向こうで挨拶をしている。白い歯にエフェクトがかかりそうな勢いだ。
「誰だこいつ? 三好、知ってるか?」
「さあ? 何かのセールスでしょうか」
三好も初めて見る顔らしい。
あまりにあけすけにドアの前まで来たので、アルスルズたちも反応対象外だろう。
「はい。どちらさまでしょうか?」
「私《わたくし》、日本ダンジョン協会の庶務課からまいりました、雨宮祥と申します」
庶務課?
「あ、ただいまちょっと取り込んでおりますので、少々お待ちください」
「はい」
そう言って俺たちは、こちらからの音声を切った。
「なあ、あれって……」
「基金関係の刺客ってやつですかね」
「刺客ってな……で、本物なのか? うちまで来るんなら、普通鳴瀬さんとかが連れてくるのが普通だと思うんだが」
「そうですね、今、一応画像を鳴瀬さんに送ってみましたけど、見てないと時間がかかるかもしれません」
「そういやお前、鑑定は? モニター越しにも鑑定ってできるものなのか?」
「しようとしたら、モニターの鑑定結果が出ましたよ。IPSとかTNとか表示されて、笑っちゃいました」
「ああ、なるほど」
考えてみれば当たり前だが、経験してみなけりゃすぐにそうなるとは思いつかないかもしれない結果だ。
「……って、ちょっと待て。鑑定ってダンジョン産の物質以外にも有効なのか?!」
「最初は、そうでもなかったんですが、しばらくしたらいつの間にかできるようになってました」
「ええ?」
「最近じゃ、時々美術品の作者や食品の産地まで書かれてることがありますけど、なんだか見る目がなくなっちゃいそうで嫌ですよね」
ああ、答えが書いてある看板が付いているんじゃ、感性を養うっていう意味ではマイナスなのか。
しかし、それが鑑定眼ってものだと考えれば、目茶苦茶見る目があるってことにもなるんじゃないかと思うんだが。
「それって、世界にDファクターが充満してきてるってことか?」
「単にスキルのレベルアップかもしれませんけど」
「区別は……できるはずないか」
「それより、この能力にも集合的無意識ってやつが関わっているとすれば、ステータスなんじゃないかと思うんですよね」
「INTか」
三好のINTは補正なしで75だ。パーティ補正が入ってるから、おそらく78から79くらいはあるだろう。俺を除けば、ダントツで世界一であることは間違いない。
「そうか。集合的無意識から情報を引き出すのにINTが関わるというのは、いかにもありそうだよな」
だから、自分の知識に無いことが、分かったり出来たりするってことか。
鑑定は、それをよりうまく利用するためのスキルだと考えれば、すべてがうまく説明できそうだ。
「先輩。それより今は、雨宮さんですよ」
ああ、そうか。
鳴瀬さんからの折り返しはまだない。
「ガラス越しはどうなんだ?」
モニター越しがNGなら、ガラスを通すと、ガラスの鑑定結果が出たりするんだろうか? サファイアガラスだとかフッ化カルシウムガラスだとか。
「透明や半透明の物体の場合は、それを鑑定するのか、奥にあるものを鑑定するのかは認識次第っぽいですね」
「そりゃ、便利だな」
「先輩も取ります?」
「鑑定は、うちでも狙ってゲットするのは大変だからなぁ……」
何しろ唯一確実なルートは、館で追い回され始めた後なのだ。今や、館を登場させるのも大変だろうし。
三好は、居間の窓に近づくと、そこからちらりと男を鑑定しているようだった。
「先輩、先輩。これ」
、、、、、、
雨宮 祥 29.0 / 22.6 / 1 / 12 / 12 / 12 / 11 / 2
日本ダンジョン協会振興課職員
レディキラー
、、、、、、
「おお。なんか表示が増えて……最後のこれはなんだ?」
「ねー。ステータスはなかなか優秀ですけど」
普通に考えれば、STRは11で、LUCは12なんだろう。確かに優秀だ。トータルで考えれば、人類の上位十%には入りそうだ。ダンジョンでステータスが増えた人間を除いて。
しかし最後の称号?が……
「……この情報が、件の集合的無意識から引っ張り出されてきているものだとしたら、ある程度多数の人間がそう思ってるってことか?」
「本人の意識から出て来た本性、なんてこともあるかもしれませんけど……ともあれ、まさか本物の殺人者、なんてことはないでしょう」
ここは一応日本ですし、と言いながら、三好の目が面白そうに笑った。こういう時はろくなことが――
「先輩の称号、知りたいです?」
「聞きたくない。いいか? 絶対に話すなよ?」
俺は被せるようにそう言うと、慌てて言葉を継いだ。
「ま、まあ、本人だってことは分かったから、話だけは聞いてみるか」
「了解です」
そうして俺たちは、彼を居間へと迎え入れた。
玄関へと向かいながら、三好が、「残念。格好いいのに」と呟いていたのが聞こえたが、こいつの格好いいは、ちょっと危険な香りがする。耳をふさいでおくのが吉だろう。
、、、、、、、、、
東京赤坂にあるマンションの一室では、昨日日本ダンジョン協会で斎賀にあしらわれたと感じていた葉山が、いまだに憤慨していた。
「くそっ、どいつもこいつも。どうして俺の言うとおりに動けんのだ!」
参議院議員とはいえ四期目ともなれば、りっぱに保身と利権にたけた妖怪ができあがる。
しかし、二十年も先生と言われ続ければ、多少のおごりやゆるみが出ても仕方がないのかもしれない。葉山も自分が声をかければなんでもその通りになると考えている節があった。
「俺がこれほど日本のことを考えているというのに」
彼が日本のことを考えているというのは嘘ではない。ただそれが独りよがりで、矮小な動機に基づいているというだけだ。つまりは、ヒーローになりたがっている子供と同じようなものだ。
その時隣の部屋にいる秘書が、部屋をノックした。
「先生、陸連の浦辺様からお電話ですが」
「陸連? おらんと言っておけ!」
「……承知しました」
二日前、葉山が明日にも席を確保してやると豪語したため連絡を待っていた浦辺だったが、翌日どころか翌々日になっても連絡がない。
他の委員にもそれを吹聴した手前、さすがに不安になって、確認の連絡を入れて来たのだろう。
「くそっ。陸連の連中も、まだ二日目だというのに!」
二日前、陸連の浦辺が菓子折りを持って事務所を訪れたとき、彼らの言うことなど造作もなく思えた。
なにしろ、バックもなにもない個人が始めたスポーツジムもどきの席の一つや二つ、自分が声をかければ二つ返事で喜んで明け渡してもらえて当然だ。
自分とのコネができるなら、涙を流して喜んでもおかしくない。そのはずだった。
だから、それなりの土産を持ってきた浦辺には、よっしゃよっしゃ任せておけとばかりに、安請け合いしたのだ。
しかし連絡させてみれば、電話もメールもまるでなしのつぶて、メールの返事はおろか、電話に至っては、呼び出し音が鳴るばかりで留守番電話にすらつながらないありさまだ。
古巣の文科省を通じて、スポーツ庁からも連絡させてみたが、状況は同じだった。
聞けば、日本ダンジョン協会が彼《か》のパーティに、専任管理官をつけているらしい。業を煮やした葉山は、自ら日本ダンジョン協会にまで出向いてみたのだが――
「あの、わからずやめ! 議員は国民の代表だぞ。忖度して融通を聞かせるのが当たり前だろう!」
「おやおや、先生。荒れてらっしゃいますね」
ドアを開けた隙間から、妖艶な雰囲気をまとった女性がこちらを覗き込んでいる。
「欣妍《シンイェン》? なんでここへ」
「いやですよ、先生」
そう言ってシンイェンは、薄い封筒を葉山に手渡した。
おそらくたまりにたまっているはずの請求書だろう。彼女が直接やってくるということはそういうことだ。請求に特別なサービスが含まれているときは、なおさらだ。
葉山はそれを無造作に受け取ると、中身を確認もしないで机の上に放り投げた。
今すぐ支払うつもりはないという意思表示だ。
それを見た彼女は、獲物追い詰めるヒョウのようなしなやかさで、机に近づいてくる。
「そういえば先生。今、話題のダンジョンブートキャンプにかかわってらっしゃるんですって?」
机の角に、腰のラインを見せつけるように座りながら、彼女がそう言った。
「政界だか官僚だかスポーツ界だか知らんが、口が軽いな」
当然彼女の顧客にはそういう男たちもいるだろう。
葉山は、自分の行動の派手さを棚に上げて、そう考えた。あれほど派手に動けば誰にでも筒抜けのはずだ。
「どうやら、うまく行ってないようですね」
シンイェンは、フフフと手の甲を口に当てて笑うと、「先生も今年は改選でしたっけ? 大変ですねぇ」と、からかうように言った。
「お前には関係ないだろう」
実に忌々しい女だ。ベッドの中以外では。
「なら、いっそのこと先生が仕切られては?」
「なんだと?」
彼女は、机の上に上半身を乗り出して、形の良い胸を強調しながら、口角を上げた。
「うちのものが一人、件のキャンプに潜り込んだんですよ。契約上プログラムの内容を他人に話すことは出来ませんが、自分で再現することはできるそうです。素人が作ったNDAだということですよ」
「ほう」
どうやってあの抽選を潜り抜けたのかはわからないが、男を手玉に取って生きているような女だ。そういう手段を持っていてもおかしくはない。
そう言えば、Dパワーズの片割れは男だったか。
「それで、俺にどうしろというんだ?」
「お話が早くて助かります。先生には、投資と宣伝をお願いしたいですね」
「宣伝?」
「今、大のお得意様から依頼を受けてらっしゃるんでしょう? 一石二鳥というものじゃありませんか」
確かにスポーツ界からブートキャンプの席を確保するように要請されている。
それがうまくいかなくてイライラしていたわけだが、同じサービスを立ち上げてそこに呼び込んでしまえば、面子も立つし金も儲かるというわけか。
まさか尽力してはみたが、相手にもしてもらえなかったとは言えるはずがない。
「俺の名前が前に出るようなのは困るぞ」
「それはもう。ただしスポーツ界からお客は引っ張ってきてくださいよ」
「そこは任せておけ」
「それと――」
「なんだ?」
「ステータス計測デバイスが必要なのですが。手に入りますか?」
そういえば、今年の二月一日以降電気用品にはPSE(電気用品安全法)マークが必須になる。
ステータス計測デバイスは、まだ市販されていないし、まったく新しい製品だが、電気を使うことに変わりはないだろう。
PSEマークは自主検査だが、その新規性を盾にサンプルを提出させることは出来るかもしれない。
しかし、それを横流しして、事業に使っているなどということがばれたらただでは済まないだろう。
「サンプルを手に入れることは出来るかもしれないが、それを使って事業をするのは無理だな」
「では、発売日に手に入れるというのは?」
「それくらいなら、なんとかなるだろう」
さすがにその程度のコネはどうにでもなるだろう。
「ではよろしくお願いいたします。投資の方は……」
「銀行に連絡はしておくが……あまり、調子には乗るなよ」
「ありがとうございます」
「開始できるめどが立ったら、窓口を連絡しろ。陸連あたりに繋いでおく」
話がまとまり、シンイェンが、するりと机の上から床に降りると、葉山は机の上の封筒を彼女に向かって滑らせた。
「なら、こいつは経費だな」
シンイェンは、顔色を変えずにそれを受け取ると、「ごきげんよう」とドアの方を振り返り、モンローウォークを見せつけながら出て行った。
内心で、このケチおやじとののしっていたとしても、それを一切感じさせず、なまめかしい余韻だけを残して。
「ふん。食えん女だ」
そう吐き捨てるように言うと、受話器を上げて、浦辺の番号を呼び出し始めた。
、、、、、、、、、
市ヶ谷からタクシーに乗って、新宿三丁目のマルイアネックスの前で降りた寺沢は、道路を挟んで立っている黒い外壁に赤いラインの入った、モダンなデザインのM&Eスクエアビルを見上げた。
道路を渡って、エレベーターに乗り込み2層で降りれば、そこには珈琲貴族という変わった名前の喫茶店だ。
店内に入って見回すと、店の最奥、喫煙席のどん詰まりで、一人の男が手を挙げていた。
「よう、篠崎。久しぶり」
寺沢が声をかけた男は、少し無精ひげを生やした細めの男だが、よく鍛え上げられているようで、シャープな印象を身にまとっていた。
「突然電話が来て驚いたよ。五年ぶりくらいか?」
注文を取りに来たウェイターに、コロンビアを注文した。
酸味のあるバランスの取れたコーヒーが彼の趣味だが、エジンバラのコロンビアは強い甘みと深いコクも兼ね備えた、なかなかの逸品だ。
「もうそんなになるか」
篠崎充《みつる》は、寺沢と比較的仲の良かった同期だったが、自衛隊を退職した後、探偵業に鞍替えした変わり種だ。
「で、今日はいったいどういった要件だ? 旧交を温めに来たってわけでもないんだろ?」
相変わらずせっかちな男だと、内心苦笑いしながら、寺沢は机の上にハンカチを敷くと、直径が十センチ弱程ありそうな鉄球を取り出した。
「こいつの出所が知りたいんだ」
「出所? 制作した会社ってことか?」
「そうだ」
それを聞いた篠崎は、あきれたような顔をした。
「テラよ、俺んところは探偵事務所だぞ。探偵っつーのは、個人を対象にした調査業務を行う仕事なんだよ。探偵はスパイじゃないんだ。取引先の情報の調査なんて、業務の範囲外だよ」」
寺沢は、これも最終的には個人を対象にした調査なんだがなと思いながら、言葉を継いだ。
「企業の信用情報を調べる際、取引先も調べるだろ」
「そりゃそうだが、企業の信用情報を取り扱うのは探偵じゃなくて興信所の仕事だ」
探偵事務所と興信所は、その成り立ちに違いがある。
興信所は本来、信用情報を調査する仕事で、探偵は個人の調査を行う仕事だ。現代なら、主に浮気調査だろうか。
「探偵業法上は同じじゃなかったか?」
「そりゃまあそうだが、専門性ってものがあってだな……」
二〇〇七年に施行された探偵業法では、興信所も探偵事務所も、探偵業務を行うものとしてくくられた。
つまり、法的に区別はないことにされたため、名前の違いは社長の趣味にすぎないということになってしまったのだ。
「その辺は、横のつながりってやつがあるんだろ? どこへ持って行けばいいかなんて、俺たちにはわからないからな、頼むよ」
専門外の仕事を、より専門的な事務所に請け負ってもらうなんてことは普通にある。
それに、そういう互助的な手段がなければ、沖縄で受けた個人の調査が、北海道に波及したりしたときコストがかかりすぎる。そういう場合は北海道の同業者にお願いすることになるのだ。
「頼むよったってなぁ……こういうのって、情報保全隊あたりに頼めばいいんじゃないのか?」
「三年前の高裁判決以来、いろいろと一般相手の調査活動はちょっとな……」
二〇一六年仙台高裁で、自衛隊による情報収集活動を巡る国家賠償請求訴訟が行われ、日本共産党所属の地方議員四人と社会福祉協議会職員一人に対する自衛隊の監視活動が違法だとの判決が出されたのだ。
「そもそも、調査していることをマルタイに使えるとき、なんていえばいいんだ? 防衛省に頼まれましたじゃ、事が大きくなりそうだが、いいのか?」
「そこはそれとなく探ってくれれば」
「どうやってだよ?!」
「そりゃ、お前の専門だろ」
「……あのな、マルタイが、お前、か、防衛省か知らないが、調査を依頼する側に対する契約や事件の当事者でない限り、調査することは伝えなきゃ法律違反なんだよ」
「防衛省が、犯罪や不正行為による被害を受けていたとしたら、問題ないだろ?」
「そりゃ警察の仕事だろうが。民事で済ますようなことか」
「ま、その辺は何でもいいんだが」
「何でもよくねーよ! 俺たちは民間のスパイ組織じゃないの! ちゃんとした企業なの!」
篠崎の剣幕に、寺沢は笑いながら、運ばれてきたコロンビアに口をつけた。
「まあ、それはともかく、これってどうやって調査すればいいと思う? 圧造できるメーカーなんか相当あるだろう?」
篠崎は、ともかくじゃねーよと、ぶつぶつ言いながら、それでも彼の質問に答えた。
「購入した相手は個人なんだろ? なら、ネットで『鉄球 販売』あたりで検索を掛けて、ヒットした上から十件の会社を調べるだけで十分さ。おそらく数件で見つかる可能性が高いな」
「なるほど」
ネット時代ならではだな。昔なら職業別電話帳ってやつか。
「逆にいえば、それで見つからなきゃ、こんなの見つけられっこないだろ。警察なら別かもしれないが」
「警察ならどうするんだと思う?」
「今言った方法で片っ端から電話をかけるのが基本だろうが、そいつの居住地がある程度絞れるなら、そこから手繰れば、個数によってはすぐわかるんじゃないか? 宅急便は寡占事業だからな」
「なるほどな。ともあれ、やれるだけはやってみてくれよ」
「お前な……」
全然話を聞いてない寺沢の言に、篠崎は諦めたように肩を落とした。
「で、これって、省からの依頼なのか? それともお前個人の? どっちにしても予算ってものがあるだろう」
「そうだな……当面、どこからにしろ、うちの報償費に機密費枠があるから予算は大丈夫だ」
「え、お前、そんな偉いポジションにいるわけ? 二佐になったばかりだろ?」
「まあ、日本ダンジョン協会G(ダンジョン攻略群)は歴史の浅い組織だからな。いろいろあるのさ」
「いろいろね……聞かない方がよさそうだ」
篠崎は、テーブルの上に置かれた鉄球を指さした。
「それで、この鉄球は預かっていいのか?」
「ああ、よろしく頼む」
「払いは弾めよ」
「そこはお友達価格で」
「馬鹿言え、こんな面倒を押し付けやがって、たっぷりと請求してやる」
彼は、そう言って笑いながら鉄球を自分のバッグへと入れた。
それが仕舞われるのを待って、寺沢が口を開いた。
「あともう一件調べてほしいことがあるんだ」
「なんだよ」
「防衛省人事教育局の局長に接近している企業か団体、または個人を洗ってほしいんだ」
「ほう」
「なんだ、驚かないんだな」
「こっちは、ちゃんとした探偵業務だからな。要するに一定期間局長に張り付いて、接触した人間のリストを作ればいいんだろ? で、目的は?」
目的が分からなければ、出会った人間すべてを調査することになる。それはいかにも無駄だ。
「目的か……そうだな」
そこで寺沢は、日本ダンジョン協会Gで発生した不可思議な査問についての話を要約して伝えた。
「ふーん。そのファントムとやらの存在を特定したい誰かからの接触があったかどうかを知りたいわけか」
「そうだ。ただの好奇心にしちゃ、どうにもやり口がな。局長あたりに不正な企業との癒着が見つかったりしたら、ちょっとしたスキャンダルだろ」
「そうなる前に、隠蔽する?」
「まさか。問題になる前に、いさめたいだけさ」
「わかった。とりあえず一週間でいいな。局内であった人間を特定するのは無理だぞ」
「そっちは別口でなんとかする。だが、調査相手の告知義務はいいのか?」
「事件の当事者なんだろう?」
そう言って篠崎はニヤリと笑った。
「かもな」
そうしてかれらはしばらく雑談をした後分かれた。
寺沢は、田中に調査を依頼することも考えたが、後ろにいるのが内調の可能性もあったので、独自に調査しようと考えたのだ。
「どこが相手でもいいが、正しい情報なしで判断を誤るのは御免だ」
そう言うミスで部下を失うのは最低だ。
寺沢はそう呟くと、新宿を後にした。
、、、、、、、、、
その日、衆議院予算委員会が散会し、官邸で官房副長官と共に外務省の面々と四十分ほどの打ち合わせを済ませた井部総理は、十七時三十分現在、村北内閣情報官と面会していた。
「葉山議員がDパワーズにもの申した?」
「どうやら陸連あたりの陳情で動いたようですが、連絡が取れないイライラもあったのか、随分高圧的な接触だったそうで、日本ダンジョン協会からもダンジョン庁に苦情が入っています」
「Dパワーズというと、あのDパワーズか? 異界言語理解の?」
「はい」
井部は右手で顔を押さえて、執務室の椅子に深く体を預けた。
「あの、オッサンは……」
「次の参院通常選挙は、確か改選のはずですから」
「ああ、七月か……それにしたって、あの件以降、我々がどんなに注意を払って接触をコントロールしているのかわからんのか、あの人達は」
「中枢にいる人間以外には、極力知られないようにしていますから、さもあらんと言ったところでしょう」
「諸外国からの圧力は、増えこそすれ、一向に減らん。いまや代々木は探索者のサミット会場と化しているありさまだ」
「国家間の外交とは別に、世界ダンジョン協会を中心としたダンジョン外交が始まっていると結論づける研究者もいるようです」
「アメリカやロシアのトップ探索者と接触があったという話は聞いている」
「田中も苦慮しているようです」
「本当ならすぐにでも囲い込みたいところなんだ」
「民間人の行動を不当に縛ると支持率を落としますよ」
「SNSってやつは、我々にとっちゃ劇薬だな」
「毒にもなれば、薬にもなるでしょう?」
「圧倒的に毒だけだよ」
彼は力なく笑っていった。
人間が平等だというのは美しい考え方だが、現実にはあり得ない。
仮にチャンスが平等に与えられていたとしても、人の能力や運が横並びになることはない。
しかしSNSはその思想を背景に、人々に不満をつのらせる悪魔のツールだ。幸せが、個人の心の持ちように左右される以上、世界には知らなければ幸せでいられることにあふれているのだ。
「なんてことを考えちゃ、政治家は失格だな」
「は?」
「いや、それならどうするのがいいと?」
「放置して日本ダンジョン協会に便宜を図っておくのが、国益を最大にする最高の手段だと報告も上がっています」
「そのレポートは読んだ。意味はわからんがな」
そう言って、思い出したように、机の上で指を組み合わせると、身を乗り出して言った。
「どこから聞いたのかは知らんが、日本がダンジョンの向こう側と独自に接触したのではないかという探りを入れてきた国もあったぞ」
「もしも本当なら、ダンジョン技術の独占に繋がりますからね」
「オーブのオークションはその成果じゃないのか、だとさ。で、それは事実なのか?」
「分かりません。ですが、田中が接触した自衛隊の寺沢という男は、でたらめとは思えないという感想を漏らしたそうです」
「またやっかいな……」
「そのような事実は確認されていないと、とぼけておくことをお勧めしますよ」
「他に出来ることもないからな。あまりのことに、この後喋らなきゃならない台詞を忘れそうだ」
「この後何か?」
「G1サミットのビデオ撮りの後、ニューオータニで正論大賞の贈呈式だよ。今回は初のダブル受賞らしい」
「それはそれは」
内閣情報官の報告は、丁度三十分足らずで終了した。
日本の総理の一日は、まだまだ終わらない。彼は数分でビデオ撮りを終えると、ニューオータニへと向かった。
145 アイボールの水晶 2月6日 (水曜日)
二日前はあんなに暖かかったのに、この日は今にも泣き出しそうな空が、昼からの冷たい雨を想像させた。
キャシーは今日も代々木で頑張っているはずだ。
どこにも出かける気が起きない、こんな天気の日は、部屋の窓から、肩をすぼめて足早に会社へと急ぐ人たちの群れを見ながら、優越感に浸れるのが会社に縛られない人間の数少ない特権だ。
その際、「くっくっく、愚民どもめ。この寒空に、ご苦労なことだな」などと呟くと臨場感が――
「先輩。いくら若く見えると言っても、そろそろ若者とは呼ばれない大台に乗るんですから、そういう遊びは卒業された方がよくないですか?」
「お、大きなお世話だ。男はいくつになっても少年の心をだな――」
「はいはい。そういうのは五十代くらいの渋いおじさまになってから言うとかっこいいですよ。若いうちだと、ただのピーターパンシンドロームで片付けられちゃいますからね」
「ぐぬぬ……」
しかし、いかに少年の遊び心とはいえ、愚民どもめなんて真面目に言っていたとしたら、それはかなり危ない人だ。しかも拗らせたやつだ。
円熟した大人であるはずの俺は、仕方なくパソコンの前に腰かけた。
会社には書類仕事ってものが必ずある。
日ごろ時間があれば、代々木の一層でこそこそとスキルオーブをためている俺にとって、外へ出たくない日はそれをこなさなければならない日なのだ。
しかもここのところ悪天候の日があまりなかったので、それなりに溜まっていた。
「いや、まてよ。俺って社員じゃないんだから、書類仕事なんてする必要が――」
「契約社員やアルバイトでも書類仕事はするんですー。余計なことを考えてないで、さっさとたまった書類を片付けてくださいよ」
あう。おかしい。俺のグータラ生活はどうなってしまったんだ。
グラスだかグレイサットだかが、我が物顔で、応接セットのソファの上で丸くなっている。まるであちらが主人のような優雅さだ。実にうらやましい。
時折ロザリオが飛んできて、肩の上にとまっては、モニターとキーボードを眺めている。頭の上に留まらなくなったのはよかったのだが、なんだか見られてるって感じが強くて、結構気になる。
考えてみれば、こいつはキメイエスの能力を引き継いだ、隠れた何かを見つけるための『目』みたいな存在だもんな。見るのが仕事みたいなものか。
「なんだよ? なにか面白いか?」
俺は顎を引いて肩の上にいるロザリオに、なんとなく話しかけた。
なにしろ元はと言えば人間?だ。言葉が分かってもおかしくは――
俺の言葉を聞いて、ぴょんと飛び降りたロザリオは、キーボードの上を、てててと渡っては、ちょんちょんとくちばしでキーをつついた。
「は?」
それだけならただの悪戯だが、使っていたテキストエディタの上には、意味のある文字列が並んでいた。
『おもしろい』
「お、おい。三好……」
「どうしました?」
画面を見て固まっている俺を見た三好が、自分の席を立って、俺の席まで移動して来て、モニターを覗き込んだ。
「何が面白いんです?」
俺に向けられたその質問を、自分宛だと解釈したのか、ロザリオは、またちょんちょんとキーボードをつついていった。
『ひとのいとなみ』
「はいー?」
流石の三好も、小鳥が101キーボードをつついて、ローマ字で日本語を入力するとは思っていなかっただろう。
「どう思う?」
「この事務所で、なにかをこっそりやるのは無理だってことだけはよく分かりました」
「小鳥がキーボード入力するのを見た人間の感想としては、なかなか斬新だな」
「アヌビスだって喋りますからね。いまさらってもんでしょう」
「いや、脳のサイズが違うだろ」
「脳のサイズなんて。どうせ、集合的無意識たるダンツクちゃんにパスが繋がってたりするんでしょ?」
「それにしては、アルスルズたちは、わふー? とかいいながら首をかしげてばっかりだったぞ」
俺がそういうと足下からドゥルトウィンが顔を覗かせて、鼻面で俺の足を押した。なんだよ?
ロザリオが地面に下りて、ドゥルトウィンと鼻面を突き合わせていたかと思うと、もう一度キーボードに乗っかって、文字を入力した。
『ひとのことなんかきかれてないって』
「集合的無意識部分は人類の知見ですからね。人のことを聞いていないんだから、そんなのあってもなくても変わらないって言いたいんでしょうか」
それを聞いたドゥルトウィンは、こくこくと首を縦に振っていた。
「いや三好……ロザリオとドゥルトウィンが意思を疎通させたところに驚けよ」
「だから、いまさらですって」
いや、そうだけどさー。ここは二〇一九年初頭の日本だぞ?
犬と小鳥が言葉を交わして、それをローマ字入力で人間に伝える? そんな話をしたら、頭がお花畑な人扱いされることは確実だ。
「じゃあ、お前らって、Dファクターが勝手に収集した人類の集合的無意識みたいなのに繋がってるわけ?」
俺がドゥルトウィンにそう聞くと、彼は、んーっと頭をかしげた後しばらくして、首を捻りながら頭を縦に振るという器用な頷き方をした。
「よくわかんないけど、なんとなくそんな気がしないでもないってことか?」
「私たちの脳に、何かそう言った外部の拡張メモリみたいなのがくっついているとして、何かを思い出したときに、それが外部のメモリにあったのか自前の脳にあったのか区別できないって感じですかね」
「俺たちの記憶だって、大脳のどこにあるのかなんて普通意識できないもんな。それと同じで、思考がシームレスにインターネットに繋がってるみたいな?」
「それは雑音が多そうですね」
しかし、そういうことなら、こいつらがいきなり日本語を理解したことも分からなくはない。
俺はもっとファンタジー的な、召喚主と使い魔の繋がりみたいなものを想像していたが、前者の方がずっと科学的っ「ぽい」。
実際は、どちらもトンデモであることに変わりはないんだけれど。
「まてよ、集合的無意識への接続? ダンジョン研究者は大抵Dカードを持ってるぞ……って、それって、産業スパイなんかやり放題なんじゃないか!?」
データベース自体に言ってはいけないなんて意識はない。クエリーが送られて来さえすれば、愚直に結果を返すのみだ。
「先輩、よくそんなこと思いつきますね……」
三好が呆れたように言って、ジト目でこちらを睨んでいる。
「もっとも、何を研究しているのか分からなきゃ質問内容も決められないし、具体的なデータを取り出すのは、茫漠たるデータの海から一本の針を探すようなもので、なんらかの検索テクニックが必要になるだろうが……」
俺はじっとドゥルトウィンを見つめていた。
彼は、んー?と首をかしげて、ハッハッと、普通の犬のように舌を出していた。キミたち汗腺とか体温調節とかと無縁じゃないの?
最近行動が、ますます犬化してる気がする。そのうちマーキングとか始めたらどうしよう。
「先輩、阿漕なことは止めて下さいよ」
「え? あ、ああ。三好じゃあるまいし。俺はちょっと、『じゃあ俺たちのことも集合的無意識の中には存在していて、誰かがそれを引き出そうと思えば引き出せるんじゃないか』と考えてただけだ」
先日考察した通り、もしかしたら鑑定もこのカテゴリーに属するのかもしれないが、あれはスキルに対して自由に質問ができるわけじゃないから、そういう意味での危険性は低いだろう。
「人類がそれに気軽にアクセスするインターフェースを手に入れたら、『秘密』という言葉の意味が変わるかも知れませんね」
「インターフェース?」
俺はドゥルトウィンを見て、机の上のロザリオを見た。
「召喚魔法を売るのはヤメ」
「仕方ありません」
現代の社会は、それを受け入れる体勢になっていない。それどころか、いつまでたっても受け入れる体制ができるとは思えない。
もっとも、取りに行かなきゃ在庫もないんだが。
「なんだかちょっと不安になってきたぞ。闇魔法(Y) ってどのくらいの確率だっけ?」
「二億八千万分の一ですよ、確か」
バーゲストを二億八千万匹狩るのは骨だろう。
多分しばらくは大丈夫だし、アヌビスみたいなのは普通呼び出せないはずだから、呼び出されたとしても猶予はありそうだ。
「だけどいずれはそこに行き着くよな?」
「グローバリゼーションの加速って意味では、ネットを上回りそうな勢いですから」
リックライダーが『人間とコンピュータの共生』を発表してから九年、UCLAのSDS Sigma7が初めてARPANETに接続されてから、ヴィントン・サーフがARPANETのレクイエムを書くまでに21年が必要だった。
その後、わずか五年で後継たるSNFNetは民間に移管されて、商業利用が始まることになる。後は皆の知るところだ。
「インターネットの進化も、ほとんど幾何級数的に加速しました。ダンジョン開発も、ある境界を越えたら一気にそうなるかもしれません」
「探索者をインターネットのノードだと考えれば、食糧ドロップ問題で一気に増加が加速した感はあるよな」
「あとはステータスによる能力の上積みが、上昇志向と非常に相性がいいですからね。ブートキャンプの申し込みリストを見ても、人類カーストの上位を目指そうとする人で溢れてますよ」
「能力は個性でカーストじゃないんだ、って言ってもだめだろうなぁ……」
「先輩がそれを言うと、ただの上から目線になっちゃいますよ」
偶然手に入れたステータスのポイントだけでここまで来た俺のセリフじゃ、説得力はない。
「ステータスの数値化だけならともかく、スポーツは記録という形で、事実上の上下関係が生まれていますからね。ほら、こんな要請メールが届いてますよ」
三好が見せてくれたのは、スポーツ庁からのメールだった。
「お願いじゃないのか?」
「ほぼ要請でしたね」
迂遠で丁寧な言葉で書かれたそのメールは、要約すればダンジョンブートキャンプ内に、日本スポーツ界の予約席を設けていただきたいという要請だった。
「こういうのも利権になるのかな?」
「陸連や、水連みたいな、各種スポーツ団体からのメールも数多く届いてますけど、内容はほぼ同じでした」
「例の、高田・不破現象?」
「おそらく。ですけど、ダンジョンにまともに潜ったこともないような人を推薦されても困りますから」
「無視するしかないよな。目を付けられるのは困るけれど、効果が生まれない人員を送りつけられて、効果がないぞと罵られるのは嫌だ」
「ですよねぇ……なんか議員さんあたりからも直接同じ話がきてましたよ」
「議員?」
「えーっと、何て言ったか忘れましたけど、参議院議員の方でしたね。『日本のために』とか強調してらっしゃいました」
「そういうメンドそうなのは、スルー」
「ラジャー」
三好は気をつけのポーズをとると大仰に敬礼して、タブレットのメールをゴミ箱へと放り込んだ。
「で、なんの話だっけ?」
「おじいさんや、僅か数分前のことですよ」
「うっせ」
三好は、からかうようにそう言うと、話を元に戻した。
「いずれ人類が、集合的無意識へのインターフェースを手に入れるかもって話でした」
「あ、そうか。なら、今のうちに、集合的無意識の利用ガイドというか、倫理プログラムみたいなのでインターフェースくんを教育してだな――」
俺はドゥルトウィンの頭をポンポンと叩いた。
「――新たなるインターフェースが生まれるときに、それが適用されるようになれば、将来の混乱を避けられるんじゃないかってことだよ」
「インターフェースが、情報へのアクセスをモデレートするんですか? うーん、それってどうなのと思わないでもないですけど……それに、教育はともかく、新規のインターフェースに対して強要できますか? そんなこと」
「強要っていうか、勝手に適用されるんじゃないかと思うんだ。モンスターの性質を見ていると」
例えばスライムの弱点が定義された瞬間、それはすべてのスライムに適用されるようになった。
これが思い込みでなければ、インターフェースになりうる召喚された連中に共通の何かを仕込むことができるかもしれない。誤解を恐れずに言えば、それは倫理観と呼べるものに違いないが――
「インターフェースに倫理観を植え付けようとか、正気の沙汰とは思えませんね」
「まったくだ」
「メイキング様の力で何とかしちゃうとか」
「そんなことができるのか?」
「所有者がこれですからねぇ……」
そう言って笑いながら、三好は、タブレットのメールを確認しつつ、自分の席へ帰ろうとしてはたと固まった。
「どうした?」
三好は、ギギギと音を立てて振り返ると、嫌そうな顔をしながらタブレットを俺に差し出してきた。
何事かとそれを受け取って、内容を確認した俺の視線の先には、三ヶ月前に退職した会社からのメールが表示されていた。内容は――
「以前、協力は断ったんじゃなかったか?」
「そりゃもう、やんわりと」
「じゃあ無視してもいいんじゃね?」
三好は複雑な顔をして、一言だけ口を開いた。
「まあ、読んでみてくださいよ」
俺はその結構長いメールをスクロールして読み始めた。
「真超ダンジョンとの共同研究?」
「一月の始めの頃に、真超Dからの依頼メールも貰いました。というか、国内外の主要ダンジョン産業企業からは、ほぼ全部メールを貰ったんじゃないかと思いますけど……」
「さすがは賢者様。それで?」
「全部一律にご免なさいしましたよ。どこかに協力したら、他の企業から恨まれますって」
「全部に協力することは、不可能だしな」
「まったくです。お願いする方は自分の所だけでしょうけど、される方はDDoS攻撃を受けてるようなものですから」
「業界のドラフト会議が欲しいって?」
「自分の人生を、他人のくじにゆだねるのはお断りです」
「ははっ」
ともかく北谷《ほっこく》は、真超ダンジョンから共同研究を持ちかけられたらしい。
「しかし最先端にいる真超Dが、なんで後発の北谷マテリアルと?」
「理由は、その先に書いてありますよ」
「なになに……え、俺たちのせいなの?」
その先には、俺たちが以前やっていた、ダンジョンアイテムの物性研究論文を読んだ真超ダンジョン側が提携を持ちかけてきたことが書かれていた。
「なんだよ。見る人は見てるじゃん」
お荷物だなんだと散々言われて、応用研究へ舵を切らされたときはがっくりしたものだが……
「先輩、ちょっと感動してるでしょ」
「……あー、まあな」
もちろん今となっては、ダンジョンアイテムの物性研究よりも、Dファクターを取り扱う研究にシフトするべきじゃないかと考えているが、それでも基礎研究は重要だ。
そういった新しい知見だって、基礎研究があってこそだからだ。
それを真超ダンジョンが見て、前の会社に提携を持ちかけた。
まあ、そこだけ聞けばいい話かもしれないが――
「あの論文。お前も名前を連ねていたよな」
「プロジェクトチーム全員の連名でしたから」
――真超ともあろうものが、俺たちが退社したことを調べもしないでそんなことをするだろうか?
「やっぱ、それかな」
「可能性は……高いかもしれません」
俺たちは、メイキングや収納系を始めとするスキルのこと以外は、特に厳密に隠しているわけではない。
調べる気になれば、前職のことだって簡単に調べられるだろう。保険や年金を追いかけてもいいし、税金情報を追いかけてもいいからだ。
単に北谷へ電話を入れて、客を装い、呼びだして貰うだけでも構わないだろう。
だが流石の真超ダンジョンも、俺たちが前職場の協力要請を一蹴していたところまでは知らなかったはずだ。
俺たちも一応大人だから、不満があっても、そういう部分を吹聴したりはしないし、記録に残らない領域だからだ。
「とはいえ、所詮は前職場の話だし、放っておいてもいいんじゃないのか?」
「先輩、その先を読んでくださいよ」
「その先?」
その先には、今回真超ダンジョンから持ち込まれた、調査対象の物質の概要が書かれていた。
そして、それを読んだ俺は、あまりの内容に目を丸くした。
「屈折率が、ななてんきゅう?!」
「凄いですよね。入射角が六十度なら、屈折角は六度くらいですよ」
薄型眼鏡レンズに使われる超高屈折率の、ポリメタクリル酸メチル樹脂だって、一.七台だぞ?!
永遠の輝き、ダイアだって二.四くらいだ。しかもこれ、液体だ……
「なんだ、この物質。ってか、こんな内容、メールで送ってきていいのか?」
企業秘密の中核にあってもおかしくないだろう。
「一応、うちの公開暗号鍵で暗号化されてましたけど」
「榎木らしくないな」
「それを言うなら、正直にこんな内容を書いてよこすこと自体が、課長らしくないですよ」
なんだろう、この違和感。
「だけど、それ、興味ありません?」
「興味があるかないかと言われれば、大いにある……だが榎木と仕事するのも、ヤツのために働くのもイヤだ」
「先輩は、意外とかたくなですよね」
「自分で思ってたよりも、根に持つタイプだったみたいだ」
自分では、もっとドライな性格だと思っていたが、意外に粘着質なところもあるようだ。ちょっと気をつけておこう。
「じゃ、何がドロップするんだと思います、それ?」
「何がドロップするのか分かっていないってことは、単純なドロップアイテムじゃないってことだな」
単純なドロップアイテムなら名称が表示される。
なんだか分からないってことは、アイテムのかけらか、分泌物か、そうでなければ混合物や化合物。可能性は数多くある。
「状況がはっきりしないから何とも言えませんけど、アイテムの一部か、何かが交じったものか……水に溶けた何かって線もありますよね」
「液体を分泌するってことになると、ぬるぬる系か? 昆虫や見た目両生類なモンスター」
「見た目両生類っていうと、二十一層のウォーターリーパーと、十一層のレッサーサラマンドラが代表格です」
「サラマンドラは精霊じゃないの?」
「見た目はサンショウウオですよ」
「そらまー、そうだが……ま、高屈折率って言うならまずは――って、何を検討してるんだよ! 榎木の仕事はしない」
「はいはい」
「はっ、そうだ。研究室の中にもDカードを所有しているやつはいるだろうから、詳しい状況はロザリオに聞けばわかるのでは」
「先輩。さっきインターフェースの倫理観がどうとか言ってませんでしたか?」
「しまった……ああ、人間というのはなんて弱い生き物なんだ」
両手を髪に突っ込んで、ハイリゲンシュタットで苦悩するベートーヴェンのようなポーズを大仰にとった俺を見て、三好はくすくす笑っていたが、急に真顔になって言った。
「でも、もしも本当にそれで分かったりしたら、世界中の諜報機関から狙われますよね?」
「エシュロンも真っ青ってところだもんな」
きっとDカード保有者は、国家元首になれないってルールができるに違いない。
議員もNGになる可能性すらあるだろう。
「世界中の政府が隠し事をしたり、嘘をつけなくなったら、世界はどうなっちゃうんでしょうね?」
「現代人はプライバシーがなくなったら死んじゃう生き物だからなぁ……正直者だけの楽園になるか、無政府状態で地獄になるかの二択だろう。今すぐそうなるって言うのなら、俺は後者に賭けるね」
「残念ながら賭けにはならないみたいです」
三好も同感だとばかりに、肩をすくめた。
少なくとも粛清の嵐が吹き荒れることだけは間違いない。
国連で、『プライバシーがなければ、表現と言論の自由は存在せず、したがって民主主義もあり得ない』と述べたブラジル大統領の言葉は正しいが、真に清廉潔白な政府なんて、先進国のどこにもありはしないのだ。
「その後は、Dカードを所有していない集団で構成された国が、世界をいいようにするだろ」
「もし、そんな国との間に戦争が起こったら、先輩はどうします? 作戦は全部つつぬけですよ?」
一見大変そうだが、実はこれには対策がある。
「そうだな。ゴブリンみたいな、弱っちいモンスターをけしかけるかな」
「はい?」
「それを倒したやつらは、全員Dカード持ちになるわけだ」
たとえ相手を殺さなくても、その国を構成するはずの、国民の数は激減だ。
「悪辣ですねぇ」
「人道的と言えよ」
戦争で、相手を殺したり、大きな怪我もさせずに戦力を減らすんだぞ? これを人道的と言わずして、なにを人道的だと言うのか。
「それで、人道的な先輩としては、もう七.九のことは忘れるんですね? 私は、高屈折率って言うならまずは、の続きが聞きたいですけど」
「そうか? まあ、あいつらの仕事と関係ないなら、検討すること自体は楽しいけどさ」
「じゃあ、高屈折率と言えば?」
三好のやつに、上手いこと乗せられた気がしないでもないが、実際問題興味はある。なにしろ屈折率7.9の液体だ。いろんな柵《しがらみ》をぶっ飛ばしてもお釣りが来るだろう。
「すぐに思いつくのは眼球だろ」
俺は自分の目を指差しながらそう言った。
屈折するということなら、眼球のレンズはその対象だ。水晶体みたいなものが溶けたものって可能性は大いにあるだろう。
「目玉なモンスターって言うと、モノアイとアイボールか?」
「サイクロプスなんかもありそうですが、代々木ではまだ見つかっていませんしね。モノアイも、あれだけ十層にいて、まだ見たことがありませんから結構レアですよ。アイボールは特定場所に大量にいますけど、あれ、なにか落としましたっけ?」
「確か水晶を……」
そう言って俺は、保管庫から、微かに青みがかかった透明な丸い水晶を取り出した。全部で五個持っていたようだ。
「普通のアイテムは、代々ダン情報局で結構鑑定しましたけど、浅い層のものが多かったですからね」
「うちも特殊なアイテムやオーブは鑑定したけど、使いそうもないやつは放置してたな、そう言えば」
大した質量でもないし、保管庫の肥やしになっていて、忘れ去られているアイテムは結構ある。
「とりあえず、これだ」
その水晶を、三好の前へと押し出した。
三好はそれを見て、さらさらとメモを書き付けていく。
、、、、、、
水晶:アイボール lens of eye-ball
アイボールの水晶体が固化したもの。
0.37%の塩化ナトリウム水溶液に触れると液化し、純水に溶ける。
、、、、、、
「え?」
俺は、三好が書き出した結果を見て思わず声を上げた。
前に見たときは、こんな詳細はなかったのにって顔だ。
「……一度、取得した全アイテムを鑑定しなおしておいた方がいいですかね」
「そうだな、鑑定スキルもレベルアップするみたいだしな」
「しかし、これはいきなり当たりってやつですか?」
「もともとヒトの水晶体は、水溶性蛋白質なんかからできてるって言うし……だけど、〇.三七%の塩化ナトリウム水溶液ってなんだよ。ピンポイントにも程があるだろ」
人間の大人の体を構成する塩の量の体重に対する割合が、〇.三から〇.四%と言われている。血中の塩分濃度は〇.八五%くらいだ。
「もしかしたら、アイボールの体内の塩分濃度が〇.三七%で、水晶体は液状化していて、自由に形を変えることでものを見てるとかですかね?」
人間を始めとする多くの陸生生物の水晶体は、筋肉で引っ張ることで、その厚みを変えてピントを合わせているが、液状化した水晶体の形状を変化させることでピントを合わせている可能性がないとは言えない。
「なんという不思議生物。だが、可能性はあるかもな」
「それなら、もし塩で弾丸を作れば、あっという間に倒せませんかね? 塩化ベンゼトニウムみたいに」
それでもしも水晶体が固まってしまえば、ピント調整ができなくなって、目が見えにくくなるだけだろ。とは言え、そううまくはいかないと思うが。ともかく――
「水魔法でもあっという間だったろ。塩で弾丸を作る方がよっぽど大変だよ」
マンガのネタじゃあるまいし、そんなものを作っているメーカーはない。
結構前にクラウドファンディングで作られたBUG−A−SALT(なんつー駄洒落だ)は塩を撃ち出すが、弾丸というより塩そのものだからダメだろう。
「それに、溶解じゃなくて、液化だろ? 液化している水晶は、多分濃度が変わってもそのままなんじゃないかな」
いったん液化した物質が、固化するためには、なにか別の条件があるような気がする。
「そのこころは?」
「考えても見ろよ。真超Dへ持ち込まれるアイテムは、探索者から買い取ったもののはずだ」
「でしょうね」
「もしも、持ち込まれた水晶が液化したんだとしたら、アイテムリストから水晶がなくなるから、原因は一目瞭然だ」
「そう言われれば、なぜ特定できていないのか、確かに不思議ですね」
「つまり、これをゲットした探索者たちは、昼飯にゆで卵でも食べたのさ」
「はい?」
いきなり何を言い出すんですかと言った体で、三好が小首をかしげた。
「ゆで卵でなけりゃ、弁当にごま塩が付いてたってことでもいいぞ」
「それがアイテムを入れた袋の中にこぼれた?」
「そうだ。ビニール袋でくるむなんてのは、普通にやるだろ? そうして、雨が降った。それが袋の中に少しずつ入ったとして塩分濃度はどうなる?」
「最初は濃いでしょうね」
「その通り。そうしてそれが雨の流入と共に段々薄まっていき、ある時偶然0.37%になったんだ」
「それで水晶が液化しはじめるわけですか」
「そうだ。しかしそれは少しの間の出来事で、すぐに濃度はより薄くなる」
「だから水晶の液化が止まる」
俺は小さくうなずいた。
「結果、めでたく高屈折率の謎の液体ができあがり、水晶もそのまま存在していることと相成ったわけだ。多少は小さくなったのかも知れないけどな」
「もしも濃度の変化で、再度固化するのならそういう結果にならないってわけですか」
「そのとおり」
三好は反芻するように考えていたが、すぐに立ち上がって言った。
「ま、確かめてみればいいだけですね。溶かしてみましょう」
三好がキッチンに行って持ってきたのは、新光電子株式会社の ALE1502R-JCSSだ。ひょう量一五〇〇グラムで最小表示〇.〇一グラムの音叉式力センサーを利用した、高精度電子天秤だ。
宝石の重さを計る天秤を購入しようとしたとき、ついでに料理にも使えるといいですよね、という一言で選ばれたものだ。いや、別々のを2つ買えよ、ほんとに。
凄い精度の秤とはいえ、これで水九九六.三グラムと、塩三.七グラムを計って溶かしても、正確に〇.三七%になっているかどうかは分からない。
計測しようにも、そんな高精度の塩分濃度計は普通の家には置いていないし、もちろんうちにもありはしない。
〇.三七%を中心に、どのくらいの幅が許されるのかも分からない現状、なにかの誤差でもあればすべてがパーだ。だから――
「少しだけ薄めに作ったベースに、少しだけ濃いめにした塩水を、ピペットでちょっとずつ加えて様子を見ましょう」
「さっきの雨だれ方式だな」
濃度を少しずつ上げて、液化するタイミングを計るってわけだ。
これだって、〇.三七%という数値が鑑定で分かっているからやる気になるが、そうでなければ、とても無理だろう。〇.一%刻みでやっても適正値を取りこぼすのだ。
三好は、うすはりタンブラーの中に二百ミリリットルの塩水を入れると、そこに水晶をひとつ落とした。あとはピペットで少し高い濃度の塩水をぽとりと落としては、攪拌するを繰り返すだけだ。
「計算だと、そろそろなんですけどね」
三好がそう言ってから三滴、ピペットからドロップしては攪拌するを繰り返したところで、突然水晶の表面に陽炎が立った。
「お? 来たかな?」
それは不思議な光景だった。
微かに青みがかかった水晶の表面が、陽炎のように揺らぎながら無色透明の液体になってコップの上部へと浮かび上がっていく。
どうやら比重は塩水よりも軽く、塩水とは混ざらないようだった。そうして水よりも重い水晶は、グラスの底で、まるでナトリウムが水の上を走り回るようにくるくると動いていたが、やがて消えてなくなった。
「本当に無色透明なのか……」
その水よりも軽い液体は、グラスの上部に溜まっているはずだが、それは透明で見えなかった。しかし、屈折率があきらかに違う境界がグラスの中程に存在していた。
本来あり得ない屈折率をもった物質を透過する光は、ダン・マイルドがブンダバ衛星で拾ってきた魔女の水晶玉よろしく、本来あり得ない光景を描き出す。グラスの向こうを歩くロザリオの頭は、胴体と生き別れになっていた。
「で、先輩。これ、どうするつもりです?」
「どうするって?」
「だって、これを始めようとした切っ掛けは、課長のメールですよ?」
「うっ……」
榎木には協力したくない。
とは言え、これの特許をしれっと取るってのは、剽窃のそしりを受けかねない。倫理的にも――
「――って、まてよ?」
「どうしました?」
「よく考えてみたら、真超Dに持ち込まれた素材は、今ここで使った素材とは別物じゃないか?」
「え?」
「だって、アイボールは今のところさまよえる館でしか見つかっていない。日本ダンジョン協会に新規の碑文が持ち込まれていない以上、真超Dのアイテムは、類似のモンスターからドロップしたアイテムの可能性が高いはずだ」
可能性としては、モノアイだろう。
「ただまあ、生成方法はアイテムの鑑定結果に書かれてるわけだし、新規性って点では疑問が残るか」
「アイボール水晶の半導体設備への応用、とかなら可能だとは思いますけど」
「やっぱりそこか……」
「まあ、そこでしょうね」
それに合成不可能なら、モノアイよりもアイボールの方が数が多い。館を出すのは一苦労だろうが。
「よし、横槍を入れられないように製法に関する特許は取ろう。取り消されたら取り消されたときのことだ。だけど、それはアイボールだけだ」
「前の会社へは?」
「前のチームの連中って残ってるのか?」
「私が辞めるときまではいました」
「なら、保坂あたりにメールで教えてやっとくか。うちでも類似の実験は行っていて、競合するので協力は出来ないが、もしも、対象アイテムの中にモノアイの水晶があるなら、おそらくそれが原因アイテムだ、くらいで」
「液化条件は?」
「モノアイの水晶がアイボール同様液化するとしても、そのトリガになる条件がアイボールと同じかどうかはわからないだろ。特許が公開されれば、概要は向こうで勝手に調べるだろうから放置しておいて大丈夫。あいつらだってちゃんと能力のある研究者だ」
「そうですね」
「ともあれ、こいつの最大の問題は量産化だろ」
俺は目の前のうすはりグラスを、人さし指の先でキーンと弾いて言った。
生産自体は、取ってきたアイテムを塩水に放り込むだけだから簡単だが、合成するってのは相当難しそうに思える。それでも真超Dならやるのかも知れないが……
「とりあえず純水に溶けるそうですから、濃度によって屈折率がどうなるのかを測るところからでしょうね」
「合成が無理なら水増しってことか」
「もっとも、アイボールは凄い数がいますから、腰をすえて狩れば、結構な量が得られるんじゃないかとは思いますけど……」
結構な数どころか、館さえ出せれば、物量で飲み込まれないか心配なくらいだ。
ゲノーモスは地上を歩いていたから、囲まれるにしても二次元的だが、アイボールは空を飛んでるからなぁ……
「それ以前に館を出すのが大変だからな。俺たちだって、後、何回だせることやら」
「思うんですけど、玄関のところにある碑文を出現させなければ、館も繰り返し出現しませんかね?」
「試してみてもいいが、どこでやる? 手頃なところはすでに試した後だからなぁ……」
「一撃で葬れるくらいの敵で、数がそれなりにいて、しかも密度が高い場所……意外とないですよね」
「コロニアルワーム?」
分体っぽいのならうじゃうじゃ出るし、ファイヤー系の魔法で一掃できそうな気もする。
「あれ、全体が一匹扱いだったら馬鹿みたいですよ」
「そりゃそうか。横浜は?」
アルスルズを二十四時間放置しておけば、どれかが373体に達しないだろうか。
「狭いからだと思いますけど、リポップ速度が遅いんですよ、あそこ」
広いフロアはすぐにリポップすると思われるが、その場所がどこだかわからない。
狭いフロアはリポップする場所は近場だろうが、リポップ時間がかかる。
「373体の壁は思ったより厚いな」
「しかたありません。考えておきましょう」
そう言って三好は片付けを始めた。
水晶一個分の液体は、硝子瓶に入れ替えられて、保管庫の中へ仕舞われた。
「そういや、三好」
「なんです?」
「ロザリオ用に、小さなパソコンとかないかなって。入力中に悪戯されるのはちょっと」
そういうとロザリオが頭の上に乗って、額をコツコツとつついてきた。
そんなことしないよと言っているのかもしれない。
「いてっ。おい、痛いって」
「はー、仲良しですねぇ。キーピッチが小さい方が良いですよね? 今なら、使ってないGPD Pocket 2がありますよ」
そう言って三好は、自分の机の引き出しからそれを取り出すと、俺の机の端っこに、両面テープで固定した。
「これで倒れません。テキストエディタを立ち上げておきましょう」
「サンキュー。ほら、あれがロザリオのだ。こっちをつつくなよ」
ロザリオは、ちょんちょんとそれに近づくと、何かを入力して、ぱっと飛び立った。
『ありがと』
それをみた俺たちは、ちょっとほっこりした。
うちの事務所のセキュリティは、ますます万全になったのかもしれない。
146 美晴の報酬 2月6日 (水曜日)
その日、課長に報告するために日本ダンジョン協会に立ち寄った美晴は、主任の坂井につかまって、Dカード所持判別用機器の受け取りをお願いされてしまった。
坂井は、大学入試対策委員会を兼任しているとはいえ、ダンジョン管理課の主任が本来の仕事だ。
急遽決まった納品スケジュールだけに、受け渡し時に手が空いていなかったのは仕方のないことだし、本当に用があるのならともかく、上長に向かって意味なく嫌ですとは、さすがの美晴も言えなかったのだ。
「あれ、まてよ? 私って今、課長補佐待遇だよね? もしかして、坂井さんより偉いんじゃ?」
女子社員たちの態度が今までと同じだったから、全然実感はなかったが、彼女は同期の出世頭で結構偉い立場になっていたはずだ。
もっとも、それに気がついたところで何が変わるわけでもなく、手が空いている以上、今の以上に忙しいダンジョン管理課の手伝いをすることに変わりはないのだが。
ともあれ、そうして出向いた受け取り場所に、妹のみどりが現れた。
「あら、姉さん。奇遇ね」
「奇遇って、一応私ここの職員なんだけど」
「梓のところの事務所にいる時間の方が長いって話だけど?」
「あっちの方が居心地がいいのは確かね」
なにしろモフモフもいるし、と、美晴は心の中で付け加えた。
そうして、姉妹で軽口をたたきながら、納品された個数を確認していった。
「予定だと、一日九十個って聞いていたけど、結構なハイペースね」
「若干一名、凄いやる気になっているスタッフがいるのよ」
「日本ダンジョン協会としては助かるけどね。私大の医学部系は試験が早いから」
「あー、あれってなんでだろうね? 入学金を納めてもらう手段?」
「まさか」
「ほら、私大でも最高難易度の慶応なんか、割と遅めで、二十日前後じゃない」
「合格発表は大体二十五日前後かな」
自分も通ってきた道だけに、大まかなところは美晴も知っていた。
医学部の2次試験はもっと遅いはずだ。
「併願されている大学が、それまでに入学金の締め切りを作るためじゃない?」
入学金については、消費者契約法の施行を受けて、二〇〇六年に最高裁判決が出ている。
大まかに言うと、入学をいつ辞退しても入学金は返還されない、年度内に辞退した場合授業料は返還される、ということになっている。
つまり、後から本命に受かっても、支払った入学金は戻ってこないのだ。
「うがちすぎよ」
「そうかな?」
丁度そう言ったところで、納品されたデバイスの数を数え終わる。
「はい。確かに指定個数の納品を確認しました。それで、これからどうするの?」
「ちょっと梓に用事があるから、向こうの事務所によっていくつもり」
「ああ、じゃあ、もしかしたら向こうで会うかもね」
「ええ?」
「何よ、その反応」
妹のあまりのリアクションに、眉間にチョップを食らわせながら文句を言った美晴は、受け取りにサインをすると、これからDパワーズの事務所によると言う妹と別れて、受け取りの報告をするためにダンジョン管理課に向かった。
それにしても、年末の家族会議でDパワーズのSMD(ステータス計測デバイス)の件についてみどりから聞いてはいたが、その時は半信半疑だった。本来、生産のことを考えるなら、ファブを持っている、もっと大手と契約するものだからだ。
相も変わらずDパワーズのやることはよく分からなかったが、こうして日本ダンジョン協会で顔を合わせることで、本当にみどりの会社が生産を行っていることだけは、はっきりした。
「鳴瀬家《うち》って、ちょっとDパワーズの利益に噛みすぎじゃないかなぁ……なにか問題になるようなことがなきゃいいけど」
ステークホルダーとして、不法だったり不当だったりする事柄は注意深く避けてきたつもりだったが、Dパワーズとみどりとの関係が公になったとき、美晴とみどりの関係からそれを邪推するものは必ず現れるだろう。
本当に偶然だったわけだが、彼女が専任監になったのは昨年の十一月五日。Dパワーズが初めて検査に訪れたのは十一月七日だ。十一月五日の収入で検査を受けたのだから当たり前だとは言え、偶然を主張するには苦しい日程になっているのだ。
「鳴瀬君!」
その時、日本ダンジョン協会の廊下で彼女を呼ぶ声が聞こえ、思考を中断された美晴は足を止めて振り返った。
「吉田課長?」
彼女を呼び止めたのは、振興課の吉田課長だった。
「どうされました?」
「鳴瀬君は、Dパワーズの専任管理監だよな。昨日雨宮が、事務所へ行ったんだが……君、何か彼らに言ったのか?」
「何か?」
雨宮さんって、振興課の後家殺しだとかレディキラーだとか言われている人だっけ。寄付の受付数は振興課随一だとか。
彼が引っ張り出されるなんて、三好さん対策? だとしたら、とんだ方向違いね。
「何かじゃないよ、独自基金のデメリットを説いたら、『そんなに大変なんですか? じゃあ、基金は諦めます』なんて、言い出したそうじゃないか」
美晴は、三好の態度を想像して、思わず吹き出しかけたが、ぐっとこらえて困ったような顔を作った。
「そう申されましても」
「こっちは、助成先の選定まで行っていたんだ。助成が行えなということになると、いろいろと不都合が――」
「三好さんたちは、自分たちで助成先を選定することが重要だと考えられていたようですから」
「――自分たちで? 専門の知識もないのにか?」
「専門の知識があるかどうかは伺っていませんが、無くても専門家を雇われるんじゃないでしょうか」
「わざわざ? なら、うちでやっても構わんだろう」
「それは、私に言われましても」
「とにかく、昨日雨宮が戻ってきてから、あわてて何度か連絡しているんだが、電話は通じないし、メールも返事がないらしいんだ」
美晴は、あの会社の電話線って、まだ抜かれたままだったのかと内心呆れたが、三好本人が、何処とも取引していないし、新規の話を受けるのはいかんせん人が足りなくて、と言っていたのを思い出していた。
「失礼ですが、それは株式会社Dパワーズの代表アドレスへメールされたんですか?」
「ん? 詳しくは知らないが、おそらくそうだろう」
美晴は、株式会社Dパワーズの代表アドレスには、ものすごい数のメールが届いているから、確認に非常に時間がかかるということを婉曲的に伝えた。
まさか、知らないアドレスから届いたメールはすべてspam扱いしているとは言えないからだ。
「なんだ……と?」
「例の入試問題で、一日に何千通もメールが届いてパンクしたそうです。そういうわけで、連絡がないと言うことは、まだ確認されていないのではないかと思います」
「何て非常識なやつらだ。日本ダンジョン協会からの連絡くらい優先的に振り分けるべきだろう。なら、君からやつらに伝えてくれないか」
「何をでしょう? 振興課の用件でしょうか?」
「そうだ、基金への拠出に関して――」
「申し訳ありませんが、振興課の課長から、ダンジョン管理課の私が直接業務命令を承るというのは問題があります」
「なんだと?」
「お手数ですが、うちの課を通していただければ」
美晴は、ダンジョン管理課の管理監であって、Dパワーズの秘書ではないのだ。やっていることはあまり変わらない気もするが。
しかしそれを聞いた吉田は憤慨して言った。
「君、ちょっと成績が上がって手当てが増えるからって、天狗になってるんじゃないのか?」
「え? 仰られている意味がよく分かりませんが」
「もういい。これからダンジョン管理課に戻るのか?」
「はい」
「では、斎賀くんに連絡してくれと伝えておいてくれ。それくらいのお使いは出来るだろう?」
「承知しました」
用事があるんなら、斎賀課長に内線で直接連絡すればいいのに、と思いながら、彼女は、足音高く引き返していく吉田課長を見送った。
、、、、、、、、、
「――と、いうわけなんですが」
「そりゃ、災難だったな」
そう言って笑った斎賀は、美晴に顔を近づけると、囁くように言った。
「で、連中、何をどうするって?」
「え?」
振興課から営業マンがやってきて、独自基金設立のデメリットを説明したとたんに、そんなに面倒なら基金をやめます?
NPO等の設立にかかわるメリットやデメリットを、連中が調べてないわけないだろう。
「わざとらしく、斜め上の結論に落とし込んだからには、何かやる気なんだろう。で、なんだって?」
「え?」
「聞いてるんだろ。でなきゃ鳴瀬が、ただ連絡して欲しいなんて要求を、職務の枠を盾にとって断るはずがない」
そう断言されて、美晴はやむを得ず先日聞いた基金の取り扱いについての話をした。吉田課長に、斎賀課長の鋭さがなくて助かったと思いながら。
もし絡まれていたら、説得してこいと言われかねない。
「とにかく、自分たちが投資先を決められないシステムはNGってことか」
「そのようです。基金にする利点は寄付者の控除にしかありませんし、元々Dパワーズさんの得たお金を社会に還元することが目的で、寄付を募るつもりはないそうですから、最終的には、会社の投資事業にするつもりのようでした」
美晴は、さすがに、それを自分が提案したということは黙っておいた。
「窓際で変なことを研究している人とか、大学や個人でも面白い発想がある人に、幅広く助成なり投資なりしたいと仰ってましたね」
「つまり、『面白そうだから』か?」
斎賀がおかしそうにそう言った。
「まあ、そういうことです」
「俺も段々、あいつらのことが分かってきたよ」
「それは……何と言っていいのか」
美晴は思わず言葉を濁した。斎賀はそれに頷いて言った。
「連中の思想は、社会人にとって劇薬だからな」
彼女たちの生き方は、ある種の人間に強烈な憧れを抱かせるが、大抵はそれに続く破滅がセットになっている。
「リタイヤして牧場の経営がしたい。本物の人間の生活を送るんだ。とかですか?」
「アメリカで成功した中年なら、そういう想いにかられてもおかしくはないな」
「つまり――」
そういうと、斎賀は足で地面を蹴って、くるーんと椅子を一回転させた。
本人はどう思っているか知らないが、こういうところが結構子供っぽくて、Dパワーズの素質が充分ありそうだなと美晴は思った。
「――基金の設立なんて話は、すでにどこにもなくなってるんだな」
「提出したのはあくまでも案ですし、日本ダンジョン協会が勝手に誤解することまで責任は持てないそうです」
「まあ、そりゃそうだろうな。しかも、金だけ出させて利権は日本ダンジョン協会で握ろうって話にねじ曲げたんだ。へそを曲げられても仕方がない。だけどな――」
「なんです?」
「――このまま知らん顔をしたら、まるでダンジョン管理課が振興課の邪魔をして基金を潰したみたいに思われるぞ」
「そんな馬鹿な……」
斎賀は困ったような顔をして、腕を組んでいった。
「営業部とダンジョン管理部による、会長選挙の代理戦争みたいな見方に持ち込みたいやつが、結構いてなぁ……」
「バカですか、その人たち?!」
「いや、お前。仮にも女の子が、そのセリフはないだろ」
「課長、それってセクハラですよ。それに、うちは下町ですからこれでいいんです」
会社の上司が部下を女の子扱いするとセクハラになるなんて、どこのどいつが考えたんだ。
「助成先の選定が行われてるから、後には引けないみたいな話になっているんだとしたら、当然相手先にも話が行っているはずだ。問題はそこで何を言ったか、なんだよな」
振興課の助成予算は、そう潤沢なわけではない。
つまり、助成待ちの事業が、ずらっと列をなしているわけだ。そんなところへ、助成が確実みたいな話を持ち込んでプロジェクトがスタートしたりしたら、それはそれで大問題だ。
もしも、それと引き換えに、何かを得ていたりしたら、なおさらだ。
いまさら、なくなりました、なんて話を振興課が受け入れるかどうか……
吉田課長は、外堀を埋めてしまえばどうにでもなると考えている節があるが、あいつらは城の中に籠もってなんかいないのだ。
「何か土産がいるかもなぁ……」
「はあ」
どう考えても振興課の勇み足だが、それでも同じ組織の一員だ。フォローできるなら、それに越したことはない。
「で、鳴瀬君へのお願いだが」
「ええ?」
斎賀が鳴瀬君と呼ぶときは、ろくな話ではないときだ。もちろん故意にそう言っているのだろうが。
美晴はちょっと身構えた。
「Dパワーズ関連で、なにか画期的な発表とかないかな? 営業部に利益のある形で」
「画期的ですか?」
実は、ある。
というか、ありすぎて困るくらいだ。
SMDの発売日を発表しても良いし、スライム対策も出願準備が終わっているようだ。それに、ホイポイの協力も一応は取り付けた。
どれを発表したとしても、大騒ぎになることは間違いなかった。
しかし、どれもダンジョン管理課には利益になるだろうが、営業部の利益になるかどうかはわからない。それに、発表して良いかどうかは、美晴が判断するようなことではない。ここで勝手に決めることは、吉田課長のやっていることと大差ないからだ。
「あそこはいつでもびっくり箱みたいなものですから、それなりにいろいろとあることはあります」
「ま、そうだろうな。しかし、その情報を勝手に公開するわけにはいかんよな」
「それに、営業部の利益というところが難しすぎます」
「やはり、うちか?」
「ですね」
「これ以上、向こうを逆なでにするのはなぁ……とりあえずDパワーズの確認をとって出せる情報だけでもいいから報告してくれ。後は、こちらで調整して提案するから」
「分かりました」
美晴の立場ではそう言うしかなかった。
「はぁ……大人しく後援をやっときゃ、こっちにも利益があったのになぁ」
そうすれば、全部は無理だとしても、こちらから助成事業を紹介することだって、できたのだ。
「もっともそうしたら、鳴瀬の手当もまた跳ね上がるか」
それを聞いて、美晴はさっきのやりとりを思い出した。
「そう言えば、さっき吉田課長に嫌みを言われたんですが」
そう聞いて、斎賀は、思わず眉をひそめた。
鳴瀬がなにかを告げ口しようとすることなんて、ほとんど記憶になかったからだ。彼は、話の行き先が分からなかったので、黙ってその先を促した。
「ちょっと手当てが増えるからって、天狗になってるんじゃないのかって。いったい何の話でしょうか?」
確かに十一月から課長補佐待遇になったおかげで、一応同期の出世頭になったらしい。手取りの額もそれなりに増えていたし、その中に何かの専属手当みたいなものが含まれていたのだろうか。
美晴には心当たりがなかったが、今度ちゃんと明細を確認しようと心に留めておいた。
それを聞いた斎賀は、妙な顔をして言った。
「お前、もしかして、専任管理監の給与体系を知らんのか?」
「へ? 普通に給与じゃないんですか? 十一月分から手取りも結構増えてたみたいでしたけど」
「それはそうだが、賞与部分が普通と違うんだ……じゃあ、冬のボーナスも確認してないのか?」
「確かその時期は、異界言語理解の大騒ぎの真っ最中で、もうぜんっぜん余裕なんかありませんでしたけど、さすがに口座くらいは見てますよ」
「少なくなかったか?」
「そうでしたっけ? よくわかりません」
十二月のボーナスは、さすがに昇進から一ヶ月だから、従来と大差なかったように思えた。
「お前は、十一月5日付けで専任管理監になっているから、十二月のボーナスは、そこまでの計算で算出されていたはずだ。つまり他の者より一ヶ月以上算定ベースが短かかったわけだ」
「はぁ」
「でな、専任管理監の賞与は基本的に歩合なんだよ。ちなみに日本ダンジョン協会の場合は年度で〆て、四月払いだ」
「歩合?」
「まあ、専任がつくようなパーティはほとんど無いから、知らなくても仕方がないか。いいか? 専任管理監の賞与は、そのパーティがDAにもたらした収益の一.六%だ」
「いってんろくぱーせんと?」
「世界ダンジョン協会規定なんだ。専任がつくようなパーティは、大抵百万ドル前後の収益をDAに与えているパーティだ。1万ドル6千ドル前後がボーナスというのは妥当な線だろ?」
DAに百万ドルの収益をアイテム売買だけでまかなうためには、一千万ドル分のアイテムを売却するということだ。
デパートの外商よろしく、担当が付いても何もおかしなところはない。
「か、課長……まさか……」
「そうだ。お前が担当しているパーティは、異界原語理解の手数料だけで四百十六億ほどの収益を日本ダンジョン協会に計上している」
「え……」
「因みに、今年度のDパワーズがダンジョン管理課に与えた収益は――」
斎賀は手元のパソコンで何かを呼びだした。
「たった三ヶ月で、四五二億一六八六万だとさ。お前の歩合は、大体七億二三百万だな。生涯年収どころじゃないな、こりゃ」
「ええ?!」
「もっとも給与所得者じゃ最高税率は免れないし、職員としての給与だから、法人にするって訳にもいかないぞ。そこはご愁傷様ってところだな」
「こ、困ります!」
「そうは言っても、税制ばっかりはどうにもならんだろ。年度末締めの四月払いってのは、翌年の確定申告のための猶予期間を取った、まあ一種の温情みたいなものだろう。せいぜい節税に励みなさいって言う」
「違いますよ! 困るのはそこじゃなくて――」
「なんだ?」
「――だ、だって、たまたま専任になっただけで、それほど大したことはしてないのにこんな収入になっちゃったら、やっかみで会社に居辛くなりませんか?!」
「いや、普通は、他人の給料なんか分からないだろ。……だが、世界ダンジョン協会規定はオープンだし、あいつらは余りにも有名だからなぁ」
「課長ぉ〜」
「しかしこれは世界ダンジョン協会の規定だから、どうにもならん。宝くじにあたったことを素直に喜んでおけよ。それに鳴瀬は専任管理監に相応しい仕事をしてるだろ。異界言語理解だって、他の誰があいつらに協力させられるって言うんだ。すくなくとも俺には無理だな」
そう言って斎賀は肩をすくめて見せた。
「かちょぉ」
そしていい笑顔を浮かべていった。
「だから、ホイポイの件はよろしくな」
「……感動して損しました」
とは言え、一応言質は取ってある。
「それに関しては、まずどのような形で協力して、何を持っていきたいのかを教えて欲しいそうです」
「お、さすがは鳴瀬君! もう協力を取り付けてたのか」
「課長、おだててもだめですよ。一応検討するために予定を知りたいそうです。それ次第ですよ。何しろ往復に四日かかりますから」
「それでも、可能性があるってところが重要なのさ。確かにお前は仕事をしてるぞ。胸を張って貰っておけ」
「みんなに虐められそうで不安なんですけど」
冗談めかしてそう言ったが、心の中では結構本気だった。
とは言え、今のところそんな感じはしなかった。ほんの数時間前と比べて変わったところは、自分がそのことを知ったという、ただそれだけなのだ。
「多少は噂に上ると思うが、そんなに酷いやつはうちの課にはいないと思うがなぁ」
「課長、会社には他の課も沢山あるんですから」
「まあ、そりゃそうか。その場にいないやつはどうしたって、悪者にされやすいからな」
「ですよね……」
自宅勤務が普及しない理由のひとつでもある。
ただ一緒にいると言うことが、人間の行動や精神に与える影響は馬鹿にならない。
「とは言え、異界言語理解の話が出たのは十二月で、今はすでに二月だぞ? いままで何もなかったんだとしたら、杞憂だと思うがな」
「それはそうですけど……」
知ると言うことが精神に与える影響はとても大きい。
何の問題もなく同じ生活をしていても、誰かが自分の悪口を言っていると知っただけで、世界は激変するものだ。
美晴は心配しても意味のないことには拘泥しない主義だったが、さすがにすぐに気持ちは切り替わらない。
なるべく普通でいよう。そう心に決めること自体が普通ではないのだが、今のところはそうするしかなかった。
「ああ、そうだ。それと、件のDNA解析をやった農研機構からの依頼があるそうで、商務課から連絡があったぞ」
「それが?」
「話の経緯的にも、内容的にも、Dパワーズに振るのがよさそうだからな。ついでに向こうの希望とも一致する。詳細は、後で商務課によって聞いてくれ」
「分かりました」
美晴は、商務課によってから事務所に顔を出して、いましがた話題になった利用してもいい情報の相談と、商務課の依頼について三好に話そうと、席を立った。
「そうだ、課長」
「なんだ?」
去り際に、美晴は斎賀にお願いをした。
「課長のコネで、個人の節税に積極的な税理士を紹介してください」
日本ダンジョン協会と契約している税理士や社会保険労務士は知っているが、税理士の中には個人の節税に積極的でない人も割といる。
誰がそうなのかは、調べてみないと分からないが、上司が知っているなら紹介して貰った方が楽だ。それに斎賀は――
「……わかった。調べておく」
――意外と面倒見がいいのだ。
147 指名依頼 2月6日 (水曜日)
その日の午後、冷たい雨が細かな雪に変わり始めたころ、Dパワーズの事務所の呼び鈴が鳴った。
「あれ、鳴瀬さんですよ」
「みどりさんと待ち合わせでもしてたのかな?」
少し前に、みどりさんが来て、今度後輩を連れてくるから、投資の話を聞いてやってくれとアポを取って帰って行ったのだ。
投資事業のこともあって、渡りに船だったのだが、わざわざうちまで来てアポを取るって、よっぽどな内容なのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は、玄関へ出て、事務所のドアを開けた。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「今日は寒かったでしょう」
「三好家(の)は、ドアもかすみて白雪の、降りし家にも春はきにけりってところですね」
「ひどいな、俺も住んでるんですけど」
良経のひどい替え歌に苦笑しながら、彼女のコートを受け取って、ハンガーにかけた。
「雪になりましたか」
「ほとんど雨ですけどね。そういえば、みどりが来ませんでした?」
「ああ、先ほどお帰りになられましたよ。あちらもなかなか、お忙しいみたいで」
「そうですか。先ほど日本ダンジョン協会で会って、こちらに来ると言っていたので、もしかしたら会えるかと思っていたのですが」
美晴は日本ダンジョン協会で見た『ええ?』という緑の反応を思い出しながら、なにか後ろ暗いことでもあるのかしらと考えた。
「残念でしたね、それで今日は?」
「ええっと、まずですね――」
鳴瀬さんは、案内されたダイニングの椅子に腰かけながら切り出した。
「――三好さん、雨宮になんて言ったんです?」
「雨宮さん?……ああ、あの歯が光りそうな、レディキラーの人」
それを聞いた成瀬さんは、思わず吹き出したが、すぐに真顔に戻って訊いてきた。
「レディキラーって、どうして……まさか、鑑定? そんなことまでわかるんですか?」
「さあ?……それで、どうしてそんなことを?」
露骨にごまかした三好を、疑いのジト目で見ながら、彼女は、出されたカフェオレのカップを、暖をとるように両手で挟んだ。
「振興課の課長に、お前がなにか吹き込んだんじゃないかと疑われちゃって……まあ、ちょっと心当たりもありましたから、おとなしく拝聴しましたけど」
「特に変わったことはしてませんよ?」
そう言って三好は、雨宮さんが延々アピールした、自前で基金を立ち上げることのデメリット面を逆手にとって、「えーそんなに面倒なんですか? んじゃやめときます」とあっさりとプランを翻した話をした。
「振興課の課長にも聞きましたけど、本当に一蹴したんですね」
「ちゃんと、してもらったアドバイスに丁寧なお礼を言って、お帰り頂いたんですけどねー」
白々しくそうアピールする三好に、鳴瀬さんは呆れるような目を向けた。
俺は、そういわれて唖然としていた彼の顔を思い出して、少し笑った。
「まあいいんですけど……それで、振興課としては勝手に助成先の選定まで行っていたらしくって、諦めきれずに連絡を取ろうとしていたようで、電話がつながらないって言われましたよ」
「お前、まだ抜きっぱなしだったのか? あれ」
「だって、下手に繋いだりしたら、一日中呼び出し音が鳴っちゃいますよ? 先輩が受けたいというのなら繋ぎますけど」
「……まあ、繋がなくても実害はないしな」
「ですよね」
三好がにっこり笑ってそう言った。
面倒は避けるに越したことはない。電話に出なくても死ぬことはないのだ。
というわけで、うちの会社の代表番号は、しばらく線が抜けたままになることが確定した。ちゃんとした取引先ができたときどうするのかは、またその時に考えればいいだろう。
「ですけど、しつこく張り付かれるのも面倒ですよね」
「仮にも日本ダンジョン協会だし、ないがしろにもできないもんなぁ」
残念ですけど、中止しましたで通してもいいが、その場合、投資事業を始めたときに、いい顔をされないことは確実だ。
鳴瀬さんは、申し訳なさそうに、両手でカップを口へと運んでいる。
「こうなったからには、先輩。日本ダンジョン協会の基金に寄付しちゃいましょうか」
「え? 助成先を自分たちで決められなくてもいいんですか?」
それを聞いた鳴瀬さんが驚いたように言った。
「いえいえ、寄付といっても、今回の基金とは別枠にしちゃえばいいんですよ」
「ははぁ、さすがは三好」
結局日本ダンジョン協会の基金への寄付が向こうの要求なんだから、寄付をしちゃえばいいわけか。
まさか寄付の金額を指定してくるような、非常識な基金は存在しないだろう。
「どのくらいがいいですかね?」
「企業としてか? 俺たちは新興の中小企業だし、1千万も寄付すれば、結構頑張ってると思うけど……その辺どうなんです?」
「通常の中小企業からの寄付金でしたら、1千万はかなり大きい額だと思います」
「ですよね。じゃ、それくらいで」
「了解です」
「ほら、これで鳴瀬さんも、振興課に対して顔が立つでしょう? 成瀬さんのおかげで寄付されるお金ですし」
「ええ、まあ……振興課課長の、苦虫を噛み潰したような顔が目に見えるようですけど」
「もう一杯いかがです?」
仕方ないかと、ため息をついた鳴瀬さんを慰めるように、三好がカフェオレのお代わりを作りに席を立って、ミルクパンに牛乳を注いだ。
「ありがとうございます」
ともあれ、助成先の選定を先走って行っていた云々は、俺たちには関係のない話だから仕方がない。
「で、今日はその話で?」
「あ、いえ、本題は別に。例の柑橘のDNA鑑定の件なんですが――」
ダイニングの椅子に座りなおしながら、鳴瀬さんがすまなそうに話題を振ってきた。
すまなそうに、だって?
「ああ。うちにもファストレポートが送られて来てましたよ。なんだか正気を疑うような結果でしたが……それが、どうかしましたか?」
「鑑定を依頼した農研機構から、逆に依頼がありまして」
「依頼?」
「はい。週末に二十一層まで、職員を一名連れて行ってほしいと」
「え? 護衛依頼ですか?」
護衛依頼は大変だ。あまり引き受けたく――
「ついでにDカードの取得もお願いしたいそうです」
「しかも、完全な初心者?!」
――ないどころか、窓から投げ捨てたい!
そういうのって、小麦さんでちょっと懲りたんだけど……
「そういうことになります」
すまなそうな顔になるはずだよ……なんだ、この依頼。
「ダンジョンに初めて潜る人を二十一層へ連れて行くというのは、ちょっと常識的にどうかと思うんですが……一名とは言っても泊りになりますから、もっとマンパワーのあるパーティか、いっそのこと自衛隊にお願いするというのは?」
「向こうの希望もあったんですが、二十一層ならアルスルズのいる三好さんのパーティが適任だということになったんです。あとは現場に拠点があることも考慮されたようです」
「な、なるほど……」
そう言われてしまうと、確かに、二十一層のせとかの森を少人数で調べるなら、うちがもっとも向いているパーティなのかもしれない。
DPハウスの補給のついでだと思えば都合はいいんだが、いかんせん完全初心者を二十一層へ連れて行くというのは、どんな不慮の事故が起こるかわからないからなぁ……
「あとは、商務課に恩を売っておいたほうがいいと思いまして」
「え?」
ダンジョン受付は、ダンジョン管理課の職員もやっているが、基本的に他からの依頼を受けてそれを探索者に割り振るのは、商務課の仕事らしい。いわゆるギルドの受付嬢っぽい仕事だ。
「へー、そういうのもダンジョン管理課がやるのかと思ってましたよ」
「一応、商務課も、ダンジョン管理部ですけどね。ともかく、探索者への注文を受けるのは商務課で、指名依頼じゃない場合は、ダンジョン管理課と相談して探索者を決定するという流れになります」
「で、うちへの発注は商務課がやると」
「そういうことです」
仕組みは分かったけれど、恩を売っておいた方がいいというのはなんでだ?
「現在ダンジョン管理部は、Dパワーズさんのおかげで天手古舞なんです」
「ええ? 俺たち、なんかしましたっけ?」
「セーフエリアの区分けと、入試問題が被ったのが痛いですよね」
「ええ?! それってうちのせいですか?!」
「そんなところへ、基金の話を持ち込んできたり」
「ぬっ、し、しかし……」
「あまっさえ、世界を揺るがしそうな麦畑? こんな時期に?」
そう言われてしまうとぐうの音も出ないが……
「おかげで、ダンジョン管理課の職員は、連日ゾンビのようになっていますから、この依頼もさくっと引き受けて、商務課に恩を売り、ヘイトをクリアしておいた方がいいと思いますよ?」
鳴瀬さんのいい笑顔の向こうに般若が見える。
「先輩。ここは仕方がありません。おとなしく言うことを聞いておいた方が……」
「ううっ……」
うなってはみたものの、俺たちに選択の余地は、あまりなさそうだった。
できれば、こちらの指示に素直に従ってくれる、話の分かる人が来るといいなぁと、頭の中では早くも白旗を上げていた。
、、、、、、、、、
「わからない?」
市ヶ谷にある防衛省の一室で、報告を受けた男は、その回答に顔をしかめながら、人さし指で、何度か神経質そうに机の上を叩いた。
「はい。日本ダンジョン協会からは、そういう回答が上がってきました」
「どういう意味だ? 探索者の管理は日本ダンジョン協会の仕事だろう?」
「日本ダンジョン協会の管理はあくまでも世界ダンジョン協会カードのIDや本名に基づいており、通り名や、ましてや不確かな名称で問い合わせを行われても答えようがないということです」
「ふうむ」
報告を持ってきた若い男は、そりゃもっともだろうと考えていた。
レッドデビルというあだ名の探索者が十人いたとしたら、レッドデビルで問い合わせても、探索者を絞り込むことなんてできるはずがないのだ。しかも、今この瞬間にもレッドデビル氏は増えているかもしれない。
そもそも、資料を作成しようとしている案件を見るかぎり、対象の同定は行わなくても問題ないように思えた。
「しかしこの件を倫理規定違反というのは、どう考えても無理があります。誰だか知らない人に、その辺でひろった価値のない石をもらったのと法的にかわりはありませんし」
報告を受けている男の反応は薄い。
この資料を作ることにリソースを割くのは無駄だと思えるにもかかわらず、なぜこんなにも執着しているのだろう? 若い男には理解ができなかった。
「そもそも、この件がここまで上がってくるだけでも――」
「どっちだと思う?」
若い男の話は、とうとつな質問で打ち切られた。
「――何のことです?」
「日本ダンジョン協会は本当に知らないのか、それとも知っていて情報をよこさなかったのか」
若い男は、さすがに面食らった。
目の前の男が発した疑問は、そもそも我々の業務とは無関係だ。若い男は、陰謀ごっこにも興味はなかったし、給料以上の仕事をするつもりもなかった。
「さあ。しかしどちらにしても――」
「わかった。ありがとう。あとはこちらでやる」
報告を受けた男は、資料をそこに置いていくように若い男に指示すると、会見を強引に打ち切った。
「失礼します」
若い男は、内心憮然としながらも、そのことはおくびにも出さず、挨拶をして部屋を出て行った。
、、、、、、、、、
番組制作会社メディア24の氷室隆次は、非通知でかかってきた電話をとった。
「はい」
局の関係者には、非通知の人間も多いからだ。そのたびに、一八六くらい登録しておけよと心の中で悪態をついていたのだが。
もちろん、相手が非通知の時は、こちらから名乗ったりはしない。
「こんにちは、氷室さんですか?」
「そうだが、あんたは?」
聞いたことがあるようなないような声だが、はっきりとは思い出せなかった。
「氷室さんの命の恩人ですよ」
「なんだって?」
命の恩人と聞いて、彼は、この電話が、どこかの局の差し金で、手の込んだいたずらだろうかと考えた。
しかしタレントでもない自分をひっかけたところで得する奴はいないだろうと思いなおした。
「どこの誰だか知らないが、どうやってこの番号を?」
この番号は関係者向けの番号だ。
名刺に記載されているのは対外向けの番号だから、この番号は、制作関係者以外には知られていないはずなのだ。
「さあ。不思議ですね」
「ふざけるなよ。誰かの紹介か?」
「さみしいですね。せっかく救急車を呼んであげたのに、忘れられてしまうなんて」
救急車? ってことは、まさか……
「俺だって、そう暇ってわけじゃないんだ。なぞなぞ遊びはいいかげんにしてもらえないかな、三好さん」
氷室のセリフにクスクスと笑いながら、電話の向こうの女がとんでもないことを言い出した。
「いや、ちょっとあなたにスクープをあげようかなと思いまして」
スクープと聞いて、氷室の眉はピクリと上がった。
しかしこの業界でそれなりの年月を過ごしてきた氷室は、うまい話には裏があるってことを嫌というほど知っていた。
「それで、あんたの狙いは?」
内ポケットから煙草を一本取り出すと、そう尋ねながらそれに火をつけた。それは、まるで、気を落ち着かせるための儀式のようだった。
「狙いなんてありませんよ? ほら、知り合いのマスコミ関係者があなたしかいなくって」
「嘘つけ、最近大活躍してる女優のお姉ちゃんや、シンデレラみたいなモデルのお姉ちゃんなんかはよく知ってるだろ」
「うーん。つまり、スクープは必要ない? それじゃ、仕方ありませんね」
「いや、おい、ちょっと待て」
「お忙しいならこの辺で」
「だからちょっと待てつってんだろ」
相手はおそらく、今最高に話題の女だ。相手の思惑がどこにあろうと、こいつの情報は高く売れるに違いない。
とりあえず話を聞かなければ、なにも始まらない。
「スクープつってもな、うちはどちらかというと制作局寄りだぞ」
「制作局って番組を作る局じゃないんですか?」
「まあ、そうだが……平たく言えば、バラエティやショーよりだってことだ。ニュースは、報道局が作るんだよ」
「なるほど。ニュースを『制作』しちゃまずいですもんね」
そう言われて、思わずなるほどと氷室は思った。
確かに、ワイドなショーはニュースとは言えないことも多い。もっとも作る側はそんなこと知ったこっちゃない。上の言われたとおりに制作するだけだ。
「そういう見方をしたことはなかったが、そうなのかもな」
「だけど、取材にいらっしゃっていたようですが?」
「完パケの番組だけじゃなくて、素材も依頼されるんだよ。それで、スクープというのは?」
「あれ、興味あるんですか?」
「わかった、降参だ。犬みたいに尻尾を振ればいいか?」
電話の向こうで小さく笑った女が、場所と時間と条件を告げる。
こっちにもスケジュールってものがあるのだが、いまはこいつが最優先だ。
「で、カメラは持ってっていいのか?」
「ご随意に。同伴者は認められませんが」
「一人で来いって? あんたへのインタビューは?」
「迷子にならないように気を付けてくださいね」
そう言うと同時に、接続が切れた。
「……勝手な奴だな」
そうつぶやいて、携帯を仕舞うと、加えていた煙草を灰皿に押し付けた。
「ま、俺たちもたいがいだけどな」
そうして氷室は、その日のスケジュールを空けるために、関係各所へと連絡をとり始めた。
148 投資案件第1号 2月7日 (木曜日)
北谷《ほっこく》マテリアルの開発部では、真超Dが持ち込んだ素材の解析が行われていた。
いまだ基本的な物性の計測が主体だったが、あわせて何から生じたのかを一緒に入っていたアイテム類から同定する作業も行われている。
最終的には合成が目標になるが、その前にダンジョン産アイテムを利用しての量産が可能かどうかも突き止める必要があるからだ。
「難波、ちょっといいか? ソバでも食いに行こうぜ」
「保坂? なんだよ、コンビニのおにぎりでいいだろ。早いところあれをどうにかしないと、榎木さんピリピリしてるんだからさ」
「いや、その件で、ちょっとな」
難波は芳村が退社した後、チームを纏める立場に立った男だ。保坂といういう話もあったが、保坂は芳村の薫陶を受けすぎていて、使いにくいと判断されたらしかった。
保坂はちらりと課長の部屋がある方を見ると、ドアの方に向かって歩き始めた。
難波はしょうがないなという風にため息をつくと、その後を追いかけた。
「で、いったい何だよ?」
会社を出たところで、早速難波が切り出した。どうせソバなんて方便なのだ。
「実は、芳村さんからメールを貰った」
「は? 社内のアドレスか?」
「いや、俺のプライぺードアドレスだ」
社内のメールアドレスへ来たメールは、会社がいつでも読むことが出来ると、最初から全員に通知されている。だから、プライベートアドレスに連絡があるってことは、会社に見られたくない内容だと考えて差し支えなかった。
「それで? 引き抜きか何かか?」
それを聞いてあっさり難波がそう言ったように、このチームはちょっとした苦境に立たされていた。
基礎研究を突然撤回して応用研究へと走らされたが、それが緒にもつかないうちに、元の基礎研究と似てはいるが、はるかに難易度の高い、未知の物質の解析と同定という作業を振られたのだ。
それが数日でどうにかなるはずもないのだが、どうにも上は焦っている様子で、以前よりも結果を求めるようになっていた。
「いや、違うよ」
保坂は、あまりにあけすけなことを言う難波に苦笑を返しながら、芳村が送ってきたメールの内容を話した。
「モノアイのドロップアイテム?」
「ああ、真超Dのリストにあった気がするんだが」
「あったぞ。なにか、水晶のような材質の丸いアイテムだったな」
「例の液体の正体はそれじゃないかってさ」
「なんだと? 大体、なんで芳村さんが、あれのことを知ってるんだ?」
「三好のところに、うちの会社から依頼があったんだってさ」
「なんだ、芳村さん、やっぱり三好と一緒にやってるのか」
退職した日時が近いのと、その直前で三好が有休を取ったりしていたので、それとなく噂はされてはいた。
「みたいだな。あの二人ってデキてたっけ?」
「よせよ。まあ、チューターと生徒って感じではあったが……そこらへんはどうでもいいだろ」
「なんだよ、せっかく芳村さんを弄れるネタなのに」
保坂は笑ってそう言った。
「それにしても、俺たちも信用が無いな」
「そんだけ焦ってるってことだろ。真超Dに芳村チームがすでに無いことがばれたら、ちょっとした問題になるって話だぜ?」
難波は、そんなあり得ない話を信じたがっているのは、上の方だけだろうと考えていた。
真超Dが提携先のことを調べないはずがないのだ。
「ばかいえ、そんなこととっくに知られてるに決まってる」
「だよなぁ」
空は分厚い雲に覆われていたが、身を切られるような寒さだった昨日に比べれば、日中の気温は幾分緩んでいた。
鮮やかな濃い紺色の暖簾《のれん》が見え始めると、保坂が、「それで、どうする? 寄っていくか?」と難波に聞いた。
難波は、会社にある二つのおにぎりのことを考えたが、ここまで来たら、暖かいものが食べたい気分になっていた。
彼は無言で頷くと、保坂とふたりで、その暖簾をくぐった。
「それで、あの石ころがどうして液体の素だって分かるんだ?」
注文を終えると、難波がそう切り出した。
「なんでも向こうさんでも同じような実験をしているらしくってさ、そいつはとある条件下で液化するんだってさ」
「とある条件下?」
「それは芳村さんのところでも、企業秘密だろうし、メールには書かれてなかったが……」
「しかし、あのアイテム袋の中で、その条件を満たす何かが起こったというのなら、結構絞り込めそうだ」
難波は興奮したように言った。
「よし、あの袋の中で起こりそうな状況を想定して、温度や湿度、phや、なにかの溶液、片っ端から試してみるか」
ソバが来る前に席を立ちかけた彼を、保坂が落ち着けとばかりに手で制した。
「いや、それ、結構果てしない作業になるんじゃないか?」
「指針が全然無いのに比べたらずっとましだろ」
「しかし、あくまでも芳村さんのアドバイスが正しかったら、だろ?」
「おまえ、何かあの人の恨みを買ってる自覚とかあんの?」
「俺? いや、そんなはずは……」
「じゃ、大丈夫だろ。あの人、基本的にお人好しだから」
「言えてる」
「それにしても、そんな話だけなら、仕事として課長に返信すればいいはずだろ。多少は金にもなるだろうし。なんで保坂のプライベートアドレスなんだ?」
「あの話題になったオーブのオークションが本当に三好のやつの仕業だとしたら、そんなはした金は不要だろうし、なにしろ、芳村さんだからなぁ」
二人は、お互いに目を合わせると同時に言った。
「「課長の仕事を手伝うのが嫌だった」」
そして思わずふたりは吹き出した。
それは、ふたりにとっても、久しぶりに出た、腹の底からの笑いだった。
、、、、、、、、、
西新宿にある、小田急第一生命ビルの十七階では、吉田が自分のスマホでDパワーズのサイトへとアクセスしていた。
岸記念体育館から、職員の安全確保(耐震性の問題)を理由に移転した陸連は、オリンピックスクエアが完成するまで、ここに居を移していたのだ。
「いまだ、一件の当選もなし、か」
Dパワーズのサイトを確認して、来週の分まで通知済みになっていることを確認した吉田の元へは、どの指導者からも当選の連絡は来ていなかった。
「浦辺さん、スポーツ枠って一体どうなんったんです? 陸連には何か連絡がありましたか?」
「いや、なにも」
浦辺は憮然としてそう言った。
「どういうことです? 葉山先生はまだ動いてらっしゃらないんでしょうか?」
「先日お願いしたときは、よっしゃよっしゃで、すぐにでも動いてくれそうな勢いだったんだが……」
「いざって時にあてにならいんじゃ、献金も無駄なんじゃありませんかね」
「むぅ」
陸連からの献金は、浦辺たちの強い主張のもとに行われた。
吉田の発言は、間接的に浦辺たちのやり方が間違っているという主張につながっていた。
「まあ、まあ。Dパワーズは、現在代々木の地上施設を拡張しているそうですから、それを待って、ということではありませんか?」
浦辺と同世代の陸連の男が、訳知り顔でそう言った。
「なるほど! そうかもしれん。地上設備の数には限りがあるから、なかなかレンタルも順番が回ってこないとのことだったが……」
「日本ダンジョン協会は、現在のものに続いて、結構大きなダンジョン内地上設備を代々木に建設するそうですが、さすがにそれの完成はまだ先でしょうからね。葉山議員の後押しもあって、現行のレンタルスペースを抑えらえたのでは?」
吉田は、二人の話を聞きながら、どこからどこまでが本当だろうかといぶかしんでいた。
少なくとも最後の推測だけは間違っているだろう。世界ダンジョン協会による管理が確立している以上、許認可で力を行使するわけにもいかないダンジョンには、明確な政治利権がない。つまり、彼らにダンジョンへの影響力などあるはずがないのだ。
この際、スポーツ界におけるパワーゲームはどうでもいいから、なんとか自分の指導している選手たちだけでも押し込めないだろうかと、吉田は考えを巡らせていた。
その時、浦辺の携帯が振動した。
その画面を見た浦辺が、「葉山先生だ」と嬉しそうに言って、画面をスワイプした。
「待ち人来れりってやつかな」
吉田は浦辺の様子を見て、そう呟いた。
「はい、浦辺です。はい、はい……は?」
喜色満面だった浦辺が、微妙な表情になる。一体どうしたんだろう。
「はあ。……いえ、とんでもありません。はい、はい」
その様子を見る限り、いい話だけではなさそうだ。
「わかりました。ご尽力いただきありがとうございました」
そう言って、まるでため息をつくように、通話を切った。
「で、葉山先生、なんですって?」
「ブートキャンプの件ですよね?」
吉田が尋ねると、近くにいた職員も、我慢できないように浦辺に声をかけた。
「あー、ブートキャンプは、ブートキャンプなんだが……」
「どうしました?」
「代々木ブートキャンプらしい」
「代々木? ダンジョンブートキャンプは、確かに代々木で行われていますけど」
「よくわからないのだが、どうやらDパワーズではない、別の会社が立ち上げたブートキャンプに陸連の席を用意したとかおっしゃってた」
「別の会社? それって効果あるんですか?」
「先生によると、ダンジョンブートキャンプを経験した人間が中心となって、一流のスタッフを集めて立ち上げたということらしい」
一流と言っても、我々はすでに一流のコーチ陣なのだ。
それでは足りないからこそのブートキャンプなわけだが、代々木ブートキャンプ? 高田や不破のような実績がないプログラムに、丸ごと乗っかって大丈夫なのか?
「ともあれ、ダンジョントレーニングの準備は整ったわけだ。希望者を陸連の経費で送り込めば、いずれ結果も付いてくる……はずだ」
「はずだ、と言われましても。まるで実績のないプログラムですが、大丈夫なんでしょうか」
「葉山先生は押しておられたが……ともあれやってみるしかあるまい?」
どうせ今のままではダンジョンブートキャンプに当選しないのだ。
なら、別のブートキャンプを実行してみるしかないではないか。ダンジョントレーニングは待ったなしなのだから。
、、、、、、、、、
「じゃ、お待ちしています」
俺は、三好が携帯を切ったタイミングで尋ねた。
「なんだ、みどりさんか?」
「ええ、もうすぐ着くそうです」
「ふーん。そういや、昨日三次ロットを納品したとか言ってたな。結構なペースじゃないか?」
「今朝も、昨日の分を渡しに行ったみたいですよ」
「そりゃ凄い」
「二月の早い時期は、医学系私大の二次試験が目白押しなんですよ。それに加えて五日には明治の全学部試験が全国六カ所で行われましたし、七日――あ、今日ですね――には青学の全学部試験が全国四カ所で行われているそうです。連日悲鳴みたいなメールが届いてますよ」
「うちにメールを出しても仕方がないだろうになぁ」
「そこは、仕事をしているって証明ですから。手段がないからって、何もしないんじゃ、偉い人に給料泥棒と罵られちゃうんじゃないですか?」
「企業人の悲哀を感じるな」
「ともあれ、毎日でも納品して欲しいそうです」
「しかし、一日百個以上も、本当に作ってるんだな」
このままだと、千個なんてすぐに到達しそうだ。
「中島さんが、昼も夜もなくフル回転してるみたいですね」
「集中した技術者って、外から見るとブラック化してるのと区別が付かないからな」
「研究してても、コードを書いてても、机の下で寝袋は日常の風景なんて時はありますからね。もっとも本当にブラックでやらされてるのと、自発的にのめり込んじゃってるのは区別して欲しいですけど」
「それをお役所に望むのは無理だろ」
「規制ばっか考えてないで、労働者自身が簡単に通報できる手段と、それを迅速に解決する方法を用意するだけでいいと思うんですけど」
「それが従来のシステムとマッチしないんだから仕方がないさ。日本はやってみてダメだったから修正しようなんて考えると、責任を追及しようとする連中がわんさか涌いてくる社会だから」
「最初から完璧なものを作るのは、必要以上に労力が必要で無駄なんですけどね」
「ま、それでうまく行っている部分もあるから、そこは文化の違いだと割り切るしかないな。願わくば適材適所で使い分けて欲しいとは思うが」
さっきからロザリオが、グラスのいるソファと俺の机を行き来している。
その時俺の携帯が震動した。
「ん?」
そこには新規のメッセージが表示されていた。
『ひまだからなんかたべたい ぐらす』
「三好」
「なんです?」
「お前、ロザリオのパソコンになにか変なアプリをインストールしただろ」
「F2で、先輩にメッセージが飛ぶようになってます。F3は私ですよ」
「それで、妙に体を伸ばしてたのか」
GPD Pocket2にはファンクションキーがない。
ファンクションは、ファンクションキー+数字部分に割り振られているのだ。だからロザリオは、ファンクションキーの上に乗っかったまま、みょーんと体を伸ばし一番近いて2を押すことになるのだ。
「事実上、F1からF4までしか使えない感じでしたから、そこに機能を割り振っておきました」
「昨夜遅くまで何かやってると思ったら、それを作ってたのかよ」
「てへへ」
F1とF4に何が定義されているのかは気になったが、それは押されたときのお楽しみだそうだ。
それにしても、ペットポジの連中に、メッセージで使われる日がくるとは、この歳になるまで思いもしなかったぜ。
「しょうがないな」
そういって立ち上がった俺の足下には、早速グラスがやってきて尻尾を振っていた。
こいつは食べ物を貰うときだけは、俺にも愛想がいいのだ。
、、、、、、、、、
昼を過ぎてしばらくした頃、みどりさんが、初めて見る男性と一緒に事務所を訪れた。
「あれ、今日は中島さんは?」
「どこかの誰かの無茶振りで、変な笑い声を上げながら、日がな一日、半田ごてを振り回してたぞ。曜日も時間も関係なさそうだったな」
みどりさんはジト目で俺を睨みながらそう言った。
いや、それ、三好だよね。俺じゃないよね?
「それに今日は、あの変な外人が朝早くからやって来て、"save the world!"とかいいながら、ノリノリで作業してたから、余計テンションが上がってたな」
キャシーのやつ、まだそんなことを言ってたのか。願わくば、二十日までがんばって引っ張って欲しいものだ。うんうん。
「そういえば、今朝もキャシーから、『きゃっほー、中島スゲェゼ』って感じのメールが写真とともに送られてきましたよ」
今週のブートキャンプは昨日で終わっているから、今日からまた常磐《ときわ》ラボ通いを始めたのか。
三好のスマホには、山積みの基板を背景に、キャシーがサムズアップしている画像が表示されていた。
「でもって、これですよ」
画像をスワイプすると、そこには、机の下で寝ている中島さんのものと思われる足が映っていた。
その前で、常磐のスタッフらしき人が、『エティハドかシンガポールか、エミレーツ』と書かれたホワイトボードを掲げていた。
「なんだそれ? 新手の川柳か?」
「そいつは、今回の旅行で一番ハイテンションになっている、都築ゆかりってやつでな。飛行機旅行マニアなんだよ」
みどりさんがその写真を見て説明してくれた。
そういや、中島さん以外のスタッフを初めて見たぞ。
「テツの飛行機版? そりゃあ、カネのかかる趣味ですね」
俺はあきれてそう言った。世の中にはいろんな趣味の人間がいるものだ。
「高いシートは、マイルをためて乗る主義らしいぞ」
最近は、飛行機に乗らなくてもマイルがたまるサービスがいろいろあるそうだ。
「じゃあ、それって航空会社の名前なのか?」
「ファーストクラスランキングの上位陣って感じですね。だけど、直通便があるのかな。大抵トランジットで、シンガポールやアブダビやドバイを経由しますから。三十時間以上かかりますよ……いいんですかね?」
「さすがにマニアがそれを知らないはずはないだろう。テツの人も、乗るのを楽しむってところがあるから、いいんじゃないか? 巻き込まれるスタッフはどうだかしらないけどさ」
「全然よくない、と思ったんだが、こんなチャンスは二度とないと押し切られたんだ」
みどりさんが苦笑しながらそう言った。
いつの時代も、趣味人に巻き込まれる一般人は、とても苦労するものだ。それが新たな目覚めにつながることも、まれにはあるのだが……俺に年越しの大回りは無理だった。
「ただ、深夜便は飯がいまいちだからと、いまだに悩んではいるようだが、エミレーツのA380とかぶつぶつ言ってたな」
「なにかあるのか?」
「エミレーツのA380には、結構豪華なシャワーがついてるんですよ」
「シャワー?! 飛行機に?」
「さすがはアラブ。お金持ちの国って感じですよね。2か所をファーストクラスで共有です」
俺はそれを聞いてふと思った。
「だけどなあ……」
「なんです?」
「小さな個室+共有シャワー? それだけ聞いていると、超豪華な作りの漫喫かカプセルホテルって気がしないか?」
それを聞いた三好が思わず吹き出した。
「確かに、ドリンクのラウンジも、新聞や雑誌のサービスも、映画のデマンドサービスもありますけど」と、けらけら笑っている。
「でも、さすがにそれはあんまりですね。ちょっと的を射ているように聞こえるところが、たちが悪いです」
「爆笑した時点で、お前も共犯」
「えー」
ファーストクラスなんか利用したことのないもの同士で、戯言を言い合っていると、みどりさんが訊いてきた。
「お前らな……それで、あのテンションの高い女は、いったい何者なんだ?」
「あの女性は、うちのダンジョンブートキャンプの教官で、ダンジョン攻略局から引き抜いてきたというか、借りてきた人なんですよ」
「借りてきた? ダンジョン攻略局って、大統領直属の機関じゃないのか?」
「おお、みどりさんが専門外のことを調べてる!」
「あのな……、これからうちの会社の大きな領域を占める機器の販売先のことくらい私でも調べるよ」
「まあ、ちょっとしたご縁がありまして」
「ご縁ねぇ」
視線の突っ込みに、ハハハと乾いた笑いをあげた俺は、連れの男に話題を移した。
「それで、そちらの方は?」
俺たちのバカ話を、みどりさんの隣で一緒に笑いながら聞いていた男のことを尋ねた。
「ああ、すまん。こいつは、榊だいすけ。私の一年下だから、一応梓の先輩にあたる男だ。榊、こっちのふたりが、お前に投資してくれるかも知れない、芳村圭吾さんと三好梓さんだ」
「よろしくお願いします。榊です」
「いえ、こちらこそ。って、投資?」
「ん? お前らダンジョン関連の基金を作るとか言ってなかったか?」
「あー、ちょっと色々ありまして」
確かに作る予定はあったが、まだ稼働すらしていない。
しかも基金じゃなくなるんじゃないかという話になっているのだ。借りる方にとって見ればあんまり関係のない話だろうけれど。
「実は、大学のベンチャー仲間の懇親会で、うちのことがちょっと話題になってな」
新株発行で、大学へ委任状を取りに行ったことが話題の発端らしい。
当初、株数を十倍にする上に、それをすべてみどりさんが出資するというと、あまりいい顔をされなかったらしい。
会社の価値を株数で割ったものが、一株の価値だ。それが額面よりも高くなっているとき、新株を発行されると1株当たりの価値が薄まるのだ。
況や十分の一になりますよと言われては、いい顔をされなくても仕方がないだろう。
ところが、それで、融資を受けて会社の資産が、株式総額の百倍になるという説明を受けた瞬間、ふたつ返事で委任状を渡してくれたそうだ。上場も果たしていないのに資産が百倍だからな。そりゃキャピタルゲインが最終目的の株主は議決権など気にしないだろう。
大学関係者は、あまりのことに、つい口を滑らせたらしく、パーティではどういうことだと皆に聞かれまくったそうだ。
「詳細を言うわけにはいかないし、ちょっとバカみたいなビジネスエンジェルと知り合いになったんだという話だけはしたんだ」
バカみたいなって……きっと、バカみたいにお金を持った、の略だよな、そうに違いない。たぶん。
「それで?」
「いい感じに酔いが回ってた先輩に、どっかの金持ちの愛人になったのかと言われた」
「ぶっ」
俺が思わず吹き出すと、みどりさんは、笑顔のままで、額に青筋を立てた。
「もちろんぶん殴っておいたぞ? 再現してやろうか?」
「ケ、ケッコウデス」
「ま、百億も投資してくれるんなら、愛人くらいなってもいい、むしろならせて下さいってやつも一杯いるだろうよ。そういう訳でな、紹介してくれと言うやつらが大勢いたんだが――」
「うちは、ユニコーン企業以上でないと相手にしませんからとでも言っておいてください」
「どこの、頭がみっつで胃袋ひとつな怪獣ファンドですか、先輩」
ユニコーン云々は、通信大手のソフトバークが立ち上げたファンドが、日本企業への投資がほとんど無いことを問われた時に言った言葉だ。
キングギドラを彷彿とさせる三好の表現は、もう二年も前に、そのファンドが、ファンド・マネージメントを本業にしている企業を買収したときに、外国法事務弁護士に言われた台詞なのだ。
もっとも、キングギドラの胃の数がひとつなのかどうか、俺は知らない。
よく覚えているのは、彼らがその三つ目の頭を増やすとき、「ソフトバークは、ソフトバーク2.0への変革を加速させることでしょう」というプレスリリースを出したことくらいだ。
IT業界では、なんちゃらかんちゃら2.0と言われただけで、うさんくさいバズワードフィルターがかかるものなのだが、通信会社がそんなリリースを出したことに、投資方面ではまだ平気なのかねと驚いたものだった。
「もちろん、私も、そいつらの研究が今どうなってるか知らないし、急に言われても無理だと断ったよ。ただ、こいつの研究はお前ら向きだと思ってな」
「俺たち向き?」
「もちろん、うちが投資してもいいんだが、運転資金として振り込まれた金を勝手に投資するのもどうかと思ってな」
「そりゃあたりまえですよ」
俺が呆れたように言うと、みどりさんは、はたと何かを思い出したような体で、三好の方を振り向いた。
「それで思い出した。梓もいきなり全額振り込むなよ。銀行が何事かって飛んできてたぞ? すごいぺこぺこしてて、ちょっと気持ちよかったが」
「すぐに、金融商品の勧誘電話が掛かってくるようになりますから、気をつけてくださいね」
「すでに債権だのREIT《リート》(不動産投資信託)だののパンフレットを山ほど置いていったぞ。だが、金を借りようと頭を下げに行ったとき、門前払いされた恨みがあるからな」
そう言ってみどりさんがにやりと笑った。
銀行も、いきなり支店の口座に百億円が振り込まれたら、そりゃ、何事かと驚くだろう。
常磐医療機器研究所は取締役会非設置だから、とりあえず全社外株主の委任状を取ってしまえば、さくっと新株が発行できる。ほとんど一日で手続きは終わったそうだ。
一〇〇%の議決権だから、有利発行もくそもない。それで、会社の口座に九千万を振り込めば新株発行は終了だ。みどりさんの株式保有数は六%からめでたく九六%になった。
そして不思議なビジネスエンジェルが、九〇%の株式と引き替えに百億円を投資したことになっている。
最初は四六%の予定だったのだが、当のみどりさんにアホかと一蹴されたのだ。
誰も反対しなかったのかと聞いたら、「あのな、資産価値が百倍になるってのに、誰が反対するんだよ」と言われた。
俺たちの株式の委任状は、みどりさんに渡してあるし、なべて世はこともなしってやつだ。
「それで、どんな研究を?」
俺は、話を元に戻した。
「それがな、内容が斬新すぎて、うちの大学のベンチャーでも手が出せなかったしろものなんだ」
みどりさんは、苦笑しながらそう言った。
「斬新?」
「なにしろ失なわれた手足を元に戻そうって研究だ」
「は?」
再生医療ってことか?
しかし地球の再生医療で、手足を生やすなんてことはできない。とするとポーションか?
手足が生えるのは、確か――
「それってランク7以上のポーションを作り出そうって研究ですか?」
俺は信じられないと言った顔で聞いた。
彼はその質問に慣れていたのか、ちょっと苦笑気味の笑顔を浮かべていった。
「いえ、それは違います」
ポーションの効果は非常に短期間の間に現れるが、この研究はそうではないそうだ。
「これは、筑波大学の千葉先生の研究の延長線上にあるんですが――」
そうして彼は、嬉々として説明を始めた。
一般的な脊椎動物では、大きな怪我をすると、その傷を素早く塞ぐために繊維化することで生命を失うリスクを下げる。そうして残るのが傷跡だ。こういう回復を瘢痕《はんこん》治癒と呼ぶらしい。
ところが、世の中には、無瘢痕《むはんこん》再生というものがあって、傷跡なしできれいに再生する脊椎動物が存在するそうだ。
「うーん。トカゲとかかな? しかしカナヘビも失われた尻尾をそう簡単に再生したりできないし……プラナリア?」
「先輩、いつからプラナリアが脊椎動物になったんですか」
「惜しいです。形はよく似ていますけど、実はイモリなんです」
「イモリ? あの腹の赤いヤツ?」
「はい」
彼の話によると、イモリは怪我をしてもまったく傷跡を残さずに回復するらしい。
それどころか、尻尾はおろか、手足を落としても完全に回復するし、眼のレンズや網膜、脳や心臓の一部でさえも、死にさえしなければいずれ完全に復元されるのだとか。
「手足を切り取っても、約五ヶ月で完全に新しい手足が生えてきます」
「なんじゃそりゃ?!」
「とても脊椎動物とは思えませんね」
俺は単なる思いつきで質問した。
「遺伝子に、なにか特別なところがあるんですか?」
「千葉先生たちも最初はそう考えました。そして、腕の再生時に発現が増える遺伝子を探したんです」
彼は頷きながらそう言った。
「その結果、イモリに固有の想定したような遺伝子は発見されませんでしたが、進化過程で出現したと思われるひとつの遺伝子が見つかりました」
「じゃあそれが、幹細胞の発生を誘発する?」
腕が完全に復元すると言うことは、未分化の状態の細胞が必要になる。
それは一般的には幹細胞だ。しかし脊椎動物の幹細胞の大部分は、生命が発生した後の短い期間にしか存在しないはずだった。
「いえ、幹細胞ではなく、イモリの細胞には脱分化する――つまり未分化状態に戻る――機能があるんです。」
「脱分化?」
「はい。それで先生たちも、最初は、この遺伝子が細胞の脱分化を制御する、核ではたらく転写因子ではないかと予想しました。しかし――」
それが細胞膜に結合する膜タンパク質の遺伝子であっただの、さらにそれは赤血球の一部を構成するものだっただの、彼は夢中になって、専門用語満載で十分くらいしゃべり続けていた。
ポリクロマティック・ノーモブラストに特異的に発現するニューティック・ワンがどーのこうの。
ポリクロマティック・ノーモブラストは、エリソロサイト・クランプを形成するだのなんだのって、それ、日本語にしたら単に赤血球の塊って意味じゃないか? と思わず突っ込みかけた。
「な、梓。理系の男って最低だろ?」
「今、ちょっとだけそう思いました」
中島を擁護したことのある三好だが、さすがにこれには閉口していたようだ。
「あ、すみません」
榊君は、二人の様子に気がついて、熱くなりすぎていたことに気がついて謝った。
この調子でベンチャーのプレゼンをやったら、そりゃ落ちる。出資者の大多数は、プレゼンの内容が理解できないからだ。
「つまり、大まかに言うと、イモリにおいては赤血球で発現する特別な遺伝子――ニューティック・ワンでしたっけ? が機能を発揮して、その結果筋肉の細胞を未分化状態に戻す、脱分化でしたっけ? ってことですよね」
「そうです、そうです」
「そして脱分化した細胞が細胞分裂して、失われた部分を形成した後、骨や筋肉に分化していって、元の状態を回復する」
「その通りです」
榊は満足げに頷いた。
「イモリの無瘢痕《むはんこん》再生の仕組みの概要は分かりましたけど、それが榊さんの研究とどう関係するんです?」
「それなんですが――」
ダンジョンには、再生スキルを持ったモンスターは多い。代々木で発見済みのモンスターの中なら、最たるものはトロルだろう。
彼はイモリにおける特殊な赤血球の役割を、そう言った再生スキルを持ったモンスターのドロップアイテムで代用できるのではないかと考えたそうだ。
「いくらイモリが優れているからと行って、まさか人間にnewtic1を組み込むわけには行きませんからね」
そういう彼の笑顔がちょっと怖い。優秀な科学者ってやつはどこかにマッドな雰囲気があるものだが、彼もその例に漏れないようだ。
「有尾両生類になるのは勘弁ですね」
俺はそう冗談めかして言うことで、場の空気をうやむやにした。
ともかく、彼は、その方向で研究を勧めた結果、どうやらマウスの尻尾の不完全再生までは実現したそうだ。
「それはそれで凄いと思いますけど」
「しかし、外形の不完全再生では、使いどころがありません。もうちょっとで何とかなりそうな気がするんですけど――」
なにしろダンジョンのドロップアイテムは希少で高価だ。研究資金も期間もどん詰まりで、いくつものVCの扉を叩いてみたが、どこも首を縦に振らなかったそうだ。
時代はiPSに期待しているし、トンデモな再生医療技術は、倫理問題にも抵触しかねない。
「しかしこれって、iPS細胞研究とどう違うんです?」
患者から取り出した細胞を操作することで、それを多能性幹細胞化したものがiPS細胞だ。
「今のところiPSで、手足は生えてきませんね」
彼はこともなげにそう言った。
そりゃそうだ。筋肉に分化するiPS細胞は作れるだろう。骨に分化するそれも可能かもしれない。しかし、「腕」に分化する細胞を作るのは難しいというより現時点では不可能だろう。
その時俺はふと思った。
「イモリって、掌だけ切り取っても、肘のすぐ下を切り取っても同様に再生するんですか?」
「え? ええ、そうなります」
「今仰られた仕組みで再生が行われるのだとして、腕が長くなったり短くなったりしないってことは、何かが適切なところでアポトーシスを誘発しているってことですよね?」
例えば人間の手は、胎児期に幹細胞から形成される。
始めは大雑把な外観が作られ、後に自然が彫刻刀を振るうかのごとく、指になる場所の隣にある細胞が死滅して指を形作るのだ。このプログラムされた細胞の死滅をアポトーシスと呼ぶ。
「生物学にお詳しいんですか?」
「以前、田沼先生の書かれたUP BIOLOGYシリーズを拝読したくらいですが」
「ああ、書かれた時期が時期ですから最新の知見は含まれていませんが、よくまとまったいい本ですよね。薄いのもいい。僕も読みましたよ」
話を聞いていてとても不思議に思ったのは、肘の下で切られたのか、手首の先で切られたのか、どうやってイモリは判別しているのだろう?
ポーションなら、ダンジョンの不思議パワーで片付くが、イモリはそう言うわけにはいかないだろう。
「仰るとおりですが、我々は元に戻る仕組みの研究であって、それ以外の部分で、なにがどのタイミングで、どんなスイッチを押すのかは後回しなのです。強いて言うなら――」
「言うなら?」
「――ミトコンドリアあたりが、その生物の形を知ってるんじゃないでしょうか」
彼は笑いながらそう言った。
「お話はよくわかりました。ともかく、人間の筋細胞を脱分化する物質か、それに変わる何かが見つかれば、もしかしたら再生が行われるんじゃないかと言うことで研究を進めた結果、後少しの処まで来ている気がするということですね」
「非常に大雑把に言えばその通りです。もう少し詳しく説明すると――」
「あ、いや、それはまたの機会に」
「そうですか?」
榊は残念そうに、そう言った。
いや、あの呪文攻撃をもう一度喰らったら、倒れる自信がある。
俺たちは、彼らの飲み物を差し替えて、休憩を装いながら、念話で相談をはじめた。
(どう思う?)
(言ってみれば夢の研究ですよね)
(まあ、普通の人にとっちゃ、荒唐無稽に聞こえるだろうな)
ただし、ダンジョン内のモンスターは、本当に驚くべき速度で再生を行っている。
それを、自分の目で見ていれば、もしかして人間にも応用できるのかもと思っても仕方がないだろう。
それに俺たちは、超回復による神の御業も、目にしているのだ。俺に到っては二回も。
(だけど、私たちは、彼の話を聞いただけで、その研究成果もデータも何一つ見てませんけど)
(お前、データを見せられて理解する自信があるか?)
(あまりにも畑違いですからねぇ……大学の教養レベルじゃだめですよね)
たしかにそれくらいで判断できるレベルなら、なんとかなるかもしれないが、詳細や、期間に関する見通しともなると、まるで判断できるとは思えない。
(この先にしたって、あまりにも専門的になったら、俺たちじゃ判断は難しいかもな)
(ここは外部の専門家に依頼する必要が……って、同一ジャンルじゃ盗まれるかもって嫌がる人がいそうですね)
そこはNDA(秘密保持契約)を結んでとも思うが、生理的な部分まではフォローできない。
それにしても、投資事業に思わぬ敵が立ちはだかったものだ。まさか研究を確認する暇と知恵がないとは。
(世のエンジェルの皆さんは、一体どうやって判断してるんだ?)
(コンセプトを聞いて儲かりそうかどうかで判断するんですかね?)
(ああ、それでユニコーンだの、五年で十倍だの、敷居が高いのか)
つまりは失敗率が高いってことだ。
(でも先輩)
(なんだ?)
(とりあえずみどり先輩は信じてますから、ついでに信じちゃってもいいんじゃないでしょうか)
(ついでってな……まあ、しょせんは一億とかだもんな)
(なかなか凄いことを言ってますよ)
三好が笑って、そう突っ込んだ。
いや、だってなぁ……持ちなれない大金を持つと、なんだかそれの価値がよくわからなくなるんだよ。
(いざとなったら、うちのバイオ投資の案件は、みどりマネージャーに丸投げするか)
(それは良いアイデアです! 少なくとも私たちよりはましでしょう)
(そうと決まれば、彼女の紹介案件だから、そのままGOでいいな)
(了解です)
そうして、コーヒーのカップをテーブルに置くと、俺はおもむろに、榊さんに必要なものを聞いた。
「それで、具体的に、榊さんの研究には何が必要なんです? お金ってのは、何かを買うためのものですよね? 具体的に何を買いたいんですか?」
「一番お金を喰うのは、ダンジョン産のドロップアイテム――今のところはトロルの皮、ですね」
「回復系のスキルを持ったモンスターは結構いますが、他のアイテムは?」
「とても手が回りません。そういうモンスターのアイテムは、大抵武器や防具の素材になったり、薬になったりするので、研究市場に出まわること自体が少ないんです」
大手企業は、自分のところの契約冒険者に取りに行かせるもんな。
フリーの冒険者が日本ダンジョン協会に売却したアイテムが市場に流れるわけだが、そこは資本主義、需要と供給を考えれば、結構な金額になることは想像に難くない。
「では、お金の他には、アイテム類をご用意すれば?」
「え? 投資していただけるんですか?!」
「あなた、何しに来たんですか」
俺は笑いながらそう言った。
彼は信じられないという顔をして、俺とみどりさんを交互に見ていた。
「いや、だって……いままでの人って、僕の説明を聞くと、すぐに言葉を遮って、あげくに、それはカネになるのか? なんて聞くんです」
まあ、あの説明を聞かされては仕方ないような気もするが……質問もそれ以外尋ねられる所がないというか、なんというか。
「それで、わかりませんと答えると、大抵お帰り下さいと……ううっ」
彼は感極まったのか、涙ぐんだ。
「みどりさーん」
俺は彼女に助けを求めたが、彼女は処置なしとばかりに軽く肩をすくめただけだった。
「じゃ、じゃあ、契約書類は、三好と交わして貰うとして、金額はどうします? 会社にされてるんですか?」
「いえ、まだ正式に会社にはしていません」
「じゃあこの際、会社にしてはいかがです? いいよな、三好」
「そうですね、その方が出資しやすいですし。とりあえず一億くらいでいいですか?」
「いちおく?!」
その話を聞いた榊が驚いたような声を上げた。
いや、バイオ系の企業だと考えれば格安どころの騒ぎじゃないと思うが……
「は、はい。よろしくお願いします」
「よし、話はまとまったな。細かいことは梓に任せればいいだろう」
「了解でーす」
そちらで話が始まったので、俺は少し席を外すと、レストルームに隠れて、保管庫から以前マイトレーヤと行ったときに取得したトロルの皮を四枚と、三好が歓喜していたレッサー・サラマンドラの尻尾を取り出して袋に詰めた。
まあ、あいつも売る気だったみたいだし、いまさらアイテムを売りに出す必要もないだろうから文句はないだろう。袋がコンビニ袋なのはどうかと自分でも思うが。
そうして、事務所側へと戻ると、その袋を榊さんの前に置いて言った。
「じゃ、これはお土産です」
「なんですか?」
「とれたてピチピチの、トロルの皮が四枚と、レッサー・サラマンドラの尻尾が一本入っています。どちらも回復系のスキルを持ったモンスターですよ」
「ええ? レッサー・サラマンドラの尻尾?!」
「あれ、珍しいの?」
「先輩、漢方の超高級素材だって言ったじゃないですか」
「いや、三好がいつまでも売らないから、大したことないのかと思って」
「まあ、いまさら売るのも面倒なので、ここで使い道があるならそれでいいですけど」
それを聞いた榊が「め、面倒って……コンビニ袋って……」と呟いていた。みどりさんが「諦めろ、こういうやつらなんだ」と耳打ちしている。
なにしろイモリから出た研究だ、榊もそれには大きな興味があったが、トロルの皮以上に手に入らない素材で諦めていた経緯があったらしい。
ともかく、これで、研究が継続できると嬉しそうだった。
会社の設立に関しては、三好がやってくれるそうだ。大丈夫なのかよと聞いたら、「会社の設立も丸投げで出来るんですよ、すごいですね」と言いやがった。そんなんでいいのかよ。
そうして、彼は、ぺこぺことバッタのように頭を下げながら、みどりさんと帰っていった。
「変なひとでしたねぇ」
「うちに変でない人が来たことがあったか?」
「……そう言えばありませんね。類友ってやつですかね?」
ちろりと三好がこちらを見て、そんなことを言った。
「もちろん、類はお前だろ?」
「ええー? 先輩でしょ?」
俺たちは、類を押しつけ合いながら、事務所へと戻った。
149 掲示板 【次は】Dパワーズ 203【何をやらかすのか!?】
1:名もない探索者 ID:P12xx-xxxx-xxxx-2198
突然現れたダンジョンパワーズとかいうふざけた名前のパーティが、オーブのオークションを始めたもよう。
詐欺師か、はたまた世界の救世主か?
次スレ 930 あたりで。
…………
103:名もない探索者
代々ダン情報局が、リニューアルしてる!
104:名もない探索者
それここのネタか?
105:名もない探索者
いや、だって、Dパワーズに汚染されたんだろ?
106:名もない探索者
汚染www
確かに小さく「collaborated with d-powers」とあったが……
107:名もない探索者
collaboratedと書くからには、やっぱワイズマン様のご協力があったと考えるべきなのでは。
108:名もない探索者
今後は日本ダンジョン協会にアイテムを隠さず提出すれば、ワイズマンが鑑定してその結果が反映されるわけか。
未提出の未発見アイテムが減るかもな。
109:名もない探索者
鑑定の内容に何が書かれているのかは、賢者様しかわからないから、取得状況とかでウソをつくのが難しいよな。
もし取得場所が書かれていたら、完全にアウト。
1十:名もない探索者
それより、あのリニューアル後のUIってマジもんなわけ?
111:名もない探索者
マジもん。アプリをダウンロードして確かめてみるといいよ。 > 110
パソコンも、windows / macOS版が用意されているから。linuxなら近日公開らしいから諦メロン。
112:名もない探索者
バーチャルダンジョンだろ? あの3Dマップとかどうなってんの? ストリートビューかと思ったら、どう見ても完全3Dなんですけど……
もしかして、ダンジョンマップじゃ世界初?
113:名もない探索者
たぶん世界初 > 112
ただ、今までのストリートビュー風マップの所と、完全3Dの所があるみたいだな。
114:名もない探索者
流石に代々木全体を3D化するわけにはいかないか。
115:名もない探索者
それでも、主要ルートのみとはいえ、三十一層までデータが揃ってるって凄くないか? ダンジョン攻略の最先端だぞ。
116:名もない探索者
第一このデータって誰がどうやって作ったんだ? 映像から3Dデータにしてんの? あれ。
117:名もない探索者
いや、解説によると、超音波センサー等による深度のポイントクラウドからデータを抽出してレンダリングされているらしい。だから形はかなり正確みたいだ。
118:名もない探索者
セーフエリアが発見されて、ものを運び込むのに正確なマップが必要だから作ったんじゃね?
119:名もない探索者
ああ、搬入する荷物が通過できるルートを考えないといけないのか。
120:名もない探索者
作ったんじゃね? で作れるようなデータか、あれ?
121:名もない探索者
賃貸借価格2Dマップにリンクしていて草。
122:名もない探索者
セーフエリアが発見されたからなぁ。そういうルールも整備が必要ってことだろ。
123:名もない探索者
個人やパーティでダンジョン内の場所を借りて拠点を作るような時代になったんだねぇ……とは言えスライム問題は解決していないわけだが。
124:名もない探索者
そこは常駐して、基地にするとかじゃないの。空き家は無理だろ。
125:名もない探索者
セーフエリアの価格は?
126:名もない探索者
今のところセーフエリアは区分けが出ただけ。どうやら競争入札にするらしい。
127:名もない探索者
なんとまあ。
128:名もない探索者
なぁなぁ、お前ら。協力とはいえ、いい加減スレチじゃねーの?
129:名もない探索者
よく見ろ、マップの下。
)つ データ提供:ダンジョンパワーズ
130:名もない探索者
おうふ?! なんぞこれ……データ提供? 日本ダンジョン協会ちゃうのん??
131:名もない探索者
奇しくも116の疑問は解決したわけだ。
しかし、俺、梓ちゃんをダンジョン内でみたことないんだが……どうやってこれを?
132:名もない探索者
別に、本人が潜らなくても良いだろ。
133:名もない探索者
以前のダンジョンビューなら、マタンゴが歩いているのを時々見かけたけど、こんなデータを取得するような装備を付けたヤツなんかいたか?
しかも主要ルートだけとは言え、三十一層までマップ化されているし、一体どうなってんだ??
134:名もない探索者
マタンゴが草
135:名もない探索者
いや、頭の上にキノコのかさみたいなのがついてて、そんな感じだろ。
136:名もない探索者
たしかに。>マタンゴ
137:名もない探索者
カメラじゃなくて超音波センサーだからな、光学系が不要な分デバイスは小さくて済みそうな気がするが、それよりそれを処理して記録する機器はデカイのがいりそうだけどな。主にバッテリー。
138:名もない探索者
いや、光学系もないとテクスチャー化できないだろ。絶対両方くっついてるはずだ。
139:名もない探索者
一時間くらいで交換が必要になるようじゃ、どんだけ持ち込めば良いんだよって感じだ。
140:名もない探索者
え、なにこれ。ダンジョンマップ内に敵がでるんだけど (°д°)
141:名もない探索者
なにしろ完全3Dだからな。そう言うこともできるわけだ。
ちな、そいつをタップすると、モンスター情報とかドロップアイテムとか見られるぞ。
142:名もない探索者
ほんとだ! って、一覧にしろよ (;^_^A
143:名もない探索者
それは世界ダンジョン協会のモンスターDBとかアイテムDBとかの仕事ってことだろ。代々ダンはあくまでもファンサイトだし。
144:名もない探索者
ダンジョンのファンってなんだよ?!
145:名もない探索者
いやおまえ、fan じゃねーよ、fun だって分かれよ。マジレスすまソ。
146:名もない探索者
団扇サイトならぬ、内輪サイトってことですね、わかります。
147:名もない探索者
誰が上手いこと言えと(Ry
148:名もない探索者
でもこれ解説がおかしくないか? 比較してみたんだが、世界ダンジョン協会のアイテムDBより詳しい部分があるじゃん。一体どうなってんの?
149:名もない探索者
そこはそれ、賢者様がいらっしゃいますから。
150:名もない探索者
だけどワイズマンって、持ち込まれたアイテムの鑑定はしないって聞いたが。
151:名もない探索者
命に関わりそうな名称のやつはするらしいぞ。
後、しないのはきりがないからみたいだから、攻略局のバーチャルダンジョンは別なんじゃね?
152:名もない探索者
アクセス数で報酬が出るんだよ!
153:名もない探索者
広告なんかないだろ。そもそも、あいつらそんなカネまったく不要だから。
貴様、なぜそれを知っている? 関係者か? > 151
154:名もない探索者
うらやますぃー > 153。
しかし、世界ダンジョン協会のアイテムDBを先に更新しろよ!
155:151
くっくっく、ばれてしまっては仕方がない! > 153
いや、単に断られたことがあるだけなんだが。
156:名もない探索者
メーカー、乙。 > 155
担当が違うんじゃないの? こっちは一般向けの情報サイトだし。 > 154
157:名もない探索者
一般向けの方が詳しいwww
158:名もない探索者
公式よりファンサイトのほうが詳しいのは、ゲームの攻略wikiなんかじゃ普通のことだけどな。
ちなみにこっちのファンは団扇。
159:名もない探索者
そういわれりゃそうだ。
ダンジョンもゲームみたいなものってか?
160:名もない探索者
しかし、このフレーバーテキストみたいなのいるか? アイテムDBに乗せるような内容じゃないだろ。
161:名もない探索者
それな。誰が考えてるんだろ?
まあ、ファンサイトならそれっぽいからいいんじゃね?
162:名もない探索者
それ注釈があるぞ。鑑定結果に本当にそう書かれているらしい。
163:名もない探索者
マジで?!
164:名もない探索者
ダンジョン様何者?!
165:名もない探索者
くっくっく、我が右目の邪視眼がうずくわ、とか言いながらフレーバーテキストを書くダンジョン様。萌える……かもしれん。
166:名もない探索者
何という特殊性癖。
167:名もない探索者
おい! 基本ドロップ率だの特殊ドロップ率だの書いてあるんだが!
168:名もない探索者
それは経験上の値だから推測値みたいよ。
169:名もない探索者
いや、みたいよって……これ、めちゃめちゃ画期的な内容なんじゃ……
170:名もない探索者
ステータス計測デバイスだのが出てくるんだぜ? もう何も驚かねーよ。
ダンジョンはゲーム。これでFA。
171:名もない探索者
おまいら、ずいぶん訓練されてきてるな。
172:名もない探索者
先週の不破と言い、調教されまくり世。
173:名もない探索者
先週の不破?
174:名もない探索者
別府大分毎日マラソン後のインタビューを知らんのか!
175:名もない探索者
ああ、あの高田がどうとか言ってた。
176:名もない探索者
それは大阪国際だっての。
177:名もない探索者
キャシー教官キター
178:名もない探索者
え、なに? マラソンにキャシー教官が出てたって事?
179:名もない探索者
ちげーよ!
ほれ つ ...URL...
180:名もない探索者
いつ見ても笑えるよな、これ。
181:名もない探索者
「え? ええ? ちょっと待っ――」ぶつ。ワロタ。
182:名もない探索者
見て来た。こんなことがあったのか。
183:名もない探索者
なになに、リンク先何が書いてあるんだ?
見れない俺のために解説plz.
184:名もない探索者
別府大分毎日マラソンの優勝者インタビュー。>184
話題の不破選手が世界記録で優勝。インタビュワーが、最後に一言って聞くと、
「キャシー教官! やりました! ありがとうございました!」
って、不破選手が満面の笑顔で両手を振ってる。不破選手フリーダムすぎw
185:名もない探索者
当時も話題になったけど、絶対ブートキャンプだよな、これ。
186:名もない探索者
ちょっと前に、高田選手が言ってたことと合わせると、ふたりとも二十六日のキャンプを受けたってことだろうな。
187:名もない探索者
だけどさ、ふたりとも優秀な選手とはいえこれからの選手だろ? それがたった一日ブートキャンプを受けただけで世界記録?
無茶苦茶にも程があると思うんだけど。
188:名もない探索者
それは直後にも話題になった。
以前いた、力君が言ったことが本当なら、さもあらんって結論。
189:名もない探索者
力君?
190:名もない探索者
掲示板の189で登場した、自称キャンプ受講者。
ほれ )つ 【ダンジョン攻略局との】Dパワーズ 189【関係は?】
191:名もない探索者
トン
192:名もない探索者
まあ、もしかしたら、陸連にキャシーというコーチがいるのかもしれないが。
193:名もない探索者
コーチを教官なんて言わないだろ。
てか、今、日本でキャシー教官って言ったら代々木しか思いつかない。
194:名もない探索者
ふわっ、なにこれ、マジなわけ? 五〇%アップ?!
>190
195:名もない探索者
それは極端な例かもしれないが、高田も不破も大体八分くらいタイムが縮んでるからな。大雑把に言って百メートルで1秒くらい早くなってるわけ。
結果は時間だから、ダイレクトに走力を測るのは難しいけど、大体10から20%くらいは伸びてると思う。
196:名もない探索者
一日で? トップアスリートの鍛え上げられた状態から?
それって、キプチョゲがブートキャンプを受講したら、一時間54分を切るようなタイムが出るってことか?
197:名もない探索者
それは分からないが、あのキャンプの受講者は、代々木の攻略に力を貸すって縛りがあるから、キプチョゲはたぶん受けられない。
198:名もない探索者
それって、アスリートにとっちゃ、単なるダンジョントレーニングと大差ないんじゃね?
199:名もない探索者
浅い階層でランニングしてるのと、攻略に深層へ向かうんじゃ危険度が違うだろ。
200:名もない探索者
一応あの契約は、出来る限りという文言がついてるらしいが……
もっともそれ以前に競争率が高すぎて全然当選しないだろ。高田と不破ってどうやって揃って当選したんだ? なにかコネでもあったのかな?
201:名もない探索者
しかしこれなぁ。
今更だが、斎藤涼子といい、高田といい、不破といい、ブートキャンプを受けさえすればあっという間に世界記録級ってことだろ?
しかも、もし組織扱いじゃなければ三万円だ。三万円で世界記録。受けないやつがいるか?
マラソンで日本記録を出したら、それだけで報奨金が一億円なんだぞ?
202:名もない探索者
今のところ最大7人×週3だっけ? 毎週21人なんてキャパでどうするんだろうな。
203:名もない探索者
トップを争うアスリートは、三万ドルでも受講したいだろ。
204:名もない探索者
ブートキャンプの申し込みは予約じゃなくて、申し込みだから外れたら終了。一応週単位でも申し込めるんだが、どこかに申し込んだら他の週では申し込みが出来なくなるんだ。だから毎週外れる度に翌週を申し込むんだけど、当選の可否はお察し下さい……
もう、予約枠が出来るのなら、確保に30万ドル払ってもOKって気分になるよ?
205:名もない探索者
アスリートはっけーん > 204
206:名もない探索者
突っ込んでやるなよw > 205
207:名もない探索者
たしかに選考基準はあいまいだよな。
一応ベテラン探索者優先って方針はあるが、需要は圧倒的に、軍やスポーツや芸能関連だろ。
208:名もない探索者
芸能ってなんだよw そんな需要があるのか?
209:名もない探索者
ブートキャンプが出来る前に、Dパワーズで似たような特訓をやったのは、駆け出しのグラビアアイドルだったふたりなんだよ。
それがたった数ヶ月で、片や突然涌いた抜群の演技力で映画のヒロインに、片や公式を信じるならファッションウィークに出るようなモデルになってるんだぞ?
詳しいことは発表されていないが、絶対無関係なわけないって信じられてるようだ。
2十:名もない探索者
もしや、抽選する立場の人間は、ものすごく美味しい目にあえるのでは……
食べ放題?
211:名もない探索者
おいw > 210
キャシー教官に付け届けでもやるか?w
212:名もない探索者
運動会を前にして、足が遅いことを悩む運痴の中学生なめんな。
213:名もない探索者
ああ、思春期の頃は結構悩むよな、そういうの。 > 212
学校休みたくて仕方なかったわ。
214:名もない探索者
そんな需要が…… > 212
215:名もない探索者
あああ、返す返すも、高田と不破がねたましい!
一体あいつらどうやって!
216:名もない探索者
先月の二十六日のやつは募集期間が凄く短くて、募集が始まってることすらわからないくらいだったから、サイトができた瞬間から真剣に張り付いていたやつだけが申し込めたみたいだ。
だから競争率が低かったんだろ。
217:名もない探索者
だけどさ、こんな状況が続いたら、似たようなことやる会社やパーティが出るんじゃないかと思うんだが。
218:名もない探索者
それな。> 217
需要は超あるよな。儲かりそう。じゅるり。
219:名もない探索者
訓練のノウハウはどうするんだよ?
高地トレーニングみたいに、ただダンジョンの中で訓練するようなやつは、いままでだってあっただろ? 効果のほどは懐疑的だったけどさ。
220:名もない探索者
それはもう、Dパワーズのマルコピで。
221:名もない探索者
そういや力君が、それができそう、みたいな話をしてたよな。
222:名もない探索者
確か、オープン前の初回DBCを受けたのはダンジョン攻略局のサイモンチームだろ? それに、キャシー教官もダンジョン攻略局出身だし。
ダンジョン攻略局はすでにコピーして訓練に追加しててもおかしくないな。もしかしたら一般向けの商売も始めるかも。
223:名もない探索者
それもこれも、ステータス計測デバイスが発売されてからだろうけどな。
あれ、いつだっけ?
224:名もない探索者
一応予約開始は三月一日だって公表されてるぞ。テスト出荷は三月10日からだが、数は相当少なそうだ。
ブートキャンプと違って、こっちは単なる申し込み順だと。
225:名もない探索者
裸で正座して待たないと。
226:名もない探索者
いや、簡易版の方でも100万近いんじゃないかって言われてるから、そうほいほい買えるものでも……
227:名もない探索者
)つ テンバイヤー > 226
228:名もない探索者
いや、説明を読む感じじゃ、転売出来ないんじゃないかな。はっきりとは分からないんだが。
229:名もない探索者
マジで?! どうやって?!
230:名もない探索者
計測結果は、センターに送られて処理されるっぽいから、スタンドアローンでは動作しないんだよ。
だから機器IDなんかも利用してるんじゃないかなぁと。
231:名もない探索者
それって、購入するのに身分証明が必要で、計測するのに通話料がかかるってこと?
232:名もない探索者
wi-fiでいいだろw > 231
身分の方は分からんが、通話料の方は、月額のセンター利用料みたいなのが掛かるのかもしれん。
ともあれ、無差別に大量に計測できないのは、実はいいことかもな。
233:名もない探索者
ああ、プライバシー問題か。最初はいろいろ混乱しそうだもんな。
234:名もない探索者
なんにしても楽しみだ。
...
150 佐山繁とネイサン=アーガイル 2月8日 (金曜日)
「はじめまして。佐山と申します。今回はよろしくお願いいたします」
そう言って、手を差し出したのは、少し顔色の悪い細面で眼鏡をかけた、いかにも学者然とした男だった。
「芳村です。こちらは、パーティメンバーの三好です。こちらこそよろしくお願いいたします」
先日、商務課のヘイト管理に引き受けた依頼通り、農研機構の研究者が本契約にやってきたのは、それからわずか二日後のことだった。
7日の講習会を受けて、世界ダンジョン協会カードは二日後の明日、取り置きで受け取ってそのまま出発という強行軍らしい。
なにしろゲストは完全な初心者で、しかも中年だ。二十一層まではどう頑張っても二日はかかるだろう。最短でも往復四日。下手をすればそれ以上かかることになる。
「まずは契約内容の確認ですが――」
指名依頼の仮契約は日本ダンジョン協会と依頼者の間で交わされている。
料金は、日本ダンジョン協会に標準的な計算式があるのだが、著しく問題のある金額になる場合は、相談のもとに決定するということになっている。実は今回はこれにあたるため、直接面会しての契約と相成ったわけだ。
「契約内容は、研究者一名をできる限り安全に二十一層に連れて行って、そこで活動後、地上へと連れて帰ること。また、ダンジョン滞在中の一般的な食と住の提供。それでよろしいですか?」
「はい」
「ところで、活動というのはなにを?」
「主要な用件は、いただいたせとかの木の枝を持ち帰ることです」
「枝?」
「はい。あまりに不思議な柑橘だったので、果樹茶業研究部門で挿し木してみようということになりまして」
俺は鳴瀬さんを見て、日本ダンジョン協会的にそれが許される行為なのかどうかを確認した。
彼女は微かに頷いて日本ダンジョン協会がそれを許可していることを教えてくれた。
「分かりました。まあ、ダンジョン内でホテルや旅館のような待遇を期待されても困りますが、標準的な探索者の待遇くらいは保証しますよ」
緊張をほぐそうと、軽いノリで付け加えた俺のセリフを、佐山は神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げ、瞬きをしながらまともに受け止めた。
「よろしくお願いします」
今回の依頼は、俗にいう護衛依頼だ。
つまり俺たちは、道中の安全を保障するのが仕事で、彼の研究や仕事にはタッチしない。
以前はその境界があいまいだったらしいが、研究内容をめぐってトラブルが起こってからは、ノータッチが基本になっているようだ。もちろん手伝いのための依頼があれば、それは別だ。
「では、こちらにもサインを」
俺は三好から受け取った書類を彼に差し出した。
「なんです、これ?」
「NDAです。この探索の間に見聞きした我々の情報には守秘義務が生じるというものですね」
「守秘義務?」
「例えば、彼女が魔法を使ったとします」
俺は三好を掌で指して言った。
「え?」
「あなたは、彼女がその魔法を使ったことを誰にも伝えることができません」
探索者のスキルや行動は、基本隠蔽される傾向にある。
誰しも切り札は他人に知られたくないものだからだ。それが命にかかわるとなれば、なおさらだ。
「もし、伝えた場合は?」
「活動に支障が生じたとして、過去一年分の我々の収入と同額が賠償金額となります」
「え? 一年分ですか?」
「はい。本来ならそれ以降の探索活動全体にかかわる問題ですが、さすがに生涯年収の減額分を請求するのは躊躇われましたし、計算も難しいので一年分でよしとしました」
「すでに周知の事実の場合は?」
「例えば彼女が鑑定を持っていることは、知られた事実ですので、そういう情報はNDAの範囲外です。もっともその鑑定の詳細については、NDAに含まれますのでご注意ください」
「わかりました」
佐山は別にそんな話を他人に吹聴するつもりはなかったし、多くても1千万くらいだろうと、漠然と考えてサインした。
単一パーティの過去一年の収入が、今に限って言えば、バーレーンの歳入規模に匹敵するなどとは夢にも思わなかったからだ。
NDAの締結が終わると、鳴瀬さんが後を引き取った。
「それで、依頼料のことですが――」
「え? 商務課の方には日本ダンジョン協会の標準価格ということで話を伺っていますが」
「日本ダンジョン協会の指名依頼基準ですと、そのパーティの、過去一年間の収入の日割が標準価格になるのですが――」
鳴瀬さんが、そう説明した。
もっとも、依頼によっては、様々な手当てがついたり、逆に安くなったりすることもあるそうだ。あくまでも目安ということだろう。
「そう伺っています」
「ただ、それで金額に問題が生じる場合は、契約時にお互いの話し合いで決めるのが通常の手続きなのです」
「問題? プラスアルファが必要だということでしょうか?」
佐山は自分たちの依頼を振り返って訊いた。
なにしろ初心者まるだしの一般人を、つい最近までは深層と呼ばれていた二十一層まで安全に送り届ける仕事だ。危険割り増しがあってもおかしくはない。
「佐山さん。Dパワーズの過去一年間の収入を日割りすると、大体十二から十三億円になるんです」
「は?」
佐山は自分の耳を疑った。
日給十二億? イラクディナールでもソマリアシリングでも、絶賛下降中のボリバルだったとしても、とても支払えるような金額ではない。
もし、それが本当なら……、とそこで彼は、先ほど交わしたNDAの内容を思い出した。
「ちょ、ちょっと待ってください。じゃ、さっきのNDAの違約金って……」
「四千五百億円ちょっとですね」
「ヴぞっ……」
佐山は目を点にして固まった。
「まあそれは守秘義務を守っている限り課せられないわけですから問題ないとしてですね、さすがに標準価格での依頼には無理があると思うのですが……」
「い、一般的にこの仕事をこなされる程度の探索者さんの平均はどのくらいでしょう?」
「そうですね。パーティ単位ですと、一日の最低ラインが二十万円くらいでしょうか」
月に二十日稼働するとして、一日二十万なら月収四百万だ。
大金のように思えるが、六人パーティなら、一人六十六万程度にしかならないわけで、二十層を超えられる探索者の収入としては格安といえた。
佐山はその金額に慌てた。経費も込みだとすると、どう考えても百万を超える可能性がある。
「ちょ、ちょっと上司に連絡して確認してまいりますので、少し待っていていただけますか?」
「はい。会議室内は携帯が使えませんので、ロビーでどうぞ」
「わかりました」
そう言って、佐山は汗をかきながら部屋を出て行った。
その後姿を見ながら、俺は鳴瀬さんに言った。
「鳴瀬さん。彼、まさかあのまま潜られるんですか? せめて初心者セットくらいは用意していただかないと……」
「それを芳村さんが言いますか」
彼女は思わず苦笑した。
たしかに普段着でふらふらと入ダンしていたのは自分だが、あれはダンジョン内のことをよく知らなかった頃の話だし、さほど危険のない一層にしか行かなかったからという理由もある。
とはいえ、二層以降でフロアに比して防具が貧弱だと、親切心を全開にするおせっかい探索者は非常に多く、俺たちも散々アドバイスという名の説教を受けた。
行き先が二十一層なのに、防具なしは、探索者のおせっかい心に火をつけるのに十分な状況だ。
「護衛依頼では、護衛対象の服装に規定はないんです。それが原因で負傷した場合は自己責任ですね」
「意外と厳しいんですね」
「危険地帯へ行くのに準備を怠ったのが原因で負傷したら、大抵は自己責任だと思いますよ」
サファリパークで、勝手に自動車から出てライオンに襲われた場合、その責任までパークは取り切れないってことだろう。
その時、部屋の外から、バタバタと走る音が近づいてきた。
「戻ってくるにしては、早くないですか?」
三好がそう言った瞬間、勢いよくドアが開くと、赤毛の髪を無造作にカットした、エネルギーにあふれている男が飛び込んできた。
『ひゅー、どうやら間に合ったみたいだぞ』
「え、ロビン・ウィリアムス?」
その男の顔を見て三好が思わずそうこぼした。確かに似ている。が、もっと似ている肖像画を見たことがあるぞ。
「というよりこれは……あの偉大な数学者」
「ああ!」
「「ガウスだ!」」
俺と三好は顔を見合わせながらそう言った。
そう、その顔は、クリスチャン・アルブレヒト・ジェンセンが描いたガウスにとてもよく似ていたのだ。髪型は違っていたが。
『ガウス? 惑星怪獣じゃないだろうね?』
『怪獣?』
『あれ? 去年までクランチロールでやってたけど、あれって、日本のトクサツじゃないの?』
研究機関の人?がクランチロールでトクサツをチェックしてるとは、時代だなぁ……
『いや、俺たちが言ったのは、数学者の方ですけど……』
『そいつは光栄だ。そういやちょっと似てるかもしれないな』
『ミスター・アーガイル。挨拶どころか、ノックもしないで、何をやってらっしゃるんですか』
飛び込んできた男が、まんざらでもなさそうにほほ笑む後ろから、いかにもできる女然とした、シックにモノトーンでまとめた背の高い女性が現れて、彼の行動に突っ込みを入れた。
『あ、これは失礼。あー、私はネイサン=アーガイルだ。ここはDパワーズの打ち合わせに使われている部屋であっている?』
「ネイサン=アーガイルって……」
鳴瀬さんが、驚いたように目を見開くと、つかつかと彼の前に出て言った。
『失礼ですが、DFAのアーガイル博士ですか?』
『そうだ。君は?』
『日本ダンジョン協会のミハル・ナルセと申します。Dパワーズの専任管理官を拝命しています。博士が来日されるという話は、私も耳にはしていましたが、どうしてここに?』
世界ダンジョン協会の大物が来日するとなると、通常その相手をするのは国際協力課だ。
この課はダンジョン管理部の下にある課で、主に世界ダンジョン協会との連絡や連携を主要な業務にしている。
『もし、場所をお間違えなら、国際協力課までご案内させていただきますが』
『いや、目的はここであっている。デミルから聞いたんだが、今日ここでDパワーズの指名依頼の話が行われてるんだろう? 二十一層へオレンジを取りに行くっていう』
「デミル?」と、俺が呟くと、鳴瀬さんが、「デミル=アンダーソンは国際協力課の課長です」と簡潔に補足してくれた。
『確かにそうですが、それと博士がここにいる関係がよくわからないのですが』
『簡単さ。私たちも便乗させてもらおうと思ってね』
『はい?』
「おい、三好。今便乗させてもらうとか言わなかったか?」
「奇遇ですね、先輩。私にもそう聞こえました」
『お待ちください、博士。現在は、指名依頼の契約の真っ最中ですよ。便乗と申されましても……』
『固いこと言うなよ。ちょっとだけ、な!』
親指と人さし指で、ちいさい隙間を作って、目の前でちょっとだけポーズをとっている。
「なんだか、めちゃくちゃフリーダムな人っぽいぞ」
「このいい加減さで、よく世界ダンジョン協会の偉い人になれましたね……」
『普段は、きちんとした方なんですけど、今回はちょっと舞い上がってまして』
俺たちの話を聞きつけたのか、彼についてきていた女性が、すまなそうにそう言った。
『え、日本語は――』
『少しだけ』
しまった。うかつなことは言えないな。
というか、アーシャと言い、日本語が話せる人って意外と多いんだな。
『それはどうも失礼しました。私はDパワーズのケイゴ・ヨシムラです。彼女はアズサ・ミヨシ。ワイズマンって言うほうが有名ですけど』
『うわぁ、ご高名は存じております。私は、シルクリー=サブウェイです。博士のアシスタントをしています』
ご高名ときたか。さすがはワイズマン。その名前は、世界ダンジョン協会にも鳴り響いているようだ。
鳴瀬さんと博士が、微妙にかみ合わないやり取りをしている間に、俺たちは、シルクリーさんから、彼が今回来日した理由について説明を受けていた。
『じゃあ、あのレポートを読んだんですか?』
『はい。最初はなんの妄想かと思いました』
『確かに。私たちも自分たちの身近で、それが起きるまでは信じられませんでしたから。それにしても対応が早かったですね』
『それは提出者があなたたちだったからですよ』
シルクリーさんがまじめな顔でそう言った。
彼女によると、世界唯一の鑑定持ちがいるパーティが提出した、驚愕のレポートで、しかもその証拠が代々木に存在しているという。
これが世界に与える影響は、非常に大きなものになる可能性が高く、すぐにでも証拠を確認に行かなければという話になったらしかった。
『すでにレポートのことを小耳にはさんだFAO(国際連合食糧農業機関)が大きな興味を持っているようで、確認を急いでほしいと、内々とはいえ、矢の催促だそうです』
「また、えらいことになってんなぁ……」
「予想はしてましたけど、現実になるとびびりますね」
『では、農園の確認にいらっしゃったんですか?』
その言葉を聞いたアーガイル博士は、鳴瀬さんとの話の途中で、こちらを振り返った。
『そうだ。そのクレイジーな農園が、代々木の二層にあるんだろう? もちろんそれを見に来たんだ』
彼は、そう状態に見えるくらい大仰な身振りでそう言った。
『君たちの申請を見た後、とにかくすぐに飛行機に飛び乗りたかったんだが、引継ぎだのなんだの、厳しい監視者がいてね。とにかく最短で出発したんだが、成田に着いたら、まだ十五時じゃないか』
『時差ボケで眠くて死にそうになりながら日本ダンジョン協会に問い合わせたら、次の日――今日だね――に君たちが、ネミの湖のほとりに、聖なる木立の枝を切り取りに行く契約をすると聞いてね。これは便乗しなければと、職権を乱用して割り込んだのさ!』
『職権を乱用って……』
『ミスター・アーガイルは正直な方なのです』
『はあ。でも、我々は、逃亡奴隷になって、森の王を殺しに行くわけじゃありませんよ?』
『なに、世界の秘密が、そこで待っているってところは同じだろ?』
そうして彼は、秘密を共有するように、小さくウィンクした。
『麦を確認に来たら、オレンジまで登場しているとは、DFAとしては興味が尽きないね』
とにかくそれで現物を確認したら、暫定的にパテントを認めてすぐにでも公開したいんだと彼は言った。
『こいつはすごいことになるぞ』
博士は興奮したように宙をにらむと、こぶしを握った。
『パテントはともかく、麦畑に関して、我々は先物市場の混乱などを心配しているんですが、構わないんですか?』
『馬鹿を言え。世界から貧困が、少なくとも食の上では消滅するかもしれない事実の前に、ブルジョアどもが流通を牛耳って遊んでいる市場がどうなろうと知ったことか』
『ええ?! 本気ですか?!』
この人、アナーキストかなにかなのか?
先物市場は本質的にヘッジ市場だ。高価格で推移している現在の穀物市場をにらんで、先物市場で買い持ちしている人々は多いに違いない。
もし、この情報で、穀物価格が暴落したりしたら、その人たちは大損を――
『まっとうなリスクヘッジが目的で先物を運用しているのだとしたら、上がろうと下がろうと大した問題じゃないさ。それがリスクヘッジというものの本質だろう?』
――言われてみればその通りだ。それで儲けようなどと思っていない限り、ただ上振れするリスクが発生せず、保険代が無駄になっただけみたいなものか。
だんだん俺もそんな気がしてきたぞ。
『まあ、リスクヘッジ以外が目的のやつらにとっちゃ、どうだか分からないけどな』
……そっち方面の方のほうが、恨みパワーも実行力も大きい気がするんですけど。
『実際、地球上の食料は、穀物に関していえば、全人類を賄える程度に作られている。しかし、問題は偏在だ。FAOの報告は?』
『いえ、お恥ずかしいことに』
『心配ない。世界の大勢は君たちと同じで、そんな報告書に目を通したりはしないよ』
博士がそう言って説明してくれた内容によると、世界は、総人口の継続的な増加と途上国を中心とした所得水準の向上に伴う食用・飼料用需要拡大に加えて、バイオ燃料原料需要の増加に伴い、今後も需要が供給を上回る状態が継続して食料価格は高止まりするという。
そして、各地域とも生産量は拡大する見通しにもかかわらず、アジア・アフリカ・中東地域において、それは消費量の伸びを下回ることになるそうだ。
『その結果、アジア・アフリカ・中東地域の純輸入量が拡大して、食料の偏在化傾向は拡大していくことになるだろう。そこでこれだ』
彼はシルクリーさんから折りたたんだ紙を受け取ると、それを机の上に広げた。
『これは?』
そこに広げられたのは、世界地図だった。
『赤いバツが、世界中で確認されている一次ダンジョンの位置だよ』
世界中のダンジョンは、ほぼ一日の間に現れたとされている。それらのダンジョンは、便宜上一次ダンジョンと呼ばれていた。
それ以外に、年にいくつかずつ増えていくダンジョンは、それに即して、二次ダンジョンと呼ばれている。
一次ダンジョンは、北緯三五から四〇度あたりを中心に散らばっていて、エリアIDが増えていくほど両極方向へ広がっていた。さらに不思議なことに人が全くいない地域を避けるように配置されている。
もっとも人がいないから見つかっていないだけなのかもしれないわけだが、そう考えて探しに行った探検隊の成果は三年たったいまでも、ほぼゼロだ。
『こうしてみると、日本が特に多いのも不思議だね』
彼は、指で太平洋上の北緯三五度線を日本の方へとたどりながら言った。
『まるで、太平洋を渡ってきたダンジョンを作る何かが、日本にぶつかって、南北に分かれたようじゃないか』
博士の指は、日本にぶつかると、そのまま日本列島を南にたどり、東南アジア方面に進んでいった。
そうして、その面積に比して、発見されているダンジョンの数がとても少ない東アジアに、くるりと指で丸を描いた。
『そして青いバツが二次ダンジョンだ。不思議なことに、2次ダンジョンは、巨大な1次ダンジョンの側か、そうでなければ――』
彼はサヘル地域を指さした。
そこには、先日話題になった、ダーコアイダンジョンを始めとする4つの青いバツが記されていた。
『――貧困地域にできることが多いんだ』
確かに世界の貧困地域に青いバツが散見される。
『まるで、ダンジョンが、この発見のためにそれを作ったみたいにすら思えるね』
彼は冗談だか本気だか分からない様子で、そう言った。
それを聞いた鳴瀬さんが、博士の話に割って入った。
『ちょっと待ってください。博士は、Dパワーズが提出したパテントの調査のために、代々木二層にある麦畑を確認しに来日されたんですよね』
『まあ、建前はそうだ』
『大変興味深いお話でしたが、それはそのお仕事と関係ないのではありませんか?』
『直接的には、そのとおり』
『では、そのお話はそこまでにしてください。今は指名依頼の契約中です』
そう言って、鳴瀬さんが入口の方に視線をやると、そこには佐山さんが所在なさげに立っていた。
『彼は?』
『今回の本来の依頼者ですよ。アーガイル博士風に言えば、逃亡奴隷役の方』
三好が、そう彼に説明した。
「え、えーっと。お邪魔では?」
佐山さんは恐縮しながらそう言った。
「佐山さんとの契約中です。邪魔なのは、こちらの方々ですから、大丈夫ですよ」
鳴瀬さんが世界ダンジョン協会の大物に向かって、身もふたもない発言をした。
シルクリーさんは日本語がわかるわけだし、あとで問題にならないかちょっと心配だ。
「それが、先ほどの件を上司と相談したんですが……」
「それで、どうされました?」
「最大で一日十万円以上の経費は難しいということでして」
何しろ年度末だ。どうやら予算が乏しいらしい。
「その金額で、二十層から先への護衛依頼というのは、おそらく引き受け手がいないと思われますが……」
「そうですか……とりあえず私が私費で建て替えるにしても……」
『なんという好都合な話だ! あ、いや……これぞ天の配剤か!』
その様子をシルクリーさんに翻訳してもらいながら聞いていた博士が、突然話に割り込んできた。
鳴瀬さんは、あまりの唐突さに眉をしかめて非難を表明した。
『アーガイル博士……』
『そう渋い顔をするな、ミハル。話は聞いたぞ、その男の――あなた、名前は?』
『え? 私ですか?』
突然名前を聞かれて、焦った佐山さんは、少し噛んだ。
『シ、シゲル・シャヤマです』
『そうか! シゲル、私は、ネイサン=アーガイルだ。今回はよろしく頼むよ!』
『は? よろしく?』
『依頼料で揉めているのだろう? 私のところと共同依頼にしてもらえれば、依頼料はこちらで持とう。二十層へ行ける探索者なら、一日三五〇〇から四〇〇〇ドルってところだろう?』
うお、さすがアメリカ。標準価格の最低ラインの倍くらいが相場なのか。
『え、そ、それは助かりますが……何か条件が?』
『なに、あとから割り込むのは我々だ。最後にちょっと二層まで付き合ってもらうかもしれないが、嫌なら先に帰ってもいい』
二人の様子を見て、俺は軽くため息をつくと、三好に確認した。
「三好、NDAの英語版って用意してあるか?」
「一応。出力しないとだめですけど。鳴瀬さん、印刷ってできます?」
「それは大丈夫ですが……本当にすみません」
「まあ、向こうで話がまとまりそうですし、仕方がありませんよ」
「あの、あまりにイレギュラーな話ですから、お断りすることもできると思いますが……」
鳴瀬さんにそう言われて、俺は、向こうで交渉をしている男たちをちらりと見た。
「ここで断っても、職権を乱用して依頼を押し込んできそうですから。まあ、日本ダンジョン協会さんへの貸しひとつってことで」
「先輩。ダンジョン管理部をフル回転させてるんですから、ここは恩返しってことにしておいた方がよくないですか?」
「それは一見もっともだが、普通の職員は、これを恩だと感じてくれないと思うぞ」
「むむっ。そう言われれば、引き受けようと断ろうと、自分の業務には関係なさそうですもんね」
俺たちのやり取りを聞いて苦笑しながら、彼女は三好が渡したNDA書類のデータを課内のプリンタで出力して、届けてもらうよう依頼していた。
その後、それが届くと、博士は、ろくに文面を読みもせずにサインした。
アシスタントの彼女が苦言を呈しながら文面を確認して、具体的な賠償金額を聞いたときもう一度博士に力説した。
『ミスター・アーガイル。たとえ同僚でも、絶対に口を滑らさないでくださいよ! そんなことをしたらうちの予算がゼロになっても足りませんからね!』
普段はおとなしい彼女の恐ろしい剣幕に、彼はたじろぎながらも、うなずいていた。
151 探索前日 2月8日 (金曜日)
「強烈な人でしたねぇ……」
「エネルギーに満ち溢れてるって感じだったな」
本契約を済ませた俺たちは、明日からの冒険の準備をするために、事務所へと戻ってきていた。
「用意するのは、日常的な消耗品だけでいいか」
「あ、私はちょっと変装していかなきゃいけないところがあるんですよ。だから消耗品の準備は、先輩にお願いできますか?」
「それはいいけれど、変装?」
「ほら」
そう言って、三好は、黒のロングヘアのウィッグを取り出した。
「マスコミ向け三好梓に化けて、何の用なんだ?」
「実は、氷室氏にスクープを差し上げようかと思いまして」
「氷室氏って……あの怪しげな制作会社の? 大丈夫なのか?」
「先輩、いまさら面と向かって私たちをどうこうできる人なんか、世界を見渡してもほとんどいませんって。それにカヴァス達もいますから」
「まあそうかな……」
とは言え三好のステータスは、知力と俊敏以外は、普通の人間の倍くらいしかない。力に至っては凡人だ。
スキルとアルスルズでカバーできればいいけどな。
「例の投資事業の件か?」
「そうですね。後はステータス計測デバイスの発売日とか、NYのイベントについてだとか、あとは答えられそうなことを聞かれたらぼちぼちと」
ステータス計測デバイスは三月一日予約開始だと、こっそり発表されているが、発売や生産量については、まだ未発表だ。
独自にマスコミへ流すルートがあっても悪くはないので、そこは問題ないのだが――
「ああいうタイプの人は、ちょっと拗らせちゃった元まじめ人間が多いんですよ。だからたぶん大丈夫ですよ」
「そうか。まあその辺の情報管理は、近江商人様にお任せだ。ともかくマスコミ向け三好は有名なんだから気をつけろよ」
「仮に、何かで気絶させられたって、カヴァス達のピットに落としておいてもらいますし、後は先輩に連絡すれば助けに来てくれるでしょう?」
確かに、何かで意識を刈り取られたとして、ピットに落ちてしまえば突然消えたようにしか見えないだろう。
そのまま移動するのは難しくても、助けが来るまで、その中にいればいいだけなのだ。
「そりゃ、行くけどさ」
「頼りにしてますって」
三好がポンポンと俺の肩を叩きながらそう言うと、俺の顔を下から覗き込んだ。
「何照れてるんです?」
「やかましい」
「あたっ」
俺は三好の頭にチョップを落とすと、購入品のリストを作り始めた。
、、、、、、、、、
ワンショルダーのボディバッグを肩にかけ、顔を隠すようにマフラーで覆っているやせた男は、指定された古い喫茶店のドアを開けた。
アーバンミュージックが流れる、やや薄暗い店内では、やる気の薄い声が、好きな席に着けと告げた。
まばらな客たちが、ちらりとこちらに視線を向けたが、特に気にする様子もなく、すぐに自分たちの世界へと戻っていった。
きょろきょろと何かを探すように席を見渡す男の目が、部屋の奥で小さく手を挙げている、小柄でややふくよかな男の姿を捉えた。
「どうもどうも。ご足労いただきまして」
ふくよかな男は、嘘くさい笑みを満面に浮かべながら痩せた男を出迎えた。
「早く……してくれ、三十分くらいしかないんだ」
痩せた男は、ボディバッグから、なにかのパックのようなものを取り出すと、テーブルの下でふくよかな男の方にそれを突き出した。
「いらっしゃいませ」
ふいに横から聞こえてきた女の声に、痩せた男は、びくりと体を震わせて、女の方を振り返った。
その様子を見たウェイトレスは、なにかやばい取引でもやってるんじゃないでしょうねと内心思ったが、プロフェッショナルな姿勢でそれを押し殺しながら、新しく来た客の注文を待った。
「そういえば、昼ご飯も食べてらっしゃらないでしょう。そうだな、ホットサンドのセットを1つ。飲み物はなんにします?」
「そんなもの、なんでも! ……あ、いや。じゃ、ホットコーヒーを」
一瞬いぶかしげな視線を投げかけられた男は、気を取り直したように、最も無難な飲み物を注文した。
「かしこまりました。ホットサンドセットワン、ブレンドで。少々お待ちください」
女が注文を取って去った後、ふくよかな男は哀れむような目つきで痩せた男を伺いながら言った。
「落ち着いてくださいよ。おかしく思われて困るのはあなたの方でしょう?」
「時間がないんだよ!」
痩せた男は、泣きそうな顔とかすれた声で小さく叫びながらそう訴えた。
「分かっていますよ」
わざとらしい笑みを張り付けたふくよかな男は、その細い眼を開くと、急に雰囲気を変えて低い声で言った。
「たった三十分で、あんたの過ちが帳消しになるんなら、安いものだろ」
「ひっ……」
一瞬で本性をひっこめた男は、机の下で受け取ったパックを目の前に取り出すと、そのふたを開けて、中の基板を詳細に改めながら、写真に撮り始めた。
痩せた男が、おびえた視線を正面の男に向けてしばらくした頃、さっきのウェイトレスが戻ってきて、目の前にホットサンドを置いて去って行った。
「冷めますよ?」
ふくよかな男は、こちらを見もせずにそう言った。
「あ、ああ……」
痩せた男が、半分にカットされたホットサンドを手に取ったとき、店のスピーカーから、ジェイ・ショーンが歌うストールンが流れはじめた。
繰り返される、stolen(盗まれた)のコーラスにまるで責められているような気分になりながら、『狂ってる、だけど俺もすぐそうなる』と言われて、まったくだと暗い笑みを浮かべると、手に持っていたものを口に入れた。
しばらく基板を詳細にマクロ撮影していた男は、パックを閉じると、彼にそれを返した。
「本来なら、それをそのままいただきたいところなのですが」
「無理だ。返却時のチェックがやたらと厳しいんだ。ここまで持ってくるのだって、綱渡りみたいなものなんだぞ」
しかも、命綱はついていない。
「しかたありませんね」
ふくよかな男は、本当に仕方なさそうに言うと、元のようにわざとらしい笑みを顔に張り付けた。
「しかし、あなた方が急がせてくださったおかげで、部品はすべて市販のもので、配線の隠蔽もまったくありません。助かりましたよ」
「それは俺のせいじゃない」
「もちろんですとも。ではこちらを」
ふくよかな男がにこやかに何かを差し出すと、痩せた男はむしり取るようにそれを奪い取った。
「コピーは?」
「この商売は信用が第一ですから。あなたも、羽目を外されるのは、ほどほどにされるのがよろしいかと思いますよ」
「くっ……お前らが!」
「お時間がないのでは? お会計はサービスしておきますよ」
怒りで顔を赤くした痩せた男は、パックを素早くかばんに押し込むと、残ったホットサンドには目もくれずに立ち上がり、まるで深い水底に取り残されたものが、空気を求めて、一秒でも早く水面に上がろうとするかのように、足早に出口へと向かって行った。
スピーカーから流れだす声に、『もう一度やり直せたら』と言われたが、それは無理だと自分でもわかっていた。
、、、、、、、、、
「おい、あれ見ろよ!」
「あれ? って、あれ、アメリカのサイモンチームじゃないの? 最近あちこちで、ちょくちょく見かけるようで、SNSでも話題になってたよ」
彼らの視線の先では、サイモンチームと共に、二メートルくらいある胴体に、6本の足が付いた、尻尾のない太いナナフシのような機械がガチャガチャと歩いていた。
サイモンたちが、それを連れている姿は、ここ一週間でダンジョンのあちこちで目撃され、写真に納められていた。
ネットでは、その機械が検証され、発表が近いと噂されているファルコンインダストリーのポーターじゃないかと言われていた。
メーカーがダンジョン内でテストを行うことは珍しくないが、わざわざアメリカが日本のパブリックダンジョンに持ち込むというのは希だった。
それが発見されたセーフエリアと無関係ではないというのが、それを見た者の一致した見解だった。
「あれがファルコンインダストリーのポーターか」
「日本の自動車メーカーあたりも開発してるって話だけど、やはりダンジョン内はタイヤじゃなくて足なんだね」
「一応足の先にはタイヤみたいなのが付いているようだけどな」
前足と後ろ足の対は、先がダブルタイヤの中央に軸がついている、椅子のキャスターのような構造になっていた。道が良ければあれで走れるのかも知れない。
「しかし、あの上に乗ってるのって、ガトリング砲か?」
「うーん、砲身が三本だから、M197じゃないかな」
「二〇ミリかよ! 重さ的には、NATO弾を使うM134とかの方が有利な気もするが……あれじゃ、弾数もそんなに載せられないだろ」
「駆動系が結構場所を取りそうだしね。だけど最深部は三十二層だし、小銃はほとんど通用しないんじゃないの? ミニガンでも辛いって判断なのかもね」
CIWS然としたたたずまいを見せるそのバルカンだが、さすがに捜索レーダーや追跡レーダーまでは装備されていないようだった。
ダンジョン内では電源の制約が厳しいからだろう。
「しかし、三十層あたりで、あんなのが必要になるんじゃ、俺たちには深層なんてまるっきり無理じゃないか?」
「最深部まで行かなくてもいいでしょ。マイニングでもゲットできれば、二十二層前後でも十分美味しいって」
「まあ、武器としてはともかく、プラチナを運ぶカートとしては、俺たちも欲しいよな。いくらくらいするんだろうな?」
「その辺はもう発表されてるよ。最小構成なら、乗用車くらいだってさ」
「意外と安い……のか?」
「二十層台なら、あんなにゴツイ武器じゃなくて、七.六二ミリのバージョンでも通用しそうな気がするけど……みんながあれを使うようになったら、誤射と階段の渋滞が大変なことになりそうだけどね」
「それよりも、日本ダンジョン協会の格納庫が奪い合いになるんじゃないか?」
日本では、銃器は日本ダンジョン協会預かりになる。携帯許可証を取得することもできるが、ダンジョン外に持ち出すとなると銃刀法を始めとする規制により、いろいろと面倒な手続きも多いため、預けてしまう人が多いのだ。
しかし、小銃や拳銃ならともかく、ポーター全体となると結構な面積が必要になるだろう。地下駐車場のような大きな格納庫でも新設しないと、対応しきれなくなることは明らかのように思えた。
「ま、俺たちがあれを手に入れられるのは、まだまだ先だから」
「とりあえず十八層に行けるようにならなきゃねぇ」
「だな」
二人は一応、サイモン達の様子を撮影しようと、携帯を向けた。
それに気がついたサイモンが、ポーターの前で、サムズアップしてポーズを取ったのは、彼らにとっても嬉しい出来事だった。
「サービス良いねぇ、さすがプロってことかな」
「ファルコンの広告塔も兼ねてるってことだろ。ああ、ダンジョン内で携帯が使えりゃ、すぐにでもアップするのになぁ……」
「ま、無い物ねだりはそのくらいにして、俺たちもアイテムをゲットしに行こう」
「了解」
そう言って、二人はサイモンたちとは反対の方向へと歩いていった。
、、、、、、、、、
「しかし、こいつは、使えるのか使えないのか分からんな」
ファンの撮影にサムズアップで応えたサイモンは、彼らを見送ると、ポーターの腹を叩きながらそう言った。
ファルコンインダストリーのDポートシリーズは、ダンジョン内での頼れるパートナーとなるべく作られた、荷物運搬用の機器だ。
その上部に、武器アタッチメントとして、M197をくっつけたのが、このポーター、DポートM197だった。
サイモンとジョシュアの二人で、地上からポーター用の燃料や弾薬を、ポーター自身に積んで十八層へと輸送中だった。
メイソンとナタリーは、マイニング使用者のモーガン=ルーカス――ダンジョン攻略局の次代のホープを期待されている男――と共に、別のポーターを連れて二十二層でプラチナを狩っているはずだ。
ファルコンインダストリーは、十八層に、今回のテスト用の簡易基地を展開していた。
探索者が集まってキャンプを構成しているために、危険な魔物が近づいてこないうえに、それなりに一線級の探索者ばかりが集まっているその場所は、ポーターのお披露目に丁度良く、まるでショールームのような様相を呈していた。
「便利は便利だろ。とても持って行けそうにないものや、持って帰れそうにないものが運べるんだから」
斥候役のジョシュアは、荷物がなければないほどありがたいのだろう。気楽そうにそう言った。
サイモンは苦笑しながら、「燃料が尽きなければな」と言って、もう一度ポーターを小突いた。
ポーターの心臓部には、いろいろなものが検討されたが、コスト的なこともって、結局インバーター発電機が搭載されていた。
そのためバッテリーや燃料電池に比べて、それなりの音がする。メーカー公称値で四〇dBということだった。
ただし、増槽なしでの駆動時間は、せいぜいが六時間といったところだ。
平坦な場所――つまりタイヤで走れる場所――では、結構な速度が出るが、そうでない場所では、徒歩で歩く速度と大きく違わない。
十八層まで一日で行くのもなかなか難しかったし、二台をペアで運用して、片方を燃料などの物資運搬専用にしなければ、深層では実用的とは言えないかもしれなかった。
「最初見たときは四ストロークのデカイ発電機が乗ってて、パワーはありそうだったが、あれじゃダンジョン中からモンスターを引き寄せそうなありさまだったからな」
「マッチョは正義だからな」
「それに、二十ミリはやり過ぎだろう。三十一層のボス部屋なら活躍しそうだが、二十二層じゃオーバーキルだし、相手が素早すぎてまともに当たらん」
「マッチョは正義だからな」
ファルコンインダストリーは、その話を受けて、急遽M134バージョンを作成し、次のパトリオット(つまりは、明日だ)で到着するらしかった。
「DポートM134が届けば、もう少し二十二層での立ち回りも上手く行くようになるかな?」
「そしたら、こいつは、三十一層に持っていって、ボス戦をやろうぜ。ちょっとポーションの備蓄も増やしておきたいしな」
サイモンは、アズサたちとの会話を思い出していた。
宝箱にあったのは、ランク5のポーションだったらしい。是非備蓄しておきたい逸品だ。
「ダンジョン攻略局もエクソスケルトンを持ち込んでたみたいだが」
「テストだろうけどな。あんなの、戦闘に使えるもんか。だが、運搬なら結構使えそうだったぞ。ぜひでっかいバックパックを作って、物資の運搬を担って欲しいぜ」
「もともと資源関係の組織だから、そっち方面の運用を考えた開発だったんじゃないか?」
「それをなんで、ダンジョン攻略に使おうとするかねぇ……」
エクソスケルトンは、力はあるが、現状だと細かい動きや素早い動きは苦手としている。
二十二層では、トンボのモンスターにいいようにされていた。
「きっと長官が、ハインラインのファンだったんだろうぜ」
「スターシップ・トゥルーパーズかよ」
確かに相手は昆虫っぽいなと、サイモンは笑った。
「しかし、ファルコンも、あまり入れ込みすぎると代々木から離れられなくなるんじゃないか」
ジョシュアが他人事のようにそう言った。
「世界で一番深い階層まで到達してるんだぜ? 武器のテストをするならどうせここになる。三十二層に研究開発部署を置く計画もあるようだぜ」
「ファルコンが? 日本法人なんてあったか?」
「ルールにさえ則れば、外国籍の企業も政府もOKなんだとさ。さすがパブリックダンジョンってところだな」
「ふーん。いずれはニュルみたいになるのかもなぁ。インフラとかどうするんだろうな」
「日本ダンジョン協会が主体で開発するようだが、とりあえずは電源だろうな」
「ケーブルを引っ張るのか、小型発電所を作るのか。どっちにしても茨の道には違いない」
「せいぜいノウハウを積み上げて、後《のち》の世界に貢献して欲しいね」
そう言って彼らは、十六層へと向かう階段を下りていった。
152 金枝篇 五層 2月9日 (土曜日)
「御劔さん、なんですって?」
先月末に、斎藤さんが言っていたNYファッションウィークが7日に開幕した。
それを受けて日本時間の昨日、激励メールを送ったら、その返信が来たのだ。しかもなんと英文だ。
借りた国際スマホの入力に日本語がなくてよく分からなかったらしい。
「NYはずいぶん刺激になってるってさ。右も左もよくわからなくて、アワアワしちゃいそうだって。でも何とかここを凌げれば、ロンドンにも連れて行ってもらえるかも、だと」
「なんだか3段飛ばしくらいで階段をのぼっちゃってますね」
「本人は、こんなところまで来ちゃって、なんだか場違い感が半端ないです、なんて言ってるぞ」
「世界が変わるときってそんなものですよ。先輩、コーヒー」
俺は、例のデカバックパックから取り出すふりで、魔法瓶タイプのサーバーを取り出すと、マグカップに注いで彼女の前のに置いた。折りたたみの簡易テーブルだ。
「言うじゃないか」
それをフーフーと吹きながら、三好がすまし顔で言った。
「先輩、忘れてらっしゃるようですが、私、ついこないだまで学生だったんですからね」
「ああ、最初に社会人になったときか。そういやそんなだった気も……」
「それに、社会人からプーになったのは、もっと最近ですよ」
「それは場違い感ないだろ、全然」
「そう言われればそんな気も……いえっ! 先輩と一緒にしないでください。私はちゃんと社会で静かに生きて行く予定なんですから。アウトローなんか、くそくらえですよ」
「いや、それは手遅れじゃないの……」
俺は眉をハの字にしながら、グラスに同意を求めた。
「ケンっケンっ」
「なっ、そうだよな」
「ケンっケンっケンっ」
「先輩、いつからグラスの言葉が分かるようになったんです?」
「いや、全然わからん」
「ケン?!……グルルルルル」
「いや、おい、ちょっと待て!」
「ガウッ!」
「ってー?! こいつ最近マジ噛みしやがんの!」
腕にかみついて、ぶらーんとぶら下がったグラスを、何とかしろよと三好の前に突き出した。
「先輩がからかうからですよ」
三好がグラスに手を差し出すと、やつはパカっと口をあけて、俺の腕から離れると、三好の胸に頭をこすりつけながら、こっちを勝ち誇るように見ていた。
いや、言いたいことは分かるが、そんなんで勝ち誇られてもな……第一あるんだかないんだか分からない三好の――
「先輩、今何か良からぬことを考えてませんか?」
「か、カンガエテマセンヨ?」
こんなあほなやり取りをしている俺たちだが、ここは事務所ではなく、なんと代々木の五層だ。
二層から始まる草原っぽい層でうずうずしていた依頼者は、五層の森を中ごろまで進むと、「ちょ、ちょっと休憩しましょう! 休憩!」と言って、ダッシュであたりの木を見に駆け出した。
とりあえず、ドゥルトウィンをつけておいたから、五層なら大丈夫だろう。
すれ違う探索者たちが、何か言いたげにその姿を見ているが、あまりの熱中具合に、逆に引いてしまうという効果までついているありさまだ。
アメリカから来た博士は、興味深そうに探索者や俺たちの様子を後ろ手に観察しながら、アシスタントの女性と一緒に、あっちにふらふら、こっちにふらふらと移動しては周囲を観察しているようだ。
「なにやってるんですかね?」
「さあな。植物相《フローラ》でも見てるんだろ」
彼らにはアイスレムをくっつけてある。
それで、珍しくグラスが表に出てきて、俺たちの周りをうろうろしているわけだ。
警備隊長か?と聞いたら、フンスと鼻の穴を広げて胸を張っていたから、どうやら警備隊長のつもりらしい。
召喚者を守るというのは、こいつらの根幹に、まるで強迫観念のように居座っているルールのようだ。
残りのグレイシックは事務所の警備で、グレイサットはキャシーにくっついている。カヴァスはいつも通り三好の影の中だ。
「フローラっていうと、NYボタニカルガーデンで、新種のすごいバラの花を咲かせた女の子?」
「その時はまだ、フィオリーナだけどな。って、お前、前の事務所の漫画、まだ漁ってたのか」
「時々は、掃除くらいしておかないと。先輩、全然行ってないでしょう」
「そういやそうだが……」
事務所で使っていた関係で、三好はまだ、おれの前の家の鍵を持っている。
「ちゃんと、手入れをしておかないと、家って人がいないとすぐに傷んじゃうそうですよ」
「……で、本音は?」
「あそこのこたつ、落ち着くんですよねー。こっちのレストルームにもこたつ入れましょうか」
「全然使ってない部屋に、微妙な額の電気代の請求があったのはお前の仕業だったのか……あまりに微妙な請求額に、漏電? とか、盗電? とか心配していた俺の立場は……」
「よかったじゃないですか。心配事が片付いて」
「あのな……だが、こたつか」
俺は難しい顔で、自分のマグカップに熱い液体を注いだ。
「なんです? 微妙なリアクションですね。先輩って、こたつ好きそうですけど」
「こたつはいいよ。気持ちいい。あれが嫌いな奴はまずいない。だけどなぁ……」
「なんです? ま、まさか、あのこたつ、妙に気持ちがいいと思ったら、なにか人外なものが憑りついてたりするんですか?!」
「あほか。いや、ほら、こたつって、ダメ人間製造装置だろ」
「はぁ?」
「まだまだ寒いこの季節、レストルームにこたつが入ったりしたら、お前、そこから出る自信ある?」
「うっ……」
「すでに出社という社会の強制力すら失ってしまった俺たちに、こたつにあらがう力が残されていると思うか?」
「ご飯も、買い物も、電話かネットで注文すれば持ってきてくれますしねぇ……」
「座椅子に腰かけたまま、手の届く範囲に必要なものが積みあがっていく様子が目に見えるようだぞ? そこで毎晩酒盛りでもしてたら、立派なダメ人間の出来上がりだ」
「ちょっと食事にワインが付くだけでも?」
「こたつで飲んだ瞬間、それは酒盛りなの。それが日本の法であり、摂理ってやつなの」
力説する俺を、軽くスルーした三好は、ほんわかした表情でよだれをたらしそうにしながら、欲望を駄々洩れにしていた。
「ああ、お鍋を囲んで、日本酒をきゅっとやりたいですね」
「前から思ってたんだが、お前、趣味がまるっきりおっさんだよな」
「こたつに入ると、高貴な者でもおっさんになるんですよ。それがジャパニーズコタツの魔力なのです」
「誰が高貴な者だよ、誰が。だが、こたつで鍋か……いいな、それ。なんだか俺も欲しくなってきたぞ。仕方ない、戻ったら買いに行くか」
「やったぁ! ――って、これ、戻れなくなるフラグですかね?」
「そんな大層な内容かよ」
そういった俺たちの目の前を、高速で移動する物体が横切った。
その物体は、軽く日ごろの動作速度の3倍には達していた。来ている服が赤いわけではなかったが。
「あの先生、休憩の意味って知ってるのかな?」
「みどり先輩が、理系の男は、ブリンカーやシャドーロールをくっつけてる競走馬と一緒だって言ってましたよ」
「周囲も足元も見えないってことか?」
相変わらずの、理系男論評だ。
一体大学生活で何があったのかと、訝しむレベルだ。
「だけど中島さんって、その筆頭みたいな人だったぞ」
「実はそういうのがいいとか?」
「人の好みは難しいな」
「まったくです」
俺たちは目を閉じて、頭を振った。
まあ、そんなわけで、急遽休憩を余儀なくされた俺は、仕方なく、来る前に届いていたメールを読んでいたのだ。
「だけど、アーシャの時からそんなに経っていませんよね。なのに一気に流暢なメールまで書けるようになるっていうのは、学習速度が速すぎませんか? やっぱり知力のせいでしょうか」
「そこは、彼女の努力のたまもの、と言いたいところだが、それだけじゃ説明できない上達スピードだ。もしかしたら、無意識に、例の集合的無意識に接触してるのかもしれないぞ?」
「それはぞっとしませんね。精神的なものでも、生物都市はお断りですよ」
「あの後、弘明くんには、一生機械に触れたい誘惑と戦って生きなければならない過酷な人生が待ってるんだぜ?」
「つらい時には、ふと楽になりたくなりますよね」
彼《か》の物語の場合、それは機械に触れるだけで訪れるのだ。
言ってみれば、つらい仕事中に、マウスでクリックするだけでSNSだのネトゲだのに逃避できるのと同じだ。誰がその誘惑にあらがえるだろう。
俺には無理。
『なんだい? 面白そうな話じゃないか』
突然、後ろから声を掛けられて、振り返ると、アーガイル博士が人のよさそうな顔をして立っていた。この人、興奮しているときと普通の時のギャップが激しいんだよな。
シルクリーさんは、その後で、いつものようにそっと控えている。
『いや、ただの漫画の話ですから』
『ジャパニーズマンガの話も興味深いが、ダンジョンで得られるステータスが、現実世界の知性に影響を与えるかもって話も捨てがたいね。あ、私にもコーヒーをいただけるかな』
日本語だってのに、どこから聞いてたんだ、この人。
殺気や害意がないからアルスルズも反応しないし、意外と厄介な人なのかもな。考えてみれば世界ダンジョン協会の局を任されるような偉い人だ。一筋縄でいくはずがないか。
俺はバッグから2つのマグを取り出すと、それにコーヒーを注いで、彼と、彼のアシスタントに渡した。
『それが事実なら、スポーツ選手だけじゃなくて、研究者連中もダンジョンに向かい始めるかもしれないよ? 砂糖ある?』
俺はパックに入った砂糖を、佐山さんを目で追いかけて苦笑している博士に渡した。
『まあ、あれは別の動機のようだけれども』
彼はそこここにある植物を、採集したり写真に撮ったり、実に楽し――もとへ、忙しそうだった。
脳のエナジーをチャージだ、と言いながらこれでもかと砂糖を入れている博士は、それをスプーンでかき混ぜながら言った。
『最初に押し寄せるのは、たぶん数学者だな。特に数論の』
『なぜです?』
『今どき数論なんかに進むやつは、超のつく天才か、己を知らないアホだけだからさ。前者はわずかな知性の拡大にかけて、後者は面白がって突撃してくるに違いない』
『先輩は後者ですね。ドン・キホーテタイプってやつです』
『お前も、人のことは言えないだろ』
『私はどっちかというと銀月の騎士ポジですよ。先輩を村に帰す役どころです』
『ドン・キホーテは正気に返らない方が幸せだったかもしれないよ?』
『おっと、博士は、ドン・アントニオ支持者ですね。でも大丈夫。先輩は変なところが現実的なので、頭に羽が生えないタイプなんです。問題は、正気のまんま突っ込んでいくところなんですよね……』
わざとらしく腕を組んだ上に目を閉じて、「やはり私が村に帰してあげなければ」と呟きながら、うんうん頷いてやがる。
いや、コスプレ衣装まで作って、背中をどつきまくったのはお前じゃなかったか? ええい、こんなやつ、無視だ、無視。
『数論は通り一遍なことしか知りませんけど、確かに、ウラムの螺旋あたりを見ていると、なんだかおもしろそうな学問だなとは思います』
『パターン認識はAIのお家芸ですからね、ああいう図形を認識させて、その外側を作らせる、なんて素数の発見方法はどうです?』
ウラムの螺旋は、自然数を螺旋に並べて素数を強調すると、なんだか模様のようなものが見えてくる気がするという、ただそれだけのものだ。
だがそれが人を引き付ける。それが数論の魅力であり、敷居の低さであり――知の罠なのだ。詳しく調べようとした瞬間に化け物が牙をむく。
『真に驚くべき証明』を見つけたような気になれるのは、ごく一握りの超天才か、そうでなければありえない幸運に導かれて勘違いした間抜けだけだ。
『何をどう学習させればいいのか私にはさっぱりだが、確かに、派生したサックスの螺旋あたりを見ていると、数学者ならずとも、神が我々になにかを語りかけてきているような気になるね』
『なにかの力場みたいにも見えますよね』
『だが、神の声は万人に届きこそすれ、その意味を理解できるものはほとんどいない。あれは甘美な罠だ。優秀な研究者ほど、数論に近づきたがる。どんなに近づくなと警告しても、なにかに引き寄せられるかの如くそこに近づいて――』
アーガイル博士は、遠くを見るような目で空のような空間を見上げて言った。
『――そうして大抵はひどい目に合うんだ』
博士はなぜか、やたらと感傷的だ。教え子がそっちへ進んで挫折したのかもな、などと考えていたら、三好が身もふたもないことを言い出した。
『あれ? でも去年リーマン予想が解決したとか言ってませんでしたっけ? リーマン予想が解決すると、素数公式が完成するんじゃ……』
『アティヤ先生だね。惜しい人を亡くしたものだ』
『え? 亡くなったんですか? ニュースを聞いたのって、去年の九月でしたけど?』
会社をやめる前の月だから間違いないはずだ。
『今年の一月にお亡くなりになったよ。アズサが言った論文は、今検証されている最中だが、懐疑的な研究者が多いようだ』
なにしろ、数学というより素粒子物理学に近い研究中に偶然証明されたと発表されたそれは、たった5ページの論文だった。
160年前に数学という山に住み着いて、誰にも討伐できなかったドラゴンを、棒きれ振り回してたら、偶然その棒が急所にあたってやっつけちゃったと言われてもなかなか信じられるはずがない。しかもその棒が非常に特殊な材質でできていたからなおさらだ。
「つい最近じゃないか。知らなかったな」
「ちょっとバタバタしていた時期ですからね。それに結構お歳だったはずですよ」
66年にフィールズ賞を取った人だから、下手すりゃ90を超えていてもおかしくない。
『まあ、そっちはどっかの超天才に任せるとして、ただ力業で素数になるものを見つけようとするだけのバカみたいなプロジェクトの、セブンティーン・オア・バーストなんかは、単純に楽しそうだろ?』
セブンティーン・オア・バーストは分散コンピューティングを利用した計算プロジェクトで、78557が最小のシェルピンスキー数かどうかを確かめるためのプロジェクトだ。
シェルピンスキー数 k は、k x 2 (n)+1のnにどんな正の整数を与えても、素数ではない2以上の数になる、正の奇数だ。
なんだか mod と場合分けを利用して簡単に証明できそうな気になるところが恐ろしいが、これが一筋縄ではいかないのだ。
そこで、とられた手段が力業。
このプロジェクトは78557未満の、シェルピンスキー数の可能性がある17の数字に対して、ひたすらnを与えて計算し素数を見つけるという、ただそれだけのものだ。
2002年三月から始まったこのプロジェクトは、すでに12個の数値に対して素数を発見し、残り5つはn=3162万を超えて探索していたが、トラブルがあって停止。
その解消のために、2017年の三月二十日からダブルチェックが開始され、いまだにそれが終わっていない
『先輩……それって、もしも対象の数値がシェルピンスキー数だったら、どこまで計算しても永遠に終わりませんよ。でも途中で打ち切れば、結局その数がシェルピンスキー数かどうかわからない。計算開始前と同じ状況になって、電気代の無駄でしたってことになっちゃいますよ』
『分かってないなぁ、三好君。巨大素数ランキングに燦然と輝く変な数。それだけで、もうロマンに満ちあふれてるだろ?』
人類が知りえた巨大な素数ランキングの上位は、ほぼすべてがメルセンヌ素数で占められている。
なんでかというと、メルセンヌ数の素数判定は、そうでない数よりも高速に行えるからだ。あと発見に賞金がかかってるのも大きいかもしれない。
『上位10位がすべてメルセンヌ素数で占められていた(つまり2 (n)−1の形で書かれていた)時、突然7位に現れた、10223×2 (31172165)+1の文字!』
『はぁ。よく覚えてますね』
『そりゃもう、こいつは特別だからな。世界中の素数ファンの「なんじゃこりゃ?」という声が聞こえてくる気がしないか?』
10223 はシェルピンスキー候補だった数値で、セブンティーン・オア・バーストが見つけた素数だったわけだ。
しかし、パッと見てそれに気が付く人はあまりいない。いたとしたら、それは結構な変人だ。
『変人のロマンはよくわかりましたけど、先輩。それって個人の知力アップとなんにも関係なくないですか』
『あっ……』
そりゃそうだ。分散型コンピューティングに、ステータスが寄与できるところは、直接的にはまったくない。
パソコンにもステータスがあって、知力……いや、むしろ俊敏か? の上昇に伴って、計算速度が上がったりしたら怖い。
それじゃ、電子じゃなくて、小人さんが働いているみたいだ。
『数論の未解決問題のうち、誰にでも理解できる形式で書かれるものは、それくらいの気分でやるのが正解だ』
アーガイル博士が、俺たちのバカ話を聞きながら、にこにこして言った。
『真実は、時に、人の世界では不要なものだからね』
『え? それってどういう……』
ことなのかを聞こうとしたとき、佐山さんが、はぁはぁ息を切らして、目をキラキラさせながら、「お待たせしました! 行きましょう!」、とやってきた。
いや、あなた休憩は……
こうして俺たちの金枝篇は、一体、いつになったら二十一層にたどり着けることになるのか、不安なスタートを切ったのだった。
153 金枝篇 八層 2月9日 (土曜日)
『どうぞ。ただの豚肉ですけど』
あらかじめ、現実的な意味でもスピリチュアルな意味でも、食べられないものを聞いておいたが、全員特にないということなので、予定通り八層の屋台で豚串を買った。
代々木観光と言えば、ここは外せないだろう。
もっとも、その実態は、自衛隊あたりが代々木の情報拠点として運営している店って気もするが……こんな不安定な商売、そういった組織でもなければ続くはずがないからだ。
『ふむ。なんというか……焼過ぎた豚肉だね』
『豚肉ですね』
博士とシルクリーさんが、そう言いながら少し硬くなった豚肉をぐにぐにと咀嚼していた。
『しかし、ミスター・アーガイル。あなたはユダヤ教徒だと伺っていましたが……』
『あははは、我々は神は信じているが、宗教は信じていない普通の人だからね。言ってみれば世俗派だろうか? だから、豚でも平気で食べちゃうよ』
彼は宗教における、食が民衆を支えきれなくなるたびに、戒律が厳しくなるその歴史的なメカニズムについて、アシスタントに解説していた。
そうして、豚肉のアミノ酸のバランスの良さや、ビタミンB1の豊富さについて力説して、自分のことを、まったくイーシュ・カシェル(律法的に非の打ちどころのない人)とは言えないねと笑っていた。
「いいのか、あれ?」
食事を用意する手前、食のタブーについて質問したら、全員タブーはないと聞いていたので特に気にしなかったが、博士はユダヤ教徒だったのか。
「先輩。私の知り合いに、銀座のヘイスティングス・マナーで食べる、嵐五十《あらいそ》シェフのブーダン・ノワールが大好物のユダヤの方がいらっしゃいますよ」
「ダメ素材の2乗じゃん!」
ブーダン・ノワールは、豚の血と脂を使ったソーセージで、大抵はリンゴのソテーやソースを添えていただく。
ユダヤ教のカシュルートだと、血はタブーだし、豚もカシェル(食べてよい食物)ではない。
しかし、考えてみれば、日本の仏教だって無数に宗派があるわけで……いや、そういう問題だろうか?
「ユダヤ教もヒンドゥー教に劣らず懐が広いな……」
アーシャパパのヒンドゥー教もそうだったが、ユダヤ教も律法を守る度合いが、人によってばらばららしい。
強固な戒律を持つ大宗教は、大抵懐が広く、バリエーションがありすぎて門外漢には理解しがたいもののようだ。
「これって、オークじゃないんですか?」
佐山さんが、串に刺された白っぽい肉を見ながらそう言った。
まあ、そう思うよね。俺も最初そう思ったし。
「残念ながら、オーク肉は全量外でさばかれるそうですよ。結構な稼ぎになりますから。あとは、ゲットした探索者が、自分で食べるくらいでしょうか」
「へー。んぐんぐ……そういわれるとただの豚肉ですね」
「ははは。まあ、ただの豚肉ですから」
初めての探索で、アドレナリンがどばどば出ているのか、みなさん、それほど疲れた顔を見せてはいない。
もっともモンスターは、ほとんど見えないところで始末しているし、ルート間の移動だけだから、そこらの森を歩いているのと大差ないわけではあるのだけれど。
とは言え、そろそろおやつを食べてもいい時間になりかかっている。
「どこまで行けると思う?」
俺は九層へ降りる階段の方を見ながら、三好に尋ねた。
「そうですね。あと3・4時間ってところでしょうから、十二層が無理ならやっぱり十層が無難ですかね」
「十層か。テントじゃ無理だな」
「ゲストがみんな探索とは無縁そうですから、DPハウス2号の出番ですよ。ほいぽいは登録されてますし、一般探索者の目に触れない場所なら、それほど騒がれることもないでしょう。それより先輩、十層に泊まって、ほんとに明日中に二十一層に到達できますか?」
「微妙だよなぁ。十九層と二十層の雪山を考えると、十八層で終了なんてことになりかねないぞ」
「十八層でDPハウスは目立ちすぎるので避けたいですね。とはいえ、この後、十一層と十二層の火山地帯で泊まるというのはちょっと。噴火でもあったら、DPハウスじゃつらいかもしれません」
「噴火って起こるのか? もちろん、十三層の渓谷層までいければ楽になるが……あと三時間か。とりあえず十一層へ下りる階段のところまで急いでみて、そこでもう一度考えよう」
「了解です」
俺は下ろしていたバックパックを背負うと、先生方に声をかけた。
、、、、、、、、、
日本ダンジョン協会の専務理事、クリフォード=タウンゼントは、今しがた行われた理事会の会場を、うんざりしたような顔で後にした。
後には、瑞穂常務理事と、真壁常務理事が続いている。真壁は先日まで国外にいたが、セーフエリア開発の問題で呼び戻されたのだ。
「しかし、あの理事どもは、もっと建設的なことが言えんのか」
クリフォードは憤慨したように言った。
「インフラの開発計画をさっさと開示してもらいたいと、矢の催促をする前に、どうやって開発するのか、所属企業の見解くらい述べろって言うんだ」
「そりゃ、無理でしょう。公開された情報を見て、おそらくどこも手のつけようがなかったんですよ」
真壁が、さも当然と言わんばかりに、頭をかきながら言った。
彼は確かに優秀な男だが、こういう分かったようなところがクリフォードの癇に障った。
しかし、それもこれも九月までの辛抱だ。彼は、九月で任期が切れたら、この責任のあいまいな、奇妙な構造の組織には二度と近寄るまいと心に誓っていた。
ここは何というか、違うのだ。――空気が。
それが日本という国に特有のプロパティなのか、代々木にある、あの忌々しい穴によるものかは分からないが、ともかく初代専務理事の責務は果たした。
今年の九月で、ここへの忠誠はソールドアウトだ。それまでせいぜい何かに呑みこまれないようにしよう。
「問題は資材の運搬だ。それから三十二層で使用するエネルギー。特に電力の確保だ」
本来なら重機とその燃料が必要だろうが、重機の類は、持ち込めたとしても小さなユンボがせいぜいだろう。それすらもなかなか困難だ。
資材の搬入もトラックなどは運用不可能。現時点では各社のポーターを利用するしかないが、各社のポーターはインバーター発電機を積んでいるとしても電力で動いていることに変わりはない。
「ダンジョン深層の建築物ですからね。土木建築というより、宇宙開発企業が、月に建てる住宅の方が近いかもしれません」
真壁がそう言って、何かを考えるように腕を組むと、瑞穂が口をはさんだ。
「我々は区割りだけして、あとは権利者に任せた方が無難では?」
彼は、その態度に反して、事なかれ主義だ。
美味しいところはいただこうとするが、面倒でやけどしそうなところには手を出さないことで、ここまで来た男だ。
もっとも、長いものには巻かれろ的に物事を見るため、長いものだと認識できない相手を見極めそこねることがある。
「各企業や国家が、独自にエネルギー開発や都市開発を行う許可を出せってことか?」
「いや、それはまずいでしょう。DAがインフラの整備も主導できないとなると、その独立性が脅かされかねない」
「統治できないならその権利を譲渡しろと言い出す輩がいるということか?」
クリフォードは立ち止まって、真壁の方を振り返った。
真壁は微かに肩をすくめて言った。
「当初の混乱が収まり、モンスターも地上にとってはあまり脅威とは言えない現在、マイニングの件もあってダンジョンが金鉱に見えていてもおかしくはないでしょう。実際ダンジョン関連開発企業のうち、商品の開発に成功した企業の売り上げは急成長しています」
彼は逆にチャレンジしすぎるタイプだ。
実力はあるが、国内を保守的だと、やや軽視しているきらいがあるようだ。
「DAは超国家的な組織とはいえ、既存国家と敵対するようなものではないよ」
「お互いに尊重しあえているうちはそうでしょうね」
そして、その思想は少し危険だ。
「ともかく、どうやって運ぶのかという部分はさておいて、向こうで必要な資材を早急にリストアップするべきです。搬入手段は後から考えればいい」
「真壁常務、それは無計画すぎるんじゃないか?」
彼のあまりの発言に、瑞穂が意見した。
持ち込める量を計算して、そこからできることを考えた方が計画としては安全だ。さっき彼が発言した、宇宙開発は常にそういう方法論を取っていたはずだ。
「向こうで必要なものは分かっているんです。どうやってを考えながらそれを削ろうとすると、タイムリミットに間に合いませんよ」
「いや、そうは言ってもだな――」
瑞穂の言葉を遮るように、クリフォードは訊いた。
「なにか考えがあるのか?」
真壁は、そこでかすかに口角を上げた。
「準備ができたら、うちの部下が魔法を使ってくれるそうです」
「魔法?」
クリフォードは、じっと真壁の目を見つめたが、彼はそれ以上説明する気はないようだった。
この世に魔法が認識されて三年。どうやら世界は自分の知らない領域へと拡張されたようだったが、九月でこの世界から逃げ出すためには、泥沼に足を踏み入れてはいけない。
彼は踵を返すと言った。
「やむを得ん。真壁案で行く。君、それをまとめてくれたまえ」
「お任せを」
そう言って大仰に頭を下げる真壁を、瑞穂常務は苦々しげな目つきで見ていた。
、、、、、、、、、
『いや、これは凄い! 壮観だね。まるでユニバーサルスタジオのテーマパークのようじゃないか!』
代々木の十層では、先行してホネホネ軍団を蹴散らして回っているカヴァス達三匹が大暴れしていた。
その少し後ろには、それを見て大喜びするアーガイル博士と、茫然としてそれについて行っている佐山さんがいた。シルクリーさんはいつも通りだ。
「あの先生、肝が据わってるな」
「というより、現実として認識してないって感じですけど」
三好の周りに時々現れるアイテムは、人知れず彼女が収納しているようだ。グラスは洋々と、俺たちの後ろを歩いていた。
三好はさらに、鉄球でもっと外側のモンスターたちを間引いていた。俺の魔法は派手で目立ちすぎるので、今は、ただの荷物持ちと化している。
『私も、この犬たちが一匹欲しいな。子供が生まれたらぜひ譲ってくれないか?』
いきなり振り返って、興奮したようにそう言った博士に、三好は冷静に答えた。
『残念ですけど』
もっとも、こいつらに子供が生まれるのかどうかは分からない。
そういえば雄雌チェックもまだやってないな。個体に性差があるのかどうかも不明なのだが。
『それは本当に残念だ、そのちっこいのなんか、キュートでいいんだが』
博士がよだれを垂らさんばかりの表情でグラスを見つめると、本能的な恐れを感じたのか、いつも強気のグラスが、三好の足元へとすり寄って、彼の視線を回避していた。
さすがのグラスも、マッドなサイエンティストの視線は苦手らしい……って、この博士、専門分野はいったい何なんだろう?
ここへ来るまでにしたのは、数論と宗教の歴史の話だ。DFAの主席研究員って話だから、まさか数学や宗教学じゃないだろうし……
「先輩、そろそろ階段ですけど、どうします?」
「一時間ちょっとか」
十一層と十二層は比較的近い。十二層と十三層の間は平均的だ。
「あと7・8キロってところか?」
「それくらいです」
春がすでに立ったとはいえ、いまだ日没は五時半ごろだ。
「ギリギリだが、向こうでのキャンプ準備は不要だからいけるか、十三層」
「榊さんには悪いですけど、尻尾の補充は可能ならってところですね」
「三好の鉄球なら遠目には見えないだろ。モンスターの密度も大したことないし、大丈夫じゃないか?」
もっとも、擬態しているそれを遠目に見つけられれば、だが。
「まあ、できたら、くらいにしておきましょう。十二層で暗くなったら面倒ですから」
「佐山先生が、火山帯で寄り道をしなきゃいいけどな」
「あの人も、熱中するとダメな大人になりますよね。研究者って、普通の人はいないんですか?」
俺は真顔で自分の顔を指さした。
「あー、はいはい。そうでしたね」
そう言って三好は乾いた笑い声をたてた。
ちょっと扱い、酷くない?
、、、、、、、、、
『つまり、広くダンジョンにかかわる人たちへの助成ということでしょうか?』
『そうです。弊社のこの基金――というより体裁としては投資事業ですね。は、我々の、言ってみればダンジョン振興による社会貢献の一環のようなものですから、後々規模を拡大する可能性もあります』
『拡大? ここからですか?』
『そうですね』
モニターの中でしゃべっている、日本人形の様な容姿の助成を見ながら、中央テレビプロデューサーの石塚誠が驚いたような声を上げた。
「いや、これって、マジなの?」
「マジもクソも、目の前で見てるじゃねーか」
テレビ局と制作会社の社員とは思えないほど、気楽な口調で氷室が答えた。
彼らは大学時代の友人同士なのだ。
「氷室っちゃん凄いじゃん。いろんな局が血眼になってアクセスしようとしてるんだよ、彼女たちに。前頼んだ時はそんなそぶりはなかったのに、一体どういうコネよ?」
コネと言われても、一方的に向こうから電話をかけて来たのだ。何とも答えようがなかった。仕方がないので、彼は単に、「まあな」とだけ答えた。
「だけど、当初規模で100億円の投資事業って……やっぱ、大金を稼いだってのは噂だけじゃないのかねぇ」
制作局の立場としては、投資事業うんぬんよりも、そっちの方に興味がわくだろう。
『結局、研究者のパトロンになる事業ということでしょうか』
『いいですね、それ。そう思っていただいて構いません』
『しかし、芸術家と違って、研究は利益のために行うのでは?』
『もちろん利益のために行う研究も多数ありますが、世界の神秘に近づこうとすることは、アートを追求することと同じくらいお金にはなりませんから』
映像の中の三好は、小さく肩をすくめると『私たちも、もとはと言えば研究者ですからね。その辺のジレンマは嫌というほど知っています』と、小さな笑いを誘うように言った。
「あの会社の株式構成ってどうなってるのかね?」
「非公開だからわからんな」
「いや、こんな事業を株主がよく認めたなと思ってね」
「ちょうど、そこのことを訊いてるところだぞ」
氷室がモニターを指さすと、石塚の言葉に応えるように、映像の中の三好が発言した。
『全員賛成で決定しました。うちの株主は、研究に理解がありますね』
三好がおどけたようにそう言った。
なにしろDパワーズの株主は二人しかいない。全員の意思確認にかかる時間は一瞬なのだ。
「バラして報道へ渡すって手もあるけど、彼女ら、今が旬だからねぇ。制作でもぱーっと煽って数字をとりたいんだけど」
「ダンジョン向けの投資事業の話なんか、高齢者層や主婦層には関係ないだろ? 朝や昼のワイドショーで取り扱う内容か?」
「そこはほら、話題の高田や不破? それに、斎藤ちゃんあたりを絡めてさ。あとは金額のデカさでなんとかならないかな」
「ブートキャンプ辺りをクローズアップするわけか。まあ、主婦層にはそっちの方がアピールするだろうが……スキャンダルはNGなんだよな?」
「斎藤ちゃんのは、まだ、ね」
「じゃあ、謎のDパワーズに迫る! みたいな構成か? F2やF3がそんなのに興味を持つとは思えんが」
「解説に、吉田陽生あたりを呼んじゃう? 最近話題を持ってかれて面白くないみたいだから、なにか面白い話が聞けるかもよ?」
「ああ、ダンジョン研究家の先生か」
情報を持った専門家に毒を吐かせようってのは、情報番組の作り方としては、まあ普通だ。
後は適当に、アホ役の芸能人とかを配置して、思い通りの方向で……って、方向はどうするんだ?
「全体の方向や色付けはどうするんだよ」
「そこなんだよねー。一般的には著名人とは言えないから、スキャンダルをでっちあげてもインパクトがさぁ」
「でっちあげるなよ」
「やっぱ、おいしいのは、上げて落とす演出なんだけどね」
あいつを落とす? 氷室には、とても無理だと思えたが、石塚の辞書には、触らぬ神に祟りなしって言葉が載っていない。
祟られたら数字になってラッキーなんて考え方じゃ、いつか身を亡ぼすだろうよ、と氷室は目をすがめた。
もっとも、石塚は、身を亡ぼすような出来事が起こったら起こったで、数字が採れてラッキーだと考えるタイプだった。筋金入りのテレビマンってやつは、どうにも食えたもんじゃないのだ。
「人類の救世主? みたいに持ち上げておいて、後で悪魔だって路線、いいよね。なんかネタない? ほら、脱税とかさ」
そう聞いて氷室は呆れたように言った。
「お前、相手がワイズマンだってわかってるのか?」
鑑定の詳細は分かってない。だから、下手に仕掛けたりしたら、何もかもが暴かれかねないわけだ。
「そうかぁ。なら、なんとか鑑定団みたいな番組に、ゲストで出てくれると面白いんだけどねぇ」
「あのな……」
「一般人じゃないから、金でどうこうってのも無理だろうし。いや、こりゃ困ったね」
154 金枝篇 十八層 2月10日 (日曜日)
『おお、ナショナルジオグラフィックで見たヒマラヤのベースキャンプのようだ』
『本当ですね』
そんなことを言いながら、はためくタルチョの前で、無理やり佐山さんと一緒にポーズをとるアーガイル博士を、シルクリーさんが写真におさめている。
麦畑の確認に来ただけのはずなのに、一体こんなところで何をしているんだろう、あの人たち。
とはいえ、今の十八層は観光地にふさわしいと言ってしまってもおかしくない。俺と三好は、そのフロアのあまりの変貌に前回同様、驚いていた。
数多くのカラフルなタルチョが結ばれて、今にも儀式《プジャ》でもやりそうな風景は前のままだったが、探索者のキャンプの方が――
「なんの展示会ですか、あれ」
三好が目を丸くして言った。
「コンパニオンサンハドコダ?」
「きれいなお姉さんの代わりに、機械が愛想を振りまいてるみたいですよ?」
そこは、ファルコンインダストリーを中心に、ダンジョン用ポーターの展示会場と化していた。
各国の探索者が見守る中、前足をフリフリ降りながら愛嬌をふりまくポーターたち。その背中には――
『ありゃ12.7ミリか? こいつは、ごつい武器を持ち込んだものだな。こっから先はあんなのが必要なのかい?』
唖然としている俺たちの後ろから、記念撮影を終えたアーガイル博士が声をかけてきた。
『どうでしょう。三十一層で7.62ミリは、確かにほとんど効果がなかったようですが』
『ん? 行ったことがあるのか?』
『うちの三好が、ですけどね』
『ほう。さすがはSランク探索者だ』
「日本ダンジョン協会が代々木の裏手に建物を増築してるわけですよ。あんなのが普及したら格納庫のスペースが足りません。絶対に」
「まったくだな」
とはいえ、まさかバルカンがのっかってる機械の馬みたいなやつに、日本の道路を歩かせるわけにはいかないだろう。そもそもナンバーがとれるはずがない。
おそらく、ポーター用のポーターを用意しない限り、代々木で預かるしかないはずだ。
『君たちはああいうものを使わないのか?』
アーガイル博士が興味深げに訊いてきた。
『俺たち、そんなに大層な探索はしませんから。命あっての物種というやつですよ』
『昨夜の建物みたいなものをダンジョン内に持ち込めるパーティには不要なものか』
昨夜は十三層でDPハウスを設置したのだ。さすがの博士たちも佐山さんと三人で、唖然とした顔でそれを見ていた。
彼がそう呟いた瞬間、シルクリーさんが飛んできた。
『ミスター・アーガイル!』
『な、なんだい?』
『どこに耳があるかわからないんですから、不用意な発言は控えてください。うちの予算が蒸発してもいいんですか?!』
『わ、悪かった。き、気を付けるから』
『お願いしますよ!』
さすがは訴訟大国のアシスタント、なかなか厳しい突込みだ。
、、、、、、、、、
『あら。あれって、ヨシムラたちじゃないの?』
探索から戻ってきたところで、ナタリーが上《のぼ》りの出口の方向を見ながらそう言った。
『んん? そうだな。なんでこんなところにいるんだ?』
『あ、じゃあ、私は先にキャンプにプラチナを届けに行ってきます』
銀に近いプラチナブロンドの、少し年下に見える男が、サイモンに向かってそう言った。
『お? おお。モーガン。お疲れさーん』
ダンジョン攻略局のマイニング使用者、モーガン=ルーカスは、きれいな姿勢で敬礼すると、キャンプへと向かってポーターを伴って歩いて行った。
その後姿を見ながら、ナタリーがほうと息をついた。
『誰かさんと違って、礼儀正しくていい子ねぇ』
『ナタリーの餌食にするには、ちょっと早いんじゃないっ……ごっ!』
ジョシュアが真顔でそう言いかけたとたん、ナタリーの肘が彼の左わき腹を襲った。
そのあまりの鋭さに、さすがのジョシュアも、左ひじでガードするのが精いっぱいだった。
『ジョシュアー? 何か言った?』
『い、いや、ちょおっと、イーングリッシュジェーントルマンなジョークをだな……ははは』
『あんたいつから、英国紳士になったのよ……はー、どうしてうちのチームはこんな腐れ男ばっかりなの』
『成熟した男と言ってくれよ』
ジョシュアたちのやりとりを苦笑しながら見ていたサイモンは、地上に戻った時に受けた指示を思い出しながら言った。
『成熟した男としては、仕方がない。見かけてしまった以上、上に言われた無理難題をこなしに行くか』
『ああ、オペレーション・トモダチ2? 笑っちゃうけど、アメリカ大統領が誰かと友達になるのは無理じゃないの? 立場ってものがあるでしょ』
ナタリーが匙を投げるように、身もふたもないことを言った。
とはいえ、友達になれとアドバイスした手前、サイモンにはいやも応もなかったのだ。
『それでも、やれと言われたら、やらなきゃいけないのが宮仕えのつらいところさ』
『宮仕え? お前、異界言語理解の時、上の言うこと全スルーして日本に来てなかったか?』
ジョシュアが嘘くせぇと鼻をつまみながら、突っ込みを入れた。
『俺たちゃ、一応大統領直属だからな。上はプレジデントだけ。あの時、彼はなんにも言ってなかっただろうが。それに結果は最良……とは言えないが、ほぼそれに近いじゃないか』
サイモンはあたりを見回すように腕を広げてそう言った。
『結果オーライにもほどがあるな。しかし、その作戦って誰が考えたんだ? CIAあたりのプランニングにしちゃ、ぶっ飛びすぎてるだろ。ちょっと信じがたい内容なんだが』
『あいつらの周りに、信じがたくないものなんかひとつもないんだから、別におかしくはないだろ?』
サイモンが、親指で芳村達の方を示すと、ジョシュアは、やっぱりお前か、と言いたげな視線をサイモンに投げかけた。
『それはいいが、緊張感の薄いプラチナ採取のお供はそろそろ飽きたよ。ポーターも使えそうだし、こっちはモーガンたちに任せて、さっさと三十一層に向かおうぜ』
日々平穏な探索の付き合いに、少々飽きが来ていたメイソンがそう言った。
モーガンが代々木の二十二層に慣れたら、あとは彼のチームに任せて、サイモンたちは三十一層でポーターの武装テストを行う予定になっている。ついでにランク5のポーションも備蓄するつもりだ。
『モーガンのチームも、もう来日してるんだろ?』
『上でブートキャンプ待ちだ。最近はキャシー教官にこき使われているらしいぞ。お題目は世界平和らしい』
『なんだそりゃ?』
メイソンが眉間にしわを寄せて訊いてきたが、まさか世界平和のために、基盤をPPパッケージに詰めるお仕事を手伝わされているとは、夢にも思わなかっただろう。
『さあな。んじゃま、とりあえず行ってくるわ。先に飯食ってていいから』
『了解。戻ってきたときは豆しか残ってないようにしとく』
『優しいお心遣い痛み入るね』
サイモンはジョシュアに向かって、笑いながら中指を立てた。
、、、、、、、、、
『よう、ヨシムラ。久しぶり!』
そう声をかけられて振り返ると、サイモンが笑顔で手を挙げて近づいてきていた。
『あ、こんにちは。どうしたんです、こんなところで?』
『いや、お前らがここにいる方が珍しいだろ』
そういわれればそうだ。彼らは今、プラチナゲットのミッションを行っているはずだが、ベースキャンプは十八層に置いたままなんだろう。
「先輩、先輩。なんだかいつもと違って、微妙に仕事の気配が漂ってますから注意してください」
「仕事の気配? なんだそれ?」
俺はサイモンを見直してみたが、いつも通りへらへらしているとしか思えないし、さりげなく立っているだけでにじみ出るような格好よさがあって、ちょっとイラっとさせられるところも、いつも通りだ。
「よくわかんないぞ」
『おいおい、英語で頼むよ』
『いや、三好が、微妙に仕事の気配があるから注意しろって』
『先輩。本人に言ってどうするんですか……』
サイモンは、苦笑いしながらぼりぼりと後頭部をかくと、『察せられちゃ、仕方がない』と切り出した。
『実は相談なんだが、ちょっとアズサたちに、三十二層まで運んでもらいたいものがあるんだそうだ』
サイモンが何か、紙のようなものを取り出しながらそう言った。
三好は、またかといった様子でふんと息を吐くと、腰に手を当ててて挑戦的なポーズで言った。
『そういうのはお引き受けしていません。大体ポーターがあるでしょう?』
『いや、俺じゃなくて、大統領が』
大統領?! ってアメリカの? 民主主義のはずなのに、世界一の権力者の?
『は? ……い、いや、私たち日本人ですし、たとえ大統領のお願いでも聞けることと聞けないことが――』
大統領のお願いかー。ひょっとしたら日本人の方が畏《かしこ》まっちゃいそうな気がするな、などと考えていると、命令書らしきものの先を読んだサイモンが奇妙なうめき声をあげた。
『ああ? なんだ、この報酬?』
『え? だめですよ。少々お金を積まれたって。なにしろひとつ引き受けたらきりがないんで――』
命令書から顔を上げたサイモンが、三好に目を向けると、『97のスクリーミング・イーグル1ケースって書いてあるぞ』と言った。
その瞬間三好は、背筋をピンと伸ばして、アメリカ海軍風の敬礼を決めて見せた。
『――お任せください、サー!』
「おい、三好……」
俺は、右手で眉間を押さえながら、三好を正気に戻すべく、左手で彼女の胸元にチョップを叩き込んだ。
「あたっ! え? あ……むーん。しかし……先輩、スクリーミング・イーグル1ケースですよ。しかも97。ここを逃したらもう二度と手に入らない気が……」
欲望と原則のはざまで苦悩する三好は、がりがりと頭をかきむしっている。
煩悩が人を苦しめる原因だということが、嫌というほどよくわかるシーンだ。
「たった1往復ですし、四日間の報酬としては破格……あ、いや、金額になおせばそうでもないですけど。ぐぬぬ……」
世界には金で買えるものと買えないものがある。
よく聞くセリフで、大抵は愛がどうとかいう寓話に落とし込まれていたりするわけだが、実はこの言葉が最もリアルに感じられるのは、極まった趣味の領域だ。
まあ、無制限の大金で頬をはたけばどうにかなる可能性はあるかもしれないが、そもそも本物を持っている人間を探すこと自体が大事業だ。
大金を振りかざせば、偽物が本物を駆逐する勢いで集まってくる。
「まあいいだろ。俺も一回くらい飲んでみたいし」
「先輩っ!」
三好がキラキラした瞳で、腕を胸の前で組みながら嬉しそうな顔を上げた。
「どうせ欲望に忠実に行動しているだけみたいなもんだしな、俺たち」
「え? それは先輩だけでしょ」
ええ?! フォローしてやろうとしたのに、まさかの梯子外し?!
『どうやら話は決まったようだな。持ってって欲しいものは横田にあるらしいぞ……って、なんだこりゃ?!』
『どうしたんです?』
『ガスタービン発電設備一棟?? いや、お前らが変なアイテムをゲットしたらしいってことは聞いてるが……持ち運べるもんなのか、これ?』
俺はその資料を見せてもらった。
被災地とかへ持っていくトレーラータイプに近い発電システムだ。しかもついでって感じで居住区までついている。巨大とはいえ、ホイポイに入るかと言われたら、すでにDPハウスが入っている以上、入ってもおかしくはないサイズだ。
質量的に保管庫だと難しいかもしれないが、収納庫なら大丈夫だろう。
しかし、これ、燃料はどうするつもりなんだ?
『あー、そこはまあ何とかなると思いますけど』
『そりゃ助かる』
『だけど、これ燃料はどうするんです? A重油かな? 結構食うんじゃありません?』
『それも、最初はお願いしたいと書いてあるが……』
それを聞いて三好が口を尖らせた。
『ええー? それじゃ2往復ですか? 1週間とかかかりそうですし、ちょっとパスです。地道にあのポーターで運んでくださいよ』
『それこそ何往復すればいいんだよ!?』
『いや、そこはほら、デモンストレーションってことで。何十台か連なってキャラバンにするとか』
三好は、1往復でおなか一杯といった顔で、無責任に適当なことを言い出した。
『途中でモンスターに襲われるのを防ぐ護衛任務をギルドに依頼するのか? ますますフィクションの世界化してるな……あー、一応報酬にDRCがどうとかと書いてあるが――』
サイモンはそう言ったが、三好は特に乗り気じゃなさそうだった。DRCは高価とはいえ、買おうと思えば買えるからな。特に今の三好なら楽勝だ。
『うーん、それは別に……』
サイモンはそれを聞くと、ぺらりと紙をめくった。
『正規代理店もののルフレーヴのモンラッシェ? 垂直で1ダース?』
それを聞いた三好の動きが止まった。あ、これ、やばい奴だ。
『え、うそ? 待ってください? そういや、依頼人はアメリカ大統領だったんですよね……も、もしかして二〇一六年は?』
『んー、91から始まって、ビンテージは連続してないんだが……お、入ってるぞ。予約扱いで今年の五月以降引き渡しの注釈が――』
その瞬間、さっきの3倍くらい気合が入った敬礼を三好がした。
『なんでもお申し付けください、サー!』
『うおっ!』
そのあまりの勢いに、サイモンがちょっと引いた。
人類最強かもしれない男を引かせるとは、三好の気合もなかなかすごいな。主に自分の趣味の領域だけに発揮される気合いだが。
「シュペール《最高》! 大統領、シュペール! ですよ、先輩!」
三好は俺の肩を両手でつかんで、がくがくと前後にゆすった。
なんで、フランス語……あ、ルフレーヴだからか。
「いいですか、先輩。二〇一六年のブルゴーニュは四月の終わりごろに大霜害に襲われて、ムルソーからシャサーニュあたりは大被害を受けたんです。特にモンラッシェみたいなグランクリュ畑は、標高が高いこともあって全滅に近かったんですよ」
三好が鼻息も荒くそう言った。
「そういう年って、生産しないんじゃないの?」
「それがブドウの出来は悪くなかったんです。しかもモンラッシェですよ? 結局単独で1樽以上作れそうなドメーヌはなくて、最終的には7つのドメーヌが自社のブドウを持ち寄って、まとめてルフレーヴで醸造したんです。たぶん二樽分くらい。都合600本ですね」
「はぁ」
「しかも、わざわざ、L'EXCEPTIONNELLE VENDANGE DES SEPT DOMAINES(7つのドメーヌによる例外的な収穫)って、会社まで作ったみたいなんですよ」
「で、当時は指をくわえてみているしかなかったと」
「そりゃそうですよ。というか、たとえ今でも直接買うのは無理だと思いますよ、たぶん。ああ、そんなボトルが私のところに。うっとり」
「いや、うっとりって……まだ引き受けてないだろ」
「これを引き受けずして、何を引き受けるというんですか、先輩! DRCのモンラッシェは買えますけど、ルフレーヴのモンラッシェは買えないんですよ!」
1991年にフルーロから買い取った畑の広さは、わずか0.0821ヘクタール。年間生産本数が約300本で、しかも半分はセラーで寝かせられるために市場に出ない――
大抵は特別な顧客に売られていくわけだ。たまに出てきても怪しい海外の酒屋やオークションでは、たぶん偽物もありそうだ。それが正規輸入代理店直。さすがは権力者。そんな話を立て板に水のごとく語った三好は、はふーと息をついて、再びうっとりしやがった。
これはダメだ、逆らうのは無理だ。
「しかしなぁ、世界中から類似のオファーが来たらどうするんだよ」
「大丈夫ですよ。同じような支払いのできる組織なんて、ほとんどないですから。むしろ個人のコレクターの方がありそうですけど、そういう人たちは世界の命運よりコレクションの方が大切なんです」
いや、それもどうかと思うけど、コレクターってのはそういうものか。
「エリゼ宮とかにならあるんじゃないか?」
「エリゼ宮のコレクションは1947年からで、現在12000本のワインがあるって言いますからね」
「なら――」
「でも、オランド大統領の時、経費節減の一環で一部の高額なワインを放出して、リーズナブルなワインを購入し残金を国庫に戻すっていう政策をとったんですよ。2013年に結構なボトルがオークションにかけられました」
「ははぁ、じゃ、とんでもないものは――」
「その時放出したのは一割ほどだったそうですが、支払いに使えるほど残ってないと思いますよ」
「なら、安心だ」
三好が酒で買収できると知ったら、どんな組織が、何をもって現れるかわからないからな。当然偽物もあるだろう。
「それより、各ドメーヌやシャトーの地下セラーや、モルドヴァあたりの、ものすごくたくさん本数を持っているセラーの地下深くには、なんだかすごいのがあるかもしれませんけど」
「19世紀末のラフィットみたいなやつ?」
「私は体験したい派なので、もはや文化財みたいなボトルはちょっと……」
さすがの三好でも、それは開けられないのか。一応TPOはわきまえるようだな。
『それで、どうするんだ? 引き受けたと考えていいのか?』
話が一段落したと見たのか、サイモンが答えを聞いてきた。
『もちろんです。しかしさすがはホワイトハウスですね。そんなストックを持っているとは』
『いや、これは、ハンドラー大統領個人のコレクションらしいぞ』
『え? そんなの放出しちゃっていいんですか? ルフレーヴだけでも売りに出したとしたら10万ドル以上しますよ?』
そもそも売りに出ないから、値段なんかあってないようなものなのだが、一応相場感というものはあるそうだ。
アメリカ大統領の給与は年40万ドル。プラス5万ドルの非課税経費みたいなのがあるそうなので、都合45万ドルだ。
もっとも、現在のハンドラー大統領は、当選前に1ドルでやるぜーと言っていたらしいそれなりの富豪なので10万ドルなんて大したことはないのだろうが……
『さあなあ。まあ金は国に売りつけた体裁をとるだろうけど、あの大統領だからなぁ……全然大丈夫じゃないから、開けるときは呼んでくれ、くらいは言い出しそうだ』
『いいですよ』
『え、いいのか?』
『2016なんて貴重ですし。いくら大統領でも、そうホイホイとは手に入らないでしょう』
サイモンは、オペレーション・トモダチ2をクリアか? と、一瞬喜びかけたが、ふと思い立って訊いてみた。
『で、それっていつ頃の話?』
『2030年代ですね。それくらいならご存命でしょうし、お元気でいてくださいとお伝えください』
『はぁ?』
それを聞いたサイモンは、ほぼ十年後の話に、からかわれたのかと目を見開いた。
『いや、だって、ルフレーヴのモンラッシェですよ? 十年やそこらじゃ、ただのしょっぱい液体というか石です。ガチガチですよ。そりゃスケールは感じられるでしょうけど、開ける意味ありません』
『そういうものなの?』
『そういうものなんです。こういうコレクションをお持ちの大統領ならお分かりだと思いますよ』
『了解』
サイモンは分かったんだか分からないんだか分からない微妙な顔でうなずいた。
『あ、それで日時なんですが、まばらにスケジュールが入っているので、すぐにとはいかないと思いますけど』
『そこは問題ない。準備ができたら連絡するから、あとはそちらのスケジュールでOKだ。報酬は先に送らせとくから』
『え、まさかの先払い?』
驚く三好を尻目に、サイモンは当たり前のように言った。
『お前らみたいなフリーダムなやつらは、ちゃんと押さえておかないと、いつ気を変えるかわかったもんじゃないからな。さすがに飲んでしまえば翻せないだろ?』
『失礼な。そんなことしませんよ』
『まあまあ。それで上が安心するんならいいじゃないか。で、いつ開けるんだ? 俺もぜひご相伴に――』
『はいはい、じゃ連絡します』
『よろしく頼むぜ。何しろキャシーのやつが、世界を救うためだなんて言いながら、うちの隊員をこき使ってるらしいからな』
にやりと肉食獣の笑みを浮かべながらサイモンが爆弾を投下した。
キャシーのやつ、どうも仕事が早いと思ったら、そんなところで人員をキープしてたのか……
『へ、へぇ〜。あれじゃないですか、ブートキャンプの適性の事前調査的な』
『ほほー、事前調査「的」な、ね?』
ゴゴゴゴゴと書き文字が見えるような、肉食獣同士のマウントの取り合いにビビった俺は、さりげなく後ずさりつつ、『さて、俺たちは仕事がありますので、今日はこれで』と割り込んだ。
『仕事?』
『今日中に二十一層へ行かなきゃいけないんですよ』
『あの連中を連れて?』
サイモンは、俺たちの後方で、てんでバラバラに好きなことをしている三人を親指で指して言った。
『聖なる湖と、切り立ってないゆるやかな丘の下にあるアリキアならぬオレンジの木立までご案内です』
『植物関係か。そういや、金枝ってことなら、三十二層にあったぞ』
『それは本当かい?』
俺の後ろから突然ひょいと顔を出した、アーガイル博士が興味深げにそう訊いた。
『ええ。オークに宿る立派なヤドリギのことなら、三十二層に守護神の如く、生えてましたよ』
『なんと、セーフエリアか……うむむ』
アーガイル博士は腕を組んでうなりながら、ちらりちらりとこちらを見ている。子供か!
『行きませんよ』
『そこを、こう、なんとか』
『ダメです。予定外の行動は、日本ダンジョン協会だって心配しますし、次のスケジュールだってあるんですから』
『では、その予定の後ならいいだろう』
博士はいいことを思いついたとばかりに、両手を広げて歓迎のポーズをとった。
その向こうでは話を聞いていた佐山さんが「聖なる木か……」と呟いて、考え込んでいる。ああ、そういえば、この人も植物関連の専門家だったっけ。
『ミスター・アーガイル。引き継ぎもろくにせずに飛び出してきて、何日も予定を引き延ばすのはさすがに……』
このままではまずいと思ったのだろう、シルクリーさんがそう言ってたしなめた。
『な、なら、いったん帰ってもう一度くれば!』
『お仕事が溜まっていると思いますけど』
『ぐぉおおお! 宮仕えなどくそくらえだ! 若い奴らは、スリーコードで突っ走れ!』
『若くないでしょう?』
『のおおおおおお!』
アーガイル博士は、お前はクマ先生かと突っ込みを入れられそうなポーズで苦悩を表現していた。
『そうだ!』
なにか素晴らしいことを思いついたと言わんばかりに、輝くような笑顔で立ち直った彼は、とんでもないことを言い出した。
『代々木に分局を作ろう!』
『はぁ?!』
おっさん。いくらなんでもフリーダム過ぎるぞ。
155 パートタイムピアニスト 2月10日 (日曜日)
「はー」
「なに、景気の悪そうなため息をついてるのよ。いい? ため息を一つつくと、幸せがひとつ逃げていくんだからね」
「だって、私ピアノに触ったこともありませんよ?」
斎藤涼子は、マネージャーに連れられて、音大のピアノ課へやってきていた。
新しいドラマの役柄が、ピアニストの卵らしく、楽器の最低限の扱いや、演奏の雰囲気を学ぶためだ。
だが彼女とピアノの関係は、せいぜい学校の音楽室や講堂にあったピアノを遠目に見たことがあるくらいだった。
「触ったこともないから、学ぶんでしょう」
「そりゃそうですけど……どうせ演奏シーンは吹き替えですよね?」
「そうだけど、繋ぎまでの姿勢とか手の形とかあるでしょ」
「それはまあわかりますけど」
ドラマ中で弾く作品をピアニストが演奏する姿を知らなければ、その演技をすることは出来ない。いかに演奏シーンが吹き替えだとしても、それは手元のアップだけなのだ。
「出てくる音は目茶苦茶でも、映像だけ見ていれば大ピアニストを目指しなさい」
「へーい」
今度は、ピアニストですか……
アーチェリーはやらされるわ、ピアノは弾かされるわ、女優って大変なんだねぇ。と、彼女は、まるで他人事のようにうそぶきながら空を見上げた。雨は降らないだろうが、お日様は見えなかった。
「涼子は、アーチェリーの大会スケジュールもあるから、こういう時間のかかりそうなレクチャーは、隙を見つけて詰め込まないと」
「あんまり時間が空いたら忘れちゃいませんか?」
「そこはプロなんだから何とかしなさい」
「ええー」
マネージャーの無茶ぶりに、心の中で頭を抱えながら、彼女は建物の入り口をくぐった。
、、、、、、、、、
「斎藤さんはピアニストになるわけじゃないから、一通りの基礎的な楽器の扱いと、あとはプレイの様子を見ることで、雰囲気やポーズを学ぶのが目的でしたよね」
「はい、そうです」
音大の准教授であり、演奏家でもある中路《なかみち》郁子《かおるこ》は、音楽を教えるわけではないこの仕事にあまり乗り気ではなかった。しかし、お世話になっていたソニーミュージックからの依頼では、断ることも難しく、やむを得ず引き受けていたのだ。
レッスンのない日曜日だし、さっさと終わらせるつもりで、20分ほどかけて、ピアノの取り扱いに関する一般的な注意事項と、ピアノへの座り方や、腕の形、いくつかの奏法について説明した。
「なるほど。じゃあ、私も爪がちょっと長いかな」
涼子は、そう言ってきれいに手入れされている指先を見た。
グラビアの時と違って、さすがに伸ばしすぎということはなかったが、指の腹側から見て、爪の先が見えないということはなかったのだ。
「でも今の撮影が終わるまでは切るわけにはいかないから、しばらくはあまり短くしちゃだめよ」
映画やドラマの撮影には、体の状態を変化させないというルールがある。
だからマネージャーのセリフは当たり前のことだったが、それを聞いた中路は、爪を伸ばしたピアニストがどこにいるんだよと、内心呆れながら、もう少し詳しく説明した。
「多少なら爪が伸びていてもピアノは弾けますけど、爪が鍵盤にあたる音が意外とうるさいのと、鍵盤が滑ることのふたつが問題になります」
そう言いながら、黒鍵に爪を立てて当てて滑らせると、そのまま指を落として白鍵を叩いて音を出した。
そんな風に、ミスタッチが起こるのだそうだ。
「晩年のホロヴィッツのように、ほとんど指を曲げない奏法もあることはありますけど、あれはちょっとまねできないですから」
「わかりました。爪が伸びているとピアニストっぽくないですから、たぶん役作りの時に切ることになると思います」
それを聞いた中路はうなずいて、ピアノの前に腰を掛けなおした。
「ではまず私が弾きますからそれを見ていてください」
「あ、先生。あとで演技の勉強をするために録画してもよろしいですか?」
「結構ですよ」
マネージャーは、荷物の中から3台のビデオカメラを取り出すと、鍵盤が見えるような角度で横からと正面、後はペダル部分が見えるような角度でそれをセットした。
「ではお願いします」
「はい」
そうして中路が弾き始めたのは、ショパンのエチュード、作品10−4だ。
今回も必ず使われるであろう1曲で、総合的な技術が要求され、派手でスピード感もあるが、偏った運指がないため、ピアニストにとってとびぬけて難曲というわけでもない。弾けるようになるまでは大変だが。
基本的に運指と姿勢を見せるのが目的なので、それほどスピードも上げず二分ほどの演奏にしておいた。
涼子は鍵盤の上を動く指を最初からずっと真剣に見つめていた。
「どうでした?」
ピアノに触ったこともない素人が、一回演奏を見たからといって、何ができるはずもないが契約は契約だ。一応指導めいたこともしなければと、中路がそう訊いた。
運指に集中していた涼子は、質問されて我に返ると、ついアホっぽいことを言ってしまった。
「えーっと。指がいっぱい動いてました」
「そうですね」
先生は内心笑いをかみ殺しながら、涼子の話を聞いていたが、次の一言で顔色が変わる。
「あれなら、なんとか私にもできそうです」
「え?」
涼子は隣のピアノに座ると、今見た映像を思い出すように目を閉じた。しばらくそのままでいた後目を開けると、同じ曲を同じように再現し始めた。
最初のアタックの後、右手が細かいアルペジオを紡ぎだすのを見て、中路は目を見開いてマネージャーの方を振り返り、小さな声で訊いた。
「この子、ピアノを習っていたの?」
あまりのことに、思わず丁寧語も忘れて、彼女は訊いた。
「いえ、楽器に触ったのも初めてのはずですけど」
「そんなバカな……」
涼子の指は、さっき弾いた自分の演奏を完璧に再現していた。
10−4を初めて弾いて、さらっと流せる? そんなことは絶対にありえない。
なにしろミスタッチがあった場所まで再現されているのだ。初めは何年もピアノをやっている女優が、間違えたでしょと当てこすりで演奏しているのではないかと邪推したくらいだ。
「あれ? おかしいな。何か違いますね」
一通り再現した後、涼子が頭をひねっている。
中路には、それがペダルのせいだということが分かっていた。彼女は、演奏中、ペダルを全く使用していなかったのだ。
バッハならともかく、ショパンをペダルなしで弾くことなどできるはずがない。
もしかして、本当に初心者なのかも――
「あなた、私がした演奏の指の形や抑えた場所を、完全に記憶して、その通り再現できるの?」
「え? えーっと。なんとなく?」
その返事に内心苦笑しながら、中路は違う理由を説明した。
「何か違うのはペダルのせいよ」
「ペダル?」
涼子は足元を覗き込んだ。そこには三つのペダルが並んでいる。
「真ん中はどうせ使わないから、右と左だけ覚えておけばいいわ」
そうして中路は彼女に、右のダンパーペダルと、左のシフトペダルについて鍵盤を押しながら説明した。
誤解を恐れず大雑把にいえば、シフトペダルは踏んでいる間、音を小さくするペダルで、ダンパーペダルは踏んでいる間、鍵盤を離しても音が途切れないペダルだ。
「さっきの演奏のペダル部分の録画を見ますか?」
「見ます見ます。ちょっと失礼します」
マネージャーの問いかけに、涼子は、中路に向かってぺこりと頭を下げると、ノートパソコンに駆け寄って再生画像を真剣に見始めた。
オンオフじゃなくて、結構微妙な使い方なんだなぁ、などとぶつぶつ言っている。
「あれで足元まで再現されたら、ピアニストはやってられないわね」
そう話しかけられたマネージャーは、答えに窮して、あいまいな笑みを浮かべただけだった。
「パントマイムなんかは見たことがあるけれど、女優さんってすごいことができるのね」
「いや、こんなことができる女優はいません。たぶん彼女だけです」
「天才――にしては、成人しているように見えるけれど……」
大抵天才と呼ばれる才能は、小さい頃から目立っているものだ。
ピアノ界でいうなら、9歳で全日本学生音楽コンクールの小学生の部を制した小林愛実さんなんかがそうだろう。彼女以降4年生が毎コンのピアノ部門を制したことは一度もない。
「21ですね。あの子はつい最近まで、普通のグラビアモデルだったんですが――」
マネージャーは彼女にまつわる、最近の事情を説明した。
「ダンジョンに師匠? もう、何が何だか分からない世界ね」
そういいながらも、元の才能に関係なく、わずか数か月であれができるようになるのなら、ダンジョン探索どころか悪魔に魂を売ってもいいと考える学生はおそらくいるだろう。
もしかしたらホロヴィッツの鍵盤とペダルの映像を見せさえすれば、あっさりと同じ演奏をやってのけるかもしれないのだ。
音楽への深い理解など、かけらも必要もない。そんなピアニストが量産される世界を考えると、少しぞっとした。
、、、、、、、、、
「それじゃあ、指定された曲の鍵盤と足元映像は、ソニーさんと相談して、用意しておきます」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
涼子は、マネージャーと一緒に頭を下げた。
結局あの後、彼女は完璧に10−4を弾きこなした。中路とほぼ同じように。もちろんミスタッチ部分は修正しておいた。
しかも、晩年のホロヴィッツの映像を見せると、指を伸ばした奏法もマスターして、鍵盤に爪が当たる音が激減していた。
中路は、指か手首を傷めるんじゃないかと心配したが、涼子は特になんの負担も感じていないようだった。
その後は、速度を上げるも下げるも自由自在だった。一分40秒を切るペースまで上げても、テンポ揺れがまるで起こらない。メトロノームに合わせて再生速度を変えるだけの機械のようにすら思えた。
これで感情表現まで変化させ始めたら、初心者からたった数時間でピアニストの出来上がりだ。促成栽培なんてレベルじゃない。考えただけで恐ろしい。
「それで、斎藤さん。本格的にピアノをやってみない?」
「勘弁してください。私、楽譜一つ読めないんですよ?」
「そう。残念ね」
確かに楽譜の読めないミュージッシャンはいる。
ジミー・ヘンドリックスも、エリック・クラプトンもリッチー・ブラックモアも譜面は読めなかった。あのビートルズですら、怪しかったらしい。
ピアニストで言うなら、エロール・ガーナーもピアノは弾けても譜面は読めなかった。
しかしジャズやロックの世界と違い、身体的にやむを得ない場合を除けば、クラシックのピアニストに楽譜が読めないものはいない。
作曲家の意図は、楽譜を通して読み取るものだからだ。
もしも彼女がピアニストになったとしたら、他人の完璧なコピーを元に自分の世界をアレンジする、いびつで印象的なプレイヤーになるだろう。
なにしろ、スタート地点が世界の一流プレイヤーで、しかも誰のスタイルでもコピーできるのだ。
もしかしたら、コピーだと揶揄されるかもしれないが、そのコピーが完璧で、彼女の容姿が加われば、ナニナニの再来だの、ナニナニ2世だの言われて逆に持ち上げられるかもしれなかった。
そして、一度記憶してしまえばミスタッチはゼロ。きっと酷いコンクール荒らしになるだろう。21なら、まだあらゆる国際コンペティションに出られるはずだ。
なにしろ映像さえあれば、準備期間は一日で済むのだ。しかもグラビアモデルや、女優ができるほどの容姿。マスコミが放っておくはずがない。
「やっぱり、この世界から遠ざけておく方が無難かしらね」
中路は、駐車場へと戻っていく彼女たちを見送りながら、そう呟いた。
スポーツ界の話は、風のうわさに聞いていた。
芸術の世界には関係ないと思っていたが、涼子のような人間を見ると、プロの演奏家の世界も、いずれは彼女のような人間に席巻されるのかもしれないと危惧を抱いた。
今から積極的に、ダンジョンを利用するよう指導するべきなのか、それともそれをひた隠し、いずれ来るかもしれない未来を、出来るだけ先へと送り続けるべきなのか。
中路には決められなかった。
、、、、、、、、、
「もう、師匠ったら、なんで電話に出ないわけ?!」
スマフォの向こうから聞こえてくる「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、または電源が入っていないためかかりません」という機械的な声を聴きながら、涼子は悪態をついた。
さすがの彼女も、自分がやったことの異常さにビビっていたのだ。
「原因は絶対芳村さん関係だよね……てか、それ以外考えられないし」
ダンジョンから戻ってきたら覚えてなさいよ! と心に誓って、教えてもらっていたメッセージボックスに伝言を残した。
156 金枝篇 二十一層 2月10日 (日曜日)
二十一層の湿地帯へ下りたのは、日没の数時間前だった。
雪山層で難儀をするかと思っていたが、セーフエリア関連で下層に降りる自衛隊の隊員たちが多いのか、メインルートは割と踏み固められていて、思っていたほど酷いことにはならなかった。
「うわぁ、春真っ盛りのムーアって感じですね、ここ」
楽しそうに佐山さんが、水辺のヒースににた植物に駆け寄ろうとしたとき、ドゥルトウィンが突然現れて、彼の襟元をくわえて止めた。
「ぐぇっ」
カエルがつぶれたような声を上げた佐山さんが駆け寄ろうとした場所で、小さなドラゴンのようなカエルが飛び出して、あたりのヒースを切り裂いた。
すかさずカヴァスがそれを踏みつけ、鋭い牙でかみつくと、カエルは黒い光に還元された。
「危ないですから、指定された場所以外には、あまり急に突撃しないでください」
「は、はあ……すみませんでした。なんだか普通にここまで来れちゃったので、あまり意識しませんでしたけど――」
そう言ってあたりをきょろきょろと見回した。
「――ここって、ダンジョンの二十一層だったんですよね」
ダンジョンの二十一層は、つい最近まで、探索者たちが到達していたもっとも深い層に近い場所で、そもそも初心者が来られるような場所ではない。
危険な肉食獣がうようよしている熱帯雨林やサバンナよりも、さらに厳しい場所なのだ。
『ミスター・サヤマの気持ちはわかるよ。ここまで、まるでピクニックのように歩いてこられるとは。宿も大したものだったし、アルプスへの登山なんかよりもずっと快適だったからね』
『はあ。そうですよね……こんな待遇でセーフエリアまで行けるというのなら、世界中の研究者が殺到しそうです』
『たしかにそうだ。宣伝しとこうか?』
アーガイル博士がこちらを振り返って、恐ろしいことを言いだしたが、シルクリーさんがそれを遮るように言った。
『ミスター・アーガイル。絶対にやめてください。それは守秘義務に抵触する可能性があります』
特に待遇の部分が守秘義務に抵触する可能性があると、彼女は力説していた。
「あれだけ彼女に言われれば、アーガイル博士も宣伝なんかしないでしょう」
「三好、甘いな。あのおっさんからは、ルールなんか屁とも思っていない空気がひしひしと伝わってくるぞ」
無視するというより、気にしていないって雰囲気だ。ナチュラルに危険な奴だ。
「ああ、同類ってやつですか?」
「馬鹿言え、少なくとも俺は、日本の法律をそれなりに守ってる」
「どや顔で言うようなことですか、それ……」
メインルートを外れて、少し小高い丘が連なるエリアに入ると、春のムーアから、もう少し多様な植生が現れる。
アブやハチが飛び回っていてもおかしくない風景だが、虫の類はまったくいない。代わりに草むらを揺らす、数メートルもある蛇だの、突然飛んでくるカエルドラゴンだの、高速で飛び回る、羽がカミソリみたいな、でっかいトンボだのが時折姿を見せていた。
ラブドフィスパイソンとウォーターリーパーは、アルスルズが始末していたが、ウィッチニードルだけは空を飛ぶし、速いので、遠くにいる間に俺が生命探知でとらえてこっそりと水魔法で始末していた。積極的に攻撃する場合、アルスルズとは相性が悪いのだ。
「こういう場所を見ていると、荷物を運ぶのに馬なんかを使えれば楽だと思うんですけど。十八層で見てたポーターですか? ああいうのより安く上がるんじゃ?」
佐山さんがあたりを見回しながらそう言った。
ハイテクを使う前にローテクが使えるんじゃないのかって話だ。『一方、ロシアは鉛筆を使った』ってやつだな。
「もちろん以前に試されたことはあるそうですよ。特にアメリカでは。でも続きませんでした」
三好が過去にあった、動物の利用について説明していた。
何しろ生き物は手間がかかる。
それに、狩猟犬なんかと違って、馬には大量の水や餌が必要だ。行った先でそれが手に入るならいいが、それが期待できない場合、当然馬が飲む水や餌を持って行く必要があるわけだ。
しかもその量は、とてつもなく多い。サラブレッドやアラブの大きい馬なら、軽い運動をするだけで、水は一日で30リットルは必要だし、餌だって15キロくらいは食べるそうだ。
数日連れて行ったとしたら、馬に乗せられる荷物が馬に必要なもので埋まるという本末転倒な現象が起こる。
それでも、餌や水が減った分、拾得物を載せられるんじゃないかという話もあったが、なにしろ臆病な大動物だ。
モンスターに襲われればパニックになるし、それで怪我でもされれば、その瞬間に殺処分が決定する。馬を抱えて帰れるはずがないからだ。かといって馬の護衛のために、大勢の探索者が必要になるとすると、もはや何のために連れて行くのかもよくわからなくなる。
階段があるから馬車や荷車を引かせることも難しく、結局、物を運んだり、乗って移動するための動物は、ダンジョン内に適応できなかった。面倒が多すぎるのだ。
「なるほどねぇ。そこらに生えている草を食べるってわけにはいかないんですか」
「草よりも水ですね。あと、マップができている今ならともかく、当時は行った先に水や草があるとは限りませんし」
「じゃあ、今なら?」
「特定の場所への移動には使えるかもしれませんけど、大動物はモンスターに襲われたときに守るのが難しいですから」
ふーむと考え込んだ佐山さんに向かって、俺は、「その丘を越えたあたりから、オレンジの森が広がっていますよ」と告げた。
今頃はカヴァスとアイスレムが、先行して露払いをしているだろう。時折、モンスターたちの断末魔の叫びのようなものが聞こえている。
丘の上に上がると、眼前にオレンジの森が広がり、向こうの丘の上には、前回来た時に建てたDPハウスが、今もそこに建っていた。
『アズサ。あれは、昨夜泊まったものと同じ建物か?』
『そうです』
『なんと。スライムはどうなっているんだ?』
ダンジョン内に人工の大きな建物が建っているのを見たアーガイル博士は、そこに誰かが常駐しているのかと訊いてきたが、三好が、先日、スライム退治のパテントを世界ダンジョン協会に提出したことを話して、それを利用して、無人で守られている旨を告げると、とても驚いていた。
『あれなら、セーフエリアじゃなくても街が作れるんじゃないのか?』
『室内にリポップされる可能性がありますから、あまり規模が大きくなると危険が増えるんです』
『なるほど。致命的な場所にリポップされたりしたら、街が崩壊してもおかしくないのか』
『ダンジョン内の建造物は、常に、確率的なリスクを負っているというわけです』
三好が故意にネガティブな言い回しにしてそう言った。
スライム退治のパテントを所有している組織としては、安易にポジティブな言い回しをして、あとで訴訟でも起こされたら困るからな。
「あ、あの。もうオレンジを見に行っても構いませんか?」
佐山さんが待ちきれない様子でそう言った。
「道沿いなら、大体大丈夫ですよ。急なリポップの対策に、ドゥルトウィンをつけておきますから。トンボの場合は伏せてください」
「了解しました! ありがとうございます」
そういうと、採取用のクーラーボックスと機材を肩にかけて、スキップするように、道沿いの木に近づいて、まずは写真を撮り始めた。
日没まで、まだ一時間くらいはあるだろう。
「暗くなる前に切り上げて、向こうの建物まで来てくださいね!」
「りょーかいでーす!」
彼は、こちらを見もせずに、夢中で撮影をしながら、手を振った。
俺たちのガードが、グラスしかいなくなったので、アーガイル博士たちには自由行動を許可せず、一緒にDPハウスまで移動してもらった。
(先輩。ちょっと外で待っててください。バッテリー交換とか、いろいろやってきますから)
(了解。終わったら連絡してくれ)
(はーい)
『アーガイル博士。ちょっと向こうを見てみませんか』
俺は荷物を下ろすと、そこから小さな釣竿を二本取り出した。
『前回来た時に見つけた湖なんですが、魚のようなものがライズしてたんですよ』
『魚? 水中にいるモンスターは、いくつか見つかっているが……』
『それを、確かめてみませんか?』
そう言って一本の釣竿を彼に渡した。
『これはあれかな、日本じゃGYOって驚くところかな?』
アーガイル博士は、その竿を受け取りながら、おちゃめなポーズでそう言ったが、目が真剣だった。
『もし、本当に魚なら、オレンジに続く大発見じゃないか』
あれから調べてみたが、ダンジョン内にいわゆるモンスターではない魚類は発見されていなかった。
もしここに魚がいて、ついでにリポップしたりすれば、ここは、魚が無限に獲れる漁場ってことになる。
とはいえ、二十一層から地上まで、〈保管庫〉なしで生魚を運ぶのは骨が折れるだろうが……
(三好。グラスは借りて行くぞ)
(了解です)
俺が、グラスに周辺の警戒と警護を頼むと、グラスは任せておけとばかりに、湖の方まで先行して降りて行った。
警護はどうするんだよ……
体が小さいだけで、能力はほかのアルスルズとそれほど変わらないらしいが、こういうところが、ちょっと抜けてるんだよな、こいつ。
同じヘルハウンドでも、性格や個性が異なってくるというのは面白い現象だ。まるで本当のペットみたいだ。
俺たちは竿を伸ばしながら、グラスに続いて丘を下って行った。
とりあえず、アーガイル博士のタックルには、ショートビルのミノーがセットしてある。
ミノーは、小魚を模したルアー《疑似餌》で、リップと呼ばれる口元のパーツが小さいものをショートビルと呼んで、あまり深く潜らないタイプになっている。
ただ、ダンジョン内に食物連鎖がない以上、そこにいる魚が餌を食べるのかどうかはわからない。もしも食べないのだとしたら、ミノーには見向きもしない可能性があった。
というわけで、俺の方はスプーンをセットしてみた。
何がいるのかわからないので、何をつけていいのかもわからない。そういう時は、超ロングセラーのトビーだ。
トビーはスウェーデンのABU社が作ったスプーンで、シェークスピアですら、Toby, or not Toby: that is the question: と言っているくらいの名作だ。勘違いかもしれないが。
通常、池や湖を岸から攻める場合、沢筋から池に注ぐポイントを攻めるのがセオリーだ。
しかし周りを見る限り、そんな場所は見当たらない。ならば枯れた木などが突き出ていたり、オダが沈んでいそうな場所だが、それもはっきりしなかった。
仕方なく、適当にキャストして軽くロッドアクションを加えながらリトリーブしてみる。
アーガイル博士は、なかなか堂に入ったキャストで、ミノーを飛ばすと、いわゆるただ巻きで探っているようだ。
釣りの経験はあるようで、リトリーブする姿がサマになっていた。
その時ごつんと何かにあたる手ごたえがあった。ん?と合わせて竿を立てると、一気に横に走り始めた。
「うわっ! 何か来た!」
ルアーロッドでも何でもない、省スペースのテレスコピックロッドは簡単に折れる。
弓のようにたわむロッドを気にしながら、ドラッグでだましだまし寄せていく。ふと見ると博士が自分の釣りを切り上げ、側まで来て、ネットを拾い上げていた。
『レインボーのランカーサイズのような引きだね』
『意外と釣りにお詳しいんですね』
『NYじゃ、子供たちに釣りを教える行政サービスまであるからね』
『なんですか、それ?!』
博士の話によると、言ってみれば、東京都が、子供たちを集めて釣り教室を税金で開くようなもののようだった。凄いな、NY。
『私だって、毎年五月の解禁日になれば、ドライブがてらロングアイランドへ繰り出して、ぺコニック湾やガーディナーズ湾でフルークを釣るよ』
『フルーク?』
『知らないかい? フラッティーな魚だけど』
平たい《フラッティー》? ヒラメやカレイかな?
『ドア・マットはまだ仕留めたことがないけどね』
ドア・マットというのは、一メートルを超えるような無茶苦茶大きなフルークのことらしい。そんなサイズのカレイはいないから、やはりヒラメの類だろう。しかしオヒョウって寒い海にしかいないよな……温かい海だと普通のヒラメの育ちもいいのかな?
そんな話をしているうちに、ヒットした魚が寄ってきた。一応それがモンスターで、テッポウウオよろしく攻撃してくることを前提に注意はしていた。
はてさて、いったい何が……
寄ってきた魚は、美しい銀色にかすかにピンクの色が浮かんでいるスマートな魚だった。かなり大きくて用意していたネットでは、とても全部は収まりそうにない。
それでも無理やり、頭を半分突っ込ませて草むらの上へと引きずり上げた。
『こいつは立派なスチールヘッドだな。80センチはありそうだ』
スチールヘッド?
『いや、ちょっと待ってください。スチールヘッドって、降海型のニジマスですよね?』
『そうだよ』
『この湖のどこに海へ降りるルートがあるって言うんですか』
俺はあたりを見回しながら言った。
そこには、水上や水尻はおろか、沢すらも見えなかった。
『そういわれれば不思議だが――』
そろそろ夕日の色になりかかった周囲を見まわしたところで、今まで見つからなかった水の出入り口が突然見つかるはずがない。
『――そもそもダンジョン内に魚が生息していること自体が不思議だからね。こういうこともあるんだろう』
いや、あるんだろうって。
まれには陸封でスモルト化する個体もいるらしいから、最初の一発でそいつがかかった可能性も……いや、ないな。
『しかもイギリスのムーアあたりをイメージして作られた風景の中に、太平洋北部、主にアメリカが原産の魚とか、雑にもほどがありますよ』
もしも三代さんのイメージが影響しているんだとしたら、アトランティックサーモンやノーザンパイクは、日本だとメジャーとは言えないからな。
サケっぽい銀色の魚、みたいな認識だったのかもしれない。もしも三好なら、絶対サクラマスだったに違いない。理由? 美味いからだ。
『作られた?』
アーガイル博士が怪訝な顔をして、眉をひそめた。
そういえば、ダンジョンに虫や魚がいない理由、階層の環境が作られる仮説は、俺たちの勝手な想像で、全然一般的な話じゃなかった。
『で、これ、どうします?』
俺は、仮説を説明するのをやめて、草の上で暴れるのをあきらめ、鰓だけがパクパク動いている銀色の魚体を指さしてごまかした。
その推論の根底には、俺と三好の経験と、Dファクターとメイキングへの理解があるのだ。
それは他人には説明できない領域だし、そこを説明しないと、ただの思いつきであって、議論のネタにもなりはしない。
『そりゃあ、食べてみるしかないだろう』
アーガイル博士は不審そうな顔をしながらも、そう言った。
おいおい、DFAの主席研究員が何を言ってるんだ。食の安全性を守るのがお仕事だろ……
『え、危険かもしれませんよ?』
『なに、人類が食べている食物の大部分は、誰かの犠牲の上に安全性を確認したものばかりだよ。それに――』
博士はDPハウスを見上げた。
『――彼女がいれば大丈夫だろう?』
『ああ』
そういや三好は鑑定持ちだった。
しかも最近レベルアップしたらしく、説明が増えたりしていたっけ。ダンジョン産のオレンジにも効果があったから、魚にも使える可能性は高いだろう。
『じゃ、今晩はスチールヘッドのソテーですね』
『実に楽しみだ。我々はダンジョン産の魚を口にする、世界で最初の人間になる栄誉を与えられたんだからね』
アーガイル博士は両手をこすり合わせながら、楽しそうにそういった。
『しかし、あれだな』
『はい?』
『彼女が一人いれば、DFAなんかいらなくないか? 長期間かかる検査も一瞬だ』
いや、ないかって言われてもなぁ……
『一人の人間にすべてを頼ることの危険性はよくご存じでしょう?』
俺は、魚からフックを外して、竿を片付けながらそう言った。
三好の鑑定に依存したシステムが出来上がってから、三好が死んだりしたら、システムを再構築する間、ダンジョンから生まれてくる食に対して世界は無防備になるのだ。
そんなことをアーガイル博士が分かっていないはずがない。
『ちぇっ。彼女が引き抜ければ楽ができると思ったのに……』
ちぇって……この人時々子供みたいになるんだよな。
俺は苦笑いしながら魚をぶら下げて、博士たちと一緒にDPハウスへと向かった。
ちょうど、丘の向こうから佐山さんが、ご機嫌なスキップしながらこちらへ向かってくるところだった。
157 ミヨシさん、ピムチですよ。 2月11日 (月曜日)
その日の朝、東京では気温が0度近くまで下がり、空から落ちてくる小さな氷の結晶が、世界に薄っすらと白いヴェールをまとわせていた。
東証の前場が始まってしばらくした頃、カーテンを閉めた薄暗い部屋で、神経質そうな男が、6枚のモニターに囲まれた机の前で、思わず声を上げた。
「なんだこれ……?」
週明けの月曜日、取引アプリが、いきなりの注目フラグを立てたその銘柄は、高寄りしたかと思えば、以降は売りを食い尽くして、一直線に上がり続けていた。
確かに御殿通工は、先々週の中頃から奇妙な動きをしていた。
600円を割り込むかもなんてレポートが出ていた株は、先々週の中頃、突然730円前後に張り付いた。指標からみれば結構な高止まりだ。理由は分からなかったが、今後の展望も薄く手放すチャンスを狙っていたホルダーたちは、それに一斉に食いついた。
皆が売り時を探っていたが、ふと700円を割りそうなところまで戻したところで、一斉に指値売りが出て、分厚い売り板が作られた。そうして誰もが上値が重いと思われた瞬間、溶けるようにその板がなくなったのだ。
皆がそれに注目した。もちろん男も例外ではない。とはいえ、誰にも買われている理由が理解できないのだ。その後も探るような取引が続いたが、高額な指値売りは約定せず、買い手が決めた価格帯だけが約定していった。
それでも売り頃は売り頃だ。どう考えても下がる以外の未来はないのだ。そのため取引きだけは活発に行われていたが、株価は不思議なことに730円前後で張り付いたように動かなかった。
男のようなデイトレーダーにとって、動きのない株はゴミと同じだ。この謎に後ろ髪は引かれたが、おいしく齧れるところはないと判断して、探りを入れるために少数の株を残したまま興味を他へ移したのだ。
「御殿通工? いまだに材料なんか何もなかったはずだが……」
男は、すぐにネットで御殿通工の情報を検索したが、TDB(帝国データバンク)にもTSR(東京商工リサーチ)にもワンソースにも、特に目新しい情報は存在していなかった。
「あや戻しったって限度があるし、人気買いといっても、御殿通工のどこに将来への期待があるっていうんだ?」
時価総額は十分大きいし、バリュー株とはとても言えない。カレンダー効果にしては動きが大きすぎるし、第一今日は月曜日だ。下がることはあっても上がりはしない。情報が何もない以上、行動バイアスというのも考えにくい。
十年と少し前、50万の元手で株の取引を始めて以来、アノマリー(理論で説明できない株価の動きの事)は何度も見てきたが、これはかなりおかしな部類だ。
結果、考えられることがあるとすれば――
「何かの罠か、そうでなきゃ不正?」
意味はまるで分からないが、どこかの誰かが普通では知りえない情報を手に入れたのだろうか。730円の板は今もそこにあるから、これを買っているやつは別の誰かだ。
730円板の連中も、相当頭がおかしい部類に見えたくらいだから、その理由を探りだした別のグループが、一気に勝負をかけたと言えるのかもしれない。
試しに、少しだけ持っていた手持ちの御殿通工の株を、ストップ高ギリギリの価格で指値売りしてみたら――
「……約定しやがった。こいつまさか売り板が出るたびに、それを食って歩いてるのか?」
さすがに成り行きで買っているなんてことはないと思うが……
これだけ派手にやるからには、インサイダーという線も薄いだろう。もしもインサイダーでこれをやっていたとしたら、そいつはただの馬鹿だ。
「ともあれこれは、『乗るしかない、このビッグウェーブに』ってやつかな?」
ここしばらくの高止まりで、手放しても構わないと考えているホルダーたちは、すでに放出した後だったこともあって、売りがまったく足りていない。
上がり方に驚いた一部のホルダーが、なけなしの売り注文を出した後、売り板は消えて、チャートはぐんぐんと上昇している。
男は罠だった時のために、逃げ切れる程度に買いを入れると、細かく利食いを繰り返すコードを書いて実行した。
そうして、右肩上がりに伸びていくチャートを眺めながら、掲示板へと書き込みを始めた。
、、、、、、、、、
「思ったよりも早かったな」
「そりゃ、俺は優秀だから、仕方がないさ」
「ははは。それで?」
篠崎は、「スルーかよ」とぶつぶつ言いながら、カバンから角2の封筒を取り出すと、それを寺沢に渡した。
「だが、本当にここで大丈夫なのか? 自衛官の巣窟だろ」
二人がいるのは、ホテルグランドヒル市ヶ谷一階のカフェ、カトレアだ。このホテル、一部では自衛官の帝国ホテルなどと呼ばれていて、ここで結婚式を挙げる自衛官も少なくなかった。
「自衛官が、元自衛官に会うにはふさわしい場所だろ? 仮に誰かに見とがめられとしても、ただ友人と会っていただけさ。小さな暗い店の一角の方がよっぽど怪しい」
それでも彼らが座っているのは、目立たない位置にある席だった。
寺沢が、報告書を取り出すのを待って、篠崎が説明を始めた。
「鉄球の方は思ったよりも簡単に見つかった。ネットで検索したら、上位10件どころか、通販系3社を除いてトップにあったよ」
「どうやって聞き出したんだ?」
「そこは俺のウデで、と言いたいところだが、『先日八センチの鉄球をたくさん注文したものですが』と電話したら、『ああ、ミヨシさん』と返された」
篠崎は「素人はちょろいね」と、笑っていたが、寺沢はそれどころではなかった。
「ミヨシ?」
「ああ。さすがに漢字は分からないが……心当たりが?」
この世界でミヨシと聞いて、誰しもが真っ先に思い浮かべるであろう人物は一人しかいない。
ザ・ワイズマンの異名を持つ、日本人形のような風貌の小柄な女性だ。チームIの報告書によると、三十二層へと下りる階段を見つけるカギになったアイテムの鑑定も彼女がやったらしい。
そんな女性が、ファントムの使っていた鉄球を――いや、待て。
「それは本当に、お前に渡した鉄球なのか?」
「厳密には成分比較でもしてみなきゃ分からんさ」
篠崎は運ばれてきたダブルのエスプレッソに、どかどかと砂糖を入れながら言った。
「だが、それを1万個も発注するのは異常だろ」
「1万個!?」
「ああ、そのミヨシさんは、そのくらいの数をオーダーしていたようだぞ。お前が言っていた武器に使うんでもなけりゃ、何に使うっていうんだ?」
直径八センチの鉄球を1万個? 重さだって数トンでは済まない。体積だって……一体どこにしまってあると言うんだ?
とはいえ、三好梓がファントムだと言うのは、どうにも無理があった。鋼から聞いていたのとは身長が違いすぎるし、君津二尉からは確かに男だったと聞いている。
彼女の近くにいる男と言えば、あのパーティメンバの男だが、あの男がファントムなんてことがあるだろうか? 記録上は確か探索者になりたての初心者だったが……
「後は2.5センチの鉄球も、結構な数をオーダーしているみたいだったな」
「2.5センチ?」
「そうだ。投げるにしちゃ、小さすぎて扱いが難しいし、スリングショットの弾にしちゃ大きすぎる。一体何に使うんだろうな」
「ふーむ」
2.5センチの鉄球の使い道は謎だが、いずれにしても、このミヨシがワイズマンだとしたら――そう考えない方がどうかしているわけだが――彼女は、ファントムの正体を知っている可能性がある。
もちろん、正体を隠して、必要なものだけをワイズマンの商業ライセンスを通して都合してもらっているという可能性もあるが……
「まてよ」
「なんだ?」
もしもそうだとしたら、オークションのオーブを調達しているのは、ファントムって線もあるな。
なんでも好きなオーブを作り出せるメイキングというスキルがあるという仮説よりも、むしろその方が自然だ。
もっとも、それでは異界言語理解の取得タイミングの都合がよすぎる気がしないでもなかったが……
「…………」
物思いに沈む寺沢を見て、こいつは考え事を始めると、時々どこかへ行っちまうんだよな、と篠崎は昔のことを思い出しながら内心苦笑した。
「人事教育局長の件は2枚目だ」
それを聞いて我に返った寺沢が、すこし厚めの紙束を取り出した。
そこには、時系列に従って、接触した人物の名前とその写真が、かなりの枚数添えられていた。
「そいつが、この一週間で彼があった人物のリストだ」
「凄いな」
「そりゃ、俺たちは優秀だからな」
「まったくだ。それで?」
篠崎は、「今度はパリィかよ」と呟いて続けた。
「細かくという依頼だったから、かなり細かくやったぞ。さすがに料亭で別々に入って会われたりしたら、接触の特定は難しいが、入店と出店の時差がそれぞれ三十分以内だった客はフォローしておいた。そういう人物にはUCが付けてある」
「UC?]
「uncertainってね」
「『疑』って書いとけばいいだろ」
「画数が多すぎる」
まるで書くのが面倒くさいと言わんばかりに、篠崎はぶっきらぼうに言った。
「先日聞いたお前の目的に合致しそうな経歴を持ったやつには、エクスクラメーションマークをくっつけて、経歴の概要も添えてある。誰だか分からなかったやつは、クエスチョンマークだ」
「助かるよ」
篠崎はニヤリと笑うと、内ポケットから小さめの洋形の封筒を取り出した。
「こいつには人員が必要だったからな、カネがかかったぜぇ。機密費ってのは、大金が唸ってるんだろうな?」
寺沢に差し出されたその封筒の中身は、請求書だった。
、、、、、、、、、
ブートキャンプが、ステータス別のルーチンに入ると、キャシーのやることはそれほど多くなかった。
やり方の説明を終わらせてしまえば、後の仕事は、ほぼ見守りだからだ。
忙しくダンジョンと地上を行き来している受講者を見ながら、以前から拡張が始まっていた隣の部屋と、さらにその向こうの角に急遽作り始められた部屋を眺めていた。
向こうの角部屋は、先週のキャンプ時には静かなものだったから、木曜日以降から工事が始まったんだろう。気になったのは、運び込まれるものが、うちととてもよく似ていたからだった。
『もうひとつ部屋を拡張するなんて話は聞いてないんだけど……』
それを見ていると、二人の作業員の会話が耳に入ってきた。
「昨日のオリパラ見たか?」
「ああ、見た見た。『すみません。セットって何ですか?』は良かったよな」
若い男は、トリプルアクションでずっこけ効果音までつけて放映されたデニスのボケを思い出して笑っていた。
どうやら、昨日放映された、探索者の記録会の話題の様だった。キャシーもそれを見ていたが、世界記録が出てもさほどの驚きはなかった。
なにしろサイモンたちと一緒にダンジョンに潜って、戦う様を見ているのだ。もはやあれは人間の身体能力じゃないと十分理解していた。
「しかし、あれってガチなの?」
「さあなあ……公式記録じゃないと言っても、九秒46だろう? 0.1秒以上縮めて世界記録ってのは、いくらなんでも出来すぎだろ」
「じゃあ、ヤラセ?」
「どうかな。一応陸連の記録会だし、いくらなんでもヤラセはない……と思うんだけどなぁ」
ヤラセをやるなら、わずかに世界記録に及ばないが凄い記録、くらいの方がそれっぽい。
第一、出来すぎとは言ってもスポーツの記録だ。お宝を鑑定して価値をくっつける番組じゃあるまいし、下駄をはかせることは難しい。
放映された映像から、記録は計算できるのだ。早回しで再生されていたとしても、結局はばれる。
「うちのトップの人たちなら、8秒台でも驚かないわね」
そう独りごちたところで、念話が届いた。
(ハイ、キャシー。お疲れ様)
(むっ、ミシロか。どうしたんだこんなところで)
(最近家内制手工業みたいな仕事ばっかりだし、下まで行くのは小麦さんが休みじゃないとだし、なまっちゃいそうだから、五層あたりで肩慣らし)
(暇ならこっちを手伝ってくれてもいいんだぞ?)
(やることないからパース)
まあ、確かにやることは大してない。訓練中に教官が駄弁っているのもイメージが悪いから、話相手にもならないだろう。
(ナカジマのところに手伝いに行くとか?)
(あんな辛気臭い仕事は、週の後半だけで十分だからパース)
(辛気臭いって、世界を救う仕事だってのに……)
絵里は、あんた、それ騙されてるよと思ったが、さすがにそれを念話には乗せなかった。だって、一応雇用主ですし、と心の中で言い訳しながら。
それが念話に乗らないところが、芳村との違いなのだろう。小麦と冒険を繰り返していて熟達したに違いない。
(じゃあ、頑張ってねー)
(ああ。ミシロも気をつけてな)
(はーい)
そう返事をすると、彼女は代々木の一層へと下りて行った。
キャシーは、部屋の拡張について彼女に尋ねるのを忘れていたことに気が付いたが、後でボスに聞いておこうと気を取り直した。
目の前で「あのクソゲーム!」と吐き捨てながら、顔をしかめた受講者が、モンスターを倒しにダンジョンへと向かって行った。
それを聞いたキャシーは、もっともだという顔で頷いた。
、、、、、、、、、
習志野では、上官に次のミッションを伝えられた伊織が、チームブリーフィングの前に鋼とすり合わせを行っていた。
「33層への出口が見つからない?」
「らしいです」
「やれやれ、オーブの次は階段探しか。三十二層までしかないって可能性は?」
「ボスモンスターが見当たらないそうです。だから、まだ下があると言うのが支配的な見方ですね」
「三十一層にいたやつは――」
「いかにもボス然としてはいましたが、三十二層へのカギを落としましたし、ゲートキーパーでしょう。第一、代々木はまだ健在ですから」
「なら十八層の山の上のやつかもしれないぞ?」
自衛隊のダンジョン黒歴史の中でもおそらくトップにランキングされる酷い事件の原因だったが、ボスキャラが最下層にいないというのもおかしな話だ。
伊織は首を振りながら、説明を続けた。
「三十二層は、暫定とは言え、ほぼ全域のマップが作られて、モンスターもリストされているそうですよ」
「ずいぶんと早いな。まだ半月も経ってないだろう?」
「ポーターで、セーフエリアにインバーター発電機を持ち込んで、現地でドローンを飛ばしまくってるそうです」
「ああ、地図作成システムってやつか」
NTT DATAが提供しているAW3Dの技術を利用した空からの地図作成システムは、ダンジョンマップを作成するシステムとして早いうちから注目されていた。
だが、開けた空間タイプのフロア以外で使うのが難しかったのと、ダンジョン内の制限により、長時間や広範囲の空撮自体が難しかったこともあって、ほとんど利用されていなかった。
「それもありますけど、下手な探索者がセーフエリアの外に出たら、犠牲者の数が跳ね上がるからでしょうから」
仮にも三十二層は、世界ランクが一桁で構成されたダンジョン攻略局のチームサイモンのフロントマンの手が千切れかけた階層なのだ。
ダブルでも後半なら危ないかもしれない、そんな領域を探索できる探索者は少ない。だからこそのドローン探索のようだった。
通常、ダンジョンの中で発電機を使うと音につられてモンスターが集まってくる。だから、こんな方法は難しかったのだが、セーフエリアにその心配はいらない。それで多数の空撮用ドローンが導入されたようだった。
空を飛ぶモンスターがいなかったのも幸いしていた。
もっとも、そのせいで階段が見つからないのかもしれないが。
「ダンジョンのおかげで、凄い速度で技術が進歩していってますね」
「そうだな。連中、日本のポーターも持ち込んだんだろ?」
「発電機や、その燃料の運搬に、急遽提供されたようです」
「アメリカの連中が、二十二層ではっちゃけてるらしいからな。後れを取るわけには行かないってところだろ」
「ですが、K2HF(川崎重工業・KYB・ホンダ・ファナックが連合したグループ)のものは、今のところ火器管制システムが乗っかってないそうですから、本当にただのポーターですよ。ファルコンインダストリーのものとは直接比較できないと思いますけど」
「バランス制御は世界最高だと豪語してたやつか」
「ASIMOで培った技術らしいですね」
実際積載量は大きいのだから、そこに重機関銃でも搭載すればファルコンのシリーズといい勝負ができそうな気もするが――
「一部じゃ日本のダンジョン攻略攻撃機器の本命は、火器じゃないって言われてるからな」
二十層を超えたところで小火器が通用しにくくなるとしたら、四十層や60層、はたまたその先はいったいどうなるのか。レーザーやレールガンはエネルギーの確保に問題がありすぎる。
そう考えた、一部の日本の研究者は、いきなり意味不明な方向へ舵を切った。それは、ダンジョンから得た力を補助する方向だ。
最たるものが、サイエクスパンダー。それは一言で言うなら、魔法の強化装備だ。
なんとも漫画とアニメの国らしい、斜め上の切り口で、実現可能かどうかも怪しいとされていたが、近年魔法のオーブをホイホイ売りに出すオークションサイトが出現したおかげで、期待が再燃しているらしい。
「あれは……どうなんでしょうね」
伊織自身も、何度か測定や実験に立ち会わされたことがあったが、魔素研究と同様、手探り過ぎてどこに向かっているのかも怪しかった。
あの研究が本命でいいのだろうか。確かに夢はあるが……
「Ghost RoboticsのMinitaurみたいなデザインの、安くできそうな小型ロボットにC4でも積んでばらまいた方が効果的なんじゃないか?」
「それの母艦にポーターを?」
「まあそういうことだな。使い捨てだとしたら、ポーターに積める程度じゃ、ボス戦くらいにしか役に立たないだろうが」
「それならありもののジャベリンで良くありませんか?」
FGMー148ジャベリンは、携行式の多目的ミサイルだ。戦車でもぶっ壊せる。
「お前な。仮にも自衛隊なんだから、LMATか、せめてハチヨンって言っとけよ」
LMATは、01式軽対戦車誘導弾の愛称だ。日本はジャベリンではなくこれが導入されている。
ただしこいつは熱感知が行えない対象には役に立たない。そのため、カールグスタフM3を、ハチヨンBとして再び導入している。
「弾薬のポーターとしての運用はありかもしれんが、どっちにしても高価な弾をばらまけるほど予算がないからなぁ……」
ジャベリンの弾は1発4万ドルだ。いかに三十層台とは言え、雑魚相手にホイホイ撃てる価格ではない。
「世知辛いですね」
「いずれにしても、三十二層相手にどんな装備で挑めばいいのか、キメイエス戦を踏まえて検討してみる必要があるな」
「了解です」
結局伊織の査問は未だに行われてはいない。当然と言えば当然なのだが、鋼は今でもそれが気になっていた。
158 金枝篇 帰還 2月12日 (火曜日)
「いや、本当にありがとうございました」
代々木の出口で、佐山さんが俺たちに頭を下げた。
肩から下げている、大型のクーラーボックスには、ダンジョン内で採取した植物や、接ぎ木に使うオレンジの枝がたくさん入っている。
幸いそれらは、光に還元されるわけでもなく、普通の植物のようにそこに収まっていた。
モンスターと違って、植物や果物は、切り取っても光に還元されてしまわないのがなぜなのかは、よくわからない。
ダンジョンの外でDファクターを広めようとする行為が、それを可能にするのだろうか。それとも、ゲームの情報から作られたと思しき世界が、そのルールに従っているだけなのだろうか。
いずれにしても決定的な証拠はなかった。
アーガイル博士は、二層の麦畑を目にした瞬間、そこに魅せられたかのように動かなくなった。
佐山さんを送っていく時間が近づいてきたので、おいていきますよと言ったら、なら、犬を一匹護衛に貸してくれと言って、目をキラキラさせながら、麦を刈り取ったり、くるくるとあたりを見まわったりしていた。
シルクリーさんに目を向けると、処置なしとばかりに肩をすくめられたので、俺たちは仕方なくアイスレムとカヴァスを置いて戻ってきた。
あそこは、せいぜい、たまにゴブリンが訪れるくらいだから、2頭もいれば十分安全だろう。
「いえ、私たちもダンジョン内の植物を外に持ち出した後の状況に興味がありますので、その結果だけでも教えていただけますか」
「もちろんです。でも、論文にするまでは他言無用でお願いしますよ」
佐山さんが、冗談めかしてそう言った。
俺は笑って、「それはもう。そちらも他言無用で」と念を押した。
「そ、それはもう! 四千億円なんか、農研を逆さに振っても出ませんから!!」
佐山さんは、NDA契約を思い出したのか、ひきつった顔でそう言った。
クーラーボックスを重そうに肩から下げた佐山さんは、ペコペコしながら、迎えに来ていた車へと乗り込んで、それが角を曲がって見えなくなるまで、リアガラスの向こうから手を振っていた。
「結構、面白い人でしたね。最後の方は、アーガイル博士と意気投合してましたよ。もっとも、熱中するとダメダメな人でしたけど」
「自分の研究領域でダメダメにならないやつは、研究者なんかになってないだろ」
俺がそう言うと、「なるほど、それは一理ありますね」と三好がポンと手を叩いた。
「しかし、金枝篇ーって意気込んだ割には、何もありませんでしたね」
「いや、あっただろ」
「え?」
「お前、大仕事を引き受けてたじゃないか」
「ああ! それ!」
三好が趣味のアイテムに目がくらんで、大統領から引き受けた仕事は、冷静に考えればかなり大規模な仕事だ。
もしも俺たちが引き受けなかったとしたら、それらの搬入には多大なるコストと、何か月にもわたる期間が必要になっただろう。
それをすっ飛ばして、いきなり三十二層に電気の供給源が出現するのだ。ポーターたちの基地としても、開発の拠点としても大いに活躍するだろう。とは言え――
「もしもこの件が、日本のお偉いさんに知られたりしたら、何を言われるかわかんないぞ」
いきなり建つんだからばれないわけがないし、ばれてしまえば、うちと結びつかないはずがない。
ほいぽいについて一番詳しいのは日本ダンジョン協会のダンジョン管理課なのだ。
俺たちに仕事を依頼したい勢力は、いったいどんな条件で、それを引き受けたのかを調べるはずだ。同じ条件を出すことで、断る口実をつぶせるからだ。
そして、税務署あたりが調べる気になれば、そのくらいは簡単に調べられるはずだ。しかし、そこには、金銭をやり取りした形跡が見つからないのだ。
すると、こういう人たちは、真っ先に裏取引だの脱税だのを思い浮かべるだろう。そこまでのやり取りが目に浮かぶようだ。
なにしろ三好は、世界にたった一人の鑑定保持者だ。
EB−1 EAで簡単にグリーンカードを取得できるだろう。本人の考えなんかよりも、その可能性が問題なのだ。
「いや、別にアメリカのために引き受けたわけじゃないですし、仕事ととして引き受けたつもりもないですけど……」
「お前の感覚だと、友人のためにちょっと手伝いをして、そのお礼にワインを分けてもらったってところだろ?」
「まあ、そうですね」
仕事に関係ない友人などの付き合いの中で贈り物をもらったとしても、当然それには課税されない。
もっとも、社会通念を逸脱する品物の場合は別になることがある。今回の件が、どうみなされるのかは、ひとえに税務署の胸先三寸だろう。
国家元首や王族が、他国の元首に親愛の証として高額な宝飾品を贈った場合、それがどんなに高額でも、おそらく贈与税は課税されないだろう。
しかし、一般人が、アラブの王族に、親愛の証として油田を貰ったら、おそらく贈与とみなされるのではないだろうか。親愛の証なのに、贈与税が支払えずに手放さざるを得なくなるかもしれなかった。
そんな状況がそうそうあるはずもなく、そこに「通念」などと呼べるものがあるとは思えないが、いずれにしてもこの件は、税務署が調査するための口実くらいにはなるはずだ。
「スクリーミング・イーグルとルフレーヴで唆《そそのか》されたなんて言ってもなぁ……鳴瀬さんならともかく、お役人や偉い人の誰がそれを信じるんだ?」
「ぐっ……まあ、そうですけど。あんまり意地悪なことを言ってると、先輩には飲ませてあげませんよ」
「うっ……いや、半分は俺にも権利が」
いや、おまえら言い合うところは、そこじゃないだろうという突っ込みが聞こえてきそうなやりとりを、顔を突き合わせながらしていたところで、三好のスマホが振動した。
「誰だ?」
「鳴瀬さんです」
三好は、スマホを取り出しながらそう言うと、画面をスワイプして電話をつないだ。
、、、、、、、、、
「二十一層の湖にスチールヘッドがいて、釣って食ったら、うまかった?」
「だそうです」
地上へと戻ってきたDパワーズに、探索の詳細を聞き取ってレポートにまとめた美晴は、斎賀に概要を報告するために市ヶ谷へと赴いていた。
呆れたような顔をしてその報告を受けていた斎賀は、眉間にしわを寄せて尋ねた。
「……で、アーガイル博士は何をやってたんだ?」
「一緒に食べたそうです。というより、博士が食べようぜと主張したそうです。美味しかったとおっしゃってました」
斎賀はゴンと音を立てて机の上に額をぶつけて、突っ伏すと、絞り出すような声で言った。
「……あの人はDFAの主席研究員だろ」
「三好さんが鑑定したから、大丈夫じゃね? とおっしゃってました」
斎賀は、がばっと上半身を起こすと、机を両手でバンバンと叩きながら、「その大丈夫の裏をとるのが、DFAの仕事・だ・ろ・う・が!」と激高した。
鑑定は便利で強力だが、それが本当に正しいのかどうかの保証はどこにもない。
食の安全を守るというのは、その保証をひとつひとつ確認していく地道な作業でもあるのだ。
それに彼は世界ダンジョン協会のVIPだ。日本ダンジョン協会のダンジョン内で何かあったりしたら、国際問題だ。
その様子を見ながら、美晴は、課長、たまってるなぁと苦笑していた。
最近斎賀は、美晴の前で崩れることが多くなった。有能であることに違いはないとはいえ、以前はまじめで固い人という印象だったが、最近は、結構おちゃめなところもあるのね、と感じていた。
まあ、Dパワーズと関係して、ずっと平静でいられる人は、まずいないのだが。
「そうおっしゃられましても」
「日本ダンジョン協会管轄のダンジョン内で、病気になったとか、死んだとか、人間をやめたとか、そんなことになったら責任問題だぞ」
「最近、人間をやめそうな人が多いですもんねぇ……」
「ねぇじゃないよ、ねぇじゃ。フリーダムな人だとは思っていたが、ここまでフリーダムだったとは」
「むこうに照会した限りでは、一様に良識のある、まじめな研究員だとおっしゃってましたが」
「猫かぶりも甚だしいな」
あまりのことに、ダンジョン内にモンスターじゃない魚がいたという驚愕すべき事実すらかすんでしまいそうだった。
「それで、博士は?」
「七時半、成田発のJFK行きのJALに空きがあったとかで、シルクリーさんに引きずられていきました」
「あわただしいな」
そう言いながらも、斎賀は、やっと問題が一つ減ったと、肩の荷が下りたような気分になった。
「ろくに引き継ぎもせずにこちらへ来たらしくって。三好さんたちの提出した特許を承認したらすぐに戻ってくるとおっしゃってました」
その話を聞いて斎賀は目をむいた。
「……戻ってくる?! 何をしに??」
「なんでも分局を作るとか、なんとか……」
「なんだと?」
今のところDFAにはふたつの分局がある。
アメリカのFDAとの連携をとるための、通称ホワイトオークと、EUのEFSAとの連携をとるための、通称ドゥカーレだ。
それぞれ、それがある場所が通称になっていた。
「ホワイトオークとドゥカーレはわかるが……代々木に分局? なんの冗談だ? 日本には、食品の安全性を一元的に管理している組織はないだろ?」
日本の食品管理は、厚生労働省、農林水産省、環境省など複数の省庁に渡っていて、アメリカやEU以上にばらけている。
「赤坂のFSC(食品安全委員会)か? いやしかしあそこは管理だけのような気も……」
「えーっと……」
「なんだ?」
「たぶん三好さんたちとの連携じゃないかと。例の麦にそうとう執着されていたようです」
「……そこか」
確かにあれは、地球の食料事情をテーブルごとひっくり返すほどのインパクトがある。それは確かだ。
しかし、世界ダンジョン協会の食品管理部はその安全性を確かめるのが仕事だが、言ってみればそれだけだ。それに執着する理由が斎賀には分からなかった。
「あと、引きずられて行く前に、NIHS(国立医薬品食品衛生研究所)と、NARO(農研機構)の食品研究部門、それに、東京大学大学院農学生命科学研究科のRCFS(食の安全研究センター)に連絡されていたみたいです」
美晴は連絡を取らされた相手を、メモを見ながら報告した。
「厚労省管轄と農水省管轄か。一応日本のことも調べちゃいるんだな」
「麦については最優先でチェックするそうです。もっとも、『アズサが食べられるって言ってるんだから大丈夫だろ。さっそくFAOに話を通しておく』とおっしゃってましたが」
「この時点で、FAO(国際連合食糧農業機関)まで引っ張り出すのか?」
「IDAにお金を出させて、さっさとサヘル地域あたりに導入したいみたいでしたね」
IDA(国際開発協会)は世界銀行を構成する2組織のうちのひとつで、最貧国の政府に無利子の融資や贈与を提供している機関だ。
ちなみにもうひとつは、IBRD(国際復興開発銀行)で、こちらは中所得国や、信用力のある低所得国の政府に貸出を行う。
「世界ダンジョン協会の食品管理部が、どうして世界の貧困問題に口をはさむ?」
「うーん、なんとなくですが……」
「なんだ?」
「人間だから、ですかね?」
そのあまりにも青臭い発言に、斎賀は赤面しそうになった。
世界の貧困を救えるかもしれない技術が目の前にある。そうしてそれを世界に届けられるかもしれない立場に自分がいる。
ただそれだけの理由で、リスクをものともせずに突っ走れるものだろうか。
斎賀は目の前の美晴をもう一度見た。
彼女は、ちょっと恥ずかしいことを言ったかなと、照れているようだった。
危なっかしいことこの上ないが、こいつらは、それをやっちゃうんだよなぁ……と斎賀は半ば呆れ、半ば畏敬の念を抱いていた。
「そ、そうか」
「い、いやだなー、課長。そこで素にならないでくださいよ!」
美晴は、照れをごまかすために左手でパタパタと手を内輪のように動かしながら、ストップというように右手を突き出した。
それが斎賀の机の上の書類をかすめて、何枚かの書類が机の下に散乱した。
「おいおい」
「あ、すみません」
そう言って、落ちた書類を拾い上げようとしたとき、そのタイトルが目に入った。
「代々木……ダイバージェントシティ計画《プロジェクト》?」
「あー、それもあったか」
「なんですこのバブルを懐かしむような名称のプロジェクトは?」
書類をまとめて机の上に戻しながら美晴が訊いた。
「懐かしむって、おまえ、その頃って物心も付いてないどころか、下手すりゃ生まれてないだろ」
「まあそうですけど……」
「端的にいえば、セーフエリア以外にも施設を建設して、ダンジョン内を利用しましょうってプロジェクトだな」
セーフエリアとは異なるからダイバージェントなんだろうか。それとも地上とは違うダンジョンという意味でダイバージェントなんだろうか。いずれにしてもリアルでダイバージェントシティなんて名称、ちょっと恥ずかしくないのかなと、美晴は呆れ気味に考えていた。
「なんだか胡散臭い感じですけど、事業主体はどこなんです?」
「書類によると、代々木ダイバージェントシティ準備会だか企画室だかってところだな」
「……あ、怪しい」
「おいおい、一応後援は東京都なんだから、下手なことを言うなよ」
確かに胡散臭いけどなと、斎賀も苦笑していた。
「ま、その企画室ってやつに、天下った人だの、えらい議員さんだのが名を連ねているってわけだ」
はぁ、と美晴は呆れ気味に相槌を打った。
「だけど、そんなことができるんですか?」
「いきなりは無理だろうな」
それに、いかにこの辺の地価が高いとはいえ、経済的に元が取れるのかどうかも怪しいところだ。
「だから一次プロジェクトとしては、通信網の整備をやるらしいな」
「そんな簡単に整備できるのなら、とっくに作られていると思いますけど」
「まあな。実際、この計画は、ダンジョンができた当初からあったみたいだ」
「じゃあどうして今更?」
「セーフエリアが見つかっただろう?」
「はい」
「もしもそこが開発されるとしたら、上と結ぶ通信網の整備は喫緊の課題だ」
「それはそうですけど」
「現時点で、ケーブルを引っ張りまわすのは無理だ。だから無線中継の基地局をいくつか作って、冗長性を持たせたうえで運用しようって事ことらしいんだが――」
斎賀は言いにくそうに続けた。
「――小さな建造物だけってことなら、二十一層に建物を建てちゃったやつがいただろうが」
「あれの影響なんですか?!」
「間接的にはそうだな」
そう言って、斎賀は、手元の書類を一枚抜くと、美晴に渡した。
そこには、Dパワーズが申請した、スライム対策の特許が書かれていた。
「え? もう認められたんですか?」
いくらなんでも早すぎる。申請はそれほど前じゃなかったはずだ。
「何しろ内容が内容だ。それに証明も実際にやってみるだけで実に簡単だからな」
世界ダンジョン協会のPO(知財局特許課)も最優先で調査したらしかった。
「ま、そのせいで、従来からあったこのプロジェクトが一斉に動き出したってことだろう」
「課長。うちとしては、ただ土地の貸し出しだけをやっておけばいいと思いますよ。こんなプロジェクトに割く人員なんかありませんし」
原因の半分を持ってきたお前が言うかと、斎賀はさらに苦笑を深めながら説明した。
「まあ、これは人員を割けというより、金をよこせって要求だな」
「金? 補助金ですか? それならうちじゃなくて、振興課なんじゃ……って、まさか」
「こないだの基金騒ぎの意趣返し、というより、予算の都合上、こちらに回さざるを得なかったってところだろうな」
「来季予算に回せない理由があったってことですか?」
「Dパワーズの協賛をあてにしてプロジェクトを進行させていた可能性はあるかもな」
先送りするにしても――
「ダンジョン内のインフラを整備してやるんだから、日本ダンジョン協会も金を出せってことで、この企画室ってのもえらく強気なんだ。こんな額、来期の振興予算でも賄えないはずだ」
それこそ寄付を大量に集めてこなければな、と斎賀が口をへの字に曲げた。
「なら振興課のメンツは――」
「もしも本当にそうだとしたら、丸つぶれだろうなぁ……頭が痛いよ」
最近吉田は、斎賀と廊下ですれ違っても、目も合わせようとしなかった。
斎賀としては、Dパワーズに余計なことはしない方がいいですよと忠告しただけなのに、一方的に悪者にされているようで頭が痛かった。
「ま、最後は上に投げるから心配するな」
「賢い上司の使い方ってやつですね」
「お前と一緒にするなよ。こんな金額の補助金みたいなものを、課長権限で決済できるわけないだろ」
「Dパワーズとやった、オーブを預ける取引も結構な金額だったような気がしますけど……」
「あれは、あらかじめ根回ししてあったんだ。俺は組織の枠の中で働いてるの。そんな勝手ができるわけないだろ」
そう言われた美晴は、それじゃまるで私が組織の枠の中で働いていないみたいじゃないと思ったが、そういや最近仕事のほとんどは、Dパワーズの事務所でやってるなぁと思いなおした。
「お疲れ様です」
「……あのな。なんか、今、すごく哀れまれたような気分になったんだが」
「気のせいですよ! 疲れてるんじゃありません? ほら、また甘いもので差し入れしますから」
「お、おお……」
そう言って逃げるように立ち上がる美晴を、斎賀は少しうらやましそうに見ていた。
159 金枝篇 胎動 2月12日 (火曜日)
「おお、佐山君! ダンジョンはどうだった?」
佐山が帰ってきたと聞いて、いそいでやってきた主任の水木が、開口一番そう訊いた。
「ええ、まあ。なかなか面白かったですけど、植物相なんかは目茶苦茶で、植物生化学あたりは発狂しそうになるんじゃないでしょうか」
「ほう」
「それでも皆、一度は行ってみるといいんじゃないでしょうか。なんだか世界の見方が変わる気がするんです」
海外旅行に初めて行って、感銘を受けた若者のようなセリフを聞きながら、水木は、彼がずいぶん積極的になったことに驚いていた。
「そんなに面白そうなものがあったのかね?」
「それはもう。二十一層にはイギリス風の春のムーアが広がっていて、湖にはスチールヘッドが泳いでいるんですよ」
クリアウォーターのスチールヘッドにシーズンは、確かに春のど真ん中だ。ただし、アラスカなら、だが。
「それはまた、なんというか……」
水木はダンジョンに魚がいるかどうかなどは知らなかったから、その事実自体には驚かなかったが、イギリスにスチールヘッドはミスマッチだなと思った。
佐山はそれらのことについて、ほとんど気にしていなかったから、食べながらアーガイル博士が妙に興奮していたことしか覚えていなかった。
「件のオレンジはもちろん、他にもいろいろと採取してきましたから、可能なら育ててみたいと――そういえば、どこで実験するんです?」
「君が出張している間に、陰圧温室を一部屋用意しておいた。まあ、花粉を外へ逃がさない程度のものだが」
「では早速接いでみましょう」
「今からか? いくらなんでも早すぎるだろう?」
「ダンジョンの中と外では、環境もまるで違いますから。とりあえず低温で寝かせて、こちらの季節に合わせた接ぎ木もやりますが、そうでないものもやってみたいんです」
水木は何かを言おうとしたが、確かに世界の常識が通用しないから、わざわざダンジョンの中まで人を派遣したのだということを思い出して、好きにやらせることにした。
「一応1から三年木をいくつかと、高継ぎ用のものを用意しておいた」
「ありがとうございます。いろいろやってみます」
「いくつかは静岡に回してくれよ」
静岡には、果樹茶業研究部門のカンキツ研究拠点があるのだ。
「もちろんです」
そう言って頭を下げると、佐山は、そそくさと用意された部屋へと向かっていった。
それを見送りながら、出張の報告書を作るのが先じゃないのかと、水木が苦笑いしていた。
、、、、、、、、、
「はい、日本ダンジョン協会ダンジョン管理課、課長の斎賀です」
「やあ、斎賀さん。先日はどうも」
「なんだ、寺沢さんか」
「なんだはひどいな」
斎賀は日本ダンジョン協会の自分の部屋で、寺沢からかかってきた電話をとっていた。
「あなたからの直電は、異界言語理解の時から、大抵ろくな話じゃないですからね」
冗談めかして言った斎賀のセリフに、寺沢は、受話器の向こうで苦笑した。
「あの時は、確かに世話になった。あなたのおかげで日本はうまく立ち回れたようなものだ」
「そりゃどうも。それで今回のご用件は?」
「あー、……実は、三好梓にアポを取りたいんです」
それを聞いて斎賀は目を細めた。
自衛隊がDパワーズに独自に接触する? いい予感など、新月の夜の月のようなもので、それは、どこにも見えなかった。
「寺沢さん。うちはDパワーズの受付じゃないんだ。アポなら直接――」
「あの会社に電話して、もしもそれがつながったなら、かけた番号を間違えた時だけだと聞きましたが」
そう聞いて、今度は斎賀が口を歪めた。
酷い言いようだが、あながち間違ってはいない。
「そうおっしゃられても、こちらから探索者の個人情報をお教えするわけには行きませんよ」
「そこは分かっています。連絡先を渡しますから話だけでも通してもらえないだろうか。そちらの専任なら連絡が付くでしょう?」
ずいぶんと粘るところを見ると、かなり重要な話があるのだろうか。
しかし、相手はあのDパワーズだ。国家の面倒な話なんて全スルーしてもおかしくもなんともない。話を持って行っても、おかしな軋轢が生まれるだけだろうと斎賀は頭を振った。
「それはそうでしょうが、仮にそうしたとしても、彼女たちがそちらに連絡を入れるとは限りませんよ」
むしろ、連絡をしたら驚くレベルだ。
「それで結構。ただし『8センチの球』と付け加えていただけますか」
「『8センチの球』? なんですそれは」
「魔法の呪文ですかね」
寺沢は、笑い含みにそう答えた。
「呪文ね。自衛隊はいつから秘密結社に?」
「ま、軍ってやつは、そういう面もあるんで――」
「いや、軍はまずいんじゃないの?」
斎賀が思わず突っ込むと、寺沢は、声を立てて笑った。
「確かに」
斎賀は、少し考えた後、まあ伝言するだけならいいかと折れた。
「わかりました。では連絡があったことと、連絡先、それに魔法の呪文を伝えればいいんですね」
「それで結構です」
「まあ、あなたに貸しを作っておくのも、そう悪くない」
「借りが積みあがりすぎて潰れそうですね。利息はなしということで」
「善処します」
笑いながらそう言って電話を切ると、今の内容をついさっき出たばかりの美晴へとメールした。
、、、、、、、、、
「先輩。斎藤さんから連絡が入ってますよ」
「斎藤さん? なんだって?」
「えーっと、『一体、私に何をしたんですか?!』って……ええ?!」
「は?」
アメリカ大統領から余計な仕事を引き受けて、スケジュールを調整しながらメッセージボックスを確認していた三好が、驚いたように俺を振り返った。
「芳村さんでも、女性との間にトラブルを起こすんですねぇ」
今回の詳細な報告書を、うちの事務所で書いていた鳴瀬さんが顔を上げてそう言った。
日本ダンジョン協会で書くよりも、ここで書いた方が、疑問点がすぐに聞けて能率がいいのだそうだ。
「いや、ちょっと待て、何か変だぞ、そのメッセージ!」
俺はかなり焦って、手を振った。
「いたずら! そうだ、絶対、あいつのいたずらだって!」
「詳しい話を聞きたいし、用事もあるから1四日の夜にいらっしゃるそうですよ」
三好がジト目でそう言うと、鳴瀬さんが「修羅場ね!」と楽しそうにつぶやいていた。
いや、キミたちね……
「あら?」
俺たちのドタバタを、楽しそうに見ていた鳴瀬さんが、振動したスマホを取り上げて声を上げた。
「どうしました?」
「あ、いえ。課長からのメールで、三好さんに伝言が」
「伝言?」
ジト目で俺を責めていた三好が、鳴瀬さんの方を振り返った。
「はい。自衛隊の寺沢さんが、連絡が欲しいということです」
「寺沢って……」
「ほら、先輩。最初に自衛隊がオーブの受け取りに来た時、某田中さんを紹介してくれた人ですよ」
「ああ、あの軍人っぽい……なんの用だ?」
「まあ、なんの用でもいいんじゃないですか? どうせスルーするわけですし」
「いや、お前。いくら何でもそれはヤバくないか? 営利企業ならスルーでいいけど、相手は親方日の丸の組織だぞ」
企業ならスルーでも大した問題はないが、お役所の呼び出しをスルーしたりしたら、あとでひどい目にあうこともあるだろう。主に、税務署とか税務署とか税務署だ。
「だけど先輩。そういう時って、組織名で連絡が来ませんか?」
「ああ、そうか。個人ってのは珍しいな」
「珍しいというか、ありえないと思いますけど」
確かにそうだ。
「だからこれは、きっと何かの厄介ごとですよ。知らんぷりしときましょう」
「了解」
俺たちのやり取りを、仕方のない人たちだなぁと言う、生暖かいまなざしで見ていた鳴瀬さんは、話の区切りがついたところで、伝言にくっついてた謎の言葉を伝えてきた。
「あ、後ですね。なんといいますか、意味は分からないのですが、伝言がくっついています。斎賀は魔法の呪文だと書いていますが……」
「魔法の呪文?」
「『8センチの球』だそうです」
「へー」
俺は、平静を装ってそう相槌を打っておいたが、内心はバクバクだった。
(おい、三好! 8センチの球って……)
(あの鉄球ですよね)
(なんで自衛隊が知ってるんだよ。どっかでバレるようなこと……あっ)
俺は、自衛隊と接点があって、あの球が使われたことが一度だけあったことを思い出した。
(キメイエスの時か)
(あー、あの時ファントム様が使った鉄球を回収したんですかね)
(いや、しかしな。ファントムが使っていた鉄球の話をなんで三好のところへ持ってくるんだ? 特注ってわけじゃないし、あれに指紋は付いてないはずだぞ)
(うーん。可能性があるとしたら、製造元へ問い合わせたとか?)
(問い合わせ? 何て?)
(ほら、先輩。あれって調子に乗って1万個も発注したじゃないですか)
(ああ、個数か。だけどそれくらいの発注はあってもおかしく――いや、ベアリング向けみたいなのならともかく、8センチは珍しいか)
(ですね)
(後は、メーカーに片っ端から電話でもして、『先日8センチの鉄球をまとめて注文したものですけど』みたいに言えば――)
(ぽろっと名前をこぼしちゃうかもしれませんよね)
(確認は?)
(後でF辺精工さんに連絡して、私から連絡があったかどうか聞いてみます)
「もしかして、これって……」
鳴瀬さんが、心配そうに言葉を継いだ。
彼女はファントムの事も知っているし、キメイエスの動画も見ているから見当がついたのだろう。
「いや、大丈夫ですよ。一応連絡先は頂いておきますけど、鳴瀬さん的にはそれでお仕事終了ですよね?」
「はい。さすがに返事までもらって来いと言う依頼は、うちの課も引き受けませんから。……それで、なにかお力になれることがありますか?」
「ありがとうございます。何か困ったことができたらご相談します」
「はい」
そう言って笑った彼女は、報告書の作成に戻って行った。
、、、、、、、、、
「うーん」
農研機構の果樹茶業研究部門では、静岡のカンキツ研究拠点へと資料を発送した後、今回の枝を二年目の温州みかんに接ぎ木した佐山が腰を伸ばしていた。
思ったよりも手際よく接ぎ木できたことに気をよくした彼は、その木を眺めながら呟いた。
「さあ、うまく接がれて大きくなってくれよ。あの実が地上でも採れるようになったりしたら、柑橘の世界が一変するぞ」
彼はそう祈った<・・・>のだ。
160 金枝篇 拡散 2月13日 (水曜日)
その木は大きく、一目見ただけでは、とてもオレンジには見えない立派な枝ぶりをしていた。
放っておけば、八方に伸びて複雑に絡み合うはずの枝が、剪定もされていないのに、見事に伸びて理想的な形状を保っていた。
温室のガラスは、天井部分もテラス側の仕切り部分も枝の形に切り取られ、まるで最初からそういったデザインであるかのように、建物と一体化していた。
そうして、降り注ぐ陽射しの中、茂った葉が、柔らかな影を室内に落としていた。
「え……なんだこれ?」
昨日までは、確かそこには、ゼゼのスイートオレンジのような小さな木があったはずだ。
佐山は、自分が入った部屋を間違えたのかと、慌てて実験室を出てドアプレートを確認した。
しかし、そこは、間違いなく、昨日彼が接ぎ木をした部屋だった。
「なんで、昨日接いだ木が、こんなことに?!」
信じられない気持ちで扉を閉めて、ふらふらとその木に近寄ると、室内が静かなことに気が付いた。
もしもガラスに穴が開いているなら、実験室は陰圧を維持しようと、フル回転で空気を吸いだしているはずだ。だがコンプレッサーはそれほど大きく動いていない。
つまりガラスの穴は――
「幹に密着しているのか?」
その部分を見上げると、たしかにぴったりと、まるでガラスが枝や幹の形に溶けたように張り付いていた。
しかしこれでは、陰圧の温室を利用した意味がゼロだ。
彼はガラスを素通りしているかのように見える、その枝を見上げた。
花が咲く前になんとかしないと……とは言え、原因不明の現象だ。原因が分からなければ、何度でも同じことになる可能性は高い。
しかし原因とは言っても、これは科学の範疇なのだろうか。
すくなくとも植物学の範囲から逸脱していることは確実だ。自分たち専門家の及ぶところではないだろうと直感していた。
とりあえずは、ダンジョンの専門家がいる組織への連絡だ。
佐山は、幹の周りを注意深く観察しながら回り込んで、内線の受話器を上げると、上司の水木を呼び出した。
「佐山君……昨日の今日で疲れてるんじゃないのか?」
話を聞いた水木は、開口一番そう言った。
疲れているだけで、こんな幻は見ませんよと、心の中で反論しながら、彼は現状を説明した。
「いえ、本当なんです。すでに温室のガラスを突き破っていて――」
「ガラスが割れたりしたら、室内の圧力が大きく変動したままになるから警報が鳴るはずだろう? これは何かのいたずらかね? そうでないなら、君、頭大丈夫か?」
「……ダメかもしれません」
「おいおい」
「と、とにかく! すぐに来ていただけませんか! 見ればわかりますから!」
「……わかった」
不承不承そう言って、水木は内線を切った。
「ふう……」
佐山は、目を閉じて数を数えた。まるでそうすれば、その木が幻のように消えてなくなるかのように。
そうして意を決したように目を開いて、おそるおそる振り返ると――
「やっぱ、そんな都合のいい話はないよなぁ……」
一夜にして巨木が出来上がるなんて、どんなおとぎ話なんだよと、佐山は深くため息をついた。
それに、一夜でこれほど成長することができるのなら、実だって、すぐに生るんじゃ――
佐山がそう考えたとき、突然微かに木が揺らいだように見えた。
「え?」
そう口にした瞬間、一斉に、枝の先端付近が光に包まれて、白く輝く何かがそこに現れた。
「ええ!?」
何が起こったのか分からず、茫然とそれを見ている佐山の鼻を、爽やかな甘い香りがくすぐった。
彼の目の前で、数万という花が一斉に開花していた。
「う、嘘……」
その時、表のドアが開く音が聞こえ、水木があわただしく、2枚目のドアを開けた。
「佐山君、一体なんだと……」
そこまで言った水木は、目の前の現実に、言葉を呑み込んで固まった。
二人で棒立ちになっていると、一枚の花がぽとりと落ちた。
その瞬間、我に返った水木はすぐに指示を飛ばして、内線に走り寄った。
「佐山! シートをかけて飛散を防ぐ! 枝は切り落とせ!」
「え、どうやって?」
「倉庫に高枝用の小型チェンソーがある! 表に出てる部分は全部切り落としてシートで被うぞ! 出来るだけ飛散を防ぐんだ!」
指示を受けた佐山は、慌てて部屋を駆け出した。
、、、、、、、、、
「とにかく、外へ突き出している枝は全部落とせ!」
ガラス越しにそう言われて、佐山はとりあえず目の前に突き出している、比較的太い枝にチェンソーをあてた。
ギュイーンと音を響かせながら、木の粉が飛ぶ。わずかの時間の後、メキメキと音を立てて折れた枝は、ドスンという重い音とともに地面へと落ちた。
落ちた大きな枝は、水木がビニールシートを持ってこさせた同僚が引きずっていき、その上に乗せた。
佐山が、次に上から突き出している枝を落とそうと、高枝用のポールを伸ばしている最中に、それは起こった。
「なんだ?!」
今しがた切り落とした枝の切り口から、光が溢れ、枝の形に伸びていく。
慌てて、それをよけた佐山の目の前で、光が消えると、後には、切ったはずの枝が復活していた。
「はぁ?!」
よけたときに、光の中に残されていたタオルが、枝の形に切り取られているのを見て、彼は絶句した。
もしも光の枝に体を貫かれていたらどうなったのだろう……佐山は冷や汗を掻きながら、チェンソーを置いた。適当なカットは危険かもしれない。
しかし、枝の復活?
混乱した佐山は、今しがた同僚が持って行った枝を見た。
そこには確かに、先ほど落としたはずの枝が鎮座していた。新しいものと全く同じ枝ぶりではないようだが。
「ば、ばかな……」
ガラスの向こうで水木が茫然とそう呟いた。
「これって、もしかして……」
リポップしたのだろうかと、佐山は漠然とそう考えた。
ここはダンジョンではない……はずだ。リポップなんて現象が、ダンジョン外でも起きるなんて話は聞いたことがない。
もちろん彼は自分がその専門家でないことは十分わかってた。ここは、専門家の助言が必要だ。
幸い、彼は、世界でたった一人しかいない〈鑑定〉持ちと知り合ったばかりだった。
彼がそう考えたとき、唖然としている周りに人達を尻目に、今まで咲いていた花が再び光に包まれたかと思うと、次の瞬間には――
「結実……した?」
――多くの黄金の輝きを持った実が、重そうに枝からぶら下がっていた。
もはや何が何だかわからない。
佐山はふらりと近寄ると、手近の枝に生った実をひとつ、もぎ取ってみた。
「せとか……っぽいな」
彼がもぎ取った実は、枝のようにリポップしたりはしなかった。少なくとも今は。
同日同時刻、つくばの他の研究所で、阿鼻叫喚が風のめぐるごとくに響いていたとは、神ならぬ身には知る由もなかった。
161 金枝篇 拡散 2月14日 (木曜日)
「ふぁー、おはよう」
その日、俺が少し遅い時間にあくびをしながら事務所へと下りて行くと、三好が台所で、小さな包みを差し出してきた。
「なんだ?」
「まあ、お印《しるし》ってやつですよ」
「お印? 確かに皇太子さまのお印は、『梓』だって聞いたことあるけど」
「ひっじょーに残念ながら、私とは何の関係もありませんね」
ダイニングの席に着きながら中身を確認すると、そこには――
「チロルチョコレート?」
「はい。しかも、九州限定商品ですよ」
「へー」
とはいえ、今どきの地域限定商品は、ネット通販で買えちゃったりするんだけどな。
「で、これがなんだって?」
「先輩。学生を卒業してから永遠とも思える年月を過ごしたからって、それはないでしょう。今日は、1四日です」
「ああ! バン・アレン帯の誕生日か」
「先輩、ネタが古い」
「普遍的と言ってほしいな。だけど、なぜに九州限定品?」
「チロルチョコはミルクヌガー味でしょう? それが九州限定品にしかなかったんです」
「おまえ、原理主義者だったのか」
チロルチョコレートは3連のミルクヌガー味から始まったらしい。当時は駄菓子ジャンルだったと言えるだろう。あれ、今もかな?
ともかく俺が物心ついたときには、すでにいろんな味が売られていたような気がするが、言われてみればミルクヌガー味が一番好きだったかもしれない。
それを一つ取り出すと、包みをほどいて、口の中に入れた。
「うまい。けど、歯の詰め物があったら取れちゃいそうだな、これ」
「詰め物の天敵って点では、ハイチュウと双璧ですね」
ミルクヌガー味のチロルチョコレートの、ちょっと懐かしい味を楽しんでいると、三好の携帯が鳴った。
「はい。ああ、佐山さん」
どうやら相手は、農研機構の佐山さんらしい。忘れ物でもしたのかね。
俺は電話の邪魔にならないよう、ダイニングから、グラスが我が物顔で寝そべっているソファーへと移動して、テレビのスイッチを入れた。
すでに朝ごはんを貰った後らしく、グラスは、ドテーという効果音付きで平たくなっていた。
画面の中では、ワイドショーが昨日起こったらしい事件について、大仰な身振りで解説していた。
後ろのボードには『消えた魔結晶の謎!』なんておどろおどろしい文字でポップが張り付けてあった。
「消えた魔結晶?」
何の話だと思いながら、オフにしてあったボリュームを少し上げた。
『というわけで、消えてしまったということなんですよ』
『えー、誰かが盗んだんじゃないの?』
『それが、研究所には二十四時間誰かがいますし、消えた個数も相当な数で、とても持って行けるような量じゃないそうです』
『現代の怪盗かね? 予告状があったりとか?』
ひげ面のおっさんが、ばかばかしい冗談をいうと、司会の男性が、苦笑いしつつ答えた。
『さすがにそれはないようです。それで昨日は大騒ぎだったらしいんですが――』
どうやら、NIMS(物質・材料研究機構)から大量の魔結晶が消えてなくなったという話題のようだった。
そして、実験に使用しているものも、研究者の目の前から光に還元されて消えてしまい、どうやら盗難ではなく自然崩壊のようだとの結論だった。
世界はオーブの消失事件を経験していただけに、現象としては受け入れられていたようだったが、オーブのように時間制でもなく、突然無秩序に消えていくため、原因がまるで分からないらしい。
俺は、すぐに手元のタブレットで、検索を行ってみた。
こういうニュースは、俗な掲示板なんかの方がずっと情報が詳しく早い。ただし、信憑性はお察しくださいと言ったところなのだが。
「お、あったあった」
それによると、どうやら、NIMSの周辺でも、似たような事件が発生しているようだった。
内容はNIMSで起こったのと似たり寄ったりで、ネットの中では、すでにシンクロニシティの新たなる伝説として盛り上がっていた。
「はぁ?!」
その時、ダイニングから、素っ頓狂な声が聞こえてきて、顔を上げた。
「あ、はぁ……わかりました。では」
俺は、三好が通話を切るのを待って尋ねた。
「なんだ、三好。なにかあったのか?」
「いえ、なんといいますか、ちょっと信じがたい話で」
「なんだ、歯切れが悪いな」
「先輩。ダンジョンの外でリポップって発生すると思いますか?」
「……はい?」
突然真顔で冗談のようなことを言われて、俺は面食らった。
ダンジョンの管理は、ダンジョンの入り口付近から数メートルの範囲までしか及ばないはずだ。
一応、経験値リセットがその証明だと思っている。それに――
「そんなことが起こったとしたら、今頃世界中でモンスターたちが闊歩してるんじゃないの?」
ミーチャやサイモンが、軍産の連中なら、モンスターを生け捕りにして外に持ち出すくらいのことはやっているだろうと言っていた。
もしもそいつらが死んだら、同一空間のどこかにリポップしているってことになるんじゃないだろうか。
「お前、以前言ってたろ、『そこらの路地裏をゴブリンが歩いていたら怖い』って。さすがにそれはないだろう」
もしもスライムがダンジョンの外でリポップし始めたりしたら、いつどこで大事故が発生するのか誰にも分からないし、予防の方法も皆無だろう。
原子力発電所の重要な部分にスライムがリポップして、そこを破壊したら?
それは、シムシティの災害のように、突然理由もなく、確率的に訪れる悪夢となるだろう。
「ダンジョンからモンスターが溢れることの危険性は指摘されてますけど、実際に起こったことは、たぶんありませんもんね」
「だろ?」
「でも、リポップしたらしいんです」
「は? 何が?」
「オレンジの木、だそうです」
三好の話によると、一昨日接いだオレンジの木が、昨日の朝には大木になっていて、温室からはみ出していたために、その部分を切り落としたら、その枝がリポップしたらしい。
そうして、一斉に花を咲かせて――
「実をつけたそうです」
「はなさかじいさんかよ」
俺は思わず突っ込んだ。
「たぶん、花粉の拡散による交雑種の発生を恐れているんだと思います」
「柑橘の開花って、季節が全然違うから、仮に今花粉が飛んでも大丈夫なんじゃないの?」
「佐山さんもそうおっしゃってました。だから、結実した後はちょっと諦め気味に落ち着いたそうなんですけど……」
「まあ、Dファクターのやることだからな」
麦の意味不明な成長をみるかぎり、どんなタイミングで何が起こってもおかしくはない。
「それで、私たちに現場を見てほしいということなんです」
「ちょっと待て。なんでそれで俺たちが出向くんだよ? 第一行ったところで何もできないだろ」
「まあそうなんですけど。先輩、興味ありません?」
「いやまあ、ないというと嘘になるが……だけどな、それって俺たちより先に、報告するべきところがあるだろ」
「一応、日本ダンジョン協会とダンジョン庁には報告したそうですが――」
俺は嫌な予感がした。
「ダンジョンの中の事じゃないから対応できないって?」
「どちらにもそう言われたそうです」
確かに売買されたアイテム関するトラブルに、DAが首を突っ込むことは、まずない。各省庁だってそうだ。
その奪い合いで傷害や殺人が起きるとか、世界が滅ぶかもなんて話になれば別だろうが、そんな話をしたところで、「はいはい」とスルーされる方が普通だ。ようするに現実味がないのだ。
「仕方ないか」
19時過ぎには斎藤さんが来所する。
俺は時計をちらりと見ると、三好に、これから行くと、佐山さんに連絡するように言って、鳴瀬さんへと電話を掛けた。
、、、、、、、、、
新宿から秋葉原へ出て、つくばエクスプレスに乗れば、つくばまでは一時間三十分だ。
15時前に、つくば駅についた俺たちは、改札を出ると右へ曲がって、少し先にあるA3出口を目指した。
そこから出ないとタクシー乗り場がないのだ。
駅地下のスターバックスの隣で、謎の野菜を売ってる店があって、少し微笑ましかった。
そうしてタクシーに乗ると、すぐに果樹茶業研究部門を目指した。
正門らしき場所でタクシーを降りたはいいが、そこには「野菜花き研究部門」と書かれた大きな看板が立っていた。
「佐山さんって、果樹茶業研究部門だよな?」
「あ、先輩、あれ」
三好が指さした先には、植え込みに隠れるように、「果樹茶業研究部門」の看板が設置されていた。
看板の大きさはほぼ同じなのに、なぜ、こちら側だけ看板の前に植え込みがあるのだろう? 謎だ。
ともあれここで間違いはないようだ。
「なあ、三好」
「なんです?」
「花きってなんだ?」
「ですよね! 私、花を生ける器かと思いました」
「さすがに農水省で、器の研究はしないだろう」
「向こうが、野菜花きなのに、こっちは、業ってところもよくわかりませんよね。統一感が……」
そんな話をしながら案内を待っていると、門の向こうから佐山さんがやってきて手を振った。
「あ、三好さん!」
「こんにちは」
「いや、良く来てくださいました。我々にはもう、なにがなにやら」
「そういわれても、私たちもお力になれるとは限りませんよ」
そういう俺たちに、佐山さんは立ち止まって振り返った。
「今、一番知りたいのは原因なんです」
仮に今回、その木を何とか出来たとしても、原因が分からなければ同じことが起こる可能性がある。
今回は仕方がないとしても、対策は必要だということだった。
「それで、あのつまり……」
彼は、とても申し訳なさそうにしながら、三好をちらりと見た。
どうやら、彼女のスキルに期待しているようだ。もっとも、鳴瀬さんたちにもくぎを刺されていたのだろう。とても言い出しにくそうだった。
三好は、微かに苦笑すると、「とにかく見せていただけますか」とだけ言った。
佐山さんは、大きく頷くと、すぐに案内を再開した。
途中で、「花き」について、佐山さんに聞いたところ、鑑賞用の植物すべてを含んだ概念らしく「花卉」と書くそうだ。
「花と書いてしまうと、花がつかない、たとえば観葉植物なんかが含まれなくなるんです」とのことだった。
盆栽なんかも花きに含まれるらしい。
そんな話をしながら、俺たちは、オレンジの木が突き破った温室へと向かった。
大学もそうだが、研究施設というやつは、とにかく広い。
しばらく歩いて裏手に回ったところで、建物から木がはみ出している場所が見えてきた。木には果実がたわわに実っていた。
「まあ、二月だし。せとかが木に生っていても、おかしくはないよな」
「つくばの温州は年をまたぐ前までですけどね」
十月から十二月までが季節だということだった。
「しかし……」
「立派な木ですねぇ」
温室のガラスは取り払われていて、今では、建物の中からにょきにょきと生えているように見えた。
オレンジの木としては、なかなかの大きさだった。
「で、この枝を切ると、リポップするわけですか」
「あ! 気を付けてください」
俺が枝に触れると、彼が慌ててそう言った。
「気を付ける?」
首だけひねって、俺がそう訊き返すと、彼は昨日見た現象について説明してくれた。
それによると、切り取られた枝が、光の枝となって伸びるとき、実体化する際に物体があると、その物体は切り取られるということだった。
「切り取られる?」
「ええ。最初は温室のガラスがきれいに枝の形に無くなっていました。その次の犠牲は私のタオルでした」
邪魔な物体が存在する場合、そもそもリポップは起こらないはずだが……
「それは、なんというか……事故が起こらなくて幸いでしたね」
佐山は大きく頷きながら、「まったくです」と相槌を打った。
「切り倒したり、引っこ抜いたりしてみるというのは?」
「一応考えたのですが、もしも枝と同じことが起こったとしたら危なくて……」
リポップした枝ぶりは、元の枝ぶりと異なっていたそうだ。
引き抜いた結果、元の形とは違う、同じくらい大きな木が出来上がったとしたら、どこを削り取るのか想像もできないと聞いて、納得した。
(三好。鑑定してみたか?)
(しました。でもこれ……)
三好は困惑気味にそう伝えてきた。
(どうした)
(詳しい話は後で)
(了解)
「だけど、切り倒すこともできないとすると、どうするんです、これ? 日本ダンジョン協会とダンジョン庁にスルーされた話は聞きましたけど」
「とりあえず、今は交雑種ができるような季節じゃないので、とりあえず部屋の方を広げて、木を全部囲めるようにしようという話になっています」
「なるほど。しかしこれ、立派な観光資源ですよね」
「ええ?」
「いや、切っても目の前で復活する枝ですよ? 下手すりゃ信仰の対象じゃないですか?」
俺がそういうと、彼は目を丸くしていた。
現象だけ見るなら、控えめに言っても奇跡という名に相応しい。
「聖なる湖にある聖なる木立から持ち帰った枝から生まれた、聖なる木ですからね。さしずめ佐山さんは、レックス・ネモレンシスといったところですね」
「えええ?!」
三好が笑いながらそう言うと、佐山さんはひきつったような顔をして焦っていた。
伝承によると、森の王になる条件はふたつだけ。ひとつは金枝を持ってくることであり、もうひとつは、現在の森の王を殺すことだ。
ところが現在そのポジションは空位だから、金枝を現世に持ち出してきた彼にはその資格があるのかもしれなかった。
「オレンジだって黄金の象徴には違いないし、多産や豊穣のシンボルってことだし、金の木の枝と言ってもいいよな」
たわわに実っている、黄金の果実を見ながらそんなことを呟くと、三好が今更ながらに訊いていた。
「ダンジョン庁にスルーされたとは言っても、完全な新種……というより、未知の生物ですよ。行政への報告はやらなくていいんですか?」
「行政へ報告ったって、どこに報告するんだ、これ?」
「環境省でしょうか?」
三好が首をかしげながらそう言った。
「どういう取り扱いになるのかはよく分からないが、特定外来生物等一覧に、この木がないことだけは保証するぞ」
お役所仕事は侮れない。なにしろヘルハウンドを犬として受理した渋谷区の前例があるのだ。
一本しかない木のために環境省が動くとは思えなかった。
「ええ? なら防疫扱いですか?」
「そういう観点でしたら、厚生労働省というより、農林水産省管轄ですね。植物防疫所が、国内検疫をやっているはずですが……」
佐山さんが三好の防疫発言をうけて、そう言いよどんだ。
「重要病害虫ってわけじゃないからなぁ」
「そうなんです」
「農水省に、外来植物に対応する部署ってないんですか?」
外国どころか、未知の世界から来た植物だ。
場合によっては侵略と言えるかもしれない。
「一応あるにはあるんですが……」
なんとそれは、農村振興局らしい。
「農村振興局?」
「はい。農村政策部の鳥獣対策・農村環境課にある農村環境対策室ですね」
「というか、そんな課や室があるのかって感じですね」
あまりの名称に苦笑しながらそう言うと、佐山さんが、この辺は割とできたり消えたりいろいろなんですと教えてくれた。
一応、2008年の三月に、外来生物対策指針というものが、当時の農村振興局企画部資源課農村環境保全室で策定されたらしい。
もっとも現場向けのパンフレットみたいなもので、見つけらたらさっさと取り除きましょう、くらいの代物だ。
現在では、農村環境対策室の生物多様性保全班に引き継がれているらしかった。
「内容にしても、『すべての外来植物を対象にして防除することは困難だから、被害がない場合はとりあえずスルー』が基本なんです」
オオイヌノフグリやシロツメクサがそれにあたるらしい。
確かにかなりの数が繁茂したところで、実感できるような被害はないだろう。
「じゃあこれって、対応できる行政機関が?」
「今の段階ではありません」
つまり仮にダンジョン庁がダンジョン産だということで手を付けたところで、対応を協議する省庁がないということだ。
かといって、日本ダンジョン協会に持ち込んでも、ダンジョン外のことに対応する部署がないことは、スルーされたことからも想像に難くない。
「起こったことのない事態に即応できる部署が日本には必要だな」
真面目な顔でそういった俺を、三好か肘で小突いた。
「何、政治家になる前の、情熱に燃える学生みたいなことを言ってるんですか」
「なっちゃって初めて、何にもできないことに気が付くんだよな」
「夢も希望もありませんね」
ともあれ、そんな組織は地方行政ならともかく、国政でいきなり作ることは不可能だろう。
「うちの次世代研あたりは、これを知ったら狂喜しそうなんですけどねぇ」
佐山さんがしみじみとそう言った。
次世代作物開発研究センターでは、各部署の生産性向上技術および高付加価値化技術の開発を行っている。
当然、柑橘における生産性向上技術及び高付加価値化技術の開発もその研究の柱のひとつらしい。
そんな話をしていると、佐山さんの携帯が鳴った。
その表示を見て、彼はすまなそうに頭を下げた。
「ちょっと上司に呼ばれたので行ってきます。この辺は勝手に見ていただいていいので、よろしくお願いしますね!」
「ああ、お気になさらずに」
何をよろしくすればいいのか分からなかったが、そう言って手を振った。
彼が見えなくなり、辺りに誰もいなくなったのを見計らって、俺は三好に尋ねた。
「で、なんだって?」
「これ、リポップじゃありませんよ」
俺のセリフを待って、三好がそう切り出した。
「だろうな」
「さすが先輩、どこで分かりました?」
「まあ、新しく形成された枝が、前のとわかるくらい違いすぎるって言ってたしなぁ……」
俺は木を見上げると、その枝ぶりを切られた木と見比べながら言った。
「それにリポップは、現実空間にある物体を切り取ったりしないだろ」
仮説とは言え、三年の間にそういう事態が発見されていないことから、なんとなくそう考えていた。
もしもそんなことが起こるなら、横浜の棚は、今頃穴だらけのはずだ。
「それに、これがリポップするなら、三好が持ってきた麦の穂なんかも、麦粒を外せばリポップしてもおかしくないだろ」
もちろんそんなことは起こらない。
「やはり、リポップはダンジョンシステムの一部ですよね」
「たぶんな。こんな場所でダンジョンシステムの一部になれるなんてことになったら怖すぎる」
「確率的に訪れる悪夢ってやつですか」
「まあな」
今朝方、話をしていた内容を思い出しながらそう言った。
ダンジョン外でダンジョンシステムの一部に組み込まれたモンスターなんて存在が発生したら、それはイコール地球全体がダンジョンになるのと同じことだ。
倒したモンスターが、ランダムでどこかに現れる。
原子力発電所の重要区画だとか、ICBMコントロールのクリティカルの部分だとか、どこかの内容によっては、人類が滅亡する可能性だってなくはないのだ。確率的に訪れる悪夢というのはそういうものだ。
「ともあれ、こいつは、リポップっていうよりも再生って感じだな」
「たぶんそうだと思います」
そう言うと、三好は鑑定結果を簡単に書き出したメモを差し出した。
--------
アウレウス・アルボル Aureus arbor
黄昏《たそがれ》の娘たちの園から英雄が盗み出し、海の女神の婚姻の祝宴に投げ込まれ、巨人に連れ去られる女神の作りし輝ける金色の実をつけた枝の末裔。
光ある限り、理は円環を巡り、滅することは叶わず。
--------
「こいつはまた、なんというか……」
「相変わらず、ダンツクちゃんは、遊び心が満載ですよね」
「って、三好の鑑定でこれってことは、こいつってダンジョンアイテム扱いなの?」
「それはないと思いますよ。触っても名称が分からないようですから」
なるほど。アイテムなら触れれば名称が分かるはずだ。だが――
「例の高屈折率の液体みたいに、アイテムの一部分って可能性もあるだろ」
「まあ、もとはと言えば、ダンジョン内のオレンジの木の枝ですからね。そう言えば、そう言えるのかもしれませんけど」
どっちにしても、三好の鑑定が成長してるってことだろうか。こいつの目に世界はどんなふうに見えているのか、ちょっと興味はあるが、今はこの木の事だ。
アウレウス・アルボルはラテン語だ。直訳すれば黄金の木。
黄昏《たそがれ》の娘たちは、ヘスペリデスのことだろう。つまりヘラクレスが盗み出した黄金の林檎だ。
二つ目はエリスが投げ込んだもので、最後のやつは北欧神話、というよりも、ニーベルングの指環の第1部、序夜の第2場に違いない。
当時の林檎は、果物全般を表現する名詞で、黄金の林檎はオレンジの事だとも言われている。
「って、ダンジョンせとかって、アンブロシアだってことか?」
「まあ、末裔ですから、効果はお察しってことで」
「せいぜいが、思い描いた通りの品種になる程度って?」
思い描いた通りの品種が出来上がる。
それをせいぜいなんて言うのもどうかと思うが、ネタ元の効用は不老不死だ。滅することは叶わず、なんてところに、その片鱗がうかがわれる。それに比べればせいぜいと言っても間違いではないだろう。
「円環を巡る理ってのは――」
「植物の一年を繰り返すってことじゃないでしょうか」
成長し、花が咲き、実ができる。つまりはそのルーティンを再現するってことか。
「で、光ってのは、やっぱり……」
「太陽の光じゃないことだけは確かですね」
俺たちは、NIMS(物質・材料研究機構)やその周辺で一斉に発生した、謎の魔結晶の消滅を思い出していた。
魔結晶は高濃度Dファクターの塊で、ここは魔結晶の研究機関が集中している場所だ。NIMSだって、すぐそこにある。
ダンジョンの外でDファクターが奇跡を起こすためには、大量のそれが必要になるはずだ。
「――つまりこれは、つくばだから起こった事象ってこと?」
三好が木を見上げながらそう言った。
「たぶんな」
ダンジョンから持ち出されたものは少なくない。ほとんどはアイテムだから無関係なのだとしても、枝や草くらいは持ち出されていてもおかしくないだろう。
そのたびに、こんな現象が起こっていたら、とっくの昔に大騒ぎになっているはずだ。
「まあ、採取時に先輩が一緒にいたのが原因の一端って気もしますけど」
「ええ?! これもメイキングの影響ってことか? いや、それは考えすぎなんじゃ……」
「だといいですね」
三好が不穏なことを言っているが、ともかく、地上に高濃度のDファクターが存在している場所は、それほど多くないはずだ。
だから、仮に別の場所で接ぎ木を行ったとしても、それを接いだ人間の望みを実現するような現象は起こりようがない。
燃料がなければ車は動かないのだ。
「ともかく、こちらで枝や幹が再生した時間と、NIMSあたりで魔結晶が一斉に光に還元された時間を比べてみれば、関連は一目瞭然だろ」
状況から見た仮説にすぎないが、無関係だとはとても思えなかった。
「後は、この影響がどこまで広がるか、だ」
「広がる?」
「だって、佐山さんたちは、必死に花粉を拡散させないように頑張ったんだぜ?」
「そりゃ、この種が他の柑橘類と交配しないようにするためでしょう」
「そうさ。つまり交配の可能性をこいつに伝えたんだ。しかも強烈なイメージで」
その意味を理解した三好は、額からたらりと垂らした汗が見えるくらい焦ったようだった。
「だ、だけど、全然開花の時期じゃありませんよ?」
「そこが唯一の救いと言えば、救いなんだが……」
「なんです?」
「そんなのDファクターが慮ってくれるかな?」
三好は、難しい顔をしながら腕を組んで、たわわに実っている木を見上げた。
冷たい風がそれを微かに揺らし、大分低い位置にある太陽が作る長い影が、それに合わせてざわざわと踊った。
「それに――」
俺は一晩で大木になったらしいその木に向かって手を広げながら言った。
「――つくばには魔結晶がありすぎる」
、、、、、、、、、
農研機構から10キロほど北にある、筑波山の周辺には、いくつかのみかん園がある。
茨城、特につくば市辺りは、みかん栽培の北限にあたり、昔から筑波山の西側ではみかん栽培が盛んなのだ。
筑波山の標高150メートル、斜面温暖帯にその畑はあった。
いつものように、山の斜面の道路を車で走っていた男は、自分の畑の木にオレンジ色の何かがびっしりと付いていることに気が付いた。
「なんだ?」
誰かのいたずらにしても数が多い。
男はいそいで車を畑に向かって走らせたが、それが近づいてくるにしたがって、自分の目がおかしくなったのかとでもいうように、頻繁に目をこすっていた。
「なんだ……これ?」
この辺りのみかんは、低木の温州みかんと、もう少し背の高い、地元の品種の福来《ふくれ》みかんが主力品種で、旬は大体十月から十二月だ。
中には、20種類近い品種を植えている農園もあるが、今は二月だ。いずれにしてもシーズンはとっくに終わっていた。
「なんじゃあこりゃああ!?」
自分の畑の木に、びっしりと生っている、理想的な形の温州みかんを見ながら、男は絶叫していた。
162 金枝篇 閑話 2月14日 (木曜日)
「いやー、あんなことが起こるんですねぇ……」
駅から自宅への道を歩きながら、三好が言った。
「事実は小説よりなんとかってやつだな」
「まったくです」
俺たちは、17時二分のつくばエクスプレスに飛び乗って、代々木八幡へと帰還した。
19時過ぎに約束があったので、長居をするわけには行かなかったのだ。
とりあえず、口頭で概要を告げた後、後で詳しいレポートを送りますと言って、そこを辞した。
概要を聞いた佐山さんは、特につくば市で起きている魔結晶の消滅事件の話を聞いて茫然としていた。
この件で忙殺されていて、テレビも新聞も見ていなかったのだそうだ。
円環を巡る理《ことわり》については、昨日やった実験で、すべての実を収穫すると、しばらくして花が咲き実が生りなおされることがすでに確認されていた。
収穫しないで放置したら、それが防げるのかどうか、これからやってみますとのことだった。
理を巡らせたり、木を再生させたりしなければ、これ以上の消滅事件は起こらないはずだと彼にアドバイスしておいた。
「予想もしない展開だったけどさ、悪いことばかりじゃないと思うんだ」
「良いことってなんです?」
「これで、魔結晶の研究方向が、がらりと変わるかもしれないだろ?」
「ああ、先輩が言っていた物性方面から研究するよりも、直接利用の研究をするべきなんじゃないかって、あれですか」
「まだ電気にする方法は思いつかないけどな」
「耳かきでろー、ですもんね」
三好がクスクス笑いながら、両手を鷲爪のような形にして、魔法使いの真似をした。
「うっせ」
「だけど、このことが公になったら、農研機構が魔結晶の弁済を迫られるんじゃないですかね?」
「そこは俺たちが考えることじゃないさ。それにれっきとした事故だし、ばれたって保険が利くんじゃないの?」
「そんな保険、ありますかね? あの壁は補償対象だと思いますけど」
まあ、状況証拠しかないからと、テキトーな話をしながら、ふたりで事務所へと入った。
「あ、お帰りなさい」
ドアを開けると、ダイニングから鳴瀬さんが立ちあがって、迎えてくれた。
もし遅くなっても構わないように、留守居をお願いしておいたのだ。
「どうもすみません。お仕事に関係ないことを頼んじゃって」
「いえ、私も逃げてきた口なので、丁度良かったというか……」
てへっという顔で、鳴瀬さんが舌を出した。
「逃げて?」
「ええ、実は――」
新しく回ってきたプロジェクトの出資の件で、振興課からレディキラーの雨宮さんを筆頭に人がやってきて、いろいろと引っ掻き回しているのだそうだ。
「そういうのって、振興課の仕事だったんじゃ?」
「まあそうなんですけど――」
うちの基金が飛んだ件で、あおりを受けたプロジェクトらしく、振興課としても無しにするわけにはいかず、苦渋の選択でダンジョン管理課に押し付けたようだった。
セーフエリアと受験対策の件で、ただでさえ忙しかったダンジョン管理課は、それの相手をするのにリソースを割かなければならなくなって、てんやわんやに拍車が掛かっているのだそうだ。
「いや、それで人員が一人逃げてきたら、余計にダメなんじゃ……」
「いいんですよ。あの人たち私がいると、余計に面倒なことを言い出すんですから。もう吉田課長なんか、ジメっとしながら、青筋立てちゃって……」
どうやら、鳴瀬さんがDパワーズの基金を止めさせたみたいなみたいな話にまで発展しているそうだ。完全に間違いとは言えないので笑えないのだが。
「お疲れ様です」
「ほんとにお疲れですよ。私も散々嫌味を言われちゃいましたから。出世できなくなったら責任取ってくださいね」
その話を聞いた三好が、早速突っ込んでいた。
「鳴瀬さんならいつでも、弊社でお迎えしますよー」
「……過労死しそうだからやめときます」
ちろりとこちらを視線を向けた鳴瀬さんは、小さくため息をついてそう言った。
「ええ?」
おかしい、ブラックからはもっとも遠い会社を目指しているはずなんだが。
それに――
「暴走気味の俺たちの手綱を握ってくれそうなんだけどなぁ」
「自覚があるなら、暴走しないでください」
「世間がそれを許してくれないんですよ」
「カッコつけてもだめです」
笑ってそういった彼女は、バッグから小さな包みを取り出した。
「というわけで、これをどうぞ」
「え? これって、もしかして?」
「最近、私が担当しているパーティのおかげで、大変忙しい目にあっている同僚の皆さんに差し入れしたついでですから」
「うっ……では遠慮なく」
俺はもらった包みのリボンをほどくと、袋の中身を確認した。
すると、そこには鮮やかな色のついた丸いチョコレートが、きれいに包装されて詰まっていた。
おお、本日2個目のチョコゲット!
「へー、懐かしいですね」
「アソート品で申し訳ありませんけど」
「とんでもない。マーブルは美しいお菓子ですよ。いわばチョコの芸術品ですね」
「さすがにそこまで言うと、パティシエの皆さんに怒られますよ」
「なんでも、水色に透明なメルヘンな世界なんだそうです」
とある飛行機の運転手が、昔そういっていたのを思い出して言った。
俺は、水色の粒を一つ摘まんで口に入れた。
北谷には、こういうイベントはなかったから、なんだかずいぶん久しぶりだ。たとえチロルとマーブルでも、なんだか気にかけてもらっているという気分になれて、そこはかとなくうれしいものだ。男ってのは単純なのだ。
「ああ、そういえば、もうひとつご報告が」
「いい話ですか?」
鳴瀬さんは「どうでしょう」と首を傾げた。しかしまあ、悪い話でもなさそうだ、いわゆる「どうでも」いい話ってやつだろうか。
「Dパワーズさんがやってらっしゃるブートキャンプの地上施設の反対側に、新しいブートキャンプのサービスが入居しました」
「へー」
「代々木ブートキャンプとか仰ってましたね」
「なんという二番煎じ感」
「先輩。ブートキャンプそのものが、パロディと言うか、二番煎じみたいなものですからね?」
ブートキャンプは、新兵のための厳格な規律に則った軍事訓練キャンプを意味するスラングで、一般名詞みたいなものだ。
ナップル社のソフトウェアにだって、名前としてつけられている。
「そういわれりゃ、確かにそうだな」
「考えても見てくださいよ。キャシーあたりが対抗して、元祖ブートキャンプとか、本家ブートキャンプとかの、のぼりを立てたらどう思います?」
「……死にたくなりそうだ」
「でしょ?」
絶対に許可するなよと、念を押しておいた。
こいつには、面白そうですねと、許可しちゃいそうなところがあるのだ。
「どうやら、スポーツ界周辺が業を煮やして立ち上げたようですね」
「業を煮やしてって、うちはもともと探索者のためのキャンプだと銘打ってますけど」
探索者でないスポーツ選手が応募しても、当選するはずがないのだ。
いろんなところから来る要望という名の圧力を、全スルーしていたら、こんな事態になっているとは。しかしこれって――
「効果あるんですかねぇ?」
と三好が首をひねっている。
ちゃんと探索をした場合、長期的にはステータスの上昇に伴う効果があるだろうが、探索じゃなく、スポーツの練習だけだというのなら、設備の整った地上でやったほうが効率がいいだろう。
「慣れないことをやって、記録を落とさなきゃいいけどな」
なにしろ来年にはオリンピックがあるのだ。
根拠なく、スポーツ科学から逸脱した練習方法にするのはどうかと思わないでもなかった。
「最近探索者からスポーツ選手に転職しようと考える方も多いみたいですよ」
先日放映された渋チーの記録会の映像を見て、もしかして自分もいけるんじゃないかと、非公認の記録会や部活なんかに参加する人も増えたのだとか。
たった数日しかたっていないのに、なんだかんだ言って、テレビの影響力ってのはまだまだあるんですねと鳴瀬さんが笑った。
「探索者が減っちゃうかもしれませんよ? 笑ってていいんですか?」
「そこは大丈夫です」
なにしろ、基盤は探索によるステータスの上昇だ。
仮にスポーツ選手に転向したからといって、探索を止めてしまうわけではなさそうだった。どちらかと言えば、スポーツ界の方に影響が大きそうだ。
「そういえば、なんだか大きな荷物が届いていますよ」
「荷物?」
「奥の部屋へ運んでもらいましたけど……こちらが伝票です」
俺は鳴瀬さんが差し出してきた伝票を受け取ると、差出人を確認した。
三好は、奥の部屋へ荷物を見に行ったようだ。
「斎藤さん?」
「先輩、これ、ほんとに大きいですよ。いったい何でしょう?」
「伝票には楽器って書いてあるぞ」
「楽器?」
その時、事務所の呼び鈴がなった。
「どうせ、斎藤さんだろ?」
そう言って立ち上がりかけた俺に、三好が待ったをかけた。
「先輩、ちょっと待ってください」
「なんだ?」
「いえ。私が出ますから」
「そう?」
珍しく三好がそういうと、玄関に向かって行った。
不思議そうな顔をしていた俺を見て、三好が念話を送ってきた。
(先輩。なんだか素人のお客さんが、カヴァスの毒牙にかかったみたいです)
(なんだそれ? まさかなにかの営業なんかじゃないだろうな?)
確かに訪問販売の営業はうざい。だが、失神させて拉致されるほどのことじゃない。
もっともカヴァスの毒牙にかかるってことは、敷地内に侵入したってことなのだが……
(いえ、そういうのとは違う感じです。芸能方面なんじゃないですかね、これ)
(なにそれ。フォーカスってやつ?)
(そういったセンだと思います。先輩が出たら夜に男性の家を訪れる瞬間をゲットされるところでしたね)
なんとまあ、斎藤さんも出世したもんだ。
だけど、その人たちを田中さんに引き渡すわけにはいかないよな。
「やー、ししょー、お久しぶり」
「その呼び方はやめような」
つい、タヌタヌーとか言いそうになるだろ。
「で、今日は?」
斎藤さんは、目を回したふりをして、周りの人たちに訴えかけた。
「聞きました? 相変わらず情緒がないですよね! ここは、ちょっとくらい、無駄で軽妙なトークが入るところでしょう?」
「ええ? そういうもんなの?」
相も変わらず、三好は微妙であいまいな表情をしている。例の「知らんがな」のサインだ。
「もう、仕方ないなぁ。はい、これ」
「なに?」
斎藤さんが差し出してきた包みの中には、10センチ四方くらいのかわいらしい箱が入っていた。
「ほら、一応お世話になってるから」
「おお、先輩、モテモテじゃないですか」
「よせよ」
そう言って箱を開けると、その中には、コイン型のチョコレートがいくつか入っていた。
「へー、手作りっぽいですよ?」
へへーんと斎藤さんが胸をそらしている。
「いや、これはあれだな――」
コインの表面には、見事な弓と矢のレリーフが刻まれていた。
「――ホワイトデーまでには弓をよこせという催促に違いない」
「ちょっと。それって酷くない!?」
「すごく斎藤さんっぽいですねぇ」
「三好さんまで!」
そういえば、来月に内々の選考会みたいなのがあるとか言ってたっけ。
「仕方がない。じゃあ、次の斎藤さんのお休みにでもオーダーに行こうか」
「うーん、なんだか素直に喜べないんだけど……ま、いいか。じゃ、決まったら連絡するね」
「はいはい。でさ、あのでっかい楽器ってなに?」
「そうだ! それで来たんだった!!」
「あっちに置いてあるよ」
斎藤さんがそこへ向かって行くのを見て、鳴瀬さんが行った。
「ええっと、芳村さん。お客様もいらしたみたいですし、私はこの辺で」
「あれ? もし時間が大丈夫でしたら、ご飯を食べて行ってくださいよ」
「え? 時間は大丈夫ですけど……いいんですか?」
「もちろんです。斎藤さんが何かやりそうですし」
「何かって……」
鳴瀬さんは、苦笑を浮かべてそう言った。
「ししょー! これ重いんだから、手伝ってよー!」
「はいはい」
そうして設置されたのは、YAMAHAのCPL−685だった。
「電子ピアノ?」
「そうそう。事務所が練習しろって送りつけてきちゃって」
ちょっと本格的に弾かなきゃいけなかったからって理由で、最上級の電子ピアノとは。
確かにタッチが重要なら仕方がないのだろうが……中古のアップライトにKORGあたりの消音器つけた方が安くない? 取り扱いは面倒なのかもしれないけど。
「練習? って、事務所が送り付けて来たのをここへ送りつけてきていいのかよ」
「いや、だって、うち狭いし。ここなら、広いでしょ?」
いや、広いでしょって、そういう問題なのか?
「それに、丁度よかったし」
「丁度いいって、何が?」
「まあまあ、ちょっと聞いてよ」
なにがなんだかわからないうちに、彼女はピアノの前に座ると、曲を奏で始めた。
「うぉ、これは……」
「ショパンのエチュードですね」
「彼女って、女優さんでしたよね?」
鳴瀬さんが、こっそりと耳打ちしてきたから、頷いて答えた。
「これは、女優さんが片手間にやってましたってレベルじゃないですよ」
アイドルの中には、子供のころからピアノを習ってきて、コンサートでちょっとそれを弾いたりする人もいるようだが、確かにこれはそんなレベルじゃない。
プロのピアニストと比べても、なんら遜色がないだろう。
二分弱の曲を弾き切った斎藤さんに、俺たち三人は思わず拍手をしていた。
彼女は椅子から静かに立ち上がり、ちらりと鳴瀬さんに目をやった後、俺に向かって行った。
「で、なんで私はこんなことができるわけ?」
、、、、、、、、、
時間も遅くなりそうだったから、俺たちは先に食事にした。
それほど凝ったものを作る時間もなかったから、作り置きを取り出しているように見せかけつつ、デパ地下の総菜で適当に盛り付け、これも作り置きのシチューメインにバゲットを添えておいた。
超手抜き、中食シリーズだ。
鳴瀬さんは、さっきの斎藤さんの言葉に興味をひかれながらも、食事が終わると礼を言って帰って行った。
斡旋された仕事の顛末として、食事中に話しておいた、つくばの事件についての報告書をまとめるつもりだと言っていたが、気を利かせてくれたのだろう。
空気を読める女ですからと冗談めかして言っていた。
「で、さっきの話だけど、練習したんじゃないの?」
「練習どころか、ピアノに触ったこともなかったんだよ? それが先生の試演を一度見たら、なんとなくできそうな気がして……」
「弾いてみたら、弾けちゃったってこと?」
彼女はこくりと頷いた。
彼女のステータスは、去年の十二月二十一日の段階で、知力が30、俊敏が25、器用が50になっていたはずだ。
当時の三好との考察では、世界チャンピオン級の器用なのだ。もちろん探索者を入れても、だ。
俊敏で先生の動作を完全にとらえて、知力で解析&記憶して、器用で再現してしまったということだろう。
しかし、それをどうやって説明したらいいのだろうか。
「別に困ってるわけじゃないんだよね?」
「全然。むしろ助かってるんだけど……訳が分からなすぎて、気持ち悪い」
斎藤さんが、日ごろは見せない真剣なまなざしで、じっと俺を見つめて行った。
「芳村さんが何かしたんでしょう? だって、他に考えられないもの」
何か危ないセリフだが、以前、御劔さんにも同じことを言われたっけ。
「斎藤さん、去年ダンジョンで遊んだ時に言ってたでしょ。思ったとおりに体が動くし、台本もすんなりと頭に入ってくるようになったって」
「そういうのと次元が違う気がするんだけど」
「いやいや、おんなじだよ」
「先生の動作を完全にとらえるとらえて記憶できるところは、台本を覚えるようなものだし、それを再現できるのは、自由に体が動くことと同じでしょ?」
「うーん」
「ほら、劇場で他人の演技を見て、セリフを全部覚えられたり、それをそっくりに真似られたりするじゃない?」
「まあ、それくらいなら」
出来るのかよ!
自分で言っておいてなんだが、北島マヤじゃあるまいし、普通そんなことができるはずはない。
斎藤さんも順調に人類の範疇から逸脱してきてるなぁと、俺は内心苦笑した。
「それと似たようなもんじゃない?」
「うーん」
「いずれにしても、斎藤さんが御劔さんに付き合ってダンジョンでスライムを叩きまくった成果なんだから、胸を張って自分の能力だと思っておけばいいんじゃない?」
「ううーん……ヨシ! たったあれだけでこうなれたんだから、実は私には才能があった! ってことで!」
「いいんじゃない」
って、ことでってなんだよと思いながら、あまりのサバサバ感に、俺は思わず吹き出した。
このこだわらないところが彼女の良さなんだろう。
それを見て、三好が笑って立ち上がった。
「せっかくだからコーヒーでも入れましょう」
「いいね」
「そうだ、これを預かって来たよ」
斎藤さんが自分の鞄から何かを取り出しながら「はい、NY直送です」と言って、にやにやしながらそれを差し出してきた。
「NY? って、イベントの関係者……な、わけないよな」
それなら三好に直接送って来るし、そもそも斎藤さんは何の関係もない。
三好が台所から顔を出して、笑った。
「当たり前でしょ。進駐軍の少佐が子供たちにチョコレートを配った日だからじゃないですか」
「現代用語の基礎知識に出てたんだろ? お前のネタの古さも俺とどっこいだな」
「ふっふっふ。先輩よりも1ページほど、私の方が新しいから、私の勝ちですね」
「何の勝負だよ。って、御劔さん?」
イメージ通りのきれいなブロック体で書かれたカードを見て驚いた。そういえば1四日まではNYにいたんだっけ。
「クロネコの国際宅急便で昨日届いたから、NY入りしてすぐに買ったんだよ」
斎藤さんが笑いながらそう言った。
NYから発送は、到着まで大体6日から10日かかるらしい。
そういえば、NYのファッションウィークは7日開幕だって言ってたから、丁度そのくらいだろう。
「NYにもクロネコってあるんだな」
「JFKのすぐ近くにあるみたいですよ、国際宅急便。お土産とか持ち歩きたくないから送っちゃう人も多いみたいです」
「へー」
さっそくパッケージを開けると、丁寧につつまれた紫色のケースが現れた。
「へえ、そのパープルのケースは、ヴォージュ・オー・ショコラだ」
「詳しいな。って、斎藤さんには?」
「なんで、はるちゃんが私にチョコレートを送ってくるのよ」
お土産は貰ったけどね、と言いながら、目で私にもクレクレと語っていた。
「はるちゃんも、NYだから結構悩んだんだと思うよ?」
「なんで? 店はたくさんあるだろ?」
「NYで有名なお店のチョコレートは、大抵日本でも買えちゃうんですよ。マリベルも日本に支店がありますし、マストブラザーズもディーン&デルーカで買えちゃいます」
三好がカップを配膳しながらそう言った。
NYで有名なチョコレートとか言われてもよく分からないけれど、最近は、ついこないだも、サロン・デュ・ショコラとかやってたし、世界のチョコレートが日本で紹介される機会も増えてるから、確かに日本で買えないチョコは少ないかもな。
「それで変化球で攻めてきたわけですね」
「変化球?」
「まあまあ、先輩。この緑っぽい粉がかかってるやつあたりを、一個食べてみてくださいよ」
「これか?」
俺はきれいに並んでいるトリュフの中から、三好の指定したひとつをつまみ上げて、口の中に放り込んだ。
「んっ、なんだこれ? 抹茶風味……って、後から来るこれは、まさかワサビか??」
「ショウガとワサビと抹茶で作られてるんですよ、それ」
「まじかよ……でもちゃんとうまいな」
「そりゃそうですよ」
それで変化球なわけか。
斎藤さんが貰っていいと訊くので、どうぞと答えて、三好が入れたコーヒーを飲んだ。
チョコレートが口の中できれいに溶けて、その風味が昇華する。同じわさびでも、メチャ苦茶《スペシャルドリンク》とは大違いだ。
俺は三好に貰った、チロルチョコの入った包みと、鳴瀬さんに貰ったマーブルの包みをその隣においた。
どちらも義理チョコだろうけど、貰えばうれしいものなのだ。
商業主義に彩られているとはいえ、これも一応聖なる夜か?
ハッピーバレンタイン。明日もいい日になりますように。
163 金枝篇 日本ダンジョン協会 2月15日 (金曜日)
「斎賀課長、ちょっとよろしいでしょうか」
もうすぐ昼休みになる時間に、主任の坂井が、斎賀のスペースへとやってきた。
何か心配事があるのか、顔色はあまりよくないようだ。
「なんだ、坂井。珍しいな。入試対策委員会でなにかあったのか?」
「いえ、機器の納品自体は予定よりずっと前倒しで納品していただいているので、問題はないのですが……」
きょろきょろしながら言葉を濁す坂井を見て、なにかこの場で話しにくい内容があるんだろうと判断した斎賀は、彼を昼食に誘うことにした。
「そろそろ昼か。じゃ、ちょっと外へ行くか」
「わかりました」
ふたりで連れ立って、課長用のパーティションから出ると、ここのところ斎賀の秘書的な役割をしている九条紗香が彼に声をかけた。
「あ、課長。真壁常務が連絡が欲しいそうです」
「俺? 橘さんじゃなくてか?」
橘三千代はダンジョン管理部の部長だ。部の話なら、普通は彼女と話をするはずなのだ。
「はい。午後のいつでもいいそうです」
「わかった」
「それと――」
「千客万来だな」
坂井に向かって、冗談めかして言うと、彼女の報告の続きを聞いた。
「アンダーソン課長から、世界ダンジョン協会からの協力要請について打ち合わせがしたいそうです」
「世界ダンジョン協会? なんでうちと?」
「DFAの要請で、ミハル・ナルセの協力が欲しいそうです」
「はぁ? ……ちっ、あのおっさんか」
「課長、お言葉が……」
紗香は、眉をひそめて笑いながらそう言った。
「わかった」
「後――」
「まだあるのかよ……」
斎賀が天を仰いでくるくると目を回してみせると、綾香は微かにほほ笑んだ。
「雨宮さんから、プロジェクトの進め方についてすり合わせをとのご連絡が入っています」
「あいつら、まさか一日中会議しかしてないんじゃないだろうな」
ここのところ、振興課からの会議の要請で時間を削られまくっている斎賀は、嫌そうな顔でそう言った。
それを聞いていた二人は、笑うわけにもいかず、神妙な表情を取り繕っていた。
「分かった、午後から随時こなしておくから、アポを――」
取ってくれと言おうとして、取りようがないことに気が付いた。
なにしろ話の内容がどれもはっきりとしないのだ。つまりかかる時間もはっきりとはしなかった。
「――取らなくてもいいや」
「は?」
「いや、どれがどのくらい時間がかかるのか分からないものばかりだからな。その都度連絡してみるよ」
ひでー仕事だと、ぶつくさ言いながら、彼は坂井を連れて部屋を出て行った。
、、、、、、、、、
日本ダンジョン協会のほど近くにある蕎麦屋に入ると、ざるそばを二人分注文した。
店の隅のテーブルで、斎賀は早速坂井に尋ねた。
「それで?」
坂井は言いにくそうにしていたが、意を決したように斎賀を見て言った。
「課長。ここだけの話ですが、例のデバイス、どうも持ち出されているような気がするんです」
「持ち出されてる?」
斎賀はその根拠を尋ねた。
「デバイスの数が合わないとかか?」
「数字の上ではあってることになっています」
「何か別の状況証拠があるのか?」
そう言われて、坂井は、自分のスマホを取り出して、どこかにアクセスすると、おもむろにその画面を斎賀へと向けた。
「これなんですが」
彼がスマホで表示したのは、御殿通工のチャートだった。
「お前、株なんてやってたのか」
「いえ、まあ……」
斎賀は笑って、「ほどほどにしとけよ」と言ってそのチャートを見た。
「これはなかなか凄いな」
そこに示された一時間チャートは、右肩上がりで激増していた。
「今週に入ってから、ずっと終値ベースでストップ高を更新し続けています」
値幅制限は、株の値段にもよるが、大体15%から30%程度だ。場合によっては、大体三日で株価はほぼ倍になる。
その後、売買が成立しない日が三日続くと、値幅制限が拡大され、今度は上り幅が倍、つまり30%から60%になるのだ。
「それに、月曜日に売買が成立して以来、今日まで午後立会終了時にしか売買が成立していません」
「俺は株のことなんかよく知らんよ。分かりやすく言ってくれ」
「ずっとストップ高で来ていて、昨日から値幅制限が拡大されていますから、もしこのまま行くとしたら――」
「したら?」
「来週中に株価は十倍に、再来週の終わりには百倍近くになりますね」
「そりゃ凄い。だが、それがデバイスの数が合わないことと関係があるのか? それとも、この株を買えと言いたいのか?」
坂井は思いっきり顔を振って、そうではないと強調した。
「いいですか、課長。この株は上がる要素が何もないんです」
「何もない?」
「はい。少なくとも業績予想や、プレスリリースを見る限り、まったく何もありません。むしろ緩やかに下がる方が自然です。もっとも今では、隠された何かがあるんじゃないかと注目されていますが」
今の大きな話題と言えば、ソフトバークグループが、上限一億千二百万株(6000憶円)の自社株買いを発表して、昨日までに5575万株(5999億円)を買い取ったことくらいだろう。
今度は、上げた株価を背景に、それを再放出するのではないかと言う懸念が高まっていた。
その他には特に、大きな話題はなかった。
「株式市場で不思議なことが起こっているというのは分かった。それで、結局何が言いたいんだ?」
坂井はテーブル越しに身を乗り出して、小さな声で囁いた。
「課長、例のデバイス。あれに使われている主要なセンサーが、御殿通工の製品で、その特許も御殿通工が保有しているんです」
「……調べたのか?」
斎賀の目つきが鋭くなったことに気が付いた坂井が、こともなげに言った。
「そんなことをしなくても、ふたを開けりゃ分かりますって」
確かにPP外装に、むき出しの基板だ。
シールもされていないから、ふたを開ければわかるだろう。そうしてそれは持ち出せさえすれば誰にでもできるのだ。
さすがに使用中にふたを開けるやつはいないだろうが。
「値上がりの原因はそれか?」
「想像ですが」
「つまり、バイトか社員の誰かがそれに気が付いて株を買っている?」
坂井はゆっくりと頭を振った。
「そういう買いがないとはいいませんが、それだけと言うのはいくら何でも無理がありますよ。凄い大金が動いてますから、よっぽど大きなところがバックにいないと」
「じゃあ――」
「Dパワーズが買っているか……そうでなければ、うちから情報を漏らしたやつがいるか、でしょうね」
斎賀は腕を組んで考えた。
「仮にDパワーズの連中だったとして、インサイダーには?」
「あたりません。インサイダー取引は『上場会社の関係者等が、その職務や地位により知り得た、投資者の投資判断に重大な影響を与える未公表の会社情報を利用して、自社の株式等を売買する行為』ですから」
「御殿通工と無関係のDパワーズがどうしようと、インサイダーにはあたらないってことか。だがなぁ……」
Dパワーズの連中が、こんな株の買い方をするとは全く思えなかった。
そもそも株をやり取りするよりも、オーブを売った方が儲かるはずだ。
「連中がこんな株の取引をするとは思えないんだが」
「それじゃ、情報はうちから漏れた可能性がものすごく大きいですね。どうします、これ?」
「何かの法に引っかかるか?」
「まったく。うちから漏れた情報でどこかの誰かが大儲けすることを、Dパワーズが許容するなら、ですが」
もしもDパワーズが特許をとった後なら、投資家には公平に御殿通工を買うチャンスが与えられただろう。
しかし、今は特許をとっていないのだ。
それを知った奴は、いずれあいつらが特許をとるはずだと考えているだろう。そうして、そうなれば、御殿通工の株は天井知らずに上がるに違いない。
「買い手が誰なのかはわかるのか?」
「大量保有報告書が出ればわかりますが、御殿通工の株を5%も市場から買い付けるのは相当難しいと思いますよ」
もしもそれがうちから漏れていて、しかも買っているのが反社会的な勢力だったりしたら、結構な問題になりそうに思えた。
だが、わからないのなら仕方がない。
「うちとDパワーズのNDAはどうなってたかな……」
「お待たせしました」
斎賀が契約の内容を思い出そうとしたとき、店員が、ざるそばをふたつ持ってきた。
寒い日でも、ざる。それがおっさんの矜持なのである。だが――
「なんだか食欲がなくなって来たぞ」
「私もです。Dパワーズが買っていることを祈りましょう」
「一応それとなく探らせてみよう」
鳴瀬にな、と、斎賀は割り箸を割った。
、、、、、、、、、
午後は、まず真壁常務へと会いに行った。
案の定、セーフエリアに運び込みたい資材の話で、斎賀はそのリストを受け取った。
「常務、これはいくら何でも多すぎませんか?」
「取り急ぎ、必要だと思われるものをすべてリストアップさせたからな」
「制限のことは報告しているはずです。これ、ひとつにまとめられるんですか?」
現代ではコンテナの大きさは統一されている。
最大の53フィートコンテナでも、16メートル×2.4メートル×2.9メートルだ。
「ガスタービン発電なんか持ち込んだら、それだけで一杯になるんじゃ」
「カワサキのMPUシリーズなら、セミトレーラーでけん引できるんだ。大丈夫だろう?」
「他のものはどうするんですか」
「K2HFが協力を申し出てる。つめられるだけ詰めたら、小物はポーターでキャラバンでも組むさ」
「三十二層ですよ? 誰が護衛するんですか、それ」
「まあ、自衛隊だろうな。それに――」
斎賀は嫌な予感がした。
「コンテナ数個にまとめて、何回か運んでもらえればOKだ」
OKじゃねーよと内心憤慨したが、表面上は落ち着いて答えた。
「支払いはどうするんです?」
相手が仕事をさせてくださいと申し込んできているならともかく、この仕事の報酬の最低ラインは、まとめて運んでもらえないときにかかる費用と同等になるだろう。
期間的な事を考えれば、プラスアルファが必要なるはずだ。
「金じゃだめかね?」
「金で動くような連中なら楽なんですけどね」
拗らせたらアウトだということは、口を酸っぱくして伝えてある。
まさか真壁常務ともあろう人が、馬鹿なことはしないと思うが、瑞穂常務の例もあるから、なんとも安心できないところだ。
「アメリカが横田に奇妙な設備を持ち込んで、何かを組み立て始めているんだ」
「は?」
「かなりの部分は、直接アメリカから運ばれているようだが、日本から調達した部品もあってな」
「はい」
「部品から想定した結果、発電所付きの滞在研究施設ではないかと言うことだ」
常務がどこからその情報を仕入れてきたのかはわからない。だがそれがもしもセーフエリアに持ち込むために作られているとしたら、運ぶ方法は限られている。
組み立てた後、パーツごとに分解してポーターで持ち込むか、そうでなければ――
そういやサイモンとは仲が良かったなと内心苦笑しながら斎賀は言った。
「それが?」
「もしもそれの運搬方法が、うちと同じなら、どういった報酬で引き受けたのか興味があるだろ?」
「わかりました。探りを入れてみます」
そう言って、心の中で、ため息をついた。
、、、、、、、、、
「お疲れですね」
3件の打ち合わせをこなした後、部屋に戻ってしばらくした頃、美晴が斎賀の部屋の扉をたたいた。何かの報告だろう。
「ああ、鳴瀬か。俺はどうも駆け引きとか陰謀とかに向かなくてなぁ」
美晴は課長が向いてないなら、向いている人なんかいないでしょと内心苦笑しつつ、最近紙書類が増えたなぁと思いながら、報告書を提出した。
「なんだ、また紙か?」
お前の紙提出は、こないだからろくなことがないからなと、それを受け取って、ぱらりとめくった。
「つくば? 報告のあった木の件か? あれはうちの管轄外だって話だろ?」
「それがそうも言ってられない状況で」
「なんだと?」
レポート形式まとめられた報告書のアブストラクトを流し読みした。
「魔結晶の消失原因だと?!」
「今の段階では、三好さんたちの推測です。ただ、木が再生した時間と、魔結晶が消失した時間を比べれば一目瞭然だろうと仰ってました。どうします?」
「いや、お前……どうしますったってなぁ……」
この話をどこに持ち込むんだ? だが、各研究所をまとめている組織なんかあるはずがない。
日本ダンジョン協会がこれに、直接的な関与ができるはずもない。勧告として発表するか?
「向こうでは、当面、木へのアクションはやめて、囲いを作ることに専念するようですが――」
「なんだ? レポートによるとそれで当面の魔結晶消失は避けられるんだろ?」
「――実は、今日のニュースで見たので、レポートには書かれていないのですが、つくばのみかん農園で、季節外れのみかんが一斉に実をつけたそうです。突然に」
「マジかよ……」
斎賀はその原因を推測して頭を抱えた。
「凄い品質の温州みかんで、農家の方がその不思議さに頭をひねりながらも、収穫したそうですが――」
「どうした?」
「ひとつの木の収穫を終えてしばらくすると花が一斉に咲いて、すぐに結実したそうです」
「――は?」
「それで農家の方は狂喜して、収穫を繰り返しているそうです」
「このレポートが正しければ、どこかの研究所の魔結晶がそのたびに消失している……ってことか?」
「おそらく」
「まあ、最悪、農家に魔結晶を買わせて農園の側においておけばいいんだろうが。肥料みたいなもんだしな。ただ……そのみかんって、食べて大丈夫なのか?」
「わかりません。すぐに収穫を止めさせて、DFAに送るべきだと思いますが――」
「日本ダンジョン協会にはその権限がない」
斎賀はすぐに内線の受話器を上げて、部長の番号を回した。
「あ、橘部長ですか。斎賀です。はい、はい。実は、すぐにダンジョン庁経由で処理しなければならない案件が。はい、はい。わかりました。すぐに」
斎賀は、内線を切って、立ち上がると言った。
「ダンジョン庁に連絡を取って、農林水産省と協議させ、すぐにつくば周辺の農家のみかん収穫を止めさせる。それまでこの件は口外するな」
「了解です」
「あのな、鳴瀬。こいつはみかんとかいう問題じゃすまないぞ」
「え?」
「これは要するに、ダンジョンから持ち出された何かが、魔結晶があればダンジョンの外でも不思議な現象を引き起こせるってことの証明だろ」
「あ」
「持ち出された何かや、魔結晶の数によっては、何が起こるかわからんぞ」
そう言って、すぐに部屋を出ようとした斎賀が、ふと足を止めて振り返ると、美晴に言った。
「ああそうだ、Dパワーズの連中に、アメリカの荷物を運ぶのにどんな報酬を貰ったのかをさりげなく訊いておいてくれ」
「はい?」
「それとな、現在御殿通工の株を買い占めたりしてないかどうか、これもさりげなく頼む」
「はい?!」
「後、DFAのわがままな博士が、お前の協力が欲しいと言っていたから、いいように対応してくれ。詳しくはアンダーソン課長に訊け」
「はいぃいい??」
「じゃ、頼んだからな!」
「いや、頼んだって……課長!!」
美晴の声を無視して、部屋を出て行く斎賀の口元は緩んでいた。
無理難題は、持ちつ持たれつだよな。なにしろ、課長補佐なんだから、とそう考えながら。『待遇』の二文字はきっとどこかに置き忘れたてきたに違いなかった。
164 金枝篇 シェケルを毟れ 2月15日 (金曜日)
「先輩! つくばが汚染されました!」
「はぁ? なんだよいきなり」
「これ見て下さいよ!」
そこには地域のほのぼのニュースを切り取ったムービーが twitter や youtube にアップされたものだった。
そこでは、みかん農園のご主人が嬉しそうに、自分の農園に生ったみかんを紹介していた。
季節外れの豊作に、地元のテレビクルーがにこやかに不思議ですねぇ、などと言っていた。
「みかん農園が豊作で良かったねってニュース……ってわけじゃないんだよな?」
「二月ですからね。これが愛媛あたりのニュースならそれですみますけど、農園があるのはつくばで、ニュースは昨日の話です」
「ってことは……」
「絶対、黄金の木の影響ですよ」
「花粉関係ないじゃん!」
「さすがは、Dファクター。空気読みませんね」
まあ、そういう存在じゃないだろうからなぁ。
「で、これ、どうするんだよ」
「どうにかできます?」
「無理」
ダンジョンの中らなともかく、地方都市の農家相手に俺たちができることはないだろう。
何かしようとしても、単なるクレーマーだの、胡散臭い奴らで切り捨てられて終了だ。
「だけどさ、さすがにこうなったら、日本ダンジョン協会や省庁も動くだろう。鳴瀬さんには昨日詳しい話をしておいたわけだし」
「鳴瀬さんなら、今頃はレポートも提出されているはずですよ」
「よし、俺たちにできることはすべてやった! 後のことは、それぞれの機関にまかせよう! 頑張れニッポンだ!」
「私たちも暇じゃないですからね」
スライム狩りも再開しなくちゃだし、二十五日には〈収納庫〉が控えている。
「オーブのオークションもやるやる詐欺のまんまだしなぁ……」
「横浜の処理もありますよ。もう、テンコーさんに丸投げします?」
「まあ、彼は喜ぶだろうけど、危なくないか?」
「以前の様子なら大丈夫のような気もしますけど、踊り場実験室を公開されるとちょっと困りますね」
「あの人の辞書に、秘密の二文字ってなさそうだからなぁ……」
横浜ダンジョンの一層が閉鎖されてから2週間、失意のどん底だったテンコーさんだが、テンコーチャンネルはまだ続いていた。
よく考えてみたら以前だってダンジョンそのものには入れなかったわけで、階段の上まで入れなくなっただけの今も、それほど大きな違いはないのかもしれない。
しばらくは、横浜ダンジョン一層閉鎖の謎に迫る!とかやっていたが、それが視聴者に刺さる話題になるくらいなら、横浜の閉鎖もなかったような気がする。
結局、横浜は依然とそれほど変わりなく、混乱もないようだった。
「彼も代々木の探索をやればいいんですけどね」
「お前が代々ダン情報局を充実させちゃったから、探索系のチャンネルは意外とネタ探しに困ってるんじゃないの?」
「そうでもないと思いますよ。後追いの検証でも番組になりますし、後はスポーツネタなんかも増えるんじゃないでしょうか。それより、下の層へ潜って欲しいですよね、そういう人たちは」
しかし、俺たちもやることが広がっちゃったなぁ……
「そういやお前、寺沢某《なにがし》への連絡ってどうするんだよ」
「あー、それもありましたね……」
一瞬だけ考えるようなそぶりを見せた三好は、すぐにあっけらかんとして言った。
「思ったんですけど全スルーで良くないですか?」
俺は、それでいいのかよ!と頭を抱えそうになったが、それよりも、可哀想なのは寺沢某だ。
「魔法の呪文とか言ってたのになぁ」
「いや、先輩。冷静に考えて、それにつられてほいほい出向いたりしたら、自白したみたいなものじゃないですか」
「事実だけで言えば、三好が1万個も鉄球を買っていて、それに似ているものが三十一層に落ちてたってだけだもんな」
「そうですよ。いざとなったら私の攻撃を見せて、『三十一層で落としたやつですね。結構するんですよ、それ。拾っていただいてありがとうございました』なんて、しらを切って返してもらってもいいですしね」
なるほど。三好がそれを使っているところを見せてしまえば、なんとでもいいわけができるのか。実際に三十一層にいたわけだしな。
スキルについては内緒で構わないだろう。君津二尉みたいなスキルだって存在しているわけだから、似たようなスキルがあってもおかしくはない。
「実際に投げるふりをしておけばよくないですか?」
「なるほど……」
スローイングの途中で入れ替えるのか。やるのは、どうせ見せるときだけだ。一回くらいならばれないだろう。
「じゃ、あんまり気にしなくても――」
「いいんじゃないかと思うんです」
俺たちは、そのことを実に暢気にとらえていて、たいして重要視しなかった。
、、、、、、、、、
北谷マテリアルの研究室では、件の高屈折率液体の正体を突き止めるために、難波のチームが日夜実験を続けていた。
細面で眼鏡をかけた男が、チームリーダーの難波に声をかけた。
「難波さん、ちょっとよろしいですか?」
「あ、八瀬川さん」
八瀬川元《はじめ》は、真超《まごえ》ダンジョンから出向している研究者だ。
「どうしました?」
「いえ、先週から、どうも実験の内容が偏っているような気がするのですが、なにか発見でもあったのですか?」
難波は内心苦笑した。
先週までは、袋に入っていたアイテムの物性を調べるような実験が続いていたのだが、先週の水曜日からとつぜんモノアイの水晶を液化させる条件を探しているのだ。
もちろん、先週保坂が芳村に貰ったメールがこのテストの発端だ。
「たまたま弊社からアドバイスを求めた研究者から、ヒントを貰いまして」
「アドバイス?」
「あ、いえ。守秘義務に抵触するようなことは話していませんから」
第一、三好にメールを送ったのは榎木だ。
「……そうですか」
八瀬川は、ただそう言って去って行ったが、振り返った顔の口角が上がっていた。
やはり、ここにいた三好梓は、件の鑑定持ちと同一人物らしいと、そう確信した瞬間だった。
そうして、八瀬川は、三浦部長にそのことを報告した。
、、、、、、、、、
「御殿通工って……」
美晴は日本ダンジョン協会からタクシーに乗って、Dパワーズの事務所へと向かいながら、御殿通工について調べていた。
「なにこれ?」
その株は、月曜日からずっとストップ高を続けていた。
たしかに凄い値動きだが、これに三好さんたちが噛んでいるとはとても思えなかった。
「あの二人が株みたいに面倒なことをやるかなぁ……」
仮にやったとしても、誰かに丸投げするはずだと、美晴は考えていた。
実に正確な分析だ。
「ええと、さりげなく訊く必要があるのは、アメリカの件と御殿通工の件ね……うーん。さりげなく? 無理じゃないかな?」
さりげなく訊こうにも、どちらもそこへ持って行くまでの、話の接ぎ穂がないのだ。
「ま、そのまま訊けばいいか」
それは、ストレート女、鳴瀬美晴の面目躍如というやつだった。
、、、、、、、、、
「というわけで、教えてください!」
「なんですか、鳴瀬さん。藪から棒に」
「いえ、斎賀にさりげなく訊いて来いって言われたんですけど、ちょっと無理目だったので」
「無理目?」
「Dパワーズさんって、御殿通工さんの株となにか関係があるんですか?」
「御殿通工?」
大手の電機メーカーだが、俺とは何の関係もない。
「三好ー。御殿通工って心当たりあるか?」
「ありをりはべり、いまそかりってなもんですよ」
「なんだそりゃ」
三好は台所から出てくると、いたずらがばれたときの子供のような顔で言った。
「鳴瀬さんの聞きたいことも分かりますけど、今高騰してるのは、私が買ってるからじゃありませんよ」
「え、お前株なんか買ってたの?」
「まあ、ちょっと前に」
そういって、ダイニングの椅子に座ると、説明を始めた。
「先輩覚えてません? D132って」
「ああ、あの中島さんと悪だくみしてた」
「D132が、御殿通工の製品でなんです」
「じゃあ、『センサーの知的財産権を老舗でちょっと落ち目の大手1社だけが保有していて、まだその期間が長く残っている』ってのが――」
「御殿通工ですね」
もしも、三好の企みを知らず、デバイスだけを見たやつがいたとしたら、そうして、そこに使われているセンサーが、株価が低迷している大手企業のもので、それに使われている特許もその会社が保有していることを知ったとしたら――
なにしろ世界中に、ものすごい個数の需要がある製品の主要部品なのだ。それが発表されたとたんに、株価は急騰するに違いない。
「それを見越して、買っているやつがいるってことか」
三好は小さく頷くと、言葉を継いだ。
「言ったじゃないですか。なんだかこの件は変だって」
「急いでデバイスを作らせてばらまくこと自体が目的みたいってやつか?」
「そうです、そうです。相手がどこの国の手先だかは分かりませんけど、やり方が強引だから、きっと反社なんかも噛んでますよ」
ええ? そんな大きな話なのか、これ。
「それに、いくらむき出しの基板が確認できて、デバイスをコピーして販売しようと思っても、現品なしでは、開始するまでに相当手間がかかると思いますよ」
「なにしろ、あの基盤は無駄だらけで、解析が難しく作られていますから」と三好が笑った。
「部品だけからじゃ、特許が取れるほど内容をつかむことが難しい?」
「仮に組み立てることができたとしても、見た目から想像できる内容で出願したら、私たちが犯人ですと名乗りを上げているようなものじゃないですか」
こいつ、まさか――
「だけど、もしどこかの誰かが、この情報が、未だに公開されていないことに気が付いたとしたら?」
緊急事態で、急ぎ製品を露出させたため、特許出願や情報公開の準備ができていなかったと考えるかもしれない。
そしてもしもその情報が公開されたら、低迷している御殿通工の株価は――
「だからまずは金融から来ると思いましたけど、相手は株式発行数がべらぼうに多い御殿通工ですよ? こんなに露骨だとは……アホですかね?」
三好がチャートを見ながら、タブレットの表面をコンコンと叩いた。
――そこに時間差を作って、欲が金融に向かうように誘導したのか!
「お前、もしかして……」
三好はぺろりと舌を出すと、「勝手に800億くらい使っちゃいましたけど」と軽く言った。
どうやらこの動きが出る以前から、予想される株価よりも高めの金額で流動性のある部分を吸い上げていたようだった。
株価の先行きが暗かった銘柄だけに、面白いように売りが集まったと言って、笑っていた。
「適当なところで、全部今の買い手に押し付けて、特許を公開しようと思っています」
おいおい……
「そうして、そこに書かれたリファレンスの設計には、D132よりもずっと安価で高性能にできるSCD28が使われているんですけどね」
この情報のインパクトに気が付くのは、現在の探索者判定デバイスにD132が使われていることを知っていて、それを利用しようとしていた者たちだけだ。
その時、彼らは、自分たちがはめられていたことに気が付くのだ。
「卑怯なことをする人達からは、たっぷりシェケルを毟ってやりますよー」
両手のこぶしを握り締めて、ぐっとガッツポーズをとる三好に呆れながら、俺は、「はいはい。うまくいくといいね」と言うしかなかった。
「しかしこれって、普通の投資家にも悲惨な目に合うやつがいるんじゃないか?」
「今のところストップ高が続いていますし、最初の買い手の注文が早いでしょうから、それほどいないと思いますけど――」
「けど?」
「大した根拠もなく仕手戦っぽいものに乗っかってくるような人は、痛い目を見ても仕方がないと思いますよ」
何しろ下がる理由はあっても、上がる理由がない銘柄なのだ。
「ノーポジで、眺めて楽しむ株でしょ、これ」
「あの〜」
鳴瀬さんが恐る恐る声をかけてきた。
「それって、つまり――」
「御殿通工の株を買ってるのは私たちじゃないってことですかね」
三好はいたずらっぽく目を光らせて言った。
「鳴瀬さんも口外しないようにお願いしますよ。あと数日だと思いますし。それに、情報を流出させたのは、きっと日本ダンジョン協会さんですよね」
「うっ……でも、今の話じゃ、最初からそうなるって」
「それとこれとは関係ありません」
「ううっ……確かにそうですけど」
「それで、訊きたいことはそれだけですか?」
俺は、さりげなく、助け舟を出した。なにしろ留出は鳴瀬さんの責任とは言えないのだ。
三好は、先輩は美人に甘いですからねアイズで、目からビームを出しそうだったが、スルーだ、スルー。
鳴瀬さんは、そうだという顔で、頭を上げると、
「アメリカの荷物を運ぶのにどんな報酬を貰ったのか、知りたいそうです」
「いや、それって……取引上の秘密にあたりませんか」
俺は苦笑いしながらそう言った。
もっとも、考えてみれば、アメリカとは、NDAのNの字も結んでいない。サイモンとの口約束だけだし、口外無用とは言われなかった。
「え、じゃあアメリカとの取引って、本当にあったんですか?!」
「ええ?」
「いえ、横田で変なものが組み立てられているところから、推測したらしくって」
変なものって……そんなに目立つほどでかいものを用意してるのか、アメリカさんは。
俺は三好と顔を見合わせた。
「それで以前うちからもDパワーズさんに運搬を打診したとき、まずはリストをとのことでしたのでそれを作成していたのですが――」
「報酬をどうしようか迷ったから、先例があるなら聞きたいと?」
鳴瀬さんは小さく頷いた。
しかしこの報酬は、何の情報にもならないと思うけどなぁ……
その時、門の呼び鈴が押された。ドアとは違って、外についているやつだ。
うちに来る連中は、大抵徒歩でホイホイやってくるので、呼び鈴を押すときはドアのものなのだが……
不思議そうな顔で三好が外を確認した。
「先輩。なんかすごい偉そうな車が来たんですけど」
「偉そうな車?」
ちらりと窓から外を見た成瀬さんが、驚いたように声を上げた。
「ま、丸外ナンバー?!」
「なんですそれ?」
「ハガティさん用のナンバーですよ」
唖然としている鳴瀬さんの代わりに、三好が説明してくれた。
「ハガティって?」
「アメリカの駐日大使」
「はぁ?!」
俺はもう一度門の向こうに停まっている車を見た。
「だけどさ、それって区別できると襲われやすくなってまずいんじゃないの?」
「そう言われれば、なんで区別してるんですかね?」
大統領が来日したときにのる車は、同じものが2台用意されて、ナンバーも同じナンバーが使われるらしい。
ならもういっそのこと区別できないように全部同じ外交団ナンバーにすればいいのに、不思議だ。
「何を暢気なことを言ってるんですか! 早く応対しないと!」
鳴瀬さんの焦った声に、三好が門を開けるスイッチを押すと、正門部分が静かに大きく開いて行った。
「だけどなんで、大使の車が?」
「うーん……一種の示威行為ですかね?」
三好が裏のマンションを指さしながらそう言った。
もしもそこに本当に各国の情報機関が入居していて、うちを監視しているとしたら、アメリカ大使の車が訪問したという事実は、蜂の巣をつついたような騒ぎを引き起こすに違いない。
「示威行為ねぇ……」
ご苦労なことだと思いながら、ふと、俺たちは普通の部屋着だってことに気が付いた。
「こんな格好でお迎えしてもいいのかね?」
「じゃ、脱ぎます?」
つまり今すぐ着られる適当な服はないよねってことだな。
今度、多少なりともまともな服装を、ファントムよろしく保管庫に突っ込んでおこうかな……
「裸の方が失礼にあたりそうだな」
「ですよね」
結論から言えば、彼らは、先日サイモンと約束したブツを持ってきた、言ってみれば運送屋さんだった。
今朝横田へ、パトリオットで到着したものだそうだ。
大仰な挨拶をして、荷物を運びこんだ後、あらかじめ用意されていた契約書にサインを求められた後、実にフレンドリーに握手をして帰って行った。その間わずか数分だ。
「分単位のスケージュールで動いている人たちが、運送屋さんって、ちょっと凄いな」
「先輩、せめて使節団って言いましょうよ」
三好が笑いながら言った。
「でもすごいシンプルな契約書でしたね」
「お前、以前面倒な契約書はサインしねえとごねてなかったか?」
「それは先輩でしょ。しかし訴訟社会のアメリカとは思えません」
「裏に見えないくらい小さな文字でびっしりと書かれてるんじゃね?」
「もしかしたら、あぶり出しかも……」
「何を馬鹿なことを言ってるんですか。で、それは?」
床に積まれた数箱の木箱を指さしながら、鳴瀬さんが尋ねた。
「ああ、まあ、報酬と言いますか、なんといいますか……」
「報酬?」
「先ほど鳴瀬さんが知りたがっていたやつですよ」
「え、じゃあ、木箱の中は金の延べ棒か何かってことですか?!」
金の延べ棒ねぇ……
「黄金と言われればそうかもしれませんけど……なにしろ半分はコート・ドールの品ですし」
コート・ドールは「黄金の丘」だ。ブルゴーニュ地方の高品質ワインを作り出す土地で、件のモンラッシェはここの南側にあたる、コート・ド・ボーヌにある畑なのだ。
「え、じゃあ、まさか……」
「見てもいいですよ。どうせ、セラーにしまいますから」
そう言って、三好は木箱の中身を、文字通りよだれを垂らしそうになりながら片付け始めた。
当たり前だが、山吹色のボトルは入っていなかった。あれは、日本のネタだもんな。
165 金枝篇 収穫の規制 2月17日 (日曜日)
筑波山の斜面温暖帯には、多くの取材陣の車で溢れていた。
季節外れの豊作のあとは、瞬時に実をつける不思議なみかんがSNSに投稿され、再び取材が殺到していたのだ。
それらの車や人を、クラクションで追い散らしながら、ダンジョン庁職員、名塚《なつか》義弘《よしひろ》は小さく舌打ちしていた。
人を避けさせるたびに、あちこちで怒号が上がる。
「この国のマスコミはこんなもんだよ」
助手席に座って資料を見ながら、農水省から出張って来た、やや恰幅の良い男が言った。
名塚は、仏さんみたいな顔をして、なかなか辛辣なことを言う人だ、と、出発前に交換した名刺を思い出していた。
確か、折衝とマスコミ対策のエキスパートみたいな紹介をされたっけ、名前は――そうだ、三橋さんだ。
「しかし、大騒ぎですね。こんなところへ乗り込んで規制をかけたりしたら、一躍、大悪人にされませんか?」
「そうは言っても、仕事だからね」
三橋はクールにそう言うと、さらに資料を展開していた。
「しかし、法的根拠が難しい案件だな」
出てくる前に、ダンジョン庁の旗振りで各省庁間の話し合いがもたれていた。
ダンジョン産の食品に関する法整備は、食品衛生法上に、ダンジョン産食品としての項目が拡張されていて、世界ダンジョン協会(世界ダンジョン協会)のDFA(食品管理局)勧告に準拠するようになっていたが、今回の対象は、これまで通りの定義では、ダンジョン産の食品とは言えなかったため、この枠の適用が行えなかった。
それでも、最も有力だったのは、東電福島第一原発の事故に起因する食品の出荷制限と同じフレームで処理しようという案だった。お役所と言うのは前例主義なのだ。
当時、国内で生産された食品中の放射性物質に関する食品衛生法上の規制は存在しなかったが、厚生労働省は原子力安全委員会が示していた放射性物質の飲食物摂取制限に関する指標値を食品衛生法上の暫定規制値として設定することで、法的根拠とした。
今回もこれを使ってなんとかならないかと考えたのだ。
当時の原子力災害対策本部の役割をダンジョン庁に受け持たせ、法的根拠等の支援を厚生労働省が、検査や実務支援を農林水産省が行い、関係都道府県等への指示をダンジョン庁が行うことで、実務を行わせるという仕組みだ。
とは言え、時間がなさ過ぎて茨城県側が対応不可能だったため、今回は、ダンジョン庁と農林水産省に面倒が押し付けられることになった。
もしもこの問題が拡大するなら、いずれはもっとしっかりとした法整備が行われるだろう。
しかし、食品衛生法は、『飲食によって生ずる危害の発生を防止するための法律』だ。
つまり、規制対象は『営業』や『販売』なのだ。そして、今回の規制対象は『収穫』だ。
果たして、自分の畑の生産物――消費するためでも、出荷するためでもないそれ――の、収穫そのものを規制できるものだろうか?
三橋は、大きなため息をひとつつくと、資料を閉じて、親指と人さし指で鼻根を挟んで、睛明《せいめい》を揉み解した。
「どうしました?」
「いや、どう考えて『収穫』を規制するのは無理なんじゃないかと思ってね」
「その件は散々話し合ったんじゃないんですか?」
事態を重く見たダンジョン庁は、週末をものともせずに各省庁に働きかけ、緊急の対策をひねり出した。
結局、商品作物である以上『販売』を規制すれば、『収穫』のコストをかける意味はない。だから一般的に言って『販売』の規制は『収穫』の規制と、ほぼ同義だと言っていいだろう。
会議はそう結論付け、日曜の午後にもかかわらず彼らを休日出勤で送り出したのだ。しかし――
「あたりの様子を見てみろよ」
目的の家に近づくほどに、混雑は増していた。マスコミ関係者以外にも、相当数の野次馬がいるようだった。
「収穫しつくせば、すぐに花が咲き、再度実が生る? その画《え》を撮るためだけにこいつらは群がってるんだぞ。こいつらにとって、収穫は作物を得るのが目的じゃないんだ」
許可が得られなければ、こっそりと木を丸裸にしても画を撮っていくような、そういう連中は冗談じゃなくいるのだ。しかも悪いことをしているなどとは、毛ほども感じていないのだ。
彼は長い対応経験から、そのことをよく知っていた。
つまりはオーナーに、販売の禁止ではなく収穫の禁止を理解させなければならないのだ。
そうでなければ、ちょっと再現してみてくださいよと言うマスコミのお願いに、ほいほいと許可を出す可能性が高い。
タフな交渉になりそうだ。彼はそう考えていた。
「雅尊《みやびそん》みかん園――ここだな」
「すげぇ名前ですね」
「ご主人の名前が、三谷《みたに》さんと言うんだ」
「はぁ」
それに何の関係があるのかと、名塚は思ったが、かろうじて相槌だけは打っておいた。
しかし、その後、その主人と面会して名刺を交換したとき、三橋の言いたいことが分かって、なるほどと思うと同時に少しおかしかった。
名刺には、『三谷《みたに》 美尊《よしたか》』とあったのだ。
最初の話は、三橋が受け持ってくれた。一応本日は農水省からの収穫自粛要請が主体だからだ。
「つまり、あんたらは、いきなり押しかけて来て、収穫するなって言うのか?」
「あくまでもお願いですが、そういうことになりますでしょうか」
「お願いってね、あんた。したっけ、お国が補償でもしてくれるのか?」
「補償と言われましても、対象がありませんけれども」
「うちの畑のみかんだよ。出すところに出せば、それなりの金になるものを収穫するなとおっしゃるんだろ?」
「そうですが、つくばのみかんシーズンは終わっていますし、御社はみかん狩りの会社で、それを収穫して売ることが主体事業ではありませんし」
「ほった、やっちゃごっちゃやーれてもしんにぇ!」
三谷は興奮すると、茨城弁が強く出るようで、そうなると、名塚には何を言っているのか分からなかった。
「あのー」
話し合いがエキサイトしてきたのを遮るように、それまで黙って聞いていた名塚が、横から恐る恐る声をかけた。
「あんたは?」
「先ほどお名刺を差し上げました、ダンジョン庁の職員です」
「ダンジョン庁? うちのみかんとなんの関係があるんだ? ちょっと、黙っててくれないか」
「それがそうもいかないのです。もしも、このまま収穫を続けられますと、三谷さんには窃盗の容疑がかかるかもしれません」
「窃盗?」
三谷は、予想もしなかった単語に、ポカンとしてその言葉を繰り返した。
「先日から問題になっている、つくばの研究所での魔結晶の消失が、あなたが収穫するみかんと関連がある可能性があるのです」
そう切り出した名塚は、推測も含めた今回の現象の説明をできるだけ分かりやすく行った。
「そりゃつまり、なにか? うちのみかんが、そのま――」
「魔結晶です」
「――そいつの消失と関係があるってことか?」
「農家の方に分かりやすく例えるなら、魔結晶が実を生らすための肥料になっているということでしょうか」
「いやっどーも」
三谷は、今聞いた話を咀嚼するように、テーブルの上にある煙草の箱に手をかけるた。
「吸っても?」
「遠慮してください」
「はっ?」
思わずいつもの調子で返事をしてしまった名塚は、我に返ると、ごまかすように笑って言った。
「あ、いえ、どうぞ」
――ダンジョン庁には、能力はあっても扱いにくい人材がそろっている――
まことしやかに霞が関で流れる噂には、一定の真実が含まれていた。
設立の経緯上、各省庁から出向した人員でスタートしたダンジョン庁は、出向先で省庁間の利権の壮絶な奪い合いをしなければならないかったため、能力の非常に高い人間が集められていた。
しかし能力の高い人間を各省庁が簡単に手放すはずがない。そして、安定した集団は、使いにくい天才よりも、従順な秀才を重用するのは世の常だ。
結果、ダンジョン庁は、各省庁で持て余していた、能力だけは、ずば抜けた人員の集団となっていた。
もしも三橋と一緒でなかったら、ごまかすどころか、「拒否されることを想定していないなら、尋ねるのは無駄じゃありませんか?」くらいは言っていたはずだ。
しかしこれは、基本的に農水省案件で、それを調整する立場の組織にいる自分の発言でぶち壊しにするわけにはいかないことくらいは、彼にも分かっていた。
三谷は、紺色に金色の枝をくわえた鳩がデザインされた箱を手に取ると、慣れた手つきで煙草を一本取り出して口にくわえた。
そうして、それにライターで火を付けて、深く煙を吸い込んでから、一気に吐き出した。
「つまり、その肥料を、どこかの研究所から勝手に使ってると言うことか?」
「かなり高い確率で、そうです」
もちろんここで、証拠がないじゃないかと突っぱねることも出来るだろう。
しかしこの話を聞いた後で行った行為は、未必の故意にあたる可能性があった。そうすれば過失ではなく故意とみなされる。
三谷はもう一度、煙草を吸い込み、それを吐き出してから言った。
「わがった」
それを聞いた、三橋はほっとしたように、いくつかの書類を取り出した。
「すでに収穫されているみかんは、販売できませんが、今回に限り、ダンジョン庁が引き取らせていただきます」
三谷は、それらの書類の説明を受けながら書名捺印していったが、とある書類のところで手を止めた。
「こりゃあ、無理だっぺ」
それは契約内容の守秘義務に関する契約だった。
「無理?」
「テレビの連中が、実が生るところを撮らせてほしいと散々言ってくるが、それを断る理由を説明できないってことだ?」
「……まあ、そうなりますね」
「そしだら、金の亡者みたいに言われるのもいじやけるが……収穫が禁止されたからだと伝えてもえが?」
三橋は名塚と目を見合わせると、仕方がないと頷いた。
「分かりました。そこは、ダンジョン庁の要請で――」
「いや、農水省の要請ってことにしましょう」
そう言って名塚が割り込んだ。
「名塚君?」
「この時点でダンジョンが関わっているような情報は、いかにもまずい」
名塚の言い草に三橋は眉をひそめて言った。
「それで、農水省に取材が来たら?」
「そこはノーコメント……というより、こんな怪しい現象で生まれる作物を調査もなしに拡散するなんて許されないとかなんとか、けむに巻いてください」
収穫と販売をすり替える論理だけれど、省庁のコメント何てこんなものだ。
「あのー……」
三谷が答えを促した。
「その件につきましては、農水省の要請で禁止されたとだけお伝えください。三谷さんに責任はありません」
「わかりました」
三谷は安心したように、その書類に署名捺印した。
「そんで、魔結晶のことですが……」
「現時点までは、防ぎようのない事故ですから、国で処理しましょう」
「はぁ、それはどうも」
「ただし、以降のことは……」
暗にあなたの責任ですよと言われて、三谷は恐縮してペコペコと頭を下げた。
「も、もちろんです」
こうして、対象農園の収穫禁止は、なんとか形になって行った。
しかし、この時彼らは失念していたのだ。みかんの取引が、実は果実だけではないことを。
166 金枝篇 2月18日 (月曜日)
そのころ雪山層を抜けて、二十一層へと降り立った六人組のパーティがいた。
「はぁ、やっと二十一層だぜ」
「俺たちじゃ、この辺でいっぱいいっぱいだな」
「ついこの間までは、最深部だったからなぁ」
「シングル連中が大挙して押し寄せやがって、俺たちカゲロウもすっかり影が薄くなっちまって」
「カゲロウだけにな」
そう言った、コクブンと呼ばれている背の低い男が、誰がうまいこと言えと……と、仲間たちに小突き回されていた。
「渋チーの連中は、テレビでヒーローみたいに取り上げられるし、俺たちもなにかテコ入れが欲しいね」
「林田はともかく、喜屋武《キャン》がオリンピックとか世も末だ」
「景浦さんも行けるんじゃないの?」
景浦はカゲロウのリーダーだ。
カゲロウは、三年前、大学の同級生だった景浦と浪川が作ったチームで、元はダンジョン研究会というインターカレッジ・サークルだった。
今では、渋チーと並んで代々木では有名なチームだが、渋チーほど、個々のメンバーが有名なわけではない。それは彼らが、その出自から、一種のクランを形成しているのが原因だった。
渋チーは、単なる1パーティだが、カゲロウは、独自にランク分けされた個人の集まりで、それが適宜パーティを組んで代々木を攻略しているのだ。
ややエクスペディション寄りの攻略姿勢であるため、『カゲロウ』と呼ばれるよりも『カゲロウの連中』などと呼ばれることの方が多かった。
もっともその分、渋チーよりもカゲロウの方が安定感があると言われていて、企業からの依頼なども多かった。
「よせよ。インカレでまじめに練習しているやつらを見てるからなぁ……そいつらの頭越しにでしゃばるってのはちょっとな」
「でたよ、リーダーの『いいひと』が」
コクブンがそう言った途端、左の方から風を切る音が聞こえて来た。
「伏せろ!」
景浦の檄で、全員が身を伏せる。その上を、一メートル近い何かが風を切りながら通り過ぎて行った。
「ウィッチニードルか?! しかも、デカいぞ!」
通常、ウィッチニードルは50センチくらいだ。一メートル級は珍しい。
「トンボに好かれてるんだろ、カゲロウだけに」
蜻蛉《とんぼ》と書いて、蜻蛉《かげろう》とも読むのだ。
「コクブンがなんか言ってやがるぞ」
「かくありし時すぎて、世中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで世にふるチームありけり」
「いや、頼りないってことはないだろ」
「少しくらいは、あるよな」
こいつら結構余裕あるように見えるよな、と、景浦は、頼もしいんだかなんだかよく分からない、いつものメンバーを背中に感じながらそう思った。
もっとも、ピンチになればなるほど、くだらない話で場を乗り切ろうとするのは、カゲロウのカラーでもあった。
内心、全員緊張しているのだ。
景浦は、旋回してきたウィッチニードルに、透明なバリスティックシールドを構えた。
通常バリスティックシールドは、軽量なアラミド繊維等を使ったものが多いが、景浦は視野や重さも含めて透明なものが好みだった。
「ゴッ!」
凄い勢いで飛んできた巨大なトンボに、盾を叩きつけると、その勢いでたたらを踏んだ。
「くそっ! あらかじめ構えててもこれかよ!」
それでも、勢いを殺したウィッチニードルを囲んで、仲間たちが次々と獲物を振り下ろして始末した。
「かー、ホント、二十一層はきついな」
「なにか新しい武器が欲しいところだよな」
「あと、あのポーターも使ってみたいし」
ついさっき、十八層のショールームで見たポーターも役に立ちそうだった。
「まあ、そういうものを手に入れるためにも、今回の依頼は成功させなきゃならないわけだ」
「そりゃそうか。なにしろ枝一本が2千ドル、木なら500万ドルだっけ? なんとも豪気なことだね」
「だがなぁ、木なんて持ち出せるのかよ? ポーターでもあればともかくさ」
「いや、それより持ち出しても問題にならないのか? ライセンス取り消しは勘弁だぜ」
「俺たちが入ダンした時点で、日本ダンジョン協会の規制はかかっていなかった。もっとも、今後はわからないけどな。いずれにしろ、規制前に潜っておけば、規制の適用は次の入ダンからってルールがあるから、少なくとも今回は大丈夫のはずだ」
「もしも規制されたら、初回こっきりの仕事ってことか。しかし、何に使うのか分からないが、二度と持ち出せないなら、もっと高額で引き取るやつらもいるんじゃね?」
「……まだ死にたくないだろ?」
なにしろサークルの延長にある組織なのだ、緊急の場合は、特に取引相手のことを調べてから引き受けたりしない。
なんどかヤバそうなやつらの仕事も引き受けたことがあるが、今回の依頼主の胡散臭いニヤケ顔ほど、ヤバい匂いがするやつはいなかった。
とはいえ、本来カゲロウは、こういった怪しげな依頼は引き受けない。
なにしろ、東アジアや東南アジアの裏組織には、金の前には他人なんか、ただの『モノ』だと言わんばかりの連中が大勢いるそうだ。お近づきになりたくはない。
ただし、今回は早急に新しい装備が必要で、金が必要だったのだ。
セーフエリアが発見された以上、区画オークションが終わったら、そこまでの護衛依頼が殺到することは確実だ。
だが、現時点でのカゲロウでは、ここから十層先へ行くのは難しいと言わざるを得なかった。
「だ、だけどよ、数は指定されていないぜ? 最低1つ渡しておけば、ルールには違反してないだろ?」
「おいおいお前ら、まだ捕まえてもいない狸の話はそれくらいしておけよ」
そう言って景浦は、あらかじめ印刷しておいた二十一層の地図を広げた。
「問題は、その木とやらが、どこにあるのか分からんってことだな」
二十一層は、さっきのウィッチニードルも厄介だが、いきなり襲ってくるウォーターリーパーも脅威だし、ラブドフィスパイソンに絡まれたら、それこそ総力戦になる。
つまり、歩き回る範囲は最小にしたかったのだ。
「ルート上にはないと思うぜ。いくら人通りが少ないったって、自衛隊にだって下っ端の連中はいるはずだ。まったく漏れてこないってのはどうもな」
「ウエキヤはどう思う?」
ひょろりとした若者は、園芸という渋い趣味の持ち主で、仲間内ではウエキヤと呼ばれていた。
今回のターゲットが植物ってことで、専門家の彼がメンバーに選ばれたのだ。
「普通は日当たりのよい温暖な斜面が候補としてはいいんだろうけど……」
「まあ、こんな等高線もろくにない地形図じゃわかんねーか」
「まあね」
景浦は、ため息を一つつくと、仕方ないとばかりに地図をたたんだ。
「じゃあ、探索が終わっている領域で、見た目丘陵部に続くような方向へ向かうってことで」
「異議ナーシ」
、、、、、、、、、
「ミスター・アーガイル。日本から特別便でお荷物が届いています」
「日本?!」
それまで、死にそうな顔で書類と格闘していたネイサンは、がばっと顔を上げると、目を輝かせてその箱を受け取った。
「なんだこれ?」
箱を空けると、そこには緩衝材に包まれたいくつかのオレンジ色の果実が入っていた。
「サツマですね」
「サツマ?」
「マンダリンの一種で、日本では、温州みかんと呼ばれているようです」
「温州みかん? なんでそんなものが特別便で?」
温州ミカンは海外でも栽培されていたり輸出されていたりするが、最初は鹿児島から西洋にもたらされたらしく、『サツマ』と呼ばれている。
アメリカやイギリスで、マンダリン・サツマと言えば、温州みかんのことなのだ。
添付されている書類に目を通した、シルキーは、思わず「WOW!」とくちにした。
「ミス・サブウェイ?」
「あ、すみません。……それって、ダンジョン外で実体化した果物だそうです」
「実体化?」
「経緯がこちらに」
ネイサンは、シルキーが差し出した書類をひったくるようにして受け取ると、読み進むにつれて興奮するように顔を書類に近づていった。
「こ、これ、なにかの冗談か?」
「動画も添付されているようですが」
「み、見る。すぐ」
興奮して、失語症になったかのような彼の発言に、苦笑しながらシルキーは添付されていてメモリカードをタブレットにセットして、再生を始めた。
それは日本のニュースのクリップだった。
シルキーはそれを博士に見せながら、同時通訳を行った。
「こいつは興味深いな。花が咲き実が生るのか……リポップとは大分違うな」
「まるで映像を早送りしているようですね」
映像を見終わるころには、プロの顔に戻った博士が、シルキーに指示を出した。
「一応標準の検査には回しておいてくれ」
「わかりました」
「だが、これは日本ダンジョン協会からだろう?」
「そうですが?」
「なら、アズサからの鑑定書が付いていただろう」
シルクリーは、ふうとため息をつくと、仕方ないですねと言った顔で、別の書類を差し出した。
「まったく。もっと早く渡してくれ給えよ」
「それがあると、博士が仕事をしませんから」
そこには三好の鑑定結果が書かれていて、最後の行に『食用』とあった。
「よし、安全だ!」
「ミスター・アーガイル!」
「じょ、冗談だ。一般的な検査はラボでやらせるとして、私は現地を視察――」
「ミスター・アーガイル。溜まっている仕事も引継ぎも、何一つ終わっておりません」
「ぐっ。こ、こういうのってアシスタントが――」
「作業できるところはすでに終わらせてあります。ミスター・アーガイルの処理が必要なものだけが、あそこに」
シルキーが指さすデスクの先には、このIT時代に前時代的な様子で、それなりに大量の書類が積み上げられていた。
「えーっと、研究員の誰かに――」
彼はこの研究室で最も偉い立場だ。他の研究員に処理を回しても許される程度には。
しかし、彼のアシスタントはそれを歯牙にもかけなかった。
「みなさん、ご自分の作業で手一杯です」
「DFAって、まだ本格稼働してないはずだが――」
「なのに、突然検証が増えたから人手不足なんでしょう? 各機関へ出向されている方もいきなりは呼び戻せませんし」
「よ、代々木分室の設立が――」
「まだ、準備段階です。一応向こうの国際協力課を通して、ミハルの協力を得られるように連絡してあります」
「でかした! 流石は、ミス・シルクリー! よし、すぐ日本に――」
「ミスター・アーガイル」
博士は怒られた子供のように、しぶしぶとデスクに戻ると、猛然と仕事を再開した。
新規の検査プランをチェックし、赤を入れ、そうして承認する。そのずば抜けた能力は、他の追従を許さなかった。だからこそ彼はここの主なのである。
「FAO(国際連合食糧農業機関)との連携もあるしー、行こうよー、日本にー」
「お仕事が終わりましたらね」
どうやら、能力は、人格や性格とあまり関係ないようだった。
しかしながら、ここは世界中のダンジョンから、日々鑑定やテストを行うための素材が送られてくる場所だ。
果たして仕事は終わるのか。シルキーは、次席研究員のアシスタントと仕事の割り振りについて協議するために部屋を出て行った。
、、、、、、、、、
その日、みかん騒動のニュースを見ながら、デバイス納品終盤の調整をしていた時、俺の携帯が鳴った。
ちょうどこの時間は、キャンプ真っ最中のはずのキャシーからだった。
『なんだよ、キャシー。珍しいな。何かあったのか?』
『いえ、キャンプは順調で、何の問題もありません。受講者の心が折れそうなのはいつものことですし』
『ひどっ』
『実は、ネットフリックスの委託を受けたスタッフがいらっしゃってまして』
『ネットフリックス?』
『はい、なんでも取材をしたいんだそうですが、そちらに連絡がつかないので直接来たんだとか。それで一度こちらへ来ていただければ』
『取材ってなんの取材だ?』
『"D: The Beginnig"だそうです』
ディー:ザ・ビギニングは、ダンジョンができた原題を舞台にしたアニメで、主人公たちのモデルはサイモンのチームだと言われている。
制作は日本の会社らしいから、そこから来たんだろう。
『なんでも、強敵が現れて、日本で秘密の訓練を受けて一段階強くなるという設定で、修行シーンのために取材したいということらしいです』
キャシーは意外とオタクだから、結構乗り気になっているようだ。
考えてみれば、主人公たちを導く教官の役だもんな。だけどなぁ……
「止めといたほうがいいよな」
「止めといたほうがいいですよね」
俺と三好は、顔を見合わせあって、そう言った。
まさか、穴冥で気が狂っている様子だの、針に糸を通す修行だのをヒーローにやらせるわけにはいかないだろう。ベスト・キッドよりもずっと酷い絵面になることは間違いない。
キャシーには悪いが、リアルに取材させたりしたら、キャシー教官とゆかいな仲間たちになってしまう。
『やめとこうぜ』
『ええー?』
『だってさ、キャシー。協力したいのはやまやまだが、あの修行現場を見せられるか? シリアスなシーンだよな?』
『うっ、そう言われれば……』
『ま、キャシー教官がモデルになりそこなうのは、ちょっと残念だけどな』
『しょ、しょうゆうわけでは』
『噛んでるぞ。まあ、カリキュラムは企業秘密だから見せられないとか言っとけ。外から取材するのは、邪魔しなければOKってことで』
『うー、わかりました』
『そうだ、せっかくだから、向こうの角のキャンプでも紹介してやったら? もうやってるんだろ?』
『え? 敵に塩を送るんですか?』
『いや、敵ってなぁ……別に何もされてないし、うちの事業にも全然影響ないだろ』
『まあ、今のところは』
『ただ、うちとはまったくの無関係だって強調しとけよ』
『了解しました』
「でも、ちょっと見てみたい気もしますよね」
「針の穴に糸を通しているヒーローたちを?」
「そうそう」
「昔のミクロ決死隊くらいぶっ飛んでれば許されそうな気もするけど、現代のスタイリッシュな映像であれは無理だろう」
「なんですそれ?」
その後、YouTubeで、ミクロ決死隊を見つけた三好は、謎のインド人が手をかざして、ねんりきーと叫ぶシーンで腹を抱えて転がっていた。
、、、、、、、、、
その日、6営業日連続ストップ高を記録した御殿通工は、3430円で引けた。
167 金枝篇 2月19日 (火曜日)
「おい、あれじゃないか?」
結局昨日のうちに見つけることは出来ず、十八層まで引き返して夜を明かしたカゲロウの面々は、翌日の昼過ぎになって、やっとカーブを描く道らしきものの向こうに、オレンジ色の果実をつけた木を見つけた。
「って、ありゃ、なんだ?」
カーブを曲がり切って、視界が開けたところで、森の向こうの丘の上に、天文台みたいな建物が立っていた。
「ダンジョン内に建物? って、スライムはどうなってるんだ??」
ダンジョン内の建造物は、モンスター、特にスライムによって破壊されることは周知の事実だ。
コクブンが目をごしごしとこすってみたが、それで建物が消えるようなことはなかった。
「自衛隊か何かの管理施設じゃないのか」
自衛隊なら、常駐することで施設を維持することも可能だろう。実際チームIの攻略中は、連絡員のチームが、各階層の出入り口に拠点を作ったりしていた。
「管理? って、このオレンジのか? それだと、オレンジの木の採取ってまずいんじゃね?」
それまであり得なかった食用植物の森だ。日本ダンジョン協会や国の管理下に置かれていてもおかしくはなかった。
その場合、入ダン時間が適用されるのか、管理下に置かれた時間が適用されるのか、はっきりとは分からなかったが、もしもあそこに人が常駐しているとしたら、管理下に置かれた時間が適用されるに違いなかった。
「こいつは予想外だ……が、まあ、ここまで来たんだ。文句を言われたら考えるってことで、予定通りものは採取するぞ」
景浦は、何か言われたら『知りませんでした』で逃げ切るつもりで、予定通りの行動を始めた。
ここまで来るのに使ったポーション代だけでも稼がなければ大赤字なのだ。
「了解。じゃ、辺りの安全を確保するから、ウエキヤは持って帰れそうな木を選んでくれ」
ウエキヤと呼ばれた男は、辺りを見回して途方に暮れた。
「そう言われても……」
基本的にここに生えているオレンジの木は大きかったのだ。
根回しされているならともかく、ここにある木は自然木だ。つまり根は自然に伸びているだろう。
大きな木は枝の量に合わせて、必要な根毛の量も多くなる。つまり、根の周辺を大きく切り取る必要があるのだ。
六人で運んで帰ることを考えれば、2メートルくらいまでの木が望ましいのだが……ざっと見まわした中に、そういう木はなかった。
「なるべく小さな木を探してほしいんだ。4メートル以上ありそうな木は持ち帰るのが難しい」
「そうか、階段の鳥回しもあるしな……よし、小さな木を探すぞ。草むらのパイソンと竜カエルには気をつけろ」
そうして、彼らは小さな木を探しながら、森へと分け入っていった。
ウエキヤの指示で、あまり日の当たりそうにない斜面の端を確認しに行くことにしたのだ。
「しかし、うまそうなオレンジだよな」
辺りを注意しながら、コクブンが、目の前のオレンジをひとつもぎ取った。
「やめとけ」
「へ?」
「まだ安全かどうかの情報が日本ダンジョン協会から出ていない」
「えー? 食えるっしょ、これ」
「六人しかいないんだ。腹が痛くて動けないような奴が出たら、仕事に支障をきたすだろ。せめて帰ってからにするんだな」
そう言われて、コクブンは仕方なさそうにオレンジを見つめ、「時計仕掛けだっての?」と呟いて、バックパックに突っ込んだ。
「なんだ、エイブンに鞍替えか?」
Clockwork Orange は、ロンドン東部の労働者階級のスラングで、まともに見えるが、実はおかしい奴のことを意味している。
それを聞いたコクブンは、「背筋《せすじ》の溝」とおどけて言って笑った。
「なんだそれ?」
「いくら国文でも、バーナード・ショーくらいは読むから」
「ショー?」
突っ込みどころ満載のドヤ顔に呆れた瞬間、先頭にいた斥候が声を上げて、右斜め前方を指さした。
「パイソン!」
2列目の前衛が、ボア用の捕獲棒を取り出した。
単体のラブドフィスパイソンは、巻き付かれたりかみつかれたりしなければ対処確立していて、比較的倒しやすい大型モンスターだ。
ボア用の捕獲棒で、頭を押さえてしまえば、いかに巨大な蛇と言えども、棒にくるくると巻き付いて逃げようとするため、相手から攻撃されることがないのだ。
後は寄ってたかって頭をつぶせばOKだ。
ただし戦闘中にほかのモンスターが混じる場合と、急襲された場合は、途端に危険度が跳ね上がるため、注意が必要だった。
「気の抜けない森だが、下草が短いのが幸いだな」
景浦は、乱入するモンスターを警戒しながら、そう呟いた。
、、、、、、、、、
その日の午後、俺たちは事務所でロザリオに額をつつかれながら、だらけていた。
丁度雨がぱらついていたし、つくば行以降、溜まっていた雑務に駆け回っていたが、それが一段落したところなのだ。
「オーバルな麦刈り機、早くできるといいですよね」
「進めとかないと、ネイサン博士が介入してきそうだもんなぁ」
「そういえば、鳴瀬さんが協力を要請されたらしいですけど」
「日本ダンジョン協会も大変だねぇ」
まるで他人事のように言って、グータラを満喫していた俺たちに、雨の日の午後の呼び鈴が災いの訪れを暗示するかのごとくに響いた。
「誰だ?」
「みどり先輩です」
「何かあったっけ?」
「なんでも納品が今日で終わりだから、NYイベントの打ち合わせと、榊さんのお友達に依頼していた件も兼ねて寄るって、朝連絡がありましたよ」
「榊さんのお友達?」
三好がドアを開けると、地味目の男性を連れたみどりさんが、外套を脱ぎつつ部屋に入ってきた。
「おお、梓。やっと終わったぞ例の納品、結局2400台納品したからな」
「おおー、すごい!」
「20%増しって、受け取る方は大丈夫なんですか?」
「契約は2000台以上で、出来るだけたくさんだから大丈夫のはずだ」
「国立だけで86校、国公立なら200校以上ありますからね。それでも1校あたり10台確保なら、ギリギリいけるか」
「ですね」
「その代わり、中島がミイラになってるけどな。4800万とか言いながら」
どうやら作りためていた機器のパッケージに、早朝からキャシーがダンジョン攻略局の待機組を大量に引き連れてやってきたらしい。
こりゃまたサイモンに何か要求されそうな事案だな。
「じゃあ、次はきっとあれが問題になるな」
「なんです?」
「Dカードの偽造」
他人のDカードを利用する方法は、Dカード偽造までのつなぎだ。
なにしろDカードの素材は、特に特殊な金属ではないことが判明している。その表示システムはいまだに謎だが。
当初謎だった画面上部に刻まれている14文字の文字列は、アメリカの解読班――つまり、モニカだ――が解読して、IDだということを発表していた。
例のランキングに使われている文字盤で想定はされていたが、それが証明された格好だ。
意味不明な文様の創作は難しいだろうが、今回は手元に本物がある状態で行われる偽造コピーだ。
見た目だけなら、意外と簡単に再現できそうな気がする。
そのカードを置いておけば、試験前程度のチェックなんかオールクリアだろう。
「……先輩って、ほんと発想が犯罪者っぽいですよね」
「せめて、名探偵と言ってくれよ」
とはいえ、名探偵の思考過程は、犯罪者と大差ない。そこには、実際に犯罪を犯すかどうかの違いしかないのだ。
「深淵を覗くなら、ってやつですか?」
「そんな大層な話じゃないだろ。そのうち誰でも思いつくだろうし、つてさえあれば他人のDカードを利用するよりも簡単だし。それにダンジョンのモンスターならともかく、ニーチェが言うような怪物と渡り合うつもりはないぞ」
「ウンゲホイエルンですからね!」
「ドイツ語って、厨二心をくすぐるよなぁ」
「ハンデルスカマー(商工会議所)とかラントヴィルト(農家)とか、ユーゲントヘルベルゲ(ユースホステル)とか、無駄にかっこいいです」
「ま、それはともかく、完璧を期すなら、偽のDカードを見分けることができる必要があるな」
なにしろあの不思議な表示が行われているのだ、そこには絶対Dファクターの活動があるはずで、中島さん製のリファレンス機でそれが判断できる可能性は高い。
「それもいいですけど、パーティを組んでいるかどうかが分かればいいんじゃないですか?」
確かにこの場合はそれで問題ない。というよりいちいちカードを調べなくていいなら、それに越したことはないわけだ。
「そりゃそうだな。しかもなんらかの変化はありそうだ」
「ですよね。先輩で値の変化だけ取り出しておいて、あとはNYのイベントで一般化しましょう」
すでに本物のDカード所有判定機のリファレンス機は中島さんが合間に作成しているそうだ。
なにしろ2台だけなので、ガワも3Dプリンタで生成したそうだ。
「むふふ。これはますますアドバンテージですね。ドイツ語なら、フォータイルです」
「むふふってな……お前の方が、よっぽど犯罪者っぽいぞ」
「失礼な、せめて起業家って言ってくださいよ」
成功する起業家の思考過程は、ルールにとらわれていないという点で犯罪者と大差ない。そこには、逮捕されるかどうかの違いしかないのかもしれない。
「いや、その悪だくみ笑いは、起業家っぽくないだろ」
「ぶー」
「いや、お前ら、楽しそうなところ悪いが、脱線のし過ぎだ」
みどりさんが割り込んで、地味な痩せた男を紹介した。
「それで、こちらが、田之倉《たのくら》 亮介《りょうすけ》君。榊君の知り合いで、分析化学が専門領域だ」
「田之倉です。よろしくお願いします」
「芳村です、こちらこそよろしく。もしかして、屈折率の件ですか?」
アイボールの水晶が液化した謎の物質が、純水に与える屈折率の変化についての分析をみどりさんにお願いしたら、榊さんを通じて、分析化学の専門家を紹介してくれたのだ。
しかし、まだ10日くらいしか経っていないのに、もう何かしらの結論が出たんだろうか。
「そうです」
「わざわざおいで行かなくても、結果だけレポートしてくれれば――」
「トンデモありません!」
「おお?!」
田之倉さんは、思わず体を乗り出してそう言った。
それに驚いたロザリオが、頭の上から、梁にある板の上へと飛んで行った。って、俺、今まで頭の上にロザリオを乗っけたままだったのか。客観的に言って、変な奴だな、それ……
「どうどうどう。落ち着いて」
みどりさんが苦笑しながら彼をなだめる。
「こ、この物質って、一体なんなんです?!」
「いや、それが分からないから依頼したわけで」
勢い込んで話をする田之倉さんに、苦笑しつつ言ったあまりの正論に、彼は少し落ち着いた。
「そ、そりゃそうですね。お預かりしてから10日ですから、ほとんど測定結果から類推するのが精一杯だったんですけど――」
彼はそこで一息ついてから言った。
「この液体は、一言でいうと誘電分散をなくしてしまうんです」
「どゆこと?」
「つまり、誘電関数の振動数依存性をなくしてしまうんです」
「余計分からん」
田之倉さんは、んーっと眉を顰めると、とうとうと説明を始めた。
「屈折率と言うのは、ご存じの通り媒質の中を進む光の速度を計算するための係数で、(比透磁率×比誘電率)の平方根で計算されます。つまり、比透磁率か比誘電率が大きくなれば大きくなります」
「我々は最初、この液体が磁性流体で、比透磁率を引き上げるのではないかと想定したのですが、磁界には全く反応しませんでした。つまり、比誘電率を引き上げるということは確実なわけです」
田之倉さんは自分の鞄から資料を引っ張り出した。
「理科年表にもありますけど、本来純水の比誘電率は、気温二十度で80.36くらいあるんです」
「え? 比透磁率って、ほぼ1だと考えていいんですよね」
「はい。ほぼ透明なので、消光係数も0だと仮定してかまいません」
「なら、水の屈折率って、9近くあるって事?」
80.36の平方根だ。
「8.964ですね」
「ええ?」
7.9どころの騒ぎじゃないぞ、それ。
「ただし、十分に低い周波数領域において、というのが曲者なんです」
田之倉さんはそう言うと、紙の上に水分子を描いた。
「分子に極性がある液体では、外部から電場が印加された時に、電場と同じ方向に分極が形成されます」
「つまり、分子が同じ方向を向くってこと?」
「そうです、そうです」
「その分極には、配向分極、イオン分極、電子分極なんかがあるんですが、ともかく、周波数の低い帯域では、それがすべて有効になって比誘電率を形成するんです」
紙の上に、描かれた水分子を整列した状態にする。なかなか上手いな。
「分極と言うのは、ものすごく適当にいうと、何かが、波形の上側で右を向いて、波形の下側で左を向くと考えてもらえればいいかと思います」
「つまり、高周波になればなるほど、右を向いたり左を向いたりする速度が速くなるってことか」
「そうです。大体電波の領域になると、電界の反転に分子の動き――つまり配向分極の反転に遅れが出始めます。それでもそれに追従しようと分子が激しく運動して、熱が発生します。つまりは電子レンジですね」
「ははぁ」
分子が右を向いたり左を向いたりするのには、物理的な時間がかかる。
周波数が低い場合は、分子の動きが十分間に合って綺麗に整列するが、分子の移動時間よりも電界の反転が速くなると分子がきれいに並ばなくなって、誘電率に影響が出るわけか。
この時の分子の不規則な運動が熱エネルギーを発生させる。この原理を利用するのが電子レンジだ。
「そうして、その帯域を超えると、電界の反転に配向分極の反転がまったく追従できなくなって、配向分極はなくなるわけです」
この場合の屈折率の対象は可視光だ。
反転に遅れが出る、つまり誘電加熱が起こる電波の周波数は10の6乗オーダーくらいから、10の10乗オーダーくらいだ。なお、電子レンジは10の9乗オーダーだ。
それに対して、可視光は400から800テラヘルツ、つまり10の14乗オーダーになる。そりゃ、配向分極はなくなるだろう。
「それって、周波数が高くなると配向分極がなくなって、イオン分極や電子分極のみが残るって事?」
「最終的には、電子分極のみになります」
「つまり、誘電関数の振動数依存性をなくしてしまうっていうのは――」
「周波数が上がっても、配向分極がそのまま残るってことです」
「どんな原理で?!」
田之倉さんは、暗い目をして頭を振った。
「わかりません。現象面の測定と推定だけで背一杯でした」
そりゃそうか。まだ10日しか経ってないんだ、そんなところまで調査できる方がどうかしている。
「ともかく、この液体は比較的難溶性なのですが、二十度で1%程度の濃度まで純水に溶けます。それで、濃度と周波数ごとに屈折率を計測したのがこちらです」
その表を確認する限り、0.002%程度の濃度まで屈折率に大きな変化はないようだった。しかも周波数ごとの違いがほとんどなかったのだ。
「先輩、これって……」
「5万倍の量の液体が作れるってことだな」
「もしも蒸留で回収、再利用出来たりしたら――」
「少量でもエライことになるかもな。7ナノメートルのArF液浸露光装置が実現するぞ。NIKONにでも持ち込んでみるか?」
NIKONは、液浸露光装置にこだわっているメーカーだ。
もしもこの液体が実用化する可能性があるなら、それをもっとも高く評価してくれるに違いない。
「あのー、できれば継続して研究させていただきたいんですが……実は今日はそのお願いに上がったのです」
田之倉さんが、おそるおそる手を挙げてそう言った。
「研究と言っても、どんな研究をされるんです?」
「いや、そりゃ、この物質の作用機構だとか、分子の同定だとか、最終的には合成まで視野に入るでしょう」
「うーん……」
(三好、どう思う? もしもDファクター絡みだとしたら、そんな分析無駄になるんじゃないか?)
(もしも分子が同定できたとして、同じ分子を合成しても、同じ効果にならない可能性は高いかもしれません)
(だよなぁ……)
(だけど先輩。たとえ無駄でもチャレンジする価値はあると思いませんか? 基礎は重要ですよ)
まあ、確かにそうだ。
「わかりました。どうなるかは分かりませんけど、しばらくお預けしましょう」
「おお! ありがとうございます!」
「ただし、外部への流出はNGですよ」
「それはもう! 資料は置いていきますから、後のことはよしなに! 早速実験を……あ、連絡先はこちらです!」
田之倉さんは、今頃名刺を取り出してテーブルに置くと、そそくさと挨拶をして帰って行った。
「なんともあわただしい人ですね」
俺が苦笑しながらみどりさんにそう言うと、彼女は三好にいつものセリフを繰り返した。
「な、理系の男は……だろ?」
「説明のところは、結構まともっぽかったんですけどね。なかなか侮れません」
「なにを侮るんだよ」
うるさい話はもう終わった? とばかりにソファーのよこからグラスが顔を出すと、そのままソファーの上で丸くなって、尻尾をはたはたと振った。
「あ、そうそう。みどり先輩。NYへの出発は二十一日ですから」
それを聞いて俺は驚いた。
「え、日程ってもう決まってたのか?」
「当たり前ですよ、大きな展示場が一ヶ月ちょっと前に借りられたのだって奇跡みたいなもんですからね」
そりゃそうか。国際展示場なんか一年前から埋まってるそうだもんな。
「そういえば、エミレーツにしたって聞きましたけど、わざわざドバイ周りで行くことに、みんなよく納得しましたよね」
「まあ、その辺は押し切られたっていうか……」
そうみどりさんが言葉を濁した。
「ああ、都築さんでしたっけ」
「そうなんだよ。縁《ゆかり》のやつに全員が押し切られてな。深夜便で食事がしょぼいのだけが問題だから、帰りは晩ご飯が出る便を使うそうだ」
「はー、マニアは伊達じゃありませんね」
彼女は、飛行機の乗り鉄だということだ。飛行機の場合はなんていうんだ? 乗りトビ? 乗りプレ? どれもピンとこないな。
「それはともかく、みどり先輩たちが出発してすぐ、Dカードの所有機器を発表する必要があるんです。リファレンス機は完成させておいてくださいね」
「起きたら最終調整をやるとか言ってたから大丈夫だろ」
「お願いします。報酬は旅行前に振り込んでおきますからって、中島さんの個人口座じゃなくていいんですか?」
「一応会社としての収入にしておいたほうが、税金が少なくて済むんだ。なにしろうちの会社赤字だしな」
みどりさんは、笑いながらそう言った。たしかにこれはダンジョン税で躱すわけには行かないからな。
それからしばらくNYのイベントについて打ち合わせを行い、みどりさんは、夕方ごろ帰路に就いた。
、、、、、、、、、
「オレンジの木が持ち出された?!」
ギルド課から緊急扱いで回ってきた情報に、斎賀は驚きのあまり思わず復唱していた。
「はい。カゲロウだそうです」
「持ち出し禁止アイテム扱いにしたんじゃなかったのか?」
「持ち出し禁止アイテム扱いにされたのは、ダンジョン庁の収穫禁止要請に合わせた措置でしたので、日曜日の朝なんです」
「ダンジョン規制適用ルールか……」
「はい、カゲロウのみなさんが入ダンしたのは、土曜日なんです」
ダンジョンに休日はない。そして、ダンジョン内では連絡のつけようがない。
そのためダンジョンでの規制事項は、規制された時点以降の入ダンからそのルールが適用されるという決まりがあった。
「水曜の時点で規制できてりゃなぁ……」
悔やんだところで後の祭りだ。
「しかし、よく二十一層から木を抱えてこれたな。というより、抜いたとたんに消えなかったのか」
「まだ生きてるからじゃないでしょうか」
「ああ」
そう言われれば確かにそうだ。魔物だって外に連れ出せるって話もある。でなければスタンピードなど起こりようがないはずだ。
「それにしたって、ダンジョンの地面をよく掘れたもんだ」
「ラッキーでしたね」
ダンジョンの地面や壁は破壊不能アイテム扱いだが、例えば土がある場所などは、ある程度掘ることができる。
木々の根っこが、ダンジョンの破壊不能部分に食い込んでいるのかどうかは、場所次第だ。
「しかし、持ち出しが禁止できないとしても、せめて行き先くらいは把握しておく必要があるぞ。なにしろ、枝一本でさえ、つくばの騒ぎだ。木一本ともなると、何が起こるかわからん」
とは言え、それがダンジョン管理課の仕事かと言われると、微妙なところだ。
これからはこういったグレーゾーンの問題が増えそうな気がしたが、本来ダンジョン庁はそのために作られたはずだった。問題は話し合いのために素早い判断や行動ができないということだ。
時にダンジョンが引き起こす問題では、それが致命傷になりかねなかった。
「一応、売却時のライセンスで、最後の販売までは辿れますが……」
「その先はごまかせるな」
日本ダンジョン協会は捜査機関でも暴力装置でもない。ダンジョン出口で取り締まれなかった場合、後は各国の法律に任せるしかないのだ。
だがしかし――
「ライセンスを追いかけて、ルートを特定しておいてくれ」
「わかりました。その後は?」
斎賀はわざとらしく肩をすくめた。
「捜査機関にコネのありそうなやつに任せるよ」
そう言って、受話器を上げると、斎賀は寺沢の番号を押した。
168 金枝篇 2月20日 (水曜日)
昨日とは打って変わって穏やかな陽射しを感じながら、斎賀は足早に日本ダンジョン協会のロビーへと出て辺りを見回すと、部屋の隅のソファーで目的の人物を見つけて歩み寄った。
「どうも、すみませんね、こんなところまで」
「いや、目と鼻の先ですし」
寺沢はそう言うと、ふと思い出したかのように斎賀に尋ねた。
「そういえば、三好さんへの伝言の件は?」
寺沢がそう訊いてくるからには、Dパワーズの連中は連絡をしてないんだなと、斎賀は確信した。あの連中のことだ、さもあらんというやつだろう。
「あの後すぐに、専任管理官から、連絡先と魔法の呪文は伝えましたよ。その後のことは分かりませんが」
「それはどうも」
誰かに聞かれて困る話でもないし、そのまま、彼らはロビーの隅に陣取った。
寺沢は角型2号の封筒を取り出して、斎賀に渡した。
「早速ですが、問題の木は国外へ流出しました」
「国外?」
寺沢は頷いて言った。
「新潟東港から昨日出港したそうです」
「そりゃまた、素早い」
「まったくですね」
「植物なら、輸出国の規制のためのチェックがあるのでは?」
「防疫は、輸入は厳しいですが、輸出は大変甘くてね……」
「では目的地は、ロシアか中国、そうでなければ、韓国や台湾ってところですか」
「いや、持ち出したやつが嘘をついていなければ、最終目的地はフランスでしたよ」
「フランス? 新潟東港から?」
新潟東港から出る貨物船は、直接的には、ロシアか中国、あとは、韓国や台湾、それに香港だ。フランスへ荷物を運ぶのにここを使うことは稀だろう。
「それなら、JALカーゴ辺りを使って運べばすぐなんじゃ?」
「出来るだけ早く日本を出たかったか、そうでなければ――」
「飛行機は規制が厳しい?」
斎賀のセリフに、寺沢は、かもね、と手を広げて見せた。
「むこうなら融通が利く」
「融通ね」
「まあ、ウラジオストクからアエロフロートでシェレメーチエヴォへ飛べば、あとはシャルル=ドゴールまで一本ですから。とは言え、問題はルートよりも取引相手なんですよ」
「受取人も分かってるんですか?」
「どういうわけか、書類にきちんと記載されていました」
「それで?」
「アルトゥム・フォラミニスって、ご存じですか?」
「なんですそれ? 商社か何か?」
「いいえ。正式名称は、アルトゥム・フォラミス・サクリ・エッセ。言ってみればカルト――宗教団体ですよ」
「カルト?」
寺沢がその団体について詳しく知っていたのは、篠崎に頼んでいた人事教育局長の交友関係者の背後でちらついていた団体を調べたからだった。
ここで同じ名前が出て来た時は、驚いたものだ。
「どうも、セレブの間で人気の団体らしくってね。結構あちこち食い込んでるみたいですよ。分かってることは、そのレポートに書いておきましたから」
「いや、それはありがたいが……」
斎賀は宗教とは無縁の男だ。
まさかここで、カルトと関わることになるとは全く思っていなかっただけに、面食らっていた。
「それと、あなたのところの幽霊男ですが――」
「探索者ランキング1位の?」
「それです。連中、どうもそいつに興味があるようで、かなり執着してるようです」
斎賀は、以前、ザ・ファントムに関する妙な問い合わせが、防衛庁からあったことを思い出した。
出所の組織が同じってことは、この辺に何かがありそうだ。
「執着? なぜ? そもそもどうやってそれを知ったんです? 自衛隊員倫理審査会と関係が?」
寺沢はそれには答えず、立ち上がった。
「ともかく、異界言語理解の時の借りは、これで返しましたよ」
「5丁目のアドバイスの分は?」
「調子に乗るな」
寺沢は口元だけで笑うと、そのまま日本ダンジョン協会から出て行った。
斎賀は苦笑しながらそれを見送ると、そのまま貰った資料に目を走らせた。
「やはり世界ダンジョン協会一括買い上げのシステムを構築するべきだったんじゃないかな」
一通り読み終わって、ため息をつきながらそう言った後、「ま、これも自由主義ってやつの、避けがたい弊害か」と呟いて、ダンジョン管理課へと戻って行った。
、、、、、、、、、
そのころ、Dパワーズの事務所には、農研機構の佐山さんが訪れていた。
「それで、今日はどうなさったんです?」
「いえ、ちょっとアドバイスをいただきたいと思いまして」
「アドバイス?」
「はい、正式に日本ダンジョン協会を通してもいいんですが、ちょっと緊急で」
「みかんの話なら、もう農水省やダンジョン庁が動いているんじゃないんですか?」
「もちろんです。ただ――」
俺は、彼の語った話を聞いて唖然とした。
ダンジョン庁の要請は、収穫の禁止だ。それは守られたらしいが、他に、当のニュースが出た瞬間、日本中のミカン農家から枝を譲ってほしいという問い合わせが殺到したというのだ。
そして、農水省やダンジョン庁がそれに気が付いたときには、すでに相当数の枝が配られた後だった。
配送したものは、送り先が分かっているが、取りに来たものは、受取手がはっきりしない場合も多く、その後の対応は芳しくないそうだ。
「根本の木は、ダンジョンの枝を直接接いだものですが、あれはたった一晩で大木に育ちました。問題になっている温州みかんの枝を接木したとき、そんなことが起こる可能性があるでしょうか?」
そんなことを訊かれても、分からないとしか言いようがない。
「それはさすがに分かりませんが、もしも奇跡を起こすために、魔結晶とダンジョン産の触媒が必要だとしたら、そういうことは起こらないと思いますが……」
俺が自信なさそうにそう言った時、三好が真剣な顔をして割り込んだ。
「先輩。186三年、ヨーロッパにフィロキセラ禍が起こった時、最終的には北米系ブドウの根っこに、ヴィティス・ヴィニフェラ種を接木して、ヨーロッパ系の品種を守ったんですよ」
「なんだよ、いきなり」
ワインに携わる者としては、世界一番有名な事件だけに知らないものはいないだろうが、逆に携わらないものにとっては、まったく知らない話だろう。
「つまり、繋がりさえすれば、接ぎ木の先は接いだ品種の性質を、ほとんど保っているってことです」
「おい、まさか――」
「つないだ枝には、魔法がかかったままかもしれません」
魔法がかかっているのは、空間か対象か。もしも対象ならその可能性は十分にあるだろう。
さすがに農研機構のオレンジがもう一本できるってことはないだろうが、魔結晶さえあれば、無限収穫可能な枝になる可能性はあるってことか。
「やっぱり……」
佐山さんはがっくりと肩を落として、そう呟いた。
「もちろん、周囲に、十分な量の魔結晶が存在しない場合、そういうことは起こらないと思いますが……もしかしてすでにどこかで?」
佐山さんは、残念そうにうなずいた。
やはりそうか。そうでなければ、突然うちまでアドバイスを求めに来ないだろう。
「京都の木津川で、地球環境産業技術研究機構の魔結晶が消失したそうです」
「けいはんな学研都市か」
けいはんな学研都市――正式名称は、関西文化学術研究都市だ。バブル華やかかりしころ、京都大学の学長の提言で始まった都市計画で、理工系に偏らないようにとの横やりが入った結果、文化の文字が追加された場所だ。
つくばに比べると、やや中途半端な感じが否めないが、地球環境産業技術研究機構の側には、オムロンのイノベーションセンターやNTTコミュニケーションの科学基礎研究所を始めとして、研究開発系の施設が数多く存在している。
少し北には同志社が、西側には、奈良先端科学技術大学院大学も存在している。魔結晶の量はそれなりにあるだろう。
「京都や奈良のみかん生産量はほぼゼロなんですが、大阪は結構ありますし、あの辺には観光農園がそこそこあるんです」
原因は、おそらくつくばと同じだろう。
ただ、黄金の木がそんなところまで影響するとは思えない。ほぼ間違いなく、誰かが勇み足で枝を接いだことが原因に違いなかった。
あまりにも結果が出るのが速すぎるが、そこはDファクターの影響に違いない。何しろ黄金の木は一日でああなったのだ。
「消失が起こるから、接ぎ木はやめろという勧告を出した方がよくないですか?」
「そうなんですが、まだ因果関係が確定していないので、なかなか……」
うーん、科学的な裏付けがない状態で、それを禁止する法的根拠もない訳か。
「あれ? でもつくばでは禁止したんですよね」
「あれはお願いです。しかも、半分は脅したみたいなものだそうですよ」
「結局、同じことが起こっている場所を特定して、個別にお願いするしかないと?」
「今のところは、そのようですね」
「それに、もしそんな勧告を出したりしたら、ばらまかれた枝自体が高値で取引されて、行方が辿れなくなりそうで……」
所有者がはっきりしない状態なら、それも十分あり得るか。
「いまでもはっきりしないわけですから、こうなったら、ダンジョン庁にお願いして、研究者側に注意勧告を出すしかないでしょう。それで消失が起こったら、その周辺を探して歩くくらいしか」
「そうですよね」
「でも先輩。意外と簡単に見つかるかもしれませんよ」
「どうやって?」
「あの枝を接ぎたがるのは、趣味の人か、後は観光農園だと思うんですよね」
「観光農園?」
「いわゆる市場に出荷するみかん農家は、枝を接木したところで大した収穫にならないでしょう。小規模多品種農家くらいですよ、可能性があるのは」
それを聞いて、佐山さんがぴくりと片眉を上げた。
「それに比べて、観光農園にとっては、枝一本でもバランスブレイカーの神アイテムですからね、あれは」
そう言われれば、確かにそうだ。
採っても、採っても、早送りのような速度で実が生りなおす枝。そりゃ観光資源になるだろう。
「ま、誰でも情報を発信できる現代、そういう場所は、すぐ話題になると思いますから、SNS等の監視をちゃんとやってれば大事になる前に、場所も特定できるし、規制もできるでしょう」
「そんな単純な話じゃないんですよ……」
佐山さんが震える声で、そう言った。
「に、日本の柑橘農家を、農研機構がぶっ潰したなんてことになったら……」
「ぶっ潰すって、そんな大げさな」
「大げさじゃないんですよ!」
佐山さんは、こぶしを握り締めて力説した。
「いいですか、三好さんは大した収穫にならないとおっしゃいましたが、実は、みかんの木一本には、大体600から700個くらいの実が生るんです。もっとも出荷を考えた手入れをした場合、500個ってところでしょう」
「はぁ」
「そして、一個の平均的な大きさは、大体100グラムってところです」
「つまり一本から50キロくらいの実が取れる?」
なにしろ理想的な実が生るシステムなのだ、実際はもっと重くなるかもしれなかった。
「そうです。そうして、もしも十分で一本の木の実が収穫しなおせるとしたら――」
そう言われて、彼の言いたいことが理解できた。
「一時間で300キロ、二十四時間で7.2トン、一年なら――」
「2628トンですね。もしも機械化して一分で収穫出来たら、なんと26280トンですよ」
三好が冷静に計算して言った。
「それって、どのくらいなんだ?」
「26000トンというと、広島県の生産量を上回って、全国でも軽く10位以内に入ります」
佐山さんがそう教えてくれた。
「一本の木から?」
「一本の木から。そもそも、去年の日本のみかん生産量は、全体で77万トンくらいなんです」
「ということは――」
「木が29本あれば、ほとんど賄えちゃいますね」
俺はそこで、ふと気が付いた。
「……なあ、それって、もしかして、枝の方が恐ろしいことになるんじゃないか?」
「え?」
「考えても見ろよ、接いだ枝に、もしも10個の実が生ったとしたら、その収穫速度は一本の木どころの騒ぎじゃないだろ」
「もしも、いつも同じ場所に実が生るとしたら、収穫は簡単に自動化できますよね。1秒で収穫、1秒で復活ってことになったら……一分で300個ですよ」
つまり――
「枝二本で、木一本分以上ってことか」
2秒で1キロの収穫だから、一時間で1800キロだ。つまり一日43.2トン。一年で15768トンってことになるのだ。
「枝が49本あったら、日本のみかん生産量を、完全に賄えることになりますね」
再び三好が冷静に計算した。
「大変じゃん!」
「いや、だから、大変なんですってば」
今は、この実の出荷は食の安全性が確認できないという理由で禁止されているが、世界ダンジョン協会のDFA(食品管理局)が安全だという結果を公表したらそれを禁止する手段がない。
なにもしなければ、市場が大混乱に陥いるだろう。
「先輩、もう一つ問題がありますよ」
「魔法が飛び火するかどうか、か?」
三好は頷いて行った。
「黄金の木と同じ能力が枝にあったら、もうだれにも止められませんよ」
「魔結晶を規制してもだめか?」
「むしろ因果関係を明らかにして、損害賠償の対象にしたほうがましじゃないでしょうか」
俺はタブレットに、日本地図を呼び出した。
「みかんの産地と言うと、和歌山、愛媛、熊本、静岡、ってところか?」
「北九州周辺と静岡周辺。後は愛媛広島ラインですね」
「和歌山や愛媛には、魔結晶を備蓄しているような研究機関が集まっている場所はないでしょう」
「北九州には、北九州学術研究都市があるけど……」
「あそこは、ほとんど情報系に偏っていますから、少しはマシだと思いますが……いかんせん施設は多いですからね」
「研究施設の集中でヤバそうなのは、播磨ですかね」
「播磨?」
「播磨科学公園都市です。SPring8やSACLAがありますし、ダンジョンができて以来、エネルギー関連の研究施設もそれなりにできてますよ」
兵庫の山の中か。
「あの辺のみかん畑は、大抵瀬戸内海に面した場所だろ? SPring8って、凄い山の中ってイメージがあるぞ」
「それに兵庫は千葉と並んでみかんの生産量は全国最下位レベルですから」
瀬戸内に面している県がすべてみかんを作っていると思っていたが、ほとんど兵庫はみかんを作っていない。岡山に至ってはほぼゼロだそうだ。
山中だし観光農園もなさそうだから大丈夫かもしれない。予断は許されないが。
「静岡の研究施設は、ほとんどが環境や農林水産業系ですから。工業技術研究所もありますが、規模としてはそれほどでもありません」
「ただまあ、たった一本の木があれば問題は起こりますから、北九州と京阪奈には特に注意を回しておいた方がいいでしょう」
佐山さんは頷きながら呟いた。
「しかしこれは、まるでダンジョン種による地球種への侵略ですね」
自分もそれに手を貸したことが明らかな彼は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「問題は、もしも人体に悪影響がないとしたら、人類にとってのマイナス要素が何もないってことなんです」
むしろ生産性の話をするなら、ぶっちぎりでプラスだろう。
既存の農家にとって、それが福音なのか悪夢なのかは難しいところだが。
「通常は既存種を守るために、外来種を排除したりするわけですが――」
言いたいことはとてもよくわかる。
なにしろダンジョンが絡んでいるというだけで、対象は温州みかんなのだ。おそらくどんな検査でも温州みかんということになるだろう。例のせとかのように。
ただ出来が抜群に良いだけなのだ。
「マイナス要素のない侵略行為って、果たして侵略として排除できるものなんでしょうか?」
佐山さんは、難しい顔をしてそう言った。
そうして、「そもそも種としては、侵略にすらなっていませんし」と、泣きそうな顔で笑った。
169 金枝篇 その後
ちょっと駆け足だったので、もしかしたら修正が入るかもしれません。
侵略か――
「なあ、三好。お前、どう思う?」
「侵略と言えば、侵略と言えなくもないでしょうけど……」
三好は、居間のテーブルの上を片付けながら言った。
「でも先輩、これって、テレビがラジオの地位を奪ったり、新しく作られた、おいしくて生産性の高い品種が、生産性の低い品種を置き換えたりするのと同じだと考えても、それほど間違いじゃないですよね」
まあ、同じと言えば同じだな。それがダンジョンからもたらされたという点に目をつぶることができるなら、だが。
「それに、どうせ私たちは侵略の先兵ですから」
「洒落にならなくなってきたよな、それ」
問題がないならあるものは利用するって立場だったけど、こう話が大きくなるとなぁ。
「オーバルな麦刈り機もおんなじことが言えますからね」
貧困地域の食料分布改善が、いつの間にか世界の食糧市場の暴落につながるかもしれないとか、さっきのみかんの枝じゃないけれど、生産量をきちんと計算しておかないとヤバそうだ。
もっとも主食は、みかんなんかと必要な量が違うから、大丈夫だという気もするが……
「産業構造が変化するときは、必ず何かの没落が付きまとうものでしょう。昔の繊維業とか」
「それはそうだろうけれど、変化が急激すぎるだろ。しかも、その引き金を自分が引くと思うと、躊躇しないか?」
「ネイサン博士みたいに、まったくそれを気にしていないっていうのも凄いですけど」
「あれは、どうせ流通が行き届いていない場所で生産したって、現在の流通に与える影響は小さいだろうと、完全に割り切ってるんだよ」
蒙昧な人々の心理的な影響を考慮せず、事実だけで物事を考えるのは、科学者の悪い癖だ。
しかし、ここ100年ちょっとで急速に進歩した人類の心のとある部分には、科学の説得を拒む場所がある。
神様を信じるのと科学を信じることが同等だと考える人は、人々が考えているよりも遥かに多い。
「そもそも、ダンツクちゃんが望んでいるのは奉仕を捧げることだって、タイラー博士が言ってましたし」
「タイラー博士そっくりのダンジョンが作り出した何かが言ってたんだろ。裏も取れないような話を真に受けるなよ」
「私は結構信じてるんですけどね」
「理由は?」
「帰納的な推論、でしょうか」
「事象の数が少なすぎて、推論の精度が悪すぎるだろ」
「だけど、今のところ一〇〇%それで説明が付きますよ。いくら精度が悪くても、一〇〇%は無視できません」
確かに、ダンジョンによってもたらされた恩恵のすべては、ダンジョンが人類に奉仕したがっているという情報を否定していない。
だがなぁ……
「んじゃ、訊きたいことをまとめて、もう一度タイラー博士に会いに行くか?」
「会いにって……館ですか?! 対象はどうするんです??」
「いや、ほら、忘れてたけど、俺たちスケルトンを使ってないだろ」
「ああ!」
異界言語理解の時は、時間が早すぎて手加減していたら、十一層へ追い立てられてリセットされたのか登場しなかったし、グラスたちの召喚の時は、イギリスの救出があったりしてそれどころじゃなかったのだ。
「NYのイベントが終わったら、かな」
「いいですね。大統領との約束は、どうせ三十二層の区割りができてからでしょうし。ついでにアイボールの水晶もゲットしたいですね!」
「あー、あれなぁ……」
「ほら先輩、極炎魔法で、いっぺんにドカーンと!」
「館が燃えてなくなったりしないか?」
「あの玄関の丈夫さを見る限り大丈夫って気もしますが……タイラー博士に訊いてみましょう」
「そうだな」
もっとも、仮に半壊したとしても、次に登場するときは元に戻ってるって気はするけどな。
「しかし、前にも言ったが、侵略するにしろ、奉仕するにしろ、どうしてこんなに迂遠なんだ?」
最初は人類のことをまるで知らないわけだから、ある程度迂遠なのもわかるが、すでに三年も全探索者から人類の情報を得ているはずだ。
「それなんですけど、先輩」
「なんだ?」
「例の、意味不明な碑文、覚えてます?」
見つかっている碑文は、さまよえるものたちの書に属するものと、それ以外の2種類に分類されている。それ以外の部分には、奇妙な歴史のようなものが刻まれていたはずだ。
「歴史っぽいやつか?」
「そうです。あれって、なんだか寓話のパーツみたいなところがあるんですよ」
「寓話?」
「とは言っても、私たちの世界の寓話とは全然違うんですけど」
そりゃ、世界が違うのだ。道徳のありようが異なれば、ストーリーの作り方はちがうだろう。
普遍的なモチーフにだって差があるに違いない。もっとも異界言語理解が、その部分を吸収している可能性はあるが。
「いくつかの話の結末だろうと思う部分は、大抵主体になっているものが滅ぶというか消えるというか、いなくなるというか……例えば、『水が必要な場所に雨が降った、皆が喜んだが、雨が降りすぎて誰もいなくなった』って、そんな感じなんですよ」
「なんだそりゃ? 過ぎたるは及ばざるがごとしってことか?」
「なにかそういうのとちょっと違う感じなんですよね。異界言語理解は所有者の知見に、大きな影響を受けますから……」
鳴瀬さんとモニカの訳は、さまよえるものたちの書に関する部分はほぼ一致するが、そうでない部分はかなりの違いがあるそうだ。
「先輩が言ってた、ダンジョンの先の世界の自己紹介ってのが正しかったりしたら、向こうの世界はなんだか変ですよ」
「いや、ただの寓話集かもしれないからな。地球だってグリム童話を全部リアルだと解釈したら、相当おかしな世界になるぞ」
「それはそうなんですけど……」
「よし!」
俺は膝を叩いて立ち上がった。
「なんです?」
「いや、腹が減ったろ? BLTサンドでも作ろうかなと。ほら、帰納的な話をしていたら、ベーコンが食べたくなってくるだろ?」
「イギリス産の?」
「イギリス産の。ないけど」
三好は笑いながら、カップを手に、シンクへと向かって行った。
、、、、、、、、、
その後、俺たちが、NYへ行く常磐ラボの人たちを見送るまでの数日で、実に様々なことがあった。
まずは、鳴瀬さんに、件のオレンジの木がフランスに持ち出されたと聞いて驚いた。
「メゾン=アルフォールにある、とあるカルトの拠点の中庭に植えられたそうです」
「中庭って……それじゃあ、地上に生えてるんですか? あれが?」
「そのようです」
ダンジョンから切り離されたダンジョン産の木は、ダンジョンの外でリポップするのだろうか。
どんなふうになっているのかものすごく興味があるが、一般には公開はされていないらしい。
「生命の木と呼ばれているようですよ」
「そりゃまた……その中庭がパラダイスってことでしょうか?」
「知恵の木も生えてるんですかね?」
「温室にバナナとかか?」
「なんでですか。リンゴじゃないんですか?」
「エデンがあったとされる場所は、気候的にリンゴが生えないんだそうだぞ。それにイチジクとも言われてるが、当時のイチジクはバナナのことらしいじゃないか。アレクサンドロス大王もそう言ったそうだし」
「へー。でもなんだか絵面がよくないですね、バナナ」
「だって、ラファエロもクラナッハも、フロリスもルモワーヌも、渡そうとしている実をバナナにしただけで、吹き出しそうな絵面になりません?」
確かに、イヴがバナナを差し出して、アダムがそれをくわえてたりしたら実に馬鹿っぽい。
俺はそれを想像して、思わず吹き出しそうになった。しかし――
「いやいや、イヴがバナナを食べて、出産の苦しみを得るようになるって、なんとも象徴的じゃないか」
「先輩……」
三好の冷たいジト目が俺を貫いた。いいじゃん、ちょっとくらい。
鳴瀬さんが、慌ててフォローしてくれた。
「そ、それはともかく、一応FrDA(フランスダンジョン協会)が監視の対象にしたようですので、何かあったら情報は伝わってくると思います」
「何事もなければいいんですけどね」
心の底からそう祈っている。侵略然とした展開になるのは勘弁だ。
そういえば、つくばから持ち出された枝は、大部分が回収されたが、最後の4本はいまだに見つかっていないそうだ。
そして、ステータス計測デバイスの前に、Dカード所有者のチェッカーが発表された。
番組制作会社メディア24の氷室とかいうディレクターの単独インタビューによる発表だった。
最近すっかり三好の広報扱いされている彼だが、本人は悪態をつきながらも、そのポジションにまんざらでもないようだった。
チェッカーは、パーティに属しているかどうかのチェックも行える高機能な商品だが、ステータス計測デバイスに比べればずっと安かった。
「予約の受付状況が大変なことになっているみたいですよ」
「もう予約を受け付けてるのか?」
「どれくらいの潜在需要があるのかなと思いまして……」
「潜在需要?」
「EMSメーカーの選定が問題なんですよ。近場でUMCエレやOKIさんに頼もうかとも思ったんですが、世界需要が発生したりしたら数の問題が……やっぱ、台湾メーカーですかね」
世界最大のEMSメーカーは、台湾勢だ。
ぶっちぎりで世界最大のフォックスコンを始めとして、ペガトロン、クアンタ、コンパルといったメーカーがしのぎを削っている。
「UMCエレさんは、なにかちょっと変ですし」
「そんなに数が多いなら、台湾メーカーだろうな」
「一応、OKIさんにも話を持って行ってみます」
「なんとなく日本製って安心感がある感じ?」
「いまや、気のせいみたいなものなんですけどね」
三好はそう言って笑った。
まあ、実際トップエンドの製品も台湾で作られているわけだしな。
ついでに、この発表に合わせて、三好は御殿通工の株を主に時間外取引で売り飛ばしたらしかった。
「つなぎ売りを使いつつ、売り圧力を強めてみたんですけど、凄い頑張ってましたよ」
つなぎ売りと言うのは、要するに自分が所有している株を空売りすることだ。
手放したくはないが、一時的な下り局面が明らかなところで一端損益を確定させるために使うのが普通だ。
「長期トレンドが下降することが分かっていて、短期トレンドが爆上げしているときにつなぎ売りって……普通は逆だろ」
「そうなんですけど、いろいろとあるんですよ」
「あんまりあくどい真似は――」
「しませんって。だけど、誰が買ってるんですしょう、これ? 9000円くらいから売り始めて、今のところ平均6五百円くらいで消化されてるんですけど……」
「待て、お前700円ちょっとで、800億くらい使ったって言ってなかったか?」
「言いました」
「で、平均6五百円くらいで売り飛ばした?」
「そうです。今のところは4000円台くらいですけど」
それってつまり、一億株を平均6五百円で売り飛ばしたってことか?
ライブドアがニッポン放送を買収しようとして買い占めたときの金額の8倍以上だぞ、それ。
「それって、6500億ってことか?! どーすんだそれ。異界言語理解の時よりも大きいじゃん。税金ってどうなるんだ?」
「株式の売却益は、実はダンジョン税と大差ありません」
「そんなに優遇されてんの?」
「申告分離課税だから、復興特別所得税を入れて、税率は20.315%ですね」
ダンジョン税+日本ダンジョン協会手数料で20%なので、確かに大体同じだ。ちょっと待てよ?
「会社で買ってるんじゃないのか」
申告分離課税は、個人に対する課税だ。法人の場合は総合課税になるから、こんなに儲けたら税率はもっと高いはずだ。
「そんなお金、会社にありませんって。パーティの資金だから、個人扱いですよ」
日本ダンジョン協会の登録パーティは、あくまでも日本ダンジョン協会内で法人っぽく振る舞うだけで、税務上は個人扱いだ。
行ってみればリーダーを世帯主とした全員が配偶者の集まりみたいな取り扱いになるそうだ。重婚かよ。
「つまり、三好がパーティの資金を利用して個人で取引を行ったって形になるわけか」
「そうです。目玉が飛び出る住民税になりますよ! 鳥山先生気分が味わえます!」
「味わいたくない」
行政サービスが気に入らなかったら、引っ越すぞって脅せるレベルだ。
実際にそんなことをする人がいるかどうかは知らないが。
「しかし、いったい誰が買ってるんだ? 内部留保が1兆円以上ありそうな企業?」
「さあ?」
「さあってな……俺達、また変なところから恨まれるんじゃないだろうな」
「私たち、何もしてませんよ?」
三好が無垢な笑顔を浮かべながら、そう嘯いた。
悪魔っていうのは無垢な仮面をかぶっているものだとは、言い古されている表現だが……まさにそんな感じだ。
「今何か、失礼センサーに反応があったんですけど」
「き、気のせいじゃね?」
「ともかく、実際に発売されるか、EMSで発注するまでには、完全に手じまいする予定ですから」
「やっぱ、発注したら、部品についてもばれるかな?」
「こんだけ財力のある誰かですからね、ばれないと思うほうがどうかしてますよ」
知財関係の書類が公開されたところでもばれるかもしれないな。
「そっから暴落?」
「それはわかりません。今だって普通の人にとっては、どうして高騰しているのかわからないでしょうし……できるだけ一般投資家に押し付けつつこっそり撤退するんじゃないですかね」
「慌てて売りに出して、暴落させたら大損だもんな」
「空売りのチャンスですね!」
「もう十分だろ。やめとけ」
「はーい」
こいつは放っておくと、どこまでもやっちゃうタイプだからな。
仕事の時もそうだったし。ブレーキを掛けないと、予算があっという間に食いつぶされかねなかったっけ。
おかしい、俺のサポートに雇ったはずなのに……
そうして、アメリカ東部時間で二十三日、ついに探索者の祭典みたいなイベントがNYで開催された。
170 NYイベント 前編 2月23日 (土曜日)
「うっわー、すごい盛況ですね」
中島は機器のセッティングをしながら、集まってくる人の数を見てそう言った。
「あの金銭感覚ゼロ男、会場のレンタル代どころか、実験参加者のホテル代まで出したそうだぞ? 盛況で当然だ」
その人の群れを、白衣のポケットに手を突っ込んで眺めながら、みどりが言った。
自分達も全員Dパワーズ持ちで、ウォルドルフ・アストリアに泊まっているのだが、そのことは心の棚に上げておくのだ。
「NYはホテル代バカ高ですからねぇ。でも1泊400ドルを1000人分出したとしても40万ドルですからね。あの人たち100億円をポンと出しちゃいますから、その感覚だと誤差みたいなものなんでしょう。ケータリングサービスも全部無料だって、驚いてましたよ」
「そりゃ、参加する方は楽しいだろうさ」
「実験に協力して貰う以上、イベントは楽しくってことなんでしょう。計測項目もやたらと多いですし……あ、ちょっとそこ押さえといてください」
みどりは言われたとおりケーブルを押さえながら言った。
「ま、私たちは、社員旅行に来たついでだ。二日くらいならせいぜい協力してやるか」
「六人全員、行き帰りはファーストクラスってだけで、バイト代としては、かなり鬼畜ですよ」
中島が苦笑しながらそう言った。
『ハイ! 君たちがワイズマンのチームかい?』
声をかけて来たのは、パーカーを羽織った、赤身のかかった暗い金髪で少し小太りの、快活そうな男だった。
『そうだ。あなたは?』
『挨拶が遅くなって申し訳ない。僕はイベント責任者の、ディーン=マクナマラ。ディーンと呼んでくれ。で、こっちが、サブのポール=アトキンス』
紹介された男は、マクナマラと同じくらいの年に見える、濃いグレーの髪と、グレーの瞳をした、少したれ目でひょろりとした背の高い男だった。
『こんちは! 昨夜はもうワクワクしちゃって、眠れなかったよ! これがステータス計測装置かい?』
『私が、ミドリ=ナルセで、そこでごそごそやってる男が、ハルオミ=ナカジマだ。ミドリとハルで構わないよ』
紹介された中島が、みどりの後を継いであいさつした。
『ハイ! ポール。そうさ、これがステータス見えるくんです、なのさ』
『なんだい、そのミエルクンデスって? スペイン語?』
そこで中島がポールに、ワイズマンが付けた名前で、ビュワーを擬人化して紹介する言葉だと説明した。
『商品名は、頭文字を取って、単にSMDって呼ぶことになるけどね。意味は内緒だよ』
『ハハ! 了解!』
『しかし、これだけ探索者があつまると壮観だよね』
中島がそう言ったとたん、目の前をキック・アスとヒット・ガールが横切って行った。
中々よくできたコスチュームだ。
『ちょっと変わったやつも大勢いるけどね』
そう言って、ディーンが肩をすくめた。
『さっき、スパイダーマンとウルヴァリンもいたぞ』とポール。
『場所が同じだからって、コミコンと勘違いしてるやつがいるな。コミコンは十月だっての』
『まあまあ。ワイズマンには、探索者のお祭りっぽく楽しんでくるように言われてる。ああいうのもそれっぽい華があって良いだろ?』
中島がそういうと、ディーンがにやりと笑って腕を上げ、中島とハイファイブを行った。
『よっし、今日は何でも協力するぜ! 一応もらった計測したい状況と、実験のタイムスケジュールをすりあわせてタイムテーブルを作ったから――』
そう言って、ディーンは中島と打ち合わせを始めた。
みどりは他の四人を集めると、中島の指示に従うように言って、入口方向に向かって歩いて行った。
そこには、ケータリングサービスが整然と並んでいたが、内容は無秩序だった。
何しろ、デニッシュホットドッグならともかく、ネイサンズの屋台の隣にマンダリンオリエンタルのケータリングサービスが並んでいるのだ。こんなことは前代未聞だろう。
広いホールには、他にも、セレスティアル・タッチで果物が塔になっているかと思えば、ビバ・イベンツやクラレンドン・キュイジーヌのオードブルが華やかに並んでいた。
「梓ったら、NY中のケータリングサービスを集めたんじゃないでしょうね」
みどりは呆れながら、ついネイサンズのドッグを、ひとつだと3ドル50セントなのに、ふたつ買うと6ドル75セントになるのは何でだろうと思いながら注文した。もちろん今日はタダだったが。
、、、、、、、、、
日本時間で、二十三日の深夜日付が変わるころ、俺たちは、居間に食べ物や飲み物、それに複数のノートパソコンを持ち込んで、居間のモニタに接続していた。
NYじゃ、そろそろ二十三日の朝十時、イベントの開幕だ。入場自体は一時間ほど前から始まっていて、公式チャンネルでは、思い思いにケータリングサービスを楽しんでいる人たちが映し出されていた。
「時差ってやつは、やっかいだな」
「先輩は、そろそろ夜更かしが辛いお年頃ですか?」
「うるさいわ。超回復があるから平気だろ。それに、一応昼寝はした」
「夜更かしがつらいお年頃については否定しないんですか」
「俺は、無駄なことはしない主義だ」
三好は笑いながら、いくつかのチャンネルに接続していった。
何しろうちの回線は、SMDのために絶賛強化中だ。何枚動画を開こうと何も問題はなさそうだった。
「一応、中島さんたちスタッフ全員、ウェアラブルなアクションカメラで、YouTube Live に配信してるはずですよ。あ、これは計測デバイスとの直通ですね」
そこには時々、デバイスの設定をしているのだと思われる中島さんたちが画面を横切っていた。
「考えてみれば、公開したくない部分も、skypeなんかのビデオ通話でつないじゃえば、ほぼリアルタイムに参加出来るってわけか。凄い時代になったよなぁ」
「こればっかりは、ダンジョン技術じゃどうにもなりませんもんね」
「まったくだ」
俺がなんとなく不思議な安心感に浸っていると、三好がそれに冷や水を浴びせた。
「もっとも、代々木から、BPTD(ロングアイランドの西の端にあるダンジョン)へワープさせられたらすぐに行けますけど、NY」
「あのな……」
しかしワープか。まあ、できたら便利なのかもしれないが、客観的に言って密入国だよな、それって。
「そりゃできれば便利だろうけど、あれってさ、その場でバラバラに分解されて、転移先で再構成されてるような気がしないか? Dファクターで」
「空間をねじ曲げてつなぐんなら、入り口が出来て、それをくぐることになりそうですもんね。転移なら再構成が定番です。蝿男でもそうでしたし、スタートレックだって――そういや私たちすでに三十一層から一層へ転移させられているような気が……」
「そうなんだよ……」
アルスルズが追っかけてこられなかった以上、花園が精神的な世界だったかも知れない点は否定できないが、三十一層にいた俺たちの体そのものが、一層に放り出されたことに間違いはない。
「だから、俺たちも、もうDファクターで再構成された身体なのかもな。死んだら黒い光になって消えちゃうのかも」
「そりゃ斬新な最後になりそうですね」
三好が感慨深げに頷いている。こいつはなにげに肝が太いよな。
「なにしろ、一度転送めいたことを体験したのは事実だからなぁ……今、ここにこうしている自分は、元の自分なのか、Dファクターで作られた自分なのかってのは、なかなか哲学的な命題だな」
「もしも、タイラー博士が言ったように、本当に量子レベルで同一の存在が作り上げられているんだとしたら、魂みたいなものがハードウェアとは別に存在しない限り、元の自分とDファクターで作られた自分は区別できませんし、シミュレーション仮説と大差ありません」
「でもね、先輩」
「なんだ?」
「もし区別できないんだとしたら、仮にDファクターで作られた自分だったとして、何か不都合がありますか?」
不都合か……死んだら黒い光になって死体も残らないかもってことくらいか?
病院のベッドで、誰も見ていないうちに死んだりしたら、迷宮入りは確実な遺体消失事件の出来上がりだ。
もっとも、死んだら死んだで、俺にとって、その後の世界はないのと同じだし、死体が残ろうと残るまいと、全然関係ないと言えばないか。
「そう言われれば、特にないな」
「ですよね。昨日までタンニンがミルクのようななめらかさだった2004年のオーパス・ワンが、今日からは荒々しく感じてしまう、なんてことになったら大問題ですけど」
「いや、それは偽物を掴まされたか、保存が最低だっただけだろ」
俺が苦笑したとき、公式チャンネルのライブ画面から、銃声のような音と、悲鳴のような声が聞こえてきた。
、、、、、、、、、
その男は、妙にギラギラした視線で、落ちつかなげにきょろきょろと辺りを見回していた。
そうして、思いつめたような表情で、何かを布で巻いた荷物を大事そうに抱えながら、他人を窺うように歩いていた。
『おい、あのおっさん大丈夫か?』
『ん? なんかのコスプレじゃないの?』
『いや、コスプレったってなぁ……いったい何の?』
『俺、昔、日本のコミケで、上半身裸コスで、ズボンだけはいて右手で左腕の上腕を抑えている、痩せた刈り上げの男を見たことがあるぞ』
『なんだそれ?』
『さあ。医者がどうこう言って、ふらふらとうろついていたが……俺にはさっぱりだったが、まわりじゃ結構受けてたんだ』
『さすがは聖地、訳が分からなんな。じゃあ、あれも?』
『きっとマーベルあたりのコミックに一コマだけでてくる、昔のブギ・ダウンをうろついている男のコスプレじゃないか?』
『そいつはマニアックだ』
そう言った途端、男は、何かにつまずいたように足をもつらせてひざをついた。
もしかしたら、本当に具合が悪いのかもしれない。そう思って顔を見合わせた二人は、男の元へと走りよった。
『おい、大丈夫か』
『コイツらが悪いんだ。害虫は駆除しなけりゃならないんだ』
『なんだって?』
『ゴキブリ倒しに火星に行く話の中のキャラかな?』
『おまえらさえ、おまえらさえいなけりゃ!』
男は手に持っていた荷物の布を開いて、中から自動小銃を取り出した。
『おい! コスプレの小道具にしちゃ洒落にならないぜ!』
、、、、、、、、、
「いま、何か聞こえませんでした?」
セッティングを終わらせて休憩していた中島が、入り口の方を見ながらそう言った。
「銃声みたいな…」
縁がそう言ったのと、表で悲鳴が上がったのは同時だった。
中島がばね仕掛けの人形のように、椅子から飛び上がり、スタッフの確認を行ったが、みどりだけがそこにいなかった。
「って、所長は!?」
「さっき、表に向かって……」
それを聞いた中島は、表の方を振り返った。
「みどり!」
そして、そう叫んだ中島が、表に向かって駆け出した。
「みどり?」
縁は一瞬首をかしげたが、それどころじゃないと、三好と繋がってる回線にかじりついた。
、、、、、、、、、
「三好さん! なんか、銃声と悲鳴があがったんですけど!」
「あ、飛行機マニアの人」
「違います!乗るのが好きなだけ……って、それどころじゃ!」
「落ち着いてください。こちらでも、公式チャンネルと、中島さんのアクションカメラ映像で状況を確認しました」
居間のモニタに映し出された公式チャンネルの映像には、会場の入り口の階段で自動小銃を持った男と、遠巻きにそれを眺めたり、逃げまどったりする参加者が映し出されていた。
「お渡ししてある非常用のポーションは積極的に使っていいですから、怪我人をフォローしてください」
「り、了解です!」
飛行機マニアの人が画面から消えると、三好はため息をつきながら言った。
「アメリカの銃社会ってのも考えものですねぇ」
「そんなこと言ってる場合かよ」
「と言ってもここからじゃ、何も出来ませんよ。NYのど真ん中ですからすぐに警官も来るでしょうし、全員探索者ですからそう易々とはやられないでしょう。ポーションも、社員ひとりにつき何本か分渡してありますから、即死しなければ大丈夫だとは思いますが……」
画面の男は、何かを叫んでいるようだった。
興奮していてよく聞き取れないが、どうやら、探索者がこの国を侵略していやがるとか、探索者はアメリカから出て行けと言った主張をがなり立てているようだ。
「このおっさん。探索者になにかされたのか?」
「それにしたって、探索者全体に対してヘイトをぶつけるってのは異常ですよ」
その時、銃を持った男の前に、緑色をした全身スーツを着た男が立ちはだかった。まるでアメリカンヒーローのように。
『なんだお前は?』
あまりに自信満々にしている男を前に、銃を持った男は不審な顔をしてそう尋ねた。
「With no power comes no responsibility? Except, that wasn't true.」
スーツの男がそういうと、それを聞いた人々の間にざわめきが広がっていく。
同じ画面にスパイダーマンが映りこんでいるのが出来すぎだった。
「おい、あれ、危ないだろ!?」
「先輩、この人たち全員探索者です。高ステータスなら、射線をかわすくらいわけありませんし、それに今の台詞をなりきりで言ったからには自信があるんだと思いますよ」
「なりきりって……キック・アスだぞ?」
「このダサイ緑のスーツは、他にありえませんよね」
「いや、ダサイって……ともかくなりきりだとしたら、なおさらやばいだろ? あれ、主人公は激弱だし、そもそも自分で『力がない』って言ってるぞ?!」
俺がはらはらしながら画面を見ていると、銃を持った男が、こいつ何を言ってるんだという顔で、銃口を緑のスーツの男に向けようとした。
その時突然、横から紫色の髪をしたマスクの女が飛び出してきて、銃口を蹴り上げ、銃をとばして、後ろ回し蹴りで犯人を蹴りとばした。
そうしてもんどり打った犯人の前に、仁王立ちして言った。
「Ok, you cunts. Let see what you can do now.」
その瞬間、周りから一斉に歓声が上がる。
「キック・アスには、ヒットガールが付いてますからね」
「まぢですか?」
それは彼女が扮しているヒットガールの有名な台詞だった。
しかし、日本語には適切な訳語がない。「お嬢ちゃん」くらいだろうか? 「おま〇こ野郎」? それ、発音できないじゃん。あ、「〈ピー〉野郎」ならいけるか。
「Cワードバリバリですもんね。ソニーがNGを出したのもわかります」
「Eany... Meany... Miney... Mo」
「こっちも、なりきってんな」
「いや、犯人一人しかいませんし」
彼女は、対象の吟味を終えると、やたらと長いサイレンサーがくっついているように見える銃を取り出して、座ったまま後ずさっている犯人の男に向けた。
「おい!」
俺は思わず声を上げたが、次の瞬間犯人の男の額には、先端が吸盤になった短いダーツの矢が生えていた。
再び周りから一斉に歓声があがると同時に、何人かの男たちが犯人に飛びかかり、ローブでぐるぐる巻きに縛っていた。
「言ってみれば、スーパーマンの集会に、一般人が銃を持って乱入してきたようなものですよね、これ」
「ともあれ、大事にならなくて良かったよ。いくら探索者だって、銃弾に当たったら死ぬかも知れないだろ」
最初に出てきた緑のスーツを来た男は、蹴り飛ばされた自動小銃を拾って、セーフティを掛けると、紫の髪の女とハイファイブーローファイブのコンビネーションを決めていた。
公式ライブの映像の中で、中島っぽい男が、撃たれて怪我をしたと思われる女性にポーションを使ったのだろう。感謝のキスをされているのがちらりと映っていた。
中島カメラには、彼女の顔がドアップで写し出されていたから、彼で間違いないだろう。
「あー、中島さん。これは事案ですね」
「なんだそれ?」
「あとでみどり先輩のきつーいおしかりを受けるんじゃないですかね」
「え、あのふたりそんな関係なの?」
「なんとなく、そんな気がしません?」
「いや、しませんと言われてもな……」
「まあまあ、先輩はもっと見る目を養って下さい」
その少し後に到着した警官は、参加者からおせーよとなじられていた。けが人もすでに全快していて、数人が事情徴収を受けていたが、イベントはそのまま続行されたようだった。
自動小銃を振り回すやつが乱入してきて、そのまま続行って……世界は広いな。
「いや、このイベントだけだと思いますよ」
その日のアメリカのテレビはアメリカンヒーローの登場と探索者イベントの話で持ちきりだった。
それが各国のテレビへと飛び火して、結果、この日を境に、探索者のヒーロー熱が拡大していくことになるのだった。
171 NYイベント 後編 2月24日 (日曜日)
翌日、事務所に下りた俺は、昨日イベント会場で自動小銃を振り回した男の続報を聞いた三好に、説明を受けていた。
「地球解放戦線?」
「の、メンバーだって本人は主張しているそうです」
まるでアニメの中の反体制組織みたいな名称だが、こいつは実在する組織の名称だ。
Earth Liberation Front。通称ELFという過激な団体で、今では立派にFBIによって、エコテロリストと認定されている。
「それって、いわゆる環境テロリストの?」
「話を聞く限り、従来のELFとは別物っぽいです。オリジナルはここしばらくは大人しい感じですし。こちらは、地球をダンジョンから解放するための運動を行っている組織だそうです」
「ダンジョンからの解放って……いったい、どうやって?」
ダンジョンの向こうまで行って、そこにいる何かにお願いするとかだろうか?
「さあ? 埋めるとか? 過激な環境団体の論理は、意味がよく分からないものも多いですから……」
「埋められるもんなの? それにフィクションじゃダンジョンを埋めると大抵ひどい目にあうってのが定番だぞ」
「先輩。埋めるっていうのは、私の想像ですから。彼らがどう考えているのかは……今度聞いてみます?」
そのあまりに投げやりな意見に、俺は苦笑しながら答えた。
「機会があったらな。そういや、ザ・リングは蓋をしたんだっけ?」
「蓋とは言っても、あちこち換気口はあるでしょうし、単に地下へ下りる階段の地上側に扉があるってだけだと思いますけど。それに内部の調査を行っているということは、時々開けてるってことじゃないですか?」
「あそこには加速器用の原発とかあるもんな」
状況を把握しておかないと、完全な放置は怖いだろう。
しかし、もしもダンジョンの反対側がどこかにつながっていて、そこから常に何かが送り込まれているとしたら、蓋をしたダンジョンは、何かの内圧が上がり続けて、そのうちどっかに噴火口よろしく、出口が出来たりするのかね。
「ただ、今回の件は、単に、探索者を排除したかったということらしいです」
「排除?」
三好は俺の疑問に頷くと、どこから説明したらいいのか迷ったような顔をして、説明を始めた。
「事の発端は南米なんです」
「南米?」
「例えば、去年の春にあった大統領選の正当性を巡って、ベネズエラには二人の大統領が出来ちゃいましたよね」
ベネズエラは、当時現職だったマドゥロ大統領が、反政府派の有力政治家たちを立候補できない立場に追いやった上で大統領選を実施した。
そのため、反政府派は選挙をボイコット、国際社会からも選挙の中止を求める声が高まったが、マドゥロ大統領は選挙を強行して再選した。
反政府派はこの選挙を無効とし、マドゥロ大統領の任期が切れた日以降、大統領不在時の憲法規定を適用して、グアイド国会議長が暫定大統領に就任したのだ。
そのため、2018年初頭から、ベネズエラには大統領が二人いる事態に陥っている。
国際社会は、中国・ロシアを中心とした従来の東側勢力がマドゥロを、アメリカ・EUを中心とした西側の勢力がグアイド氏を支持している。
国連では安保理において、アメリカとロシアがそれぞれベネズエラに関する決議案を提出したが、それぞれが拒否権を行使して何も進展しなかった。
重大な問題において、国連役立たず論はここでも明らかになったわけだ。
ともあれ、そういう状況で、アメリカの経済制裁などが行われたため、国内は目茶苦茶で三年で総人口の一割が国を脱出するという現状に陥っていた。
国際的な人道支援も行われようとしたが、マドゥロ大統領としては、国内に人道的な問題はないという立場で、各国の人道支援を突っぱねているため、それもままならなかった。
支援を受け入れれば、人道問題が発生していることを認めることになるからだ。
「つまりは、難民か?」
「そうです。アメリカはフロンティアスピリットに溢れた国ですが、十分裕福になった国でもありますから、ダンジョンができた当初、何人かが死んだ後は積極的にダンジョン探索をする人が少なかったんです」
興味本位にダンジョンに入って、戻って来なかった数がそれなりにいて、かつニュースになれば、いかに無謀な人間でも躊躇くらいはするだろう。
放置しておけば、今の生活に何も関わってこないのなら、なおさらだ。
「ダンジョン攻略局が迅速に作られたってのもありますけど……こうしてみると、ダンジョン攻略局が作られた時期って、ものすごく早いですよね」
「ザ・リングの救出用だったからだろ。空軍の部隊が蹴散らされたからダンジョン攻略局が作られたみたいな話を、以前サイモンがしてたじゃん」
「うーん。だからと言って、いきなり特別な部署を作ったりしますか? 部隊の編制ならともかく」
蹴散らされたのはその場にいた空軍の部隊だ。
確かに迅速に行動するなら、次は陸軍の精鋭を派遣する気もするが……
「ダンジョンが発生した原因が、ザ・リングにあるってことを、上層部が調査をする前から知ってたってことなのかもしれないが――」
俺は、人さし指で、自分のほほをポリポリと掻いて続けた。
「――今のところ、この藪はつつかずにおいておくのが無難だろ。突っ込んでも現状は何も変わらないし、良いことはなさそうだ」
「そうかもしれません」
「で、少なかったからなんだって?」
「グリーンカードの技能者枠に探索者枠が作られたんですよ。しかも取得までの期間は、たった2か月です」
「2か月?!」
現職のハンドラー大統領は、不法移民にはとても厳しい政策をとった人だ。
移民もかなりの数を制限したようだから、合法的に入国できる探索者枠は、大人気だっただろう。
しかも、通常のDV抽選永住権なら、取得までに、下手をすれば年単位で時間がかかるのだ。
南米のどこかでDカードを取得して、そのまま申請すれば、2か月後にはアメリカの永住権をゲット。それは殺到するだろう。
「それで、ダンジョンがある地域には、難民というか移民がどっと押し寄せたわけです」
「BPTDがあるNYは大人気だったろうな」
「ただでさえ、人種のサラダボウルなんて言われてますし、NY市長は民主党が優勢で、リベラルっぽい人が多いですから」
「そこで、文化的な差異による行動や、仕事の奪い合いが発生して、愛国主義者が台頭するわけだ」
「定番の流れですね」
探索者を一年もやれば、ステータスのこともあって、いろんな意味で優秀は人材になる。
雇う側としては、同じ給料なら優秀な人間を雇いたいものだ。
つまり、そういう連中が探索者をやっていない連中から、仕事を奪っていったように見えることは想像に難くなかった。
「それを探索者による、アメリカの侵略だと?」
「移民の国なのに、侵略もくそもないとは思うんですが……ただ、事態はもう少し複雑みたいです」
どうやら、Big4(アメリカの4大プロスポーツリーグ)の台頭選手が探索者上りで占められていたり、他にも社会のいろいろな場所で、探索者の後塵を拝するようになると、まるで自分たちが劣っているもののように感じられるそうだ。
「神経症じゃないの、それ」
「一度気になり始めたら、どこまでも気になっちゃうってところはあるでしょうが……そろそろ社会学者なんかが、そういった研究を発表しそうじゃありませんか? 人類の意識がどんな方向に進んでいくのか予断を許しません」
「いや、ちょっと待て。人類の意識って、そんな大事なのかよ、これ?!」
、、、、、、、、、
『ハーイ! ナカジマ』
『ハイ』
健康そうな太ももを大胆に晒した女の子が、手を振って中島に挨拶しながら通り過ぎた。
つられて、中島もアメリカナイズされたあいさつで手を振りかえした。
「なんだ、すっかりこっちの女の子と仲良くなったみたいじゃないか」
「所長?! や、やだなあ、誤解ですよ。昨日撃たれた人を助けて歩いていた映像が流れちゃっただけで」
「他人に貰ったポーションを使うだけで、気前のいい紳士に思われるとは、なかなかいい役どころだな?」
「は……はは」
みどりから立ち上がるプレッシャーで、額に汗を浮かべながら、中島は、計測タイムテーブルに従ってリアルタイムに上がって来るデータを整理していた。
常磐のスタッフたちは、それを遠巻きに眺めながら、流れ弾を避けて各セミナー会場へと散っていった。
「ここは……、『スキル持ちによるコマンド調査』ね」
そそくさと逃げ出してきた縁は、手近な区画で行われているセミナーを覗いてみた。
そこでは、結構な人数が集まって、Dカード上のスキルに対するコマンドを試していた。
掲示板上で行われていたコマンド調査でも、スキルに対してのコマンドは対象外だった。それくらいスキル持ちは少ないはずだったのだが――
「スキルを持ってる人って、結構いるんだ」
そこに集まった人たちは、意味別に分かれて、あるかもしれないコマンドを試していた。
掲示板上では、AからZに分かれてしらみつぶしに調べる手法を採っていたが、時間のないイベントでは、ありそうな意味を持ったコマンドを思いつく単語で試す方法で行われていた。
縁が、うろうろと、その部屋をアクションカメラで撮影していると、突然、もっとも勇気のある人たちがいると思われるグループから、魂を削るような叫び声が上がった。
「ファック! マイガッ!!」
それを聞いた、同じ空間にいたものたちは、ほぼ全員が、その声を上げて頭を抱えている男に目を向けた。
『おい、どうした、リック? 大丈夫か?』
一緒に来ていた仲間にそう問われた男は、泣きそうになりながら手を挙げて、自分が何かを発見したことを、このセクションのマネージャーに告げた。
縁も、興味を惹かれて、そちらへと移動して言った。
『それで、一体何があったんだ?』
『スキルが消えてなくなるコマンドを見つけた』
『き、消えてなくなるだって?! もしかして、君……』
『ああ、さっきまでここにあったはずの虎の子が、ものの見事に消えてなくなったんだよ』
リックは、自分のDカードを彼に見せながら、何も書かれていないスキル欄を指さした。
それを聞いた周りの探索者から、ざわめきの声が広がり、最後には控えめに感嘆の声が上がった。なにしろ、肝心の発見者は悲嘆に暮れているのだ。
『それは、まあ、なんというか……』
セクションマネージャーの男も、何と言っていいか分からず、頭を掻きながら言葉を濁した。
あるかもしれないという意味では、消去コマンドは代表格と言えるだろう。しかし、自分のスキルに向かって、eraseだのdeleteだのremoveだのclearだのを試すのは、勇気以上の何かがいるのだ。
みな、しり込みして、それらの単語を試すのは憚られていた。
『す、すばらしい勇気だ』
マネージャーの男は、ひきつった笑みを浮かべながら、なんとかそれだけを絞り出した。
、、、、、、、、、
俺たちは、縁チャンネルから上がる悲鳴を聞いて、その画面に注目した。
「おいおい、また乱入事件でも起こったんじゃないんだろうな」
「そんな感じでもなさそうですけど」
俺たちは、画面の中で、死にそうな顔をしている男と、セクションマネージャーらしき男のやりとりを見ていた。
「せ、先輩! スキルの消去コマンドだそうですよ!」
「まじかよ……」
「これで――」
「――マイニングの呪縛から逃れられるって?」
今も十八層で、必死に取得しようとしている人たちが聞いたら、何言ってんだコイツと殴られそうだが、これのせいで探索が滞っていたことも事実だ。
もしも必要になったら、誰もいないはずの山の下の洞窟でいくつでも拾えそうだしな。
、、、、、、、、、
『それで、君の名前は?』
『リチャード。リチャード=ファインドマン』
、、、、、、、、、
「どこの物理学者だよ!」
「ファインマンじゃありませんよ。ファインドマンだそうです」
「見つける人ってことか? 出来すぎだろ!」
、、、、、、、、、
『そ、そうか。さすがはリチャード。名前通りに勇敢なんだな』
リチャードは、もともと、ふたつのゲルマン語から作られた名前で、力や勇敢、強さなどを意味しているのだ。
『ちょっと後悔してるけどね』
『むっ……それはまあ、なんというか』
マネージャーの男は、何と言っていいのか分からず、再び言葉を濁すしかなかった。
『そ、それで、キーワードは?』
『そうだ、聞いてくれよ。さすがに自分のスキルに対して、erase や remove や delete を試すのは、頭のねじが外れたやつだけだろう?』
『ま、まあ、そうかもな』
彼は、それ以前に、消去系のコマンドを探そうとする奴は、どっかおかしいだろと突っ込みを入れたかったが、自制した。
『それで、俺はもう少し婉曲的に、スキルを擬人化してさよならを言ってみたんだ』
『see youとかgood-byeとかってことかい?』
『そうさ。まさかそれがヒットするとは……』
『え? まさか、bye?』
『いいや……farewellさ』
、、、、、、、、、
「farewellって、動詞ですらありませんよ」
「間投詞ってことだろ。good-byeでもよさそうだけどな」
「ほら、ダンジョンってちょっと厨二病っぽいところがありますから」
「ああ――」
俺は思わず納得した。確かにfarewellには、「さらば」って感じの印象が強い。神の言葉しかり、ダンジョンが厨二病っぽいのは、タイラー博士たちや探索者諸氏が、皆そういう傾向を持っていたからなのだろうか。
「誰しも、心の中には、厨二領域を持っているものなんですよ」
俺は思わず吹き出した。厨二領域ってなんだよ。
「それにファンタジー系のエンタメにそういう要素がなかったりしたら、主人公が存在できません」
したり顔でそう言った三好は、タブレットを取り出して、何かを入力していた。
俺は、早速自分のDカードを取り出すと、マイニングに対してそれを使ってみた。
、、、、、、、、、
「ん?」
スマホが振動して、メッセージの到着をつげている。
縁は、それを取り出すと、送られてきたメッセージを読んだ。
『farewellかー。そいつは意外だ。しかしこいつを追試するって訳には――』
マネージャーがそう言ったと同時に、周囲からざわめきが起こると、人の輪が少し広がった。
『ははは、まあ、そうだよね』
このコマンドを追試するということは、自分のスキルを一つ失うということだ。ほとんどの人にとって、それはすべてのスキルを失うということだろう。
『あ、あのー』
『ん、君は?』
『私は、ユカリ=ツヅキ。ワイズマンに派遣された計測スタッフです』
縁は自分のIDを見せながらそう言った。
『おお! ワイズマンにはこんな素晴らしい会場を用意していただいて感謝しています!』
『あ、どうも。それで、farewellコマンドの追試なんですけど――』
『いや、さすがにそれは無理でしょう』
マネージャーは、眉間にしわを寄せて、頭を振った。
『いえ。今ワイズマンから連絡を貰って、こっちでも確認したから追試の必要はないそうです』
『確認した?』
『はい』
『今?』
『はい』
『なんてこった! 流石はワイズマン、クレージーだぜ……』
周りの探索者からも、つぎつぎと信じられないと言ったセリフがこぼれていた。
『確認もなにもなしで、突然消えてしまうので、冗談で試すのはやめるようにと言っています』
『そいつは酷ぇUIだな。了解した。ご協力に感謝しますと伝えてくれ』
『わかりました』
縁は、スマホにそれを入力しながら、三好さんたちはこの映像を見ているんだから、必要ないかと思いなおして、途中でやめた。
『それでですね――』
そうして、縁は、肩を落とすリチャードに向かって言った。
『――ミスターファインドマンの勇気に敬意を表して、無償でスキルをお譲りしても良いとのことですが……どうします?』
『は?』
リチャードは一瞬何を言われたのか分からなかったが、それは縁の発音のせいではなかった。
しばらく呆けた後、その意味を理解した彼は、満面の笑みを浮かべながら、『ありがとう!』と言って、彼女の手を両手で握るとぶんぶんと上下に振った。
『WOW! これって美談?!』
とマネージャーがことさら大げさに騒ぎたてている。
『都合の良い時に、代々木までおいで下さいと言うことです。東京までの往復の旅費は彼女が負担するそうですよ』
『INCREDIBLE!』
こぶしを握り締めて、大仰なガッツポーズをとるリチャードの周りで、探索者たちが驚きの声を上げていた。
『おい、それって、ワイズマンにはスキルオーブを用意する方法があるって事か?』
『謎のオーブオークションとかやってたもんな、そういえば』
『オークションもそうだが、こういうからにはいつでも採って来れるってことか?』
『……オーブハンターって、本当だったのか』
『信じられん』
リチャードの知り合いらしき探索者が、彼の肩をバンバンと叩いて、よかったなと言いながら提案した。
『おい、ついでに消えたスキルがゴミ箱から復帰できないか試そうぜ!』
『そうだな。こんなシチュエーションは二度とないだろうからな』
『まあ、自分のスキルを積極的に消去する奴はいないよな』
『ゴミ箱からに復帰なら、restore か?』
『いや、消すときが「さよなら」なんだから、welcome とか?』
『いやいや、やっぱここはかっこよく、revive だろ?』
『それならもっと神学よりにして、resurrectじゃないか?』
『いや、お前ら、それって、全然 farewell と対をなしてないだろ。come back だぜきっと』
『とにかく全部試そうぜ!』
『おおー!』
リチャードの損失がなかったことになりそうになって初めて、その場の探索者たちは、新しいコマンドの発見に純粋な喜びを見出していた。
、、、、、、、、、
「いやー、ほんとに助かったな」
「ねー」
俺たちは、マイニングが消えた自分のDカードを、すっきりとした気持ちで眺めていた。
「だけど、未使用のマイニングは、あと一個しかないぞ」
「先輩、それって日本ダンジョン協会から預かってるやつですよ」
「あ、そういやそうか……じゃ、二十一層の補給がてら十八層でついでに狩っておくか」
「あの詐欺みたいなPPパックの製造も終わりましたし、マイトレーヤのふたりもそろそろ活動を開始しそうですしね」
「そういや33層への入り口って発見されたのか?」
「到達階層は更新されていないので、まだみたいですよ」
「日本ダンジョン協会は三月頭のセーフ層の競売でてんやわんやみたいだしなぁ」
「しばらくはセーフ層開発や機材の搬入にトップエンドの探索者のリソースが割かれるんじゃないでしょうか」
「ああ、なんだかんだ言って、三十二層へ到達できる探索者は多くないもんな」
渋チーやカゲロウの到達階数は、今のままだと、せいぜい二十層半ばってところだろう。民間のトップがそうなのだから、いかに三十二層への到達が難しいか分かるというものだ。
「でも、先輩。代々木の五層以上に到達している探索者の平均到達階数は、かなり伸びてきてるみたいですよ」
「へー、なんでだろ?」
例の五億人やテレパシー騒動で、探索者の母数は大幅に増えているから、全体としての平均は下がっているはずだ。
しかし、Dカードが欲しかっただけの人たちでは、五層より先に行くことは難しい。五層に到達する探索者と言うのは、それなりにまじめに探索をしている人たちなのだ。
最近の増分は母数に含まれていないだろう。
「先輩……何言ってるんですか、キャシーのせいに決まってるでしょう」
「それって……」
「二十日までで10回開催、卒業生が70人でも結構底上げできるものなんですねぇ……」
スポーツ関係等の特別な人員も含まれて入るが、攻略組織に属していない一般人ではトップエンドに迫る70名だ。
稼いだステータスポイントが増えるわけじゃないからランキングは変わらないだろうが、実力は数層分程度はプラスされているはずだ。
これをどんどん繰り返していけば、フロントラインに立てる人材もいずれは生まれてくるのではないかと期待している。
「結果が目に見えるようになると、ちょっとやる気が出るよな」
「週明けから、第2も立ち上がりますし」
ダンジョン攻略局のスタッフが待機しているって理由で、サイモンたちの催促が激しかったのだが、組織用に立ち上げた設備もとうとう内装が終わって来週から稼働するらしい。
「最初は全部ダンジョン攻略局関係?」
「仕方ありません」
なにしろ、わざわざ待機して待ってますからね、と、三好が軽く唇を曲げて肩をすくめた。
「でも先輩。ダンジョン攻略局で結果が出ると、他の国の攻略組織の訓練も請け負うようになったりするかもしれないですよね」
「まあ可能性はあるな」
「そしたら、私たち、またまた口封じの対象ですね!」
「なんで?! いや、それよか、なんでそんなに嬉しそうなの!」
「だって、言ってみれば各国軍隊の強さに対する詳細で完全なデータを、民間の会社が保持するってことになるんですよ?」
考えてみればその通りだ。
しかも普通の訓練施設と違って、そのデータは客観的に数値化されていて、客観的に比較できるのだ。
メイソンとキャシーの腕相撲を見ていれば、その精度は明らかだろう。
「ぐふっ……」
「どこが一番強いんですかね?」
「いや……ほら。探索者ランキングを見れば序列はわかるんだから、それほど気にしないんじゃないの?」
「名前を隠している秘密兵器っぽい精鋭とかが来たら面白いですよねー」
「面白くないよ!」
上位ランカーは大抵存在が割れている。
だから三好が言うような存在が、ほいほい上位にいるとは思えないが、ダブルには匿名探索者もそれなりにいるし。サード上位ならなおさらだ。絶対とは言い切れないだろう。
「まあ、そういう杞憂はおいておいて、ですね」
「それほんとに杞憂なの?」
少なくとも、天が落ちてくるよりは高確率な気がするんだが。
「まあまあ、先輩。なら、今後は十八層経由で最前線へ?」
「はぁ……まあそうだけど、明日は二十五日だろ」
「そうですけど」
「〈収納庫〉取得のクールタイムが明ける日なんだよ」
「ああ……だけど売りには出せませんよね?」
「今のところはそうだな。で、どうする?」
「先輩が使えばいいんじゃ?」
「〈保管庫〉と競合しておかしくなったりしたら困るんだよ。主にオーブの保存面で」
合体して空間は大きくなったけど、時間の経過も十分の一になりましたじゃ洒落にならない。
もちろん別々に使える可能性もあるが、どちらに入れるのかなんてUIを考えると、合成される可能性だってゼロじゃない。
リカバーしようにも、〈保管庫〉が採りなおせるのは三年近く先なのだ。
「さっきのfarewellもそうでしたけど、やってしまえば取り返しがつきませんからね。慎重にもなりますか」
「そこで三好の2重取得ってのも考えたんだが」
「ひとつでもまだ底が見えませんからね。効果も分かりませんし」
「じゃ、三代さんか鳴瀬さんに?」
「三代さんはともかく、鳴瀬さんは使い道がないでしょう」
「三好みたいに秘密の資料をつねに携帯しておくくらいか」
「どうせ公開する翻訳に秘密の資料とかありませんし」
そりゃまあそうか。
「なら、三代さんか?」
「ステータスよりもずっと大きなスキルの力を持っちゃったりすると、無理が出来ちゃって早死ににつながりませんか?」
「洒落にならんが、可能性はあるな……」
「クールタイムのために取得はしておくべきだと思いますが――」
「――しばらくは、保管庫の肥やし?」
「ですね」
大きな力には、大きな責任が伴う、か。
俺は昨日の騒動のことを思い出していた。
「いっそのこと、キャシー……は調子に乗りそうだからおいといて、サイモンかミーチャにでも渡しちゃうとか?」
「それもありかもしれません。ダンジョン攻略局の依頼が減りそうです」
「もう支払いを受けているやつがなに言ってんの」
「そうですよ! 確かにハンドラー大統領のコレクションには、もう少し興味が……」
「そこかよ! 俺はもうハガティさんみたいな偉い人には会いたくないぞ」
ロザリオが俺たちのやりとりを笑うように、美しい声で鳴いた。
グラスは我関せずと、ソファーを一つ占有して尻尾を振っている。
何はともあれ、セーフ層よりも先へ。その準備が整ったことだけは確かだった。
172 intermissions
それは、御殿通工のストップ高が続いた9日目、東証が閉じた直後のことだった。
少量の売りに対してストップ配分が行われたその日、各証券会社のPTS(Proprietary Trading System:私設取引システム)上で大量の売りが、買いを少しだけ残す形で行われたのだ。
そして、その日市場外取引で5200万株の御殿通工株が約定した。
「用意されていた45憶ドルがほぼ約定しました。この後のご指示を」
買いは、用意された資金から逆算して発注されていた。しかし、まさかこの状況で、それほどの数の現物株を一度に放出できるホルダーがいるとは思わなかったのだ。
予定通りの予算だとは言え、タイミングが悪い。
指示を仰がれた男は躊躇したが、すでに9五百円で約定したのだ。夜間PTSの値幅は翌日取引のものが適用されることが災いした。
「資金は都合しておくが、当面は様子見だ、大きく下がりそうなら買い支える方向で処理しろ」
なにしろ、D132は高価な部品だ。利益もより大きいだろう。それが何億個、場合によっては何十億個も出荷できる可能性があるのだ。
莫大な利益の可能性があるとはいえ、この10日で株価が上がりすぎた。そろそろ成り行きは手じまいしようかと思っていたところにこれだ。
予定では3倍から、せいぜい5倍で売り手が現れると思っていたが……どういうわけか端株はまるで集まらなかった。予め誰かが買い占めていたかのように。
ここで株価が大幅に値崩れしたりしたら、数日後にはサメの餌だ。
すでに日本の大学には行きわたったと連絡が来ている。連中もすぐに機器の公開をするはずだ。それまで買い支えることが出来さえすれば――
男は、覚悟を決めて受話器を上げた。
、、、、、、、、、
探索者然とした男たちが、代々木公園のイベント広場付近に置かれているベンチで、簡単な昼食を食べていた。
パークスの肉まんを振りかざしながら、一番若そうな男が興奮して言った。
「いやー、探索者のイベントの事件、カッコ良かったよな!」
「ああ、NYの?」
イベントに自動小銃を持った男が乱入してきたのだ。
冷静に考えれば、かっこいいとかいうレベルの話じゃないことは明らかだったが、特に犠牲者もおらず、ヒット・ガールの活躍だけがクローズアップされていたため、まるでフィクションの中の出来事のように扱われていた。
「そうそう。渋チーといいさ、俺たちってダンジョンでレベルアップして、実はヒーローみたいになってるんじゃね?」
「アメリカじゃ、悪いやつらを取り締まる自警団みたいな探索者組織が、出来てきてるみたいだぞ」
「さすがは、ガーディアン・エンジェルス発祥の都市」
「GAって、日本にもあるらしいじゃない」
「へー、でもあの赤いベレーを駅辺りで見かけたことなんかないぞ?」
「日本の鉄道は治安がいいからねぇ」
最初に発言した男が、食べかけの肉まんを飲み込むと、脱線した話を元に戻した。
「でさ。あれって、俺達にもできるんじゃね?」
「ええ? ヤーさんの事務所にでも殴り込むのか?」
「それはフツーに犯罪。それに、絶対その場で殺されるって」
「いや、渋谷辺りで女の子に絡んでるやつらとかさ、やっちゃえるんじゃね?」
「渋谷ぁ? 昔ならいざ知らず、今は、カラーギャングとか、ギャグでしかないだろ? 埼玉にしかいねーじゃん」
「まあなぁ」
渋谷にそういう雰囲気があったのはもう二十年も昔の話だ。今は、円山町や道玄坂あたりでも、それほど頻繁に何かが起こるわけではない。
なにしろ、今や繁華街は監視カメラだらけだ。簡単に犯罪も犯せない。
「新宿や池袋も、悪質なキャッチは影を潜めたっていうし……」
「こうやってみると、東京って平和だよなぁ」
人に慣れた鳩が、彼らの少し先までちょんちょんと跳んで近づき、何かくれるのと首をかしげた。
「確かに平和だ」
男はそう呟くと、食べかけていたメロンパンのクッキー部分を小さく砕いて、鳩に向かってそれを撒いた。
NYに比べればずっと平和な東京に、にわかヒーローたちの活躍の場が、それほど多くあるはずがなかった。
、、、、、、、、、
『ターゲットはこいつらだ』
代々木ダンジョンカフェの窓際の席で、細身の体にぴったりとしたスーツを着こなした、ライトブラウンの髪と瞳の男が、赤い髪と黒い瞳の美貌の女に、自分のスマホに表示されている写真を見せた。
男の名は、デヴィッド=ジャン・ピエ−ル=ガルシア。元はケチな詐欺師まがいだったが、今ではコンセイユ・デタへの届け出も完璧な宗教団体の代表だ。
女はそれをちらりと見ると、男好きのする派手な肉体を絶妙の角度でひねって足を組み替えながら、けだるそうに聞いた。
『デヴィッド。それで私は何をすればいいわけ?』
赤い髪と黒い瞳の肉感的な女は、サラ=イザベラ=マグダレーナ。
煽情的な美貌で男を手玉に取る女だったが、偶然付き合っていた男に押し付けられた特殊な能力を身に着けたことでノイローゼ気味になり、一時的に掛かった精神科医が、デヴィッドの組織の聖女様に傾倒したあげく、彼女のことをデヴィッドに漏らしたのが知り合ったきっかけだった。
カネになりそうなことには、人一倍鼻が利くデヴィッドは、その後彼女を一本釣りしたのだ。
◇
一般には、ほとんど知られていない、アルトゥム・フォラミニス・サクリ・エッセ(深穴教団)は、それを知る者からは、ヴォラーゴーでもハデスでもアビスでもタータラスでもない地の底――ダンジョンを信奉するキリスト教系のカルトだと認識されていた。
その名の由来は、教団の聖女、マリアンヌ=テレーズ=マルタンが、ダンジョンで癒しの力を得たことに基づくとされていたが、数多ある他のカルトとは、ある一点で一線を画していた。
つまり、マリアンヌは本物だったのだ。
デヴィッドは、二年前、アンドラ公国のエンカンプで、彼女に出会った。
そのとき彼女は、みすぼらしい服を着て、エンカンプの街の共同墓地にある、サンマルク&サンタマリア教会の小さなベンチで、ひざまずいた地元の老人たちに囲まれていた。
「あれは、何かの集会なのかね?」
奇妙な集団を不思議に思ったデヴィッドは、職員のような男に尋ねた。
男は、ちらりとそちらに顔を向けると、「あれは、マ・サンタを求める人々だ」と小さな声で答えた。
「マ・サンタ(聖なる手)?」
そう聞き返したデヴィッドに向かって、小さく頭を振った男は、触れてはいけないものから逃げるように、彼に背を向けて去って行った。
好奇心を大いに刺激されたデヴィッドは、別のベンチへと腰かけて、遠目にその集団の様子を窺っていた。
しばらくすると、門の方にあわただしい動きがあり、ぐったりとしている年老いた女を、夫だろうか、狼狽した男が担いで、ベンチ脇へと走り寄った。
料理の時、誤って油でも被ったのだろうか、女の顔は赤くただれていて、上半身に酷いやけどを負っていることを感じさせた。
さっさと病院に連れて行かなければ命に係わるはずだ。デヴィッドは、なぜこんなところに連れてくるのかと、蒙昧な老人たちに怒りを感じたが、次の瞬間には、彼の中から、驚き以外のすべての感情が消し飛んでいた。
ベンチに腰かけていた少女は、何かの呪《まじな》いのつもりなのか、静かにほほ笑んだまま、女の顔に手をかざしただけだった。そう、たったそれだけで、今まさに死にかけていた女のただれた顔は、まるで逆転再生される映像を見るかのように、正常な状態へと変化していったのだ。
女を連れてきた男は、彼女の足の甲にキスをするように頭を下げた。
思わず腰を浮かせたデヴィッドは、顎が外れるほど大きな口を開けたまま固まっていたが、しばらくすると、時間が戻って来たかのように、全身から力が抜け落ちて、そのままどさりとベンチに腰を落とした。
自分は今、人生の極めて重大な岐路に立っている。彼は強くそう感じた。
そう、彼は今、天啓にうたれたのだ。
治療の奇跡そのものは、ダンジョン産のポーションを使えば可能だろう。もっとも彼女が高価なポーションをわざわざ無償で使う理由はないし、実際そうしているとは思えなかった。
ともあれ、デヴィッドにとって、それが本物の奇跡だろうと手品だろうと、そんなことはどうでもよかった。重要なことは、それが本物に見える、その一点だったのだ。
神は、人が生み出した最高の商品の一つだ。なにしろ神の愛は無償なのだ。つまり、仕入れはつねにタダ。原価率が0%の商材を、皆が競って買い求める。定価はないも同然だ。
それを販売するためのシステムとして作り出された宗教も素晴らしい。教義や儀礼は、それを販売するための演出であり、施設や組織は、言ってみれば専用の商店のようなものだ。
そうして、信仰を抱いた人々は、大枚をはたいて、心の平安などと言う益体もないものをお買い上げになるのだ。
そんなものが欲しいのなら、好きな女の胸に抱かれて眠れと言いたいところだが、金がかかるという点では、どちらも同じようなものだろう。もっとも、後者には、肉体的な満足感というおまけがついていて、さらにお得なはずなのだが、現世の柵という厄介なお荷物が付いてくることもあるので注意が必要だ。
その日のうちに、デヴィッドは、マリアンヌの後をつけて自宅を突き止めると、彼女の父親に商談を持ちかけた。控えめに言ってもクズだった彼女の父親は、わずかの金で、自分の娘を喜んで詐欺師へと売り飛ばしたのだった。
奇跡を体現していた娘は、聞けば聞くほど完璧だった。
プレノンのマリアンヌは、フランス共和国の擬人化されたイメージだし、おまけに彼女のドゥジエム・プレノンは、テレーズで、苗字がマルタンだったのだ。フランスで最も多い苗字だとは言え、嫌でも、フランス第二の守護聖人であるリジューのテレーズを彷彿とさせた。しかも、彼女は病人や弱者の守護聖人だ。もはや満点以上の出来の良さで、まるで最初から創作したかのような出来栄えだ。
そうして、教団を立ち上げた彼は、彼女の奇跡を武器に、政治家や富豪を巧みに抱き込んでいった。
国家や大企業を運営するものは、人々が思うよりもずっと、神秘主義やオカルトに傾倒する傾向が強い。ラスプーチンやフリーメイソンを始めとする歴史がそれを証明していた。だからこそ、自分たちにも熟した果実をもぎ取るチャンスが与えられるのだと、彼は信じていた。
小さな奇跡を体現する娘は、ポーションなどを駆使して、それを過大に見せる彼の演出によって、偉大な聖女へと様変わりした。そうしてそれは、世界の富裕層を骨抜きにするのに、大いに役立っていた。
彼女の美しさと共に。
◇
代々木ダンジョンカフェの、大きなガラス越しに見えるデヴィッドとイザベラの姿は、まるでヨーロッパ映画のワンシーンのようで、外を通る人が時折振り返っていた。
もしも声が聞こえたとしたら、彼らが話すフランス語が、それに輪をかけていたことだろう。
『いつも通りに、尋ねてほしいだけさ――』
デヴィッドは、優雅にエスプレッソカップを持ち上げてカフェに口をつけると、眉をひそめた。
カフェが口に合わなかったからか、ザ・ファントムが苦々しかったからか、はたまたその両方だったのかは分からなかった。
『――ザ・ファントムと呼ばれるふざけた探索者のことを』
彼らは、調査のプロに任せてみたり、DAに探りを入れたり、果ては財界を利用して自衛隊にまで働きかけてみたが、ファントムの行方は杳として知れなかった。
そいつはまるで、この世界に存在していないかのようだったが、イギリスから漏れてきた情報などを総合しても、必ず代々木にいるはずだった。
もはや手掛かりになりそうな人物は、Dパワーズとかいうふざけた名前のパーティくらいだったし、そのままではらちが明かなかったため、日本への布教を口実に、デヴィッドは聖女を連れて来日していた。
『こっちの女の子が、アズサ?』
『そうだ。おそらくその女の方が本命だが――』
『〈鑑定〉がどう影響するかわからないんでしょう?』
デヴィッドは、肩をすくめて答えた。
『まったく厄介なことだ』
もしも人間が鑑定出来て、そのスキルまで見透かされたりするとしたら、彼女には近づくだけでも危険だと言えた。
『悪いことばっかりしてるから、〈鑑定〉を恐れるような羽目になるんじゃない?』
『あんたに言われたかないね』
イザベラの過去をそれなりに知っている、デヴィッドがそう切り捨てた。
『あら、酷い』
眉をひそめながらナチュラルに科《しな》を作る女のしぐさは、男なら、多かれ少なかれ欲望を刺激された。
だが、この女と寝るということは、ベッドにオーダー・モフテーレ《サソリ》を迎え入れるようなものだ。身を滅ぼした男たちは、彼が知っているだけでも、両の手の指に余る。
この女はただのハニトラ要因とは違うのだ。”ナイトメア”イザベラ。その二つ名は伊達ではなかった。
『それに、トリガーがトリガーだから、男性の方がいいわね』
『どちらもいけるんだろ?』
デヴィッドの揶揄するような問いかけに、彼女は涼やかな声を立てて笑った。
『その男は、頻繁に代々木に現れるらしい。見かけたら……あとは任せたぞ』
『私が張り込むわけ? ダンジョンの入り口で、立ちん坊?』
明らかに不満だという顔で体をテーブルの上に乗り出す彼女の前に、デヴィッドは携帯電話を置いた。
『そいつが代々木に現れたら電話が鳴る。そうしたら、ダンジョンの入り口付近へ向かえ』
そのくらいなら仕方ないかと、イザベラは矛を収めて言った。
『東洋人の顔を見分ける自信がないんだけれど、まあなんとかやってみるわ』
『よろしくな。で、それはいいんだが――まさか、その格好でダンジョンに入るのか?』
体にフィットした、オフショルダーのインナーが、前の空いたトールカラーのように襟の立ったアウターと一体化したトップスと、足首まである大きくスリットの入ったロングスカートから時折覗く形の良い足が人目を引きつけていた。
『あまり派手な格好で来るなっていうから、できるだけ露出の少ない格好にしてみたんだけど。これでも一応シャネルよ、どっかおかしかった?』
派手な格好で来るなと言ったのは、目立つなと言う意味だ。
そもそも、ダンジョンにその格好で来るやつは、それだけでどっかおかしいし、そんな恰好でダンジョンに入ったりしたら、異様に目立って仕方がないだろう。
こいつにとって、ダンジョンもリゾートも同じなのかもしれないが……
『いや、とてもよく似合ってはいるが、ダンジョンに入るには……な、わかるだろ?』
『ああ、そういうこと。もちろんこのまま入ったりはしないわよ』
彼女はそれくらいわかっているわよと言わんばかりに、鼻白んだ。
『ならいい』
デヴィッドは、それを聞いて、こいつにも常識はあったかと安堵したが、続くセリフを聞いてがっくりと肩を落とした。
『ルブタンはルコックに履き替えるに決まってるでしょう?』
、、、、、、、、、
その日、クールタイム明けの〈収納庫〉を求めて代々木へやってきた俺は、一層に下りたところで、あまりにも場違いな女と出会った。
その女を見た俺は、自分が下りて来たのが、サン・ドメニコ・パレス・ホテルのプールへ下りる階段で、目の前にはタオルミーナの海が広がっているような気がして、思わず二度見してしまった。
二度見したのがばれたのか、人の流れとは反対の方向にいる俺に向かって、彼女はつかつかと歩み寄ってきた。
ダンジョン内で、ドレスコードのあるパーティでもやっていそうな雰囲気に、いくらなんでもその格好はどうなのと、以前の自分のことは棚に上げて思ってしまった。
最初に普段着で入ダンしていた俺を、探索者諸氏が奇異のまなざしで見ていたその気持ちが、やっと理解できたような気がした。
「Coミリent allez-vous?」
うっ、フランス語だ。しかもフォーマルかよ。
ここは第3外国語の力を見せて……やれるわけないな。十年も前の話だもんなぁ。英語じゃだめ? フランス人は厳しいからなぁ(偏見)
「あー。パ マル メルスィ エ ヴ?(まあまあ。あなたは?)」
知らない日本人が近づいてきたら、適当にあしらって逃げるのに、外国人だとつい対応してしまうのはなぜだろう。これがおもてなしの遺伝子だろうかと下らないことを考えながら、思わずそう答えていた。
その女は、にっこりと笑っただけで、黙ってこちらに近づいてくる。
「ウー……ケス ク テュ ブー?(ええっと……何か用?)」
女は、武道の達人が、来るとわかっていながら防げないタイミングで、相手の間合いにするりと入り込むように、俺のパーソナルスペースへもぐりこんで、俺の肩に触れた。
足元から立ち上る優しく甘い香りに、まるで脳をマヒさせられたかのようで、ゆっくり近づいてくる彼女の顔に、俺は反応できなかった。
その香りが、サンスクリット語で『愛の神殿』を意味していることなど、その時はまったく知る由もなかった。
そうして柔らかな何かが、一瞬唇に触れた瞬間、呪縛が解けたように我に返った俺は、思わず1歩後ろへと下がった。
「え、あ……」
一瞬、何をされたのか分からなかったが、階段を下りたばかりの探索者たちの、『リア充死ね』という呪いのこもった視線によって、今起こったことを理解させられた。
(うそだろ……)
一層の探検なので、ステータスはいつもの数値のままだったとはいえ、人類の中では上位の一握りに近いはずだ。
おかげで、意表を突かれるとステータスが役に立たない場合があるってことがよくわかった。もっとも、もしかしたらLUC100のせいなのかもしれないが。
俺の影にいるはずのドゥルトウィンが何もしなかったのは、おそらく、彼女に俺を傷つける意図がまるでなかったからだろう。人が近づいただけで反撃するようでは、普段の生活もままならない。
その時彼女が何かを言った。
「Retrouvons-nous――」
「クヮ?(なんだって?)」
俺は我に返ると、最後に聞き取り損ねた部分を問い直したが、彼女は、妖艶な笑みを浮かべただけで、足早に遠ざかり、ダンジョンから出て行った。
ルトゥボンヌ ドーンザン……なんだって? レーブ?
くそっ、相変わらずフランス語のリエゾンとアンシェヌマンはわけがわからん。しかもリエゾンはしたりしなかったりするとか、ふざけるなよと言いたい。
だって一文を一単語として発音しているようなものなんだよ? ドイツ語の複合名詞よりも質が悪いよ!
お前らは単語と単語の間にある半角スペースの意味をよく考えやがれと、フランス語の教科書に向かって憤慨し、第3外国語を落としかけた記憶が生々しくよみがえってきた。
幸い試験にリスニングはなかったので、ぎりぎり『可』は拾えたのだが。
、、、、、、、、、
何、あの坊や、目茶苦茶ちょろいんだけど。
代々木の階段を昇りながら、イザベラは今しがた目の前にいた男のことを思い返して、警戒していたのが馬鹿みたいだと思った。
自分よりも年上だろうと、女慣れしておらず、嫌悪を抱かないものは、イザベラにとって、皆、坊やなのだ。
初心者丸出しの装備に、隙だらけの立ち姿。女の不意打ちに、躱すわけでもなく、腰を抱くわけでもなく、ただ、棒立ちでそれを受け止めるなんて、坊やとしか言いようがなかった。
『あんなのが本当にファントムとやらの消息を知ってるのかしらね……』
まあ、あてがはずれたところで、デヴィッドが困るだけだし、彼女には何も問題がなかった。
皆の賞賛の視線と、自由に使える金さえあれば、世界は幸せで輝いているのだ。
『そのためにもせいぜい坊やには踊ってもらいましょう』
階段を昇り切り、薄暗いダンジョンを出た彼女は、外の世界の光の中へと歩みを進めた。
そのまばゆい光が、彼女の人生のすべてを肯定するかのように、輝いていた。
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